小林多喜二『東倶知安行』
『東倶知安行』は、一九二八年(昭和三)二月の第一回普選の選挙闘争の体験を描いている。経験の順序とすれば『一九二八年三月十五日』に先だつわけだが、作品としては『一九二八年三月十五日』のあとを受け、それをのりこえて新しい境地をきりひらこうとしたものである。
『一九二八年三月十五日』を書きあげたときの感動を多喜二はのちに『「一九二八年三月十五日」』(『若草』一九三〇年九月号)その他に書いているが、ひとりでじっとしていることができず、なにも知らぬ友人にコーヒーとビフテキをおごったという。それはただたんに力をこめた作品を完成したという感動であるにとどまらザ、この作品を書きあげることによって、自分が新しい場所に進み出たという感動でもあったとおもう。すなわち多喜二はこの作品によって、敵権力の前にはっきりとその姿をさらし、もはやひき返すことのできぬ場所にわが身をおいた。
『東倶知安行』には、はじめて実際運動に参加した青年の感動があふれるような清新さで描かれているが、それは『一九二八年三月十五日』によって、全体的な革命運動の一翼として新しい一歩をふみ出した作者の感動と重なりあい、それに支えられて、生きいきした文学的リアリティーを生みだしている。そこには『一九二八年三月十五日』を書きあげ、それを発表することによって作者自身のものとなった新しい自己発見の感動、歴史と民衆の広範なたたかいとしっかり結びつけられたという自覚とそれにもとづく新しい決意がある。
二月の選挙のあとで多喜二は『瀧子其他』を改作して『創作月刊』四月号に発表し、また三・一五直後の四月には『防雪林』を書きあげている。いずれも前年からとりかかっていた作品であるが、その末尾が放火、もしくは放火を暗示する形で終わっていることは偶然とは考えられない。『瀧子其他』の場合、前年九月のノート原稿『酌婦』では、窓の下をメーデー行進が通るところで終わっているのだから、この改作部分がとりわけて当時の作者の暗い心境を示していることになる。それは『東倶知安行』の末尾で、開票の当日、「私」が「老人」と場末のバーで飲んでベロべロになってしまうのと無関係ではない。
生まれてはじめて参加した選挙闘争の体験が、多喜二の生涯に決定的な意味をもつものであったことはたしかである。前掲文に多喜二はこの選挙のときいっしょになった「色々のタイプの人たち」について書き、「それ等がすベて全く新しい『驚異』をもって迫ってきた。われわれはそう何時でも、個々の経験に対して『驚異』という言葉を使える打ち当り方をするものではない」(傍点原文)、とのべている。しかしあらゆる努力にもかかわらず選挙は敗北に終わり、現実はますます暗黒にむかって進んでいった。そして多喜二には銀行員としての同じことのくり返しの生活が続いた。選挙の体験が切実であればあるほど、多喜二は焦躁感に苦しみ、ぬけだすことのできぬ中途半端な生活が耐えがたかった。三・一五はこのような多喜二をうちのめした。
「『残されたもの』の悲哀に溺れながら、『午前四時』を、循環小数のように繰りかえしている。ボヘミアンのライフだ。酔眼をしょぼしェぼさせながら、午前三時頃、カフェー・キリンのテーブルで=・=」(傍点原文)と多喜二は三月三〇日の斎藤次郎宛書簡に書いている。ここには挫折感にうちひしがれ、行くべき方向を見失って彷捏する小市民的インテリゲンチアの姿がある。弾圧で仲間たちを失って絶望的になった多喜二は、『防雪林』の末尾を組織的なたたかいに敗北した源青の放火で終わらせざるをえなかった。そのことによって、作者自身のおさえることのできぬ反抗と憎悪を、絶望的なままに投げつけたのである。
たしかに多喜二における社会主義への志向は、一時的な挫折や敗北によってかき消されてしまうようなものではなかった。選挙前の二月二日づけ新井紀一宛書簡には、自分は「必然的に」実際運動に参加していくのだと書き、「それは自分の生活、境遇、意識、文芸と離し切れない交互作用から来てい」ると告げている。多喜二は社会主義者として生きるしかなかった。しかもそうであればあるほど、自分自身のエゴイズムに苦しみ、挫折感におそわれ、懐疑と焦躁と絶望におちこんでいった。そのようなかれをつき動かし、新しい決意をもってたちあがらせたのは、獄中の同志たちの不屈のたたかいであり、ナップの成立であった。
蔵原惟人らのはげましのもとに、『一九二八年三月十五日』を書きあげた多喜二は、自分自身をはっきりと国家権力と対決する場所におき、そのことによって同じたたかいをたたかう数しれぬ人びととしっかりひとつに結びついたのである。この事命的連帯の真新しい感動のなかで、多喜二は、自分が長い孤独な彷復のはてに、ようやく自分のあるべき場所に到達したこと、自分がまさに真の自分として、歴史のまっただなかに、世界のまっただなかに立っていることを感じた。『東倶知安行』をつらぬくものは、この新しい自己発見の感動である。
『東倶知安行』を書きあげてまもなく友人斎藤次郎にあてて、「君が、自分の画のどれに対しても自信のもてないという事は、キット、内面的に見て、自分の本質が分らないからではないかと思う。又、君の描く画が、一作毎に変るのだとしたら、矢張り、本質への盲目から、そのことが来ているのではないかと思う」(一九二八年一〇月六日付)と書いている。多喜二はこのことばを、『一九二八年三月十五日』『東倶知安行』を書くことによって、はっきりと自分自身に到達しえたという自信のうえに立って書いたのである。
もとより多喜二における自分自身の発見は、同時にいたるところのすみずみで、労苦に耐え迫害に抗してたたかい続ける名も知らぬ無数の人々との連帯の発見であり、またこの民衆のたたかいを支える長い苦難にみちた相剋の歴史の発見であった。この発見の感動に貰かれることによって、多喜二は『一九二八年三月十五日』から『東倶知安行』 へとその主題を発展させた。
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『一九二八年三月十五日』ではもっばら警察内部のたたかいが描かれた。大衆からも仲間からもきり離されて、 ひたすら精神力だけを頼りに、極限的な苦痛に耐える孤独なたたかいである。しかしそれとの対決なしにはいかなる革命的思想も空語に終わるしかなかった。天皇制下の日本にあっては、それは避けることのできないもっとも本質的なたたかいであった。多喜二は拷問の場面を力をこめて描き、国家権力の本質をあばきだすと同時に、そのことによって自分自身の小市民性と必死にたたかった。それは獄中の仲間たちのたたかいと同様、外部の現実からきり離され、ひたすら自分自身の極限を見つめるたたかいであった。それがこの作品を重苦しく息づまるものにしている。
『東倶知安行』はこれとはまったく対照的に、選挙闘争というもっとも大衆的な場面で、広範な大衆との結びつき、運動を支える基盤の広さと探さを追求している。吹雪の平原を馬橇で突っ走る場面に象徴されるロマンティックな革命的情熱の高揚は、重苦しい拷問の場面とは対照的である。ここにはひろびろとした広がりがあり、ダイナミックな動きがある。ひとりの青年が中途半端な会社員の生活のわくを破って、躍動する運動の前面に出ていき、直接大衆に語りかけ、働きかける。そしてかれは同志を見いだし、自分自身を見いだす。
しかしだからといって作者は現実の暗い部分を見落としているのではない。『一九二八年三月十五日』と同様に、自分自身の小市民的意識と対決し、また運動そのものが内包する矛盾にも鋭い目を向けている。「私」は選挙のために組合に出入りしていることがわかれば、それだけで「首」になる銀行員だった。そしてその首には六人の親子がぶらさがっていた。しかし「私」は勤めのために表だった活動ができぬことを「運動への大きな『卑怯』」と考え、自分のエゴイズムを乾しく責めないではいられなかった。多喜二はインテリゲンチアの意識と生活の矛盾を追求し、それからの脱出の喜びを描いている。すなわちこのような「私」だったから、遊説隊に欠員ができてそれに参加することができたとき、その喜びは大きく、「出征軍人のように」興奮したのである。
倶知安行きがきまった夜、「私達」がいつも通る薄暗い小路を通る場面を多喜二は書いている。そこには淫売屋が二、三十軒も軒をならべ、「雪の遠慮もなく吹込む土間に、女がショールを首にまきつけて、袖に手をひっこめたまま、表を見て立っていた」。それは初期の多喜二がもっばら追求してきた世界である。出発の前夜の場面にこの情景をあえて挿入したのは、作家としての多喜二が過去への別れを告げているのだと思う。多喜二はこの救いのない暗黒の世界を追求して苦しみ続けてきた。むしろその苦しみによって社会主義へと進み出たのである。そこを巣立って、はげしいたたかいの場へ、光り輝く躍動の世界へ出発サる多喜二は、しかしそのたたかいが、この暗黒の世界に光明をもたらすものであることを、この短い場面で暗示している。ただありのままに経験を語っているように見えるこの作品は、対照の鮮かな、構成に苦心した作品なのである。
出発の朝の場面で、多喜二は沈下ケーソソの工事に行く人夫、駅のベンチに寝ている土工部屋から追い出されたと一見してわかる垢だらけの男を描いている。そして「物憂くあくび」をする駅員や、列車の中の朝鮮人労働者たち、これらの人びとが今朝は特別な意味をもって迫ってきたのである。「私」は自分をとりまく世界としっかり結びつき、どんな他人も自分と無関係なよそよそしい存在ではなかった。銀行の壁のなかで「蛆虫」のように受動的に、無意味に生きた青年が、その長い苦しい彷復のはてに、ついにその壁を破って明るい光のなかに出てきた。この作品のいたるところからあふれ出ているのは、人間的連帯の感動であり、さなぎのからを破ってとび出した人間の、ういういしいよみがえりのよろこびである。
かれは自分が世界に働きかける人間として、はじめて世界のまっただなかに立っているのを感ずる。かれは世界に手蒜ばサ。すると世界もかれに手を伸ばす。そしてかれは自分がはじめて本当の自分として生きているのを感ずる。かれは列車の窓から山のなかにはられたビラを見つけ、「目につく、目につく-・」と「子供のように」喜ぶ。一枚のビラにもそれをはった人たちを感じ、その人たちとの結びつき、またそれを見る人たちとの結びつきを感じるのである。
私は広間諒に集った群衆を見た。私ほ興奮してきた。1私ほ叫ぶ。と、あの無数の群衆がそれと一慧つり上ってく
るのだ。それは本当だろうか。私はこう云う。と、彼等はそうしようと手をさしのべてくる。彼は「求めている。」私はそ
れが「何」であるか、そして、それは「どうすれは」獲得出来るかを云う。そこで、彼等は「そうだ」「そうだった」と云つて立ち上る(傍点)のだ!だが、それほ本当に出来るだろうか!(傍点原文)
はじめて演壇にあがる直前の興奮が、この文章の強い短いリズムを通して、直接に私たちに伝ってくる。私たちは「私」=作者の荒い呼吸の音をさえ聞くことができる。
こうした高揚がもっとも詩的な形象となってあふれ出ているのは、吹雪の平原を馬橋で突っ走る場面である。それはいかにも北海道らしい雄大な、そして荒々しくたくましい描写である。かれらは吹雪に声を奪われながら、無理に声をしばって思い思いに遠慮のない大声で、叫び、かつ歌った。荒れ狂う広大な大自然のまっただなかで、思いっきり解放された若い情熱は、吹雪がほげしければはげしいほど、いっそうはげしくもえあがったのである。しかし多喜二はこうした興奮を手ばなしで讃美しているのではない。吹雪のなかで道遠い、樺をひきかえす惨めな気持を多喜二は書いている。それは壷の象徴的な意味をもつ場面である。光明と同時に暗黒を描かずにいられないのが多喜二のリアリズムである。
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やらせておけば明日の朝までも演説し続けるという、目も見えず耳も聞こえぬ七十歳の老人のことを多喜二は書いている。こんな老人までもがこの運動を支えている。それはまさにひとつの「驚異」だった。かれは酔うとかならず幸徳秋水の昔話をした。十八歳の時から、こういう運動をやってきているのである。多喜二は大きな感動をもって、北のはてに雪に埋もれながら、七十歳になる今日までも、十人歳の日の情熱を失うことなくたたかい続けた老人の姿を描き出している。
この老人を飾る栄光はなにひとつない。金もなく地位もなく、目や写さえも奪われていた。そして余命もなにほどもなく、ついに革命の成就をその眼に見ることなく、空しく死んでいかねばならぬ。息子は老人に背いて家を出ていた。働きに出た娘は工場長におかされ、ストライキに破れてくびになり、いまは身を売って老人を養っていた。多喜二はこの悲惨な老人を通して、日本の解放運動の底辺にあるもっとも深い、もっとも真実なものにふれ、
はげしくゆすぶられている。
「私のような小倒ロな人間は(私はかくさず云おう、実際この老人の前で何んの嘘が云えよう。)この何時目鼻がつくか分らない『何代がかり』の運動を、恐らくそう効目も見えず、又恐らく誰もそう高く『認め』てもくれないこんな所でしかも、こんなに大きな犠牲を払ってやって行ける本当の気持をもっているだろうか。」(傍点原文)
ヽ 多喜二は自分をこの老人の前におくとき、自分の覚悟がいかにうわついたものであるかを思いしらなければならなかった。自分は勝利を夢季て、レーニンのような「無産階級の『大立物』」になりたいと思っているのだ。もし一生かかって自分がそのまま埋もれ、前途の見通しもつかぬとしたらとっくに裏切ってしまっているのだ。多喜二は自分の内部にある革命にたいするロマンティックな幻想をあはきだし、中央に出て認められることを望む小市民的意識を鋭く追及している。
「私」はこの老人が「我等の島正」とよばれる「全国的な人気闘士」の代議士候補者とならんでいるのを「不思議に深い気持」で眺め、「理由が分らず憂鬱」になる。多喜二は解放運動の底辺を支える暗い現実を見つめ、表面にあらわれることのない無数の犠牲と労苦を、複雑な感動で感じとった。そして多喜二はそこに自分の進む道を見いだした。解放運動をその表面のはなやかさにおいて描くのでなく、それを支える暗い現実を追求サるリアリズムの道をえらんだのである。
政治的スローガンや革命的情熱の高揚に酔い、現実のリアリスティックな追求を怠る主観主義的傾向に対立して、多喜二はその文学的出発以来徹底してリアリズムの道を追求してきた。その努力が解放運動の現実と結びついて『一九二八年三月十五日』を生んだのだが、『東倶知安行』はその成果のうえにたって、さらに深く運動の内部にはいり、運動が内包する矛盾、その暗い部分にまで迫っていったのである。多喜二はこの矛盾から目をそむけることなく、矛盾を内部に卒みつつおし進められる運動の姿を追求するところに、その新しい道をきりひらいていこうとした。
敗北に終わった開票の日、家にじっとしていられずに小樽に出て来た老人と、場末のバーで酒を飲む、暗いなんともいえぬやりきれぬ場面でこの作品は終わっている。べろべろに酔った老人は、歩きながら「辛徳秋水」のことをなん度もくり返すが、「私」は老人が小樽に出て来た金は娘が身を売って得たものだと気がついて愕然とする。多喜二はこの悲惨な事実を悲惨な事実として描き出している。しかし多喜二はそれをひたすら解放運動の犠牲として、運動の非人問性を糾弾しょうとしているのではない。たしかにこの老人と娘の生涯は犠牲の生涯である。解放運動はかれらの苦しみをふやしこそすれ、へらしはしなかった。それは耐えがたい矛盾である。しかしこの矛盾のゆえに解放運動を否定するならば、結局において現状維持を肯定するブルジョア的ヒューマニズにおちいることをまぬがれない。それはこの現実をそのままにしておいて人間的でありうるという前提にたっているのである。多喜二はこの矛盾を矛盾として見つめ、犠牲の痛みに胸をえぐられながら、それでもなおたたかわれるたたかいに、複雑な気持で感動している。
多喜二は「人間的」ということを、たんに観念的に、センチメンタルにとりあげるのでなく、その深刻な矛盾において追求している。組合の委員長鈴本は「嬶(かかあ)」をぶん殴ってきたという。その妻はなにもなくなったから飯を炊く炭や石炭を貯炭場から盗んでくるという生活に耐えているのである。四人の子どもは喰うや喰わずでやせ衰え、学齢になっても学校へやることができない。電灯は三カ月前からとめられている。家族を犠牲にして運動に奔走する鈴本は非人問的であると責められなければならないか。
多喜二はこの鈴本や老人の生活と対比して、自分がしばりつけられている会社員生活を描き出している。立身出世して「人を使えるような」支店長になろうとする「意識」がかれらを支配している。そのためにはどんなことでもし、資本主義の発展椎持に全部の望みをかけているのである。同僚が首をきられようがどうしようが、いっさい知らぬ顔をしている「個人主義」、「勿事(ことなかれ)主義」がかれらのモットーである。多喜二は「彼等が『犬(傍点)』という名前で呼ばれていないことを不思議にさえ思う」と書いている。
しかし「私」は偽りの届け出をして、ほんのひとときその生活から脱け出しているにすぎない。もしもそれから全的に脱出しようとすれば、鈴本や老人の苦しみにかれ自身が直面しなければならない。多喜二はかれらの苦しみ、解放運動に内在する矛盾を、自身の問題として真剣に直視している。そこには資本主義社会にあって人間的に生きようとする人間の矛盾が、もっとも先鋭な形であらわれているのである。
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『東倶知安行』において多喜二が、はじめて実際運動に参加して直接大衆にふれ、新しく自分自身を発見した感動を描き、その人間的意味を明らかにしただけでなく、運動の底辺に生きる人間の苦しみをとらえ、それを解放運動の内包する矛盾として追求したことの意味は大きい。それは作者自身が生涯をかけてこの運動に参加しょうとし、それゆえその矛盾をみずからの矛盾として苦しんでいたからこそ可能なのであった。しかし多喜二はこの矛盾に苦しむ自身の生活をリアリスティックに追求するのではなく、それをとびこえることによって運動に参加しようとした。作者はその矛盾を鋭く描き出しながら、強引にそれをとびこえようとしている。この作品を貰くものはその飛躍の感動であるが、それは矛盾が矛盾として描かれることによって、いっそう強い感動として表現されている。しかし現実生活をとびこえた多喜二は、リアリストとしてもう一度現実に帰ってこなければならない。多喜二は「老人」の悲惨な現実を描くことでこの課題に答えようとした。そこに多喜二のリアリズムがあるわけだが、それを描いたこの作品の結末は、暗い中途半端なものになってしまっている。そこにこの作品の問題点が残っている。
たしかに日常生活からの飛躍と断絶なしには解放運動に参加することはできないであろう。しかしそれは日常生活の矛盾の発展としてのみ可能なのであって、日常生活からの飛躍と断絶と同時に、その連続が追求されなければならない。この点で『東倶知安行』における多喜二のリアリズムは不徹底であった。会社員としての生活の矛盾を徹底して追求し、それを内部から克服する可能性を探るかわりに、その醜さがひたすら「清算」すべきものとして、固定的に強調されている。解放運動の現実は、現実に生きる「私」の会社員としての日常生活とはひたすら対照的に、それからの離脱と隔絶の場所でのみ描かれている。多喜二は自分自身の日常生活の暗黒をとびこえることで、日本の現実をとびこえてしまった。それゆえ、革命運動が内包する矛盾を鋭くとりあげながら、しかもその内部に深くたちいり、日本の現実の全体的な矛盾との関係において、十分リアリスティックに描き出すことができなかった。それは多喜二がこの選挙闘争のあとで、挫折感に苦しみ、絶望的にならざるをえなかった事情と無関係ではないのである。
「私」は「島正」とならんだ「老人」の姿に「理由も分らず憂鬱に」なるが、多喜二はそこからさらに一歩進んで、この老人の内部につきいることができなかった。それゆえこの作品は解放運動の光と影を、その鋭い対照において照らし出すにとどまったのである。そこからこの作品のおちつきの悪い、中途半端な結末が出てきている。もしも多喜二がこの老人の内部にはいり、なにがかれをこのように生きさせるかを追求したならば、そこに日本の現実の矛盾が集中的に凝縮しているのを見たはずである。この老人の悲惨な姿に象徽的にあらわれた解放運動の矛盾と苦しみは、資本主義社会の矛盾と苦しみのもっとも尖鋭な、もっとも集中的なあらわれである。解放運動を支え、動かし、それを発展させるものは、日本の現実の矛盾と苦悩である。それゆえ解放運動の現実は、日本の現実を徹底的にあばきだし、そこに生きる人間の矛盾と苦悩をリアリスティックに追求することによってのみ、はじめて強固な現実性をもって描き出されえたのである。
『東倶知安行』は一九二八年九月に書きあげられ、『創作月刊』に投稿されたが、没になって掲載されず、一九三〇年になって『改造』十二月号に発表された。当時多喜二は獄中にあり、獄外の同志たちが残された家族の生活を心配して、この旧作を発表するように事をはこんだのである。多喜二はこの作品が雑誌に発表されることには反対で、この作品について「声変り時のニキビ中学生のように、この上もなく不愉快な、中途半端なものです」(一九三〇年十一月二十日付中野鈴子あて書簡)といっている。たしかにこの作品には、解放運動の現実をその内部から描き出すのでもなけれは、また自分の生活の矛盾を内部から徹底的に追求するのでもない中途半端さがある。会社員生活に自己嫁悪をおぼえ、離脱を願う青年が、運動の現実にふれて感動し、同時にその矛盾と苦悩にふれて暗い気持になる。結局それは解放運動を指向する小市民インテリゲンチアによってとらえられた運動の現実であり、その光明と暗黒であって、小市民的な観念性と感傷性を十分にまぬがれているとほいえないのである。
しかし多喜二ほ「何代がかり」の運動ということをくり返して強調し、広くて深い運動を支える底辺の現実に目を向けている。個人の力でほなくて、日本のいたるところのすみずみで苦悩に耐え迫害に抗してたたかう民衆の力こそ歴史を動かす力であることを、感動をもって描きだし、運動を広大な歴史的展望において把握しようとする地点にたっている。それは多喜二が明確に革命的作家として新しい一歩をふみ出そうとして、自分がはじめて実際運動に参加したときの経験を、新しい感動をもって描き出した作品であり、その中途半端な結末をも含めて、そうした多喜二の新しい出発を記念する作品となっている。
たしかに中途半端な結末に終わらざるをえなかったことはこの作品の欠陥であるだろう。しかし多喜二が革命的な高揚だけではなく、底辺にあってたたかう人間の悲惨ともいうべき現実に目を注いだことの意味は大きい。そこにリアリスト多喜二の鋭い目がある。多喜二は現実から目をそらすことによってではなく、いっそうそのリアリズムを徹底させ、日本の現実の陪黒に深くはいっていくことにょって、この作品の欠陥をのりこえようとした。すなわち次作『蟹工船』は、日本のもっとも暗い地獄的な現実を徹底して描き出し、あらゆる矛盾にもかかわらずおし進められる解放運動の必然性と、その人間的意味をあきらかにした。
『蟹工船』において多喜二ははじめて資本主義社会のもっとも残酷な搾取の場にたち、その最底辺で虐使される労働者の生活をリアリスティックに追求することによって、日本の現実とその解放のたたかいを、もっとも深いところから描き出した。この最底辺の地獄的世界から照らし出すとき、日本の現実のあらゆる矛盾と苦悩は、はじめてその総体的連関において、生きいきと立体的に描き出すことが可能となった。多喜二はプロレタリア・リアリズム確立の道を一歩大きくふみ出したのであるC
『東倶知安行』はそのような多喜二が、小市民的インテリゲンチアとしての自身に訣別し、労働者農民のたたかいに参加することによって、ゆるぎないプロレタリア・リアリズムへと到達しようとする、その新しい出発の過渡的な姿を示す作品である。のちに多喜二はこの作品を「その芸術的価値は別として、私には忘れられない作品である」(前掲「『一九二八年三月十五日』」)とのべている。それは労働者農民の「己れ自らの活動舞台」への登場と、「急進的な知識階級のホウハイとした合流」という歴史的事実を示しているというのである。しかしそれはたんにそこに描かれた歴史的事実のためばかりでなく、プロレタリア・リアリズムの道へと新しい出発を出発したプロレタリア文学運動の新しい出発の姿を示し、それが内包する矛盾を明らかにすることによって、プロレタリア・リアリズムの新階段を準備した作品として、その文学史的意味において、「忘れられない作品」なのである。(『小林多喜二読本』所収)
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