駒大苫小牧高校野球部の暴力事件と小泉総選挙
>>日々通信 いまを生きる 第163号 2005年8月30日<<
駒大苫小牧高校野球部が2年連続で夏の高校野球全国大会に優勝し、57年ぶりということで大きな話題になった。
ところが、苫小牧高校野球部では27歳の監督が部員を殴打したことが問題になり、ふたたび大きな話題になった。
監督は3,4発殴ったというが、被害者側は20発以上殴られたという。さらにはスリッパで殴ったことも問題になっている。
優勝のかげにはこんな残酷な暴力行為がかくされていた。このニュースを聞いて、それがいま被害を訴えている部員だけの問題だと思う人はないだろう。
全国大会直前に明徳義塾高(高知県)が部員の暴力と喫煙が発覚し、同大会出場を辞退した。
これらの事件で目立つのは学校側が消極的態度を取って、親や部外者からの訴えでようやく最小限の対策を取っているということだ。
多分、こういうことは話題になった学校だけの問題ではないだろう。
中学・高校、特に全国優勝をあらそう高校の運動部については、いろいろに言われてきた。
そのスパルタ訓練、優秀選手を集めるためのスカウト合戦などはしばしば問題にされた。
しかし、勝てばいい、勝つためには何をしてもいい、という風潮が有名学校の運動部を支配している。
そして、それを批判するマスメディアも、優勝すれば、まして、連続優勝を達成すれば、郷土の名誉と持ち上げ、社会面をあげてほめたたえる。
いまの世はすべてがあいまいで、虚偽とペテンに満ちている。正邪善悪が不確かである。そのとき、スポーツの世界では、勝敗が簡単明瞭で、それに異論をさしはさむ余地がない。
いまの、新聞、マスメディアで信じられるのは、天気予報と、スポーツ欄ばかりかも知れない。
特に、ひたすら勝利のためにすべてをささげてたたかう若者の姿は感銘を与える。
しかし、勝とう勝とうの一念に駆り立てられて、他の一切が忘却されるなら、それは由々しいことである。
まして、それがマスコミでもてはやされ、名誉と賞讃が集中することになれば、新しい弊害をもたらすことになるだろう。
特に、学校経営の道具になり、校長や監督が名誉のために手段をえらばぬということになれば、アマチュアスポーツの堕落である。
私は熱闘の高校野球に感動することがあるのも事実だが、しかし、それが運動部の暴力的指導の温床になっていることを思うと、やりきれない。
苫小牧高校野球部の記事を読んでいて私は自分の兵隊生活を思い出して苦しかった。初年兵に対する教育の名による言語に絶する暴力的制裁、それが国のため、天皇のためという絶対的な権威の名で行われた。
漱石は「学者と名誉」「文芸院はなにをするか」「文展と芸術」等で、学者や芸術家に賞を与えることに反対した。自ら、博士号の授与に反対したことはよく知られている。
戦争の時代は価値の多元化を排して、ある価値の絶対化がおこなわれる。
勝利は大事かもしれないが、それがすべてではないだろう。
勝利のために他のすべての価値が排除され、あらゆる暴虐が許される。
それをファッショ的人間支配という。
いまは、そのような荒っぽい気風が蔓延しはじめているのではないか。
郵政改革は大事かも知れない。
しかし、それがすべてではない。
いま、世界は重大な転換点に立っている。
朝鮮問題は、日本とアジアの未来にとっての重大問題だ。
しかし、いま、それについての小泉首相や町村外相の見解を聞くことはできない。
マスメディアは選挙一色だ。
元来、この問題は、自民党内部で解決して提案されるべきものではなかったか。
与野党の対立も深刻だ。
それほど意見の対立が深刻だということは、もっと、じっくりと考えるべき問題だということではないか。
小泉の意見だけがすべてだというわけにはいかない。
それを、自分に反対するものは守旧派だとして、排除する。
党内の反対派を排除するために、解散・総選挙という憲法違反的強行手段を取る。
元来、党の問題は党の問題として、党内で処理すべきではないか。
反対投票をしたものを除名にするというのなら、それは党内問題として理解できる。
彼らを排除するために解散・総選挙に訴えるというやり方は納得できない。
彼らを除名したのでは、小泉の意見がますます通らなくなるから、とんでもない解散・総選挙という強行手段に出たのであろう。
なんという小狡い権謀術策であろう。
自己の権力を保持するために、選挙を道具に使うというのはゆるされないことではないか。
郵政改革は<憲政の常道>を蹂躙しても、いま、あわてて実現しなければならないことなのか。
彼らは、自己の目的のためには、これまでになかった強行手段で、国民を動員して自民党内部の反対派を排除する。
それはやがて、国民から、非常の強行手段で、反対派を派除することに道を開くことになる。
いま、はじまっているのはファッショ強権支配のはじまりだ。
はじめは<処女の如く終りは脱兎の如し>という言葉がある。
実行力とか決断力とかいうことをあげて小泉首相を評価するむきがあるが、あの戦争に駆り立てるファッショ体制の確立も、実行力や、決断力が讃美されたのだった。
二・二六事件を国民はよろこび迎えたのだった。
新体制とか、大政翼賛会も国民は歓迎し、バスに乗り遅れるなと、政党を解散して、挙国一致体制をつくったのだった。
あとになれば、いまがどんな時代だったかが意味深く思い返されることになるのだろう。
いよいよ、総選挙だ。
私たちがいま歴史の転換点に立って重大な決定をしようとしているのだということをあらためて思う。
颱風が過ぎて秋の到来を感じる季節になりました。夏休みも終りです。お元気でお過ごしください。


Comments