第269号 ずいぶん久しぶりの通信になった。
>日々通信 いまを生きる 2007年12月1日<
発行者 伊豆利彦
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ずいぶん久しぶりの通信になった。
韓国から帰国して、神奈川平和委員会で話したあと、疲労がとれず、路上で転倒して手首を負傷した。一時は骨折したかとおもったが、捻挫でおわり助かった。その直後に妻の美枝子も転倒して、こちらは右手を骨折してしまった。老夫婦二人で生活する私たちはたちまちその日の暮しに困る身となったが、なんとか不自由な力をあわせてその日その日をやりくりしている。通信を書く余裕もない毎日だった。
11月10日は私の誕生日だった。今年で81才になる。去年あたりから体力の低下が身に沁みて感じられる。頭もそれだけぼけてきた。文章を書くのに困難を感ずる。韓国へ行く前からそれを強く感じて、平和新聞の連載は当分休載することにした。おかげで今度の事故でも安心して休むことができたの幸いだった。
私が生まれた1926年11月10日は大正のおわりで、あと50日で昭和になった。この年は昭和元年でもあり、私は<昭和、昭和、昭和の子供よ僕たちは>と歌って育った。日本が中国侵略の方針を決定した東方会議が開かれたのは1927年6月、7月7日に、外相訓示「対支政策要綱」が発表された。芥川龍之介が自殺したのは27年7月24日未明のことである。28年2月20日に第1回普通選挙がおこなわれ、3月15日には治安維持法による全国的な大弾圧が襲った。この苛酷な時代に小林多喜二は「一九二八年三月十五日」を書いてプロレタリア作家としての道を歩きはじめた。戦争に反対し、プロレタリア解放の道を歩こうとすれば、苛酷な弾圧に耐え、命をかけてこれとたたかわなければならなかった。これらについては、2007年5月1日の「日々通信」第253号 <私の昭和史(1)>に書いた。
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2007/05/2531_eebf.html
生まれた当時のことは知るよしもない。私の記憶がはじまるのはだいたい小学校に入学した1933年ころからだ。満州事変がはじまったのは1931年だが、その記憶はない。日本が私が小学校に入学した、その2月に小林多喜二が殺された。それはまたいまの天皇が生まれた年でもある。爆弾三勇士の話は「廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣」の歌とともに知っていたが、日本の国際連盟脱退も、滝川事件も知らなかった。
1937年7月7日、蘆溝橋の銃声をきっかけにはじまった戦争が中国全土に拡大し、12月13日には南京が陥落し、南京大虐殺といわれる悲惨な事件がおこった。これについては、2007年7月9日の通信第261号 私の昭和史6 蘆溝橋事件でふれた。私が熱心に新聞を読み、社会問題に関心をもちはじめたのはこの頃からだ。
1936年7月にわが家は父の転勤にともなって上京した。これは私の生涯の転機だったと思う。地方都市の小学校から、東京の小学校に転校して、私には驚くことばかりだった。東京の小学生は流行歌や浪花節を口ずさみ、二・二六事件や阿部貞を話題にした。相撲は九州でも盛んだったが、土俵の上で、裸になって褌をつけてする本格的なものだった。東京では大相撲のまねごとで、アスファルトの運動場に円をえがいて土俵に見立て、それぞれ贔屓の力士の名をつけて勝敗表をつくった。呼び出しの真似をするものもあった。
当時は小学校6年で中学入試があり、それが生涯の進路を決定するというので受験勉強が盛んだった。学力偏重を否定する論調が強まり、受験科目は私たちから国語と算術の2科目に限定され、体力テストや内申書、口頭試問が重視されることになった。そして私は国立、府立のはどこも落ちて私立の開成中学に入学した。
私は<私の昭和史>でこれらについて書きたいと思っていた。急速に変わっていく世相について書きたいと思っていた。しかし朝鮮をめぐる情勢が急テンポに進行し、安倍首相が辞任して福田内閣が成立するなど、書いておきたいことが山積し、夫婦ともども負傷するなどごたごたしてついつい中途半端なままに中断してしまった。
さいわい、私の負傷は捻挫におわり、妻の骨折も、少しずつ快方に向ってやがてギブスがとれる見通しがついた。事情が好転したら<私の昭和史>の続稿を書きたいと思う。
私が書いておかなければと思うのは戦時下の市民生活を暗黒一色だったように語り伝える傾向に対して、昭和10年代のはじめまで、日本の市民生活はアメリカナイズの傾向が強く、大衆市民文化の発展が著しかったことだ。「贅沢は敵だ」というスローガンが強調されるが、、それはかえって戦時下にも贅沢をするものがあり、パーマネントが大流行していたということなのだ。むしろ、全般的にいえば、いわゆる戦時インフレで労仂者の生活は急速に豊かになり、それが戦争に向けて市民を動員していったという面もあるということだ。
東京の学校に転校して驚いたのは、東京の子供たちが贅沢だったことだ。紺サージの学生服を着て、革靴をはいて通学していた。運動会には跣足袋をはいて参加した。九州では木綿の学生服に運動靴が普通だった。わが家は新宿に近く、新宿に行ってデパートに行ったり、映画を見たりすることがしばしばだったが、新宿のネオンサインは赤く空を染め、映画館は夏は冷房、冬は暖房で観客を誘い込んだ。映画は毎週封切りの2本立てで、アトラクションに東海林太郎や美ち奴というような当時流行の歌手が出演した。
都市と農村の格差は大きく、世代によっても戦争体験はさまざまに異なる。いま大事なのはあの時代をただ一色に塗りつぶすことでなく、その多様な文化の様相が急速に変化していくことを明らかにすることだろう。欧米文化の強い影響下にあった昭和の日本がいかにして日本主義、軍国主義に変貌していったかを明らかにしたい。
妻の負傷は少しずつ快方に向っているが、依然として家事その他に不自由で、私も何かと落ち付かない。その上風邪気味ガつづき、酒もタバコも美味くないので、この機会に60年以上吸いつづけたタバコをやめた。そのせいもあって頭が散漫になり文章を書くのがうまくいかなくなった。老齢のせいもあるかとおもうが頭がはっきりせず原稿が書けない。『平和新聞』の連載をしばらく休ませてもらうことにしたので助かった。いまの気力、体力、脳力では到底つづけられそうもない。しばらく休めば再び書きつづけられるだろうかとおもうと不安である。
福田内閣が成立してアジアを重視する対話政策が主張され、新しい展望が期待されたが、その後の展開は曖昧模糊とした感じで失望した。守屋前防衛省事務次官の収賄問題は防衛省のありかたが全面的に解明される端緒になると思われたが、国会は額賀財務相の喚問問題に矮小化されて旧態依然たる駆け引きの応酬の観があるのは残念だ。
いよいよ12月になり、寒さも次第に本格的になると思われる。
今年の年末は12月29日から1月2日まで山の文学学校で過ごすことになる。
例年は豪雪地帯秋山郷(長野県栄村)で開かれる山の文学学校だが、今年は会場の都合で奥伊豆湯が島温泉郷で開かれる。
私は小林多喜二を語るというテーマを担当する。
周辺の文学散歩も豊富に計画されている。
下記に案内があるので参加希望者は民主文学会に連絡してほしい。(私の若いときの写真も掲載されている。)
http://www.minsyubungaku.org/moyooshi/yamano/index.htm
私の生涯も残り少なく、ほとんど何の役にもたたないが、できるだけのことはしたいと思っている。みなさんも元気でお過ごしください。


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