06/10/2009

第292号 転換の時代


>>日々通信 いまを生きる 第292号 2009年6月10日<<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/

転換の時代

 5月は一度も発信できないまま過ぎた。体調は特に悪いわけではないが、頭脳がぼんやりして文章が書けない。しかし、送信を待って下さる方々のメールその他に励まされて、なんとかとびとびにでも発信をつづけたい。読みにくいかもしれないが、おゆるし願いたい。

 今年も4月29日の「昭和の日」から、メーデー、憲法記念日、「こどもの日」とつづき、その間には「みどりの日」まで設けられて、いわゆるゴールデンウィークの大連休となった。高速道路が1000円で乗り放題になったこともあり、人出が多く、大渋滞が伝えられた。人々は連休にうかれて祝日の由来など振りかえりもしないようだった。

 テレビで通行人が5月3日は何の日かと聞かれて、メーデーもこどもの日も知っているが、5月3日は知らないと答えていた。5月3日は何の日か知らない人は意外に多いのかも知れない。国民の多くは憲法を意識することなく、経済危機も気にかけず、連休だ、新型インフルだと平和の日々を過ごしているのだろうか。

 去年の今頃のマスメディアはチベット問題で沸き立つようだった。自由と人権が声高く叫ばれ、中国の強権独裁体制が非難攻撃されて、中国経済はオリンピックの後では崩壊を免れないというような論調が横行していた。しかし、いまは世界経済大不況の波の中で、アメリカもEUも日本も中国の経済復興に期待する動きが強まっている。

 小林多喜二の『蟹工船』の異常な売れ行きが話題になり、若い世代の苛酷な労働の実態も伝えられたのも、去年の今頃だった。いまの若者の労働現場は当時とそっくりだいわれたが、当時はまさかという思いが一般だったのではないか。しかし、やがてアメリカに端を発する大不況の波に襲われ、非正規社員の大量クビキリが発生して、職とともに住も失って路頭に迷う人々が続出する及んで、いまの労働者がまったく無権利状態で働かされていることが人々に衝撃をあたえた。ひたすら利益をのみ追求して、非正規雇用の労働者を大量に雇い入れ、不況が来ればたちまち大量解雇に踏み切る。いま人々は、資本と労働の関係についていやというほど知らされた。形がかわってもそれは『蟹工船』の時代と同じなのだ。世界を揺るがす大不況は世界を破滅の危機に追い込んで、そこからの転換を求める動きが強まった。この危機がアメリカで、史上はじめての黒人大統領を生んだ。

 オバマを支持したのは若者たちばかりではない。金融機関や大資本も多額の選挙資金を献金している。オバマ就任後100日を過ぎて、金融機関や巨大自動車産業救済に巨額の国費が投入され、これに対する反対の声も強まった。(掲示板9381.金融機関にのっとられた国、9271.オバマ政権の100日と日米関係の課題参照)

 変化を主張するオバマは、アメリカの進歩的伝統、一つのアメリカを強調し、革命や破壊ではなくて、体制維持を求めたのだ。国務長官に大統領候補をはげしく争ったヒラリー・クリントン氏、国防長官にブッシュ政権時代から引き続きゲーツ氏、財務長官にニューヨーク連銀総裁だったガイトナー氏を選任した。政党政派を超えて自分に不足する経験を重視した人選だった。

 100年に一度ということがしきりに言われる。特に麻生首相が目立って頻繁にこの言葉を使うようだ。無法な政策の隠れ蓑のようで見苦しいが、日本でも強行される大量クビキリなどが当時を思わせることは事実だ。ブームを呼んだ『蟹工船』が出版されたのが1929年だったことも決して偶然ではないだろう。

 この危機は、日本社会の矛盾を露出させ、変革の必要を痛感させる。去年の『蟹工船』から、今年は『資本論』の入門書がこれまでになく売れているようだ。社会主義といえばソ連型の官僚主義であり、悪の根源として直ちに否定される傾向があったことを思えば時代の変化に驚かされる。戦後日本の政権を独占してきた自民党の支持率が急低下したのもこのためだと思われる。反自民というだけで、特にはっきりした政治的主張がなく、政権交代を強調するばかりの民主党もたよりないが、いまは変化を求めて解散総選挙への期待が高まっている。

 アメリカではオバマ大統領に対する批判が保守からも革新からも高まっているようだ。オバマの道は保守でも革新でもない超党派の道なのだろう。イラクからの撤兵は大きな決断だが、その代りアフガンへの派兵が増強されて、戦争からの離脱は容易ではない。しかし、国際協調を求め、イランとの対話の道を探り、パレスティナ問題の平和的解決にも積極的に動いている。何よりも注目すべきことは、過去の原爆投下の責任を認め、核兵器廃絶のために努力すると宣言したことだ。これについて日本共産党の志井委員長が歓迎のメッセージを送り、オバマ大統領はこれに感謝して、協力を求める返書を書いた。ここには明らかに新しい時代のはじまりが認められる。

 オバマの宣言にも励まされて、核兵器廃絶を求める動きは、大きな波となって世界を動かしている。去年はかつての日本の戦争を美化する田母神発言などがあったが、泥沼のイラク戦争の犯罪性が曝露されたばかりでなく、長引く戦争が経済の危機をまねき、アメリカが戦争からの脱出を求めて四苦八苦しているいま、史実も論理も無視した妄想的な発言は、事実を知らず、自己の拠り所を失って藁にもすがりたい人々の心さえとらえることができなくなった。

 今年の憲法記念日は例年の9条論議以上に、25条の生活権の問題が活発に論じられた。9条の会の運動は、いまでは各地各界に結成された自発的な賛同組織が5000を超え、国民を動かす大きな運動になった。いまでは世論調査で九条改憲に反対する意見が賛成意見を大きく上回っていると伝えられる。アメリカがイラク戦争で行き詰まり、オバマ大統領が登場して、戦争から平和への動きが大きくなったためであろう。    
 オバマが直面する危機はブッシュ政権から受け継いだもので、その打開は容易ではない。オバマ自身が失敗するかもしれないと言いながら、しかし、何かをしなければならないと言って短時間に可能な限りの速さで対策を打ち出しているのだ。そして、核兵器問題だけでなく、中東問題でもイスラムとの和解のために大胆な提案を行っている。

 朝鮮問題ではめざましい進展がなく、北はミサイル実験、核実験とエスカレートしているが、結局は米朝関係は国交回復に向けて進展し、6カ国協議は成功すると信じている。すくなくとも、強くそれを願っている。日本のマスコミには、まるで朝鮮が暴発し、金正日体制が崩壊するのを望むような報道があり、総理その他に「敵地攻撃能力」についての発言があるが、いろいろあっても、結局、平和的解決を実現するしかないのだろう。これまで世界中に戦争をまき散らしてきたアメリカがオバマ政権に替わったのだし、どこの国も本気で戦争を望んではいない。朝鮮の強硬姿勢も結局は対米交渉のきっかけを求めているのだと思う。

 問題は次々におこり、次々と問題を追いかけて、書きかけの通信はいつになっても終わらない。私の生涯は残り短いのだし、いつまでもこんなことをしているわけにはいかないのだ。時事問題は掲示板にまかせて通信ではもっとちがったアプローチをしたい。

 いよいよ梅雨を迎える。梅雨は誰からも嫌われるが、もし、梅雨がなくていきなり暑い夏を迎えたら大変つらいのだ。はじめて中国に滞在し、7月のはじめに帰国したとき、梅雨の日本がどんなにうれしかったか知れない。これとはちがうが芥川は湿っぽい梅雨の季節が好きだと書いていた。私も年をとって、激しい暑さの夏よりも、この湿気の多いおだやかな梅雨の方がありがたいようになった。皆さんも梅雨の効用を知って、元気に過ごしていただきたい。

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04/13/2009

  第291号 近況報告

>日々通信 いまを生きる 第291号 2009年4月13日<

 発行者 伊豆利彦
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近況報告

 今年もすでに100日以上が過ぎた。昨年は大変な経済危機で、職と同時に住居もうしなって路頭に迷う失業者が続出して、年末来年越し派遣村が開かれた。昨年解雇されたのは、多くが今年の3月末までの契約を期限前に打ち切られたので、厚生労働省の発表によると、昨年十月から今年三月末までに失職する非正規労働者は18万4347人で、前回の二月調査時から2万6541人増えている。ある民間調査機関は40万と発表しており、年末、年初のようにメディアは騒いでいないが、今後ますます増加するとみられている。

 三月から四月にかけては朝鮮のロケット問題が、あたかもそれが日本に対する直接の脅威であるかのように報ぜられ、各社いっせいに大騒ぎだったが、無事に終了すると、今度は政府が先立って制裁強化の声をあげている。マスメディアも非難のトーンを高め、脅威を強調して、国民世論を煽り立てている。日本が強く望んだ国連常任理事会の非難決議は米中から支持されず、議長声明に終わったようだが、日本の強硬姿勢は際立っている。

 もちろん、拉致問題もあり、すぐ隣国でもあるので、日本が朝鮮のロケット発射に敏感なのは当然だが、政府も国民も、それほど強く脅威を感じているとは思われない。朝鮮が日本を攻撃するということが不可能なのは誰もが知っていることなのに、必要以上に脅威を強調するのは、国民の関心を麻生内閣批判からそらし、ミサイル迎撃体制など軍事力の強化をはかるためと思われる。

 私は去年来体調をこわし、通信の発行もままならぬ状態が続いている。書きたいことはたくさんあり、次々に新しい問題が起こって、あれこれとまよううちに時がたってしまうというのが実情だ。年のせいで止むを得ないことであり、いっそ止めてしまおうかと思う気持もしきりだが、期待する旨のコメントや、メールがあったりするので、たとえよろめきながらでも続けようと思う。ついては、書きたいテーマ、書きやすいテーマについて、短い文章を頻繁に、自由な形式で書いていこうと思う。

 さて昨年は一種『蟹工船』ブームともいうべき現象で、私にも執筆や講演の依頼があったが、昨年中は体調不良で期日までに書けず、今年のはじめに、四苦八苦してやっとごく短いものを書き上げた。興味のある方は一読いただければありがたい。
『経済』4月号 http://tizu.cocolog-nifty.com/ronbun/

 本稿は若干の訂正を加え、英文と韓文に翻訳されて韓国の雑誌アジア夏号に掲載されることになっている。

 本稿執筆のため、雑誌『ロスジェネ』をはじめ、雨宮処凜や赤木智弘が書いたものをかなり集中して読み、ロスジェネ世代の動向について考えた。連帯を求めるものと、排除するものの対立に、これからの日本の問題があると思われる。彼らの所論については次号以下で考察したい。

 もう一つ、京都の夏目漱石の会が、椿わびすけさんの尽力で発足して1年になる。マスコミなどにも紹介記事が出て、なかなかの盛況のようだ。昨年来会報『虞美人草』に執筆の約束をしながら延引していたが、しり切れとんぼながら「『虞美人草』と京都」を書いた。

 大学を辞めて『朝日新聞』に入社した漱石は、大学辞職直後に京都に行き、狩野亨吉宅に約2週間滞在した。京都は天皇が東京に移転後は見捨てられ、荒廃が著しい古都だった。見捨てられた京都の静かな生活が、他を踏みつぶして顧みない近代日本の虚しさをはっきり思い知らせた。過去を蹂躙して止まることを知らない近代日本はどこへ行こうとするのか。「過去」の問題は『虞美人草』以後の漱石文学の中心テーマだが、それ以前の作品には見られない。『野分』の白井道也は日本に過去はないと演説している。「漱石における『過去』」の問題も今後あらためて検討したいと思う。

 春は足早に去って行くようだ。あと、何度、花の咲く春にめぐり合えるかと改めて思う。去年は東北の春を求めるツアーに参加したが、暖冬のため、ほとんどが花の散ったあとだった。ただ、弘前城址公園の桜が辛うじて残っていて、太宰が作中に「春高楼の花の宴」と繰り返しているのは、弘前城址公園の桜を思い浮かべていたのだと改めて思った。

 今年の春は、子どもたち夫婦と一緒に福岡の両親の墓を訪ねた。もう、これが最後と思う。子どもたちにもいくらかは伊豆家のことを伝えておきたいという思いもあった。ふとした偶然から祖母が出た酒屋の酒を飲み、酒造工場を尋ねることができたのは幸せだった。ことに、ついでに訪ねた唐津城公園で満開の桜に出会ったのは、生涯の思い出となるだろう。

 私の父ははやく故郷を離れたせいもあり、本家の郵便局や酒屋のことなど、思い出話ではしばしば触れたが、まとまって語ることはなかった。父はキリスト教に改宗したので、遠く離れて暮らしたということもあり、家族で墓参りをするということもなく過ごし、私が父の故郷の宗像を訪ねたのは、父の死後のことである。墓とは何か。キリスト教では墓は記念碑として尊重されるので、骨を拝む習慣はないということだ。これから先、子どもたち、孫たちの世代にまで祖先の墓をどう伝えればいいか。私はキリスト教からも離れて無宗教なので迷っている。

 私自身の墓地は、父母の名も刻んで「伊豆家の墓」として三浦海岸に設けているが、宗像の墓地の問題は中途半端なままで子どもたちが決めるのに任せるしかないのだろう。過去を失い、故郷を失い、宗教を失った近代日本の矛盾をあらためて自分自身の問題として考えさせられる。

 残り少ない春を皆さんも存分にお過ごしください。

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03/04/2009

第290号 経済危機の世界で

>日々通信 いまを生きる 第290号 2009年3月5日<

 発行者    伊豆利彦 
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経済危機の世界で

 世界の経済危機は深刻になる一方で、どこまで落ち込むかわからない。1929年の大恐慌に擬されるが、本当にそうなのか。1929年は私たちにはほとんど神話のようなものだ。『怒りの葡萄』には農地をうしなって長い行列をつくって大陸を彷徨するアメリカ農民が描かれていた。日本でも徳永直の『失業都市東京』に食う米もない失業者の苦しみがまざまざと描かれていた。しかし、私の心に一番深く刻まれているのは小林多喜二の『沼尻村』である。

 『沼尻村』は満州事変突入直後に書かれた作品で、戦争に突入する当時の日本が鮮明に描き出されている。東京で働いていた二人の若者が失業して北海道の故郷に帰ってくる。故郷はしかし旱魃がつづき、大凶作で、農業も破綻して、行く先がない。国家主義の台頭があり、戦争によって危機を乗り越えようとする主張も強まっていた。労働者の間に国家社会主義の主張が勢力を延ばし、満州をとらなければ生き延びられないという主張が農民の間に広がっていった。

 身動きできない貧困からの脱出を小作料減免に求める運動と、戦争を待望する国家主義的な動きとが民衆の中にあり、鋭く対立した。当時の日本では後者が優勢になり、軍部がそれを利用して戦争へと突入していった。日本国民は平和を望んでいたのに、軍部が権力で抑圧し、戦争へ駆り立てていったとばかり主張して、国民の責任を否定するのは問題だ。権力による思想弾圧と強力な思想動員の事実を軽視する事はできないが、しかし、すべてを軍部指導者の問題にして、国民の責任を不問にすることはできない。

『党生活者』に描かれているのは満州事変開戦直後の軍需工場である。長くつづいた不況で生み出された失業者を、軍需生産に転じた工場は臨時工として雇い入れる。低賃金でいつでもクビを切れるからだ。戦争を理由に労働管理はきびしくなり、トイレの時間にまで干渉した。組合はこの戦争が雇用を増加させたことを強調して、戦争支持の立場に変わり、慰問金集めに協力する。これに反対する者は、工場にまで入り込んできた憲兵や警察と協力して、次第に勢力を増した在郷軍人会や軍隊の下請け機関となった青年会から「ウルトラ」として攻撃される。

「小林多喜二と反戦平和」
http://homepage2.nifty.com/tizu/proletarier/takiji@hansenheiwa.htm
「文学にみる戦争と平和」『沼尻村』
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh19.htm

 戦争がはじまれば熱狂的な戦争支持の声が国民を支配する。「非常時」という言葉が流行語になり、戦争に反対するものは「非国民」と呼ばれて、一般大衆から非難攻撃された。軍部権力の弾圧ばかりが強調されるが、国民が軍部に協力して、共産主義者や社会主義者はもちろん、平和主義者や民主主義者を告発し、攻撃した事実を忘れることはできない。

 戦争は世論に支持されて始められ、拡大され、ついに破滅にまで追い込まれた。このような世論の形成に力があったのが新聞であり、ラジオであった。当時のマスメディアはいまに比べれば貧弱なものだった。それでもラジオによる宣伝は国民の心の底にしみ通って、戦争の大きな力となった。いま、日本のマスコミはそれをどれだけ自覚しているだろうか。いまは当時に比してはるかにマスメディアの力は大きい。アメリカのマスメディアは今度の戦争にどれほどの役割を果たしたのか。戦争に反対する人々の声はどれほど擁護されたのか。日本の場合とどれほどちがったのかを知りたい。

 ブッシュの8年は戦争の8年だった。長い戦争は国民生活を破壊した。経済危機に追い詰められたアメリカ国民はchangeを標榜する無名の黒人新人候補オバマを大統領に選んだ。アメリカの歴史始まって以来のことである。それだけ、アメリカの危機は深刻だったのだろう。一つの体制の終りが新しい体制を生む。オバマ体制はそのような新しい体制のはじまりになるだろうか。オバマ大統領はしかし、クリントン国務長官をはじめ旧クリントン政権の人材、さらにはゲーツ国防長官をはじめ共和党の人材までを閣僚その他の重要ポストにつけて、超党派体制を目指している。いまのような危機の時代には、何よりも深刻な傷口をふさぐことが必要で、右派も左派もなく、やることは同じで、必要なのは実行力で、国民的団結なのかもしれない。オバマ政権は就任前から矢継ぎ早な対策を発表して、迅速な行動力を示した。しかし、傷口はあまりにも深刻で、はたして再生できるかどうかわからない。

 再生できなければどうなるか。破滅するとはどういうことか。いま必要なのは、未来におびえることではなくて、未来に向かって、再生を求めて、あらゆる力を結集し、可能な限りの力をつくして、できることは何でもやってみることなのだろう。いまのアメリカ、いまの世界には既成の処方箋はないのではないか。

 いま、私は1945年に敗戦を迎えたときのことを思い出す。戦争に敗けて、はじめて私たちが戦った戦争が間違っていたことを知った。敗戦後になってみれば、そもそも勝利の見込のないおろかな戦争だった。アジア諸国民を解放し東洋永遠の平和を実現する聖戦だと信じていたが、敗戦後の眼でふりかえれば、アジア諸国民をに対する犯罪的な侵略戦争だったことも疑うことのできない事実だと思われた。この反省が戦後の日本の平和と繁栄をもたらした。国のためには自己を犠牲にせよと教えられたが、国とは何かということも改めて考えさせれた。国民の平和と安全、幸福を守るのが国ではないか。戦争に敗けて私たちは実に多くのことを学び、新しい社会の建設を自分たちの生涯の仕事だと考えた。それが私の戦後のはじまりだった。

 オバマ大統領はブッシュが支配した戦争の時代の誤りを明らかにすることから出発しようとしている。オバマ大統領は改革の諸政策が成功するとは限らないが、何もしないでいるわけにはいかないのだと述べた。これまで目の前の利益ばかりを追いかけて、長期の展望を見失っていた。これからは、国際的な協調を重視し、協力して新しい秩序を実現したいと述べ、あらゆる困難に打ち勝って来たアメリカの歴史を強調して、あらゆる困難にもかかわらず、アメリカは現在の危機を打開することに成功するだろうと述べた。

 私はオバマが成功するのは困難だと思うが、それにもかかわらず、困難を見据えた上で、なお、不透明な未来に向けて、あらゆる力を結集して前進しようと呼びかけたオバマに共感する。歴史を生きるとはそういうことではないのか。間違いのない道などはない。あらゆる道が閉ざされているから危機なのだ。だからといってこの現実に眼を閉じて拱手傍観するわけにはいかないという強い危機感がオバマ大統領にはあった。

 日本の麻生首相はこれとは対照的に、あまり危機感はないようだ。いかにして政権を維持するかばかりが問題にされて、日本の過去の誤りを追究する姿勢がない。したがって、今後の日本の針路についての議論がほとんどされていない。何とかなるだろうという呑気さがある。これでは危ない。現に日本のGDPの落込みはアメリカよりはるかに大きく、株価の低下もアメリカより大きいのに、問題にされているのは、国民に1万2千円ずつ配ることの是非についてばかりだ。

 中国は内需拡大によっていまの危機の克服をはかると同時に、経済の自立と経済構造の変化を目指している。日本はいかにして経済の自立を実現するのか、アメリカとの関係をどうするのか、中国との関係、アジア諸国との関係をどうするのか等についての明確な問題提起がなされていない。それどころか、日本の過去に間違いはなかった、あの戦争も正しかったという意見がひろがってきている。田母神元航空幕僚長の言動ばかりが問題になるが、安倍元首相といい、麻生現首相といい同様な歴史観の持ち主のようだ。麻生現首相の場合は自分の見解を曖昧にしてぬらりくらりしているから、何を考えているかわからず、いらいらするしかないのだ。こんな人物が一国の総理大臣として、世界中を飛び回っている日本はどういう国なのだろう。

 アメリカにしても中国にしても、国の経済の建て直しに必死になっているのに、日本だけは他人任せではっきりした方針がない。これでは他の国々が立ち直っても日本だけは立ち直れないというようなことになるのではなかろうか。長くつづいた対米従属が日本の政治をこんなに惨めにしてしまったのだと思う。いま、長くつづいた対米従属の問題も含めて、日本は過去の誤りをしっかり見据える必要がある。すべてはそこから始まると思う。

 これまでも何度か取り上げた『虞美人草』の「悲劇は来た」という言葉について書きたいと思って書き始めたのだが、しり切れとんぼになってしまった。2月は風邪が抜けず、高血圧がつづいてぼんやり日を過ごした。3月になって、なんとか体調も回復したようなので、ながくご無沙汰した通信に取りかかったのだが、よたよたして取り止めのないものになってしまった。お許しください。いまになって多喜二以上に漱石の言葉が思い出される。ご迷惑かも知れないが、これから少しずつ「漱石と現代」をテーマに書いていきたい。よろしくお願いする。

 いよいよ春が来て、花粉症のシーズンだ。3月の初めは入試のシーズンで、大学在職中毎年採点に追われる憂鬱な日々を過ごした。学校はこれから卒業式、入学式と慌ただしい日がつづく。皆さんもそれぞれ落ち着かぬ日々をお過ごしかと思うが、お元気でお過ごしください。

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01/15/2009

第289号 いまと戦後

>日々通信 いまを生きる 第289号 2009年1月15日<

 発行者 伊豆利彦
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いまと戦後 

 年の初めから、仕事と同時に住まいも失った人たちの「年越し派遣村」とイスラエルのガザ攻撃のニュースが連日伝えられ、胸が痛む日々を過ごした。新しく成人になった若い人たちはどんな思いでいるだろう。

 政治に無関心だといわれた若者たちが、生きるために団結し、要求し、行動している。世界大不況はどこまで広がるかわからず、仕事と住居を求めて「派遣村」に集まった人々の運命が他人事とは思えないところにいまの日本の深刻さがある。

 私が満20歳を迎えたのは1946年(昭和21)の11月、当時は成人式などなかったが、今風にいえば47年の1月に成人式を迎えた世代である。まだ、19歳にならぬ高校生(旧制)で敗戦を迎えた。陸軍2等兵だった。いま思えばほんの子供だったわけだが、その子どもたちが学業半ばに兵士として動員され、やがて決戦場になる国内各地に派遣されていったのだ。

 先日、出身高校の3年先輩の書いた戦時の記録「万死に一生」を読んだ。私より2歳年上のその先輩は1943年(昭和18)に学徒出陣で東大の2年在学中に動員された。同年12月1日入営、広島から船舶兵としてフィリピン、レイテ島の傍のセブ島に派遣され、1945年10月16日に投降するまで洞窟を転々として戦闘をつづけた。投降して捕虜収容所に収容されるのは敗戦の8・15から2カ月後のことであり、筆者はこの日をもって自身の終戦記念日とするという。

 1943年の学徒動員は文科系学生の徴兵猶予が廃止され、在学中の適齢者が兵士として動員されたのである。下級指揮官や航空機乗務員が不足していた。戦争末期の特攻隊員はこのとき動員された学徒兵と予科練その他の中学生出身の少年兵が大部分だった。

 私も2年はやく生まれていれば、学徒兵として動員され、あらゆる意味で軍隊不適格者の私はいち早く自殺するか、不名誉な事故で戦死していただろう。生まれた年で一生が決まるのだ。運命というものを感じないわけにはいかない。個人の意志や努力も大事かも知れないが、個人の生涯を決定する歴史というものの力を考えないではいられない。「世代」ということを重視するのはこのためだ。

 就職超氷河期世代といわれ、「ロストジェネレーション」と自ら呼ぶ世代の若者が超左翼マガジン「ロスジェネ」を創刊した。「一連なりの妖怪がー『ロストジェネレーション』という名の妖怪が、日本中を歩き回っている。」という「共産党宣言」をもじった言葉で始まる「ロスジェネ宣言」を冒頭に掲げ、「就職超氷河期(1990年代という『失われた十年』)に社会へと送り出された20代後半から30代半ばの私たちは、いまだ名づけられ得ぬ存在として日々働き暮らし死んでいきつつある……、その数 20、000、000人。」と記した。

 いま、非正規社員として大量クビキリにあい、「年越し派遣村」に集まっているのはこの世代だ。彼らは非正規社員である故に、負け犬扱いされ、あらゆる差別を当然とされた。自己責任という言葉で責められ、派遣会社と派遣先の共謀で、雇用保険や年金、健保など被雇用者の権利を奪われて、低賃金で働かされた。さらに、住居費その他の諸費用として少ない給料をむしりとられ、サラリーローンで儲けられた。

 トヨタや日産等の自動車産業、キャノンやソニーなどの大企業は、こういう非正規社員を大量に雇用して世界最大の輸出企業となり、社内留保や役員手当、株主配当を莫大に増やしていった。そして、いまのような不況が来ると、退職金も失業手当もなしに、いち早く非正規社員のクビキリを強行して、儲けを確保しようとする。解雇された者は、仕事を失うと同時に住まいも奪われ、蓄えも、アパートに入居する費用もなく、寒空を路頭に迷うしかないのだ。

 戦後の私たちは住まいも食糧も仕事もないほとんど難民の生活から出発した。餓死者が大量に出るだろうと伝えられ、若者たちは復員服を着てあてもなく巷をさまよった。志賀直哉は1946年1月の『世界』創刊号に発表した「灰色の月」に餓死寸前の少年を描き、その末尾に「昭和20年10月16日のことである」という日付を記している。

 いま、若者たちは『蟹工船』の世界を自分たちの現実と重ね合わせ、「死にたくないものは集まれ」という言葉に共感して、「生きさせろ!」というスローガンで結集している。戦後も『生きる』とか『どっこいおいらは生きている』というような小説や映画がさかんだった。多くの面でいまと戦後は重なり合うが、戦後の私たちの方が生活はひどかったが、気持は明るかったと思う。当時はみな一様に貧困であり、これ以上落込みようがなかった。戦争は終わって、一日一日、日本はどん底から這い上がっていく日々だった。

 いまの日本は大変な「格差社会」で、貧富の差が大きく、格差はさらに限りなく拡大しようとしている。一歩、転落の道に落ち込めばどこまで落ちていくか分からない。非正規社員は期限ぎりの生活で、いつ職を失うか分からない。景気がよければ新しい仕事を探すのも容易かもしれないが、不況がつづけば職と同時に住居も失って、再起不能になる。漫画喫茶などに宿泊するようになり、やがては路上生活者になる。

 日本の危機はいま始まったばかりで、どこまで落ち込むかわからないという不安がある。いまの不安は世界的な経済危機から来るものが多いが、政府に対する不信によるところも多い。年金にしても、健康保険、介護保険にしてもいまどれほど貯金があっても将来が不安なのだ。老後が社会保障がしっかりしていれば増税を受け入れることができると思うが、医療その他の社会保障費や教育関係費などを削れるだけ削って、これ以上削れないから増税だというのでは誰も納得しないだろう。

 社会保障費などを大幅に削って、道路や軍事費、対米献金予算などは大枠を維持しつづける。「バターか大砲か」という言葉をかつてしきりに聞いたが、いまもなお真剣に考えなければならないと思う。不況からの脱出を戦争に求めた過去を美化する動きがあり、若者たちの間にも戦争を待望する声がある。林多喜二の『沼尻村』や『党生活者』は満州事変突入当時の不況にあえぐ農民や労働者の生活を描き、国民の間に戦争を支持する動きが強まっていくことに対する反対するたたかいを強調している。

 日本国民は戦争に反対だったが、軍部にだまされ、強制されて戦争に駆り立てられていったといわれる場合が多いが、これはある意味で正しく、ある意味で間違っている。日本国民の間に戦争を期待する動きがあり、軍部はこれを利用して、国民を戦争に動員していったのだ。いま戦争と平和の問題を改めてまともに考えるためにも、『蟹工船』で目を見開かれた若い世代が、当時の現実を多喜二やその他の文学作品を通して学んでほしいと思う。

 『蟹工船』だけでなく多喜二の文学が、新しくよみがえって、いまの日本を新しい光で照らし出している。戦後まもなくから多喜二に学び、多喜二について考えてきた私にも、多喜二は新しい相貌でよみがえってくるようだ。老耄して筆は進まないが、何とかいまの若者たちに新しく見えてきた多喜二を伝え、多喜二を通して昭和の戦争といまの日本について考えたい。

 しかし、思えば残りの時間も乏しく、筆力も衰えた。若い皆さんは一日一日を大事にして悔いのない生涯を送ってほしい。

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01/01/2009

第288号 年の初めに

>日々通信 いまを生きる 第288号 2009年1月1日<

 発行者 伊豆利彦
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謹 賀 新 年 二〇〇九年 元旦

 想像以上の激変ですが、新しい時代のはじまりのようにも思われます。この一年が新しい希望に道をひらく年でありますように。皆さまにとっても健康と希望の一年でありますように。
 私も今年八十三歳になりますが、夫婦ともどもなんとか元気にすごしています。今年もよろしくお願いします。

 昨年は大変な年だった。アメリカ発の経済危機は世界に波及して、日本が世界に誇るトヨタや日産などの自動車産業や、キャノンやソニーなどが大量のクビキリを強行し、仕事とともに住居も失った、文字通り路頭に迷う人々が大量に生み出された。これはまだはじまりで、今年はますます大量の失業者が生まれるだろうと言われる。

 小林多喜二の『蟹工船』の売れ行きが急増して、40万も50万も売れ、さまざまなメディアに取り上げられた。読者の多くはこれまで多喜二という作家がいたことさえ知らぬ若者たちだったが、彼らは『蟹工船』の労働者たちの苛酷な現実が、そっくりそのまま自分たちの現実であることに気づいた。正社員の長時間労働や日雇い派遣の劣悪な労働などなどが<蟹工船>とか<カニコー>とかと呼ばれるようになり、<蟹工船>という言葉が08年度の新語・流行語大賞のトップテンにえらばれた。

 私も戦争中は小林多喜二という作家の存在をまったく知らなかった。戦後になって戦争に反対して殺された作家がいると知って感動し、当時続々と出版された多喜二の作品をむさぼり読んだ。当時の日本は米軍の占領下にあった。都市は空襲で焼き尽くされ、産業は荒廃していた。軍隊から復員してきた若者たちには住居も食糧もなく、仕事もなかった。戦争で死ぬことだけが人生だと教えられた若者たちは、戦後の世界に投げ出され、一切の希望を奪われ、思想も信念もなく、虚しく廃墟をさまよった。

 はげしいインフレの時代だった。食糧難で国民の大多数は栄養失調で、餓死者も出た。生きるためには戦わなければならなかった。食糧をよこせ、仕事をよこせ、賃金をあげろ、ー復員服を身にまとった荒くれた若者たちは、米軍に解放された共産党に指導されて、人民広場に集まり、銀座の大通りをデモ行進した。

 軍国主義から共産主義へ、人民民主革命の旗を掲げて、天皇制打倒のたたかいに立ち上がった若者たちは、小林多喜二を不屈の戦士として仰ぎ見た。多喜二を手本にして、いかなる弾圧にも屈しない闘士にならなければなければならない。私たちは熱い思いで多喜二を読んだ。多喜二は若い日のエッセイ「十三の南京玉」で「頭からでなく胸から」と語っている。多喜二の文学は当時の若い私たちの頭に訴えるよりは心臓を動かしたのだった。

 それはもう遠い時代の昔話になった。日本は米国の属国になって繁栄を謳歌し、やがては世界第二の経済大国になった。日本は「民主主義の国」となり、共産党の方針も変わった。議会で多数の議席を得ることが運動の中心になった。『蟹工船』は北洋漁業船団出港の季節にテレビの話題になったり、記念切手になったりしたが、作品はほとんど読まれなくなった。まして若者たちの多くは小林多喜二という作家が存在したことさえ知らなかった。

 しかし、多喜二祭は没後七〇年になっても、七五年になっても、なお全国各地で盛大に行われている。他の作家には例のないことである。多数の参会者が熱心に多喜二の作品や生涯をしのび、感慨を新たにしている。参会者の大部分は六〇才前後以上の高齢者である。青春の一時期に生涯を決定するような影響を多喜二から受けたのであろう。生誕一〇〇年没後七〇年の記念集会が九段会館で行われ、あの広い会場が満員の盛況になった。戦後最大の規模の多喜二祭だった。私はこれほど盛大な多喜二祭は多分これが最後なのだろうと思った。

 ところがいま、多喜二は現代に生きる作家としてよみがえってきた。いまの若者は多喜二を革命の作家として読んでいるわけではない。豊島公会堂で開かれた民主文学会主催「多喜二の文学を語る集い」で報告者として演壇に立った山口さなえさん(二五才)は、私はもし今、多喜二が生きていたら惚れていると思います」と言って聴衆を笑わせた。山口さんが強調するのは多喜二の「優しさ」だった。山口さんと並んで報告した狗又ユミカさん(三四才)も、多喜二を「アニキ」というか、いつまでも、「いいお兄ちゃん」という感じの存在だと言う。

 多喜二は時代によって、また、読む人の立場によって、さまざまに異なった姿を示すのだと改めて思った。二人の報告者はとも派遣社員として職を転々としたつらい経験を持っている。不当に首を切られた時、上司も同僚も労働組合も労働基準局も彼女らの訴えに耳を貸さなかった。孤独と不安、不信と絶望に苦しみ、自殺を企てたり、神経障害に陥ったりするが、どんな差別も派遣社員だから当然だと言われ、自己責任だと責めたてられた。病院でもまともな治療をしてもらえず、自分たちは社会に殺されるという思いにつきまとわれた。時代がちがい、形はちがうが、『蟹工船』の残酷な世界は現代とまったく同じだった。『蟹工船』の労働者は脚気で動けなくなるが、船医は会社をおそれて診断書を書こうとせず、死んだ労働者は供養もされずに冷たいオホーツクの海に投げ込まれた。「糞紙」や「鼻紙」のように使い捨てにされるのは今も昔もかわらぬ労働者の運命だった。労働者の苦しみをこれだけ具体的に描き出す多喜二は、労働者の悲惨な現実を愛情をもって見守り、その訴えを真剣に聞いてくれるだろう。自分たちの訴えを朝まで聞いて作品にしてくれるだろう。優しさに「惚れた」のだと山口さんは言う。
(山口さんと狗又さんの言葉は『民主文学』2008年2月号、小林多喜二『蟹工船』エッセーコンテスト入賞作品集「私たちはいかに『蟹工船』を読んだか」白樺文学館発行による)

 狗又さんは『蟹工船』の労働者たちを「私の兄弟たちがここにいるではないかと錯覚するほどに親しみ深い」と言い、多喜二を「兄貴」と呼んだ。司会者の浅尾さんをはじめ報告者たちも多喜二を「多喜二さん」と呼んでいた。多喜二に不屈の革命戦士をのみ見るのは間違いだった。多喜二は決していまの若い者は駄目だとか、たたかいに立ち上がれだと言うことはない。多喜二は地獄のどん底で虐使される労働者の悲惨な現実をどこまでもリアルに描いた。孤独と絶望に苦しむいまの若者たちは『蟹工船』に自分たちと同じ苦しみを生きる労働者を見出し、自分だけが苦しんでいるのではないことを実感し、連帯と共同の感情に目覚めた。孤独と絶望を強調する山口さんが、やがて仲間を求めて一人でも参加できる新しいタイプの労働組合に参加して行く。

『蟹工船』の労働者は命をすり減らし、死に追いやられる労働のどん底から「死にたくないものは集まれ」のスローガンの下に結集する。「生きさせろ」という叫びがいまの若者たちを結集し、若者らしい多彩な運動を始めている。「生きさせろ」とか「死にたくないものは集まれ」とかいうのは、労働運動の原点、ゼロ地点である。いま、日本の若者たちはこの原点から出発したが、短い時間に目を見張るほどの成長を遂げている。彼らを駆り立てるのは、苛酷な労働というにとどまらず、血も涙もないクビキリのとめどない増大である。前号では「3万人のクビキリ」と書いたが、いまはもう8万5000の非正規社員が職場を追われ、住居を失うことになると伝えられている。冬空に路頭に迷う失職者が大量に生み出され、急速に目覚めた若者たちが新しい労働組合を結成して立ち上がった。

「生活を守れ」というスローガンは戦後の労働運動を思い出させる。私たちも戦争の時代を生きて、運動について何も知らなかったが、すべてを失った廃墟の日本で、生きるためには戦わなければならなかった。これまでは軍国主義の時代で、死ぬことは教えられても、生きることは教えられなかった。急激な時代の変化の中で、ただ、生きるためにたたかい、たたかいを通して学び、成長した。戦後と現在はどうちがうか。当時の運動は大きな国民的運動で、誰もが貧困で、誰もが苦しんでいた。いつの時代にも増して平等の時代だったのではないか。たたかいの中で私たちは明るかった。ただ、未来をのみ望んでたたかい、次第に生活は改善されていった。戦後まもなくの時代は悲惨な時代だったが、意外に明るい時代でもあった。

 いまの運動はなお一部の失業者たちの運動にとどまり、大きな広がりがないように見える。社会的、経済的格差は拡大し、未来の展望はない。職と住を失うと限りなく転落して、路上生活者にまで落ち込んでしまう。戦後はなんといっても解放の時代で、アメリカの支援もあり、たたかえば何とかなるという思いもあった。戦後に比べて、いまははるかに困難な時代だと思う。労働の苦しみを訴える時代から、自らが主体になって新しい時代を開く時代が来た。若者たちははたしてそのような主体に自らを高めることができるか。アメリカの大統領選挙でオバマが当選したことは、新しい時代のはじまりを感じさせ、日本の若者たちを鼓舞するのではないか。オバマが当選したのはアメリカの極端な経済危機だったろうと思う。一つの時代の終りは新しい時代のはじまりだ。

 私には実感がないが、この数年間、日本は好景気がつづいたのだという。この好景気の時代に、これまでになかった大量の非正規社員が生み出され、ワーキングプアを氾濫させた。日本の繁栄はこれらの犠牲の上に実現されたのだった。そしていま、世界的な大不況になると、いちはやく非正規社員のクビを切って利益を確保しようとする。これほど露骨に労働者をモノ扱いにする苛酷な経営が横行した時代はこれまでになかった。経営者も儲けることだけを知って、企業の責任を知らないのだろう。憲法を軽視して、儲けるためには何をしてもいいのだ思い込んでいる。労働者が労働者の権利を獲得するためにたたかってきた歴史を知らず、労働者を人間として見る資質や能力がない。

 戦後の若者である私たちと同様に、いまの若い労働者もまた労働者のたたかいの歴史を知らず、労働者の権利を知らなかった。憲法が軽視されるようになるとともに、労働者の権利についての自覚が失われ、経営者のいうがままに痛めつけられて来た。 「胡麻の油と百姓 は絞れば絞るほど出るものなり」という言葉そのままに絞られつづけた労働者は、いよいよ死に追い詰められて立ち上がった。彼らがいかにたたかい、いかなる日本をつくり出すか。今年の日本に期待したいと思う。

 今年のお正月は、日本海側は大雪のようだが、私の住むあたりではおだやかないい天気だ。皆さんもそれぞれに感慨がおありのことと思う。私も昨年は老妻が脊椎の圧迫骨折で動けなくなり、私も次々に障害がおこって文章も書けず、惨憺たるものだったが、今年はどうやら体調も少しは回復したようだ。命のある限りヨタヨタしながらも、ながく生きて心に積もる思うことを幾分でも書き綴りたい。 読者からいただくメールは私の心の支えだ。これからもよろしくお願いしたい。

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12/20/2008

第287号 若者たちへの期待

>日々通信 いまを生きる 第287号 2008年12月20日<

 発行者 伊豆利彦
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若者たちへの期待

 今年の暮れから来年春にかけて3万人のクビキリが、トヨタや日産など日本経済を牽引してきた自動車産業、日本を代表するキャノンやソニーなどで強行される。大部分が派遣や期間工などの非正規社員だ。多くは派遣先の寮で暮らしている日本各地からの集められた労働者である。年の暮れに突然解雇を言い渡され、住居も奪われて早急に立ち退きを求められる。いま、その残酷さが各メディアで取り上げられ、多くの人々の熱い関心を集めている。

 御手洗経団連会長(キャノン会長)など経営者側は、国際競争に生き残るためのぎりぎりの「苦渋の選択」、契約に基づく正当な処置だと主張するが、好景気のときは正社員よりはるかに低賃金で働かせ、不況になれば、もうけを確保するために、まだ余裕があるうちに、退職金その他の保障もなしに、まっさきにクビをきるというのはあまりに理不尽ではないか。資本の論理としては当然なのかも知れないが、血も涙もないという思いがするのは避けられない。

 『女工哀史』や『蟹工船』にまざまざと描かれたこのような苛酷な搾取は、明治以来の日本の急速な資本主義的発展の土台だった。日本だけではない、欧米の先進国もいずれもこのような苛酷な搾取に支えられ、アジアやアフリカの諸国を無慈悲に侵略し、植民地化することによって、その近代化を実現してきたのだった。

 この資本の論理に対して世界の労働者は労働時間の短縮、人間らしい生活を求めてたたかいつづけた。労働基準法に定められた1日8時間1週間40時間を超えて労働をさせてはならないという「法定労働時間」その他の労働者の権利はこの世界人民のたたかいによって獲得されたものである。この労働者の権利は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と宣言した日本国憲法第二十五条によって保障されている。

 しかし、たたかいなければ自由なし。いわゆる高度経済成長で、日本の企業は繁栄を謳歌し、労働組合は戦闘力を失った。派遣労働の自由化は、戦後になってようやく獲得した労働者の権利を奪い、苛酷な労働条件を生み出すものだったが、労働組合も野党やマスコミも抵抗らしい抵抗をしなかった。

 事実上は派遣先企業に支配されて働いているのに、名目的には派遣会社の社員であって、派遣先は社会保険その他の身分保障に関与せず、派遣元会社も責任を負わないという奇妙な無権利状態が発生した。キャノン大分工場で、来年一月までの契約なのに、十二月二十日にクビを切られた期間工の抗議に、御手洗経団連会長(キャノン会長)は、キャノンの子会社が請負会社に委託し、その請負会社がクビキリをしているのだから、キャノンには責任はないなどと言っていた。キャノンは好況で大儲けしていたころにも、派遣社員や期間工の制度、請負制度などを利用して意識的に法網を潜り、低賃金の無権利状態で労働者を働かせてきた。

 派遣工や期間工、請負労働など、働くものの身分を曖昧にして法の規制を免れ、儲けるためには法網を潜って恥じないのはキャノンだけではないだろう。偽装請負が問題になったが、派遣社員は三年が期限で、それ以上は正規社員にしなければならないのに、三年で名目上は3カ月と一日だけ期限工にきりかえ、それからまた派遣社員に切り換えるというようなごまかしで、派遣労働の期限を限りなく延長し、いまや労働者の三分の一が期限社員だという異常事態になっている。

 蟹工船が工船であって航船でないために航海法の適用を受けず、それが船舶であって工場でないゆえに工場法の適用をうけず、まったく無権利状態で搾取されるというのと同じだと、若い『蟹工船』の読者たちは口をそろえて言う。この派遣労働者の無権利状態が、これまでも若い労働者たちを苦しめてきたが、今のように激烈な不況に陥ってクビキリが強行されるときになると,その苛酷さが全面的に露出することになった。
 
 派遣労働の自由化は、戦後憲法を軽視し、戦争を美化する動きと呼応している。今年のはじめにはこのような底無しの不況は想像することが出来なかった。状況は急速に変化して、すべての希望を奪われた若者たちの間に、戦争を待ち望む声さえ起こっている。いまは日本の戦時と戦後、昭和の歴史が徹底的に検討し直されなければならないときだ。戦争を美化する言説を自衛隊の最高幹部が公表した事件が話題になったが、底抜けの不況に陥って、戦後憲法を否定し、戦争を美化する動きが強まっている。ひたすら企業の利益のために労働者の権利を否定し、犠牲にする動きは、この戦後憲法否定の動向と重なり合っている。

 小林多喜二は失業者が氾濫する恐慌の時代に、戦争を待望する動きが民衆の間に強まり、満州事変へと突入していった。『蟹工船』は底辺の労働者の悲惨な姿を描いただけでなく、この時代の日本人の生活と思想を描いた。今年になって俄かに『蟹工船』が大量に売れて話題となったのは、派遣労働その他、苛酷な労働を強いられ、職をうしない、前途に絶望した若い世代が、いまの現実と『蟹工船』の悲惨な現実がそっくりだと思い始めたからだという。『蟹工船』ブームのきっかけは『毎日新聞』今年(2008年)1月9日の高橋源一郎との対談だいわれるが、雨宮処凜は「たまたま昨日、『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました。」と言っている。雨宮も今年の初めまでは『蟹工船』を読んでいなかったのだ。多喜二の母校小樽商大と白樺文学館多喜二ライブラリー共催の若者たちを対象とする「『蟹工船』読書エッセーコンテスト」の応募者たちはみな一様に初めて読んで、『蟹工船』描かれた世界はいまの日本だと驚き、それをモチーフに論を展開している。

 しかし、この一年で状況は変わった。その変化の速度に驚く。今年の初めに民主文学会の山の文学学校で、多喜二の作品が読まれないことを話題にして、今年は『蟹工船』が読まれる年になるかも知れないなどと話していたが、あっと言う間に大変なブームになり、さらに状況が発展をして、世界大恐慌の問題、戦争の問題、臨時工のクビキリ反対闘争の問題などが多喜二に対する関心の中心になる時が来てしまった。

 絶望のどん底から多喜二にひきつけられた若者たちも、『蟹工船』の「死にたくないものは集まれ」いう言葉に共感し、「ロストジェネレーション集まれ」のスローガンの下に右も左もない『超左翼雑誌 ロスジェネ』を創刊して、「自由と生存のためのメーデー」を全国各地で展開するなど、これまで想像もできなかった連帯と共同の新しい運動を切り開いて行った。

 1975年生まれの雨宮処凜は、大学受験に失敗してフリーターとなり、職を転々する、失意と絶望の日々にリストカットを繰り返したという。愛国バンド「維新赤誠塾」でボーカルとして活動し、まともな職業につけない若者の問題と取り組んで、ルポルタージュその他の執筆活動をつづけるうちに、1970年生まれの浅尾大輔らと知り合い、右も左もない若者たちの実際運動に参加していった。

『蟹工船』の「死にたくないものは集まれ」という言葉は労働運動の原点だと思う。この言葉から出発した右も左もない若者たちの運動は、ますます強まる生活破壊の現実に抗して思いがけない発展をすることになるのではないか。破滅の危機に追い詰められた若者たちが、いまはじめて立ち上がり、団結を求めて行動し始めた。この運動がどこへ行くか。このたたかいの中で、小林多喜二の作品はどう読まれるか。生きるか死ぬかの瀬戸際で立ち上がった若者たちのたたかいはどう発展するか。新しい年はアメリカ中心の世界資本主義体制崩壊の年になるのだろうが、そこに新しい生命の芽生えが生まれるのではないかと期待する。

以下、掲示板に時々に書き込んだ言葉を再録する。言葉足らずだが参考になれば幸いだ。

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★掲示板 年末に向けて大量の非正規労働者のクビキリが強行され、職を奪われたものは、住居も奪われ、その残酷さが問題になっている。企業の側は生き残るために必要なのだと主張し、正当な契約に基づいているのだと正当化している。好景気のときは正社員よりはるかに低賃金で働かせ、不況になれば、もうけを確保するためにまだ余裕があるうちにクビをきるというのはあまりに理不尽ではないか。かつて、労働者はそのようなひどい条件で働いてきた。今年、人々を驚かせたのは『蟹工船』が驚異的に売れて、「蟹工船」という言葉が流行語大賞のトップテンに選ばれたことだ。若者たちはそれをいまの自分たちの現実と重ね合わせて読んでいる。蟹工船には全国各地からさまざまな労働者が集まってきた。そして、漁期が終わればまた生きるための仕事を求めてあてもなく歩きまわる。それはいまの日本の期間工や派遣労働者とおなじではないか。

◇◆8762.未曾有の好景気だったというが、それを生み出したのは働く人々の低賃金とひどい労働条件だった。正規社員を止めさせ、派遣社員だの期間工だのに切り換えて企業は大儲けした。

この未曾有の好景気がワーキングプアという言葉を生み出し、『蟹工船』ブームを生んだ。そして、今度は大不況だからクビキリを強行するというのだ。この御手洗が国のための教育だの何だのとご託を並べていたのだ。国のためというなのもとに、大企業の言いなりになって、踏んだり蹴ったりされるのが国のためというのだろう。 ( 12月12日(金) 20時47分 )

◇◆8765. 御手洗はキャノンの子会社が請負会社に委託し、その請負会社がクビキリをしているのだから、キャノンには責任はないなどと言っていた。こんな社長や会長が支配する日本経済はどうなるか。 ( 12月13日(土) 8時54分 )

◇◆8768.<派遣>だの<期間工>だのを自由化して、資本の都合で自由に首を切れるようにしたのは、世界の労働運動が100年かけて獲得した権利をむざむざと失ったことだ。これを強行した政府と資本家非難されるのは当然だが、ほとんど抵抗もせずにこれを許した労働組合も非難されなければならないのではないか。これは平和と人権を護る憲法を軽視する風潮と無関係ではないだろう。 ( 12月13日(土) 14時28分 )

◇◆8769.ここまで追い詰められ、さらに追い詰められて、労働者はついにその原点に立ち、労働者の権利を主張して戦うときがくるのだろう. ( 12月13日(土) 14時39分 )

◇◆8770.伊豆利彦 > 『蟹工船』の「死にたくないものは集まれ」という叫びは労働者のたたかいの原点だと思う。雨宮処凛の「生きさせろ」という叫びはこの原点を示している。『蟹工船』を読んだ若者たちもこの言葉に感動して、『蟹工船』の世界に入り込んでいった。 ( 12月13日(土) 14時49分 )

◇◆8771.大企業の雇用の問題は一企業の問題ではなくて日本経済の問題であり、世界経済の問題なのだ。個別資本の眼前の利益だけを追いかけていては、日本と世界の経済を破壊し、結局は自滅に道を開くことになる。いま、大企業の経営者は日本と世界の未来に対する思想が求められている。 ( 12月14日(日) 13時12分 )

◇◆8775.雇用や社会福祉のの縮小は個人消費を縮小し、不況をますます深化させるのではないか。エスエースさんの損得論を聞きたい。 ( 12月14日(日) 13時58分 )

◇◆8793. 日本国憲法第25条は次のように規定している。→1すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 ( 12月15日(月) 20時52分 )
界に入り込んでいった。

   ***************************************************

 いよいよ、2008年も暮れようとしている。今年は西郷信綱さんが亡くなり、12月になって加藤周一さんが亡くなられた。やはり、穴があいたような空虚が残った。西郷さんについてはいくらか書いた。加藤さんについても書いておきたいが、いまは余裕がない。これも掲示板に記した断片的な言葉を再録して記念としたい。

8740.「人は知らないものを深く愛することが出来る、しかし愛さないものを深く知ることは出来ない」加藤さんの非公式ホームページの扉の言葉です。→http://kshu.web.fc2.com/ ( 12月8日(月) 8時37分 )

8741. 加藤さんは戦争末期から軽井沢の堀辰雄さんのもとで世界の思想と文学を学び、自己を破滅させる戦争に国民を動員する、自己中心的で、視野の狭い軍部指導者、そして日本国民の現実をきびしく批判することを学びました。戦後の加藤さんは医学者としての研究生活をつづけながら日本の文化、文明、国民思想を批判し続けました。国民を戦争に動員する視野の狭い狂信的な指導者に容易に動員される日本人、その文化と思想、日本文明に対する深い愛と批判が生涯の批評活動の根底にあると思います。 ( 12月8日(月) 9時19分 )

追加 戦後まもなくの『1946・文学的考察』の次の言葉はいまも生きていると思う。

 我々は、今や、安全な哲學が哲學でないことを知つてゐる。危険思想でない思想は御用學者のの裡にしか存在せず、論理を操縦して矛盾を綜合し、東亜共栄と日本の神國説、又は民主主絶對王制の如き絶對矛盾を同時に肯定する精神的サーカスは、断じて思想ではないことを知つてゐる。「方法叙説」の著者が云つたやうに、危険な「人生を確実に歩むために真を偽から区別する」ことを教へるのが哲學である、「ドイッチエーイデオロギー」の著者が云ったやうに、「解釈するのではなく、改造する」ことを目的とするものが思想であることを知ってゐる。現実に對して無力な哲學、歴史を判断することの出来ない思想、--要するに星董派の持ってゐるものはそれだけであり、良家の子弟は、安心して「不安の哲學」や「危機の紳學」の噂話をしてゐたにすぎない。

改めて加藤の著作を読みたいと思う。
皆さん、お元気でください。

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12/06/2008

第286号 転換の時代

>日々通信 いまを生きる 第286号 2008年12月5日<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/

転換の時代

 アメリカの大統領選挙はオバマ氏が圧勝した。アメリカ史上はじめての黒人大統領が誕生する。キング牧師の公民権運動の端緒となったバスの白人専用座席への着席をめぐって起きたローザ・パークス逮捕事件から53年だ。就任演説でオバマは、アトランタで1票を投じた106才の黒人女性について語った。奴隷制が終わってわずか1世代後に生まれた彼女は、女性であることと肌の色が理由で投票できなかった。オバマは「今夜、この1世紀に米国で彼女が見たすべてのことに思いをはせたい。傷心と希望、努力と進歩、『不可能だ』と言われ続けたことに対して、『我々はできる』という米国の信条を進めようとした人々のこと」と語った。

 上院議員2年というまったく未知数の新人候補オバマ氏が、ひたすらchangeを叫び続けて、人種の壁を破り、ヒラリー・クリントンをはじめ経験豊富で高名な候補者たちを破って民主党候補となり、本選挙に当選した。演説がすばらしかったからと言われるが、オバマの当選は100年に1度と言われる経済危機が発生したことによるところが大きかったと思う。破滅に追い詰められたアメリカ人がひたすら脱出を求めchangeを求めて未知数のオバマに賭けたのだろう。

 オバマ氏の父は、奨学金でケニアから留学生として渡米してきた黒人で、ハワイ大学で知り合った白人の女性と結婚し、オバマが生まれた。父母が離婚して父は帰国し、母は大学で知り合ったインドネシア人と再婚して、オバマはインドネシアのジャカルタで過ごし、地元の小学校に通った。10才からハワイの母の祖父母に育てられ、コロンビア大学(政治学、特に国際関係論専攻)卒業後、シカゴに転居して地域振興事業に従事し、職業訓練支援などを行った。その後ハーバード大学ロースクールに入学し、法学博士の学位を得てシカゴに戻り、人権派弁護士として活躍し、貧困層救済の草の根社会活動を通して1996年にイリノイ州議会上院の議員に選出された。
(経歴は『ウィキペディア(Wikipedia)』による)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E

 黒人ではあるが留学生として渡米した父と白人の母の子で、白人の母と母方の祖父母のもとで青少年時代を送り、ハーバード大学に進んだオバマは、エリートコースを歩いた特別な黒人で、貧困と屈辱にさいなまれる多くの黒人とは異なる道を歩いた。しかし、人種の壁はオバマの前途をも阻みつづけたが、この障害を乗りこえることで、オバマは自己の能力を高め、アフリカ系アメリカ人の可能性を切り開いて行った。オバマのたたかいは体制に対するたたかいではなく、先人のたたかいによって獲得された憲法を支えとし、それが切り開いた可能性をひたすら生きたのだった。憲法を獲得し、それを現実化するたたかいは黒人だけのたたかいではなかった。人種や性別を超えたアメリカ人のたたかいがそれを実現した。

 就任演説のオバマは一人の名もない黒人の老女を思い浮かべ、彼女が経験した苦難の日々を通して、アメリカの歴史、アメリカが達成したことについて語り、アメリカの可能性について語った。彼はアメリカの歴史を、アメリカに生きた一人一人の歴史として、一人一人の悲しみ、苦しみ、努力、希望が生み出したものとして語り、一人一人の国民に向かって語りかけた。

 彼の選挙は「働く人たちがなけなしの貯金をはたいて、5ドルや10ドル、20ドルを提供して、そうやって築き上げていったもの」だった。この一人一人の小さな力と努力が結集して、未曾有の力を生み出し、いまここにかつて想像することも出来なかった新しい黒人大統領を生んだ。はじめての黒人大統領を生み出したのは、アメリカの100年に1度と言われる危機に直面して、アメリカ人が人種差別や、思想や政治的立場の違いを乗りこえて、この危機を乗りこえるアメリカ人の結集を求めたからだ。

 オバマ次期大統領はこの勝利を、繁栄を求め、自由と解放を求め、あらゆる悲しみや苦難に耐えて努力を積み重ねてきたアメリカ人の勝利だとしている。しかし、それはたたかいの終結なのではなくて、たたかいのはじまりなのだ。いま彼は彼を大統領にした大変な危機を克服するためのたたかいに出発する。期待が大きいだけに責任も大きい。オバマの肩にはブッシュがこしらえた巨大な負の遺産がかかっている。次期大統領に課せられた課題は、これまでアメリカが経験したことのないような深刻な危機である。打開の道は既知のものとしてはどこにもあたえられていない。いまはただここまで歩んできたアメリカ、黒人大統領を生んだアメリカの民主主義、一人一人のアメリカ人を信じ、一人一人のアメリカ人に、どんなに小さな力でも、すべてのアメリカ人の力を結集すれば、この危機を乗りこえることができるーYes we can!と言うしかない。

 ブッシュは世界を敵と味方に分け、イラクやイラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、EUをはじめ世界各国の反対を押し切ってイラク戦争をはじめ、イラク人民ばかりでなく、自国の多数の若者を戦場で死なせた。また戦争は泥沼と化し、莫大な戦費はアメリカ経済を破壊した。国民は犠牲ばかりが拡大するむなしい戦争にあき、撤兵を求める声が強まったところに、今度の回復不能とさえ思われる金融危機であり、さらにはアメリカ経済のシンボル自動車産業の壊滅的破たんである。

 オバマ次期大統領の課題は戦争の終結であり、経済危機の克服とアメリカの再建である。分裂ではなくて世界とアメリカの和解と統合の実現である。危機は深刻で1日の余裕もない。未だブッシュ大統領の任期中であるにもかかわらず、次期政権の重要人事を発表し、新しい政権の基本方向を世界と自国の国民に示した。驚くべきは民主党の大統領候補を争ったヒラリー・クリントン氏を国務長官に起用し、ブッシュ政権の国防長官ゲーツ氏の留任を決めたことだ。いずれもイラクからの撤退をめぐってオバマ氏と対立した人物である。オバマ次期大統領は、選挙中、彼を支援して戦った民主党左派からは閣僚を選ばず、立場や意見の異なる人々を集めて次期政権の中核を構成した。これにはchangeを訴える黒人候補オバマに期待した私も、オバマの後退を思い、落胆と不安を感じないわけにはいかなかった。

 しかし、オバマはこれらの選ばれた人々はすぐれた個性と能力の持ち主で、異なった意見と立場の優秀な人材を集め、相互の討論を通じて、これまでにない新しい実行力のある政権をつくるのだと言い、決めるのは自分だと強く主張したのを聞き、保守とかリベラルとか、あるいは在来の政治的立場を示す言葉ではとらえきれない新しい政治の創造を主張していることに、期待する思いを強めた。次期大統領は未曾有の危機に対して、未曾有の政権構想で対応しようとしている。自分と同じ意見のメンバーを集めれば、政権内の意見の一致は容易で、思うような政治ができるかもしれない。しかし、いまの危機を乗りこえるには不十分だ。自分たちの意見を超えた新しい力、未曾有の危機に対する未曾有の強力な政権をつくるためには、異なった意見のメンバーが徹底的に討議して新しい方針を生み出していく必要がある。これがオバマ新政権の基本的立場なのだとオバマは主張する。

 この政権の成すべき課題は明瞭で、メンバーは一致した基盤に立っている。意見の対立をのりこえるためには、強力なリーダーシップが必要だが、さまざまな立場や意見のひとびとを結集し、圧倒的多数のアメリカ人の支持を得た、アメリカで最初の黒人大統領オバマ氏は、自分にはそれができると信じている。異なる意見、異なる立場のメンバーを結集して、オバマ氏の目指す一つのアメリカ、一つの世界を実現することができるだろうか。決して楽観することはできないが、私はオバマ氏を次期大統領にえらんだアメリカを信頼し、その可能性に期待したい。

 オバマ次期大統領への期待は、あらためて日本の政治の情けなさを思わせる。何もかも正反対だ。日本の政治は何代にもわたって世襲議員が支配している。言葉はきれいだが現実を知らぬ彼らは、言葉遊びのような詭弁・強弁を繰り返した挙げ句、難局に直面するとたちまち政権を投げ出してしまう。今の麻生首相にしても、いつ、どんな形で辞任するかわからないと思う。自民党は何十年もつづいて無気力になり、既得権にしがみつく腐敗しきった利権集団になりさがった。当然のことだがここからは明日を開く活力のほとばしりは見られない。

 小沢氏はただ政権交代をいうばかりで、民主党政権ができればどれほどの変革がもたらされるかのイメージは明瞭でない。鳩山氏も菅氏もすでにくたびれていて新鮮なものが感じられない。米国に従属して戦後の何十年かを過ごし、自らの運命を自ら開く自立の精神を喪失してしまった日本の不幸がここにある。いまの世界的危機に対しても政治的空白は許されないなどと言って、国民の支持を失った政権維持に利用するくらいのことしかできない首相が限りなく支持率を低下させながら、いつまでも居すわりつづける日本なのだ。

 今年は小林多喜二の『蟹工船』が大変な売れ行きで、<蟹工船>という言葉が新語・流行語大賞に選ばれた。非正規社員に対する過酷な処遇が若者の間で<蟹工船><カニコー>とよばれている。そして、この年末から来年初めにかけて、大量のクビキリが強行され、大きな話題となっている。アメリカ発の経済危機は、もはやアメリカの顔色を見て行動すればいいというわけにはいかない。政界の鈍感さはあきれるほどだが、若者たちもまたぼんやりしてはいられないところに追い詰められている。いま、『蟹工船』ブームから若者たちの新しい運動を宣言する『超左翼マガジン ロスジェネ』が刊行されるなど、新しい動きが始まった。長い間太平の夢に魂を見失っていたように見える若者たちが、政治的にも前衛性を回復するのだろうか。日本でも、2009年はますます大きなクビキリの嵐が吹き荒れて、若者に対する打撃が強烈になると思われる。日本の若者たちはこの危機の中から新しい生命をもってよみがえることができるだろうか。新年を望む年の暮れに、例年にない不安と希望のときめきを覚える。

 『蟹工船』が出版された1929年の大恐慌については『怒りの葡萄』や日本では徳永直の『失業都市東京』などで読んでいたが、いま、日本でそれを経験することになるわけだ。いま、改めて「悲劇は来た」という漱石の言葉(『虞美人草』)が新しい意味をもってよみがえってくる。生涯の終わりの時期にこんな思いをするとは想像していなかった。

 皆さんはこの年の暮れをどんな思いでお過ごしだろうか。寒さの折から体に気をつけて精一杯お過ごしください。

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11/04/2008

第285号 選挙の季節 アメリカ 日本 多喜二

>日々通信 いまを生きる 第285号 2008年11月4日<
      
 発行者 伊豆利彦       
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/

選挙の季節 アメリカ 日本 多喜二

選挙の季節だ。アメリカの大統領選挙はいよいよ大詰めになり、チャレンジが旗印のオバマ氏が圧倒的に優勢だという。オバマ氏はイラクからの撤退を唱えていて、これが国民の支持をえているようだ。医療制度でも徹底的改革を唱えている。

アメリカの大統領選挙を見ていると、自由な選挙活動に感心する。支持者になったばかりの若い学生が戸別訪問をし、通行人に支持を呼びかけている。この若者たちの自由な運動が黒人候補のオバマの支持を拡大した。選挙資金も公的資金を受けず、支持者の小口カンパを募って、9月に集めた資金が過去最高の1億5000万ドル(約152億円)を突破したという。
ロイターによれば、9月に新たに寄付した人は63万2000人で、これまでの合計は310万人、9月の1人当たり平均献金額は、100ドル以下だった。 しかも、献金額は毎月しり上がりに増加し、九月はこれまで最高だった八月の二倍に達したという。
http://www.asahi.com/international/reuters/RTR200810200051.html?ref=reca

 オバマ氏の勝利はそれ自体でアメリカの歴史に大変革をもたらす政治的事件であるが、私はその結果と同時に、選挙運動に参加すること自体が閉じ込められた生存を強いられた黒人たちや若者たち、広範なアメリカ人の意識を変革し、新しいアメリカを生み出すことに期待したい。政治変革は人間変革を生み、また変革された人間が政治変革を実現するのだと思う。

戦争の時代、政治活動の自由を奪われ、歴史の大波に翻弄されて生きた私たちは、戦後の政治運動に参加することで主体としての自己を回復し、人間として生きる喜びを実感した。その後今日までさまざまなことがあったが、結局、この感動がその後60年の私の生涯を決定したのだと思う。この感動を小林多喜二は『東倶知安行』に書いている。そして、それは多喜二の生涯を貫き、プロレタリア作家として生き通させることになった。

1927年は金融恐慌の年で、銀行の取付騒ぎが続出した。この年7月には芥川龍之介は自ら命を断ったが、この暗い時代の動向と無関係だったとは考えられない。1928年2月、日本で最初の普通選挙が実現し、多喜二は生まれて初めて選挙活動に参加した。

このとき知り合った組合の人々について多喜二は、親分肌の委員長の源さんや、「鉄みたいに冷静な」組織部の渡等々をはじめとして、工場から来るもの、港の積荷人夫の一人一人に至るまで、「それ等がすべて全く新しい(傍点)『驚異』をもって迫って釆た」と述べている。(「『一九二八年三月十五日』」『若草』昭和六・九)

『東倶知安行』はこのときの経験を記録した作品である。銀行の狭い壁の中に閉じ込められた生活から解放され、生まれて初めて自由な人間として、未知の世界の人々と結びつき、歴史に働きかける主体として演壇から聴衆に語りかけ、聴衆と一体になる感動を多喜二は語った。

戦後は「政治と文学」といえば、政治は文学や人間を束縛し、疎外するということばかりが強調されがちだが、多喜二は政治による人間の支配と束縛から人間を解放するたたかいこそ人間的であり、そこに文学の端緒があることを強調した。

いま、非人間的な労働条件に苦しむ若者たちが『蟹工船』に自分たちの現実を読み、ばらばらに切り離された孤独と絶望からの脱出の道を求めて動き始めている。いまだアメリカの青年たちのように変革を求める政治運動に結集するにはいたっていないが、いま、その端緒の動きは始まっていると思う。「政治と文学」の問題はいま新しく日本の青年の問題になろうとしている。

『文学界』十一月号に柄谷行人、黒井千次、津島佑子の「『蟹工船』では文学は復活しない」と麗々しく銘打った座談会が掲載されていたが、作品を読み返すこともせず、『蟹工船』に感動するいまの若者たちについて知ろうともせずに『蟹工船』は「勧善懲悪の小説」だときめつける柄谷の古ぼけた意見が得々と語られているだけのつまらないものだった。「グローバリゼーションに抗しうる文学とは」などと副題があったがここにはそのような文学の可能性についての何の示唆も得られなかった。かつては新鮮な問題提起をしていた柄谷らも年老いてしまったという思いを禁じ得なかった。

『蟹工船』が発表されたのは1929年、アメリカから始まった大恐慌の大波に世界が巻き込まれていった底知れぬ暗黒の時代だった。いまはまた、金融危機に襲われて、アメリカ中心の世界体制が崩壊し、新しい体制を模索して世界がもがき苦しんでいる時代である。アメリカの大統領選挙もこのような転換を求める動きの一つであり、『蟹工船』ブームもまた若者たちのそのような動きの一つだと思う。いまはまた、若者たちの右傾化や、戦争待望の声が生まれ、秋葉原事件に代表されるような事件が頻発する時代だ。一方でドストエフスキーの『罪と罰』が読まれ、一方で小林多喜二の『蟹工船』が読まれる。追い詰められた現代の若者たちは、はたして新しいを開く勢力に発展するのだろうか。

アメリカのオバマブームに比べて、同様に政権交代を迫る日本の民主党に迫力がなく底の浅さが感じられる。かつて『蟹工船』が発表された時代はプロレタリア文学全盛時代で、文壇はプロレタリア文学一色といっていいほどだった。しかし、やがて満州事変に突入し、弾圧が狂暴化して多喜二が殺される前後から転向の波が押し寄せて、左翼の運動はほとんど息の根をとめられ、中国に対する泥沼戦争は対米英戦争にまで発展して周知の結末を迎えた。柄谷行人はそのような日本のプロレタリア文学の底の浅さを指摘しているのだと思うが、過去は繰り返してはならないのであり、そのために過去の研究と現代の新しい問題の研究が必要なのだと思う。

いまの『蟹工船』ブームを過去の再現に終わらせてはならない。そこにいまの若者たちの課題がある。戦後の『蟹工船』ブームもやがて消滅し、旧ソ連の崩壊とともに社会主義の全面否定が支配的になった。しかし、いま、アメリカの一極支配は崩壊し、資本主義の矛盾も表面化してきた。旧ソ連体制が崩壊し、ブッシュ体制も崩壊して、新しい世界体制が求められている。オバマ体制はそのような体制への道を示すのだろうか。それにしても、日本の政治の現状はあまりに暗い。いまの『蟹工船』ブームは若者たちを目覚めさせ、新しい時代を生む端緒となるのだろうか。

秋もいよいよ本格的だ。体調が悪くて出歩くことが困難で、十分秋を味わえないのが残念だ。皆さん、健康を大事にして、この好時節を存分にお過ごしください。

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10/16/2008

第284号 西郷信綱さんが亡くなられた

>日々通信 いまを生きる 第284号 2008年10月16日<  
    
 発行者 伊豆利彦       
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/

西郷信綱さんが亡くなられた。

私が西郷さんと知り合ったのは1949年だった。半世紀以上のお付き合いだ。
その後、横浜市大で20年くらい同僚として過ごさせていただき、いろいろ教えを受けた。学問上で教えられたことは多いが、研究対象が近代と古代で、実は時代を超えて学ばなければならないことが多いのに、若い私には十分受け止めることが出来なかった。いまとなっては後悔しているが、致し方のないことである。

追悼の意味で何か書いておきたいと思いながら、なかなか書けなかったのは、妻の腰痛や私の体調不良などによる以上に、私の不勉強の故である。しかし、日々のおつきあいの中でのさりげない会話のなかに学ぶべき多くのことがあった。私はそういう不甲斐ない後輩として、普通語られるすぐれた研究業績を主とする追悼とはちがった観点から、少しばかり、書いておきたい。

西郷さんは1916年、私は1926年の生まれで、ちょうど10年の年齢差がある。西郷さんは野間さんの1年年下だが、日本の学生運動の最後の楽園といわれる三高から京大へ進んだ野間さんとちがって、大分県佐伯の出身で熊本の五高へ進んだ西郷さんには、いわゆる左翼の経験はなかったと思う。しかし、10年年下の私とはまったくちがった自由な思想が残存する時代から、急激に右傾化し、戦争に突入していく時代に学生時代を送られた。
( 堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に描かれた学生たちの姿にいくらか近い生活を送られたのではないかと思う。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta%20wakakihi.htm

西郷さんは1935年に19才で東大の英文科に入学されたが、入学後3カ月でたどたどしい語学力で英文学を学んでもその表面をかすり、教養的な知識を得るだけで、文学の本質に迫ることはできないと考えて、国文学に転じられたという。その機縁は斎藤茂吉の歌を読んで衝撃を受けたことだと、2002年に86才で刊行して最後の著書となった『斎藤茂吉』の冒頭に記されている。

最後の著書が自身の文学開眼の端緒となった斎藤茂吉との格闘の書であったことは感慨深い。1945年、19才の私は陸軍2等兵として甲府の連隊で敗戦を迎え、ぼろぼろになって復員したのだった。私は高校2年だった。西郷さんは早生まれで、中学4年で高校に入学されたので、19才で大学に入学されたのであったろう。英文科に入学されたのは英語が得意だったからだろうし、年若き秀才として、常に人より一歩先を歩いた生涯だった。

1935年は天皇機関説問題で美濃部さんが大学を追われ、36年には2・26事件が起こった。37年の蘆溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争がはじまり、対米英戦争に戦火は拡大して1945年に敗戦を迎える。この10年を西郷さんはどのように過ごされたのか。この間の斎藤茂吉の変貌については語られているが、西郷氏ご自身がこの10年をどう過ごされたかについては、ほとんど語られなかったと思う。

同年代の野間宏や、五高の同級生、梅崎春生や霜多正次らは戦時下の学生時代や、兵士として生きた過去を作品化し、人生の危機には絶えずそこに立ち戻って自己の人生と文学を始め直したが、西郷さんは戦時下の自分についてほとんど語られることはなかったのだ。

当時は西洋文明に対する絶望から、急激に日本文化に対する関心が強まった。青年たちの間に中世文学の芸術至上主義への共感がひろがり、戦争に突入して青年が戦争に動員され、死地に駆り出されるころには万葉集が愛読された。いわゆる日本浪漫派が青年の心をとらえたのだが、西郷さんが国文に転じられたことについて訊ねたところ、日本浪漫派の影響を受けたことはなく、むしろ正反対の立場だったと言われた。

なるほど『斎藤茂吉』などから想像されるのは、アララギの会員として作歌にはげみ、茂吉や万葉集の研究に集中して戦争の時代を過ごされたらしいということである。言葉に対する研ぎ澄まされた感覚は西郷さんの魅力だが、その土台には多分、戦時下のこのような一つ一つの言葉を大事にする実作者としての経験があったと思う。

西郷さんは身体上の事情もあり、また、戦争要員を教育する高等商船の教官だったこともあって兵役を免れ、戦後、新進気鋭の研究者として颯爽と登場された。鎌倉アカデミアの講師となり、清水高等商船を辞職して上京されたのだが、その根底には、戦時下の風潮に抗して、「歩兵のごとく」一歩一歩積み重ねられた研究があった。

「歩兵のごとく」というのは茂吉の信条だったが、弟子たちに対してもしばしば繰り返される教訓であった。そして西郷さんもこの言葉をよく口にされた。しかし、西郷さんには時として過去と別れて飛躍する決断の時があった。大学紛争のあと、1970年代のはじめに横浜市大をやめられるとき、西郷さんご自身から聞いた言葉だが、高等商船を辞職して上京されたのもその一つだった。西郷さんは「浪人」でなければ本当の研究はできないと言われた。

西郷さんが上京された当時は、いうまでもなく戦争直後の混乱と暗黒の時代だった。食糧難と物価高は生活を直撃し、その日その日を生きるのがやっとだった。お子さんも多分何人かあり、給料は物価高に追いつかず、教師の生活は苦しかったに違いないのに、その足らぬがちの月給をなげうって辞職するというのは大変なことだった。西郷さんの研究者としての仕事は、生活や家庭の幸福を犠牲にする崖っぷちで展開されたのだった。

日文協の東大支部が発足したのが1949年6月、私は支部を代表するかたちで大学支部協議会の責任者となって、若手の研究者として日文協再編を押し進めておられた西郷さんらのお仕事を手伝った。日文協は戦後まもなく治安維持法違反で勾留されていた近藤忠義さんを中心とする少数の進歩的な研究者が、国文学会の大御所的存在の藤村作さんを会長として、いわば革新勢力と旧勢力の結合として発足したのだった。その後、古代の西郷さん、近世の広末さん、近代の猪野さんなど、若手の研究者が協会の中核となって、これまでの曖昧な会のあり方を改革し、1950年の新体制に移行したのだった。

1950年の大会ではこれまで会長だった藤村さんが名誉会長になり、近藤さんが委員長、猪野さんが書記局長になった。中央委員会や常任委員会など、左翼政党や労働組合のような組織をつくり、文学研究と国語教育を両輪として民衆と結びついた研究活動を行うといういる綱領を採択して、運動体としての日本文学協会が形成された。地方支部や大学支部が相次いで設立され、小中高の国語の先生たちだけでなく、当時、各地に急速に広がっていった文学サークルのメンバーなども参加して、国民文学運動の理論的拠点の役割をになおうとした。今日では想像もできないと思うが、西郷さんは猪野さん、広末さんらとともにこの運動の理論的指導者としての活動された。

戦後の私は高校卒業後、大学に入学はしたものの講義には出席せず、地方で地域活動をしていたが、健康を害して運動を離れ、この年の4月から大学に戻ってきて、大学支部協議会を代表して綱領草案の作成などの仕事を西郷さんらと一緒にした。これが私と西郷さんのながいおつきあいのはじまりだった。

当時、鎌倉アカデミアの運動は挫折して,西郷さんは新制大学としてあたらしく発足した横浜市立大学で講義しておられたが、1953年4月から私も西郷さんに推薦されて、この横浜市立大学で教えることになった。以後、20年も同僚としてご指導を受けた。思えばながいおつきあいだった。回想すれば尽きることなくさまざまな思いがあるが、きりもなく、とりとめもないので、別の機会に稿を改めて記したい。
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西郷さんが亡くなられたのは9月26日、お通夜は29日、葬儀は30日だった。急に倒れられて、救急車で病院に運ばれ、その日のうちに亡くなられた。苦しまれることもなく、いわば大往生だったと思う。

西郷さんについて何か書き残しておきたいという思いはあったが、体調も悪く、何となく日を過ごしていたが、何か書いておけというメールもあり、掲示板に死亡を告げる新聞記事が掲載されたりしてみると、書きたい思いが強まって書かせていただいた。

1949年は中国の人民革命が勝利した年であり、下山事件、三鷹事件、松川事件の年でもあった。1950年にはレッドパージの風が吹き荒れ、朝鮮戦争が始まった。国民文学運動が大波となって押し寄せ、中国に学んで学生の間に帰郷運動がおこり、西郷さんも洪水に荒らされた福岡県、大分県の各地をトラックに乗って話して歩かれ、無理がたたって体調を害されるということもあった。松川事件については、書記長として松川まで行かれた記録を発表されたこともある。

スターリンの死があり、共産党が方向転換した六全協の自己批判があり、
日文協も変わって行った。西郷さんの追想は激しく動いた戦後日本の歴史と重なり、きりのないことになる。ただ、最後に一九六〇年代末の大学紛争を契機に、横浜市大を辞職されて、「浪人」となられたときのことは記しておきたい。

一般には大学当局の学生に対する抗議としてと言われるが、西郷さんには学生に対する失望も大きかったと思う。師弟の間に尊敬と信頼がなければ教育はなりたたないというのは西郷さんの信条だった。

政治に対する強い関心がありながら、それゆえ傷つき、絶望されることも深かった。心筋梗塞で倒れられたこともあって、散歩などのほか外へ出ることもなく、もっぱら、書斎での規則正しいお仕事の生活を送られた。はっきりとした目標を持ち、一歩一歩「歩兵のごとく」仕事をつづけられた。私などにも電話のたびに、いつも、一日に一行でも二行でも書けと言われた。

西郷さんとお会いしたのは戦後の動乱の時代だったが、亡くなられたのも、世界資本主義の終末を思わせるような大変な時代だった。日本では戦後の政治を支配してきた自民党の終末が来ようとしている。

当時は吉田だの岸だのという人たちが首相を勤めたが、いまはその孫たちが総理大臣になっている。その孫たちは祖父たちに比べてやはり器量が小さすぎ、無能だという思いを禁じ得ない。いまは世襲政治家が大半で、それだけ日本の政治は無能力化している。お先真っ暗という思いもあるが、新しい時代のはじまりとも思われる。

いつまでも暑さがつづくと思っているうちに、急に秋らしくなった。西郷さんのことを考えていると元気が出てくる。私は西郷さんと違ってあれこれ気が散って、とりとめた仕事もしなかったが、もう少し努力して見たい。皆さんも何とかお元気で秋の好時節をお過ごしください。

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09/20/2008

第283号 暴風雨の秋に多喜二を読む

>日々通信 いまを生きる 第283号 2008年9月20日< 
 
 発行者 伊豆利彦       
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暴風雨の秋に多喜二を読む

 いまマスコミは自民党総裁選挙で持ちきりだ。
 安倍・福田の世襲総理が相次いで突如政権をなげだしたあと、これまでの自民党を支えてきた連中が5人も立候補して、それぞれに未来の抱負を語り、自分が総裁になれば日本が直面する危機が克服できるかのような法螺を吹き合っている。

 小泉元首相は5人の候補はみな小泉内閣の閣僚だったから、誰か一人を推薦するわけにはいかないと言った。なるほど、みな一つ穴のムジナというわけだ。とりわけ麻生氏は安倍総裁、福田総裁と二代つづいての無責任総裁の幹事長だった。その麻生氏が既に次期総裁として確定的だと伝えられる。それなら、いまの騒ぎは何なのだ。中身のない総裁選挙をお祭騒ぎで盛りたてるためだけのものだろう。選挙といっても投票するのはほとんど全部が自民党の国会議員だ。誰が総裁になっても後の四人は、揃って新内閣を支える重要幹部としての部署につくのだろう。まさに茶番劇そのものだ。それをマスメディアはあたかも日本の新時代を開く多様な可能性の競合であるかのように騒ぎ立てている。これは自民党の提灯を持って、お祭騒ぎで国民をだまかそうとするものだ。

 これは一政党の総裁選挙で、首相選挙ではない。もちろん、自民党は第一党だからその総裁は首相になるのだろう。しかし、その内閣は直ちに解散総選挙をして信を国民に問わなければならない。まさか、今度もそのまま居すわって政治の混乱を持続し続けるつもりではないだろう。

 政治の空白は許されないというが、郵政選挙の圧倒的多数にしがみつき、参議院選挙で大敗しても、術策を弄して衆議院議決を再議決して、政治の混乱、空白を拡大再生産しつづけてきた。今度こそその決着をつけ、解散総選挙に踏み切るのだろうか。考えてみれば、この五人はこれまでの政治に重大な責任があるのに、小泉郵政選挙の議席を背負って、史上例のない強引な国会運営をつづけてきた。安倍も福田もそのために政権を維持することができなかったのだ。何よりもまず解散総選挙によって国民の信を問わなければならない。すべてはそこから始まるのだ。

 アメリカではリーマンブラザーズ証券会社が倒産した。いよいよアメリカ経済の大崩壊が始まった。世界経済を支配してきたアメリカ経済の崩壊は日本や中国、そしてアジアの国々の経済を破壊する。サブプライムに牽引された手品のようなアメリカ経済の破たんは、私たち素人には当然すぎるほど当然で、こんなことが長続きするとは思えなかった。しかし、なぜ、アメリカでこんなことが起こったのだろう。専門のの政治家や経済人はなぜこれを放置したのだろう。そして、イラクやアフガンで若者を大量に殺傷するだけでなく、気が遠くなるほどの財政赤字をつくって、私たち素人には破滅の道としか見えない道を突き進んで行くのだろう。アメリカの大統領選挙は転換の道をさぐる選挙になっているように見えるが、日本の政治家やマスメディアはほとんどこの危機を問題にしない。

 国民が求めているのは、小泉改革で破壊された国民生活の回復だろう。若者たちのあいだに『蟹工船』が強い共感を呼び起こしているのは、作品を通して自分自身と日本の現実を新しい目で発見しなおしたからだ。いま、アメリカ経済の激震で日本人は日本とアメリカ、そして世界について認識を新たにし、今までの対米従属一辺倒の日米関係についても考え直さなければならない。アメリカ言いなりになることで政権を維持してきた自民党の過去と現在が根本的に問い直される時が来たのだと思う。

『蟹工船』が発表された1929年は、アメリカから始まった世界大恐慌の大渦にに日本経済がまきこまれていった年だ。都市では中小企業の倒産が続出し、失業者が氾濫した。農村は飢餓に苦しみ、娘たちは身売りして都市へ出ていった。戦争待望の声が民衆の間に浸透し、いまから77年前の1931年9月18日には満州事変が始まった。『蟹工船』は15年つづいた日中戦争突入前夜の作品だが、この戦争を世界大恐慌、ロシア革命、ナチスの世界戦争との関連で把握することが、いまは大事だと思う。

『蟹工船』はこの時期の戦争の土台としての労働者の現実を暴き出し、『沼尻村』『党生活者』は時代にあらがいながらこの時代を生き、闘い、そして押し流されていった人々の記録である。そして、『転形期の人々』この時代を大きな展望で描き出そうとした野心的な作品である。あの戦争についてはいろいろに書かれているが、時代を生きた人々の生活と心に迫るこれらの作品を離れては、あの時代を本当に知ることはできない。

『蟹工船』を読んだ若者たちは、多喜二を「兄貴」と呼び、「惚れた」という。そして自分たちのつらい現在を語り始める。多喜二は自分たちにああしろ、こうしろとお説教したり、扇動したりしないで、自分たちのつらい経験をじっと朝までも聞いてくれて、そして最後に「彼らはもう一度立ち上がった」と書くだろうと言い、その優しさに本当に「惚れた」のだという。多喜二を読んだ若者たちはその「優しさ」に励まされて、それぞれの経験を話しだす。そこにこの作品の意味があるのだろう。そして、私は、私の短い軍隊の生活がすっかり『蟹工船』の世界に重なるのに驚いた。

 多喜二は1928年2月の第1回普選の運動に参加して、プロレタリア作家としての道を切り開いた。いま、横須賀では原子力空母の配備に反対する運動が展開され、これと時期を同じくして民主文学会横須賀支部が発足し、小林多喜二の学習会を始めるという。私はこれを偶然のことは思わない。今日はその第1回がヴェルク横須賀(京浜急行横須賀中央下車)で開かれる。

 老齢でさまざまな障害に苦しむ毎日だが、何もできない私はせめてこれだけはの思いで参加する。もっと早くお知らせできればよかったのだが、通信発行が延び延びになって、今日になってしまったのは残念だ。第1回は今日(9月20日)、第2回は10月18日、第3回は11月29日、午後1時半から、会場はいずれもヴェルク横須賀。都合のつく方は参加してほしい。問い合わせ先は橋本さん(046-842-3866)

 今年は台風襲来がおくれ、秋の到来も遅れたようだ。私の血圧もいくらか下がって、今朝は最高172、最低84だ。無理をせず、いまできることをして行きたい。皆さんは秋の好時節を元気にお過ごしください。

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