第162号 2005年8月22日 私の1945年8月15日
そのとき、私は甲府の郊外、李健公邸に派遣されていた。
多分13日夜だったと思うが、急に分遣隊の編成が告げられた。
派遣される者の氏名が呼び上げられたとき、在日朝鮮人の兵士が、自分たちは朝鮮人だから選ばれないのですかと、切迫した声で質問した。それが妙になまなましく心に残っている。そのときはまだ、派遣先は告げられていなかったのである。ただ、緊急事態が発生したというだけだった。
李健公邸警備の仕事についたのは14日からだったと思う。
大きな屋敷で、庭には葡萄棚があった。
私たちその葡萄をつまんで食べた。
連隊を離れて、何かのんびりした気分だった。
夕方頃から、朝鮮人の子供たちがたくさん集まってきた。
大人もいたと思うが、子供たちがめだった。
多分、彼らは日本の降伏を知っていたようだ。
情勢を知ろうとして、大人が集まっては危ないので、子供たちが探りに来ていたのではないか。
私たちは緊急事態というのを、本土決戦に突入するということだろうというような受け取り方をしていた。
しかし、そうした緊迫感は一般になかった。
何がおこっても驚かないというのが当時の気持だったと思う。
私自身について言えば、一ヶ月の軍隊生活ですっかり参ってしまって、戦意どころか、生きる気力をなくしてしまっていた。
ただ、なんとなく命令されるままに気だるい体を動かしていただけだ。
私はすっかり体を壊していたし、元来、ひどく不器用で、兵隊生活にはまったく適応できなかったのである。それに言語に絶する食糧事情で、私は栄養失調になり、ひどい下痢に苦しんでいた。
当時の兵営生活については、いつか、改めて書きたいと思うが、私は八月に入って間もなく、夜、人目を忍んで洗濯をしていたときに、耳元で、「日本はソ連を通じて講和を申し込んでいる。もう少しだ、我慢しろ」とささやかれた言葉を信じ、その日をひたすら待っていた。
8月15日の正午の放送は、李健公邸の庭に整列して聞いた。
甲高い、聞き取りにくい声で、わかりにくい言葉を並べ立てていたから、仲間の兵士たちは「本土決戦だ」などとささやきあっていた。しかし私には、放送がはじまってすぐ、はっきりと戦争が終ったということがわかった。
何か異様な気持だった。
待っていたその日がついにきたわけだが、単純にうれしいという感情はなかった。
何がおこるかわからないという不安の感情の方が強かったのではないかと思う。
その二三日前、ふとしたことから、胸膜炎で入院し、退院して間もない一等兵に、戦争はもうすぐ終るだろうと話していた。
彼は、憤然として、それでは国体はどうなるのかと、食ってかかった。私はこんなに食糧がなくて兵隊を食べさせられなければ、とても戦争は出来ないじゃないかと言った。
彼は私の言葉に不服そうではあったが反論はせず、黙っていた。
あとになって思ったのだが、こうして厭戦、反戦、反軍の思想は、兵隊たちのあいだにひろがっていくのだろう。
戦後、「静かなドン」で、コサックのあいだに反戦思想がひろがり、革命軍に転換する動きが強まって行ったのを知り、私自身の経験から、もっともだと思った。
近衛公爵は、敗戦の混乱の中で革命運動がおこるのをおそれて、和平工作をしたということだが、それはもっともな心配だったと思う。
軍隊こそ、反軍思想の温床なのだ。
私も兵隊にとられ、ひどい目にあわされなければ、決して、これほどはっきりと反軍反戦の感情を抱くことはなかったろう。
私は終戦を喜んでいたはずだった。しかし、その日の午後をぼんやりして過ごしたように思う。
もはや古年兵もだらけきった私たちをしばきあげる気力を失っていたようだ。
そして、その夜、台湾出身のしかっりしたH君が、盗んだキュウリを持ってきて私を連れ出した。
その日は暑かったが、夜も晴れて、月が美しかった。
私たちは人目を避け、畠のなかに腰をおろして話した。
彼は、これから自分たちはどうなるだろうと言った。
彼は台湾から相模原の工廠に徴用されて、その後、徴兵されたのだと思う。私は駄目な兵隊だったが、彼は、きびきびした青年で、やがて幹部候補生になり、軍人としても立派にやっていけると思われた。
この夜、私たちは、とりとめもなく長時間話し合った。自由に自分の考えを口にしたのは、兵隊になってはじめてだった。
何を話したか記憶にないが、その夜のことはながく心に残っている。
元来、私は日本人の兵隊に絶望していた。あとから、枠外の形で内務班に編入された私は、兵営生活について何一つ教えられていなかったから、面食らうことばかりだった。それで、わからないことを訊ねると、私より少しはやく正規の現役兵として入隊した初年兵たちは、何を聞いても、「知らんぞ」というばかりなのである。私は彼らを敵だと思った。そんな私をかばい、親切にしてくれたのは、この台湾の青年であり、在日朝鮮人の青年だった。
いよいよ戦場に行くことがあれば、私は日本人兵士を戦友とは思わない。この台湾、朝鮮の兵士たちこそ戦友だと思ったのだ。
差別される彼らは、さらにひどい目にあっている私に、彼らなりの連帯の心を示したのであろう。
私はそのときからインターナショナルの感情をもつようになり、今日に及んでいる。
この8月15日を境に、がらりと私たちの生活は変わった。書類を焼却し、倉庫の物品を移動し、毎日、宴会がつづく思いがけない生活だったが、終戦後の生活については、また、改めて書きたい。
この稿は8月15日前後に書いて送るはずだったが、合宿の準備があって果たせず、ついに今日になった。
時季外れの感があるがお許しねがう。
いよいよ夏も終わりに近づいた。
暑さはきびしいが、やはり吹く風に秋を感ずるこの頃である。
皆さん、お元気でお過ごしください。


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