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韓国日本語文学研究会にご招待いただき、講演の機会をあたえてくださったことに感謝します。
日本と韓国のあいだには日本による韓国領有、過酷な支配という悲惨な過去がある。それを忘れて、いま、韓国で日本文学について語ることはできない。それは過去の不幸な出来事ということはできない。「強制連行」や「従軍慰安婦」の問題について、いまの政府(当時)が責任を明らかにせず、その事実についてさえ明確に認めようとしないからである。
しかし、朝鮮や中国人民に対する過酷な抑圧と虐使の根柢には日本人民に対する同様な抑圧と虐使があった。また、売春の強要、性奴隷化は日本人女性に対してかつてながくおこなわれた。これが従軍慰安婦問題の基盤となったことは明らかである。小林多喜二はこれらの問題を追及し、事実を隠蔽する政府やジャーナリズムの欺瞞とたたかい、そのために、警察に検挙されたその日のうちに拷問で殺されるという最期をとげた。
多喜二は『蟹工船』(1929年『戦旗』5、6月号)に帝国主義的搾取の実態を次のように記している。
――内地では、労働者が「横平(おうへい)」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪をのばした。其処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。[中略]「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、棒杭にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱(な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。
この虐待の現実は強制連行の現実をまざまざと想像させる。『蟹工船』に付記として多喜二は「――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。」と記している。北海道は元来はアイヌ人が居住する蝦夷地だった。江戸時代には松前藩がおかれ、アイヌとの交易等に従事し、北海道と呼ばれるようになった。開拓移民が大量に移住し、急速に開発が進んだのは、明治になってからである。最初は没落した士族が屯田兵として移住していったが、やがて内地で行きづまった人々が大量に流入して行った。小林多喜二の一家が秋田から伯父をたよって小樽に移住したのは1907(明治40)12月下旬だったが、翌年一月から小樽区若竹町で第2期小樽港築港工事が開始された。一家はこの工事現場の近くに居住し、パン屋を開業した。小樽は北海道の物産、石炭,木材,農産物の移出港となり,同時に港湾を背景とする商業活動の中心地として発展した。特に日露戦争以後は本州,樺太,大陸との間の船舶の往来がさかんになり、商業活動が活発だった。この小樽の繁栄をささえるものは内地から移住してきた貧しい小作農民であり、苛酷な労働を強いられる監獄部屋の労仂者であった。
築港が埋立された、倉庫が立つ、レールが引かさる、文化が開けると云う。然しそこには、「監獄部屋」によって、封建時代の「人柱」のそれが、一分一厘も違わずそのままそっくりより巧みな近代的な方法でちアんとなされているのだ。鉄道が開通した、国道が開けた、そう云って提灯行列でもする、だが然し、そこの土には生きた人間の血と骨が、うずめられているのだ。
文明だ、進化だと云う--(その実誰の文明だ、誰の進化か!)が、その底にいて、そいつを支えている人柱が、誰でもない「プロレタリアート」なのだ。文字通りそうなのだ。自分等のものゝ為でもないのに!
「人を殺す犬」(小樽高商校友会誌第38号 19216年8月稿)の改作「監獄部屋」(ノート稿)の一節である。多喜二は築港建設工事現場の近くに育ち、そこではたらく労仂者の現実、逃亡した労仂者がどんな目にあうかを見聞して知っていた。 「監獄部屋」には次のように書かれている。
その時後から蹄の音が聞えた。
捕まった! 皆ギョッとして立ち止った。振りかえってみた。--源吉だった。
源吉はズブ濡れの身体を糸捲きのように、幾回にもロープでしばられていた。その綱の端が、親分の乗っている馬につながれていた。馬が少し早くなると、--ワザに早くするんだ--源吉は奴凧のように身体を振って、でんぐり返った。そしてそのまま石ころだらけの山途をズルく引きずられた。絆天が破れて、頬や額から血が出ていた。その血が土にまみれて、ドズ黒くなっていた。
アメリカ映画で白人が黒人を虐待する情景としてこのような場面が見られるが、日本でそれがあったとは信じられない。しかし、この作品のもとになった「人を殺す犬」では逃亡した労仂者をに土佐犬をけしかけて殺す場面があり、これは『蟹工船』の前掲引用文にも見られる。この「人を殺す犬」は「あまり残酷なので出せない」と高商の占部教授が言ったことについて「これを出す出さないなんて、些々たることだ。出したからって、出さないからって、『現実にある』事実をどうする積りだ。」と日記(一九二七年三月二日夜)に記している。
『蟹工船』には、国のためだ、国際競争に勝つためだといって、極限まで苛酷な労働に追い立てられる労仂者が「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」「こんなこと内地クニさ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ。」「んさ。 ーこったら事って第一あるか。」などと話し合う場面がある。「炭山ヤマから来た漁夫」は「生命エノヂ的マドだな!」「やっぱし炭山ヤマと変わらないで。死ぬ思いばしないと生エきられないなんてな。瓦斯も恐オッかねど、波もおっかねしな。」と言う。この男は夕張炭坑で七年も坑夫をしていたが、ガス爆発で危うく死にそこねてから坑夫が恐ろしくなり、鉱山ヤマを下りてこの船に乗り込んだのである。
「漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や鉄道敷設の土工部屋へ『蛸』に売られたことのあるものや、各地を食いつめた『渡り者』や、酒だけ飲めば何もかもなく、たゞそれでいゝものなどがいた。」と多喜二は書いている。蟹工船には内地で行きづまって北海道に流入し、さまざまな労働を経験した貧農や労仂者が集まっていた。蟹工船の現実は決して孤立した〈異常な〉世界ではなかった。日本資本主義の発展を根底において支え、その矛盾が集中している最底辺の一般的な現実であった。
多喜二は蔵原惟人に宛てた書簡にこの作品は「蟹工船とはどんなものかということを一生ケン命にかいたものではない」「資本主義は未開地、殖民地にどんな『無慈悲な』形態をとって浸入し、原始的な『搾取』を続け、官憲と軍隊を『門番』『見張番』『用心棒』にしながら、飽くことのない虐使をし、如何に、急激に資本主義的仕事をするか」を描き出そうとしたのだと述べている。
「北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。」多喜二は監獄の囚人より苛酷なな労仂者虐待の実態をこのように記し。「殊に朝鮮人は親方、棒頭からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。」と記している。
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小樽には積み荷や築港工事の現場で働く多数の朝鮮人労働者とその家族が暮していた。、彼らの生活を身近に感じて育った多喜二にとって、数千人のの朝鮮人が虐殺された関東大震災は衝撃だった。犠牲者6600人といわれてきたが正確な数字はわからない。事件の発端は「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をする」との流言だった。警察はこの流言にもとづいて「鮮人中不逞の挙についで放火その他兇暴なる行為に出ずる者あり」として厳重な取締りを命ずる命令を各署に出した。流言は拡大し、「銃器・兇器を携(たずさ)えた鮮人約二百名、玉川二子(ふたご)の渡しを渡って市内にむかって進行中」などと報告され、警視庁は、不穏の徒があれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令をくだし、自動車、ポスター、メガホンなどによって朝鮮人来襲の報を全市にまきちらした。朝鮮人暴動の流言は警察と軍隊の通信網によってつたえられ、新聞も大活字で市民の興奮をあおりたてた。流言は流言をよび、だんだんと尾ひれがついて「社会主義者やロシアの過激派がうらで糸をひいているのだ」などと言われ、社会主義者も市民のテロルにさらされることになった。救援活動に尽力していた南葛の労仂者平沢計七や河合義虎らが殺された亀戸事件、大杉栄事件などがおこった。
この震災の朝鮮人虐殺事件を題材に越中谷利一は「一兵卒の震災手記」を書き、一九二七年九月の『解放』に発表した。千葉県習志野の騎兵連隊に属していて、帝都の治安維持のためということで、実弾を携行し、戦時武装で出動させられた体験にもとづく作品で、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載された。
ああどうしたならば殺すことが出来たのか?――自分の前によろよろと両手を合わして跪いた彼等、国を××れ、国を追われ、××と侮辱と虐遇の鉄鞭に絶えず生存を拒否されつつ流浪して、今喰うに食なく、宿るに家なき――彼等を、どうして此の××××××××突くことが出来たのか。
「一兵卒の震災手記」の冒頭の一文である。朝鮮人の多くは、民間で組織した自警団によって殺されたが、警察や軍隊はこの暴行を阻止するどころか、自らも命令を下して、銃撃し、銃剣で刺殺した。虐殺は何日もつづいた。「一兵卒の震災手記」の主人公は、震災後十日もたって、夜間、非常呼集でたたき起され、集団化した朝鮮人を包囲して、皆殺しにする戦闘に参加させられた。この事件の背後には朝鮮人に対して過酷な抑圧と搾取をおこなっていた日本人が朝鮮人の復讐、独立運動をおそれていたという事実がある。朝鮮人は東京の各地で追い立てられ、逃げ惑っているうちに集団化したのであるらしい。日本軍は彼らを一か所に追い込み、突撃命令を出して、皆殺しにする作戦をとった。まさに戦争だった。
越中谷は、自身の経験によってこの暴行を描いたという。前記引用文は作者自身の感慨であろう。××が多いが、これは戦後、可能なかぎり復元された『越中谷利一著作集』によったのである。当時はさらに伏字が多く、最後の二頁は削除されてしまっていた。この作品は一九二七年九月の『解放』に発表され、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載されたが、このときも、最後の二頁は削除されたままだった。
『戦争ニ対スル戦争』が刊行されたのは、一九二八年三月十五日の大弾圧の直後のことである。ながくつづく経済不況は金融恐慌に発展し、倒産と失業がひろがっていた。中国では国民革命が進行し、北伐がはじまっていた。これに対して、日本の軍部は住民保護を名として軍事干渉に乗り出し、中国に対する軍事支配に不況脱出の道を求めた。1927年の五月には山東省に出兵し、6月には東方会議で対支侵略の基本方針を定め、28年6月には、満州で張作霖爆殺事件を起こした。天皇の名のもとに侵略戦争を推進するためには、これに徹底して反対する社会主義者、共産主義者を抹殺しなければならない。こうして三・一五の大弾圧が強行された。
小林多喜二はこの大弾圧に抗してたたかう人々をを描いた「一九二八年三月十五日」によってプロレタリア作家としての道を歩きはじめたが、1933年治安維持法によって検挙され、苛酷な拷問で殺された。「 国体もしくは政体を変革し、又は私有財産制度を否認することを目的」とする運動に加入したものを「10年以下の懲役又は禁錮に処す」と規定する治安維持法は、震災のどさくさにまぎれてあおりたてられた朝鮮人や社会主義者に対する恐怖と反感を利用して、震災直後の1925年4月制定公布された。さらに3・15事件で恐ろしい共産主義の幻影を国民に吹き込んで、最高刑を死刑とする改悪を実現した。
治安維持法は3・15事件を機に全国的に拡充強化された特高警察によって反政府・反資本主義的な思想や運動に対する調査・弾圧を常時おこなった。治安維持法はしたことを取り締まるのではなくて、政府に反対する思想を持ち、反政府団体に加入すること、すなわち思想を取り締まったのだから、あらゆる進歩的な個人や団体が対象とされ、スパイはその周辺をかぎまわった。プロレタリア文学は資本家・地主とのたたかいを描く文学だったが、それは権力とのたたかい、治安維持法=特高とのたたかいとして展開された。
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小林多喜二は1921年に小樽高商(現小樽商大)に入学し、1924年に卒業した。関東大震災は小樽高商在学中のことで、1923年11月、関東震災義損外国語劇大会でフランス語劇メーテルリンクの「青い鳥」に一級下の伊藤整とともに出演した。この高商時代にロシア革命と大戦後にひろがったデモクラシーと社会主義思想の影響を受け、革命と芸術、ヒューマニズムと社会主義の矛盾を悩み、卒業後の作家的生活の理論的基礎を養った。
1924年、高商を卒業して北海道拓殖銀行に就職するが、1925年10月、多喜二の出身校小樽高商で、配属将校が軍事教練で近郊の天狗山で地震が起こり民情不安を機に無政府主義者が〈不逞鮮人〉を扇動して小樽,札幌両市の全滅を画策しているので高商生徒は在郷軍人会と協力して,この敵を絶滅すべしとの想定を与えるという事件がおこった。小樽高商の学生は労働団体や朝鮮人とともに抗議に立ち上がり,小樽高商の学生の運動は全国的な軍事教練反対運動に発展した。母校でおこったこの事件から多喜二に大きな影響を受けたはずである。
1928年2月の第1回普通選挙の選挙運動では多喜二がはじめて政治的な実際運動に参加したが、このときの経験を作品化した「東倶知安行」には、同じ車中の「北海道の奥地の炭坑か土工部屋(監獄部屋)からの帰り」らしい20人ばかりの朝鮮人について書いている。
春と秋――冬、北海道の大抵のどの汽車の中でも、私達は十人、二十人の朝鮮人の群を見ることができる。プロレタリアは故郷を持たない。その標本が朝鮮人だった。そして更にそこに民族的な**関係が入りこんで、文字通り彼等は「故郷」の代りに「風呂敷包」一つを何時でもブラ下げて移り歩いている。しかも、労賃が日本の労働者よりも安いところから、日本のプロレタリアは朝鮮人に団結の手を差出す代りに「敵」だとさえ感ずる。アメリカの労働者と日本の移民のように。
O市の合同労働組合には、朝鮮人の団体と日本人の団体を持てあまして、それに対する正しい指導を持ち得ずに、根ッから失敗した苦い経験があった。それは私もきいていた。――こゝにも我々が必ず手を触れなければならない、然し最大の困難を伴う未墾地があった。
汚い手拭で鉢巻きをした小柄な朝鮮女が、身体を紙挟みのように二つに折って、うなっていた。女は不意に黄色いものを前一杯に吐いてしまった。監督らしい日本人がいて、何処かへ売渡しに引張って行く処らしかった。朝鮮人が女が死にそうだから、なんとかしてくれ、と云ってるらしいが、監督は手前え達に、そんな****のことがしてやれるか、自惚れるなと言ってるらしかった。この様子をじっと見つめて報告した吉川は、朝鮮問題に「可なり鋭い、深い考え」を持っていて、レーニンの民族問題と階級闘争の相関々係などを、朝鮮の具体的な事実について話した。
「東倶知安行」は高商卒業後銀行員になり、不幸な境遇の田口タキに対する愛を通じて自分自身の問題として日本社会の暗黒に触れ、次第に社会主義への傾斜を強めていった多喜二が、1928年2月20日の第一回普通選挙の選挙運動に参加し、高揚する運動の波の中でこれまでの自分と訣別し、新しい生涯へふみ出そうとしたことを描いた作品である。この作品で多喜二は移動する朝鮮人労働者の姿を描き、朝鮮人問題をこれから解決しなければならない問題だと強調していたのである。
「東倶知安行」を書き上げて間もなく、次の言葉ではじまる「自分の中の会話」(『文章倶楽部』一九二九年一月号)を書いている。
大名と地主と武士、この三つを何百年前から両肩に背負わされて、厳丈なその肩がそれ故にセムシのように湾曲している秋田のドン百姓が、矢張りその子供であるがために、生まれる前から)已にそうと朱印を押された第百番目かの(!)不幸な子供を生んだ。
土地を奪われた農民は移住民となって後から後から津軽海峡を渡り、北海道の奥地へ吸いこまれていった。「雪の平原を歩いてゆくとき、その一人一人の足に、然し矢張り重い鎖が不気味に引きずられていたのを、ドン百姓の子供は母親の骨っぽい背に感じていた」という原経験が多喜二の生涯と文学の根柢にある。故郷を追われた貧農の子という自覚が田口タキと深いところでむすびつけ、「防雪林」や「不在地主」の移住農民たち、「その出発を出発した女」や「瀧子其他」の女たち、「蟹工船」の労働者たちを、まざまざと自分の問題として描き出させたのであろう。「東倶知安行」に書かれた故郷を追われて北海道の各地を移り歩く朝鮮人労働者に対する強い関心も、この土地をうばわれた移住民の自覚と結びついている。貧農の子としての自覚、その歴史性の認識は多喜二の世界を急激に深め、発展させた。
「『カムサツカ』から帰った漁夫の手紙」(『改造』1929年7月号)には北海道に移住してきて、その日その日の暮らしのためにさまざまな臨時の季節労働を転々とした末、ついにカムチャツカ迄出掛けて行くようになった漁夫の手紙という形態をとって、その苛酷な労働の実態を記述しているが、次のように書いている。
食うためなら、我々労働者は北極迄も行くでしょう。然しやっぱり樺太あたりへ行くのとは異い、函館の港を出るときは、さすがに背中が寒かった。デッキに一時間もつかまったきりだった。妻と二人で、内地から雪の深い北海道へ初めて移住してきた時のことが、頭ヘジリくとかえってきた。又!又俺達は北へ追われるのか、フトそんな気になると、いくら擂木(スリコギ)のような漁夫だって、何んか、こう、いても立ってもいられなくなるようです。たった風呂敷包一つ持った、薄汚い朝鮮人が北海道のどの汽車にも、必ず一人は乗っている、あれを憐んだことがあった。今度こそ、それがそのまゝ自分だと思わさるのです。
この作品でも「朝鮮人やアイヌは、丁度日本の労働者がアメリカで嫌われるのと同じように、嫌われてい」ると書かれている。その朝鮮人を憐れんでいたが自分もまた同じ身の上なのだと思うのです。帝国主義の搾取に故郷を追われ、遠くカムチャッカまで流浪していく自分と、祖国を追われて日本の北の果てまで流浪する朝鮮人の同類性を明らかにし、日本帝国主義は日朝両国人民の共同の敵であるとを多喜二は明らかにした。その日本の労仂者が朝鮮人労働者を疎外し、侮蔑し、敵視し、反目し合っている。
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プロレタリア作家としての出発点で朝鮮人労働者の問題に注目した多喜二は、自己の思想的成長を大きなと運動への参加を日本の大きな時代の動きのなかに描き出そうとした大作「転形期の人々」(未完)では、朝鮮人を具体的な個人の登場人物として描こうとした。この小説は壊れかけたアパートの改築にともない家賃の値上げ問題がおこり、これに反対するさまざまな過去をもつ極貧の居住者たちが、次第に力をあわせてたたかおうとする1000枚におよぶ大作として書きはじめられたが、その序篇だけで満州事変がおこり中断された。発表は『ナップ』1931年10月号から『プロレタリア文学』1932年4月号まで約430枚、なお死後に残された未発表の断稿約50枚がある。
小樽の街には三千人以上の朝鮮人が、それも手宮の街とその附近にゴミくとさゝり込んで住んでいた。ーー小樽で一番朝鮮人を使って、その安い賃銀で一番儲けている商業会議所の副会頭の言葉に従えば、それは「小樽の虱」だった!
岩城ビルには毎日のように、朝鮮人が子供を背負った細君をつれて汚い風呂敷包み一つ持って室を借りにやってきた。しかし、差配は部屋が空いていても、朝鮮人の家族だけは二階のきまった室以外には入れなかった。若い独身の李、家族持ちで四十近い洪、夕張炭山で七年も坑夫をしていたという陽、冗談を言っては自分から「ヘッゝゝゝ」と笑って皆をわらわせる金さんなどが今住んでいる朝鮮人だった。
「東倶知安行」では群としての朝鮮人が描かれたにとどまるが、「転形期の人々」では姓があり、それぞれの過去と個人的特徴を持ったさまざまな朝鮮人が登場し、家賃の値上げ反対の運動で貧困な日本人居住者とともに積極的に活動する。居住者の間の差別意識は強かったが、家賃値上げ反対ということでは利害が一致し、民族的差別意識を乗りこえた共同のたたかいが展開されることになると思われる序篇の展開である。
日本人労仂者と朝鮮人労働者の対立の問題はこの作品でも描かれている。「合同労働では朝鮮労働者の問題が瘤だって云ってたよ」と若くて日本人よりも上手な日本語を使う李が云った。李は朝鮮語のほうが日本語よりすらすらしゃべれなかったが、日本語がたどたどしい年長の洪や陽のために朝鮮語をまじえて熱心に説明した。港で働いている合同の労働者たちが、朝鮮人に対してハッキリした対策をたてゝくれないと、飢え死するッて組合へ云ってくるということだった。現場の親方は又それをいゝことにして、お前ら組合を出たら、朝鮮人をやめて使ってやると引ッ掛けてきているらしかった。理窟は簡単で、あくまでも朝鮮人労働者の賃金を日本の労働者と同水準に高める、そのために日本人労働者が朝鮮人労仂者がと一緒に全部結束して同じ賃銀を獲得すれば、問題は解決するのだが、それがオイそれと出来ないので困るというのだった。
陽は「夕張炭山やッぱり同し」「夕張炭山クミアイ無い。それでも同し。日本人みんなイヤがる!」陽は朝鮮語で早口に「困る、困ると云っていたのでは、何時までも困るんだ。日本の労働者も困るし、何時までも安い賃銀で馬小屋よりもモット汚いところに往んでいる朝鮮の労働者も困るんだ。やる方法がたった一つしか無いとしたら、オイそれと出来なくたって、矢張りやらなければならないんだ!」という意味のことを云った。李はその朝鮮語を誰かに分られはしなかったかと思ってヒヤッとし、陽にモッと小さい声で語せと朝鮮語で云った。
民族的差別による朝鮮人労働者の低賃金と苛酷な労働は、日本人労仂者の低賃金や苛酷な労働条件の基盤であり、朝鮮人労仂者の解放なくして日本人労仂者の解放はない。資本は民族的な差別意識を利用して、労仂者を分裂させ、相共に植民地的労働条件に押し込めている。これは理窟としてはわかっているのだが、実際には民族的差別意識に支配されて実現は困難だ。陽の「やる方法がたった一つしか無いとしたら、オイそれと出来なくたって、矢張りやらなければならないんだ!」という言葉の意味は朝鮮の独立を実現する以外に解決はないということだろう。それだから李はこの言葉がこの言葉の意味がわかることをおそれたのだと思う。
多喜二はこの作品のつづきを書くことに執着し、49枚の書きかけの断稿が作者が地下活動中いつも身辺におき、書籍や原稿類をいれていた大型トランクのなかから、作者の没後に発見された。執筆途中で警察の手で殺されたことは返す返すも残念なことである。
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日本の社会主義者は朝鮮の独立運動を支援し、朝鮮人労働者は日本の社会主義運動を支援した。中野重治は1929年、昭和天皇の即位を祝う御大典のために強制送還される朝鮮人の同志に贈る「雨の降る品川駅」(『改造』2月号)を書いた。
辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する
李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母〔ちちはは〕の国にかえる
[中略]
君らは雨にぬれて君らを追う日本天皇を思い出す
君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫背の彼を思い出す
[中略]
君らは出発する
君らは去る
さようなら 辛
さようなら 金
さようなら 李
さようなら 女の李
行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ
ながく堰〔せ〕かれていた水をしてほとばしらしめよ
日本プロレタリアートのうしろ盾〔だて〕まえ盾
さようなら
報復の歓喜に泣きわらう日まで 君らは出発する 君らは去る
昭和天皇の時代のはじまりとともに日本の大陸に対する侵略政策は確立され、1928年3月15日の大弾圧は日本と朝鮮の解放運動の先頭にたつ人々を襲った。中野の詩はこの弾圧に対する怒り、解放を求めるはげしい感情のほとばしりであった。それは両民族の連帯と共同の記念碑的作品だった。
日本の中国侵略は植民地を拡大することによって、日本の資本主義の危機を打開しようとするものだったが、それは同時に、日本と朝鮮、中国の労仂者にますます苛酷な植民地的搾取を強いるものであった。多喜二は満州事変勃発後間もなく、1938年2月、文学者として帝国主義支配とたたかうたたかいの途中で治安維持法によって検挙され、警察の拷問で殺された。1928年3月15日の治安維持法による大弾圧で検挙された同志たちのたたかいを描いてプロレタリア作家として出発した小林多喜二はこの治安維持法によって殺された。多喜二の作家的生涯は治安維持法とのたたかいだった。多喜二と同じくあきらかに虐殺されたものは虐殺されたもの80人、拷問・虐待が原因で獄死したものは114人、病気その他の理由による獄死者は1,503人だった。しかし、日本人で死刑の判決をくだされたものは一人もなかった。これに反して朝鮮人で死刑判決をくだされたものは19人におよんでいる。朝鮮人に対する弾圧がいかにきびしかったかを示していると思う。日本人と朝鮮人はともに日本帝国主義のために植民地的搾取を受け、ともに治安維持法による弾圧を受けた。
多喜二が死んだとき、魯迅は次のような言葉を寄せた。
日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界 (さかい)を描いた、又描きつつある。
しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗っている。
同志小林の死は其の実証の一つだ。/我々は知っている、我々は忘れない。
我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。
朝鮮問題に則して魯迅の言葉をを読むならば、次のようになると思う。日本と朝鮮の人民はもとより兄弟だ。資本家階級はだまして互いに反目させ、対立・抗争させる。しかし、小林多喜二ら無産階級とその先駆達は、血を流してこの対立を乗りこえともにたたかう道を切り開いたのだ。多喜二はそのたたかいの途上に倒れた。我々はこの同志小林多喜二の道を受け継いで日朝両国人民の握手を実現するのだ。
これは1933年、朝鮮は日本の植民地であり、中国では日本の軍部が満州事変をはじめ、長い戦争に突入したときの言葉である。その後12年の戦争によってアジア諸国の人民は言語に絶する収奪に苦しみ、そして日本人民もその生活を根本から破壊されたが、1945年8月に日本帝国主義がついに倒れ、アジアの諸民族が独立を実現し、日本人民も帝国主義的抑圧から解放された。戦後60年、独立したアジア諸国は新しい共同によってさらに大きな飛躍を実現しているが、米国に追随する日本は過去の侵略の歴史を美化し、新しい諸国間の共同と発展に反対する勢力が支配しつづけている。いま、多喜二の道を受け継ぐということは、この勢力とたたかい、新しい共同と繁栄の道を切り開くことだと思う。
本稿は2007年10月13日全州大学で開かれた、韓国日本語文学研究会での講演に手を入れたものである。
関東大震災については中央公論社刊「日本の歴史」第二十三巻今井清一『大正デモクラシー』によるところが大きい。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/imaiseiichi.html
越中谷利一の「一兵卒の震災手記」について『平和新聞』に連載した拙稿『文学にみる戦争と平和』第十七回 「越中谷利一 一兵卒の震災手記 『戦争ニ対スル戦争』」と重複する記述がある。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh17.htm
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