« 第206号 2006年5月26日 「戦艦武蔵の最期」と日本の兵士たち | Main | 第208号 2006年6月14日 日米一体化 »

06/05/2006

第207号 小林多喜二と反戦平和

  >>日々通信 いまを生きる 第207号 2006年6月4日<<
 
小林多喜二と反戦平和

いま、<小林多喜二と反戦平和>について書いている。
晩年の多喜二の反戦平和のたたかいといえば、権力の暴圧に抗して最期までたたかったことばかりが強調され、不屈の闘士としてひたすら美化され、私達の及びもつかない点ばかりが強調されがちだ。

しかし、多喜二はいかにたたかったのか。
「沼尻村」や「党生活者」は、満州事変前後の国民の大多数が戦争へと押し流されていく時代の農村と工場のたたかいを描いている。

平和新聞 第19回 2001年12月 小林多喜二 『沼尻村』
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh19.htm

ながくつづいた不況は金融恐慌・世界恐慌へと発展し、労働者は職場を追われ、失業者として故郷へ帰っても、農村もまた不況と凶作に苦しんでいた。食う米もないのに小作料の強制取り立てが強行される。現金収入を得るために働きにでている炭坑にも首切りの嵐が吹き荒れる。凶作を理由に米価は高騰し、食う米がない農民は飢えに苦しむ。追い詰められた農民はどうすればいいか。

不況と恐慌からの脱出を戦争に求め、政府や新聞は戦争をあおっていた。満州でも取らなければやっていけないという思想が農民たちをとらえ、戦争を待望する気分が支配的になっていく。国家社会主義者が青年団や在郷軍人会と結び、アカを撲滅せよと策動し、小作料減免の要求を掲げてたたかおうとする小作人集会を襲撃する。

そこに召集令状が来て、働き手が奪われていく。残された家族はどうすればいいか。「国のため」に、あらゆる苦しみが押しつけられ、反対や抵抗が圧殺される。

「党生活者」では不況で大量につくりだされた失業者を臨時工としてかりあつめ、残業と低賃金、きびしい労働条件で酷使し、あらゆる反対や不平、不満を「国のため」ということで押さえつける。労働組合の幹部は今度の戦争はこれまでの戦争とちがって、労働者のためなのだと言い、警察や憲兵とむすびついて、戦争に反対する動きを弾圧する。しかし、やがて臨時工が一斉に解雇される日が来る。

農民のため、労働者のためという戦争は、戦争のため、国のために労働者、農民の生活を破壊する。

多喜二は戦争の問題を労働者農民の日々の生活と結びつけて描き出した。今日、あの時代の労働者農民の生活をを知ろうとするなら、多喜二の作品を読む必要がある。それがあの時代の現実を今日に伝える記念碑的な作品だ。

多喜二の不屈のたたかいが讃美されるが、それは、彼が当時の労働者農民の現実に密着していたからばかりでなく、戦争の現実、世界の動向に深い関心を抱き、それを知っていたからだ。彼は中国の革命的な運動の発展に励まされ、それに支えられて、困難なたたかいが勝利に終わることを信じてたたかった。

多喜二は創作活動で反戦平和をたたかったばかりでなく、満州事変開始の直前に作家同盟書記長となり、精力的な評論活動をおこなっている。

 戦争は勝利して、兵士たちははなばなしく凱旋して来たたが、それで彼等の公約通りの幸福な生活が勤労大衆にもたらされているか。いくら戦争に勝ったと言っても実際は国民の生活は悲惨になるばかりではなかったか。

 大陸進出というが、満洲でも朝鮮、支那の労働者で一杯で、日本の労働者に比して低い労働条件で働いているので、無暗に満洲に出て来られても困るというのが現実で、「それは同時に究極には内地の労働者の労賃とその諸々なる条件をも引き下げる契機となるもの」なのだ。

「馬占山の叛乱」「反吉林軍の叔乱」と叛乱がつづき、満蒙の「革命運動」(それはパルチザン闘争となってあらわれている)が未曾有に激化している。多喜二は匪賊出没件数が一日に約六十件にも及ぶことをあげ、日本帝国主義は今や絶大なる困難のもとに置かれていると述べている。

戦争の時代は言論文化弾圧の時代だ。戦争と国家を笠に着て警察の弾圧は苛酷をきわめた。作家同盟の同志たちは蔵原惟人も中野重治もその他目ぼしいものはつぎつぎに検挙投獄された。

いまの時代は当時とはちがう。しかし、多喜二もこんな時代が来るとは想像してもいなかったのだ。戦争が始まればどんなことがおこるかわからない。なにより言論の自由が奪われる。戦争に反対する運動は共謀罪で弾圧される。共謀罪のかくされた狙いはそこにある。

愛国心の強調といい、憲法改定の動きといい、いま、日本の現実は、当時とおどろくほど似てきている。差異ばかりを強調するのでなく、共通性にもしっかり目を向けて過去の再現を実現させないようにする必要がある。

過去に学ぶとはそういうことだろう。
このごろ、私のホームページ掲示板に若いひとの右翼的な書き込みが目立つ。削除するのは容易だが、彼らがどんなことを書くのか知ることが必要だと思って、削除は最小限にしている。

その感想はあとでまた書くとして、彼らの右翼的言辞が、かつての右翼とちがうのは日本の現実に対する批判を欠いていることだ。いまの日本は平和で豊かだと思い込んでいるらしいことだ。そして、朝鮮・韓国、そして中国に対するはげしい反感に満たされている。ただ、ひたすら憲法を改定し、軍事力を強化して、中国に対抗しようというのであるらしい。ひたすら強くなれ、強いものはどんな無法も許される。アメリカを見よ。なんとも空しい子供っぽさだ。

多喜二の時代もおどろくべき速さで変化して行った。いまの変化も驚くべき速さだ。多喜二の時代、満州事変に突入して行った時代のことは、もっと深く、いまの時代と引き比べて検討する必要があるようだ。

原稿に追われてまとまったことが書けない。おゆるしを乞う。
6月に入って少しは晴れた日がつづく。
しかし、やがて入梅だ。
皆さん、お元気でお過ごしください。

  伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

|

« 第206号 2006年5月26日 「戦艦武蔵の最期」と日本の兵士たち | Main | 第208号 2006年6月14日 日米一体化 »

Comments

小林多喜二は1931年11月、奈良の志賀直哉を訪ねていますが、その少し前の9月に柳条湖事件(満州事件)が起こっています。多喜二にとっては年来の夢であった志賀との面談を、やっと実現できたという気持ちであったと想像します。加えて、日本の中国侵略が露骨となる中で、共産党や反戦勢力への弾圧が厳しくなるという予感も、志賀訪問の背景にあったと私は推察します。事実、翌年3月から官憲の文化団体に対する大弾圧が始まり、多喜二は4月から地下にもぐらざるを得なくなりました。多喜二にとって、今しか志賀訪問のチャンスはないという思いを深く抱いていたに違いありません。尾崎一雄は同世代の作家で、多喜二と直接の付き合いは有りませんでしたが、ともに志賀を師と仰いでいました。「あの日この日」の中で、尾崎は多喜二の志賀訪問の時の胸中に深く同情し、多喜二への哀惜の念を述べています。
1931年は日本の歴史の大きな転換点だったのであり、この年から10年戦争→太平洋戦争への道を日本は転がって行ったと振り返ることができます。多喜二の人生は、歴史の残酷な歯車と歩調を合わせるかのように、時代に立ち向かった人生だったと私は学びつつあります。昔、先輩だった多喜二が、私が年をとったことにより、いつの間にか、多喜二は息子のようになってしまいました。しかし多喜二の生きた足跡と彼の作品は、日本文学の良心の結晶として、強い生命力をもって後世にいつまでも輝き続けると確信します。

Posted by: 御影暢雄 | 06/09/2006 at 10:01 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92803/10399146

Listed below are links to weblogs that reference 第207号 小林多喜二と反戦平和:

« 第206号 2006年5月26日 「戦艦武蔵の最期」と日本の兵士たち | Main | 第208号 2006年6月14日 日米一体化 »