第32回 六全協前後
私と日文協の五十年 第32回 六全協前後
「されどわれらが日々」に強く感じられるのは東大生の観念的なエリート意識であり、気負いである。革命の理想に熱中し、わが身を犠牲にして、その先頭に立たずにはいられない。自分の本当の生き方を見つけるといって去って行く女子学生にもそれを感ずる。
岡松氏が山村工作隊に参加したのも同様のエリート意識だったろう。だから革命運動の現実に幻滅したとき、運動から去ってひたすら個人的日常に固執し、個人的な愛と生活を重視することになった。
中野重治の「豪傑」という詩が妙に心にのこっている。
>むかし豪傑というものがいた 彼は書物をよみ 嘘をつかず みなりを気にせず わざを磨くために飯を食わなかつた 後指をさされると腹を切つた 恥しい心が生じると腹を切つた かいしやくは友達にして貰つた 彼は銭をためる代りに溜めなかつた つらいという代りに敵を殺した 以下略
中野は東大の学生時代、『驢馬』に「歌」という詩を書いた。社会主義者として詩人として出発した時代の強い覚悟を歌っている。
>お前は歌うな お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな 風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな すべてのひよわなもの すべてのうそうそしたもの すべての物憂げなものを撥き去れ すべての風情を擯斥せよ 以下略
不思議に思われるかもしれないが、日本共産党やナップの幹部には東大出身者が多い。彼らは自己を犠牲にして、ひたすら真理や美に忠実であろうとした。中野は高貴な精神を愛し、高貴な実践者として生きようとした。彼らはエリートであり、エリートであろうとした。そのため、自己の正しさに固執して理論闘争と分裂抗争をくりかえした。
彼らはプロレタリアへの愛を歌い、プロレタリアのためにたたかおうとしたが、プロレタリアの現実を愛することはなかった。彼らはひたすら真理と革命のためにたたかい、「俗物」とか「俗情」とかはきびしく否定するところだった。
「街あるき」だったと思うが安吉が漱石は素町人だ、暗い男だ、卑怯な人間で、逃げて逃げて逃げまくったのだと、するどく言い放っていた。中野は森鴎外を「天晴れな敵」と呼び、深い敬意を表した。中野の家は農民だったが、素町人の卑怯をを軽蔑し、武士の精神を尊重した。戦争の時代、転向をしいられた時代、かれらは転向を恥辱として描き、苦悩を強調することで高貴な精神の自己証明につとめた。
山村工作隊に身を投じた若い学生たちは自己の生活を犠牲にして、高貴なる革命の理想に生きようとしたのだったが、現実にうらぎられ、日本共産党にもソ連共産党にもうらぎられて、理想に殉ずる生き方の空虚さを思い知った。彼らは自分が犠牲にしてきた個人的な日常生活に立ち返り、そこから出発し直そうとした。
私は戦争の時代にも、戦争を美化し、絶対化する時代の動向に適応することができず、さりとて戦争を否定する思想に生きることもできず、自己の生存の意味を信ずることができずに、空虚な心を抱いて敗戦の日本の現実に押し流されて生きた。
戦後の日本にあっても、新しい革命の理想に酔うこともできず、明るい未来を信ずることもできなかった。中野と荒・平野の論争など、何か遠いところの論争のように思われた。私はただ、飢えた日本の民衆の現実を見ていた。彼らの生きるためのたたかいが日本の未来を開くと思い、戦後の民主主義革命の尻尾について歩いた。
私は戦争末期から学校を休んでいた。1944年末から勤労動員にも参加せず、戦後になってもほとんど教室には出ないで寮でごろごろしていた。大学にも何の期待もなく、入学しても教室には出ないで、千葉県の八街に移り住んで地域活動に熱中していた。
東大細胞の学生たちはいずれもエリートをめざしていたから、理論闘争を好み、革命の主導権を握ろうとして、党内闘争に明け暮れる傾向があった。東大細胞は何度か党指導部と対立し、細胞解散の処分にあったが、私には遠い世界の出来事だった。私の周囲にも山村工作隊に参加した人がいた。そして私も党員として間接的にそれに関与していたが、それを私自身の問題として切実に考えることはなかった。
理想もなく、希望もなく、うつろな心で戦後の日本を生きる私だったが、しかし、やはり革命は私の夢だった。革命によって日本人民の未来は開かれると漠然と思って、共産党員になったのだが、共産党や新日本文学会の分裂などのはげしい内部闘争からは遠いところで、曖昧に過ごしていた。だから党の分裂を克服する六全協の決定を私は歓迎した。
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92803/16422555
この記事へのトラックバック一覧です: 第32回 六全協前後:


コメント
興味深く読みました。が、同意できない点があります。下記に記します。
中野重治は、漱石を「素町人だ、暗い男だ、卑怯な人間で、逃げて逃げて逃げまくったのだ」とみなし、森鴎外を「天晴れな敵」と呼んだのは事実です。
しかし、「漱石の素町人の卑怯を軽蔑し」、「武士の精神を尊重して鷗外を尊敬した
と、中野が考えたかのように叙述されているところは、明らかな間違いです。
確かに中野は、鷗外を軽く見ることには強く反対しました。しかしそれは、強大な敵に対して取るべき態度として間違っているからです。鷗外に足をすくわれるからです。
漱石に対しては、やや安心して信頼して眺め、近代的なリアルな叙述を評価しているのです。「中野が、漱石を低く評価し、鷗外を高く評価した」とするのは、誤りです。
それから、「中野は高貴な精神を愛し、高貴な実践者として生きようとした。彼らはエリートであり、エリートであろうとした」という「批判」も正しくありません。こういうのを表面的な評価というのです。
この時代における現実の矛盾に対するマルクス主義の批判は、多くの知識人に世界観の変更を迫ったのです。多数ではないにしても東大新人会の学生たちは、学問上の帰結からして、知識から、マルクス主義に接近したのです。
この歴史的意義を認めなければなりません。そのような時代があったのです。
そのことを「エリート意識」云々でごまかしたり、見逃したりしてはなりません。
投稿 児玉繁信 | 2008年2月 8日 (金) 19時53分