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05/23/2007

第256号 1945年5月の大空襲と<5月の歓喜> その1 

>>日々通信 第256号 2007年5月23日<<

 発行者 伊豆利彦
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu

私の昭和史
1945年5月の大空襲と<5月の歓喜> その1 

 5月は空襲の月として思い出される。
 私の家が焼かれたのは5月25日、横浜大空襲は5月29日である。 私は家が焼かれたとき、学校の寮にいて、実際には、直接に空襲を経験していない。
 寮からわが家の方を眺めると、一面に真っ赤に燃えていた。暗い夜空を次々にB29の編隊が襲いかかった。
 氷のように透きとおった飛行機は、美しいとさえ見えた。
 曳航弾が地上から真っ赤な尾をひいて交錯した。翼を翻して低空を襲う飛行機もあり、地上の炎が真っ赤に映えた。
 ざーざーという不気味な低い音が絶え間なくつづいた。燃え広がる火を逃げ惑う人々の足音がそんな不気味な音になって聞こえてくるのだ。

 翌日、江古田(練馬区)の寮から柏木(現新宿区北新宿)のわが家まで歩いて行った。途中、焼け跡の町々を通ったはずだが、その記憶はない。ただ、夢中でわが家はどうなったかと急いで歩いて行った。
 途中、焼け残った地域が多く、もしかしたらという思いもあったが、私の家の周辺は一面に無残な焼け跡だった。
 家のすぐ近くに地上に倒れた青黒いゴム人形のような焼死体があった。逃げまどううちに行き場をを失って倒れ、窒息死したのだったろう。

 人々は自分の家の焼け跡に三三五五集まって焼け残ったものを掘り出したりしていた。
 私の家は、父も会社を休み、九州に疎開していた母や弟たちのところに行っていたので、留守番の大学生がいただけだったが、その大学生はどこへ行ったのか姿を見ることができなかった。
 広くひろがる焼け跡の遠くから万歳の声が聞こえ、それは次第にひろがって私たちのところまでおよんできた。沖縄で大戦果があがったというのだった。
 焼け跡の人々は興奮していたが陽気だったと思う。

 明日のことはわからない。今晩はどうするか。見通しはなにもないが、みなと一緒だ、だれもが焼け出されて、同じ運命に生きるのだという思いが、人々を陽気にしていたのかも知れない。すべてを失い、どん底に生きるものの明るさというものだったろうか。
 家々を区切っていた垣根や塀はすべて失われて、かなり離れた家だと思っていた友人の家がすぐ近くだったのを発見して驚いた。すべて人と人を隔てていたものが焼き払われ、見通しがよくなり奇妙な平等感と共同感が人々を陽気にしていたのかもしれない。

 私は笹塚(渋谷区)の叔母の家はどうだろうと思い、ひろくつづく焼け野原を歩いて行った。叔母の家も焼けていた。こちらは叔父と叔母、そして従妹たち、みなそろっていて賑やかだった。まだ、焼け跡の整理などには手がつかず、興奮して、火のなかを逃げた話をしていた。私もぼんやり皆の話を聞いて時を過ごし、その夜は付近の小学校でおむすびをもらって食べ、被災者たちと教室で一夜を過ごした。

 家が焼けたことに悲しみも不安も感じなかったのはなぜだろう。所詮、いつかは焼けると覚悟していたからだろうか。若さのためだろうか。興奮で心が麻痺していたからだろうか。なるようになるという投げやりな気持からだろうか。

 この空虚な心は罹災者一般に共通するものなのではないかと思う。このときの気持はその後も長く、いまにいたるまでつづいているようだ。個人の力ではどうすることもできない現実、時代に翻弄されて生きるしかない自己、あたえられた運命を受けいれ、そのなかで無力なりに、空虚なりに、しかし、生きるために頑張る。それが私たちの世代の特徴のようにも思われる。

 5月29日の横浜の空襲は練馬の学校から遠望した。晴れた日だった。
 西の空に敵編隊は次から次へと飛来し、爆弾を投下した。たちまち黒煙があがり、やがて焼けた紙片や物品の破片が飛んで来た。

 昼間の都市爆撃ははじめてで、P51約100機をともなったB29約500機の大編隊だった。午前9時30分頃からはじまり、1時間あまりのあいだに焼夷弾31916個(2570トン)を投下した。この無差別殺戮絨毯爆撃で、被災者は31万を超え、約8000人が亡くなり当時の横浜が壊滅した。

 米機は先ず神奈川区など海岸沿いの地域を爆撃し、次に丘陵地帯、そして中央部を爆撃した。海岸方面から丘陵方向に逃げた市民は今度は避難先が爆撃され、行き場をうしなって中央部にかたまったところを、今度は爆撃と同時に機銃掃射を受けて、大量に死亡した。この絨毯爆撃はあきらかに市民の大量殺戮を狙ったものだった。

 大半の市民は住居をうしない、焼け跡の壕舎で暮し、焼けトタン小屋をつくった。もちろん電燈はなかった。ローソクもなかった。配給された鯨のベーコンからとった油でかすかな明りを灯して暮らした。

 大空襲以後も、焼け跡で暮らす市民が時折襲来する米機の機銃掃射で殺戮された。市民を殺戮し、市民の戦意をうしなわせることを企図したと思われる。

 1945年5月は大空襲の月として記憶され、その被害の悲惨さがいまに語り継がれている。当時は沖縄で死闘がつづき、中学生、女学生も戦場に動員され、悲惨な集団自決をとげた。

しかし、この5月を<歓喜>をもって迎え、戦争終結の日を待ち望んで過ごした人々がいる。
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 原稿の締切がせまっているので、あとは次回に譲る。

 5月26日、横浜の中区本郷町、上台集会所で午後1時半から本牧・山手九条の会主催の集会で<横浜大空襲 戦争末期の日本から現代を考える>と題する話をする。横浜在住のかたで興味のある方はご参加ください。

 なお、横浜空襲を記録する会の集会が5月29日午後2時から野毛の野毛地区センターでおこなわれ、経験者の報告などがある。

青空がつづく5月に当時のことが思い出される。いまの平和を大事にしたい。あんなことになるとは誰も想像していなかった。昭和10年代半ばまで、市民の生活は平和であり、都市化がすすみ、アメリカ文化の流入も盛んで、市民はこれまでになく豊かで、便利な、文化生活の時代を楽しんでいたのだった。

 誰も予想しなかった戦争がはじまり、誰も予想しなかった戦禍を人々は蒙った。これが歴史だ。歴史を見通し、戦争に反対した人々はいた。その人たちはどうなったか。そして、この5月をどう生きたか。

 いまが、改憲国民投票法が衆議院を通過し、参議院で審議される。教育基本法は改悪され、教育3法も審議中である。いま日本は歴史の転回点に差しかかっている。子どもたち、孫たちのために、なにほどかのことをしたい。みなさんのご努力に期待する。


 

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