第258号 私の昭和史4 戦争末期の日本
日々通信 いまを生きる 第258号 2007年6月5日
発行者 伊豆利彦
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私の昭和史4 戦争末期の日本
3月10日の大空襲まで、私は東京に残り、東京の行く末を見守り、東京と運命をともにするつもりだった。しかし、あの空襲は衝撃だった。
私は3月10日も上野の図書館に行ったと思う。電車にはすすけた顔の焼け出された人たちが、焼け焦げた衣服でリュックを担ぎ、鍋釜などを持って、大勢乗り込んでいた。まさに難民である。彼らは上野から故郷に向けて避難するらしかった。
私の心は変わった。一刻もはやく東京を逃げ出さなければ、家は焼け、鉄道は破壊されて、身動きできなくなってしまう。私は家族を説いて、すぐさま疎開するようにさせた。母は荷物を送ったり、手続きがあったりして出発がおくれたが、私は上の弟と二人、手に持てるだけのものを持ってそうそうに逃げ出した。
博多まで行く列車には到底乗れない。短距離の列車で行けるところまで行き、行き当たりばったりに乗り継いで行くつもりだった。どこでどう乗り継いだか記憶にないが、案外、順調に博多まで行ったのだと思う。
この頃から、私には計画を立てて、計画通りにことを運ぶという習慣がなくなった。すべてが行き当たりばったりなのだ。計画を立てても、何事も計画通りにいかないのが当時の現実だった。こうした行き当たりばったりの傾向はいまにいたるまでつづいている。もしかしたら、これは私たちの世代に共通のものではないかと思う。
福岡県の田舎の町にたどりつき、親戚の家に泊めてもらって一安心と思った途端に、付近の大刀洗飛行場や周辺の飛行機工場が爆撃された。私は道を歩いていて空襲にあい、道端の防空壕に飛び込んだが、ものすごい爆風だった。1トン爆弾が何発も投下されたのだ。この爆風で近くの村の下校途中の子どもたちがも吹き飛ばされて死んだ。
その後、しばらくは空襲もなく、食糧も母の実家から援助を受けて無事な日がつづいた。家も1軒かりて、弟たちは地元の中学に転校した。私は診断書をだして、1944年の終頃から勤労動員は休んでいた。手や足の関節が痛み、多発性ロイマチスの診断だったが、医者は腕を引っかいて赤く腫れ上がるのを見せて、米軍機がマリアナ基地を飛び立つのがわかるだろうと笑った。私の手足の痛みが心因性であることを示したのだ。
母の実家の伯父は食糧営団の支部長をしていたが、国民服にゲートル姿で訪ねてきては、大の男が何もせずにぶらぶらしているのは世間体が悪いと繰り返した。伯父の家では長男、次男、3男が徴兵され、4男は予科練に行っていた。私がゲートルも巻かずにぶらぶらしているのがよほど目障りだったらしい。
田舎には本もなく、友だちもなく、何もせずにぶらぶらしているのは私にも苦痛だった。私はやがて、東京に帰り、5月の空襲にあった。
東京の家が焼けたとき、わが家は留守番の大学生がいただけで誰もいなかった。父は福岡の家族のもとに帰っていた。3月の空襲のあとは、空襲警報が鳴ると同時に、都民は火災をおそれ、安全なところを求めてうろうろぞろぞろ逃げ回ったのだ。その足音はザーザーと雨の降る音のように、練馬の学校の寮にまで聞こえてきた。
当時の日本人はすでに戦意を喪失していたと思う。ただ、自分と家族の安全を求めてさまよっていた。ましてや、家が焼けてからは住むところもなく、食糧も乏しく、生きていくことで手一杯だったと思う。
当時の新聞はタブロイド版1枚の貧弱なものだったが、それでも沖縄の特攻について大戦果をあげたと報道していた。
1944年10月、最初の特攻攻撃がおこなわれたときは、アナウンサーも緊張していたし、私たちも身のひきしまる思いがした。しかし、やがて慣れっこになり、何機突入とあってもそれほど強く感じることはなかった。
この前、知覧を訪れて知ったのだが、5月24日にもっとも多数の特攻機が飛び立ち、125名が戦死している。5月25日には71名が戦死している。沖縄では死闘がつづけられ、悲惨な終末へ向って追いつめられていた。私たちは沖縄の戦闘の真相を知らされてはいなかったが、そこに勝利があるとは信じていなかった。
日本ガ負けるとはっきり自覚していなかったが、勝つとは決して思っていなかった。真相を自覚することはこわいことだ。わけのわからぬ情報に流されてさまよい、刻々と追いつめれていったのだ。
私は当時、はたして新聞を読んでいたかどうかはっきりしない。大きな見出しを眺めていただけのような気がする。ベルリンが陥落したことにもそれほど動かされなかったようだ。戦況に対するある種の無関心があり、何がおこっても驚かなかった。沖縄の守備隊全滅も、住民の悲惨な最後にもそれほど心を動かされなかった。
アメリカとたたかって勝つなどとは夢にも思わなかったが、負けるとも思わなかった。たたかっているという実感は乏しく、これから戦争がどうなるということもはっきり考えることはなかった。ただ、戦乱の日々を生きているという実感だけがあった。
義勇隊法というのが公布され、即日施行された制定されたのが6月22日、沖縄壊滅の前日だった。この法律は次のように定めている。
>第二条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齢六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齢十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齢四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス
15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子は義勇兵として動員するというのである。私は満19歳になっていなかったから徴兵年齢に達していなかったと思うが、7月20日に1通の電報で入隊を命じられた。法律は勝手につくられ、また、勝手に破られる。これが戦争というものだろう。
沖縄の集団自決に軍の命令があったかなかったか、従軍慰安婦は強制的に集められたか、中国や朝鮮人の強制連行があったかが問題にされるが、暴力による他国の侵略者に合法性を求めることがおかしいと思う。食糧も強制的に徴発され、拒んだものが敵対者として射殺されたこともあったにちがいない。強姦や暴行、非戦闘員の殺戮などは頻発したのだと思う。
自分がいつ兵隊にとられ、いつどういう形で戦闘に参加させられるかということも、ほとんど考えなかった。死が刻々とせまっているという思いはあったが、特別なおそれは感じなかった。いわば一種のアパシー状態だったのだろう。戦争末期の虚脱状態といってもいいだろう。
寮生はみな勤労動員で朝早くから出かけ、夜にならないと帰ってこなかった。私は万年床の寮の一室でごろごろしながら、手当たり次第に本を読んだ。このころ読んだなかではニーチェが心に残っているが、藤村や独歩などをしきりに読み、藤村を経由して芭蕉や西行、そして新古今集の世界にひかれて行った。当時の私は藤原定家の「紅旗征戎吾が事に非ず」という言葉を井本農一さんの本に見つけて深く心を動かされた。当時は国文学の研究書や雑誌なども買いあさって読んだ。古本屋を歩きまわって保田与重郎の『コギト』を買い集めたりしたが、それが日本浪曼派の雑誌だとは知らなかった。しかし、まったく無自覚にその影響を受けていたことは否定出来ない。
私は反戦でも非戦でもなかった。戦争の真っ最中に戦争からひどく遠い心で中世文学の世界に入り込んで行ったのである。のちに堀田善衛も同様だったと知った。それは当時の文学青年に共通する心情だったのだろうか。
当時、私の心に染みたのは「方丈記」だった。
>火元は、樋口富小路とかや。舞人(まいびと)を宿せる假屋より、出で來たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く、末廣になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き 邊(あた)りは、ひたすら焔を地に吹きつけたり。空には、灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれない)なるなかに、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして、一・二町を越えつゝ移り行く。その中の人、現心(うつしごころ)あらむや。
>或(ある)は、煙にむせびて倒れ伏し、或は、焔にまぐれて、忽ちに死ぬ。あるは、身一つ辛くして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず、七珍萬寶(しっちんまんぽう)、さながら灰燼(かいじん)となりにき。その費(ついえ)いくそばくぞ。このたび、公卿の家、十六燒けたり。まして、その外は数え知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者、數千人、馬・牛の類、邊際(へんさい)を知らず。
これらの言葉を当時はたえず口ずさんでいた。私は文学青年だったから、こんなふうだったが、その他の人々も、戦争の真中にいて戦争から遠く離れた心で生きていた人がおおいのではないかと思う。当時の軍需工場で正規の従業員や徴用工などはまったく生産意欲がなく、まじめに働いていたのは動員学徒ばかりだったと言われている。
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いま、日本は激変の時代を迎えているが、時代のただなかに生きる人は、自分がどんな時代を生きているかを自覚せず、ただ、日々の暮らしと楽しみに溺れている。
私が生きた戦争の時代も当時はただ夢中に生きたので、いまになってようやくそれがどんな時代だったのかがすこし分かった気がする。
私たちはまともな本もなく、情報もなく、暗闇のなかを夢中で生きた。いまの人々はむしろ過剰な情報に溺れさせられている。しかし、はたして、いま自分が生きている時代についてどれほどの認識をもっているか。
松岡氏の自殺の背後に何があったか。石原氏は氏を「侍」だと行った。石原氏が都知事としてふんぞりかえっている日本は一体どうなっているのだろう。
きょう、石原が脚本を書き、製作指導をしたという「俺は、君のためにこそ死にに行く」を見に行く。
戦時下の青春というものを考える。
いま、かれらがどのように戦争美化、「美しい国」政策に利用されているか。
おそろしい時の流れを感じる。
みなさん、お元気でお過ごし下さい。
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Comments
田中氏へ、
今更小林よしのり著『戦争論』を採りあげても詮無きことです。第1巻だけを見ても、事実誤認や牽強付会の問題点を指摘されている箇所は枚挙に暇がないほどですので、論考のテキストにするには余りにもお粗末な代物だと評されても仕方がないでしょう。
以下は『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(Wikipedia)からの引用・抜粋したものです。
・日中戦争中での日本軍が行った誤爆を、相手の不当な行為として描いている。
・杉原千畝の行為を、八紘一宇の一環とし、まるで日本政府の命令であったと取りかねない書き方をしているが、実際はナチスの同盟国だった日本政府はビザの発行を厳しく制限し、杉原は外務省の命令を無視する形でユダヤ人のビザを発行している。
・便衣兵を不当な物として、「その場で処刑しても良い」と発言している。実際は、便衣兵(ゲリラ)が正当かどうかにかかわらず、ハーグ陸戦条約第23条により、助命しないことや裁判の不受理の宣言を行うことは禁止されている。
・満州は今の中国人の土地ではなく、日本がとったことを正当としているが、当時の日本の土地(領土)でもなく、論理的に矛盾。
・満州国を独立国家と言っているが、政府中枢は日本から来た官僚でしめられるなど、実質は日本の強い影響下にあり、殆ど独立性は無かった。
・白人からの解放や自国防衛を謳いながら、中国侵略には無批判である。ビシー政権の仏印を植民地解放しなかったことには一切触れていない。
・アジア解放をことさら強調し「反人種差別主義国家日本」を謳うが、ユダヤ人を迫害したナチスドイツと連携した事実には触れておらず、日本が反人種差別主義国家だったという論法に意識的欠損がみられる。
・ネルーが大東亜共栄圏に賛同したかのような記述になっているが、彼を始めとしたインド国民会議派は、日本の膨脹主義、覇権主義に一貫して反対していた。国民会議派を外れたチャンドラ・ボースが日本軍と行動を共にし、インド仮政府として、1943年大東亜会議に参加したのである。
<参考URL>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96_(%E5%B0%8F%E6%9E%97%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%8A)
Posted by: 莫人 | 06/06/2007 at 03:55 AM
戦争を考えるために、小林よしのり著『戦争論』を読んでみてほしい。
ここが考えるスタートだと思う。
Posted by: 田中 | 06/05/2007 at 06:41 PM