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10/16/2008

第284号 西郷信綱さんが亡くなられた

>日々通信 いまを生きる 第284号 2008年10月16日<  
    
 発行者 伊豆利彦       
 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/

西郷信綱さんが亡くなられた。

私が西郷さんと知り合ったのは1949年だった。半世紀以上のお付き合いだ。
その後、横浜市大で20年くらい同僚として過ごさせていただき、いろいろ教えを受けた。学問上で教えられたことは多いが、研究対象が近代と古代で、実は時代を超えて学ばなければならないことが多いのに、若い私には十分受け止めることが出来なかった。いまとなっては後悔しているが、致し方のないことである。

追悼の意味で何か書いておきたいと思いながら、なかなか書けなかったのは、妻の腰痛や私の体調不良などによる以上に、私の不勉強の故である。しかし、日々のおつきあいの中でのさりげない会話のなかに学ぶべき多くのことがあった。私はそういう不甲斐ない後輩として、普通語られるすぐれた研究業績を主とする追悼とはちがった観点から、少しばかり、書いておきたい。

西郷さんは1916年、私は1926年の生まれで、ちょうど10年の年齢差がある。西郷さんは野間さんの1年年下だが、日本の学生運動の最後の楽園といわれる三高から京大へ進んだ野間さんとちがって、大分県佐伯の出身で熊本の五高へ進んだ西郷さんには、いわゆる左翼の経験はなかったと思う。しかし、10年年下の私とはまったくちがった自由な思想が残存する時代から、急激に右傾化し、戦争に突入していく時代に学生時代を送られた。
( 堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に描かれた学生たちの姿にいくらか近い生活を送られたのではないかと思う。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta%20wakakihi.htm

西郷さんは1935年に19才で東大の英文科に入学されたが、入学後3カ月でたどたどしい語学力で英文学を学んでもその表面をかすり、教養的な知識を得るだけで、文学の本質に迫ることはできないと考えて、国文学に転じられたという。その機縁は斎藤茂吉の歌を読んで衝撃を受けたことだと、2002年に86才で刊行して最後の著書となった『斎藤茂吉』の冒頭に記されている。

最後の著書が自身の文学開眼の端緒となった斎藤茂吉との格闘の書であったことは感慨深い。1945年、19才の私は陸軍2等兵として甲府の連隊で敗戦を迎え、ぼろぼろになって復員したのだった。私は高校2年だった。西郷さんは早生まれで、中学4年で高校に入学されたので、19才で大学に入学されたのであったろう。英文科に入学されたのは英語が得意だったからだろうし、年若き秀才として、常に人より一歩先を歩いた生涯だった。

1935年は天皇機関説問題で美濃部さんが大学を追われ、36年には2・26事件が起こった。37年の蘆溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争がはじまり、対米英戦争に戦火は拡大して1945年に敗戦を迎える。この10年を西郷さんはどのように過ごされたのか。この間の斎藤茂吉の変貌については語られているが、西郷氏ご自身がこの10年をどう過ごされたかについては、ほとんど語られなかったと思う。

同年代の野間宏や、五高の同級生、梅崎春生や霜多正次らは戦時下の学生時代や、兵士として生きた過去を作品化し、人生の危機には絶えずそこに立ち戻って自己の人生と文学を始め直したが、西郷さんは戦時下の自分についてほとんど語られることはなかったのだ。

当時は西洋文明に対する絶望から、急激に日本文化に対する関心が強まった。青年たちの間に中世文学の芸術至上主義への共感がひろがり、戦争に突入して青年が戦争に動員され、死地に駆り出されるころには万葉集が愛読された。いわゆる日本浪漫派が青年の心をとらえたのだが、西郷さんが国文に転じられたことについて訊ねたところ、日本浪漫派の影響を受けたことはなく、むしろ正反対の立場だったと言われた。

なるほど『斎藤茂吉』などから想像されるのは、アララギの会員として作歌にはげみ、茂吉や万葉集の研究に集中して戦争の時代を過ごされたらしいということである。言葉に対する研ぎ澄まされた感覚は西郷さんの魅力だが、その土台には多分、戦時下のこのような一つ一つの言葉を大事にする実作者としての経験があったと思う。

西郷さんは身体上の事情もあり、また、戦争要員を教育する高等商船の教官だったこともあって兵役を免れ、戦後、新進気鋭の研究者として颯爽と登場された。鎌倉アカデミアの講師となり、清水高等商船を辞職して上京されたのだが、その根底には、戦時下の風潮に抗して、「歩兵のごとく」一歩一歩積み重ねられた研究があった。

「歩兵のごとく」というのは茂吉の信条だったが、弟子たちに対してもしばしば繰り返される教訓であった。そして西郷さんもこの言葉をよく口にされた。しかし、西郷さんには時として過去と別れて飛躍する決断の時があった。大学紛争のあと、1970年代のはじめに横浜市大をやめられるとき、西郷さんご自身から聞いた言葉だが、高等商船を辞職して上京されたのもその一つだった。西郷さんは「浪人」でなければ本当の研究はできないと言われた。

西郷さんが上京された当時は、いうまでもなく戦争直後の混乱と暗黒の時代だった。食糧難と物価高は生活を直撃し、その日その日を生きるのがやっとだった。お子さんも多分何人かあり、給料は物価高に追いつかず、教師の生活は苦しかったに違いないのに、その足らぬがちの月給をなげうって辞職するというのは大変なことだった。西郷さんの研究者としての仕事は、生活や家庭の幸福を犠牲にする崖っぷちで展開されたのだった。

日文協の東大支部が発足したのが1949年6月、私は支部を代表するかたちで大学支部協議会の責任者となって、若手の研究者として日文協再編を押し進めておられた西郷さんらのお仕事を手伝った。日文協は戦後まもなく治安維持法違反で勾留されていた近藤忠義さんを中心とする少数の進歩的な研究者が、国文学会の大御所的存在の藤村作さんを会長として、いわば革新勢力と旧勢力の結合として発足したのだった。その後、古代の西郷さん、近世の広末さん、近代の猪野さんなど、若手の研究者が協会の中核となって、これまでの曖昧な会のあり方を改革し、1950年の新体制に移行したのだった。

1950年の大会ではこれまで会長だった藤村さんが名誉会長になり、近藤さんが委員長、猪野さんが書記局長になった。中央委員会や常任委員会など、左翼政党や労働組合のような組織をつくり、文学研究と国語教育を両輪として民衆と結びついた研究活動を行うといういる綱領を採択して、運動体としての日本文学協会が形成された。地方支部や大学支部が相次いで設立され、小中高の国語の先生たちだけでなく、当時、各地に急速に広がっていった文学サークルのメンバーなども参加して、国民文学運動の理論的拠点の役割をになおうとした。今日では想像もできないと思うが、西郷さんは猪野さん、広末さんらとともにこの運動の理論的指導者としての活動された。

戦後の私は高校卒業後、大学に入学はしたものの講義には出席せず、地方で地域活動をしていたが、健康を害して運動を離れ、この年の4月から大学に戻ってきて、大学支部協議会を代表して綱領草案の作成などの仕事を西郷さんらと一緒にした。これが私と西郷さんのながいおつきあいのはじまりだった。

当時、鎌倉アカデミアの運動は挫折して,西郷さんは新制大学としてあたらしく発足した横浜市立大学で講義しておられたが、1953年4月から私も西郷さんに推薦されて、この横浜市立大学で教えることになった。以後、20年も同僚としてご指導を受けた。思えばながいおつきあいだった。回想すれば尽きることなくさまざまな思いがあるが、きりもなく、とりとめもないので、別の機会に稿を改めて記したい。
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西郷さんが亡くなられたのは9月26日、お通夜は29日、葬儀は30日だった。急に倒れられて、救急車で病院に運ばれ、その日のうちに亡くなられた。苦しまれることもなく、いわば大往生だったと思う。

西郷さんについて何か書き残しておきたいという思いはあったが、体調も悪く、何となく日を過ごしていたが、何か書いておけというメールもあり、掲示板に死亡を告げる新聞記事が掲載されたりしてみると、書きたい思いが強まって書かせていただいた。

1949年は中国の人民革命が勝利した年であり、下山事件、三鷹事件、松川事件の年でもあった。1950年にはレッドパージの風が吹き荒れ、朝鮮戦争が始まった。国民文学運動が大波となって押し寄せ、中国に学んで学生の間に帰郷運動がおこり、西郷さんも洪水に荒らされた福岡県、大分県の各地をトラックに乗って話して歩かれ、無理がたたって体調を害されるということもあった。松川事件については、書記長として松川まで行かれた記録を発表されたこともある。

スターリンの死があり、共産党が方向転換した六全協の自己批判があり、
日文協も変わって行った。西郷さんの追想は激しく動いた戦後日本の歴史と重なり、きりのないことになる。ただ、最後に一九六〇年代末の大学紛争を契機に、横浜市大を辞職されて、「浪人」となられたときのことは記しておきたい。

一般には大学当局の学生に対する抗議としてと言われるが、西郷さんには学生に対する失望も大きかったと思う。師弟の間に尊敬と信頼がなければ教育はなりたたないというのは西郷さんの信条だった。

政治に対する強い関心がありながら、それゆえ傷つき、絶望されることも深かった。心筋梗塞で倒れられたこともあって、散歩などのほか外へ出ることもなく、もっぱら、書斎での規則正しいお仕事の生活を送られた。はっきりとした目標を持ち、一歩一歩「歩兵のごとく」仕事をつづけられた。私などにも電話のたびに、いつも、一日に一行でも二行でも書けと言われた。

西郷さんとお会いしたのは戦後の動乱の時代だったが、亡くなられたのも、世界資本主義の終末を思わせるような大変な時代だった。日本では戦後の政治を支配してきた自民党の終末が来ようとしている。

当時は吉田だの岸だのという人たちが首相を勤めたが、いまはその孫たちが総理大臣になっている。その孫たちは祖父たちに比べてやはり器量が小さすぎ、無能だという思いを禁じ得ない。いまは世襲政治家が大半で、それだけ日本の政治は無能力化している。お先真っ暗という思いもあるが、新しい時代のはじまりとも思われる。

いつまでも暑さがつづくと思っているうちに、急に秋らしくなった。西郷さんのことを考えていると元気が出てくる。私は西郷さんと違ってあれこれ気が散って、とりとめた仕事もしなかったが、もう少し努力して見たい。皆さんも何とかお元気で秋の好時節をお過ごしください。

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