05/07/2005

第150号 2005年5月7日 ベルリン陥落の日に

5月7日はベルリン陥落の日だ。
宮本百合子1945年5月10日、獄中の夫にあてて、

「今メレジュコフスキーの『ミケランジェロ』を読んでいて、ルネッサンスという人間万歳の時代においても、法王やメディチや我がままな権力に仕えなければならなかった偉大な人々の苦悩に同情を禁じえません。ミケランジェロの憂鬱は、彼の大いさに準じて巨大に反映したルネッサンスの暗さね、明け切れぬ夜の影です。この頃しみじみ思うの。未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と」

「ミケランジェロが彼の雄大さで表現し得なかった歓喜が現代にあるということは、神さえ無垢な心におどろくでしょう」

と書いた。表面はミケランジェロについて書いているこの手紙は、検閲官には理解できない暗号的表現で、ベルリン陥落の喜び、ファシズムに対する民主主義の勝利、日本軍国主義の終末の時が間近に迫ったことの喜び、この人間解放の歓喜の時代に、なお獄中にある顕治やその同志たちの苦悩を思う心を表現したのであった。

 戦後に書いた自筆年譜はこの時代について簡潔に、そして明確に伝えている。

「一月三十日から東京に本式の空襲がはじまり、五月には顕治が収監されている巣鴨拘置所だけを残して周辺が焼野原となったが、空襲の時、他の被告の監房の鎖ははずされたが、治安維持法被告の非転向者の監房は外からかたく錠をかけられた。」

六月に顕治は網走に移されるが、

「この空襲と宮本の網走行の異常な伴奏として五月二日のベルリン陥落つづいてドイツ無条件降伏が伝えられた」

「日本のどんなに多くの人間がその頃胸をとどろかせて朝々の新聞を拡げたろう。新聞には地図入りでベルリンに迫るソ連軍と連合軍の進路が示された。北フランスでどんどんと追い払われてゆくナチス軍の敗退の足どりがしるされた。レニングラードの市民の英雄的な闘い、遂に陥落しなかったモスクワ。ひとつひとつの民主的人民の勝利の勝利の前進が日本の狂気のようなファシズム下の生活の中へもひびきわたってきた」

[宮本百合子 歴史を生きる人生と文学 
 http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/miyamotoyuriko.htm
 から引用]

1945年の5月をこのように生きた人々がいるということに感動する。

「平和新聞」に連載中の「文学に見る戦争と平和」に郷静子の「れくいえむ」について書いた。
 
 五月二十九日午前、数時間の空襲で、横浜の街は大半が焼き尽くされた。遠く見えた丘陵がすぐ目の前に見えた。その間の平地にあったおびただしい家々は焼かれ、そこに住む人々多数の命と生活は無残に奪われた。
 出勤途上だった節子の父はこの空襲で焼き殺された。母は必死になって死体をさがしたが見つからなかった。その母も一ヶ月後、配給ものをとりに行って、小型戦闘機の機銃掃射で撃ち殺された。

人々は次々に死んで行った。
「れくいえむ」には次のように書かれている。

人々は、まったく唐突に、その日常生活の場から去っていった。さよならと川崎駅のホームで手を振って別れた友が、その夜、焼夷弾に焼かれて死んで行くのであったし、工員だけの特配の冷凍みかんを少女達に分け与えてくれた親切な工員にも召集令状が釆て、ある朝、その作業台にその姿はなかった。一日が始り、おはようといい交わす挨拶にはまた逢うことが出来た喜びがあふれ、夕方、さよならと見交す瞳には、これが最後かも知れぬ哀惜の情がこめられるのである。

敗戦で勤労動員が解除され、その解散式で社長が天皇陛下に申し訳ないと涙を流したとき、節子は

私は、天皇陛下に、お詫びすることは何もありません。私は申しわけないことなどしておりません。どうして無条件降伏などをするのですか。本土決戦をするのではなかったのですか。一億玉砕するまで戦うのではなかったのですか。

と言う。

5月は沖縄決戦の日々だった。東京大空襲の日々だった。

百合子の自筆年譜を読み、荷風の「断腸亭日乗」を読み、いま、あらためて堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」を読んでいる。
同じ日を、人々はさまざまに生きた。そのことについて、考えてみたい。

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04/29/2005

第148号 2005年4月29日 『昭和の日』法案に思う

個人的事情で発行がおくれたことをお詫びします。

「昭和の日」法案が衆議院で可決され、今国会での成立が見込まれている。
昭和天皇の誕生日を記念し、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧みる」というのだそうである。

彼らは昭和をどうふりかえるのか。

私が生まれたのは1926年11月10日である。
生まれて一月半で大正天皇がなくなり、新天皇が即位した。
昭和元年というのは1週間もなかったわけだ。
生まれて間もない私はたちまち昭和2年を迎え、なにか一年パスしたような感じだ。
そして、1927年(昭和2年)は長い不況と金融恐慌の年であった。

この年の7月、芥川龍之介は金融恐慌の最中に自殺した。
自分を死に誘うのは<漠然たる不安>だと言ったのは有名だが、「河童」を読めば、芥川が不況、首切り、人身売買、そして戦争の暗い現実を見つめていたことがはっきりとわかる。

『或る阿呆の一生』には<四十 問答>として、「なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?」「資本主義の生んだ悪を見てゐるから。」「悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?」と記している。

芥川は<便宜的共産主義>ということを言い、自分はそれになってもいいのだと言っている。

『侏儒の言葉』の最終章は「民衆」で、そこには次のように記されている。

   民衆

 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白(りたいはく)も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦(かわら)は砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも揺がずにいる。

   又

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

   又

 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

   或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。 (昭和改元の第二日)

芥川は新時代の到来に期待を寄せていたいたように思われる。
しかし、それは芥川の文学を否定するような時代であると思われていたのではないか。
当時、もっとも戦闘的にたたかっていた共産党が福本イズムの強い影響のもとにあったことは不幸だった。
敵か味方かを峻別して、中間的なものを認めない当時の運動は芥川の文学を受容することができなかった。小市民的なものとして、 ひたすら、批判され、克服されなければならなかった。

大学は出たけれどといわれる時代である。
これまでの思想や文学の権威ががたがたと壊れていった時代である。
過去は否定され、新しい生き方が求められていた。
このはげしい時代に直面して、まじめに苦悩し、右にも行けず、左にも行けず立ちすくんで、ついに自殺した芥川のことが思われる。

『太陽のない街』に描かれた共同印刷の争議をはじめ、大きな争議が続発し、大規模な小作争議も各地におこっていた。
こうした中から中野重治や小林多喜二らがプロレタリア作家として出発していった。
一方、横光利一らは、追いつめられて出口のない現実と人間崩壊の様相を描き、ひたすら文学の牙城に閉じこもった。

国民政府が北伐を開始すると、田中内閣は1927年6月、在留邦人保護を名として山東省に出兵する。また、東方会議を開いて、中国侵略に日本の危機からの脱出の道を求める基本方針が定められた。

侵略戦争の道は国民に対する弾圧の道である。1928年の三・一五事件をはじめ、治安維持法による共産党の大弾圧がおこなわれた。

やがて、柳条湖事件をきっかけに満州事変に突入し、中国全土の戦争に拡大していった。

「昭和、昭和、昭和の子供よ、ぼくたちは」と歌って育った私たちは大変な時代に、生まれ、育ったのだった。

小学校のに入学したのは、1933年だった。
その年から国語の教科書が色刷りになり、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」にはじまる明るい色彩の教科書をよろこんだが、その年の2月には小林多喜二が殺され、日本の左翼は総崩れに崩れていったのだった。

滝川教授の自由主義的な刑法思想がやり玉に挙げられ、京大を免職になったのもこの年だった。
共産主義に対する弾圧は、民主主義、自由主義におよび、やがては戦争一色になっていく。
戦争に反対するものはすべて非国民であり、国賊であった。
こんな時代に、それが、どんな時代であるかも知らずに、私たちは育っていった。私たちのまわりにあるものは戦争ばかりであり、戦争を美化する声ばかりであった。

私たちは暗闇の中を、暗闇とも知らずに、それが、いかにもすばらしいものであるかのように思って生きてきた。
私の年齢で戦死したものは少ないが、私より何年か上の世代は、その多くが戦死した。

それが、私にとっての「昭和」である。
いま、その「昭和」をどう記念したらいいのだろうか。

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04/15/2005

第147号 2005年4月16日 激動する時代の行方

【1】 NHKクローズアップ現代について
【2】 木偶の坊の政府とマスコミ

【1】 NHKクローズアップ現代について

戦争を語り継ごうMLに、クローズアップ現代の3月28日(月)放送<国旗国歌・卒業式で何が起きているのか>について自民党、都教委が遺憾の意を申し入れたそうだという情報が寄せられ、これについて、

NHKオンラインの内容紹介
「国旗国歌・卒業式で何が起きているのか」
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2005/0503-5.html

都教委の申し入れの内容
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/buka/soumu/nhk.htm

米長邦雄委員はホームページ「さわやか日記」(3/31)
http://8154.teacup.com/yonenaga/bbs

が紹介された。

この番組は私も見ていて共感させられ、本通信でも紹介した。

第140号 2005年3月30日 愛国心について
http://homepage2.nifty.com/tizu/tusin/tu@140.htm

しかし、あの米長都教委委員の<彼女の降番(降板)もあるようです。>という言葉は不気味である。
はたしてNHKはどう対応するか。

中野区の中学校で卒業生が先生をいじめないでくださいと言ったという言葉はさまざまな思いをよびおこす。
この生徒たちは十年ののち、どのようにこの卒業式を思い出すだろうか。
なんとも異様な時代にめぐりあったという思いである。

この異様な感じはかつて日本が満州事変に突入して、非常時ということがしきりに言われた時代に日本の知識人が感じたものだったかもしれない。

【2】木偶の坊の政府とマスコミ
 
いま、中国の民衆がはげしく動いている。
傲慢に中国・韓国、そしてアジアの人民の心を踏みにじりつづけた小泉首相のとその仲間たちは、自分の言動がこのような事態を招いたことを理解していない。
いたずらに中国政府を責めたて、町村外相ごときは在外公館警備に自衛隊派遣を口にする有様だ。

新掲示板2[2210]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1084604/detail

また、この時期に民間業者への試掘権付与手続き開始を決めた。中国政府の当然の反発に対して、小泉首相は立場がちがうと例の言い方をして、「あまり対立をあおらず、(東シナ海を)協力の海にしていこうという大局的な見地に立って、これからも話し合いが必要だ」とご託をならべている。自ら挑発しながら、のほほんと気楽なことを言うのが、この人の常套だが、日本では多数を頼んで押し通すことができたこんな言いぐさが中国人民の激昂を呼び起こすのだ。

中国政府も、今まで先頭に立って反日デモをよびかけていた「中国918愛国網」の掲示板でも大局的立場に立って冷静な行動を呼びかけているが、一度ついた火はいっそう強く燃え上がるのではないのか。

小泉首相とその仲間たちは立ち上がる人民のおそろしさを知らないのだ。
今日明日の事態はどう展開するか。

事態を全体的展望の上に理解することができない、日本のマスコミは、政府筋と一体になり、中国・韓国の人民に対する反感をあおっている。
これがどのように発展するか。
まさか、あのときの二の舞はしないとは思うが、しかし、このままでは収拾不能になり、どういうことがおこるかわからない。

自ら火をつけて「冷静に」などという偽善的態度は我慢ができない。火を消せるのは火をつけた者しかいないのではないか。いまはすべて手遅れかもしれないが、とにかく、まず、何よりも、この木偶の坊政府とマスコミの方向を転換させなければならない。

こんな日本が国連で重要な役割を果たすことを許せないのは、中国・韓国の政府と人民ばかりではない。

 伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

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04/02/2005

【2】読者からのメール

新村猛さん(ペンネーム)のメール

先生の通信を拝読しとても感銘を受けました。私は1949年生まれで、いわゆる「団塊の世代」ですが、20歳、30歳、40歳代の若い人たちが、激しく「右傾化」していく様を見て驚愕しております。

 先日、某テレビ局のパウエル前国務長官インタビューで、『二年前に悪の枢軸のイラクを攻撃したが、今は困難な状況にある。同じ経験ではかっての日本を占領したときの、占領がうまくいった成功事例もある』と言ったときに、若い男性の司会者が気色ばんで「日本は戦前からも民主国家だった」と反論した。

 そのときのパウエル前国務長官の当惑した顔が忘れられません。一体、この司会者は「万世一系の天皇これを統治す」という戦前の条文すら知らないということでしょうか。パウエル氏にとっては歴史を知らない無知な司会者と思ったのではないでしょうか。いやそれとも意図的に、このような非見識を堂々と垂れ流そうとしているのでしょうか。

 伊豆先生ご指摘の「国歌斉唱・国旗掲揚の強制」とマスメディアが一体となって「自由からの逃走(ファシズム化)」にひた走りしているように思えてなりません。若い人たちがインターネットを駆使して、感性の奴隷(荒木國臣氏の言葉)と化していくことに「安心のファシズム」をひしひしと感じております。

 皆がこの流れを変えない限り、また日本は「暗黒の世界の底」に落ちていく気がします。貧困や戦争の本当の悲惨さを知らない世政治家や知識人が、声高に「テロ」との戦いを「自由の聖戦」と合唱していますが、一体、自由の国がベトナム、朝鮮でそしてインドネシア、チリで自由を封殺したことを忘れているのでしょうか。

 テレビは「北朝鮮拉致被害者」、「脱北者」の話ををこれでもかこれでもかと垂れ流していますし、金正日が悪魔の元凶であるかのように伝えております。

 でも、ちょっと待ってください。朝鮮を植民地にし何万人もの朝鮮の人々を拉致同様に日本に連れてきて、強制労働を課し、そのために多くの朝鮮の人々が死にました。そして今なお残留せざるを得なかった人々を差別し、迫害しているこの国は一体どうなっているのでしょうか。いや300万人の日本人と2000万人のアジアの人々を殺した責任を取らなかったかっての指導者とその末裔が今なお生き続けているこの国の深い闇を呪わずにはいられません。

 インターネットによる「反ファシズム統一戦線」が今一番必要なのではないでしょうか。もちろん、このような事態になった分析を日々怠らず、高遠菜穂子さんのような若者の「思慮深い見識」を信じたいです。

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第142号 2005年4月3日 【1】プロ野球と戦争

【1】プロ野球と戦争
【2】読者からのメール

【1】プロ野球と戦争

セントラルリーグも開幕し、プロ野球はいま花盛りだ。
このごろは直接見にゆくことはない。
子供たちが小さいころはよく行った。

昔、後楽園球場に阪神・巨人戦をときどき見に行った。
戦後の繁栄はプロ野球も阪神・巨人戦ともなれば満員の盛況だ。
それでも、行列すれば入場できた。
いまは、前売りでなければ観戦できないのだろう。
それが、私が最近見に行かない理由だ。
プロ野球は盛んになったが、私には不便になったわけだ。

東京ドームが出来るまでは、後楽園はいくらか土臭く、昔のおもかげを残していた。
そして、私は戦争中の後楽園を思い出すのだ。
当時は、戦後のように満員になることはなかったが、阪神・巨人戦ともなれば、相当に入場者があった。
いまも鮮烈に思い出されるのは、試合の合間に、「○○様、召集令状が参りましたので、至急お宅にお帰りください」というようなアナウンスがあり、観衆が一斉に拍手したことだ。

選手たちも、次々に召集された。
中学出身者は2,3年プレイできるが、大学出は1年たらずで入営しなければならなかった。
戦死した選手も多い。

私は1938年頃からの阪神フアンで、1939年頃から後楽園球場に通った。
当時は六大学全盛の時代で、ラジオで放送されるのも、新聞紙面を飾るのも六大学で、当時職業野球と呼ばれていたプロ野球は新聞の片隅にちいさく結果だけが載っているだけだった。
観客もそれほど多くはなかった。
私は情報を「野球界」という雑誌から得た。バックナンバーも買い集めたりしたが、そこで話題になっているのは、巨人の沢村、タイガースの景浦だったが、彼らを私は見ることができなかった。

彼らは徴兵され、戦地に行き、戦死した。
三原も水原も私は見ることができなかった。
巨人には川上がいて、捕手の吉原がいたが、その吉原も戦死した。
タイガースの投手西村も召集されて戦死した。

藤村冨美雄も戦後は活躍したが、戦争中は軍隊にいて、私は知らなかった。
私が知っているのは弟の藤村隆男だった。

調べていけば、もっとたくさんの選手たち戦場に動員され、戦死したのであったろう。
先日、韓国のプロ野球選手がの徴兵忌避が問題になっていたが、感慨深いものがあった。
プロ野球と戦争について、いろいろ情報を知りたい。

それにしても、私が知っている後楽園には日の丸の旗などなかった。
まして、君が代を歌うこともなかった。
これは記憶違いだろうか。

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03/29/2005

第140号 2005年3月30日 愛国心について

新掲示板2に学校を正常化するために非日の教師や教科書を追放せよという意味の投稿があったので、いよいよこの掲示板にも非日とか、追放とかいう言葉が登場したかと、次のようにコメントした。 

非日はやがて非国民という言葉になるのだろう。
国賊とか売国奴とかいう言葉が氾濫したとき、日本はどういうことになったか。

ところが、この投稿が投稿者によって削除されてしまった。
どういうわけなのだろう。

実は、この投稿をきっかけに、愛国心の問題を考えたいと思っていたのに、残念なことだ。

自分が生まれ育った国を愛するのは自然な感情だ。
ちょうど20年前、1年ばかり中国で暮らしたことがある。
日本語かの教師や学生にとりまかれて暮らしたので、日本語ばかり使って暮らし、その点では苦労はなかった。
おかげで中国語は一向に上達しなかった。
それでも、大学を一歩出れば、日本語は通ぜず、やはり、緊張して暮らしていたのだと思う。
日本に帰ってきた時、日本語で用が足り、思うことが自由に通じる気がしてうれしかった。自由でのびのびした気分になった。
自分は日本人だ。日本人は日本人だと身に沁見てしみて思われた。
日本人である以上、日本の繁栄を願わずにはいられない。
日本人の幸福を願わずにはいられない。
やはり、私は日本を愛しているのだろう。
スポーツで国際対抗戦になると、やはり、私は日本の勝利を願い、日本を応援している。

しかし、日本を思い、日本人の幸福との発展を願うというのは、いまの日本の政治や社会を肯定することではないと思う。
日本の過去を美化し、それを誇ることではないと思う。

いまの私はしばしば日本を憎まずにはいられない。
おごりたかぶり、他国を見下している日本。
しかもアメリカには一も二もなく尻尾を振ってついていく。
私はむしろ、飢えに苦しみ、アメリカに脅迫されて、破滅寸前の北朝鮮の人民に愛情を感ずる。
なんとかして、彼らを幸福にしたいと思う。

こんな私を彼らは非日と呼ぶのだろうか。
しかし、私は自分が日本を愛していると思うのだ。
日本を愛する故に日本を憎むのだと思う。
愛していなければ憎みもしないだろう。

私が日本を愛していると強く思ったのは、1945年の初夏、日本の都市が次々に焼き払われて、日本の滅亡が迫っていることを、いやでも思い知らされなければならなかった時である。
私の家も焼けた。私はくらい心で巷をさまよっていた。
やがて、兵隊にとられる身であった。
絶望的な気分が私を支配していた。
しかし、ふと見た戦意高揚映画、「一番美しく」という題ではなかったかと思うが、少女たちが、神風の鉢巻きをしめて、一生懸命に働いている姿を映していた。
国策映画だと思いながらも、自分の生きる意味を見うしなっていた私はこの懸命な少女たちの姿に心をうたれた。
この少女たちのために、家を焼かれ、生きる術を失った人々のために、私は祖国を守る戦いに参加しようと思った。

やがて死ぬ虫が一生懸命に鳴いている。
その生涯に何の意味があるだろう。
意味があるから生きるのではない。
たとえ無意味でも、たとえ明日死ぬ身であろうと、いまを生きるのだ。
いまを全力で生きるのだ。
それが生きるということだと強く思った。

この時の生命の発見は、その後の私の生涯を決定したように思う。
いまも、同じ思いで生きている。
<いまを生きる>とはそういうことだ。

日本は亡びる。
漱石の作品に響くこの言葉に私はうたれる。
日本の滅亡を強く感じる故に、日本を思い、破滅へ向かって一路突き進む人々を思い、日本が生き延びるために、何かをしたいと思う。
そして、私は日本を食い物にし、日本を滅ぼそうとしているとしか思えない政治家や官僚、財界人を許せないのだ。
日本国民が、いまの危機を自覚し、生き延びることが出来るようにと願って、日々の思いを書き綴るのだ。

いま、卒業式と入学式の時期を迎えて、日の丸・君が代があらためて問題になっている。
今日のNHK「クローズアップ現代」で、この問題を取り上げていた。

演壇正面には大きな日の丸がを中央に、その左右には東京都の旗と校旗がかかげられている。
その大きさや、位置やかかげ方もきびしく決められているのだという。
「君が代」を歌うときは、起立し、大きく口をあけて歌わなくてはならない。
これに違反すれば処分されるのだという。
校長が、それを職務命令として文書として教員の一人一人に手渡したという。
そして、管理職や、都教委から派遣された職員が、教師一人一人を監視していると言う。
なんと情けないことだろう。
国旗・国歌法が国会で審議されたときは、決して教育の現場で強制しないようにとくりかえし強調され、その旨確認されていたはずである。
しかし、東京都の教育長は、国はそうでも、指導要領に、国旗・国歌の指導について定めれているのだから、国旗・国歌に対するマナーとして、厳格に取り締まるのだという。

いまの規律が弛緩し、秩序が乱れているときに、国旗・国歌の指導を通じてそれを回復するのだという。

これでは、日の丸・君が代は官僚支配国家、思想強制国家のシンボルだということになる。
国民の多数が反対しているのに、政治的に、過半数の支持を得たからといって国旗・国歌を制定し、今度はこれをテコにこの旗や歌を拒否するものを、法と権力でおさえつけ、処罰して、国民全体にこれを強制しようというのだ。

そして、これに反対する教師を非日教師として追放しようとする動きがあるのだ。私の掲示板に書き込んだ勢力は、まだ、それほど大きな力にはなっていないと思う。
しかし、次第にその勢力を増してきている。権力と結びつき、それに支援されて、やがて猛威を振るうことになるのであろう。

私が大学を卒業して高等学校の教員になったとき、校長が語った話をいまも覚えている。、天皇陛下という言葉が発せられると一斉に気をつけの姿勢になる。中学の話である。はじめは一年生だけがそうした。次の年は二年生までがそうした。そしてやがて、全校生徒がそうするようになった。そのことを、なぜ、その校長が若い私に話したのかわからない。1950年頃のことである。
日本がアメリカと講和条約を結び、再軍備の道を歩きはじめ、逆コースということが言われた頃のことである。
校長は校長なりに危機感を持ったのであったかも知れない。

とにかく、こうして、世の中は変わって行ったのだ。
はじめは処女の如く終りは脱兎の如しということばがある。
変化は加速度的に激しさを増すのだ。
いま起こっていることは、五年前には想像できなかったのではないか。
しかし、かつては想像もできなかったことが現実になる。
そのような時代に、いま、私たちははいっているのだと思う。
まだまだ序曲だ。
これからが大変だと思う。
こうして、破滅に向かって走りはじめた日本を私は愛するのだ。

国を思うとはどういうことか。
国を愛するとはどういうことか。
あの大平楽な森さんがゴルフのかえりに、料亭で愛国について説いている。神の国日本について語っている。
これはマンガだ。しかし、このマンガが日本を支配している。

いま、韓国の対日感情が大荒れに荒れている。
ノ・ムヒョン大統領の態度も激変した。
なぜ、そんなことになるのだ。
日本のマスメディアは、この事態に対してはっきりした認識を持っていないのではないかと思う。
この問題の背後には、日本政府のおそろしいほどの右傾化の事実がある。
日本の過去を肯定し、美化し、アジア人に対する露骨な侮蔑を示す政治家がいる。それに類する歴史教科書が、日の丸・君が代を教師たちに強制する東京都の教育委員会で採択される。
米軍と一体化し、中国をにらんでアジア包囲網の拠点に再編されようとしている自衛隊、そして、憲法を変えて、アジアのどこへでも、世界のどこへでも出て行ける軍隊をもとうとしている日本、いま、おこっているさまざまなことを、ばらばらに切り離すのでなく総合的に考えれば、日本に対してアジアが態度を硬化させるのは当然だと思う。

私はこのような日本とを憎み、これと戦わなければならないと思う。

春はようやく盛りを迎えようとしている。
桜も咲き、行楽の季節を迎えた。
学校も休みだ。
私もすこしのびのびしたいと思う。
みなさん、お元気でお過ごしください。

           伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

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いま、憲法とともに教育基本法の改悪がたくらまれ、愛国心が強調される時代になりました。
あの、戦争の時代に少年時代を過ごし、陸軍二等兵として敗戦を迎えた私には感慨深いことです。
愛国心とは何なのだろう。
愛国心の強調は何をもたらすか。
愛国心がしきりに強調されるときは戦争に向かってつき進もうとしているときです。

創刊号を発行したのは2001年9月22日でした。
あの同時爆破事件の直後のことです。
あれから、3年半たちました。
この3年半は大変な時代で、その歴史が、日々通信のバックナンバーを見るとわかる。
一覧に並ぶ題目をみていると、この3年半がつくづくと思われる。

日々通信 いまを生きる 一覧
http://homepage2.nifty.com/tizu/tusin/@nt@.htm

記念のために創刊号を再録します。
====================================
> 日々通信 いまを生きる 第1号 2001年9月22日  伊豆利彦
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>
> ◆◇メルマガを始める◆◇
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 私が生きているうちにこんな時代を迎えようとは思わなかった。そして、私はやがて七十五才になろうとしている。健康そのもと人にも言われ、自分でもそう思っていたが、体内には厄介な異物が発生していることが発見された。いま始まったこの時代の行く末を、その結末にいたるまで見極めることは出来ない。

 このような時にめぐりあって、いままで読んできた漱石や啄木、芥川、その他多くの作家たちの言葉が新しい意味をもってよみがえってくる。歴史や人間があらためて新しく見えてくるような気がする。

 いまほど私の内部に書きたい思いが沸騰している時はなかったような気がする。しかし、いまの私はすでに老耄して、それらを一つの文章にまとめる力はないようだ。一つのことを書こうとすると、もう一つのことが頭にうかび、また、もう一つのことがうかんで、とりとめなくなってしまう。これが確実な老いのしるしである。

 これまで書いたものをまとめるようにすすめられても、幾つものテーマが浮かんで、なかなか一冊にまとめることが出来ない。それでも、『<昭和>とよばれた時代の戦争と文学』というテーマでほぼまとめたが、これもいつ出版できるか分からない。すでに私は過去の人間になったのだ。

 私はすでにホームページを開き、いままで私の書いて来たものを公開する仕事を始めた。これは私に大きな力をあたえてくれた。まだ、私の書いたもので電子化されたもののうち一部しかuploadされていないし、はなはだ中途半端なものであるが、中途半端なまま、不完全なままに、人びとに読んでもらえるというのは、大変な喜びである。これからもたえず更新して行くのが、死にむかって生きていく私のこれからの仕事だと思う。

 一冊の本をつくるということは、それはある区切りをつけることだし、それなりに完結させらなければならない。しかし、ホームページならば、それはたえず、更新されるし、たえず発展させられる。この自由さが私のような人間にはありがたいことである。いつ中断しなければならないかも知れないが、可能なかぎり自分の仕事として、努力していきたい。

 ホームページという自由な言説な空間は私の精神を解放し、新しい可能性を開いてくれた。そして私は、さらに日々の断片的な思いを、断片的に書き記し、人びとに伝えたいと思うようになった。ご迷惑かも知れないが、随時私の思いを書き送りたいと思う。もし、感想や意見を寄せていただければありがたい。なお、私にこの決心をさせたのは、日文協近代部会の「葦の葉」がメルマガの形式で発行されるようになったことである。

この通信を受取った方がお友達に広げていただければありがたい。紹介してくださるかたのメールアドレスを知らせていただきたい。皆様のご支援で読者を拡大し、出来るだけながくこの仕事を続けたいと思う。よろしくお願いします。

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【漱石の言葉】
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『こころ』先生と遺書

 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。

 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。私の暗いというのは、固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。


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