02/01/2006

第192号 2006年2月1日 ライブドアのことなど

>>日々通信 いまを生きる 第192号 2006年2月1日<<

ライブドアのことなど

年の初めから、ライブドアの問題が世間を騒がせている。昨年来の耐震強度偽装事件や、今年になって発覚したアメリカ産輸入牛肉事件など、この騒ぎのなかに埋もれてしまった感がある。

私は近鉄・オリックス合併に端を発する新球団問題がおこるまでライブドアの存在を知らなかった。
ライブドアの積極的な動きがなかったら、プロ野球は1リーグになり、衰退をまぬがれなかったろう。
私は戦前からのプロ野球ファンで、ライブドアの堀江社長の積極的な動きに好意をもった。
新球団の根拠地を仙台にしたことにも賛成だった。
これを契機にライブドアに興味を持ち、ライブドアニュースを見るようになった。
ライブドアニュースにはしんぶん赤旗やアルジャジーラの記事なども掲載されていて、進歩的な姿勢が感じられた。

金がすべてというような彼の考えがしきりに聞かされたが、あまりにばかばかしく、売らんかなのはったりで、まともな発言ではないと思った。不愉快な思想ではあったが、こんな思想は今の世に氾濫していて、あらためて論ずるまでもないと思い、それほど心に留めなかった。

プロ野球参入問題では、保守的な古ぼけた連中を相手にTシャツ姿で奮闘する姿に好意をもった。
だから、この前のペテン選挙で自民党から推薦されて亀井候補の刺客として立候補したのは意外だった。
堀江が国会議員になるなんてとんでもないお笑いだと思われた。
何かマンガのような選挙だった。

いまになってみると、世間を騒がせて知名度をあげ、それで商売するのが堀江だというのだから、それはこの選挙にふさわしいものだったのだろう。
この選挙自体が堀江を担ぎ出して話題をつくり、それで得票しようというインチキ選挙だったのだから、なるほどもっともふさわしい候補者だったのかもしれない。

フジ産経グループの仕事、扶桑社の仕事にも興味があると言っていたことも思い出される。扶桑社といえば、「教科書をつくる会」の「新しい歴史教科書」を発行した出版社である。

それにしても、自民党のはしゃぎようはどうだったか。武部幹事長とか、竹中大臣とかが大げさなことを言ってむやみに持ち上げていたのはこの頃になって知った。
当時は、この選挙になんの関心ももたなくなって、選挙関係の番組はほとんど見なかった。
まったく騒がしいばかりのつまらぬ選挙だった。

自民は堀江を利用し、堀江は選挙を利用したのだろう。似たもの同志のお笑い番組だったのだ。
それにしても、テレビのはしゃぎようはひどかった。
そのために、私などはすっかり興味をうしなったのだ。

それにしても、あの堀江がさまざまな違法行為をしていたとはおどろきだ。
そして、マスメディアの堀江バッシングはどうだ。
かつて現代の英雄ともちあげ、いまは稀代の悪党というわけだ。
しかし、私には、なんだか堀江がかわいそうな気さえする。

金がすべてというのはいまの時代の合言葉のようなものではないか。
構造改革といい、規制緩和といい、リストラといい、竹中さんの思想なんか、金がすべてで弱者は容赦なく切り捨てろというのではないか。
余裕もなく人情もない無法の世の中になった。
若い堀江は、そのいまの世の風潮を代表し、臆面もなくそれを主張して、マスメディアの寵児になった。
義理も人情もなく、金がすべてであるなら、金の力で無理も通せるというのなら、少々の法律違反は、見つかりさえしなければだれもがするのだろう。
だが、世間を知らぬ堀江は限度を超え、いい気になってやりすぎたということではないのか。

東横インの社長が、とんでもない違法行為をやって、速度制限をついついオーバーしたくらいのことだと言っていたのが印象的だ。

耐震強度偽装事件の関係者が地震が起こっていっせいに崩壊事故が起これば、自分たちの犯罪もわからなくなると言っていたのも印象的だ。

そんな世の中だ。
アメリカの食肉検査も同様ないい加減さなのだろう。
道路公団、防衛施設庁の談合等々、見つかったら運が悪いくらいのことで限りなく違法行為が横行している。

堀江を攻撃することでいまの世の根本的なゆがみが見うしなわれているような気がしてならない。
マスメディアの醜悪さが少しも自覚されずに、彼らは正義・人道の戦士であり、時代の声を代表するものだと誇っているのだ。

こうして日本はどこへ行くか。

アメリカは理不尽な戦争でイラク人民を苦しめている。
力がすべてだという思想と金がすべてだという思想が相まってこの世を動かしている。
アメリカのエンロンの事件などは堀江の事件などとはくらべものにならない犯罪だ。
そのアメリカを日本は崇拝して、途方もないところへ落ち込んで行く。
堀江の事件がいまの世界の根源的な問題をあばき出し、新しい思想を生み出す契機になるのだろうか。マスメディアの自己反省の契機になるのだろうか。

まだまだ、狐や狸が躍り狂う喜劇はつづき、破滅の底に達してはいないと思われる。

「虞美人草」に次の言葉がある。

「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気は中々已(や)まないものだ」
「已(や)まなくって好いから、突き当るのは真っ平御免だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工の好な人間がさ」

「虞美人草」の末尾に甲野さんの手記の次の言葉が記されている。

「悲劇は遂に来た。来るべき悲劇はとうから預想していた。預想した悲劇を、為すがままの発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業(ごう)深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世に跨がる業(ごう)を根柢から洗わんが為である。不親切な為ではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目を揺(うご)かせば一目を眇す。手と目とを害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意に外ならぬ。

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前号で渡辺恒雄のことを書いて、そのあと、渡辺の自著「わが人生記」、魚住昭の「渡辺恒雄 メディアと権力」を読んだ。
私と渡辺は中学が同じだっただけでなく、大学も学部も同じだった。渡辺のことを考えていると自身の青春がさまざまに思い起こされた。それについて書きたいと思っていたが、事件が相次ぎ、それを書く余裕をうしなった。
機会を見て書きたいと思う。
ただ、魚住の本を読んで、前号に書いたことに誤りがあるのに気づいたので、それだけを訂正しておきたい。

渡辺が「ノレンは開成のガンだ」と叫んだと書いたが、配属将校のノレンの名は指さずに、彼らがいる橋の下に向って「開成のガン」と叫んだのらしい。
私は直接にいあわせたのでなく、「ノレンは開成のガンだ」と叫んだという話が伝説のように伝えられていたのだ。

  伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

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09/13/2005

第168号 2005年9月13日 選挙が終った。

ペテン師がしかけた田舎芝居のようなどぎつい選挙だったが、自民党の大勝利に終った。
これほどの勝利は小泉首相も想像していなかったのではないか。
それだけになにか中味の希薄な危うさを感じる。

当選した新人たちがなにかひよわく心もとなく見えるのだ。
彼らは、小泉の指名に喜んで応じた尻軽達のような気がするからである。
ひたすら小泉の郵政改革を唯一の政策としてたたかった彼らに、複雑な日本の現実に対するどれほどの洞察があるか疑わしい。
郵政についても、小泉の改革を支持する、改革をとめるな、とばかりくりかえして、その細部についての知識もないという場合が多かったのではないか。
選挙は、ただただ自己主張があるだけで、多くの疑問にこたえる討論の形をとることはなかった。

それは、他の候補者たちの多くも同様だったと思われる。
小泉さんを支持するかどうかがすべてで、個人の識見が問われることはなかった。
これはまさに小泉のワンマンショウだった。
小泉にしても自己主張を派手なパフォーマンスで繰りひろげるばかりで、まともな党首討論で論点を深めるということはなかった。
アメリカの大統領選挙ではきびしい討論が何度もおこなわれ、これがさまざまな角度から評価され、選挙結果に大きな影響をあたえる形をとっていた。
こんな言いっぱなしの一方的な自己主張がゆるされるなら、それは、パフォーマンスの上手下手で選挙結果がきまってしまう。
劇場型だとかなんだとかいうが、たとえ、劇場型でも、きちんとした討論の場は設けられなければならない。
それを怠ったマスコミは怠慢だ。
それを逃げる小泉をゆるして、そのパフォーマンスをほめたたえるだけでは、マスメディアは何をしていたのかということになる

今度の選挙結果を招いた責任の大半は、小泉の派手な選挙パフォーマンスをおいかけつづけ、その批判を怠ったマスメディアにある。
そのことをはっきり確認しなければならない。
結局、日本には民主主義は根づいていない。
若者の政治常識のなさがいわれるが、政治常識ガないのは若者だけではないだろう。

いまの政治制度、選挙制度が根本から問い直されなければならない。
いまのマスメディアの在り方が問い直されなければならない。
アメリカを手本にするなら、その選挙の実態についても、もっと明らかにされなければならない。
アメリカの民主主義を手本にすると言いながら、その実態は、はるかにかけはなれているのではないか。

それにしても、このインチキとまともにたたかえなかった民主党の情けなさは言いようもないものだった。
これでは、将来も、政権を取ることなど出来はしない。
政権獲得を唯一の結党原理とするこの寄せ集めの集団は、やがて、解体することになるだろう。
自己の政治理想もなく、ただ、政権獲得を目的とする政党なんてとんでもない欺瞞集団であり、政治を堕落させるものだ。
こんなヌエのような政党が、あの自民党のしたたかなペテン師に対抗することができる筈もなかい。そして、これからもあり得ない。

頑固に自民を批判し「野党」であることを強調した共産党や、平和、護憲一辺倒の社民党が、二大政党化を標榜して小政党に圧倒的に不利な状況でがんばり、議席数を維持し、または微増させたのは、わずかな救いだった。

とにかく、馬鹿げた選挙だった。
しかし、この結果はこれから当分の日本の政治を支配するのだ。
さらに彼らが、大勝利に驕りたかぶって、途方もない暴政を強行し、それを決断力があるとか、実行力があるとか、ねぼけたことを言って見過ごすなら、日本は大変なことになる。

たたかいは終わった。
しかし、これは新しいたたかいのはじまりだ。
嘆くのでなく、絶望するのでなく、いま、新しいたたかいをはじめるときだ。

残暑はきびしいが、秋は日に日に深まって行く。
それぞれの場所で、それぞれのやり方で、たとえ小さくてな力であろうとも、日本の民主主義と戦争反対のたたかいのために、はたらくことが必要なのだと思う。

伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/


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08/30/2005

駒大苫小牧高校野球部の暴力事件と小泉総選挙

>>日々通信 いまを生きる 第163号 2005年8月30日<<

駒大苫小牧高校野球部が2年連続で夏の高校野球全国大会に優勝し、57年ぶりということで大きな話題になった。
ところが、苫小牧高校野球部では27歳の監督が部員を殴打したことが問題になり、ふたたび大きな話題になった。

監督は3,4発殴ったというが、被害者側は20発以上殴られたという。さらにはスリッパで殴ったことも問題になっている。

優勝のかげにはこんな残酷な暴力行為がかくされていた。このニュースを聞いて、それがいま被害を訴えている部員だけの問題だと思う人はないだろう。

全国大会直前に明徳義塾高(高知県)が部員の暴力と喫煙が発覚し、同大会出場を辞退した。

これらの事件で目立つのは学校側が消極的態度を取って、親や部外者からの訴えでようやく最小限の対策を取っているということだ。

多分、こういうことは話題になった学校だけの問題ではないだろう。
中学・高校、特に全国優勝をあらそう高校の運動部については、いろいろに言われてきた。
そのスパルタ訓練、優秀選手を集めるためのスカウト合戦などはしばしば問題にされた。

しかし、勝てばいい、勝つためには何をしてもいい、という風潮が有名学校の運動部を支配している。
そして、それを批判するマスメディアも、優勝すれば、まして、連続優勝を達成すれば、郷土の名誉と持ち上げ、社会面をあげてほめたたえる。

いまの世はすべてがあいまいで、虚偽とペテンに満ちている。正邪善悪が不確かである。そのとき、スポーツの世界では、勝敗が簡単明瞭で、それに異論をさしはさむ余地がない。
いまの、新聞、マスメディアで信じられるのは、天気予報と、スポーツ欄ばかりかも知れない。

特に、ひたすら勝利のためにすべてをささげてたたかう若者の姿は感銘を与える。
しかし、勝とう勝とうの一念に駆り立てられて、他の一切が忘却されるなら、それは由々しいことである。
まして、それがマスコミでもてはやされ、名誉と賞讃が集中することになれば、新しい弊害をもたらすことになるだろう。

特に、学校経営の道具になり、校長や監督が名誉のために手段をえらばぬということになれば、アマチュアスポーツの堕落である。

私は熱闘の高校野球に感動することがあるのも事実だが、しかし、それが運動部の暴力的指導の温床になっていることを思うと、やりきれない。


苫小牧高校野球部の記事を読んでいて私は自分の兵隊生活を思い出して苦しかった。初年兵に対する教育の名による言語に絶する暴力的制裁、それが国のため、天皇のためという絶対的な権威の名で行われた。

漱石は「学者と名誉」「文芸院はなにをするか」「文展と芸術」等で、学者や芸術家に賞を与えることに反対した。自ら、博士号の授与に反対したことはよく知られている。

戦争の時代は価値の多元化を排して、ある価値の絶対化がおこなわれる。
勝利は大事かもしれないが、それがすべてではないだろう。
勝利のために他のすべての価値が排除され、あらゆる暴虐が許される。
それをファッショ的人間支配という。

いまは、そのような荒っぽい気風が蔓延しはじめているのではないか。
郵政改革は大事かも知れない。
しかし、それがすべてではない。
いま、世界は重大な転換点に立っている。
朝鮮問題は、日本とアジアの未来にとっての重大問題だ。
しかし、いま、それについての小泉首相や町村外相の見解を聞くことはできない。
マスメディアは選挙一色だ。

元来、この問題は、自民党内部で解決して提案されるべきものではなかったか。
与野党の対立も深刻だ。
それほど意見の対立が深刻だということは、もっと、じっくりと考えるべき問題だということではないか。
小泉の意見だけがすべてだというわけにはいかない。
それを、自分に反対するものは守旧派だとして、排除する。
党内の反対派を排除するために、解散・総選挙という憲法違反的強行手段を取る。
元来、党の問題は党の問題として、党内で処理すべきではないか。
反対投票をしたものを除名にするというのなら、それは党内問題として理解できる。
彼らを排除するために解散・総選挙に訴えるというやり方は納得できない。
彼らを除名したのでは、小泉の意見がますます通らなくなるから、とんでもない解散・総選挙という強行手段に出たのであろう。
なんという小狡い権謀術策であろう。
自己の権力を保持するために、選挙を道具に使うというのはゆるされないことではないか。
郵政改革は<憲政の常道>を蹂躙しても、いま、あわてて実現しなければならないことなのか。

彼らは、自己の目的のためには、これまでになかった強行手段で、国民を動員して自民党内部の反対派を排除する。
それはやがて、国民から、非常の強行手段で、反対派を派除することに道を開くことになる。
いま、はじまっているのはファッショ強権支配のはじまりだ。
はじめは<処女の如く終りは脱兎の如し>という言葉がある。

実行力とか決断力とかいうことをあげて小泉首相を評価するむきがあるが、あの戦争に駆り立てるファッショ体制の確立も、実行力や、決断力が讃美されたのだった。
二・二六事件を国民はよろこび迎えたのだった。
新体制とか、大政翼賛会も国民は歓迎し、バスに乗り遅れるなと、政党を解散して、挙国一致体制をつくったのだった。

あとになれば、いまがどんな時代だったかが意味深く思い返されることになるのだろう。

いよいよ、総選挙だ。
私たちがいま歴史の転換点に立って重大な決定をしようとしているのだということをあらためて思う。

颱風が過ぎて秋の到来を感じる季節になりました。夏休みも終りです。お元気でお過ごしください。

     伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/

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