09/09/2005

第166号 2005年9月9日 この100年をふりかえる

   >>日々通信 いまを生きる 第166号 2005年9月9日<<

 私のホームページの新掲示板2に次の書き込みがあった。

3662 名前:日本人 日付:9月7日(水) 8時48分
総選挙の争点は郵政だけではない。
今回の選挙は、真の日本派と、反日自虐中朝の犬派との勝負である。
小泉首相が高い支持率を保っているのは、中朝どもに毅然とした態度をとっているからである。
6ヶ国協議? くだらない茶番に付き合う必要はない。
そこで何が交渉されようと、どうせ朝鮮人は決まったことを守らないから、
朝鮮人との交渉など無意味である。
いずれ北朝鮮とは戦争で決着を付けるしかない。
若者はすでに平和ボケから目を覚まして国際政治の現実を直視している。
新しい時代についてこれない老人たちは、さっさと引退するべきである。

ただ残念なのは、小泉首相が8月15日に靖国神社に御参拝しなかったことである。
御参拝しておけば、中国人・朝鮮人がまたファッビョーーーン(火病)となって
反日デモや日本大使館襲撃・日本商店破壊などの蛮行を繰り返しただろう。
そうなれば、こいつらが日本の敵であることが選挙前に明確になり、
日本派と中朝の犬派との対立が選挙の争点としてより強調されたのだ。

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<日本人>と名乗るこの人物は、このごろしばしば同趣旨の投稿をしてくる。韓国の日本語web版の書き込み欄におなじ名前で同様のことを書き込んでいる人があるから同人物かもしれない。
 その書き込みには、 日本は自国民が飢え死にしたり、身売りをしたりする苦しい時代にも、多額の税金を注ぎこんで韓国に学校や道路をつくり、ハングルを教えて、その近代化に尽力したのだとも書いていた。

 朝鮮人について、あまりにひどい差別的言語が使われていたので抹消した投稿もあったが、いまになってみると、やはり、日本の若者にあるひとつの傾向として、保存しておくべきだった。

 これは、もちろん、ありふれた、根拠のないいやがらせ的投稿で、他人の意見の繰り返し、もしくは誤読である。まともに反論する気にもならない雑音に過ぎないから、放っておけばいいというのが普通の考えだ。
 しかし、根拠の乏しいこんな意見が若者たちのあいだにひろがっているとしたら、日本の未来はどうなるだろう。こんな思いでいたら、次のような投稿があった。

2664.名前:大和撫子 日付:9月7日(水) 20時1分
「おれさえ良ければ」「日本こそ世界一だ」「中国や朝鮮は劣等だ」という考えが日本を覆い、若者たちが声を合わせるようになったとき日本は戦争を始め、結局は国を滅ぼしました。
口汚く他国を非難することによって得られるものはありません。そのような考えは日本の伝統でもありません。いくら長くとも明治5年以降ではありませんか。
他国を非難することが愛国心だなどと思ってはなりません。
選挙では一方で隣国を非難し、他方ではアメリカの言うなりになっているのは誰かを見極めることが大切だと思います。人を貶める勢力は往々にして強いものに対しては卑屈になるのです。

 これも若い人の投稿だと思うが、これを読んでほっとした。つまらない意見だからといって黙殺したり、放置したりしていると、それが次第に増殖して、おもいがけない世論を形成するおそれがある。真っ向からこれに反論する人がでたのはうれしいことだ。
 
 これを読んで、私は当時のことを思い出した。中国人をチャンコロ、朝鮮人をチョウセンとか鮮人と呼んだ。ヨボとかチョンとかの侮蔑的な呼び方もあった。<不逞鮮人>という言葉を新聞紙上でよく見かけた。

 当時の日本人は中国や朝鮮のことを知らないままに、中国人はずるくて、卑怯だと思い、朝鮮人は無気力で、コソ泥を働いたりすると思い込んでいた。富んだ国から見れば貧しい国の人々は、きたなくて、うさん臭いものだが、こんな偏見が、あの大震災の時の大虐殺を生んだのだった。

 なぜ、日本人は近隣の国民をこれほど侮蔑したのだろうか。彼らの国土をうばい、抑圧・支配して、その収奪の上に自国の近代化を実現し、ゆたかな暮らしをしていることに後ろめたさがあり、不安だったのだと思う。さらには彼らの反抗をおそれたのだと思う。中国や朝鮮の人民を敵視し、脅威とする感情は避けがたかった。

 事実、彼らの反抗はさまざまにおこなわれ、日本は軍隊と警察の力で抑圧し、鎮圧した。彼らの反抗を理由に大軍を派遣してその絶滅を図り、ますます植民地的支配を拡大し、搾取を強化した。

 しばしば、日本は自国を先進的な指導国家であると思い上がり、おくれた、劣等民族である彼らを指導するのだなどと主張した。日本は彼らのために支配・統治しているのに、彼らは誤ったイデオロギーの故に、敵意をもち、反抗する。この日本の真意を理解しない彼らを<膺懲>し、彼らを幸福にするために軍事力を行使するのだと主張したりもした。

 日本は天に代わって不義を討つ正義の軍隊であり、<聖戦>をたたかう<皇軍>だった。しかし、その現実は残酷な殺戮であり、拷問であった。これは、当時の日本の問題であるばかりでなく、いまのイラクの問題であり、侵略者の一般的な姿である。いまのイラクの現実は、当時の現実と重ね合わせてみるとよくわかる面があるが、また、いまの現実によって、当時の現実が新しい光りで照らし出されるということもあるのだ。

 アジアに対する戦争と、米英に対する戦争では、やはり、区別されなければならない。米英に対しては、脅威の側面が強調された。米英は日本より先にアジアを侵略した。彼らを手本にする日本は、アジアを侵略して近代化を実現した。
 日本が先進諸国の権益をおかし、アジアの利権を独占しようとした時、米英蘭等先発近代(侵略)諸国との対立はまぬがれなかった。
 アジア侵略の戦争は米英蘭との戦争、世界戦争に発展せざるを得ず、それは悲惨な結果を招いた。
 これが日露戦後100年の歩みのひとつの結末であり、以後、戦後の新時代がはじまった。

 戦後は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の特需によって戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長を遂げて、今日に至った。
 アメリカのたびたびの要請にもかかわらず、日本がこれらの戦争にまきこまれず、平和と経済発展の道を歩きつづけることができたのは平和憲法とそれを守る日本国民の強い意志があったからである。

 戦後日本の発展の根柢にはは米ソ対立の冷戦構造があった。しかし、ソ連が崩壊し、アメリカの一極支配に終りが来て、歴史は新しい段階にはいろうとしている。

 アメリカは破綻している。騒乱をいかにして収拾できるか。それは世界的規模に拡大し、国民の安全と幸福は根柢から揺らいでいる。ルイジアナの悲劇はそれを雄弁に語っている。

EUの成立と発展はヨーロッパの歴史を一変させ、新しい世界史の展望を開いた。
中国のめざましい経済発展は、世界経済のみならず、国際政治における中国の位置を確実に押し上げている。
ロシアもチェチェン問題をかかえながらも、石油の開発をテコに無視できない勢力になっている。
 日本だけがおろかな政治のために国際的に孤立し、後退させられている。
 それにともなって日米関係にも変化があらわれている。アメリカは経済的に中国との結びつきを強め、日米関係よりも重視する方向に進んでいる。

 世界は変わる、変わりつつある。朝鮮も変わる。しかし、日本だけが昔の夢を追っているとすれば、その結果は悲惨だ。

 日露戦後100年はさまざまな思いを呼び起こすが、日本の若い世代の視野は小泉さん同様にきわめて狭く、自己の真実をのみ強調し、自己陶酔的に破滅の道を選択するおそれがある。

 イラク戦争の現実は、日本の戦争だけを悪いという考えを否定する。日本だけが悪いのではない。帝国主義が問題なのだ。だから、日本は悪くなかったという意見が出てくるのも当然だ。
 私は、日本だけが悪だとする戦後の歴史観に反対だ。アメリカのイラク侵略が明らかにするアメリカの暴虐は、広島、長崎の原爆をはじめ日本の各都市に対する無差別焼夷攻撃の犯罪性をあらためて浮き上がらせる。
 アメリカの戦争犯罪を糾弾することは、しかし、日本の戦争犯罪を免罪することにはならない。アメリカの犯罪を追及するためには、自らの戦争犯罪を明らかにすることからはじめなくてはならないだろう。
 その逆に、アメリカの侵略を肯定することによって、日本の侵略を肯定することであってはならない。<自虐史観>などといって、日本の過去を肯定し、美化する傾向が強まっているのは、アメリカ美化の理論の発展であろう。しかし、これが日本と世界の未来をなにをもたらすか。
 いま私たちはアメリカを美化し、崇拝するアメリカ的歴史観から解放されなければならないが、同時に昔の皇国史観に復帰してもならないだろう。

日露戦後100年を迎えて、私たちはイラク戦争を見据え、日本の犠牲者たち、アジアと世界の数えきれない犠牲者たちの無念の思いを身に沁みて思いながら、未来にそれをくりかえさない決意を新たにすべきだろう。

 台風の被害を受けられた方々に心からお見舞い申し上げる。
 それにしても、ルイジアナの台風被害はひどいものだった。イラク戦争がアメリカの平和と安全を脅かしている。
 昔の人はこれを天譴といった。天災と人災はからまりあっているのだから、この考え方にも一理あるのかもしれない。
 皆さん、どうぞ身体に気をつけて、元気にお過ごしください。

  伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/

追伸
朝日ニュースターでャーナリスト堤堯、「文芸春秋」元編集長中村慶一郎の両氏がこんどの選挙は郵貯簡保の340兆をアメリカに売り渡す選挙だと情熱的に語っていた。その発言を新掲示板2に記しておいたので、興味ある方はご一読ください。

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08/22/2005

第162号 2005年8月22日 私の1945年8月15日

そのとき、私は甲府の郊外、李健公邸に派遣されていた。
多分13日夜だったと思うが、急に分遣隊の編成が告げられた。
派遣される者の氏名が呼び上げられたとき、在日朝鮮人の兵士が、自分たちは朝鮮人だから選ばれないのですかと、切迫した声で質問した。それが妙になまなましく心に残っている。そのときはまだ、派遣先は告げられていなかったのである。ただ、緊急事態が発生したというだけだった。

李健公邸警備の仕事についたのは14日からだったと思う。
大きな屋敷で、庭には葡萄棚があった。
私たちその葡萄をつまんで食べた。
連隊を離れて、何かのんびりした気分だった。

夕方頃から、朝鮮人の子供たちがたくさん集まってきた。
大人もいたと思うが、子供たちがめだった。
多分、彼らは日本の降伏を知っていたようだ。
情勢を知ろうとして、大人が集まっては危ないので、子供たちが探りに来ていたのではないか。

私たちは緊急事態というのを、本土決戦に突入するということだろうというような受け取り方をしていた。
しかし、そうした緊迫感は一般になかった。
何がおこっても驚かないというのが当時の気持だったと思う。

私自身について言えば、一ヶ月の軍隊生活ですっかり参ってしまって、戦意どころか、生きる気力をなくしてしまっていた。
ただ、なんとなく命令されるままに気だるい体を動かしていただけだ。
私はすっかり体を壊していたし、元来、ひどく不器用で、兵隊生活にはまったく適応できなかったのである。それに言語に絶する食糧事情で、私は栄養失調になり、ひどい下痢に苦しんでいた。

当時の兵営生活については、いつか、改めて書きたいと思うが、私は八月に入って間もなく、夜、人目を忍んで洗濯をしていたときに、耳元で、「日本はソ連を通じて講和を申し込んでいる。もう少しだ、我慢しろ」とささやかれた言葉を信じ、その日をひたすら待っていた。

8月15日の正午の放送は、李健公邸の庭に整列して聞いた。
甲高い、聞き取りにくい声で、わかりにくい言葉を並べ立てていたから、仲間の兵士たちは「本土決戦だ」などとささやきあっていた。しかし私には、放送がはじまってすぐ、はっきりと戦争が終ったということがわかった。
何か異様な気持だった。
待っていたその日がついにきたわけだが、単純にうれしいという感情はなかった。
何がおこるかわからないという不安の感情の方が強かったのではないかと思う。

その二三日前、ふとしたことから、胸膜炎で入院し、退院して間もない一等兵に、戦争はもうすぐ終るだろうと話していた。
彼は、憤然として、それでは国体はどうなるのかと、食ってかかった。私はこんなに食糧がなくて兵隊を食べさせられなければ、とても戦争は出来ないじゃないかと言った。
彼は私の言葉に不服そうではあったが反論はせず、黙っていた。
あとになって思ったのだが、こうして厭戦、反戦、反軍の思想は、兵隊たちのあいだにひろがっていくのだろう。

戦後、「静かなドン」で、コサックのあいだに反戦思想がひろがり、革命軍に転換する動きが強まって行ったのを知り、私自身の経験から、もっともだと思った。
近衛公爵は、敗戦の混乱の中で革命運動がおこるのをおそれて、和平工作をしたということだが、それはもっともな心配だったと思う。
軍隊こそ、反軍思想の温床なのだ。
私も兵隊にとられ、ひどい目にあわされなければ、決して、これほどはっきりと反軍反戦の感情を抱くことはなかったろう。

私は終戦を喜んでいたはずだった。しかし、その日の午後をぼんやりして過ごしたように思う。
もはや古年兵もだらけきった私たちをしばきあげる気力を失っていたようだ。
そして、その夜、台湾出身のしかっりしたH君が、盗んだキュウリを持ってきて私を連れ出した。

その日は暑かったが、夜も晴れて、月が美しかった。
私たちは人目を避け、畠のなかに腰をおろして話した。
彼は、これから自分たちはどうなるだろうと言った。
彼は台湾から相模原の工廠に徴用されて、その後、徴兵されたのだと思う。私は駄目な兵隊だったが、彼は、きびきびした青年で、やがて幹部候補生になり、軍人としても立派にやっていけると思われた。
この夜、私たちは、とりとめもなく長時間話し合った。自由に自分の考えを口にしたのは、兵隊になってはじめてだった。
何を話したか記憶にないが、その夜のことはながく心に残っている。

元来、私は日本人の兵隊に絶望していた。あとから、枠外の形で内務班に編入された私は、兵営生活について何一つ教えられていなかったから、面食らうことばかりだった。それで、わからないことを訊ねると、私より少しはやく正規の現役兵として入隊した初年兵たちは、何を聞いても、「知らんぞ」というばかりなのである。私は彼らを敵だと思った。そんな私をかばい、親切にしてくれたのは、この台湾の青年であり、在日朝鮮人の青年だった。
いよいよ戦場に行くことがあれば、私は日本人兵士を戦友とは思わない。この台湾、朝鮮の兵士たちこそ戦友だと思ったのだ。
差別される彼らは、さらにひどい目にあっている私に、彼らなりの連帯の心を示したのであろう。
私はそのときからインターナショナルの感情をもつようになり、今日に及んでいる。

この8月15日を境に、がらりと私たちの生活は変わった。書類を焼却し、倉庫の物品を移動し、毎日、宴会がつづく思いがけない生活だったが、終戦後の生活については、また、改めて書きたい。

この稿は8月15日前後に書いて送るはずだったが、合宿の準備があって果たせず、ついに今日になった。
時季外れの感があるがお許しねがう。

いよいよ夏も終わりに近づいた。
暑さはきびしいが、やはり吹く風に秋を感ずるこの頃である。
皆さん、お元気でお過ごしください。

   伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/

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