第293号 1945年の夏
日々通信 いまを生きる 第293号 2009年8月15日
発行者 伊豆利彦
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1945年の夏
広島・長崎の原爆、8月15日の降伏宣言。今年もまた8月の日々が来て、テレビでは戦争末期の悲惨な経験が熱い思いをこめて語られる。今年は例年より力が入っているような気がする。
戦後64年になり、当時15歳だった少年も79歳、この頃のテレビには90歳過ぎの老人も、ニューギニアやフィリピン、ビルマ等々の悲惨な経験を語っていた。ニューギニアで死んだ戦友の肉を食べた老人は、それは当然のことだったと語っていた。大岡昇平の『野火』では死んだ兵隊の肉を食べた兵隊が、今度は生きた兵隊を銃で撃ち殺して食べるようになることを書いていた。あの戦争で兵隊たちは戦闘で死ぬより飢えて死んだのだとも言われている。堀田善衛の『記念碑』はガダルカナルで餓死した兵士たちを描いている。
『記念碑』『野火』については次を参照していただければ幸いです。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/hs@50.htm
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/hs29nobi.htm
私はたしかに戦争の時代を生きたが、空襲で家は焼けても、寮にいて直接焼け出される危機にはあわなかった。兵隊にはされたが、戦場に赴くこともなく、甲府の甲府の連隊で兵舎を解体し、山中に移転する土方作業をしていて、8・15を迎えたのだ。ひどい労働だった。そしてひどい食糧だった。栄養失調で下痢に苦しみながら、汗みどろになって解体した木材の運搬作業をしていた。戦争の日々を私は何も考えずに、一日一日上の空で、時代に押し流されて生きてきたのだと今は思われる。考えることはいろいろあっても、自分の意志で何事かをするということはなかった。未来に希望はなかった。本土決戦といっても、ただ運命に従い、一日一日を飢えと疲労に耐えて生きて行くだけだった。ただ、私はふと耳元でささやかれた戦争の終わりは近いという言葉を信じて、その日が来るのを待っていた。そして、その日は来た。私はその日を何の感動もなくぼんやりと受け取ったのだった。
ながいあいだ、私は頭がぼんやりして何も書かずに過ごしてきたが、連日のテレビ放送が私の心を呼び覚ましてくれたようだ。考えることはいろいろとあるが、何か一つのテーマに集中して書くことができないのだ。時事問題については、掲示板にニュースを紹介し、短い感想を書きつけることにしている。この通信では書きかけてい中断している昭和史の記憶といま切実によみがえる漱石の言葉について書いて行きたい。私の戦時下の記憶も、私の漱石論も普通に語られているのとは大分ちがっていると思う。私はこれらについて是非書き残しておきたい。今年は去年にくらべて大分体調もいいようだ。あまり遠くには出かけられないが少しずつは書けるようになったので、まとまりのないしり切れとんぼの文章だが、しばらくは書き続けたい。
今年の夏は異常気象で例年以上に梅雨がながびき西の方は洪水に襲われている。米の作柄も悪いらしい。あの時代に中学生だった私は『方丈記』を暗唱するほど繰り返し読んだ。社会変動と火災や飢饉が重なり合って平安末期の知識人を不安にしていたのだった。この『方丈記』や出家遁世の西行への傾倒が私を国文学を学ばせることになった。戦争直後には小林秀雄の『無常という事』に熱中したが、これと同じ経験を堀田善衛が『方丈記私記』に書いていたのに感動した。
堀田善衛については次を参照していただければ幸いだ。
文学にみる戦争と平和
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/a%20sensou.htm
堀田善衛における知識人の戦争責任
http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta.htm
堀田善衛-「若き日の詩人たちの肖像」と「記念碑』
http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta%20wakakihi.htm ">http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta%20wakakihi.htm
お盆も過ぎてやがて夏の終わりだ。
皆さんの健康を祈る。
今後ともよろしく。
伊豆利彦
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