第255号 石川啄木と現代
>>日々通信 第255号 2007年5月19日<<
発行者 伊豆利彦
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石川啄木と現代
静岡啄木祭で啄木について講演した。復活第2回の啄木祭だという。1950年代はじめまで行われていたのが中絶し、去年から再開されたのだという。
私も1950年代はじめに横浜の啄木祭に参加した記憶がある。横浜でもその後中絶して、2,3年前に再開されたように思う。
1950年代は米ソ対立の時代で、核兵器競争が激化し、世界の平和は深刻な危機に直面していた。平和と独立を旗印に日米安保条約、日本の基地化に反対するはげしい運動が日本全土に繰り返された時代だ。当時は文化サークル運動が盛んで、松川闘争などに大きな力を発揮した。
いま、啄木祭が各地で復活し、多くの市民が参加するようになったことは、あれから半世紀たち、安倍首相が<戦後レジームからの脱却>を標榜して、教育改革だの、憲法改訂だのをごり押しに推し進めていること、愛国心を強調し、日米同盟の強化、共同自衛権の確立の名のもとに世界のどこへでも出撃する体制への移行をあせっている状態に関係があるだろう。
いま、多くの人に「時代閉塞の現状」という啄木の評論が思い起こされている。それを読んだことのない人も、その標題は知っている。それほど、この啄木の文章は現代に切実な問題提起を行っている。
石川啄木は1912年4月13日、午前9時30分永眠した。26才だった。「時代閉塞の現状」を書いたのは1910年年8月とされている。『朝日新聞』に投書して、掲載されなかった。生前、啄木は書いたものを発表できず、不遇のうちに死去した。しかし、没後95年を経て、彼の書いたものはなお声明をもっている。時代に先駆する思想家というものを思わずにはいられない。
> 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。
「時代閉塞の現状」の一節である。教育は未来へ向けて、若い教師が己のすべてを注ぎこむ場所ではなくなった。<「今日」に必要なる人物を養成する>、すなわち今の社会に必要な人材を育成すると称し、国や、教育委員会が決めた枠の中で、「学力」の向上という名のもとに、学力テストの成績を競わせようとしている。それが学力を向上させるとは思わないが、教師が自己の創造性や自発性によって新しい試みをすることを禁じ、ひたすら上がきめたことに従うことを求めるのだ。それをはみ出すと「教育界にいることができない」のである。
あわただしく衆議院を通過し、いま参議院で審議中の教育三法は、教育から自由と創造の精神を奪いさり、教師の教育に対する熱意を奪うものだ。いまの時代は啄木の時代より一層制度が整備されて、教育が制度の枠にしばられる時代になった。これでは、今後、教師を希望する人材はますます減少し、その質は低下するだろう。
昔は多くの子どもたちが教師という職業に憧れ、教師になりたいと思ったが、これからはどうだろう。昔は教師の人格が尊重され、社会的にも尊敬されたと思う。しかし、いまはどうか。こんな社会に未来があるのだろうか。<教育再生>などと言葉だけは美しいが、その内実はいかにも空虚である。
啄木は「食うべき詩」に「揮発性の言語」ということを言った。<美しい国>だとか<国を愛する>だとか、<教育再生><戦後レジームからの脱却>など、言葉は華々しいがその内容は不明確な「揮発性の言語」だと思う。
「時代閉塞の現状」の啄木は<いっさいの美しき理想は皆虚偽である!>< 我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想である訳はない。一切の空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実---「必要」!これ実に我々が未来に向かって求むべき一切である。>と述べた。
>我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
いまは「時代閉塞の現状」の時代と同様に若者たちが未来に希望をもつことができなくなっている。リストラは大量の正規社員を非正規社員にかえ、失業と低賃金と長時間労働に苦しむ若者を大量に生み出した。地方都市ではシャッターを下ろした商店が多く、閑散としている。ワーキングプーアの大量発生である。
病気をして職を失い、ホームレスになった青年が、このままではたまらない、戦争か革命かがおこらなければ、この暗い時代がいつまでもつづく。兵隊になれば、職と住は保証され、名誉もあたえられる。戦争で死んでも、いまのままでいるよりましだと言っていた。
老人の生活も次第に追いつめられている。いかにして、今日の不合理を克服して、新しい明日を開くか。美しい理想を追うのでなく、今日の現実を見つめ、その矛盾を乗りこえていくことが必要だと啄木は述べた。
啄木の生涯は不幸であった。晩年は書くこともできずに病床で過ごさなければならなかった。しかし、その不幸の中で、絶望につきまとわれながら書いた 言葉はいまも生きている。
>噫、もし自分が一瞬たりとも彼等の平安を羨ましいと思う事があるなら、それは自分で自分に 最大の侮辱を与うるものである。……否、否、否、矢張自分の霊魂は、唯戦闘と不幸との空気な中に のみ生活する事が出来るのだ。日が東の山に落つることはあっても、ひと度覚めた心の初日の眠る時は無い筈だ。
(「林中日記」)
まだ19歳、若くて元気のよかった時代に書いたこの言葉は、やはり啄木の生涯を貫いている。80歳の老人が26歳で死んだ若い啄木の言葉に感動している。時代を超え、年齢を超えて、啄木の言葉は生きているのだ。
>教育の眞の目的は、「人間」を作る事である。決して、学者や、技師や、事務家や、教師や、商人や、農夫や、官吏などを作る事ではない。何処までも「人間」を作る事である。唯「人間」を作る事である。これで澤山だ。智識を授けるなどは、眞の教育の一小部分に過ぎぬ。 (「林中書」)
啄木がまだ19歳で小学校の代用教員をしていた時に、盛岡中学の校友会雑誌に書いた言葉である。これは「野分」の白井道也の思想でもあり、「坊っちゃん」の山嵐の思想でもある。国家のため、今の社会のための教育ではない。国家を超え、時代を超えて生きる人間のための教育である。
かつて、国家のため、戦争に勝つために、立派な兵隊になるためにという教育が世の中を支配した時代を生きた人間として、「国民」ではなくて「人間」のための教育という言葉は切実だ。
いま、啄木と漱石の間に強い関係があることがあらためて思われる。この二人の言葉はいまも切実だ。しかし、啄木も、白井道也も、山嵐もみな、学校を追われた。漱石は自ら教師をやめて、作家になった。
「人間」という言葉が教育の基本に据えられたのは戦後である。あのころ、私たちは飢えてはいたが世界がひろがる思い、未来への希望はあった。
しかし、いま、時代の閉塞感はますます強まって来た。時代が逆流して、啄木や漱石の100年前の言葉が切実な意味を持つようになったのは日本の不幸だ。安倍首相が得意になって言う<戦後レジームからの脱却>とはそういうことなのだ。
いまの若者は苦しみながら分散し、ひたすら苦しみに耐えている。すべてを親や先輩に任せ、自ら時代に責任を負おうとしてこなかったためだ。彼らが自分たちの未来は自分たちが開かねばならぬと自覚して、<時代閉塞の現状>に宣戦するのはいつの日だろう。
静岡からさわやかな5月の風がかおる新緑の箱根を越えて横須賀へ帰った。
足が不自由なのは困るが、病気の方は持ちこたえていて、元気にしている。みなさんも、体を大事にして、青葉の5月をさわやかにお過ごしください。


Comments
石川啄木は一ケ月程、小樽に住んだことがあり、幼い小林多喜二も同じ小樽の空の下で遊んでいました。多喜二は啄木の歌が好きだったのは、よく知られていますが、私は色んな意味で多喜二は啄木の「継承者」だったと思うようになりつつあります。啄木は彼の詩歌に見られるように、鋭い言語感覚の持ち主であり、「日本語の天才」だったと思います。思いつくだけでも、「ふるさとの山は有り難きかな」「友がみな我よりも偉く見ゆる日よ」「我泣きぬれて蟹とたわむる」といったフレーズが、多くの日本人の心に今も生き続けていると言えます。最近、NHKのラジオ深夜便の主題歌として、啄木の短歌を歌曲にして流されています。じわじわと静かに啄木ブームが広がりつつあるようです。そして多喜二についても、演劇「早春の賦」・漫画「蟹工船」に代表されるように、多喜二を振り返る動きが広がりつつあります。啄木・多喜二にはいくつかの共通点がありますが、二人の偉いところは時代の矛盾と真剣に向き合ったことではないでしょうか。その姿勢が、二人の文学の永遠性の拠り所だと思います。啄木は「されど、誰一人卓をたたきて、ヴ・ナロードと叫びいずる者無し。」と歌いましたが、啄木の後を継いで、ヴ・ナロードと実践に進んだのが多喜二だったと言えるのではないでしょうか。
Posted by: 御影暢雄 | 05/24/2007 at 09:32 PM