第213号 2006年6月30日 1945年6月の京都と「純情きらり」
伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu
1945年の6月、私は京都の町をさまよっていた。
高校で寮がいっしょの親しい友人が京都に家があり、そこに滞在して梅雨の京都をあてもなくさまよっていたのである。
私の東京の家は5月25日の空襲で焼けていた。
特甲幹の願書を出したあとだったかもしれない。
私は輜重兵を志願し、彼も私にならった。
なぜ、輜重を選んだかといえば、人を殺すこともなく、身も安全だろうと思ったのである。
おまけに、私は輜重という字を知らず、軽重と書いたのだから、合格するはずもなかった。
私は東京が焼ける姿を目撃していた。
B29は我が物顔に東京の空を飛び、低空から爆撃した。
親子爆弾というのだろうか。
一つの爆弾がいくつもの爆弾にわかれ、異様な音を立てて落下した。
市民はただ逃げまどうばかりだった。
B29は白く透きとおり、氷のように見えた。
それが燃えさかる炎に赤く照らされて、記憶違いかもしれないが、米兵のうす桃色の顔が見えるようだった。
当時の私は方丈記の火事の場面繰り返し読んだ。
大風が起こり、火のかたまりが飛び移って、都が焼き尽くされる様子、饑饉で飢え死ぬ人々、親は子に食べさせようと自ら飢え、愛情深い女は男に食べさせて一番先に死んだ。
こんな場面はほとんど暗唱するほどに読んだ。
いつ兵隊に取られるかわからない。
いつ死ぬかわからない。
明日という日は私たちにはなかった。
戦乱のなかを、幾度となく兵火におそわれながら、ながい日々を生き延びた京都を一度は訪ねたかった。
しかし、私たちは観光名所の神社仏閣を訪ねることはなかった。
すくなくとも、その記憶はない。
私がおぼえているのは、あてもなく、庶民の暮らす陋巷の巷をあるき、風呂屋をみつけては、ぶらりとはいって、人々の話を聞いたことだけだ。
働き盛りはすべて戦争に動員されて、銭湯で見かけるのは老人が多かったと思う。
彼らがどんな話をしていたかは覚えていない。
しかし、彼らは元気で、大きな声で、日常の会話をかわしていた。
夕暮の嵐山に行った。
蛍がひとときの命を光らせているのを見た。
奈良に行き、町のはずれをあるき、そこにあながあいた古い土塀を見て心を打たれた。
三笠山の山影から不意に複葉の練習機があらわれ、驚いた。
予科練の訓練基地が奈良にあることは知らなかった。
沖縄のたたかいは最後の激闘の時期だったが、その頃、私にはそれほどの関心はなかったようだ。
戦争がどうなろうが、それはもう、どうでもいいことだった。
私は次々に焼かれる日本に生きる自分の命を見つめていた。
すべては亡びるという思いにとらわれ、方丈記の無常観が心に深く染みた。
「純情きらり」で「源氏物語」の授業を禁じられた笛子が、「防人の歌」を教えることにして、「大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて(丈部人麻呂) 」を取り上げたとき、生徒の一人が泣きだした。
入営する兄のことを思い、悲しくなったという。笛子が茫然としていると、県視学が、そんな私情を振り切っていく防人の忠義の心を教えなくてはならないのだと叱責する。
<人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。>
ついに、笛子は方丈記のこの一節を黒板に書き、これを読み上げて「最後の授業です」と言って教室を去る。
達彦が召集されて、やがて戦場に行くというとき、桜子は「私にはいましかない」と言って迫る。
「いましかない」というのは、当時の私の気持だった。その思いは、いまにつづき、「いまを生きる」を書きつづけているのだ。
梅雨も中休みだが、明日はどうなるか。
皆さん、お元気でお過ごしください。
伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu


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