07/18/2008

第279号 『蟹工船』ブームが開く

>日々通信 いまを生きる 第279号 2008年7月18日<

           
 発行者 伊豆利彦       
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/

『蟹工船』ブームが開く
                         
 久しぶりに発行した前号は混乱して迷惑をおかけした。件名を書き忘れ、読者から未着の報せがあり、未着の情況を問い合わせたメールは、号数を間違えたためまたあらたな混乱を生んだ。お詫びする。今号も発行が大変遅れた。血圧が200前後にあがり、頭脳が散漫になり混乱して、書くことが困難になった。老耄したためと思うが、いましばらく発行を続けようと思う。

 最近、小林多喜二の『蟹工船』が大変な売れ行きで、読売、朝日、毎日など各紙で大々的に報じられ、大評判になっている。テレビでも各民放がこれを社会問題としてとりあげ、NHKも最近朝のニュースで取り上げた。こうして加速度的に売り上げを伸ばし、新潮文庫版はこの2カ月間だけで30万部を売り上げたという。6月27日の『読売新聞』は次のように伝えている。

>プロレタリア文学の代表作、小林多喜二(1903~1933)の「蟹工船」ブームが止まらない。新潮文庫版の増刷部数は今年これまでに35万7000部に上り、例年のざっと70倍のペース。この2か月間だけで、30万部以上を売り上げた。今なぜ、「蟹工船」なのか――。

>「これ、今売れてるんだよね」。三省堂書店神保町本店では、平積みにされた「蟹工船」を、2人連れの若者が手にとっていた。同店は1、2階の数か所に新潮文庫版だけでなく岩波文庫版や映画DVD、漫画版も並べる特設コーナーを設置。昨年まではどの書店でも文庫の棚に1冊ある程度だったが、今や新刊のベストセラー並みの“待遇”を受けている。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080627bk01.htm

 今年は没後75年になるが、全国各地で多喜二祭が盛大に行われた。5年前に生誕100年、没後70年のおおきな記念祭が東京の九段会館をはじめ全国各地で行われたとき、没後70年もたってこんなに盛大な記念祭が行われることに驚き、これが最後なので、これほど大規模に集まったのかとさえ思った。しかし、当時は多喜二の作品の読者は少なく、いまのような時代がこようとは思いもよらなかった。

 多喜二には熱烈な支持者がいるが、大多数は高齢で、若者の読者はほとんどいなかった。社会文学会の日韓合同の大会が慶州で開かれ、そこで無政府主義者金子文子を卒論に書くために参加したという学生が多喜二の名前も知らないと聞いて驚いた。

 支持者は没後70年たっても各地で記念祭を開き、会場は熱気に湧いているが、会場の外の一般の文学愛好者、特に若い人には全く無関係なのだとその落差を改めて思わされた。会場に集まった多喜二の支持者は、それぞれに生涯の一時期に多喜二によって世界を知り、新しい人生を開かれる経験をしたのであったろう。

 戦争中は多喜二の作品は発売が禁止され、その作品について語ることも禁じられた。私が多喜二を知ったのも、戦後になって治安維持法が米軍の手で撤廃された後のことである。日本は敗れたが、日本政府は米軍の指令があるまで撤廃せず、1945年10月10日にはじめて、治安維持法違反者の釈放を実現した。戦時中に戦争に反対して、拷問と過酷な獄中生活に耐えて18年も12年も戦い続けた人々が解放され、戦時下に転向を強いられ、自己を隠ぺいしてひっそりと生きてきた人々が集まり、「自由戦士出獄歓迎人民大会」を開いた。

 ひとびとは改めて獄中で死亡した人々のことを思った。多喜二が非合法活動の合間に志賀直哉を奈良に訪ね、一夜を過ごしたことはよく知られているが、治安維持法が撤廃されたいまになって、直哉はいっそう深い思いで獄死した多喜二のことを語っている。それにつけても、終戦1週間前の8月9日に戸坂潤(1900~45年)が、終戦後 1カ月以上経って9月26日に三木清(1897~ 1945年)が獄中で亡くなったことは口惜しい。

 かつて書店から姿を消した多喜二や三木、戸坂の著書が氾濫し、さまざまな思いで読まれた。三木清や、若くして警察の拷問で殺された野呂栄太郎の全集発売には行列が出来た。私も多喜二の質の悪い再生紙、仙花紙に印刷された『蟹工船』や蔵原惟人の『芸術論』をむやみに傍線をひいて読んだ記憶がある。多喜二全集は何度か中絶しながら発行が続けられ、当時の若い世代に大きな影響を与えた。多喜二はその読者に、人間について、社会について、階級について、生存のための闘争について眼を開き、その生涯を決定した。いま、多喜二祭が盛大に行われ、熱心な読者があつまるのもそのためだと思う。今まで禁じられていた未知の世界だったからそのような衝撃を若い世代に与えたのであったろう。

 軍国主義者から共産主義者へと嘲笑気味のレッテルが貼られたのも私たちの世代である。それは決して私たちだけのことではない。右から左へ、天皇美化と戦争支持からアメリカ讃美、民主主義礼賛への転換は日本国民の全体的な動向だった。しかし、若者には何の打算もなく、ひたすら情熱的な行動に走ったから恐れられたのであったろう。新聞記者だの立派な肩書きを持つ評論家や学者・研究者と称する人々は、本当のことを知りながら、それをかくして、時代に迎合していたのであったろう。だから、若者の無知を笑ったのだろうが、私は私たちは我が身の安全のために自己を偽る職業的思想家しか持たなかったことを憤り、それゆえに国家の手で殺された多喜二らに傾倒するのだ。

 いまの若者たちが右から左への転換を始めている。彼らは直接権力によって禁じられたわけではないが、昭和の歴史に対してまったく盲目にされてきた。また、日本や世界の動きに対する知的関心を失わされていた。彼らの多くは多喜二らの存在をさえ知らず、そうでなくても『蟹工船』については名前だけは歴史の教科書で知っていたが、もちろん読んだことはなかったという。その彼らが『蟹工船』を読んで、その残酷な搾取の現実が自分たちの現実とまったく同じだと驚いているのだ。彼らの多くはマンガによって『蟹工船』を知り、その世界が形こそ変われ、自分たちの現実とそっくりなのに驚いたのだった。

 『蟹工船』ブームはいまという時代を昭和史、日本の戦争とのとの関わり合いにおいて照らしだす。さらには中国の農民工問題などをも照らしだす。いま、これを機会に『蟹工船』が照らしだす諸問題を明らかにして見たい。
                     (この項つづく)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 化学療法の薬害なのか、この頃、さまざまな病気が出て、血圧も200前後にまで上がる日々が続く。老耄のせい、暑さのせいかもしれないが思考が散漫で短い文章を書くのも困難だ。その上、伴侶が腰を痛めて、体を動かせない。このためなれぬ家事も私の故障がちな私の肩にのしかかって来る。そんなわけでこの通信も一カ月もかかってこれだけしか書けない。私としては多喜二論と漱石論をこの世に残しておきたいと思うが果たしてどうなるか。

 いよいよ梅雨も明け暑い日が続くと思う。皆さん、お元気でお過ごしください。

      伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

| | Comments (0) | TrackBack (0)

06/09/2008

第278号 ダライ・ラマの言葉と現実

>>日々通信 いまを生きる 第278号 2008年6月10日<<           
 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/
                         
ダライ・ラマの言葉と現実
         
 チベット問題で揺れた中国は、今度は想像を超えた大地震で大揺れだ。震源地の四川省ブン川やその周辺はチベット族、チャン族の自治区で、アバ地区は僧たちが民家や店舗に投石放火して軍に鎮圧され、その記事が東京新聞(2008年3月19日)に掲載されていた。チベット問題についての報道がイデオロギー的偏向が目立つなかで比較的客観的なように思われるので、この事件の真相を知る上で参考になるのではないかと「日々通信」275号
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2008/04/275_4b41.htmlに紹介した地域である。この地域が大震災で大きな被害を受け、その救援活動の様子が大きく報道された。

 人民軍をはじめとする政府機関だけでなく、義援金を集める子どもたちまで一般国民の献身的な救援活動は、被害者住民だけでなく、周辺のチベット族やチャン族住民からも大きな共感ト感謝をもって迎えられたと思う。政府機関の対策の遅れを批判する声も少数民族の中国政府に対する期待の現れであり、中国人意識の高まりを示すものだと思う。

 3月の暴動、聖火リレー妨害などで極度に悪化したように見えたダライ・ラマと中国政府関係は、両者の対話もはじまって改善の可能性が開けたよに見えるが、この災害に対する中国政府ならびに中国人民の献身的な救援活動は、中国人の国民意識を強め、対話の前途に明るい展望ヲ開くのではないか。

 元来、ダライ・ラマは暴力活動に強く反対し、自分たちの運動は独立をもとめるものでなく、武力による人権弾圧に反対し、文化的宗教的活動の自由をもとめるものだと強調して、繰り返し対話を求めていた。「チベットに自由を」と叫ぶ国際的な運動の拡大には、反中国キャンペーン謀略の匂いもあるが、中国政府にも大きな影響をあたえ、両者の対話の前途に希望をもたらしたと思う。両者の信頼関係を深め、新しい関係を開くことを期待する。


 中国政府側はダライ・ラマは言葉は美しいが行動は醜いという。非暴力を強調し、中国の暴力による弾圧、虐殺を攻撃するダライ・ラマはアメリカのCIAと結びつき、反中国活動の拠点にされた。また、ダライ・ラマのもとに結集する青年僧侶たちがしばしば暴力的行動に走った。今度の武力弾圧も、そのきっかけは僧侶たちの民家や商店に対する投石・放火だった。オリンピックで世界の注目が集まっている時を狙っての挑発行動だったといわれても仕方ないが、海外メディアはひたすら中国に対する非難に集中し、ことのきっかけは無視されがちだった。こうしたメディアの反中国的動向が、メディアに対する中国の閉鎖性を強めた。今度の災害が中国の開放性を強めるなら、それはあたらしい展望を開くことになる。

 体調が悪くてぐずぐず時を過ごすうちに早くも6月になり、梅雨となった。私としては死ぬ前に多喜二論と漱石論をまとめておきたいのだが、一度はじめた日日通信も、世界の動きが気になってやめられない。ことに最近はダライ・ラマの思想に興味を持ち、ダライ・ラマを通して漱石の思想を新しく発見しなおす思いがしている。ダライ・ラマは近代の矛盾、その暗黒を鋭く照射しているので、フランスなどでは大変に歓迎されたらしい。しかし「ダライ・ラマ」というのは個人の固有名詞ではなく、日本でいえば天皇にあたるような宗教と政治を統合する特別な地位をあらわす。決して一思想家にとどまるものではなく、そのためにその政治責任が問われることになる。ダライ・ラマと青年僧たちの関係は日本の天皇と右翼青年将校たちとの関係にも似ていて、天皇の個人的思想のゆえに戦争責任をまぬがれないのと同様だろう。問題なのは天皇制という制度であり、チベットでは「ダライ・ラマ」制という政治・宗教制度にあると思う。

 金銭万能の能率主義社会を批判するダライ・ラマの中国批判には聞くべきことも多いが、それはまた、現実を誇張し、歪曲する偏見をまぬがれない。これはまた中国側にもいえることだと思う。双方が相手を敵視し、対立意識に駆り立てられている現状では仕方のないことだが、自己を絶対化し相手を全否定する状態では対話は成立しない。対話が成立するためには相互に相手を認めあうことが必要だ。ダライ・ラマは言葉では自分が偏見に満ちていることを強調するが、対中国,ではひたすら中国非難に没頭していて、対話の条件を欠いている。これは中国側も同様で、ダライ・ラマを悪の権化として罵倒するのなら対話は成立しない。

一神論の西欧のキリスト教やムスリム教、そして社会主義と違って仏教のダライ・ラマは多元的であり真理の相対性を強調する。これが対話と平和共存の基盤になるはずだが、思想的にはそうでも現実にはどうなるか。漱石は英国へ赴く船中でキリスト教に対する東洋の空と無の思想の優位性を英文で下記認め、キリスト教への執拗な改宗勧誘を退けた。ダライ・ラマの場合、単に宗教者、思想家にとどまらず、政治との関わりが強い「ダライ・ラマ」という位置が問題を複雑にし、困難にしている。

 これまで日本ではダライ・ラマについて論じられることが少なかった。私は上田紀行氏の著書に触発されてダライ・ラマ自伝や関連著書を読み始め、その思想に共鳴するところが多かった。しかし、同時にいかにも観念的でトリックに満ちた詭弁にも気づかされた。ダライ・ラマが政治にもかかわる存在である以上、そのことばだけを信じるわけにはいかない。今後、漱石との関連で少しずつ究明していきたい。

 梅雨時で不順な気候が続きます。お体に気をつけてお過ごしください。

伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/  

| | Comments (0) | TrackBack (0)

05/05/2008

第277号 侵略か解放か

>>日々通信 いまを生きる 第277号 2008年5月5日<<

侵略か解放か

発行者 伊豆利彦 
URL http://homepage2.nifty.com/tizu/

『こころ』
「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

「文芸と道徳」
有体に白状すれば私は善人でもあり悪人でも――悪人と云うのは自分ながら少々ひどいようだが、まず善悪とも多少混った人間なる一種の代物で、砂もつき泥もつき汚ない中に金と云うものが有るか無いかぐらいに含まれているくらいのところだろうと思う。

「私の個人主義」
事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのあります。

漱石は1910年夏、胃腸病院入院中の断片に次のように書いている。

「アルismヲ奉ズルハ可。 他ノismヲ排スルハlifeノdiversityヲunifyセントスル智識欲カ、 blindナル passion[yuouthful]ニモトヅク。さう片付けねば生きてゐられぬのはmonotonousナlifeデナケレバ送レヌト云フ事ナリ。 片輪トモ云ヒ得ベシ。lifeハactionニテdeterminateナリ思想(感情)ニ於テindeterminateナリ。 indeterminateナルハ茫漠ナル故ニアラズ。 アラユルalternativeヲ具備スル故ナリ」

あるイズムを奉じるのはいいが、他のイズムを排するのは生の多様性を統一しようとする知識欲か、(若い)情熱にもとづく。そう片づけなければ生きていられないのは単調な人生でなければ送れぬということだ。障害があるともいうべきだろう。生は行為で決定的だ。思想や感情は非決定的でさまざまである。非決定的なのは茫漠たる思考のためではない。あらゆるもう一つの考え方を具備しているからである。

昔、日本人はすべてに一様な考え方を強制されて、多様な考え方を許されなかった。いまでも黒か白か、善か、どちらかにきめてしまわなければ気がすまぬものが多い。事物は、多面的に、さまざまな角度から考えることが必要だ。チベット問題は私たちの思考を多面的にし、歴史に対する態度を深めてくれる。

1950年にチベットは中国に侵略されたというが、中国は人民民主主義の発展として、ダライラマを頂点とする農奴制を変革し、奴隷解放を実現したのだということもできると思う。この革命にはチベット人民も参加していて、チベット自治政府の幹部はチベット人だ。台湾に逃亡した国民党政府と同様に、ダライラマとともにインドに逃亡したのは10万の地主階級で、100万の農奴が解放されたのだという。アサヒニュースターのパックインジャーナルで田岡俊次がダライラマが中国に帰ってくるときは、この10万の奴隷主たちも帰って来ることになるので、問題は単純ではないと述べていた。中国から亡命したダライラマ一派はアメリカのCIAから資金を供与されていたという。ウィキペディアには「ダライ・ラマ14世側はCIAから170万米ドルにのぼる資金援助を1960年代に受けていたことを認めた。」と記されている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E14%E4%B8%96#CIA.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82)

CIAといえば、今度の聖火妨害の先頭にたつ国境なき記者団もCIAから資金を供与されているとウィキペディアには記されている。アメリカと中国は経済的に深い結びつきがあるが、米中対立もまた根深いのだ。<自由と民主主義>はアメリカの金看板だ。この旗を立てたGPOやマスメディアはもちろんアメリカの政治的、経済的支配下にある場合が多いことは断るまでもない。こうしてみると、今度の騒ぎを単純にチベット人民の抗議とだけみることはできないと思う。参考のために解放後間もなくのチベット人共産党員の文章を紹介する。

*****************************************

解放された農奴は毛主席を永遠に忘れない
チベット族 ルンチェンワムジ

 わが国の西南辺境によるチベットは、解放前には、最も反動で、暗黒で、残酷で、野蛮な封建領主農奴制度の支配下にあった。毒ヘビのような三大領主(チベットの地方政府、寺院、貴族)のあくことのない抑圧と搾取のもとで、農奴はその血と汗を吸いあげられた。たびかさなる労役は農奴の体をむしばんだ。空は高いが農奴を腰を伸ばす権利を持っていなく、土地は広いが、農奴には一寸の土地ももてなかった。口をきく道具としての百万の農奴は、牛馬のようにこき使われ、鞭うたれ、売買され、殺害された。そればかりか、年中飢餓・死線をさまよっていたのだ。私の故郷であるヒマラヤ山脈の北のふもとにある貧しい村を例にとろう。解放前の四、五十年の間に、この村の貧しい住民―― 一八三戸のうち五十五人が村をにげ出し、十八人が三大領主のために殺され、二十八人が馬小屋や道端で餓死した。わたしの一家は先祖代代奴隷だったから、人間らしい生活をおくったためしがなかった。チベットの農奴が強いられていた境遇は、世界でもまれにみるものであった。

 待ちに待った救いの星――毛主席と共産党が、私たちを解放してくださった。毛沢東思想にみちびかれて、わたしたち百万の農奴は立ちあがった。奴隷の首カセをうちくだき、三大領主をうち倒し、封建農奴制度をくちがえして、幸福な社会主義社会への道を踏み出したのである。祖国のチベットはすっかり変わった。かつて、われわれチベット族の政治、経済、文化は長い年月にわたり、停滞と衰退の状態にあった。農業も畜産業も衰退の一途をたどり、衣食の需給さえ不可能であった。工場は皆無にひとしく、資源にめぐまれる百二十余万平方キロにのぼるチベット高原では、ネジ釘もマッチもつくることができなかった。しかし、いまはちがう。農業、畜産業を営む人民公社がチベット高原にあまねくでき、農業は年々豊作をおさめている。かつて作物はつくれないといわれていた海抜四、五千メートルをこえているのである。工業も発展し、人跡まれな雪山のところに近代的な工場がつぎつぎに新設され、しかも、タカも巣をつくらない谷間に、公路や橋が新設されている。渓流をはさむへんぴな谷間にも水力発電所が建設された……。

以下全文↓
http://maoist.web.fc2.com/tib/jc770901.htm
*****************************************

田中宇さんは「北京五輪チベット騒動の深層」(田中宇の国際ニュース解説 2008年4月17日)に次のように記し、この騒擾に国際情報機関が関与しているとかなりくわしく論じている。事態を正確に認識せずに、ただむやみに中国攻撃の言動をくりかえす言説が氾濫している際だから参考になると思う。

北京五輪チベット騒動の深層
 【2008年4月17日】 暴動というものは、何かきっかけがないと起きない。オリンピック前の重要な時期にチベット人を怒らせたくない中国政府は、チベット人をできるだけ懐柔し、暴動が起きないようにしていたはずだ。中国政府でもダライラマでもない何者かが、暴動を誘発したと考えられる。ダライラマ以外の亡命チベット組織の人々には、大した力はない。とすれば、最大の容疑者は、歴史的に亡命チベット組織を支援誘導してきた米英の諜報機関ということになる。
http://tanakanews.com/080417tibet.htm

*****************************************

4月29日は昭和の日、5月3日は憲法記念日だった。チベット問題を昭和の戦争、戦後の民主化と天皇制の問題などと関連させて考察するつもりだったが、問題が大きすぎるのであらためて書きたいと思う。

4月のおわりから5月のはじめにかけて東北地方を旅行してきました。胃潰瘍に苦しみ、酒もコーヒーも嫌いになり、タバコもやめた。頭の調子もわるくて文章も書けない。すこし気分を転換するつもりで出かけたが、すでに82才だから、もう完全に隠居した方がいいのかもしれない。思いもかけぬ事態が次々におこって、黙っていられないのは業深いことだ。

苛酷な労働と貧困が蔓延し、昭和の初年を思わせる事態が次々におこる。小林多喜二の世界が決して現代と無関係でないことがあきらかになり、若い人たちの間にも『蟹工船』に描かれた世界はいまの現実そのままだというような声が広がっている。また、憲法9条の改正に反対する人々が、改正支持派より多数になるという調査結果が出るなど、新しい情勢が発展している。年金問題や老人医療の問題など、戦後憲法がめざした社会福祉が憲法改正をめざす右翼勢力の手によって次々に破壊されている現在、あらためて、戦争と平和の問題を、国民の生活の問題として発展させるときがきた。バターか大砲かという言葉がいまさらのように実感をもって迫ってきた。

五月の好時節を迎え若い皆さんはエネルギーが満ちあふれていることだろう。私もまたいましばらく元気を出して発言をつづけるつもりだ。よろしくお願いします。

        伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/

| | Comments (1) | TrackBack (0)

04/17/2008

第275号 チベット問題に関連して。

>>日々通信 いまを生きる 第275号 2008年4月17日<<

久しくご無沙汰しました。
チベット問題に関連して。

発行者 伊豆利彦
ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu


 アメリカがイラクに侵寇して5年になる。ブッシュ大統領の就任後間もなく9・11同時多発爆破事件がおこった。ブッシュはオサマビンラディンをかくまっているとして、アフガニスタンに大量のミサイルを撃ちこんで多数の市民を殺戮し、これを「無限の正義作戦 「不朽の自由作戦」と名づけた。アフガンで「正義」と「自由」のために多数の人々を殺しただけでなく、アメリカ国民に対しても「愛国者法」を制定してその自由をうばった。

 ブッシュは翌年2002年1月29日の一般教書演説で、反テロ対策の対象として北朝鮮、イラン、イラクの3ヶ国を名指「悪の枢軸(axis of evil)」と総称して批判し、2003年3月には独仏をはじめ多くの国々の反対を押し切ってイラク戦争に突入した。

 アメリカは14万の大軍を派遣し、最新の近代兵器を投入したが安定をもたらすことができず、さらに3万を増派してバグダッドの治安の維持に成功したと伝えられ、撤退が論議されたが、実際にはその安定は<もろい>もので、到底、撤退は不可能だということだ。この戦争でアメリカの青年の死者が4000人に達し、負傷者や神経に障害を来したもの、自殺者などを加えればその数は莫大になる。また、莫大な軍事予算はアメリカ経済を根柢から蝕み、ホームレスが増加し、戦争から帰還した復員者にホームレスになるものが多いともいう。イラク侵攻から5年、アフガン攻撃から数えれば8年、はじめは<自由>だの<人権>だのというかけ声に熱狂したアメリカ国民もその実態を知り、経済的破綻もあって、深い疲労感にとらわれはじめた。

 日本の戦争も長い戦争だった。1931年の満州事変から数えれば15年、蘆溝橋事件から数えれば8年。満州事変から6年で蘆溝橋事件、それから5年目に対米英戦争に突入した。アメリカも戦争の行き詰まりの打開を対イラン戦争、全中東に拡大する大戦争に求める動きもあるという。もとよりそれは破滅の道だが、かつて日本の軍閥は、ジリ貧かドカ貧かという博打打ちのようなことを唱えて破滅の道をえらんだ。12月8日、開戦の詔勅には国民は国を挙げて歓迎したのだ。この戦争に反対する人々はすでに獄中にあり、非転向のまま刑期を終えて出獄していた人々は予防拘禁法(→http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-114.html)で拘留された。

 アメリカでは、開戦にわきたった国民の間にいまはイラク撤退の要求が強まり、次期大統領選では民主党候補の勝利がほとんど確定的と伝えられる。それも予備選ではこの問題で旗幟鮮明なオバマ候補の優勢が伝えられる。選挙戦も大勢が決してクリントン候補の撤退を求める声が民主党内にも強まっているのに、クリントン候補が拒んでいるため、両候補の非難合戦がつづき、緊張を欠いた停滞感がつよまっている。チベットの暴動はこのような状況でおこり、中国に対する非難と攻撃にマスメディアはわきたった。

 私のホームページの掲示板にも自由と民主主義、チベットに自由をと叫ぶ投稿が氾濫した。過去の日本の戦争を肯定し、中国や朝鮮を攻撃することに熱中する連中までが、奇貨おくべしともっとも熱心に正義の声をあげている。この事件の根源に中国の支配に抗議するチベット人の運動があることはたしかだが、その後の発展、聖火リレーを妨害する行動の激化は問題が単にチベット人民の抗議であるだけでないと疑わせるものだった。中国政府の報道は当然中国を正当化するものだったし、反中国の情報は中国の横暴を攻撃するもので誇張されていて全面的に信用することができない。これらの対立する情報のいずれかを全面的に信じて、他をすべて虚偽と否定することはできず、さまざまな報道を参照し、自ら判断して可能な限り真実を読み取る必要があると思うが、そのような努力がなされずに、中国の横暴を攻撃する言葉ばかりが氾濫し、「チベットに自由を」という叫びは中国バッシングのカンパニアとして展開されているのではないかと疑わせるものだった。

 チベット問題について日頃漠然としか考えてこなかった私はこの問題について容易に発言できなかったが、反中国派は時の流れに乗って、日頃、自由と人権を重視し、日本の侵略戦争に反対する発言をしているのに、いま、中国の暴虐に対して沈黙しているのはなぜかと攻撃してきた。これに対して答える必要があり、とりあえず次のように書いた。


私はチベット問題についてはほとんどなにも知らない。いま、<チベットに自由を>と叫んで<騒ぎ>を拡大している人々の多くも、同様だろうと思う。アメリカは<自由>とか<人権>を旗印にしてアフガンからイラクへと戦火を拡大し、現地住民の反撃により進退きわまった感がある。<人権外交>はアメリカの戦略なのだろう。いま、アメリカは中国との経済交流を深め、アメリカ経済は中国なしには成り立たぬ状態だ。しかしアメリカには潜在的な対立者として、にわかに台頭しアメリカの位置を脅かす中国に反感や敵意を強めている勢力が根強く存在する。それは日本でも他のヨーロッパ諸国でも同様だろう。暴力革命で独立を実現し、急激な発展をとげた多民族国家中国は、民族問題だけでなく貧富の格差をはじめ多くの矛盾をかかえ、政治的腐敗や権力主義的支配なども目立っている。しかし、中国はそれを克服するために懸命の努力をしている。私は中国がこれらの矛盾を克服して世界の繁栄と平和に寄与することをのぞむものだ。この観点から、私は北京オリンピックの成功を強くのぞむのだ。しかし、中国の発展とオリンピック成功を望まぬ勢力がある。それが中国のアキレス腱ともいうべき民族問題に火をつけたのだと思う。中国とチベットの間には多くの矛盾があるだろう。しかし、いま、チベットの住民は必ずしも中国と敵対関係になることを望んではいないだろう。ダライラマ自身がいまの<騒ぎ>を歓迎しないと言明している。それが本音かどうかはわからないが、いまの混乱を収拾して、中国との対話によって平和的に問題を解決することを望んでいると述べている。中国もまたダライラマに対する不信はぬぐえないにしても、そのほかに解決の道はないと思う。そのためにはダライラマの立場と同時に、無視されがちな中国政府の立場も理解されなければならないと思う。その観点から、私はできるだけ中国政府側の見解をつたえる努力をするつもりだ。 ( 4月10日(木) 14時42分 )

----------------------------------------------------------

参考のために私が掲示板に掲載した記事を紹介する。

東京新聞 2008年3月19日 07時10分
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008031902096556.html

 【アバ・チベット族チャン族自治州(中国四川省)=平岩勇司】中国のチベット政策をめぐる暴動で、多数の死傷者が出たというアバ県がある自治州に十八日、入った。抗議行動はアバ県の近隣にも拡大。人民解放軍の部隊が次々と投入され、民衆を威圧するように一帯に展開している。

 「ちょっと、車に入ってくれ」。ここは、成都から約二百キロ北西にある自治州南部の理県。アバ県から帰ってきたという運転手は、状況を尋ねる記者を車内に招き入れ、「アバは戦場だった」と小声で語る。

 「民衆は役所に投石して商店や車に火を付け、中国国旗を引き裂いた。警察の発砲でリーダーの僧侶数人が射殺され、警察官も何人か死んだ」 
 アバ県では十六日、チベット仏教僧侶や民衆数千人が「チベット独立」「ダライ・ラマ十四世帰還」などと叫び、県庁舎を包囲。治安当局は催涙弾を放ったが、民衆らを解散させられず、発砲に踏み切ったようだ。自治州北部ではアバ県以外に紅原県、マールカン県など五カ所以上へ抗議行動が広がっている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008031902096556.html

----------------------------------------------------------
チベット問題についての記事は事実をつたえるより記録者のイデオロギーを示す場合が多い。そのなかでこの記事は具体的でかなり客観的なように思われる。
----------------------------------------------------------
西蔵の歴史はこう主張する(1)苛酷な封建農奴制

「人民網日本語版」2008年4月1日

西蔵(チベット)の拉薩(ラサ)で発生した極少数の不法分子による暴行・破壊・略奪・放火に対して、偏見を持った海外のメディアと人々は、西蔵の人権状況を、事実を顧みずに非難している。だが西蔵の歴史を振り返れば、ダライが統治していた封建農奴制時代の西蔵で、政治がいかに腐敗し、いかに遅れた生活が送られていたかがわかる。

封建農奴制時代の西蔵では、人口の5%に満たない官僚・貴族・上層寺院が、ほぼ全ての土地・草原・山林と大部分の家畜を所有し、人口の95%以上を占める農奴や奴隷に対して非常に残酷な統治を行っていた。重い労役と厳しい税金のほか、目をつぶしたり手や足を切り落としたりする残酷な刑罰もあった。封建農奴制時代の西蔵において「人権」とはすなわち官僚・貴族・上層の僧侶の人権であり、農奴の持ち主は農奴の賃貸・譲渡・担保化・贈呈をする圧倒的な権力を握っていた。これら血まみれの歴史は、旧時の西蔵における封建農奴制社会の罪悪の本質と劣悪な人権状況を告発し、封建農奴制のもとで多数の農奴が人権を完全に剥奪され世界の最下層として生活していたことを証明している。(編集MA)
http://j.peopledaily.com.cn:80/2008/04/01/jp20080401_86157.html
----------------------------------------------------------
チベット問題はチベットと中国の歴史の中で、また世界の国々との関係の中で広い視野に立ってとらえる必要があると思う。
----------------------------------------------------------
869.“長野の聖火リレー 成功を”

名前:伊豆利彦 転載 日付:4月10日(木) 9時19分
NHKニュース 4月8日 17時24分

JOC=日本オリンピック委員会の竹田会長は、聖火リレーが激しい妨害にあっていることに懸念を示すとともに、長野での聖火リレーが成功することに期待を表明しました。

これは、各国のオリンピック委員会の集まりである「オリンピック委員会連合」の総会に出席しているJOCの竹田会長が、北京でNHKのインタビューに答えたものです。この中で、竹田会長は「選手たちはオリンピックで頑張るためにトレーニングを続けています。妨害行為がオリンピック開催に影響を与えなければと思います」と述べ、激しい妨害行為が続くことに懸念を示しました。また、今月26日に予定されている長野市での聖火リレーについて、竹田会長は「長野の市民は98年の冬のオリンピックの感動を北京へつなげたいという思いがあるはずです。こうした市民の感情が壊されないよう聖火リレーが成功することを望みます」と述べ、長野での聖火リレーが成功することに期待を表明しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/k10013430351000.html
----------------------------------------------------------
 世界の一般市民は伝えられる中国の弾圧に抗議する気はあっても、オリンピックが成功することを望んでいるのではないか。

チベット問題は民族問題と人権問題という難しい問題をかかえているが、中国政府も、ダライラマも、対話による平和的解決を望んでいる。結局、これを契機に、新しい両者の関係が切り開かれることを望むまずにはいられない。
----------------------------------------------------------
去年の秋、講演のため韓国を訪ねた前後から体調をこわし、この通信の発行もずいぶん遅れてしまった。
韓国講演のテーマが「帝国主義と文学」という大きな問題だったこともあるだろう。ストレスで胃潰瘍になり、そのためにいろいろの変化があらわれたのであるらしい。
ここしばらく、できるだけ楽をしてすごし、いくらか、健康を回復したように思う。
いろいろやっておきたいことがあるが、できるだけ休養をとりながら、ゆっくりと生涯のおわりの日々をすごしたい。

では、皆さん、お元気でお過ごしください。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

02/24/2008

第274号 新しい風

>日々通信 いまを生きる 第274号 2008年2月24日<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

新しい風

アメリカの大統領選挙は予想通り民主党が圧倒的に優勢のようだが、民主党の予備選では、戦前、圧倒的優勢を伝えられたクリントンに対して、無名に近かったオバマが驚くばかりの勢いで支持を拡大し、いまや、勝利を確信させるほどになった。

 クリントンはオバマは演説だけだが自分には経験と政策があると自信にみちた調子で叫んでいるが、劣勢を自覚するからか、この頃は何となく焦燥感が目立つようだ。

 オバマをささえるのは若い層の支持で、まだ十八、九の若い女子学生が彼のために家々を戸別訪問して熱心に勧誘している姿に感動した。路上で彼のポスターを見せられ、今度は自分が道行く人に手渡す大学生、changeと呼びかけるオバマは、この世界を帰るのは皆さんだと呼びかける。彼の支持者は運動者に変わり、日増しにふえていく。ここには新しい時代をつくる若い力の勢いがある。

 クリントンは選挙がながびき激化するとともに選挙資金が欠乏し自己資金を五百万ドル提供したという。これに対してオバマの選挙資金は運動の中でふえていく。この事実がオバマの勝利を確信させる。そしてアメリカは若い力が再生させるという思いを抱かせる。

 日本はどうだ。日本の大学生は政治への出口をうばわれ、生きる目標を見うしなって、ただただ就職活動とバイトや空虚な遊びに明け暮れているというのが一般的なようだ。最近の調査で、ほとんどまったく本を読まず、一日に一時間も勉強しない大学生が大部分だということが報告されていた。

 受験勉強以外に勉強があること、本を読む喜びを教えられなかった小中高の教育がなんともみじめな大学生を生んだ。私たちの学生時代は戦争末期から戦争直後の数年だった。間違いも多かったろう。しかし、自分たちが時代をにない未来を開くのだという自負は強かった。未来は青年のものだという言葉は私たちのものだった。そういう時代は1970年代前半くらいまでだったのではないか。

 アメリカの選挙を見て思うことは、アメリカは選挙運動が日本にくらべてはるかに自由だということだ。今の日本の選挙は禁止事項があまりにおおい。民主主義の基本は選挙だと思うが、いまの選挙はがんじがらめで一般の選挙民は何もするなといわれているようだ。戦後間もなくの選挙は自由だった。私たち学生も自分の支持する候補者名を連呼してまわった。小さな子供まで候補者の名前を聞き覚えて一番元気のいい候補者名を連呼したりした。いまはなぜ困難に禁止だらけなのだろう。選挙が不自由になると比例して民主主義が後退しているのではないか。

 1960年安保の時は子供たちまで安保ごっこをして「安保反対」「安保反対」「岸を倒せ」「岸を倒せ」と叫んでいた。当時はいまにくらべてはるかに若者に活力があったのではないか。中高生の政治活動だけではなく。政治・社会についてのクラブ活動や学校間の交流が抑圧されるとともに青少年たちの、社会に対する関心や活力がうしなわれた。大学の多くは自治会活動さえ崩壊した。大学祭はたこ焼きやなんぞお祭りの露店のようなものが多くなり、まともに社会問題を取り上げるものは少なくなった。こうして大学生の幼稚化が急速に進んだ。米ソ対立が激化し、日本が対米従属をますます強めて、めざましい経済的発展をとげた時代である。

 高度経済成長からバブルへ、そしてバブルが崩壊し、若者たちの就職氷河期といわれる時期がやってきた。企業はリストラとよんで正規社員の大量馘首を強行し、非正規社員やパートタイマーに切り換えて、低賃金で収益をあげ、長期の好況がつづいているというが、国民一人一人の経済は悪化しつづけている。年金も健保も崩壊し、ネット難民やホームレスの増加も目立ち、日本の若者は未来の希望をうしなっている。

 石川啄木は「時代閉塞の現状」(1912年)に次のように書いた。

 我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁(こうきん)する場所がな
いために半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 仕事をうばわれ、住むところもうしなって、追いつめられた若者たちの間に、平和より戦争の方がましだという声さえあらわれていると、自ら職のない不安定な日々をすごし、右翼になったりもした雨宮処凛は伝えている。どん底を経験した雨宮は小林多喜二の「蟹工船」をいまの若者の現実そのままだと語り、当時といまの違いは当時は若者たちがさまざまにむすびつき、たたかいに参加して時代を動かす力になったが、いまは一人一人が孤立してみじめな暮らしを強いられていることだと指摘して、新しい結集を求めて活発に発言し、活動している。
 http://www.magazine9.jp/karin/080116/080116.php

 このような動きは次第に強まり、マンガ「蟹工船」が若者たちの間にひろがり、小樽商大(多喜二の母校)と白樺文学館小林多喜二ライブラリーが募集した若い人たちの「蟹工船」についての評論には多くの応募者が集まった。応募者はみな自分たちの生活、現代の生活と「蟹工船」の労働が類似していることを語り、新しい結集についてのきたいを語っていた。雑誌『すばる』や『毎日新聞』などではこのような動向を新しい時代の動向として伝え、最近では多喜二の死を記念して『朝日新聞』が「『蟹工船』重なる現代 小林多喜二、没後75年」と題する特集を組んでいた。
  アサヒコム2008年02月14日ひと・流行・話題
  http://book.asahi.com:80/clip/TKY200802140098.html

 ブッシュの自滅的戦争も終末に近づき、世界の歴史は変化しはじめた。サプライム金融の破綻もあり、変化を求める動きは世界に広がっている。世界経済はアメリカと密接に結びついているが、EUユーも中国・インドも、アメリカとの関係を維持しながらもアメリカ離れの道を探っている。日本はあいまいな態度だが、結局はいままでのような対米従属ををいつまでもつづけることはできないだろう。日本も変わらなければならないのだろうが、狭い世界に閉じ込められてきた日本の若者たちははたしてはっきりした展望を切り開くことができるだろうか。

 2月はたちまち過ぎて行こうとしている。春一番が吹き、梅の花もいっせいに咲き始めた。歴史は急激に動こうとしている。学校は学年末で多忙なことだろう。杉花粉の季節だ。皆さん身体を大事にしてお過ごしください。私は風邪をひいたり、胃をこわしたり、酒もタバコもやめてしまって、通信の発信もすっかりおくれて心配をかけた。春になれば元気になると思う。ご安心ください。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

02/05/2008

第273号 韓国で小林多喜二を読む

 >「日々通信」いまを生きる 第273号 2008年2月5日<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

「帝国主義と文学」 韓国で小林多喜二を読む

 全州大学で開かれた韓国日本語文学研究会の講演の原稿化がようやくできてほっとしたところだ。「帝国主義と文学」というテーマが重かった上に、体調もわるく、いろいろ事故もあって難行苦行した。おかげでこの通信も発行がすっかり遅れてしまった。

 前号に記したように、小林多喜二は北海道の植民地的搾取を追及したが、日本人労仂者に対する苛酷な虐使は朝鮮人に対するさらに苛酷な虐使の基盤であり、朝鮮人や中国人に対する強制連行による虐使の基盤である。

 一方、日本人労仂者には低賃金で働く朝鮮人に対する反感がつよかった。この問題は朝鮮人労働者の労働条件を日本人労仂者と同じにすることによってのみ解決されるのだが、資本家階級は敵対的な民族感情をあおって労働者階級を分裂させ、朝鮮人労働者の低賃金を維持し、これによって日本人労仂者の労仂条件を悪化させた。
 「東倶知安行」「蟹工船」「転形期の人々」は日本帝国主義の植民地的搾取の実態をあばき、北海道の底辺を流浪する朝鮮人の問題を描き、民族的差別と対立を超えた共同のたたかいによってのみ、日本人労仂者も解放されることを示した。

多喜二が死んだとき、魯迅は次のような言葉を寄せた。

 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界 (さかい)を描いた、又描きつつある。
 しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗っている。
 同志小林の死は其の実証の一つだ。/我々は知っている、我々は忘れない。
 我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。

 朝鮮問題に則して魯迅の言葉をを読むならば、次のようになると思う。日本と朝鮮の人民はもとより兄弟だ。資本家階級はだまして互いに反目させ、対立・抗争させる。しかし、小林多喜二ら無産階級とその先駆達は、血を流してこの対立を乗りこえともにたたかう道を切り開いたのだ。多喜二はそのたたかいの途上に倒れた。我々はこの同志小林多喜二の道を受け継いで日朝両国人民の握手を実現するのだ。

 これは1933年、朝鮮は日本の植民地であり、中国では日本の軍部が満州事変をはじめ、長い戦争に突入した時代の言葉である。その後12年間戦争1945年8月に日本帝国主義がついに倒れ、アジアの諸民族が独立を実現し、日本人民も帝国主義的抑圧から解放された。戦後60年、独立したアジア諸国は新しい共同によってさらに大きな飛躍を実現しているが、米国に追随する日本では過去の侵略の歴史を美化し、新しい諸国間の共同と発展に反対する勢力が支配しつづけている。いま、多喜二の道を受け継ぐということは、この勢力とたたかい、新しい共同と繁栄の道を切り開くことだと思う。

 昨日は立春、いよいよ旧正月を迎える。一昨日は久しぶりの大雪だったが、昨日はおだやかに晴れて、春を思わせる白雲が浮んでいた。寒がきわまって春がくる。ながくつづいた戦争も必ず終わる。旧正月といえば、ヴェトナム戦争のテト攻勢を思い出す。中国をはじめアジアの国々が旧正月を祝う。日本でも私の子供の頃までは旧正月にはお餅をついて祝った。古い習慣を未練なく捨てて、日本人の生活は根無し草になっているのかもしれない。そして一度捨てたものは取り返すことが難しい。この頃、日本人の根無し草性を思うことが多い。

漱石は英国留学中、次のように書いた。

人は日本を目して未練なき国民といふ。数百年来の風俗習慣を朝食前に打破して毫も遺憾と思はざるはなるほど未練なき国民なるべし。去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味において未 練なきかは疑問に属す。西洋人の日本を賞讃するは半ば己れに模傚し、己れに師事するが為なり。其支那人を軽蔑するは己れを尊敬せざるが為なり。 (句読点は引用者による)

漱石における「過去」の問題は、日本の近代の根本にある問題のように思われる。韓国漱石研究会(2004年11月27日)の講演ではこの問題についていくらか考えた。あらためて考えてみたい。

参照 夏目漱石の前期三部作と過去夏目漱石の前期三部作と過去http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/kankoku%20kouen%20sanbusaku.htm

2月は1年で一番寒い月だろう。それを春と呼ぶところに東アジア文化があるように思われる。この2月を皆さん元気におすごしください。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

01/09/2008

第272号 「変革」を求めて

>「日々通信」いまを生きる 第272号 2008年1月9日<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

「変革」を求めて

 民主党の大統領候補をきめるアイオワの予備選挙でオバマ候補がヒラリー候補を破って次期大統領に向って大きく前進した。オバマ候補は代議員数比率で38%、2位のエドワーズ(30%)、3位のヒラリー(29%)に大きく差をつけた。オバマの勝因は30才以下の若年層から57%という圧倒的な支持を得たことで、この世代のヒラリーは一桁という惨敗だったという。
(冷泉彰彦『from 911/USAレポート』第336回「アメリカの底力」)
   
「変革」を訴えたオバマが「経験」を売り物にしたヒラリーに若い世代の支持を得て、大幅に引き離して勝ったのだ。オバマは勝利演説で、アイオワ州民が「変革」を選んだと強調した。しんぶん赤旗は「全国調査で国民が争点としてあげるのは、経済、イラク戦争、健康保険問題です。ブッシュ政権への支持率の低さとともに、現在の米国の進路に対する不支持は七割に上っています。同氏の勝利で「ブッシュ政治からの転換」が流れになっていることが裏付けられました。」と伝えている。

 8日のニューハンプシャー州予備選は、前日の世論調査ではオバマ41%、ヒラリー28%とオバマが優勢だったが、ヒラリーの涙がきいたのか、いよいよ開票になると、ヒラリーが巻き返し、僅差で勝利した。しかし、次の予備選サウスカロライナでは黒人の多数が投票してオバマが勝つだろうと予想されている。

 ヒラリーでは代わりばえがしない。若い世代が大量に投票して、「変革」を標榜する黒人候補が初の大統領に当選すれば画期的な出来事で、アメリカの民主主義が活力をうしなっていないことを示すことになると思う。アメリカは多難だがなお希望がある。アメリカの動向は日本にどんな影響をあたえるだろうか。

 日本の若者は非正規社員が半数以上という状態で、劣悪な労働条件に苦しんでいて、雨宮処凛のようなワーキングプーアの結集につとめる異色の若者もあらわれ、一部にプロレタリア文学に対する関心も見られるが、自らの力で未来を切り開く動きはまだまだ微弱なようだ。

 参議院選挙で自民党が大敗したとき、新しい展望が開けるという思いがしたが、安倍前首相が支持率の低落にもかかわらず首相の座に居すわりつづけ、民主党は解散総選挙においつめることができなかった。さらにわけのわからぬ事情で安倍が総理を投げ出しても自民は政権にしがみつき、挙げ句の果てには大連立によって政権を維持しようとし、小沢がこれに賛成するという有様だった。さらに小沢は党の執行部に反対されると党首を辞任しようとしたが、幹部に慰留されると。連立案をひっこめ、そのまま党首の座にもどった。こんな民主党では到底自民党とたたかうことはできないのではないか。なんとも情けないはなしだ。

 こんなごたごたのために国会は再延長して年を越し、何をしているのかわからないがただいたずらに国費を浪費している。アメリカにとって石油の補給活動がどれほど大事なのかわからないが、ただ、アメリカの御機嫌をうしないたくないばかりに、こんな無駄なことをしているのだ。そして小沢民主党は、アメリカの御機嫌とりにアメリカに協力して世界のどこへでも出撃できるという新法案を国会に提出するのだそうだ。なんともあきれたはなしだが、これもアメリカに見捨てられたら日本は立ち行かぬという妄想に駆り立てられているからなのではないか。アメリカの御機嫌を損じたら朝鮮の脅威に対抗できないというのだが、なんという荒唐無稽な妄想であることか。国民が飢えに苦しむ朝鮮がそんなに恐ろしいようでは、日本は永遠にアメリカの属国でいなければならないことになる。日本の青年に活気がないのもこのようなみじめな日本の状態の結果なのだろう。

 安倍前首相の「美しい国」とか「愛国心」とかが空虚なのは日米関係についての明確な立場が示されないからだ。日本の右翼は独立をいうが武力の強化ばかりを主張する彼らは、結局、日米戦争を想定し、核戦争の準備をしようというのだろうか。日本は平和国家であることに自信を持ち、アメリカの戦争政策と毅然としてたたかいつづけるところに独立の道を探るべきだと思うがどうだろうか。

 去年は「戦争と文学 いま小林多喜二を読む」の韓国語訳が出て、韓国で多喜二について講演する機会をあたえられ、今年の新年は湯が島で多喜二について語り合いながら迎えた。今年は多喜二の没後75周年ということで、民主文学会の<多喜二の文学を語る集い>が3月15日にみらい座いけぶくろ(豊島公会堂)で開かれる。横浜でも記念集会が開かれる。その他秋田でも七沢でも開かれる。それもいまという時代と結びつけて、強い現代的関心のもとに語られる。すでに過去の人として伝説的に語られることの多かった多喜二が、これほどいまに生きる作家として現代的関心をもって読まれることになろうとは思わなかった。

 私は韓国で講演して韓国人の問題を多喜二がどう書いたかを考えて新しい認識が開けた。湯が島の文学学校では普通の銀行員だった青年が運動にはいっていくことに参加者の関心が集まった。多喜二を特別な人間としてでなく私たちと同じ普通の人間だったと考える時、多喜二の文学に対する新しい眼が開けると思う。

 漱石は100年の後に生きるということを言ったが、多喜二もまた100年の後に生きる作家だった。当時、流行した多くの作家や評論家などが忘れられた、あるいは過去の存在になった現在、彼らがなおいまに生きているのはなぜだろうか。

 今年は1月になっても暖かい日がつづく。温暖化現象の現れだろうか。しかし、これから本格的な寒さがくるということだ。皆さんもお体に気をつけて、おすごしください。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

12/28/2007

第271号 謹 賀 新 年

>「日々通信」いまを生きる 第271号 2008年1月1日<

謹 賀 新 年

 激動の時代です。この一年が新しい希望に道をひらく年でありますように。
皆さまにとっても健康と希望の一年でありますように。
私も今年八十二歳になりますが、夫婦ともどもなんとか元気にすごしています。
     二〇〇八年 元旦

 今年の新年は湯が島の山の文学学校で、小林多喜二について語り合いながら迎える。

 多喜二は遠い昔の伝説的作家だと思われたのは過去のことになった。いまは年収二百万円以下の非正規社員が勤労者の多数を占め、低賃金の苛酷な労働が一般的になった。リストラで企業は景気を回復したというのに、リストラされた社員は悲惨な生活を強いられている。日本はどこへ行くか。時代の動きは急激だ。多喜二の文学はいまの作品以上に鋭く日本の現実を照らしている。

「すばる」七月号の特集「プロレタリア文学(プロ文)の逆襲」は話題を呼び、毎日新聞10月13日号のコラム「憂楽帳」はこの特集について触れ、私の著書の韓国での翻訳と講演について紹介して、「大正末期から昭和初期にかけ隆盛をきわめたプロレタリア文学は、貧困、差別、階級社会などを素材にする作品が多かった。文学は時代を映す鏡。「若年ホームレス」「格差社会」などの言葉があふれる中で、「現代版プロレタリア文学」誕生の兆しがほの見えるようだ。」と記していた。

 長らく停滞し狭い世界に閉じ込められていた文学はいま新しい世界にひろがっていくのだろうか。

  何となく、
  今年はよい事あるごとし。
  元日の朝、晴れて風無し。

 一九一〇年、「時代閉塞の現状」に「我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。」と書いた石川啄木は、一九一二年一月二日の日記に前年十二月三十一日にはじまった市電のストライキについて書き、「明治四十五年がストライキの中に来たという事は私の興味を惹かないわけに行かなかった。何だがそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起って来る前兆のようで、私の頭は久し振りに一しきり急がしかった。」と書いた。

 一九二七年五月の『小樽新聞』に多喜二は次のように書いた。

「咋日迄歴史が進展して来た事を認めながら、もう今日で歴史が永久に停ってしまったように信じる」連中がある。
 この社会制度はどう動かすにも動かしようのないものだ、利己心は人間固有のものだ、正義人道は絶対の真理だ、何がどうなっても変るまい……という風に!
 芸術の分野にだけに問題を限っても、芸術は生活の余裕から生れるものだ、本来回顧的なものだ、美意識は今のままどう変るものか、絶対不変のものだ……という風に! 面白いものだ。
(十三の南京玉)

 この多喜二が一九二八年一月一日に次のように書いた。

「さて新しい年が来た。俺達の時代が来た。我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ」

皆さんはこの激動する新年をどんな思いで迎えられたろうか。
皆さん、それぞれの形でこの新しい年をおすごし下さい。

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

| | Comments (0) | TrackBack (0)

12/21/2007

第270号 12月に思う

>「日々通信」いまを生きる 第270号 2007年12月21日<
12月に思う

 12月8日は日本が対米英戦争に突入した日、12月13日は南京陥落の日だ。1937年7月7日に蘆溝橋の1発の銃声をきっかけに、大軍が派遣されて中国全土におよぶ大戦争に発展した。

 中国を侮った日本の政府と軍部は一撃で屈伏すると思っていたが、抗日統一戦線が成立し、頑強な抵抗戦争が展開されて、上海に上陸して首都南京をめざす日本軍は苦戦がつづいた。1937年11月、さらに別の大軍が杭州湾に敵前上陸し、悪戦苦闘の末、12月13日にようやく首都南京が陥落した。

 火野葦平はこの年9月に召集され、杭州湾敵前上陸に参加し、南京攻略軍の一員として苦しいたたかいの日々を送った。この経験を書き綴ったのが「土と兵隊」である。出征前に発表した「糞尿譚」が芥川賞を受賞し、南京攻略のあと駐屯した杭州で受賞式がおこなわれた。その後、報道部に転属させられ、徐州のたたかいに参加して「麦と兵隊」を書いた。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh21.htm
 この年12月15日、南京から故郷の父に宛てて書いた手紙には杭州湾上陸以来の苦しいたたかい、中国兵の捕虜殺戮の様子などが率直に記されている。
http://www.geocities.jp/yu77799/hinotegami1.html

 南京陥落に日本国内では旗行列や提灯行列がつづき戦捷気分に溢れたが、国民には知らされなかった南京大虐殺は中国人民の抗日意識を強め、全国的な抵抗運動が展開されることになった。蒋介石は首都を重慶に移し、抗戦をつづけた。日本軍は38年4月から5月にかけて,徐州作戦,8月から10月にかけて武漢攻略作戦,10月には広東攻略作戦と大軍を結集して血みどろの戦いを展開したが、武漢,広東攻略戦が,日本軍の進攻作戦能力の限界であった。1939年以後は,日本軍は既に占領した地域の確保だけに追われて,前進することができず戦争は長期持久戦の段階に入った。

 両軍の正規軍が激突する近代戦では日本軍は連戦連勝だったが、わずかに主要都市と交通路を確保するのがやっとで、その周辺にひろがる広大な農村地帯は共産党の八路軍・新四軍と地域武装抵抗勢力が支配した。毛沢東の「持久戦論」が発表されたのは1938年5月である。

 戦争は軍需インフレを生み、一時的に好景気を迎えたが、やがて戦力の限界、物資の不足によって国民は耐乏生活を強いられることになった。その転換点は1939年頃だったかとおもう。
 昭和10年代の初頭はアメリカ的大衆文化が大量に流入し、消費文化が急速にひろがった時代だった。それが急激に物資の窮乏におそわれたのだ。

 学生の動向を見てもかつては左翼学生が大量に出たが、1933年の滝川事件を頂点に、はげしい弾圧におそわれ、転向が続出した。前途を見うしなった学生たちをとらえたのは倦怠と頽廃だった。学校をさぼって、ぼんやりと喫茶店で時を過ごす学生が増えた。しかしそれもいわゆる不良狩りの名のもとに警察に狩りたてられ、学校を退学になったりした。

 野上弥生子の「迷路」は滝川事件で検挙され、転向した学生菅野省三を主人公としてこの時代の動向を鮮明に描き出している。
「迷路」については 平和新聞<文学にみる戦争と平和>第20回に簡単な紹介を書いたので参照していただけるとありがたい。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/hs20.htm

 野間宏の「暗い絵」は1937年の日中戦争が本格化した時代の最後の学生運動を描き、堀田善衛の「若き日の詩人たち」はその少しあとの学生たちの生活を描いている。野間 宏は1915年生れ、堀田善衛は1918年生れで、描かれた学生生活にはわずか2,3年のちがいがあるだけだが、この間の落差がいかにおおきいかに驚かされる。

「暗い絵」については「『暗い繪 』自己の絶対化と自閉的世界」http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/kuraie1.htm
堀田善衛については「『若き日の詩人たちの肖像』と『記念碑』-ほか」http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta%20wakakihi.htmを参照していただければありがたい。

「細雪」に描かれたのは二・二六事件の1936年から1941年、対米英戦争直前まで約五年間である。美しい姉妹の贅沢な生活が描かれているが、彼女らの実家も時代の波にながされて次第に没落していく。この作品が発表されはじめたのは1944年、対米英戦争も末期になり、国民生活は極度の窮乏に追い込まれていた。この時期にやがて贅沢は敵だと排撃され、日常品も衣類、食糧も配給制度となる直前の、1939年当時の最後の華やかな生活の回想からこの作品が描かれていることは興味がある。

 翌1940年は建国2600年を記念する行事がつづき、大政翼賛会が成立して急速に挙国一致の新体制=戦時体制が確立さ、国民生活は日に日に窮乏し、小学校は国民学校になった。長期化して終結のめどもない対中泥沼戦争に追いつめられて、軍部は中国の背後の米英勢力に対する博打的な戦争に突入する準備を着々とすすめていたのである。こうしてあの12月8日を迎えることになる。

 「大本営陸海軍部発表。十二月八日午前六時。帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

 私とほぼ同年の北杜夫は「楡家の人々」にこのラジオ放送のことばをしっかりと書き留めている。このことばから私たちの戦争ははじまった。その朝、中学3年の私は野外教練で荒川土手にいた。年に一度の査閲のための予行演習で全校生徒が集まっていたのである。ひどい寒さだった。荒川土手は霧がたちこめ吐く息が白かった。朝早く家を出たので私はそのニュースを知らなかった。友人から聞いて、<西太平洋>とはどこだろうとか<戦闘状態に入れり>とはどういうことだろうとか、ひそひそ話し合った。それが何を意味するかは私たちは誰も知らなかった。すべては霧のなかだった。

 戦争終結の天皇のことばは私は陸軍二等兵として甲府の朝鮮の王族李健公の邸宅の庭先に整列して聞いた。その間横たわる歳月は3年8カ月である。この3年8カ月のあいだに私たちはどれほどの経験をし、日本の運命はどれほどの変化をしたのだったろう。突然のラジオ放送ではじまった戦争は突然のラジオ放送でおわった。私たちの意志とはかかわりなしにそれははじまり、それはおわった。戦争とはそういうものだ。いま、インド洋での石油補給活動について議会が大もめにもめているが、戦争がはじまるときは国民に相談などいっさいされはしないのだ。そして一度はじまった戦争は国民の生活を破壊し、何千何万何十万の人の命をうばうのだ。

 柳条湖の鉄道爆破から蘆溝橋事件まで6年、中国全土に戦争が拡大して、はじめは一撃で屈伏すると思っていた中国人民の抵抗に手を焼き、ことの重大さに気づいたときはもはやのっぴきならない窮地にたたされていた。そして<ジリ貧かドカ貧か>などとやけくそなことばをはいて破滅的な大戦争に突入するまでが4年、そしてほとんどすべての都市を焼かれ、広大な全戦線で壊滅的打撃を受け、ついにあの8月のラジオ放送までが3年8カ月である。

 この15年の経過はアフガン、イラクを攻撃し、のっぴきならなくなってイランとの開戦に追い込まれるかも知れないアメリカの運命といかにも似ている。はたしてアメリカはイラクから名誉ある撤退を実現できるか。しかし、撤退してもイランとの戦争に踏み込むことになっても、アメリカは敗北するしかないのであり、大変な戦費を浪費してアメリカ経済は破綻するしかない。それは世界経済の破綻であり、ひたすらアメリカに追随する日本にとっても壊滅的な打撃である。この一年はそうした世界史の動向がはっきり見えてきた一年だったことを、12月も押し詰まってあらためて思うのである。

いよいよ寒さも本格的になり、越年の準備にお忙しいことと思う。私の家では妻の骨折もあり、私もやっと日々を過ごすという状態なので、大掃除もなにもしない。人並みのことをしようと思えば気がせくばかりでなにもできないのを嘆かなくてはならぬ。人生のおわりの時期だから、もう人並みにあわただしくすごすのはやめにして、暮れも正月もない日々を送ろうと思う。

 この年末は冬の文学学校で伊豆の天城温泉で小林多喜二の話をしながら過ごすことになる。この1年は、韓国の金正勲さんが私の著書を翻訳してくれたことがきっかけで、韓国日本語文学研究会で講演し、この翻訳と講演が韓国で話題になり、日本でも紹介されて思わず多忙な日々を送った。そして来年は欲張ってもう1冊多喜二の本を出そうと思っている。元来は漱石関係の論集を出したいと思っていたのだが出版事情がわるくて出してくれる本屋も見つからずのびのびになっているうちに、思わぬことから多喜二の本を先に出すことになった。これでは生きているうちに念願の漱石論集が出せるかどうかわからない。みなさんのご援助をお願いする次第である。

 今号もまた発行が遅れてしまった。これがいまの私だと思っておゆるしねがいたい。みなさんもそれぞれのペースでこの年の暮れをお過ごしください。
 
 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

| | Comments (0) | TrackBack (0)

12/02/2007

第269号 ずいぶん久しぶりの通信になった。

>日々通信 いまを生きる  2007年12月1日<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

 ずいぶん久しぶりの通信になった。
 韓国から帰国して、神奈川平和委員会で話したあと、疲労がとれず、路上で転倒して手首を負傷した。一時は骨折したかとおもったが、捻挫でおわり助かった。その直後に妻の美枝子も転倒して、こちらは右手を骨折してしまった。老夫婦二人で生活する私たちはたちまちその日の暮しに困る身となったが、なんとか不自由な力をあわせてその日その日をやりくりしている。通信を書く余裕もない毎日だった。

 11月10日は私の誕生日だった。今年で81才になる。去年あたりから体力の低下が身に沁みて感じられる。頭もそれだけぼけてきた。文章を書くのに困難を感ずる。韓国へ行く前からそれを強く感じて、平和新聞の連載は当分休載することにした。おかげで今度の事故でも安心して休むことができたの幸いだった。

 私が生まれた1926年11月10日は大正のおわりで、あと50日で昭和になった。この年は昭和元年でもあり、私は<昭和、昭和、昭和の子供よ僕たちは>と歌って育った。日本が中国侵略の方針を決定した東方会議が開かれたのは1927年6月、7月7日に、外相訓示「対支政策要綱」が発表された。芥川龍之介が自殺したのは27年7月24日未明のことである。28年2月20日に第1回普通選挙がおこなわれ、3月15日には治安維持法による全国的な大弾圧が襲った。この苛酷な時代に小林多喜二は「一九二八年三月十五日」を書いてプロレタリア作家としての道を歩きはじめた。戦争に反対し、プロレタリア解放の道を歩こうとすれば、苛酷な弾圧に耐え、命をかけてこれとたたかわなければならなかった。これらについては、2007年5月1日の「日々通信」第253号 <私の昭和史(1)>に書いた。
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2007/05/2531_eebf.html

 生まれた当時のことは知るよしもない。私の記憶がはじまるのはだいたい小学校に入学した1933年ころからだ。満州事変がはじまったのは1931年だが、その記憶はない。日本が私が小学校に入学した、その2月に小林多喜二が殺された。それはまたいまの天皇が生まれた年でもある。爆弾三勇士の話は「廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣」の歌とともに知っていたが、日本の国際連盟脱退も、滝川事件も知らなかった。

 1937年7月7日、蘆溝橋の銃声をきっかけにはじまった戦争が中国全土に拡大し、12月13日には南京が陥落し、南京大虐殺といわれる悲惨な事件がおこった。これについては、2007年7月9日の通信第261号 私の昭和史6 蘆溝橋事件でふれた。私が熱心に新聞を読み、社会問題に関心をもちはじめたのはこの頃からだ。

 1936年7月にわが家は父の転勤にともなって上京した。これは私の生涯の転機だったと思う。地方都市の小学校から、東京の小学校に転校して、私には驚くことばかりだった。東京の小学生は流行歌や浪花節を口ずさみ、二・二六事件や阿部貞を話題にした。相撲は九州でも盛んだったが、土俵の上で、裸になって褌をつけてする本格的なものだった。東京では大相撲のまねごとで、アスファルトの運動場に円をえがいて土俵に見立て、それぞれ贔屓の力士の名をつけて勝敗表をつくった。呼び出しの真似をするものもあった。

 当時は小学校6年で中学入試があり、それが生涯の進路を決定するというので受験勉強が盛んだった。学力偏重を否定する論調が強まり、受験科目は私たちから国語と算術の2科目に限定され、体力テストや内申書、口頭試問が重視されることになった。そして私は国立、府立のはどこも落ちて私立の開成中学に入学した。

 私は<私の昭和史>でこれらについて書きたいと思っていた。急速に変わっていく世相について書きたいと思っていた。しかし朝鮮をめぐる情勢が急テンポに進行し、安倍首相が辞任して福田内閣が成立するなど、書いておきたいことが山積し、夫婦ともども負傷するなどごたごたしてついつい中途半端なままに中断してしまった。

 さいわい、私の負傷は捻挫におわり、妻の骨折も、少しずつ快方に向ってやがてギブスがとれる見通しがついた。事情が好転したら<私の昭和史>の続稿を書きたいと思う。

 私が書いておかなければと思うのは戦時下の市民生活を暗黒一色だったように語り伝える傾向に対して、昭和10年代のはじめまで、日本の市民生活はアメリカナイズの傾向が強く、大衆市民文化の発展が著しかったことだ。「贅沢は敵だ」というスローガンが強調されるが、、それはかえって戦時下にも贅沢をするものがあり、パーマネントが大流行していたということなのだ。むしろ、全般的にいえば、いわゆる戦時インフレで労仂者の生活は急速に豊かになり、それが戦争に向けて市民を動員していったという面もあるということだ。

 東京の学校に転校して驚いたのは、東京の子供たちが贅沢だったことだ。紺サージの学生服を着て、革靴をはいて通学していた。運動会には跣足袋をはいて参加した。九州では木綿の学生服に運動靴が普通だった。わが家は新宿に近く、新宿に行ってデパートに行ったり、映画を見たりすることがしばしばだったが、新宿のネオンサインは赤く空を染め、映画館は夏は冷房、冬は暖房で観客を誘い込んだ。映画は毎週封切りの2本立てで、アトラクションに東海林太郎や美ち奴というような当時流行の歌手が出演した。

 都市と農村の格差は大きく、世代によっても戦争体験はさまざまに異なる。いま大事なのはあの時代をただ一色に塗りつぶすことでなく、その多様な文化の様相が急速に変化していくことを明らかにすることだろう。欧米文化の強い影響下にあった昭和の日本がいかにして日本主義、軍国主義に変貌していったかを明らかにしたい。

 妻の負傷は少しずつ快方に向っているが、依然として家事その他に不自由で、私も何かと落ち付かない。その上風邪気味ガつづき、酒もタバコも美味くないので、この機会に60年以上吸いつづけたタバコをやめた。そのせいもあって頭が散漫になり文章を書くのがうまくいかなくなった。老齢のせいもあるかとおもうが頭がはっきりせず原稿が書けない。『平和新聞』の連載をしばらく休ませてもらうことにしたので助かった。いまの気力、体力、脳力では到底つづけられそうもない。しばらく休めば再び書きつづけられるだろうかとおもうと不安である。

 福田内閣が成立してアジアを重視する対話政策が主張され、新しい展望が期待されたが、その後の展開は曖昧模糊とした感じで失望した。守屋前防衛省事務次官の収賄問題は防衛省のありかたが全面的に解明される端緒になると思われたが、国会は額賀財務相の喚問問題に矮小化されて旧態依然たる駆け引きの応酬の観があるのは残念だ。

 いよいよ12月になり、寒さも次第に本格的になると思われる。
 今年の年末は12月29日から1月2日まで山の文学学校で過ごすことになる。
 例年は豪雪地帯秋山郷(長野県栄村)で開かれる山の文学学校だが、今年は会場の都合で奥伊豆湯が島温泉郷で開かれる。
 私は小林多喜二を語るというテーマを担当する。
 周辺の文学散歩も豊富に計画されている。
 下記に案内があるので参加希望者は民主文学会に連絡してほしい。(私の若いときの写真も掲載されている。)
 http://www.minsyubungaku.org/moyooshi/yamano/index.htm

 私の生涯も残り少なく、ほとんど何の役にもたたないが、できるだけのことはしたいと思っている。みなさんも元気でお過ごしください。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

«第268号 韓国訪問