2009年4月12日 (日)

 『蟹工船』と現代

 
激動の二〇〇八年はいつまでも人々の記憶に残る年となるだろう。北京オリンピックもアメリカの大統領選挙も遠い過去のことに思われる。それほど激しい時代の動きだ。アメリカ発の経済危機が全世界を揺り動かし、初の黒人大統領オバマが生まれた。日本でもトヨタや日産、ホンダなどの自動車、その他、ソニーやキャノンなどの大企業が大量クビキリを強行し、仕事と同時に住まいも失った労働者が大量に生み出された。この勢いはさらに加速され、〇九年はもっと大量の失業者が路頭に迷うおそれがあるという。
 この年、一九二九年、世界大恐慌の年に発表された『蟹工船』がにわかに売れ始め、三〇万、四〇万と爆発的に売り上げを伸ばして人々を驚かした。新潮文庫の『蟹工船』は今年だけで60万部を売り上げたという。特設売り場が設けられ、大々的に売り出される様子が新聞、テレビなどでさまざまに報道され、『蟹工船』ブームともいうべき現象が生まれた。

 2006年に白樺文学館多喜二ライブラリーが東銀座出版社から刊行した漫画版『蟹工船』も話題を呼んだが、さらにイーストプレス版、宝島版、講談社版が相次いで刊行され、新潮社からもコミック『蟹工船』が刊行されて、若者たちの間にさまざまな形で浸透していった。正社員の長時間労働や日雇い派遣の劣悪な労働など、苛酷な現場の実態をさして「蟹工船」とか「カニコー」とかという言葉が使われるるようになり、「蟹工船」は2008年の新語・流行語大賞のトップテンにえらばれた。
『蟹工船』は北洋漁業船団が出港する時期にはしばしばテレビでも話題になり、記念切手になるなど、その名は比較的知られていたが、作品を読んだ人は少なかった。特に若者たちはその名も知らぬものが多く、小林多喜二はすでに現代と無縁な過去の作家だった。
 多喜二には熱烈な支持者がいて、いまも全国各地で多様な記念集会が開かれている。こんな作家は珍しいが、参会者はほとんどみな、青春の一時期に多喜二と出会い、生涯忘れることのできない大きな影響を受けたと思われる人々で、年々高齢化は避けられない。〇三年に広い九段会館大ホールを満員にして、没後七〇年生誕一〇〇年を記念する集会が開かれた時、その盛況に驚くと同時に、多分、これが最後の大集会になるのではないかと思った。しかし、豊島公会堂で開かれた民主文学会主催の没後七五年「多喜二の文学を語る集い」は前売り券があっても入場できないほどの盛況だった。この五年の間に新しい事態が始まっていたのだ。

 この集会では、若い作家の浅尾大輔(三八才)が司会し、小樽商大と白樺文学館の「蟹工船エッセーコンテスト」に入賞した山口さなえ(二五才)と狗又ユミカ(三四才)が報告する青年トークが人気を集めた。山口が演壇から「私はもし今、多喜二が生きていたら惚れていると思います」と言ったのにはおどろいた。山口が強調したのは多喜二の「優しさ」だった。狗又も多喜二を「アニキ」というか、いつまでも、「いいお兄ちゃん」という感じの存在だと、コンテスト受賞作品に記している。
 山口も狗又も派遣社員として、理不尽な解雇を繰り返され、職を転々する不安定な日々を過ごした。会社も同僚も労働組合も労働基準監督署も信じられなかった。非正規社員を理由に,あらゆる不当な扱いが正当化された。いつ解雇されるかわからない不安、社会に対する不信と絶望で神経障害に悩み、自殺を企てたりもしたが、団塊世代の大人たちはしっかりしろとはげますばかりだった。
 ふたりとも漫画がきっかけではじめて『蟹工船』を読んだが、会社の利益ばかりを追求して、労働者の肉体と生命を破壊し、「糞紙」のように使い捨てにする現実は、形はちがっていても現代と同じだった。このままの生活をつづけていては、年をとるにつれて雇ってくれるところもなくなり、路頭に迷って死ぬのではないかと不安だった狗又は、「俺あ、キット殺されるべよ!」「馬鹿! 今、殺されているんでねえか!小刻みによ」という作中の会話に自分の現状をはっきりと自覚させられた。
 いまは暴力的な浅川のような存在はなく、敵が誰なのか見えないが、目に見えない誰かによって一人一人撃ち殺されているのが現代だと、山口も強調する。派遣や請負という不安定な雇用条件のため、『蟹工船』のように団結することもできず、バラバラに孤立させられ、格好の標的になっている。しかし、こんな絶望的な自分たちを、多喜二は決して頑張れと励ましたりはしないで、朝までも話を聞いて、やはり最後に『蟹工船』の結末と同じように「彼らは立ち上がったーーもう一度!」と書き付けるのではないか。その優しさに「惚れた」のだと山口はいう。
 この青年トークでは司会の浅尾をはじめ山口も狗又も、多喜二を「多喜二さん」と呼んでいた。かつて多喜二は仰ぎ見る不屈の革命戦士であったが、いまは「惚れた」とか「兄貴」とか言われ、「多喜二さん」と親しみを込めて呼ばれる。そして、その優しさにひかれて、作中の労働者の悲惨な現実に共感し、自分だけが苦しいのではないと思い、連帯を求めて、一人でも参加できる新しい形の労働組合に参加したというのだ。
 驚きは、繁栄と近代化をほこる世界第二の経済大国、いまの日本の若者たちが、肉体を破壊され、死に追い込まれる『蟹工船』の労働者に、自分たちの現実を見ていることだ。1975年生まれの雨宮は、『毎日新聞』〇八年一月九日の高橋源一郎との対談で「『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました。」述べて、『蟹工船』ブームのきっかけをつくったとされるが、新しい単行本『蟹工船』に解説を書き、派遣会社の手で全国から集められた最も近代的なトヨタやキャノンの派遣工たちが、全国から周旋人の手で集められた『蟹工船』の労働者たちと、いかに同様な苛酷な働かされ方をしているかを一つ一つ事実を挙げて解明している。

 いまの若者たちは『蟹工船』の悲惨な現実に共感するが、労働者が団結して勝利を獲得するとは信じていない。ただ、死に追い詰められる虚無と絶望のどん底からの脱出、人間的な優しさと結びつきを求めて、新しい形の組合に参加しはじめたのだ。一方で、社会に対する絶望はひたすら破壊を求める思想となり、関東自動車の派遣工社員が無差別に通りがかりの人々を殺傷した秋葉原事件などを生み、戦争を美化する右翼思想への傾斜をも生んだ。
 1975年生まれの雨宮処凜は、大学受験に失敗して、リストカットと家出を繰り返し、二一歳で右翼団体に入会、愛国パンクバンドでボーカルとして活動した。その後、右翼を離れ、同世代を代表する作家、評論家、運動家として、現代が生んだ貧困層、生活も職も心も極度に不安定なプレカリアートの問題に取組んでいる。『ロスジェネ』創刊号(2008年6月)の「バブル崩壊後の"焼け野原〃にて」に右翼との関係について書き、右翼にしか居場所を見つけられなかった当時を回想し、右傾化する人々の言葉にもある現代の生きづらさに耳を傾けてほしいと述べている。
 超左翼マガジン『ロスジェネ』は、一九七〇年代に生まれ、バブルが崩壊した一九九〇年代に就職期を迎えたロストジェネレーション、就職超氷河期世代の自己主張として創刊された。創刊号の巻頭には「ロスジェネ宣言」を掲げ、「『丸山真男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)で評判になり、『若者を見殺しにする国-私を戦争に向かわせるものは何か』(双風社)を出版した赤木智弘を招いて、共産党員で編集長の浅尾大輔と対談させている。右翼か左翼かというイデオロギー対立を超えて、「反貧困」という旗の下にあらゆる勢力を結集しようとしているのだと思われる。
 この世代は一方的にアメリカを美化し、社会主義を悪とする思想が支配する時代に育った。小林多喜二を知らないだけでなく、戦争の時代に平和を求め、労働者の解放を求めた運動について一切知らず、共産党は悪としか思わなかった。彼らはいかなる理論や党派の支えもなく、ただ、死に追い詰める現実に対して「生きさせろ!」と叫んで反撃を開始したのである。(雨宮『生きさせろ!難民化する若者たち』太田出版)「生きさせろ!」は『蟹工船』の「殺されたくないものは来れ」と同様に、ぎりぎりに追い詰められた労働運動のゼロ地点、原点である。繁栄を誇る経済大国日本がそのような場所に若者たちを追い込んでいるとは信じがたいが、昨年末以来の大量解雇の現実はこの残酷な事実をまざまざと見せつけている。

「バブル崩壊後の"焼け野原〃にて」を書いたとき、雨宮は戦後の焼け野原を意識していたのだろうか。私たちも戦時中は軍国主義の教育を受け、戦後になるまで多喜二を知らなかった。東京の町は廃墟と化して、どこまでも赤茶けた焼け跡が続いていた。肉親も、住居も失った戦災孤児や、大陸からの引揚者、国のために死ぬつもりだった元特攻隊員など、住居とともに心の拠り所もうしなった人々が、飢餓に苦しみながら焼け野原をさまよっていた。これが戦争だった。この戦争に反対し、働く人々のために命をかけて戦った人々がいたと知ったのは驚きだった。獄中の政治犯は1945年の10月10日に解放され、小林多喜二の作品が粗末な紙に印刷されて次々に発売された。
 戦後の私たちは生きるためにはたたかわなければならなかった。激しいインフレの時代だった。物価は日に日に高騰し、たちまち何倍、何十倍になった。米よこせ、住居よこせ、仕事よこせの運動があり、賃上げの闘争があった。「生きさせろ!」「殺されたくないものは来れ」というのは戦後の運動、私たちの青春の原点でもあった。これらのたたかいの先頭には解放された共産主義者がいて、人民民主主義革命の旗を揚げていた。多喜二は不屈の革命戦士であり、仰ぎ見るべき偉大な英雄だった。しかし、米ソの対立が激化し、レッドパージがあり、朝鮮戦争があって、日本の左翼は後退した。ソ連の社会主義は崩壊し、アメリカの属国になった日本は高度経済成長をつづけて世界第二の経済大国になった。青年たちはひたすらアメリカの後を追い、独立の精神を失った。そして、バブルが崩壊し、就職超氷河期がやってきたのだ。
 おどろくべき低賃金で世界最大の輸出産業を支えてきたトヨタやキャノンの派遣工、期間工などが、今度は大量に、失業保険その他の保障もなしに職を奪われ、宿舎も追われて、年の暮れの路上に放り出された。まさに「生きる」ためにはたたかわなければならない。次第に全国的な連携を強め、活動を強めてきたロスジェネ世代は、反貧困ネットワークなどが中心になって「年越し派遣村」の運動を始めた。この世代は導く理論や政党、経験ある指導者を持たずに、手探りで「生きる」ための活動を実践している。理論もなく、経験も乏しいこの運動がどれほどの成果をあげられるだろうか。しかし、この若者たちの周囲に自民・公明を含む各政党、対立していた労働諸団体など、広範な勢力があつまって、新しい運動をつくり出している。対立ではなくて、連帯と協力が新しい時代を開く。『蟹工船』はこの新しい運動の原点を示す作品として、ひろく国民の間に共感を呼んでいるのだ。   
  (『経済』2009年4月号)

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2008年10月17日 (金)

伊藤整「得能五郎の生活と意見」一九四〇年の現実を生きる

「得能五郎の生活と意見」 一九四〇年の現実を生きる

   1

「得能五郎の生活と意見」の冒頭は「一  空地耕作」で、得能五郎のある朝のスケッチから始まる。得能は毎朝、床のなかで三種類の新聞を熱心に読むのである。
「支那事變が四年続いている上に、ヨーロッパ戦争がノルウェイから、オランダ、ベルギイ、フランスと、次々に戦闘区域を拡げて行っているので、朝ごとに、次はどうなっているかという期待でもって新聞をひろげるのだ」
  去年の九月に、ドイツがポーランドに侵入し、同時にイギリスとフランスがドイツに宣戦した。そして、今年の五月十日にドイツ軍は突如オランダ、ベルギイに侵入し、六月十四日にはパリに無血入城する。第一次大戦とはちがって猛烈な速度で事態は展開し、英佛は敗退をつづけた。やがて、日本は日独伊三国同盟を締結し、<仏印>に進駐し、米英との対立を決定的にして、ついに対米英戦争に突入する。
  この作品は一九四〇年八月から翌年二月までの雑誌「知性」に連載された。この冒頭の朝は、一九四〇年五月十日から一週間のうちにオランダ軍が降伏して間もない日の朝のことである。伊藤がこの作品を書き始めたのはこの朝のすぐあとだった。もしかしたら、その頃のある日、その日の朝のスケッチからこの作品を始めたのであるかもしれない。
  歴史はどう展開するかわからない。生活はどう変るかわからない。激動する歴史のただ中にあって、その歴史を生きる人間の<現在>を、くりかえされる平凡な日常生活において描いた点に、この小説の第一の特質がある。
「朝得能が眼を眼を覚ませば、どういうことがはじまっているかわからないのである」と伊藤は書いた。自分が眠っている間にも「砲弾が破裂し、武装した兵や戦車が他国に殺到し、死にかけた人間が顔をゆがめ、国王は国を失い、弾丸の中に右往左往する人民がいる、という想念で得能は目覚めぎわの眼をぱちぱちさせる」。
  同じ世界なのに、それは得能の生活とあまりにかけ離れていた。<支那事變>がはじまってから、「俺は今こうしていていいのだろうかという衝動」をしばしば受けるようになった。彼の日常生活はあまりに平穏だった。「自分の国の兵士たちが支那で戦い、毎日負傷したり、死んだりしているその同じ日、自分は、毎日八時間眠らなければ仕事ができないと言って、眠り足るだけ眠り、寝床のなかで三種もの新聞を隅から隅まで読みつくさないうちは起き出さないという朝寝の習慣を守りとおしている」のである。
  電車に乗って見ても、周囲の街の様子を見まわしても、彼の身のまわりには平穏な市民的な現実しかない。激動する世界と日常生活があまりにかけはなれていて、現実をどうとらえていいかわからない。彼はただ、夢中になって新聞を読み、ラジオのニュースを聞きもらすまいとする。
「紙面の上段や中央辺に何段にも抜いた大見出しで『英国派遣軍引き揚げか』とか『仏政府一部移転』『惨たり聯合軍の敗戦』などと書いてある記事」にはリアリティが感じられなかった。むしろ、片隅に組まれた、敗退の理由を語ったフランス首相の演説などがの方が、得能の知りたいと思う戦争の実相をはるかによく伝えていた。「単なる新聞記者や軍事通の当て推量の言葉でなく、フランス首相の責任のある言葉として読むと、一つ一つが事実としての重さを持ってぴたりときまる」のであった。
  この記事を得能は桜谷の問題で銀座に行ったとき、その途上で、家でとっている三種の夕刊と外にもう一つ買って読んだのである。
  フランスのレイノオ首相は自国の敗戦の状況をつぶさに述べ、「しかし我軍の士気は全然衰えてはいない」とか「戦闘行為に対するわれわれの古めかしい観念は新時代の観念と相容れないものである」とかと述べていた。
「この二大国民、二大国家が滅亡するが如きことは断じて断じて有り得ざることである。若しフランスを救うために奇蹟が必要であるならば、余はフランスを信ずる故に奇蹟を信ずると言いたい」
  得能はこの記事に衝撃を受けた。「自分の身体が深い淵にずーんと落ちてゆくように感じながら、そばの電柱に背をもたせてこれを読んだ」。得能はその言葉の真実性にうたれながら、一国の首相がこんなことを公開の席で喋っていいのかと思わずにはいられなかった。日本では「知らしむべからず、依らしむべし」というのが東方の政治の一つの理想型だと言われていた。得能自身にしても、真相をあまりに率直に語られたら不安になるのではないかと思われた。
  得能は「自由主義」がもっとも盛んだったと言われる時代に育って来たが、レッセ・フェール思想が発生したり、それがフランス革命となって爆発したりした国などと較べると、「日本の自由主義などというものは、名目的なものにすぎないのかも知れない」と思うのである。
  日本がひたすら手本としてきた英佛が破滅の危機に直面してもがいている。フランスでは、知識人も文学者も銃を持って戦いに参加しているという。そして、得能は桜谷の問題で、その別居した妻を銀座のバーに訪ねようとしている。銀座の街は平常と変わらない。
  数寄屋橋の袂から見える朝日新聞社の電光ニュースは「ドイツ軍英佛海峡ニノゾムブーローニュニ迫リ、激戦中デアル」「前フランス軍総司令官ガムラン将軍ハ、自殺シタリトノ噂ヲ、フランス軍当局ハ否定シタ」というニュースにつづいて大相撲千秋楽の勝敗を伝えていた。
  世界の歴史が一変するような激しい戦争の現実と、これまでと少しも変わらぬ平和な日常の風景が同居していて、そこに自分は生きている。一方の現実は新聞で読むばかりだが、それはもう一方の日常生活の現実性を疑わしいものにしている。自分は平和に見える今までどおりの銀座を歩いているが、その自分の安定性は根底から失われている。以前なら桜谷の問題は得能にとってもっと切実な問題だった筈だ。しかし、いまは桜谷をわがままだと思い、腹を立てている。あまりに「文学くさい」と思うのである。
「ふだんならば、人の一生のことに思われる友人の桜谷夫婦の事件も、昔読んだつまらぬ小説の一場面のように色褪せたものに思われ、張り合いがないのであった。」「君はまるで『のっぴきならない』とか、『救いようがない』とか言うよう現代文学の命題のような言葉を実現させるために、自分の生活を悲劇化しているようじゃないか」とでも浴びせかけたいところだと述べられている。                         
   2

   桜谷は尚子という女と恋愛事件を起して、妻の房子と別れ、今はその尚子からも逃げ出して、一人で暮らしている。融という子はよそにあずけていて、その養育費を払っているのだが、近頃は収入がないので、房子に払ってもらうように頼んでほしいと得能に頼んで来たのである。
得能は桜谷の生活の形が「実に現代の小説にありふれた形とそっくり」で、「動きの取れない人生の問題」とまともに取り組んでいないのを不満に思った。「桜谷はそこを通り抜けた向うにふらふらと行ってしまって、ああいよいよ動きが取れなくなった、これが現代人の、どうしようのない生きる形だ、と、むしろそこに辿り着いたことに、満足を感じているのではないかとも思われるほど典型的な悲痛な顔をしている」それを得能は「赦せない」と思う。
  桜谷のことは自分のことと別問題ではなかった。自分もまた、この「動きの取れない人生の問題」と直面することを避け、その前でおどおどしているだけではないのか。この苛酷な現実の前で、自分の文学、これまでの文学が、すべて色あせ、無力で、空虚なものになったと思われるのであった。
  日本が中国に対する戦争を始めてから四年たっていた。最初は景気のよかった戦争も、戦争が中国全土に拡大し、軍事的にも経済的にも日本は行きづまって来た。戦争のはじめは「千人針を手にした少女や、老婆や、細君らしい女性たちを街頭で見かけることが、生活においての戦時色の主なものであったが、今はもっと違った日常生活の細かな部分にそれが及んで来て」いた。
  去年頃から、紙の不足が問題になり、一昨年頃まで十二頁あった朝刊が今では八頁になった。毎週二回は朝刊四頁、一枚きりになった新聞もある。雑誌も眼に見えて頁数が減っり、今年の秋頃から用紙の現象は更に甚しくなるだろうと言われていた。また米が不足して外米が六七割も混入されたり、肉類が足りなくなったりした。得能は文筆で暮してきたが、それはもう続けられないかも知れなかった。戦争は外部の風景から、生活をおびやかす現実になって来たのだ。
  この不安は一九四〇年八月一日発行の『知性』に掲載された冒頭の章「一  空地耕作」に書かれているが、一九四〇年十一月一日発行の『知性』に掲載された「六  再びマルブルウの歌」には、「昭和十五年の初夏の頃は、まだ米内海軍大将が総理大臣であったが、すでに近衛文麿公爵を中心に新体制運動がきざしかけていた」と書かれ、「今までの議会制度の欠陥が問題になり、……新体制促進同志会というものがつくられ、……小さな新聞や雑誌は廃刊をすすめられたり、進んで合同したり、各種の職業組合は統合して単一化する傾向が顕著だった」と書かれている。
「昭和十五年の初夏の頃」というのは、この小説の冒頭の、得能が<空地耕作>をはじめた頃のことだが、この冒頭の章を書いたときには、新体制運動はまだがどのように作家生活を脅かすことになるかは自覚されていなかった。
  近衛が枢密院議長を辞職して新体制運動に挺身すると声明したのは六月下旬のことだった。七月二十二日に第二次近衛内閣(陸相・東条英機)が成立し、全政党が解散して、十月十二日に大政翼賛会が結成された。この間、「贅沢女狩り」や隣組制度の整備・強化、国民服令の公布など、国民精神総動員の名のもとに国民生活の統制が強化され、十一月十日には「紀元二千六百年」記念式典が大々的に開催された。こうして、<肇国の精神><八紘一宇><神ながらの道><臣道実践>というような神がかった言葉が氾濫し、<挙国一致><一億一心><尽忠報国><堅忍持久>が強調される時代が来て、あの対米英戦争に突入していくことになる。
  この作品の時間は一九四〇年の五月から九月にかけてのことであるが、連載は『知性』八月号から翌年二月号までその他で、連載中にも情勢ははげしく変って、作者にも揺れ動きがあり、作品は統一を失っている。ここには作品を支える安定した思想的な立場も視点もなく、動揺と混乱ばかりがあるように見える。
  物語は、ある一つの事件が終結し、あるいは一段落ついて、それを展望することのできる地点に立ったとき、はじめてそれは始まるのであろう。その点で、すべてが途中であるような「得能五郎の生活と意見」と、十二月八日を結末とする「得能物語」は性格と成り立ちをことにしている。なぜ、伊藤整はこのようなすべてが途中で、決着のつかぬ、統一のない小説を書いたのか。歴史のただ中を生きる人間を歴史のただ中で書きたかったからだと思う。歴史とはまさしく統一もなく、決着もつかないものではないか。そして、人生もまたそういうものではないか。
  この作品を書いたとき、作者は歴史のただ中にいたのであり、未来がどうなるかはまったく分らなかった。思いがけないこと、まったく想像もつかぬおそろしいことが相ついで起った。今まで自分の手にあると思っていた思想や理論はこの現実をとらえるのに何の役にもたたない。すべては予想を裏切って展開した。英佛に学び、それを手本とし、自由主義を讃美してきた知識人たちは、自己の無力と空虚を思い知らなければならなかった。
まさに力がすべての時代だった。ヒトラーを讃美する声は巷に満ちていた。「この広大な東京市のいたる処で、人の集まったところはどこでも、ドイツ軍やヒットラア総統の話がでないということはない」のであった。
  得能は「ヒットラア総統の演説は、実に政治を『我々』が理解しうるように、そして『我々』にいかにもと思わせるようにできている」と思った。そして、その演説がある毎に、なるべく詳しい翻訳を新聞や雑誌を捜して読んだ。ヒトラーの「我が闘争」の日本訳も読んで、「こんなに『素人』の我々が政治が分った思って読むこういう形が、本当の政治の実体なのだろうか」と思った。

「ヒットラア総統が、ドイツを復興して、現在のような素晴らしい国にしたということは、と得能は、以前ならば暗闇だと思った政治という世界を二三歩歩き出すように考えて見た。だがその辺で、彼はやっぱり「素人風」に躊い、自信を失って考えるのを打ち切った」

  ここには、ヒトラーに心を動かされ、その理論と行動に敬服し、その方向に進み出そうとしながら、その一歩手前でためらい、自分の立場を定めかねている得能がいる。
  「我々」という言葉がカギ括弧つきで記されていることに注意する必要がある。それは大正期のリベラリズムとデモクラシーに養われ、左翼の全盛時代にその理論に理解を示しながらも同調することができず、芸術の独自性を追求しつづけてきた文学愛好者の仲間たちである。この友人たちの間でも、ともすればヒトラーが話題になり、その影響が強まって行った。しかし、熱心にヒトラーについて喋っている彼等は、ふと、自分たちもヒトラーに熱中する民衆の一組なのだという「軽い反省の色」を浮かべ、「すこしぎごちなく感じ出した」。そして、「自分の気持のよく届かない隅々が、これらの話の隅々が、これらの話にはあるのを苦にしはじめたようであった」という作者の言葉が記されている。
  ここには歴史の大波にはげしくゆれ動くの大都市東京の片隅で、自己を見うしない、未来に不安をおぼえる「知識人」たちが、親しい仲間たちだけでひっそりと語り合う姿がある。歴史は彼等をも変えていくであろう。作者である伊藤整自身をも変えていくであろう。何一つ安定したものはないのだ。そのことを自覚しながら、作者はこの歴史の大波と、その片隅に生きる自分たちの<いま>の姿を書き留めておきたかったのである。
  今ではすべてが自明のことに思われる。ドイツは敗れ、ヒトラーは自殺した。ヒトラーは極悪無道の戦争犯罪人だ。ヒトラーに感心するなんて許されないということになり、こういう得能なり、伊藤整は反動的だということになるだろう。あるいは時局に追随したのだ、転向したのだと非難されるだろう。しかし、伊藤はこれが当時の自分の真実であり、この真実は時代の大波に埋もれて、後世になれば誰も記憶しているものはなくなると自覚して書き留めたのだと思う。
  当時においてすでに、このような知識人は時代後れで、その不徹底さを非難された。やがては、その存在を許されなくなった。この得能らの会話が行われたのは一九四〇年の夏、フランスが降伏し、ドイツの英本土空襲がはじまったころのことであるが、この部分(「十  座談」)が発表されたのは、一九四一年三月一日発行の『文学者』『月刊文章』、四月一日発行の『新芸術』である。この会話の時と執筆の時の間に、日本は北部仏印に進駐し、日独伊三国同盟を結んでいた。大政翼賛会が発足して<新体制のバスに乗り遅れるな>が合言葉になり、「紀元二千六百年」記念式典が開催され、英語や、英米文化が排斥され、野球界から英語が追放されるということが相ついで起った。排外的ナショナリズムの渦が日本国民を押し流し、英米文化や知識人に対する攻撃は日ごとに強まり、伊藤整らの文学は植民地的知識人文学だと批判されるようになった。この時代の流れの中で、それに抗するように、時代に押し流される、混乱した知識人の日常の姿を書きつづったのであった。
  戦後は、戦争に抵抗した人々ばかりでなく、戦争協力的だった人々も、一斉に民主主義の旗を掲げ、戦時下の知識人については、戦争に抵抗したか、協力したか、転向したかの観点からばかり論じられ、戦争に押し流され、混乱を生きたた大多数の知識人の実態は、隠蔽され、無視された。戦時下の作品の多くは絶版になり、もしくは大幅に改訂されて、人々の目に触れなくなった。戦時中には戦時中の支配的言論があったが、戦後には戦後の支配的言論があって、真実はその猛威のかげに隠される。
  しかし、たとえ彼等の実態がどのように批判されなければならないにせよ、その実態を描き出すのが文学ではないだろうか。伊藤は戦時下の知識人の実態の隠蔽、抹殺に反対し、困難をおかして書き留めた「得能五郎の生活と意見」を、出来るだけ最初の性質を失わないような形で、戦後再刊する努力をしている。戦争に抵抗した立派な人の作品はたしかに大事だが、戦争に押し流された普通の人々、想像もつかぬ歴史の展開に自分自身を見うしない、途方もない混乱の中に、新しい可能性を探り求めた普通の知識人の実態を描いた作品はそれ以上に大事だと思う。

                              
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   得能五郎はこれまで自分を支えた西洋の文学や思想がその力を失って、また時代を席巻する新しい思想にも身をあずけることなく、何一つより頼むものなしにしに、この苛酷な現実を生きていかなければならなかった。
  伊藤整は自分自身を戯画化した得能五郎という人物を設定し、「『現在』という、過去や未来の約束などから切断された自分の一部分に、内心まで入って調べて見たいのである」と記している。
  これは「九  三十五歳の紳士」(一九四一年三月一日発行『文学者』に掲載)に記された言葉である。『知性』の連載は一九四〇年八月号の「一  空地耕作」から、「二  再び空地耕作」「五  マルブルウの歌」「六  再びマルブルウの歌」「七 トロイカ」とつづき、一九四一年の二月号の「十二 得能先生の登校」で六回連載を終っていた。四〇年の初夏、厳しい戦時下の情勢から空き地の耕作を思い立ち、友人桜谷のことから銀座のバートロイカを訪ね、秋になって講義のために大学へ行く。この六回の連載で、時間的経過としても一応この作品は終っていた。
  この作品は連載中からさまざまな評判が高く、さまざまな批評を受けた。連載をおわって作者はこれらの批評に答え、自分の立場を明確にする必要を感じたのだと思われる。元来、この小説は『知性』連載と平行して、あるいはその終結後に、他の諸雑誌に書いた得能五郎を主人公とするいくつかの短篇ををあわせて一つの作品にまとめたものである。
  最初に得能五郎が登場するのは、『知性』連載に先立って四〇年七月の『新潮』に発表された「鞭」である。この作品は短編集『祝福』に収録されているから、独立性の強い作品として意識されていたのであったろう。しかし、これを契機に得能五郎は伊藤整の作品世界の中心人物になった。それは、これからはじめとうとする連載の基本的立場を述べたものと考えることもできる。
「鞭」で伊藤は、自画像や自分のよく知っているものばかりを描いている岸田劉生に触れ、「自分の満足のために、自分の納得ゆくようにしか絵を描かない」友人の画家本田について書いている。本田は自分の絵をたのしみ、その絵は見るものを楽しませる。そこには独特のたしかなものがあった。しかし本田はほとんど無名なのだった。本田の絵には思想がないと言われた。本田は画壇の新思潮とか新流派には関心がなかったが、画壇で地位を占めているのは、西洋の絵の流派や時の画壇の動静には敏感で、意味ありげに先輩とつきあっている連中だった。画壇に対する得能の批判は、周囲の批評、新しい理論や思想にふりまわされて、ともすれば「仕事の心棒」がゆがみがちな自分の仕事に対する反省でもあった。今まで自分は周囲の眼ばかり気にして、むやみにちぢこまっていた。もっと、自分に自信を持ち、自分に根ざした文学を求める思いが強まったのである。
  自分の現実からはるかにかけ離れた深遠な西洋の思想や文学を追い求めて煩悶し、焦燥し、絶望し、劣等感にさいなまれる文学は、あまりにも空虚で無力だった。戦時下の現実は切迫して、このまま文筆業をつづけることを許されそうもなかった。得能はいかに生きるかという問題に具体的にを直面し、この思いをいっそう強めた。
  生活の必要から空き地を耕すようになって、近所の人々との新しい接触がはじまった。孤立した書斎の生活から外に出て、普通の人々との新しい関係がはじまったことによって、得能の文学世界は拡大した。大地を耕す共通の農作業によって、人々との関係は新しくなり、密接になった。得能もそうだが、近所の人々も、日本の各地から出てきた農村の出身者だった。農業を通して得能は人々の心に触れ、長い歴史を農民として生きて来た先祖の生活に触れ、心に触れた。こうした接触の中で、ふと耳にした農民が生活の中で生み出した言葉は、生命があり、新鮮だった。
  これまで閑却されてきた普通の人々の普通の生活こそ、もっと重視されなければならない。得能は小説家である自分を戦時下に生きる普通の人間にとして自覚し、この新しく発見された自分を、これまでの文学的常識や慣習、文学的偏見から解放された眼で、描き出すとき、そこに新しい文学が生れると信じた。
  そこに「『現在』という、過去や未来の約束などから切断された自分の一部分に、内心まで入って調べて見たいのである。一九四〇年の日本の首都東京に生活している、現代日本の知識階級人であり、小説家である三十五歳の、 妻と二人の子供と、多くの友人とを持っている得能五郎なる人物の生活や考えかたや喜怒哀楽を、未知の人に話しても分るような形で掴んでみたいのである」という宣言が生れた。

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「九月にドイツがポーランドに侵入し、同時にイギリスとフランスがドイツに宣戦し………」そして、「今年の五月十日にドイツ軍は突然オランダ、ベルギイに侵入し、一週間のうちにオランダ軍を降伏させ………」どうか気を鎭めて読んで頂きたい。これは何も今年の五月や九月にヨーロッパで起こることの豫想ではありません。いまから十一年前、一九四〇年五月のヨーロッパのことです。

「伊藤整氏の生活と意見」の最初の章に、伊藤整は「得能五郎の生活と意見」を引用してこう書いている。「砲弾が破裂し、武装した兵や戦車が他国に殺到し、死にかけた人間が顔をゆがめ、弾丸の中に右往左往する人民がいる(中略)もっとしっかり覚めないと、何か勘違いするぞという警戒心が湧く」これは「今、現在、一九五一年のあなたや伊藤整氏のことを書いているのでは」ないと念を押しながら、こうして書き写しているうちに、あまりそっくりそのままなので「どうしても今の自分のことを書いた文章のよう思えてならない」と言って「朝寝床の中で二時間もかかって三種の新聞をたんねんに読み、その間にも砲弾が破裂し、武装した兵や戦車が………」というのは、「実にこれは伊藤氏の現在の朝の目覚めぎわの状態そのままの描写である」と記している。
  この最初の章が発表されたのはを一九五一年五月の『新潮』であった。以後、翌年十二月まで同誌上に十九回にわたって連載(五一年八月だけは休載)された。これはいうまでもなく、朝鮮戦争の最中だった。六(五一年十一月発表)には、停戦の交渉が七月から始められたが、九月にいたって成立が疑問視されはじめ、「史上最大のジェット機の戦闘」と言われる空中戦が行われるなど、かえって危機感が強まったと書かれている。この九月には「ロシアとシナを除く諸国と日本の講和条約」が成立し、日米間に安全保障条約が結ばれ、伊藤家からほど遠からぬ所にアメリカの「軍事基地の中心点」が設定されることになった。この結果「日本国の安全が保証された」のは喜ぶべき事だが、「伊藤整氏の安全を保証したことにならなかったのは遺憾な次第であった」と作者は書いている。新聞の論説によれば、朝鮮の空中戦の激化は、「日本にある軍事基地の空襲を可能にするということ」で、伊藤氏の身の危険はかえって切迫したものになっているのである。
「伊藤氏の生活と意見」はチャタレー裁判を生きる自分を戯画化した戯文だが、同時にそれは朝鮮戦争におびえる伊藤整氏を描いたものでもあった。米ソの対立は核戦争の危機をも予想させ、国内では共産党の弾圧があり、それに対抗して、地域人民闘争が展開されていた。平和主義に立つ全面講和論とアメリカに加担して再軍備を加速させようとする勢力ははげしく対立していた。民族の独立か対米従属かが緊急の課題として論じられ、国民文学論が提唱される時代であった。
「伊藤整氏の生活と意見」は、チャタレー裁判も、朝鮮戦争もどうなるかわからないままに、はげしく渦巻く事件の進行中に描かれた。それはいつどう発展するか分らなかった。いつ日本は戦争にまきこまれるか知れなかった。この新しい戦争は「得能五郎の生活と意見」をまざまざと現代に生きるものとしてよみがえらせた。
「伊藤整氏の生活と意見」一には「緊急に世界戦争の見とおしと、戦時生活についての有利な意見を得たいと考える読者には近日中に大量に印刷頒布される予定になっている『得能五郎の生活と意見』又の名『戦時生活指針』を買い求めることをすすめる」と記されているが、細川書店から「得能五郎の生活と意見」が再刊されたのは、一九五一年十月十五日のことである。この作品は戦争中も戦後も、それぞれの時代の政治的理由から訂正削除が加えられたが、細川書店版ではほぼ初版本通りに復原された。
  朝鮮戦争の最中にこの作品が再刊され、出来るだけ初版通りに復原されたということは、この作品が現在において生きていると作者が信じていたからであろう。特に最後の章の戦争中も戦後も削除された部分が、「十二  得能先生の登校」に組みこまれた形ではあるが復原されたことは注目すべきである。新潮社版全集では初版本にしたがって「十三  得能少尉勇戦」として復原されている。
  得能の父、得能五助は志願して下士官になり、日清戦争に従軍した後、北海道に移り住んで結婚し、一女を設けたが、再び日露戦争に召集された。旅順の戦いで功績をあげたが負傷し、入院して治療を受けた後、再び前線に出動して、奉天の戦闘に参加した。この戦争で金鵄勲章をもらい、少尉に昇進し、役場の収入役になった父は、得能が子供のころ、家内では絶対に戦争の話をしなかったが、陸軍記念日には学校に来て、戦争の体験を生徒たちの前で話した。
  その後成人するにつれ、得能は父から遠ざかった。しかし、戦争がはじまり、知人が出征するのを見送るたびに、「やっと生まれたばかりの一人の娘(五郎の姉鈴子)を十歳も年下の妻のもとに残して出征した父の気持」を、「なまなましく思いやる」ようになった。父が出征したのは三十三歳、いまの得能より二歳年下だった。父は軍人としては間の抜けたところもあったようだが、偶然で命を助かり、手柄をたてた。二人の子の父親としての責任ある身となり、戦争の時代を生きることになって、同じく日露戦争という大きな戦争の時代を生きた父のことが「なまなましく」思いやられるようになったんである。
  得能五助は二〇三高地の一角に穴を掘って伏せていた。「夜が明けて見たら、自分一人で、まわりにいるのは死人と怪我人ばかりなんだ。…………」その父の子が、いま三十五歳になり、昭和十五年に東京で生活している。若し父が外の何千人もの兵隊と同じように死んでいたら、自分は生れ得なかったのだ気づいた時、「無限の虚無の空間の闇を覗いた恐怖感」でぞっとなった。得能はその時、父の気持の実体の一端に触れる思いがしたと言う。「父は、あの焼け火箸に触れるような気持の中に、その夜を、また毎日を、妻と子を国においたまま、何ものにも生命を保証されぬ境に生きていたことをまざまざと思い描くことができた」と伊藤整は書いている。
  この父を支えたのは「民族の生命への執着とでもいうような、鏡のように自分のそばにある個我以上の生命力」だったと得能は考えるが、これは必ずしも当時の父が自覚していたものではなかったと思う。支えるものがあろうとなかろうと、父は必死に生きて、得能はこの世に生れたのであるに違いない。それはひたすら生きようとする「生命への執着」であった。「民族の生命への執着」というようなことは外からつけくわえた観念であり、解釈だと思う。
  父のたたかった戦争を知ろうとして、当時の戦史を手に入るかぎり集めて熟読していた得能は、父の姿を、父と同じ戦争をたたかった兵士たちと重ねあわせて想像した。自分の意志によらずして戦場に動員され、戦死したり、負傷したりした何十万の兵士たちの一人して父の生と死を思った時、「個我以上の生命力」である「民族の生命への執着」ということが思われた。この想像は、家族から引き離されて広大な中国大陸に動員され、自分の意志によらぬ戦争を、生命を危険にさらして戦っている何百万の兵士たちにひろがり、日露戦争から現代へと流れる「民族の生命への執着」というものがつよく感じられた。この大きな流れの中に自分は生命を得て、いまここにこうして生きているという思いに得能はうたれた。
  こうして得能は<民族の一員>としての自覚にたどりつき、民族論の展開でこの作品は終る。もちろん、<民族>ということは当時の流行語であり、それが伊藤に影響をあたえていたことは事実であろう。だからといって、これをもって伊藤が時代に迎合したとか、転向したとかとばかりは言えない。この最後の章の後半は、<大東亜戦争>がはじまって民族意識が極度に高揚された時代に、時局をはばかって削除されなければならなかったのである。
削除された部分には、白人が書いた日露戦争観戦記が紹介され、得能の感想が記されている。英国人の新聞記者マクカラアの目に映った日露戦争は、「列国中の最年少児」であり黄色人種である異教徒の国日本が巨大なキリスト教徒の白人国家ロシアとたたかった奇妙な戦争であった。夜襲してくる日本軍の声は「万歳ツ!万歳ツ!」という「野蛮な調子の吶喊」であった。「得能は父五助の声もその中にまじっているような気がした」と記している。「彼の声は欧羅巴の同胞には無い声だ。基督教徒の唇からは出ない声だ。――凡そ人間からは出ると思はれない声である。迷信な回回教徒の都府で聞いた「アラア、イル、アラア!」「アラア、イル、アラア!」を想像させる声である。………」「彼の青白い顔は正しく東洋人の顔だ。――其声は仏人や独人の声ではない。白人種の血に渇する喚声である。………三千年来欧羅巴から圧し附けられてゐた不思議な奇怪な亜細亜人の声である」とマクカラアは記している。
  日本人の欠点は蒙古式 の出っぱった頬骨と、横幅広い鼻であると言うマクカラアは「日本人が其凸起した 頬骨と扁平な鼻を突き出して、其を欧羅巴人が全く羨むやうに成る迄には、其処に鮮血の大海を漲らせなければならぬのであらう!」と書いていた。
  白色人種が世界を支配する優秀民族で、黄色人種は支配さるべき劣等民族だというのは許すべからざる偏見であるに違いない。しかし、その偏見は生きているのだ。ヒトラーも公然とそう主張していた。自分があきらかに黄色人種であることを認めなければならなかった得能は、その自分が一生懸命に白色人種の文学を学んで来た意味を考えなければならなかった。自分は白色人種の思想や文学を理想とし、白色人種になろうとして来たのではないか。しかし、いくら努力しても白色人種にはなれないのだという事実に得能は衝撃を受けた。
  民族の問題は戦争中にはしきりに強調されたが、それは日本民族が世界に冠たる優秀民族だと主張したのであって、伊藤整が提起したような角度からの問題提起は、公然と発表することがはばかられた。そして、戦後もこのような偏見や対立はひたすら否定されて、それを発表することができなかった。朝鮮戦争の時期になって、まがりなりにも講和が結ばれ、占領軍の言論統制が解除されて、ようやく、この部分を復原して出版することが出来たのである。朝鮮戦争における米軍にこのような黄色人種に対する蔑視はなかったか。その後、ヴェトナム戦争があり、いまは、イラク戦争が戰われている。あの九・一一以後何が起こるかわからない世界に私たちは生きている。朝鮮戦争当時は民族の危機が強調され、文化の植民地化が問題になって、民族の独立が叫ばれて、国民文学の主張も日本の文学界を動かしたのであった。いまは、日本は世界の経済大国になり、アメリカに対しても莫大な債権国である。アメリカはたしかに自国を神の加護を受け、世界を支配する資格のあるえらばれた民主主義国家であるとと信じ、アフガンやイラクの蒙昧な異教徒たちをを大量に殺戮している。朝鮮問題もどう展開するかわからない。日本は西欧社会の一員のようなつもりになって、ひたすらアメリカのに追随している。政治的、経済的にも、思想的、文化的にも、アメリカによる日本の植民地化はほぼ完成し、歴史は百八十度転回したように見える。しかし、いま、伊藤整の「得能五郎の生活と意見」が、復原版が刊行された当時と同じように、再び新しくよみがえって来るのを感ずる。私は得能と同じように、日露戦争の時代、そして、あの戦争の時代を生きた日本人のことを、いまにつながるものとして、もっと深く知りたいと思うのである。

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2008年5月29日 (木)

帝国主義と文学 韓国で小林多喜二を読む--『蟹工船』その他

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  韓国日本語文学研究会にご招待いただき、講演の機会をあたえてくださったことに感謝します。
 日本と韓国のあいだには日本による韓国領有、過酷な支配という悲惨な過去がある。それを忘れて、いま、韓国で日本文学について語ることはできない。それは過去の不幸な出来事ということはできない。「強制連行」や「従軍慰安婦」の問題について、いまの政府(当時)が責任を明らかにせず、その事実についてさえ明確に認めようとしないからである。
しかし、朝鮮や中国人民に対する過酷な抑圧と虐使の根柢には日本人民に対する同様な抑圧と虐使があった。また、売春の強要、性奴隷化は日本人女性に対してかつてながくおこなわれた。これが従軍慰安婦問題の基盤となったことは明らかである。小林多喜二はこれらの問題を追及し、事実を隠蔽する政府やジャーナリズムの欺瞞とたたかい、そのために、警察に検挙されたその日のうちに拷問で殺されるという最期をとげた。

多喜二は『蟹工船』(1929年『戦旗』5、6月号)に帝国主義的搾取の実態を次のように記している。

  ――内地では、労働者が「横平(おうへい)」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪をのばした。其処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。[中略]「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、棒杭にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱(な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。

 この虐待の現実は強制連行の現実をまざまざと想像させる。『蟹工船』に付記として多喜二は「――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。」と記している。北海道は元来はアイヌ人が居住する蝦夷地だった。江戸時代には松前藩がおかれ、アイヌとの交易等に従事し、北海道と呼ばれるようになった。開拓移民が大量に移住し、急速に開発が進んだのは、明治になってからである。最初は没落した士族が屯田兵として移住していったが、やがて内地で行きづまった人々が大量に流入して行った。小林多喜二の一家が秋田から伯父をたよって小樽に移住したのは1907(明治40)12月下旬だったが、翌年一月から小樽区若竹町で第2期小樽港築港工事が開始された。一家はこの工事現場の近くに居住し、パン屋を開業した。小樽は北海道の物産、石炭,木材,農産物の移出港となり,同時に港湾を背景とする商業活動の中心地として発展した。特に日露戦争以後は本州,樺太,大陸との間の船舶の往来がさかんになり、商業活動が活発だった。この小樽の繁栄をささえるものは内地から移住してきた貧しい小作農民であり、苛酷な労働を強いられる監獄部屋の労仂者であった。

 築港が埋立された、倉庫が立つ、レールが引かさる、文化が開けると云う。然しそこには、「監獄部屋」によって、封建時代の「人柱」のそれが、一分一厘も違わずそのままそっくりより巧みな近代的な方法でちアんとなされているのだ。鉄道が開通した、国道が開けた、そう云って提灯行列でもする、だが然し、そこの土には生きた人間の血と骨が、うずめられているのだ。
 文明だ、進化だと云う--(その実誰の文明だ、誰の進化か!)が、その底にいて、そいつを支えている人柱が、誰でもない「プロレタリアート」なのだ。文字通りそうなのだ。自分等のものゝ為でもないのに!
              
「人を殺す犬」(小樽高商校友会誌第38号 19216年8月稿)の改作「監獄部屋」(ノート稿)の一節である。多喜二は築港建設工事現場の近くに育ち、そこではたらく労仂者の現実、逃亡した労仂者がどんな目にあうかを見聞して知っていた。 「監獄部屋」には次のように書かれている。

 その時後から蹄の音が聞えた。
 捕まった! 皆ギョッとして立ち止った。振りかえってみた。--源吉だった。
 源吉はズブ濡れの身体を糸捲きのように、幾回にもロープでしばられていた。その綱の端が、親分の乗っている馬につながれていた。馬が少し早くなると、--ワザに早くするんだ--源吉は奴凧のように身体を振って、でんぐり返った。そしてそのまま石ころだらけの山途をズルく引きずられた。絆天が破れて、頬や額から血が出ていた。その血が土にまみれて、ドズ黒くなっていた。

 アメリカ映画で白人が黒人を虐待する情景としてこのような場面が見られるが、日本でそれがあったとは信じられない。しかし、この作品のもとになった「人を殺す犬」では逃亡した労仂者をに土佐犬をけしかけて殺す場面があり、これは『蟹工船』の前掲引用文にも見られる。この「人を殺す犬」は「あまり残酷なので出せない」と高商の占部教授が言ったことについて「これを出す出さないなんて、些々たることだ。出したからって、出さないからって、『現実にある』事実をどうする積りだ。」と日記(一九二七年三月二日夜)に記している。
『蟹工船』には、国のためだ、国際競争に勝つためだといって、極限まで苛酷な労働に追い立てられる労仂者が「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」「こんなこと内地クニさ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ。」「んさ。 ーこったら事って第一あるか。」などと話し合う場面がある。「炭山ヤマから来た漁夫」は「生命エノヂ的マドだな!」「やっぱし炭山ヤマと変わらないで。死ぬ思いばしないと生エきられないなんてな。瓦斯も恐オッかねど、波もおっかねしな。」と言う。この男は夕張炭坑で七年も坑夫をしていたが、ガス爆発で危うく死にそこねてから坑夫が恐ろしくなり、鉱山ヤマを下りてこの船に乗り込んだのである。
「漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や鉄道敷設の土工部屋へ『蛸』に売られたことのあるものや、各地を食いつめた『渡り者』や、酒だけ飲めば何もかもなく、たゞそれでいゝものなどがいた。」と多喜二は書いている。蟹工船には内地で行きづまって北海道に流入し、さまざまな労働を経験した貧農や労仂者が集まっていた。蟹工船の現実は決して孤立した〈異常な〉世界ではなかった。日本資本主義の発展を根底において支え、その矛盾が集中している最底辺の一般的な現実であった。
 多喜二は蔵原惟人に宛てた書簡にこの作品は「蟹工船とはどんなものかということを一生ケン命にかいたものではない」「資本主義は未開地、殖民地にどんな『無慈悲な』形態をとって浸入し、原始的な『搾取』を続け、官憲と軍隊を『門番』『見張番』『用心棒』にしながら、飽くことのない虐使をし、如何に、急激に資本主義的仕事をするか」を描き出そうとしたのだと述べている。
「北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。」多喜二は監獄の囚人より苛酷なな労仂者虐待の実態をこのように記し。「殊に朝鮮人は親方、棒頭からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。」と記している。

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 小樽には積み荷や築港工事の現場で働く多数の朝鮮人労働者とその家族が暮していた。、彼らの生活を身近に感じて育った多喜二にとって、数千人のの朝鮮人が虐殺された関東大震災は衝撃だった。犠牲者6600人といわれてきたが正確な数字はわからない。事件の発端は「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をする」との流言だった。警察はこの流言にもとづいて「鮮人中不逞の挙についで放火その他兇暴なる行為に出ずる者あり」として厳重な取締りを命ずる命令を各署に出した。流言は拡大し、「銃器・兇器を携(たずさ)えた鮮人約二百名、玉川二子(ふたご)の渡しを渡って市内にむかって進行中」などと報告され、警視庁は、不穏の徒があれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令をくだし、自動車、ポスター、メガホンなどによって朝鮮人来襲の報を全市にまきちらした。朝鮮人暴動の流言は警察と軍隊の通信網によってつたえられ、新聞も大活字で市民の興奮をあおりたてた。流言は流言をよび、だんだんと尾ひれがついて「社会主義者やロシアの過激派がうらで糸をひいているのだ」などと言われ、社会主義者も市民のテロルにさらされることになった。救援活動に尽力していた南葛の労仂者平沢計七や河合義虎らが殺された亀戸事件、大杉栄事件などがおこった。
 この震災の朝鮮人虐殺事件を題材に越中谷利一は「一兵卒の震災手記」を書き、一九二七年九月の『解放』に発表した。千葉県習志野の騎兵連隊に属していて、帝都の治安維持のためということで、実弾を携行し、戦時武装で出動させられた体験にもとづく作品で、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載された。

ああどうしたならば殺すことが出来たのか?――自分の前によろよろと両手を合わして跪いた彼等、国を××れ、国を追われ、××と侮辱と虐遇の鉄鞭に絶えず生存を拒否されつつ流浪して、今喰うに食なく、宿るに家なき――彼等を、どうして此の××××××××突くことが出来たのか。

「一兵卒の震災手記」の冒頭の一文である。朝鮮人の多くは、民間で組織した自警団によって殺されたが、警察や軍隊はこの暴行を阻止するどころか、自らも命令を下して、銃撃し、銃剣で刺殺した。虐殺は何日もつづいた。「一兵卒の震災手記」の主人公は、震災後十日もたって、夜間、非常呼集でたたき起され、集団化した朝鮮人を包囲して、皆殺しにする戦闘に参加させられた。この事件の背後には朝鮮人に対して過酷な抑圧と搾取をおこなっていた日本人が朝鮮人の復讐、独立運動をおそれていたという事実がある。朝鮮人は東京の各地で追い立てられ、逃げ惑っているうちに集団化したのであるらしい。日本軍は彼らを一か所に追い込み、突撃命令を出して、皆殺しにする作戦をとった。まさに戦争だった。
 越中谷は、自身の経験によってこの暴行を描いたという。前記引用文は作者自身の感慨であろう。××が多いが、これは戦後、可能なかぎり復元された『越中谷利一著作集』によったのである。当時はさらに伏字が多く、最後の二頁は削除されてしまっていた。この作品は一九二七年九月の『解放』に発表され、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載されたが、このときも、最後の二頁は削除されたままだった。
『戦争ニ対スル戦争』が刊行されたのは、一九二八年三月十五日の大弾圧の直後のことである。ながくつづく経済不況は金融恐慌に発展し、倒産と失業がひろがっていた。中国では国民革命が進行し、北伐がはじまっていた。これに対して、日本の軍部は住民保護を名として軍事干渉に乗り出し、中国に対する軍事支配に不況脱出の道を求めた。1927年の五月には山東省に出兵し、6月には東方会議で対支侵略の基本方針を定め、28年6月には、満州で張作霖爆殺事件を起こした。天皇の名のもとに侵略戦争を推進するためには、これに徹底して反対する社会主義者、共産主義者を抹殺しなければならない。こうして三・一五の大弾圧が強行された。
 小林多喜二はこの大弾圧に抗してたたかう人々をを描いた「一九二八年三月十五日」によってプロレタリア作家としての道を歩きはじめたが、1933年治安維持法によって検挙され、苛酷な拷問で殺された。「 国体もしくは政体を変革し、又は私有財産制度を否認することを目的」とする運動に加入したものを「10年以下の懲役又は禁錮に処す」と規定する治安維持法は、震災のどさくさにまぎれてあおりたてられた朝鮮人や社会主義者に対する恐怖と反感を利用して、震災直後の1925年4月制定公布された。さらに3・15事件で恐ろしい共産主義の幻影を国民に吹き込んで、最高刑を死刑とする改悪を実現した。
 治安維持法は3・15事件を機に全国的に拡充強化された特高警察によって反政府・反資本主義的な思想や運動に対する調査・弾圧を常時おこなった。治安維持法はしたことを取り締まるのではなくて、政府に反対する思想を持ち、反政府団体に加入すること、すなわち思想を取り締まったのだから、あらゆる進歩的な個人や団体が対象とされ、スパイはその周辺をかぎまわった。プロレタリア文学は資本家・地主とのたたかいを描く文学だったが、それは権力とのたたかい、治安維持法=特高とのたたかいとして展開された。

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 小林多喜二は1921年に小樽高商(現小樽商大)に入学し、1924年に卒業した。関東大震災は小樽高商在学中のことで、1923年11月、関東震災義損外国語劇大会でフランス語劇メーテルリンクの「青い鳥」に一級下の伊藤整とともに出演した。この高商時代にロシア革命と大戦後にひろがったデモクラシーと社会主義思想の影響を受け、革命と芸術、ヒューマニズムと社会主義の矛盾を悩み、卒業後の作家的生活の理論的基礎を養った。
 1924年、高商を卒業して北海道拓殖銀行に就職するが、1925年10月、多喜二の出身校小樽高商で、配属将校が軍事教練で近郊の天狗山で地震が起こり民情不安を機に無政府主義者が〈不逞鮮人〉を扇動して小樽,札幌両市の全滅を画策しているので高商生徒は在郷軍人会と協力して,この敵を絶滅すべしとの想定を与えるという事件がおこった。小樽高商の学生は労働団体や朝鮮人とともに抗議に立ち上がり,小樽高商の学生の運動は全国的な軍事教練反対運動に発展した。母校でおこったこの事件から多喜二に大きな影響を受けたはずである。
 1928年2月の第1回普通選挙の選挙運動では多喜二がはじめて政治的な実際運動に参加したが、このときの経験を作品化した「東倶知安行」には、同じ車中の「北海道の奥地の炭坑か土工部屋(監獄部屋)からの帰り」らしい20人ばかりの朝鮮人について書いている。

 春と秋――冬、北海道の大抵のどの汽車の中でも、私達は十人、二十人の朝鮮人の群を見ることができる。プロレタリアは故郷を持たない。その標本が朝鮮人だった。そして更にそこに民族的な**関係が入りこんで、文字通り彼等は「故郷」の代りに「風呂敷包」一つを何時でもブラ下げて移り歩いている。しかも、労賃が日本の労働者よりも安いところから、日本のプロレタリアは朝鮮人に団結の手を差出す代りに「敵」だとさえ感ずる。アメリカの労働者と日本の移民のように。
 O市の合同労働組合には、朝鮮人の団体と日本人の団体を持てあまして、それに対する正しい指導を持ち得ずに、根ッから失敗した苦い経験があった。それは私もきいていた。――こゝにも我々が必ず手を触れなければならない、然し最大の困難を伴う未墾地があった。

 汚い手拭で鉢巻きをした小柄な朝鮮女が、身体を紙挟みのように二つに折って、うなっていた。女は不意に黄色いものを前一杯に吐いてしまった。監督らしい日本人がいて、何処かへ売渡しに引張って行く処らしかった。朝鮮人が女が死にそうだから、なんとかしてくれ、と云ってるらしいが、監督は手前え達に、そんな****のことがしてやれるか、自惚れるなと言ってるらしかった。この様子をじっと見つめて報告した吉川は、朝鮮問題に「可なり鋭い、深い考え」を持っていて、レーニンの民族問題と階級闘争の相関々係などを、朝鮮の具体的な事実について話した。
「東倶知安行」は高商卒業後銀行員になり、不幸な境遇の田口タキに対する愛を通じて自分自身の問題として日本社会の暗黒に触れ、次第に社会主義への傾斜を強めていった多喜二が、1928年2月20日の第一回普通選挙の選挙運動に参加し、高揚する運動の波の中でこれまでの自分と訣別し、新しい生涯へふみ出そうとしたことを描いた作品である。この作品で多喜二は移動する朝鮮人労働者の姿を描き、朝鮮人問題をこれから解決しなければならない問題だと強調していたのである。
「東倶知安行」を書き上げて間もなく、次の言葉ではじまる「自分の中の会話」(『文章倶楽部』一九二九年一月号)を書いている。

 大名と地主と武士、この三つを何百年前から両肩に背負わされて、厳丈なその肩がそれ故にセムシのように湾曲している秋田のドン百姓が、矢張りその子供であるがために、生まれる前から)已にそうと朱印を押された第百番目かの(!)不幸な子供を生んだ。

 土地を奪われた農民は移住民となって後から後から津軽海峡を渡り、北海道の奥地へ吸いこまれていった。「雪の平原を歩いてゆくとき、その一人一人の足に、然し矢張り重い鎖が不気味に引きずられていたのを、ドン百姓の子供は母親の骨っぽい背に感じていた」という原経験が多喜二の生涯と文学の根柢にある。故郷を追われた貧農の子という自覚が田口タキと深いところでむすびつけ、「防雪林」や「不在地主」の移住農民たち、「その出発を出発した女」や「瀧子其他」の女たち、「蟹工船」の労働者たちを、まざまざと自分の問題として描き出させたのであろう。「東倶知安行」に書かれた故郷を追われて北海道の各地を移り歩く朝鮮人労働者に対する強い関心も、この土地をうばわれた移住民の自覚と結びついている。貧農の子としての自覚、その歴史性の認識は多喜二の世界を急激に深め、発展させた。
「『カムサツカ』から帰った漁夫の手紙」(『改造』1929年7月号)には北海道に移住してきて、その日その日の暮らしのためにさまざまな臨時の季節労働を転々とした末、ついにカムチャツカ迄出掛けて行くようになった漁夫の手紙という形態をとって、その苛酷な労働の実態を記述しているが、次のように書いている。

 食うためなら、我々労働者は北極迄も行くでしょう。然しやっぱり樺太あたりへ行くのとは異い、函館の港を出るときは、さすがに背中が寒かった。デッキに一時間もつかまったきりだった。妻と二人で、内地から雪の深い北海道へ初めて移住してきた時のことが、頭ヘジリくとかえってきた。又!又俺達は北へ追われるのか、フトそんな気になると、いくら擂木(スリコギ)のような漁夫だって、何んか、こう、いても立ってもいられなくなるようです。たった風呂敷包一つ持った、薄汚い朝鮮人が北海道のどの汽車にも、必ず一人は乗っている、あれを憐んだことがあった。今度こそ、それがそのまゝ自分だと思わさるのです。

 この作品でも「朝鮮人やアイヌは、丁度日本の労働者がアメリカで嫌われるのと同じように、嫌われてい」ると書かれている。その朝鮮人を憐れんでいたが自分もまた同じ身の上なのだと思うのです。帝国主義の搾取に故郷を追われ、遠くカムチャッカまで流浪していく自分と、祖国を追われて日本の北の果てまで流浪する朝鮮人の同類性を明らかにし、日本帝国主義は日朝両国人民の共同の敵であるとを多喜二は明らかにした。その日本の労仂者が朝鮮人労働者を疎外し、侮蔑し、敵視し、反目し合っている。
 
    4

 プロレタリア作家としての出発点で朝鮮人労働者の問題に注目した多喜二は、自己の思想的成長を大きなと運動への参加を日本の大きな時代の動きのなかに描き出そうとした大作「転形期の人々」(未完)では、朝鮮人を具体的な個人の登場人物として描こうとした。この小説は壊れかけたアパートの改築にともない家賃の値上げ問題がおこり、これに反対するさまざまな過去をもつ極貧の居住者たちが、次第に力をあわせてたたかおうとする1000枚におよぶ大作として書きはじめられたが、その序篇だけで満州事変がおこり中断された。発表は『ナップ』1931年10月号から『プロレタリア文学』1932年4月号まで約430枚、なお死後に残された未発表の断稿約50枚がある。
 
 小樽の街には三千人以上の朝鮮人が、それも手宮の街とその附近にゴミくとさゝり込んで住んでいた。ーー小樽で一番朝鮮人を使って、その安い賃銀で一番儲けている商業会議所の副会頭の言葉に従えば、それは「小樽の虱」だった!

 岩城ビルには毎日のように、朝鮮人が子供を背負った細君をつれて汚い風呂敷包み一つ持って室を借りにやってきた。しかし、差配は部屋が空いていても、朝鮮人の家族だけは二階のきまった室以外には入れなかった。若い独身の李、家族持ちで四十近い洪、夕張炭山で七年も坑夫をしていたという陽、冗談を言っては自分から「ヘッゝゝゝ」と笑って皆をわらわせる金さんなどが今住んでいる朝鮮人だった。
「東倶知安行」では群としての朝鮮人が描かれたにとどまるが、「転形期の人々」では姓があり、それぞれの過去と個人的特徴を持ったさまざまな朝鮮人が登場し、家賃の値上げ反対の運動で貧困な日本人居住者とともに積極的に活動する。居住者の間の差別意識は強かったが、家賃値上げ反対ということでは利害が一致し、民族的差別意識を乗りこえた共同のたたかいが展開されることになると思われる序篇の展開である。
 日本人労仂者と朝鮮人労働者の対立の問題はこの作品でも描かれている。「合同労働では朝鮮労働者の問題が瘤だって云ってたよ」と若くて日本人よりも上手な日本語を使う李が云った。李は朝鮮語のほうが日本語よりすらすらしゃべれなかったが、日本語がたどたどしい年長の洪や陽のために朝鮮語をまじえて熱心に説明した。港で働いている合同の労働者たちが、朝鮮人に対してハッキリした対策をたてゝくれないと、飢え死するッて組合へ云ってくるということだった。現場の親方は又それをいゝことにして、お前ら組合を出たら、朝鮮人をやめて使ってやると引ッ掛けてきているらしかった。理窟は簡単で、あくまでも朝鮮人労働者の賃金を日本の労働者と同水準に高める、そのために日本人労働者が朝鮮人労仂者がと一緒に全部結束して同じ賃銀を獲得すれば、問題は解決するのだが、それがオイそれと出来ないので困るというのだった。
 陽は「夕張炭山やッぱり同し」「夕張炭山クミアイ無い。それでも同し。日本人みんなイヤがる!」陽は朝鮮語で早口に「困る、困ると云っていたのでは、何時までも困るんだ。日本の労働者も困るし、何時までも安い賃銀で馬小屋よりもモット汚いところに往んでいる朝鮮の労働者も困るんだ。やる方法がたった一つしか無いとしたら、オイそれと出来なくたって、矢張りやらなければならないんだ!」という意味のことを云った。李はその朝鮮語を誰かに分られはしなかったかと思ってヒヤッとし、陽にモッと小さい声で語せと朝鮮語で云った。
 民族的差別による朝鮮人労働者の低賃金と苛酷な労働は、日本人労仂者の低賃金や苛酷な労働条件の基盤であり、朝鮮人労仂者の解放なくして日本人労仂者の解放はない。資本は民族的な差別意識を利用して、労仂者を分裂させ、相共に植民地的労働条件に押し込めている。これは理窟としてはわかっているのだが、実際には民族的差別意識に支配されて実現は困難だ。陽の「やる方法がたった一つしか無いとしたら、オイそれと出来なくたって、矢張りやらなければならないんだ!」という言葉の意味は朝鮮の独立を実現する以外に解決はないということだろう。それだから李はこの言葉がこの言葉の意味がわかることをおそれたのだと思う。
 多喜二はこの作品のつづきを書くことに執着し、49枚の書きかけの断稿が作者が地下活動中いつも身辺におき、書籍や原稿類をいれていた大型トランクのなかから、作者の没後に発見された。執筆途中で警察の手で殺されたことは返す返すも残念なことである。

   5

日本の社会主義者は朝鮮の独立運動を支援し、朝鮮人労働者は日本の社会主義運動を支援した。中野重治は1929年、昭和天皇の即位を祝う御大典のために強制送還される朝鮮人の同志に贈る「雨の降る品川駅」(『改造』2月号)を書いた。

辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する

李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母〔ちちはは〕の国にかえる

[中略]

君らは雨にぬれて君らを追う日本天皇を思い出す
君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫背の彼を思い出す

[中略]

君らは出発する
君らは去る

さようなら 辛
さようなら 金
さようなら 李
さようなら  女の李

行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ
ながく堰〔せ〕かれていた水をしてほとばしらしめよ
日本プロレタリアートのうしろ盾〔だて〕まえ盾
さようなら
報復の歓喜に泣きわらう日まで 君らは出発する 君らは去る

 昭和天皇の時代のはじまりとともに日本の大陸に対する侵略政策は確立され、1928年3月15日の大弾圧は日本と朝鮮の解放運動の先頭にたつ人々を襲った。中野の詩はこの弾圧に対する怒り、解放を求めるはげしい感情のほとばしりであった。それは両民族の連帯と共同の記念碑的作品だった。
 日本の中国侵略は植民地を拡大することによって、日本の資本主義の危機を打開しようとするものだったが、それは同時に、日本と朝鮮、中国の労仂者にますます苛酷な植民地的搾取を強いるものであった。多喜二は満州事変勃発後間もなく、1938年2月、文学者として帝国主義支配とたたかうたたかいの途中で治安維持法によって検挙され、警察の拷問で殺された。1928年3月15日の治安維持法による大弾圧で検挙された同志たちのたたかいを描いてプロレタリア作家として出発した小林多喜二はこの治安維持法によって殺された。多喜二の作家的生涯は治安維持法とのたたかいだった。多喜二と同じくあきらかに虐殺されたものは虐殺されたもの80人、拷問・虐待が原因で獄死したものは114人、病気その他の理由による獄死者は1,503人だった。しかし、日本人で死刑の判決をくだされたものは一人もなかった。これに反して朝鮮人で死刑判決をくだされたものは19人におよんでいる。朝鮮人に対する弾圧がいかにきびしかったかを示していると思う。日本人と朝鮮人はともに日本帝国主義のために植民地的搾取を受け、ともに治安維持法による弾圧を受けた。
 多喜二が死んだとき、魯迅は次のような言葉を寄せた。

 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界   (さかい)を描いた、又描きつつある。
 しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗っている。
 同志小林の死は其の実証の一つだ。/我々は知っている、我々は忘れない。
 我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。

 朝鮮問題に則して魯迅の言葉をを読むならば、次のようになると思う。日本と朝鮮の人民はもとより兄弟だ。資本家階級はだまして互いに反目させ、対立・抗争させる。しかし、小林多喜二ら無産階級とその先駆達は、血を流してこの対立を乗りこえともにたたかう道を切り開いたのだ。多喜二はそのたたかいの途上に倒れた。我々はこの同志小林多喜二の道を受け継いで日朝両国人民の握手を実現するのだ。
 これは1933年、朝鮮は日本の植民地であり、中国では日本の軍部が満州事変をはじめ、長い戦争に突入したときの言葉である。その後12年の戦争によってアジア諸国の人民は言語に絶する収奪に苦しみ、そして日本人民もその生活を根本から破壊されたが、1945年8月に日本帝国主義がついに倒れ、アジアの諸民族が独立を実現し、日本人民も帝国主義的抑圧から解放された。戦後60年、独立したアジア諸国は新しい共同によってさらに大きな飛躍を実現しているが、米国に追随する日本は過去の侵略の歴史を美化し、新しい諸国間の共同と発展に反対する勢力が支配しつづけている。いま、多喜二の道を受け継ぐということは、この勢力とたたかい、新しい共同と繁栄の道を切り開くことだと思う。

本稿は2007年10月13日全州大学で開かれた、韓国日本語文学研究会での講演に手を入れたものである。

関東大震災については中央公論社刊「日本の歴史」第二十三巻今井清一『大正デモクラシー』によるところが大きい。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/imaiseiichi.html

越中谷利一の「一兵卒の震災手記」について『平和新聞』に連載した拙稿『文学にみる戦争と平和』第十七回 「越中谷利一 一兵卒の震災手記 『戦争ニ対スル戦争』」と重複する記述がある。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh17.htm

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2008年1月27日 (日)

小林多喜二『東倶知安行』

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 『東倶知安行』は、一九二八年(昭和三)二月の第一回普選の選挙闘争の体験を描いている。経験の順序とすれば『一九二八年三月十五日』に先だつわけだが、作品としては『一九二八年三月十五日』のあとを受け、それをのりこえて新しい境地をきりひらこうとしたものである。
 『一九二八年三月十五日』を書きあげたときの感動を多喜二はのちに『「一九二八年三月十五日」』(『若草』一九三〇年九月号)その他に書いているが、ひとりでじっとしていることができず、なにも知らぬ友人にコーヒーとビフテキをおごったという。それはただたんに力をこめた作品を完成したという感動であるにとどまらザ、この作品を書きあげることによって、自分が新しい場所に進み出たという感動でもあったとおもう。すなわち多喜二はこの作品によって、敵権力の前にはっきりとその姿をさらし、もはやひき返すことのできぬ場所にわが身をおいた。

 『東倶知安行』には、はじめて実際運動に参加した青年の感動があふれるような清新さで描かれているが、それは『一九二八年三月十五日』によって、全体的な革命運動の一翼として新しい一歩をふみ出した作者の感動と重なりあい、それに支えられて、生きいきした文学的リアリティーを生みだしている。そこには『一九二八年三月十五日』を書きあげ、それを発表することによって作者自身のものとなった新しい自己発見の感動、歴史と民衆の広範なたたかいとしっかり結びつけられたという自覚とそれにもとづく新しい決意がある。

 二月の選挙のあとで多喜二は『瀧子其他』を改作して『創作月刊』四月号に発表し、また三・一五直後の四月には『防雪林』を書きあげている。いずれも前年からとりかかっていた作品であるが、その末尾が放火、もしくは放火を暗示する形で終わっていることは偶然とは考えられない。『瀧子其他』の場合、前年九月のノート原稿『酌婦』では、窓の下をメーデー行進が通るところで終わっているのだから、この改作部分がとりわけて当時の作者の暗い心境を示していることになる。それは『東倶知安行』の末尾で、開票の当日、「私」が「老人」と場末のバーで飲んでベロべロになってしまうのと無関係ではない。
 生まれてはじめて参加した選挙闘争の体験が、多喜二の生涯に決定的な意味をもつものであったことはたしかである。前掲文に多喜二はこの選挙のときいっしょになった「色々のタイプの人たち」について書き、「それ等がすベて全く新しい『驚異』をもって迫ってきた。われわれはそう何時でも、個々の経験に対して『驚異』という言葉を使える打ち当り方をするものではない」(傍点原文)、とのべている。しかしあらゆる努力にもかかわらず選挙は敗北に終わり、現実はますます暗黒にむかって進んでいった。そして多喜二には銀行員としての同じことのくり返しの生活が続いた。選挙の体験が切実であればあるほど、多喜二は焦躁感に苦しみ、ぬけだすことのできぬ中途半端な生活が耐えがたかった。三・一五はこのような多喜二をうちのめした。

「『残されたもの』の悲哀に溺れながら、『午前四時』を、循環小数のように繰りかえしている。ボヘミアンのライフだ。酔眼をしょぼしェぼさせながら、午前三時頃、カフェー・キリンのテーブルで=・=」(傍点原文)と多喜二は三月三〇日の斎藤次郎宛書簡に書いている。ここには挫折感にうちひしがれ、行くべき方向を見失って彷捏する小市民的インテリゲンチアの姿がある。弾圧で仲間たちを失って絶望的になった多喜二は、『防雪林』の末尾を組織的なたたかいに敗北した源青の放火で終わらせざるをえなかった。そのことによって、作者自身のおさえることのできぬ反抗と憎悪を、絶望的なままに投げつけたのである。

 たしかに多喜二における社会主義への志向は、一時的な挫折や敗北によってかき消されてしまうようなものではなかった。選挙前の二月二日づけ新井紀一宛書簡には、自分は「必然的に」実際運動に参加していくのだと書き、「それは自分の生活、境遇、意識、文芸と離し切れない交互作用から来てい」ると告げている。多喜二は社会主義者として生きるしかなかった。しかもそうであればあるほど、自分自身のエゴイズムに苦しみ、挫折感におそわれ、懐疑と焦躁と絶望におちこんでいった。そのようなかれをつき動かし、新しい決意をもってたちあがらせたのは、獄中の同志たちの不屈のたたかいであり、ナップの成立であった。

 蔵原惟人らのはげましのもとに、『一九二八年三月十五日』を書きあげた多喜二は、自分自身をはっきりと国家権力と対決する場所におき、そのことによって同じたたかいをたたかう数しれぬ人びととしっかりひとつに結びついたのである。この事命的連帯の真新しい感動のなかで、多喜二は、自分が長い孤独な彷復のはてに、ようやく自分のあるべき場所に到達したこと、自分がまさに真の自分として、歴史のまっただなかに、世界のまっただなかに立っていることを感じた。『東倶知安行』をつらぬくものは、この新しい自己発見の感動である。

 『東倶知安行』を書きあげてまもなく友人斎藤次郎にあてて、「君が、自分の画のどれに対しても自信のもてないという事は、キット、内面的に見て、自分の本質が分らないからではないかと思う。又、君の描く画が、一作毎に変るのだとしたら、矢張り、本質への盲目から、そのことが来ているのではないかと思う」(一九二八年一〇月六日付)と書いている。多喜二はこのことばを、『一九二八年三月十五日』『東倶知安行』を書くことによって、はっきりと自分自身に到達しえたという自信のうえに立って書いたのである。

 もとより多喜二における自分自身の発見は、同時にいたるところのすみずみで、労苦に耐え迫害に抗してたたかい続ける名も知らぬ無数の人々との連帯の発見であり、またこの民衆のたたかいを支える長い苦難にみちた相剋の歴史の発見であった。この発見の感動に貰かれることによって、多喜二は『一九二八年三月十五日』から『東倶知安行』 へとその主題を発展させた。

        2

『一九二八年三月十五日』ではもっばら警察内部のたたかいが描かれた。大衆からも仲間からもきり離されて、 ひたすら精神力だけを頼りに、極限的な苦痛に耐える孤独なたたかいである。しかしそれとの対決なしにはいかなる革命的思想も空語に終わるしかなかった。天皇制下の日本にあっては、それは避けることのできないもっとも本質的なたたかいであった。多喜二は拷問の場面を力をこめて描き、国家権力の本質をあばきだすと同時に、そのことによって自分自身の小市民性と必死にたたかった。それは獄中の仲間たちのたたかいと同様、外部の現実からきり離され、ひたすら自分自身の極限を見つめるたたかいであった。それがこの作品を重苦しく息づまるものにしている。

  『東倶知安行』はこれとはまったく対照的に、選挙闘争というもっとも大衆的な場面で、広範な大衆との結びつき、運動を支える基盤の広さと探さを追求している。吹雪の平原を馬橇で突っ走る場面に象徴されるロマンティックな革命的情熱の高揚は、重苦しい拷問の場面とは対照的である。ここにはひろびろとした広がりがあり、ダイナミックな動きがある。ひとりの青年が中途半端な会社員の生活のわくを破って、躍動する運動の前面に出ていき、直接大衆に語りかけ、働きかける。そしてかれは同志を見いだし、自分自身を見いだす。

 しかしだからといって作者は現実の暗い部分を見落としているのではない。『一九二八年三月十五日』と同様に、自分自身の小市民的意識と対決し、また運動そのものが内包する矛盾にも鋭い目を向けている。「私」は選挙のために組合に出入りしていることがわかれば、それだけで「首」になる銀行員だった。そしてその首には六人の親子がぶらさがっていた。しかし「私」は勤めのために表だった活動ができぬことを「運動への大きな『卑怯』」と考え、自分のエゴイズムを乾しく責めないではいられなかった。多喜二はインテリゲンチアの意識と生活の矛盾を追求し、それからの脱出の喜びを描いている。すなわちこのような「私」だったから、遊説隊に欠員ができてそれに参加することができたとき、その喜びは大きく、「出征軍人のように」興奮したのである。

 倶知安行きがきまった夜、「私達」がいつも通る薄暗い小路を通る場面を多喜二は書いている。そこには淫売屋が二、三十軒も軒をならべ、「雪の遠慮もなく吹込む土間に、女がショールを首にまきつけて、袖に手をひっこめたまま、表を見て立っていた」。それは初期の多喜二がもっばら追求してきた世界である。出発の前夜の場面にこの情景をあえて挿入したのは、作家としての多喜二が過去への別れを告げているのだと思う。多喜二はこの救いのない暗黒の世界を追求して苦しみ続けてきた。むしろその苦しみによって社会主義へと進み出たのである。そこを巣立って、はげしいたたかいの場へ、光り輝く躍動の世界へ出発サる多喜二は、しかしそのたたかいが、この暗黒の世界に光明をもたらすものであることを、この短い場面で暗示している。ただありのままに経験を語っているように見えるこの作品は、対照の鮮かな、構成に苦心した作品なのである。

 出発の朝の場面で、多喜二は沈下ケーソソの工事に行く人夫、駅のベンチに寝ている土工部屋から追い出されたと一見してわかる垢だらけの男を描いている。そして「物憂くあくび」をする駅員や、列車の中の朝鮮人労働者たち、これらの人びとが今朝は特別な意味をもって迫ってきたのである。「私」は自分をとりまく世界としっかり結びつき、どんな他人も自分と無関係なよそよそしい存在ではなかった。銀行の壁のなかで「蛆虫」のように受動的に、無意味に生きた青年が、その長い苦しい彷復のはてに、ついにその壁を破って明るい光のなかに出てきた。この作品のいたるところからあふれ出ているのは、人間的連帯の感動であり、さなぎのからを破ってとび出した人間の、ういういしいよみがえりのよろこびである。

 かれは自分が世界に働きかける人間として、はじめて世界のまっただなかに立っているのを感ずる。かれは世界に手蒜ばサ。すると世界もかれに手を伸ばす。そしてかれは自分がはじめて本当の自分として生きているのを感ずる。かれは列車の窓から山のなかにはられたビラを見つけ、「目につく、目につく-・」と「子供のように」喜ぶ。一枚のビラにもそれをはった人たちを感じ、その人たちとの結びつき、またそれを見る人たちとの結びつきを感じるのである。

 私は広間諒に集った群衆を見た。私ほ興奮してきた。1私ほ叫ぶ。と、あの無数の群衆がそれと一慧つり上ってく
 るのだ。それは本当だろうか。私はこう云う。と、彼等はそうしようと手をさしのべてくる。彼は「求めている。」私はそ
 れが「何」であるか、そして、それは「どうすれは」獲得出来るかを云う。そこで、彼等は「そうだ」「そうだった」と云つて立ち上る(傍点)のだ!だが、それほ本当に出来るだろうか!(傍点原文)
               
 はじめて演壇にあがる直前の興奮が、この文章の強い短いリズムを通して、直接に私たちに伝ってくる。私たちは「私」=作者の荒い呼吸の音をさえ聞くことができる。
 こうした高揚がもっとも詩的な形象となってあふれ出ているのは、吹雪の平原を馬橋で突っ走る場面である。それはいかにも北海道らしい雄大な、そして荒々しくたくましい描写である。かれらは吹雪に声を奪われながら、無理に声をしばって思い思いに遠慮のない大声で、叫び、かつ歌った。荒れ狂う広大な大自然のまっただなかで、思いっきり解放された若い情熱は、吹雪がほげしければはげしいほど、いっそうはげしくもえあがったのである。しかし多喜二はこうした興奮を手ばなしで讃美しているのではない。吹雪のなかで道遠い、樺をひきかえす惨めな気持を多喜二は書いている。それは壷の象徴的な意味をもつ場面である。光明と同時に暗黒を描かずにいられないのが多喜二のリアリズムである。

         3

 やらせておけば明日の朝までも演説し続けるという、目も見えず耳も聞こえぬ七十歳の老人のことを多喜二は書いている。こんな老人までもがこの運動を支えている。それはまさにひとつの「驚異」だった。かれは酔うとかならず幸徳秋水の昔話をした。十八歳の時から、こういう運動をやってきているのである。多喜二は大きな感動をもって、北のはてに雪に埋もれながら、七十歳になる今日までも、十人歳の日の情熱を失うことなくたたかい続けた老人の姿を描き出している。

 この老人を飾る栄光はなにひとつない。金もなく地位もなく、目や写さえも奪われていた。そして余命もなにほどもなく、ついに革命の成就をその眼に見ることなく、空しく死んでいかねばならぬ。息子は老人に背いて家を出ていた。働きに出た娘は工場長におかされ、ストライキに破れてくびになり、いまは身を売って老人を養っていた。多喜二はこの悲惨な老人を通して、日本の解放運動の底辺にあるもっとも深い、もっとも真実なものにふれ、
はげしくゆすぶられている。
 「私のような小倒ロな人間は(私はかくさず云おう、実際この老人の前で何んの嘘が云えよう。)この何時目鼻がつくか分らない『何代がかり』の運動を、恐らくそう効目も見えず、又恐らく誰もそう高く『認め』てもくれないこんな所でしかも、こんなに大きな犠牲を払ってやって行ける本当の気持をもっているだろうか。」(傍点原文)
                                                                                                                     ヽ                  多喜二は自分をこの老人の前におくとき、自分の覚悟がいかにうわついたものであるかを思いしらなければならなかった。自分は勝利を夢季て、レーニンのような「無産階級の『大立物』」になりたいと思っているのだ。もし一生かかって自分がそのまま埋もれ、前途の見通しもつかぬとしたらとっくに裏切ってしまっているのだ。多喜二は自分の内部にある革命にたいするロマンティックな幻想をあはきだし、中央に出て認められることを望む小市民的意識を鋭く追及している。

 「私」はこの老人が「我等の島正」とよばれる「全国的な人気闘士」の代議士候補者とならんでいるのを「不思議に深い気持」で眺め、「理由が分らず憂鬱」になる。多喜二は解放運動の底辺を支える暗い現実を見つめ、表面にあらわれることのない無数の犠牲と労苦を、複雑な感動で感じとった。そして多喜二はそこに自分の進む道を見いだした。解放運動をその表面のはなやかさにおいて描くのでなく、それを支える暗い現実を追求サるリアリズムの道をえらんだのである。

 政治的スローガンや革命的情熱の高揚に酔い、現実のリアリスティックな追求を怠る主観主義的傾向に対立して、多喜二はその文学的出発以来徹底してリアリズムの道を追求してきた。その努力が解放運動の現実と結びついて『一九二八年三月十五日』を生んだのだが、『東倶知安行』はその成果のうえにたって、さらに深く運動の内部にはいり、運動が内包する矛盾、その暗い部分にまで迫っていったのである。多喜二はこの矛盾から目をそむけることなく、矛盾を内部に卒みつつおし進められる運動の姿を追求するところに、その新しい道をきりひらいていこうとした。

 敗北に終わった開票の日、家にじっとしていられずに小樽に出て来た老人と、場末のバーで酒を飲む、暗いなんともいえぬやりきれぬ場面でこの作品は終わっている。べろべろに酔った老人は、歩きながら「辛徳秋水」のことをなん度もくり返すが、「私」は老人が小樽に出て来た金は娘が身を売って得たものだと気がついて愕然とする。多喜二はこの悲惨な事実を悲惨な事実として描き出している。しかし多喜二はそれをひたすら解放運動の犠牲として、運動の非人問性を糾弾しょうとしているのではない。たしかにこの老人と娘の生涯は犠牲の生涯である。解放運動はかれらの苦しみをふやしこそすれ、へらしはしなかった。それは耐えがたい矛盾である。しかしこの矛盾のゆえに解放運動を否定するならば、結局において現状維持を肯定するブルジョア的ヒューマニズにおちいることをまぬがれない。それはこの現実をそのままにしておいて人間的でありうるという前提にたっているのである。多喜二はこの矛盾を矛盾として見つめ、犠牲の痛みに胸をえぐられながら、それでもなおたたかわれるたたかいに、複雑な気持で感動している。

 多喜二は「人間的」ということを、たんに観念的に、センチメンタルにとりあげるのでなく、その深刻な矛盾において追求している。組合の委員長鈴本は「嬶(かかあ)」をぶん殴ってきたという。その妻はなにもなくなったから飯を炊く炭や石炭を貯炭場から盗んでくるという生活に耐えているのである。四人の子どもは喰うや喰わずでやせ衰え、学齢になっても学校へやることができない。電灯は三カ月前からとめられている。家族を犠牲にして運動に奔走する鈴本は非人問的であると責められなければならないか。

 多喜二はこの鈴本や老人の生活と対比して、自分がしばりつけられている会社員生活を描き出している。立身出世して「人を使えるような」支店長になろうとする「意識」がかれらを支配している。そのためにはどんなことでもし、資本主義の発展椎持に全部の望みをかけているのである。同僚が首をきられようがどうしようが、いっさい知らぬ顔をしている「個人主義」、「勿事(ことなかれ)主義」がかれらのモットーである。多喜二は「彼等が『犬(傍点)』という名前で呼ばれていないことを不思議にさえ思う」と書いている。
 しかし「私」は偽りの届け出をして、ほんのひとときその生活から脱け出しているにすぎない。もしもそれから全的に脱出しようとすれば、鈴本や老人の苦しみにかれ自身が直面しなければならない。多喜二はかれらの苦しみ、解放運動に内在する矛盾を、自身の問題として真剣に直視している。そこには資本主義社会にあって人間的に生きようとする人間の矛盾が、もっとも先鋭な形であらわれているのである。

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 『東倶知安行』において多喜二が、はじめて実際運動に参加して直接大衆にふれ、新しく自分自身を発見した感動を描き、その人間的意味を明らかにしただけでなく、運動の底辺に生きる人間の苦しみをとらえ、それを解放運動の内包する矛盾として追求したことの意味は大きい。それは作者自身が生涯をかけてこの運動に参加しょうとし、それゆえその矛盾をみずからの矛盾として苦しんでいたからこそ可能なのであった。しかし多喜二はこの矛盾に苦しむ自身の生活をリアリスティックに追求するのではなく、それをとびこえることによって運動に参加しようとした。作者はその矛盾を鋭く描き出しながら、強引にそれをとびこえようとしている。この作品を貰くものはその飛躍の感動であるが、それは矛盾が矛盾として描かれることによって、いっそう強い感動として表現されている。しかし現実生活をとびこえた多喜二は、リアリストとしてもう一度現実に帰ってこなければならない。多喜二は「老人」の悲惨な現実を描くことでこの課題に答えようとした。そこに多喜二のリアリズムがあるわけだが、それを描いたこの作品の結末は、暗い中途半端なものになってしまっている。そこにこの作品の問題点が残っている。
 たしかに日常生活からの飛躍と断絶なしには解放運動に参加することはできないであろう。しかしそれは日常生活の矛盾の発展としてのみ可能なのであって、日常生活からの飛躍と断絶と同時に、その連続が追求されなければならない。この点で『東倶知安行』における多喜二のリアリズムは不徹底であった。会社員としての生活の矛盾を徹底して追求し、それを内部から克服する可能性を探るかわりに、その醜さがひたすら「清算」すべきものとして、固定的に強調されている。解放運動の現実は、現実に生きる「私」の会社員としての日常生活とはひたすら対照的に、それからの離脱と隔絶の場所でのみ描かれている。多喜二は自分自身の日常生活の暗黒をとびこえることで、日本の現実をとびこえてしまった。それゆえ、革命運動が内包する矛盾を鋭くとりあげながら、しかもその内部に深くたちいり、日本の現実の全体的な矛盾との関係において、十分リアリスティックに描き出すことができなかった。それは多喜二がこの選挙闘争のあとで、挫折感に苦しみ、絶望的にならざるをえなかった事情と無関係ではないのである。
 「私」は「島正」とならんだ「老人」の姿に「理由も分らず憂鬱に」なるが、多喜二はそこからさらに一歩進んで、この老人の内部につきいることができなかった。それゆえこの作品は解放運動の光と影を、その鋭い対照において照らし出すにとどまったのである。そこからこの作品のおちつきの悪い、中途半端な結末が出てきている。もしも多喜二がこの老人の内部にはいり、なにがかれをこのように生きさせるかを追求したならば、そこに日本の現実の矛盾が集中的に凝縮しているのを見たはずである。この老人の悲惨な姿に象徽的にあらわれた解放運動の矛盾と苦しみは、資本主義社会の矛盾と苦しみのもっとも尖鋭な、もっとも集中的なあらわれである。解放運動を支え、動かし、それを発展させるものは、日本の現実の矛盾と苦悩である。それゆえ解放運動の現実は、日本の現実を徹底的にあばきだし、そこに生きる人間の矛盾と苦悩をリアリスティックに追求することによってのみ、はじめて強固な現実性をもって描き出されえたのである。
 『東倶知安行』は一九二八年九月に書きあげられ、『創作月刊』に投稿されたが、没になって掲載されず、一九三〇年になって『改造』十二月号に発表された。当時多喜二は獄中にあり、獄外の同志たちが残された家族の生活を心配して、この旧作を発表するように事をはこんだのである。多喜二はこの作品が雑誌に発表されることには反対で、この作品について「声変り時のニキビ中学生のように、この上もなく不愉快な、中途半端なものです」(一九三〇年十一月二十日付中野鈴子あて書簡)といっている。たしかにこの作品には、解放運動の現実をその内部から描き出すのでもなけれは、また自分の生活の矛盾を内部から徹底的に追求するのでもない中途半端さがある。会社員生活に自己嫁悪をおぼえ、離脱を願う青年が、運動の現実にふれて感動し、同時にその矛盾と苦悩にふれて暗い気持になる。結局それは解放運動を指向する小市民インテリゲンチアによってとらえられた運動の現実であり、その光明と暗黒であって、小市民的な観念性と感傷性を十分にまぬがれているとほいえないのである。
 しかし多喜二ほ「何代がかり」の運動ということをくり返して強調し、広くて深い運動を支える底辺の現実に目を向けている。個人の力でほなくて、日本のいたるところのすみずみで苦悩に耐え迫害に抗してたたかう民衆の力こそ歴史を動かす力であることを、感動をもって描きだし、運動を広大な歴史的展望において把握しようとする地点にたっている。それは多喜二が明確に革命的作家として新しい一歩をふみ出そうとして、自分がはじめて実際運動に参加したときの経験を、新しい感動をもって描き出した作品であり、その中途半端な結末をも含めて、そうした多喜二の新しい出発を記念する作品となっている。
 たしかに中途半端な結末に終わらざるをえなかったことはこの作品の欠陥であるだろう。しかし多喜二が革命的な高揚だけではなく、底辺にあってたたかう人間の悲惨ともいうべき現実に目を注いだことの意味は大きい。そこにリアリスト多喜二の鋭い目がある。多喜二は現実から目をそらすことによってではなく、いっそうそのリアリズムを徹底させ、日本の現実の陪黒に深くはいっていくことにょって、この作品の欠陥をのりこえようとした。すなわち次作『蟹工船』は、日本のもっとも暗い地獄的な現実を徹底して描き出し、あらゆる矛盾にもかかわらずおし進められる解放運動の必然性と、その人間的意味をあきらかにした。
『蟹工船』において多喜二ははじめて資本主義社会のもっとも残酷な搾取の場にたち、その最底辺で虐使される労働者の生活をリアリスティックに追求することによって、日本の現実とその解放のたたかいを、もっとも深いところから描き出した。この最底辺の地獄的世界から照らし出すとき、日本の現実のあらゆる矛盾と苦悩は、はじめてその総体的連関において、生きいきと立体的に描き出すことが可能となった。多喜二はプロレタリア・リアリズム確立の道を一歩大きくふみ出したのであるC
『東倶知安行』はそのような多喜二が、小市民的インテリゲンチアとしての自身に訣別し、労働者農民のたたかいに参加することによって、ゆるぎないプロレタリア・リアリズムへと到達しようとする、その新しい出発の過渡的な姿を示す作品である。のちに多喜二はこの作品を「その芸術的価値は別として、私には忘れられない作品である」(前掲「『一九二八年三月十五日』」)とのべている。それは労働者農民の「己れ自らの活動舞台」への登場と、「急進的な知識階級のホウハイとした合流」という歴史的事実を示しているというのである。しかしそれはたんにそこに描かれた歴史的事実のためばかりでなく、プロレタリア・リアリズムの道へと新しい出発を出発したプロレタリア文学運動の新しい出発の姿を示し、それが内包する矛盾を明らかにすることによって、プロレタリア・リアリズムの新階段を準備した作品として、その文学史的意味において、「忘れられない作品」なのである。(『小林多喜二読本』所収)

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2007年7月29日 (日)

小林多喜二と近代文学  民主文学 1973年2月

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小林多喜二没後四十周年記念特集

  ― 過去の文学に対する多喜二の態度

 小林多喜二は治安維持法で起訴されて、一九三〇(昭和五)年八月から翌年一月まで、豊多摩刑務所で未決の生活を送った。始めての東京の秋を独房で迎えた多喜二は、北海道とちがって、いつまで続き、どこまで深くなるかわからない東京の秋に驚嘆し、有島武郎がいったという「東京の空を見て死にたい」という言葉を深い感慨をもって思い起している。有島は北海道を描いた作家で、中学(小樽商業)時代に文学に目を見ひらいたときから、多喜二に大きな影響をあたえた作家だった。あまりにも多忙な生活を続けてきた多喜二にとって刑務所は自分自身をふりかえり、これまでの生活と文学を根本的に検討する得がたい機会でもあった。このことと東京の秋の空に有島を思いうかべることとは無関係ではなかった。
 刑務所でこれまであまり読まなかった古典的な作家を読んだことは、多喜二の思想と文学に新しい広がりと深まりをあたえた。バルザックとディッケンズをはじめて知った多喜二は、獄中からの手紙にその感動を率直にのべて、これまでの自分の作品は「綴方文学」にしかすぎなかったと繰り返している。これらの作家を日本のプロレクリア文学がほとんど知らずに来たということが、プロレタリア文学をこの上なく空虚なくせに、傲慢にさせたのだと多喜二はいう。過去の文学をアウフヘーベンするなどというが、真剣に学ぶことなしにどうしてそれが可能であるか。実際はただ単に否定という意味位にしか考えていなかったのだ。このように多喜二は、プロレタリア作家たちが過去に学ばず、現実にも深くはいって行かず、半分職業的に、惰性だけで書くようになる危険を問題にして、「ぼくたち自身の内にあるボス的意識」をきびしく批判した。
 過去の文学に学ばず、これを安易に否定するのは、文学の問題をイデオロギーの問題に還元する態度と結びついている。こうした安易なィデオロギー主義は、プロレタリア文学に固定化、一般化、平均化の傾向を招かずにいない。多喜二はそれを「ボス的意識」と結びつけて批判したのである。出獄後の多喜二は、プロレタリア文学のこれらの傾向を批判する評論を、精力的にくり返して書いた。現実の豊富さから出発し、文学を文学として追及することをしないから、「われわれの作品を共産主義的に武装しなければならない」ということがいわれると、「党のスローガンをそのまま説明するような作品の傾向」が生まれる。
「作品の中に文字通り・スローガンを持ち込み、或いは取り上げられる題材を所謂尖鋭化した闘争場面に限定し、すべての生きた現実の多様性を抽象し、われわれの作家が持っている種々な特質を、その『質』の上でも『題材』の上でも狭く固定しようとした。そこに平均化の傾向が生れて来たのである。」このように多喜二は、どの作家の作品も似たような筋道をとって、同じ結着にたどりつき、取り扱われる人間も「われわれに都合のいい(!)人間」になってしまっていることを、鋭く批判した。
 獄中の多喜二は、バルザックやディ。ケンズ等外国の作家たちばかりでなく、武者小路実篤についても数多くの手紙に書いている。多喜二は武者小路がひたすら自己を信じ、ただ自己にのみ忠実であることによって、まったく独自の芸術を生み出したことに感動した。武者小路の素朴な情熱、自己を素材にむき出しに、事もなげに奔放に表現する力を強調して、プロレタリア文学の作家たちが、ともすれば自己を見うしない、新しい流行にかぶれ、公式理論にもたれかかって、惰性的な小手先の仕事におちこみがちなことを批判したのである。
 武者小路に感動する多喜二は、徹底して自分自身であることによって、徹底して共産主義者であり、プロレタリア作家である道をあるこうとした。多喜二が斎藤次郎にあてた手紙に、武者小路の「その妹」「友情」について「君が『今』もう一度これらの作品を読み返して見ることを僕は切に望んでいる」と書いたことは、斎藤が画をかく青年であり、自分の方向を定めかねて迷っていたことから考えて、多喜二が武者小路からうけつごうとしたものが何であったかを示している。一九二八年十月の手紙には斎藤が自分のどの画にも自信がもてず、また画が一作毎に変るのは「自分の本質」に対して盲目であるためではないかと指摘している。多喜二は斎藤が「自分の本質」をしっかりつかみ、自分自身のユニークな芸術をうちたてることを、くり返し望んで来たのである。多喜二の武者小路に対する感想も、この文脈の中でとらえるとき、その意味が明確になる。多喜二は武者小路からもっとも本質的なものを受けつぎ、プロレタリア文学においてそれを発展させようとしたのである。
 多喜二が斎藤に対して「自己の本質」云々と書いたのは、「一九二八年三月十五日」を書きあげた直後のことであった。多喜二はこの手紙で、さまざまの画に、さまざまに心を奪われることの危険をいい、一人に「惚れこむ」ことの必要を説いた。「一人に! これがスローガンだ。モットウだ。そしたら、そこから君の道が出て来る。」 この多喜二が惚れこんだ一人の作家は志賀直哉であった。「一九二八年三月十五日」の背後には志賀直哉がいる。「一九二八年三月十五日」執筆中の多喜二は、当時刊行された改造社版の現代日本文学全集「志賀直哉集」(一九二八年七月刊)の巻頭言について、「まさに里見弥の『一刀一拝の芸術』『胎芸』の、至上の境地をつきぬけて、もう一つ上の至上に至っているという感じだ。精読を望む。」と一九二八(昭和三)年七月十五日に、斎藤にあてて書いている。
 「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というようなものは全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上でもし私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思はないだらう。」これが直哉の巻頭言である。獄中の多喜二は、「一九二八年三月十五日」を書く以前に帰り、「新しい、まだ誰も知らなかったような作家として、そのような新しい誰もが今まで見ることがなかった作品」を書いて行きたいと念願した。この多喜二の心に去来するのは、直哉の文学を心に抱いて、ひたすら精進した当時の自分の姿であった。多喜二は自分の仕事を、文学として芸術として、きちんと自立したひとつの世界として確立してゆくことを求めた。ブルジョア作家だ、プロレタリア作家だ、文戦だ、ナップだ、等々というレッテルによって文学を考えることが、プロレタリア文学を堕落させる。新しく無名の新人が 「処女作を書く時のような気持」で出発しなおそうとする多喜二は、あの巻頭言のついている「志賀直哉集」を、わざく小樽の家からとりよせてくれるように、斎藤にあてて頼んでいる。
 多喜二は獄中から直哉にあてて手紙を書き、これまでの自分の作品がいかに「粗雑な古ぼけた、薄っぺらなもの」であったかを、この上なくはっきり知ることができたと書いている。多喜二の手紙には直哉に対する深い敬意と親愛の情がこめられている。「急にわきたつような気持から」この手紙を書くのだといって、「此処で、手紙を書く気持を、私はどのように云っていゝか分りません。それは、まるで何かむさぼるような気持です」という。たしかにそれは、決して通り一ペんの気持ちで書かれたものではなかった。関西講演のあとで奈良の直哉を訪ねようとした矢先に大阪で逮捕されたのであった。出獄後の手紙でも、直哉上京のさいにあえなかったことを残念がっており、その後地下活動にはいる前に、奈良に直哉を訪ねて念願をはたしているのである。
 多喜二と直哉、ふたりはどれほど遠く離れた世界に生きた作家であったろう。しかし多喜二は自分と直哉を結ぶ共通の世界を信じていた。それ故くり返して、自分の作品に対する直哉の遠慮のない批判を求めたのである。多喜二は直哉を文学の師として、それに導かれてここまで来たという思いがあった。獄中での直哉に対する感慨は、決してその場かぎ力のものではなかった。多喜二はいつも直哉をおもい、処女作以前の自分をおもって、ともすれば作品が粗雑になり、観念的になるのをいましめ、自己にむちうった。多喜二は常に前進し、作品の世界を拡大していったが、一方ではたえず直哉にもどり、直哉の目を保持し続け、その目で自分の作品を批判した。「一九二八年三月十五日」ばかりでなく地下生活の中で書いた最後の作品、「党生活者」にもはっきりと直哉の目は生きているのである。

  2 多喜二の転回点

 プロレタリア文学運動の内部には、過去の文学をブルジョア文学として一挙に否定し去る傾向が根強くあったが、文学を階級的立場や作者のイデオロギーに還元するこの傾向に対して、多喜二は一貫して反対し続けた。過去の文学に学ぶことは、イデオロギー主義、政治主義、テーマ主義を克服して、文学を文学として、芸術として発展させること、人間を一面的にでなく、その根底から、全体的に把握し、観念としてではなく、具体的なたしかな形象として描き出す努力を意味する。
 獄中の多喜二は鹿地亘にあてて、チェホフを「一般的命題」でかたづけずに「知る」努力をしてほしいと書いている。「正しい方向」とか「正しいイデオロギー」の強調によって、文学がそのセンチメントをうしない、読者の胸に訴えるものでなくなる危険を、具体的に橋本英吉の作品に即して論じ、「イデオロギーの百の純粋さと同時に、(そのイデオロギーが依ってもって育ち、肉付けするところの)プジコロギー(心理、情緒だ!)がそれに伴わなければならない」と強調したのである。そして「それのない作品は、労働組合の先生の方が、よりうまくやってくれる領分なのだ」といっている。
 多喜二のこの考え方は、「一九二八年三月十五日」以前、その出発以来一貫している。一九二七(昭和二)年五月の小樽新聞に発表した「十三の南京玉」は「無産階級意識を(頭からではなしに)胸から把握」することを強調して、葉山岳樹の「淫売婦」や「セメント樽の中の手紙」の意味を指摘した。そして「プロレタリア文学は宣伝手段でなければならない」というような一面的な意見や、「唯物史観がそのまx芸術論におきかえられている愚な議論」が横行するプロレタリア文学の現状に対する鋭い批判をあびせている。一九二八(昭和三)年一月の「吹雪いた夜の感加」(「小樽新聞」)ではこの問題についてさらにつっこんで、次のように論じた。
 トルストイの「復活」に関連して、「単純に、人間主義の作家だから、『馬鹿々々しい説法』である無抵抗主義の作家だから、というレッテルを貼りつけ、それだけの理由で黙殺するのは、結局何事もそれから学び得る所以ではない」と多喜二は主張した。コミュニズムのABCが表現されてさえいれば、ただちにそれをコミュニズムの芸術だとするのは、「コミュニズムのA、B、Cで安易な自慰をやる」ものだ。トルストイが「復活」で試みたあの社会の「えぐりだし」をコミュニストの態度でやるのが、コミュニズムの芸術である。そのなまなましい具体性において現実を暴露することに、「広いコミュニズムの芸術の未墾地」が横だわっており、「それは他の深い、尊敬すべき理論家、実際家にも与えられていない別のタアレント、芸術家の特殊性であると思う。」と述べた。多喜二は文学が政治やイデオロギーに還元されることに反対して、「芸術家の特殊性」、芸術の独自な存在理由を主張したのである。
 磯野小作争議や小樽合同労組の争議を経験し、社会科学研究会に参加して、労働農民党や小樽合同労組の人だちとの接触を深めていった一九二七年は、多喜二にとって決定的な一年であった。この年、多喜二は労働芸術家連盟に加盟し、その分裂に際しては前衛芸術家同盟に参加した。一九二八年を迎えた多喜二は、その一月一日の日記に「思想的に、断然、マルキシズムに進展して行った。古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである。」「さて、新らしい年が来た。俺遠の時代が来た。我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ。」と害いている。この年二月の第一回普選のだたかいに、東倶知安方面の演説隊に加わるなど、多喜二は自分自身を政治運動の中へ大きくつき出して行こうとしていた。この新年早々の感動の中で、政治と文学の問題についてきびしい緊張を強いられながら、「吹雪いた夜の感想」を書いたのである。この個人的にも社会的にも激動する時代の渦の中で、多喜二は「防雪林」を書いた。それは多喜二の文学―-その思想と生活の転回点を示すものであり、その新しい出発を記念する作品である。
 多喜二が葉山嘉樹の第一作品集「淫売婦」を読んだのは一九二六(大正一五)年五月のことであった。その時の感動を「『淫売婦』一巻はどんな意味に於ても、自分にはグァンー と来た。言葉通りグァンと来た。」と日記に書いている。多喜二が「防雪林」を書き、プロレタリア文学の道を歩きはじめるのに、この葉山との出あいは決定的な意味をもっている。「ブルジョアに対するプロレタリアの階級意識。生産階級の消費、有閑階級に対する反抗意識、搾取されている意識」こういうものが人道的に裏打ちされて、強烈に表現されていることに多喜二は圧倒された。それは「意識」としてはあった。けれどもそれ程「情熱的に」「具体的に」は出ない気持ちであった。
  一九二九(昭和四)年一月、多喜二は葉山にあてた手紙に「今、不幸にして、お互に、政治上の立場を異にしていますが、--貴方がマキシム・ゴーールキーによって洗礼を受けたと同じように、私は貴方の優れた作品によって、『胸』から生き返ったと云っていいのです。」と書いた。自分を本当に育ててくれた作品は「戦旗」の人たちのどの作品でもなく、実に葉山の作品と平林たい子の二、三の作品だったというのである。とこには文学、芸術を政治的立場やイデオロギ”ーの問題に還元することに反対して、文学、芸術それ自体の力を重視する多喜二がいる。翌年一月の「新潮」には、葉山の小説に「初めて襟首をつかまれたのだと云っていい」と書き、「それはまったく『逞しい腕』だった。葉山は日本の文学が今迄決して持だなかった『逞しい文学』をひっさげて登場してきた。その最初の作家だった。それはあらゆる『僕等』を振りまわし、こづきまわした。--葉山の『海に生くる人々』一巻は僕にとって剣を擬した 『コーラン』だった。」と書いている。
  「海に生くる人々」ははげしくあれ狂う海とたゝかう海上労働者の逞しい姿を描き出している。自然の暴威とたゝかう労働者は、同時に苛酷な搾取とたたかう労働者であった。葉山は自然そのもののような労働者を描き、本能につき動かされ、愛を求め、人間らしい自由を求めて夢想する労働者を描いた。観念としての労働者でなく、自然の中に生きる、肉体をそなえた労働者、怒り、たゝかうとともに、嘆き、かなしみ、あるいはよろこび、おそれる労働者を描いた。多喜二は「十三の南京玉」に見られるように、葉山の文学が「頭から」でなく、「胸から」人を動かすとごろにその芸術の独自の価値を見た。ふみにじられ虐げられて生きる人間の美しい感情が、はげしく逞しい反抗意識に結びついて、異常なほどに人をつき動かすのである。
 多喜二のこの感動は、「チェルカッシュ」その他のゴーリキーを読むことで、さらに深められ、新しい世界にふみこんで行った。
「生活を嘆かない。金に頭を下けない。人生の弱い方面に頭をつっこまない。堂々と生きて行く。『人生がどうにもならないものなら、クヨ?くしたってなんのたしにもなるまい。」このゴーリキーに対する感動を、「こういう性格、こういう人生態度(圏点)、こういう筆致(圏点)…………これ等は悲惨な、無希望の、自己否定、自己苛責の、自然主義文学にとって大きな打撃であったろう。そして又同時に、浅薄な理想主義文学に対して、判然として道を示したことにもなる。」(一九二六年九月の日記)と述べた。
 多喜二は秋田から北海道へ夜逃げしてきた数知れぬ貧農たちの息子のひとりだった。多喜二の内部には「貧農の子」としての記憶、その自覚、そのあつい火がもえくすぶっていた。銀行員としての生活は、多喜二にその火がもえあがるのを許さなかった。しかしその火は内部から多喜二の身をやき、いつかは激しくもえあがって、多喜二の身と心をやきつくさずにはいなかったのである。葉山やゴーリキーの文学は多喜二の魂をはげしくゆすぶった。そして北海道の大地にもえあがった労働者農民のたたかいは、多喜二の思想と生活をつき勣かして、多喜二を新しいたたかいの場所におし出した。多喜二は自分の内部にもえる熱い火をはっきりと自覚し、それに表現をあたえることで、自分自身を新しい場所につき出して行こうとした。「防雪林」はこの多喜二の転回点、新しい出発点を示す記念すべき作品であった。

  3 多喜二における「自然」の問題

 「『世界意識』という神聖な病気」について、多喜二は一九二六年五月の「新樹」第九集に書いた。カフェーでビフテキを食べようとする。その瞬間、寒空に飢えている人を思ってしまい、食べることができない。笑おうとすると、笑えない多くの人の存在が彼の顔をひきゆがめてしまう。日向を歩いてゆくとき、日の光を一日も見ずに土の底にうごめいている多くのものを考える。この「『世界意識』という神聖な病気」は近代の知識人に共通する問題であり、近代文学の基本的な主題として、近代文学を発展させる原動力となった。それは近代社会の矛盾が人間疎外、自己疎外の問題として、知識人の意識に集中的にあらわれたのである。
 日本の近代文学においては、知識人の内部矛盾の問題はまず理想と現実の矛盾としてあらわれた。北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋等はこの矛盾を追及して自然主義文学を生んだのである。やがてそれは社会と個人、社会と自然の問題を知識人内部の意識の矛盾、その分裂と二重性の問題として展開され、理性と感性、「頭脳」と「心臓」の矛盾相克が追及された。「自然の児」として生きるか、「社会の児」として生きるか、この矛盾を主題とした夏目漱石の「それから」は、日本の近代文学に新しい問題を提起したのであった。単に社会と自己の間の対立矛盾ではなくて’、自己内部の矛盾が主題とされたのである。「社会の児」たらんとする自己と、「自然の児」たらんとする自己が、一人の人間の内部に同時に存在する。心臓が求めるものを頭脳が拒否し、頭脳が求めるものを心臓が拒否する。漱石の「彼岸過迄」は「心臓(ハート)」と「頭脳(へッド)」が矛盾相克し、行動不可能になって立ちすくむ知識人の姿を描いた。
 この近代知識人の矛盾、意識の分裂は、近代社会の矛盾が激化して、その悲惨な様相をあらわにし、プロレタリアートの自己主張、その解放の運動が時代をうごかしはじめたとき、いっそう深刻になった。漱石は「明暗」において小市民的知識人の生活を、社会の下層に生きる人々を描き出すことによって、新しい光で照らし出した。しかし一九一六(大正五)年、漱石の死によって中断されたこの作品では、この社会矛盾を自らの矛盾として追及する知識人は登場しない。多喜二の「『世界意識』という神聖な病気」は、社会矛盾の激化によってあらわにされた小市民的知識人の矛盾である。「それから」における「社会」は、人間の’「自然」を抑圧するものとしてあらわれた。それ放武者小結実篤は、漱石が「社会」と「自然」の矛盾にひきさかれて、立ちすくんでいるのを批判して、どこまでも自己の「自然」を強調し、この「自然」に即して「社会」をつくりかえることを主張したのである。
 武者小路にとっては自己の内部矛盾や意識の分裂は問題にならなかった。あらゆる矛盾にうちかって発展する「自己の単一性と絶対性」が信しられている。そこに懐疑的でない、健康で逞しい武者小路の自己主張と行動性、素朴でむき出しな力強い文学が生まれた。しかし多喜二にはそのように、「自己」を信じ、「自己」を主張することができなかった。多喜二の「自己」は現実の暗黒に照らし出され、底辺に生きる人々の悲惨な現実を自らの苦悩としてになわなければならなかった。自己の幸福を求める心は、この現実の暗黒をおもう心と矛盾する。しかもこの現実の解放なくして多喜二の「自己」の幸福はないのである。多喜二の「自己」は現代社会の矛盾にひきさかれ、「『世界意識』という神聖な病気」にむしばまれて、ひたすらその苦悩を深めていかなければならなかった。
 多喜二は自分が貧農の子であり、「赤貧洗う、と云ってもまだるっこい生活」をしながらも、親類のおかげて高商を出て、銀行員としての小市民的な生活をしているところに、「あらゆる事件に打ち当っての矛盾、不徹底」の由来があると考えた。このことを多喜二は一九二六(大正一五)年九月の日記に書いているが、この自覚は葉山やゴーリキーにふれることによって、切実なものになったのであった。「その出発を出発した女」は日本の鏝底辺の暗黒に生きる少女の不幸を追求し、彼女を愛し、救おうとする安本の努力を、「自己をおもう心」と「世界をおもう心」の統一を求めるものとして描き出した。しかし安本の努力は空しかった。安本の努力が失敗に終ることを描くことによって、多喜二は個人の努力や善意によってはどうすることもできない苛酷な現実を描き出し、そこからお文と安本を新しく出発させようとしたのである。しかし一九二七(昭和二)年五月ごろからとりかかったこの作品は、十一月に中篇までで中絶し、「防雪林」が書きはしめられた。この時期の時代の激動が多喜二の思想と生活をゆり動かし、知識人としての「自己」をやきつくす火を激しくもえあがらせたのである。
  「その出発を出発した女」の行きづまりについて、多喜二は「あまりに個人的に心理を開展して行くことが自分を不安にしたから」と書いている。そして同じ日の日記に「防雪林」について「原始人的な、末梢神経のない、人間を描きたいのだ。チェルカアソュ、カインの末裔、如き。そして、更に又、農夫の生活を描く。」 と書いている。これは多喜二の内部にもえる火がいかなるものであるかを端的に示す言葉である。「我等何を為すべきかではなくて、いかになすべきかの時代だ」というもえたつ思いが、「その出発を出発した女」を中断して、「防雪林」を書かせた。現実を変革するのは知識人限りない自己矛盾と自己苛責の苦悩ではなくて、虐げられた民衆の生きようとする本能であり、自然そのものである逞しいエネルギーである。
  「防雪林」の源吉は、知識人としての多喜二をつき倒し、うちのめす「原始人的な、末梢神経のない人間」として描かれた。「その出発を出発した女」の安本や、多喜二自身の苦悩とは無関係な、逞しく行動的な人間である。源吉は無口な人間である。そして他の人間がワイワイいうばかりで結局何もしないでいるとき、「ノソ@くと出かけて行って、独りで、とてつもない大きなことを仕出かした」のである。彼の行動は「頭から」のものではなく、彼の本能=自然が彼にそれを強いるのであった。彼の怒りと反抗は、しいたげられ、収奪されつくす農民の生活から来るものであり、生きようとする本能=自然の欲求の爆発であった。
 移住農民である源吉の父が、ようやく一人前の農地にした開拓地を地主に奪い取られようとしたとき、まだ幼かった源吉は、その地主の脛にかじりついてどうしても離れなかった。自然は万人に平等であるのに、法律は農民から土地を奪い、冷酷に農民をしめころす。自然の子である源吉は、このような法と権力を認めることができなかった。この小説が鮭の密漁からはじまっているのは、階級支記の道具であり、民衆から自然の富を奪って、飢えと貧困を強制する近代社会の根幹をなす、人為的な法の権威に対する「自然」の反抗が、この作品のテーマであることを示している。
 「防雪林」の自然描写は逞しく雄大である。多喜二はゴーリキーの自然描写が「情熱的自然描写」ともいうべきもので、作者の主観が濃く出て、そこに作者の人生態度、世界観がはっきり出ていることに心を動かされた。とくに「チェルカカッシュ」の冒頭は「それだけで】世界文学にその価値を堂々と主張し得る名文だと絶讃した。「防雪林」の自然描写はこの「チェルカッシュ」を念頭におき、それに対抗しようとする抱負をもつものであった。多喜二は広大な北海道の原野を描き、氾濫のあともなまなましい石狩川を描いた。増水した石狩川に漕ぎ出し、激流に抗して奮闘する場面、密漁の鮭の頭を殴りつけ殴りつけする場面は、自然の巨大なエネルギーと自然そのままの逞しい人間が相うち、奔流となってもりあがるダイナミックな描写である。多喜二は巨大で無気味な自然を描き、この荒々しい自然の中に生きる人間を、大胆なタッチで描き出した。自然と人間のだたかいを通して、自然と人間はひとつになり、大自然の息吹きはそのまま源吉の息吹きとなって、作品全体にはげしく息づいている。
 多喜二が描いた農民は、社会科学によって処理され、肉体のなまなましさや、不透明性を濾過された、観念としての農民ではない。多喜二の描いた農民は肉体をもった、自然としての人間である。自然の中に、肉体をもった人間として生き、働き、性欲につき動かされ、苦悩し、怒り、かなしむ。多喜二はその不透明な混沌たるエネルギーと情熱を描いた。社会科学が捨象する具体性において農民をとらえ、その生存の全体的様相を描き出した。そうすることで「防雪林」は芸術としての独自性を確立した。多喜二における「自然」の問題は、たんに自然描写の問題に倭小化されるべきではない。社会と人間をとらえる基本的な思想の問題であり、芸術を芸術として成り立たせる芸術のあり方の問題である。多喜二は人間を「自然」としてとらえ、近代社会における自然としての人間の疎外の問題を、たたかう農民を描くことによって追及した。こうして多喜二は近代文学の問題を正当にうけつぎ、それを発展させるものとして、プロレタリア文学の立場を確立した。それ故に多喜二は近代文学の遺産を全面的にわがものとする立場に立つことができたのである。
「防写植」を転回点として、プロレタリア作家としての道を歩きはじめた多喜二は、その後を一貫して人間の自然=肉体を描き、その土台の上に、社会を描き、解放闘争を描いた。「一九二八年三月十五日」「蟹工船」「党生活者」などが芸術としての高い達成を示しているのはこのためである。多喜二は人間をイデオロギーに還元して観念化する傾向とたたかい続け、大地にしっかりと根をおろしたリアリズムの確立を目ざして努力し続けたのである。

  4 近代文学の新しい地平

 「防雪林」を書いた多喜二の念頭には、有島武部の「カインの末裔」があった。この一九一七(大正六)年の作品によって、有島は作家として世に認められたのである。この作品は北海道の広大な自然の中に、自然そのままのような仁右衛門という農夫を描き出している。有島はこの作品について、仁右衛門は「自然から今掘り出されたばかりのような男」で、「人間と融和して行く術に疎く、自然を征服して行く業に暗い」と述べている。それにもかかわらず「生きねばならぬ激しい衝動」に駆りたてられて、「人からは度外視され、自然からは継子扱いされ」て苦しい生活を生きるのである。
 「長い影を地にひいて、やせ馬の手綱を取りながら、彼は黙りこくって歩いた。」冒頭の文章である。冬が追ってはげしい風の吹く夕暮れ、立ち木一本生えていない大草原の心細いほどまっすぐな一本道を、赤ん坊を背負った妻をともなって、仁右衛門はよろよろと動いて行く。そしてこの作品は一年あまりの後、農場を追われた夫婦が、一頭の馬、一人の赤ん坊も「自然から奪い去られて」、吹きつける雪の中を何処へともなく歩き去ってゆくところで終っている。広大な自然の中で、彼等はいかにもちっぼけで惨めな存在である。有島は自然と人間を対立させ、人間を小さく惨めなものとして描いた。そして自然のままの人間である仁右衛門は、集団をなして社会的生活を営む村人だちとも対立して、孤立して生活する。仁右衛門は村人を軽蔑し、ひたすら本能の衝動に従って、エゴイスチックに生きる。仁右衛門が村の掟や約束に従わないのは、権力や地主の支配とのだたかいを意味するのではなくて、村人との共同や協力を拒否して、ただ自分勝手に生きるためである。自然と人間を対立させる有島は、個人と社会、人間の自然=本能と社会を対立させる。
「カインの末裔」は「自己を描出したにほかならない」と有島はいう。有島の地主制度、資本制変に対する批判はこの作品にもはっきりあらわれている。しかし有島はいかにして農民をこの苛酷な現実から解放するかを追及しているのではない。現実の農民の苦悩ではなくて、社会生活に虚偽を感じ、反社会的な破滅の道を志向しようとする、自分の内部にひそむ衝動を、仁右衛門という仮構の人物を通して表現したのである。社会の矛盾に敏感で、悲惨な生活にあえぐ人々をおもわずにいられない有島は、同時に自分の内部のエゴイズムを自覚して苦しむのである。そしてこのエゴイズムを絶対化して、このエゴイズムが人間の自然=本能であると考える。これは自然主義以来の思想であるが、有島にとって自己に志実に、自己の自然=本能に従って生きるとは、このエゴイズムに従って、排他的に、反社会的に、孤立して生きることであった。この時代の知識人の苦悩、「『世界意識』という神聖な病気」から、有島はこうして自己を救出しようとした。有島は一方で社会主義の到来を、当然な不可避なことだとしながら、ブルジョアの子である自分がその実現のために努力するのは、自己を偽るものであり、民衆の自己解放のためにも有害であると主張した。民衆は民衆自身によって、その自然=本能、エゴイズムによって解放されなければならぬ。ブルジョアの子である自分は破滅の道を歩くしかないというのである。
 しかし人間の自然はそのようなエゴィズムとしてのみとらえられるべきであろうか。むしろ現代の社会制度、経済制度が、人間の自然を疎外してエゴィズムを生んだのではないか。自然は事物と事物を結びつけ、事物と人間、人間と人間を結びつけて、それぞれの個体を巨大な全体に統合する。たしかにそれはあらゆる矛盾、あらゆる闘争を内包する。しかしその矛盾、対立、闘争をつらぬいて、巨大な自然の統合の力、生成発展の力が働いている。武者小路実篤はこれを自然の意志、宇宙の意志、人類の意志と名づけ、自分の内部にそれが生きていることを信じた。武者小路は楽天的であった。自己を肯定し、自己を信じ、自由奔放に自己を主張した。武者小路も現実の暗黒、その矛盾、対立、闘争を見なかったのではない。しかしそれらを貫いて実現される巨大な調和を信じて、ひたすら自己を肯定したのである。有島もまたあらゆる矛盾を内に合みっつ発展する自然の生命を信じなかったわけではない。しかし現実の暗黒により強くひきつけられ、その矛盾、分裂を自分自身の問題として追及したのである。武者小路は自分の信念、信仰を語ることで現実をと
びこえ、有島は階級対立の激化する社会の中で、ひたすら激化する知識人の自己矛盾を追及し、ついに自分自身をひきさいて破滅の道をあるいた。
 「防雪林」の自然は人間を疎外し破滅させる自然ではない。現代の社会、国家権力、資本家、地主の支配は農民だちから自然を奪い、生活を奪い、人間を奪っている。源吉をつき動かす自然0本能の衝動は、それらの奪い取られたものを農民自身のものとして奪い返そうとするものであり、村人たちの歴史と生活にしっかり結びついている。仁右衛門が過去もなく未来もなく、何処からともなくあらわれて何処へともなく去って行く孤立者、漂泊者であるのに対して、源吉は処女地をきり開き、荒れた大地を耕して農地にした父たちの労苦と結びつき、同じ運命をになう村人たちのよろこびとかなしみ、その労苦の生活ともっとも深い所で結びついている。
 源吉は北海道の大地にしっかり根をおろした農民として、大地と大地の富を奪うもの、恋人を奪い去りふみにじるものに対して、はげしい怒りを叩きつけた。その怒りはすべての農民の心の底にうっ積している怒りであった。源吉をつき動かす自然=本能は決して排他的なエゴイズムではなく、源告を村人だちから孤立させるものではなかった。この作品の冒頭の鮭の密漁の場面でも、源告は密漁した鮭を決してひとりじめにしようとせず、村人たちに配っている。それが源吉の自然な感情であった。自然をひとりじめにして農民たちから奪いとるものに対する、自然=本能の怒りが源告をつき動かしたのであったから。
 たしかに自分だけの利益を追求する排他的なエゴイズムが現代の人間をかりたてていることは否定できない。しかしそれを自然=本能として固定化し絶対化することはできない。むしろそれは、現代の社会経済制度が人間の自然=本能を疎外することによってつくり出した社会的なものだということができる。このような社会に対するたたかいは、新しい人間と人間の結びつき、新し.い人間の回復を目ざすものである。多喜二が「防雪林」で描いたのは、このようなたたかいの原動力となる自然=本能であり、貧困と抑圧に苦しむ貧農ひとりひとりの、おしひしがれた生活と心の奥深くにもえくすぶっている熱い火である。
 多喜二は内地を追われて移住してきた農民の故郷への熱い思慕を描き、土地に対する異常なほどの執着と懸命な労働を描いた。しかし彼等は故郷を追われ、土地を奪われ、辛うじて生きているという惨めな生活を強いられる。老人たちは宗教に救いを求め、若者たちは都会にあこがれて村を出て行く。都会に出た女たちは淫売婦に転落してゆく。源吉の恋人は都会に出て大学生にだまされ、妊娠して帰郷し、悲惨な自殺をとげる。多喜二はこの現実を深い愛情と、はげしい怒りをこめて描いた。この悲惨な生活のどん底から、彼等はもうどうにもならなくなって立ちあがるが、戦いは敗北に終り、残酷な拷問が彼等をうちのめすのである。
 「防雪林」はしかし日本の農民の一般的な現実をありのままに描き出しただけのものではなかった。貧困と社会の重圧におしひしがれ、因習と法に縛られて運命に翻弄される農民のみじめさを描くだけでなく、そのみじめな生活の深奥にもえている熱い火を、源吉という人物を創造することで描き出した。それはまた、銀行員という小市民的生活の中で中途半端なぐずぐずした生活しか出来ぬ多喜二自身の内部にもえる熱い火、自然=本能の衝動の表現でもあった。「防雪林」もまた多喜二自身の「自己を描出したにほかならない」作品だということができる。
 しかし「防雪林」は、「『世界意識』という神聖な病気」にむしばまれ、生活と意識、自己意識と世界意識の矛盾に苦しむ有島が、自分の内部のエゴイズムを自然=本能の衝動としてとりだし、他を捨象して描き出した「カインの末裔」とは本質的に異なっている。仁右衛門は農民の現実、その矛盾や苦悩とは無関係に、ただ有島の「自然=本能」の観念に具体的な形をあたえたにすぎなかった。それは有島がブルジョアの子であり知識人であることによって制約され、疎外された自然=本能であるにすぎず、北海道の原野をきりひらき、きびしい自然とにたかって生きてゆく農民とは、まったく異質のものであることをまぬがれなかった。
 有島は社会矛盾が激化した時代の知識人として、時代の苦悩を一身ににない、新しい可能性を求めて苦しんだ。有島は「自然=本能」を強調することによって、知識人の限りない意識の分裂を解決しようとした。有島は自然を軸として人間と社会の矛盾を追及し、近代文学の新しい段階をきりひらいた作家だということができる。しかし有馬は自然=本能を根源的にとらえることができず、疎外された自然=本能を自己意識や世界意識と対立させ、知識、文化、社会と対立させたため、人間と社会の土台の上にダイナミックに全体的に描き出すことができなかった。本能と知識、自然と文化、生活と意識、自己と世界、自然と人間、自然ど社会等々が限りなく並列的に対立させられ、知識人の自己意識や世界意識、その知識性、社会性をきりすてるかたちで、その「自然=本能」を強調したのである。このような有島の思想と文学が非現実的であり観念的であって、知識人の矛盾を解決するものでないことはあきらかである。それは現実と自己を変革し、発展させるものでなく、現実の矛盾を固定化し、絶対化するものであった。
 多喜二は同時代の知識人として、有島の苦悩を自分自身の苦悩として追及するところに、その思想と文学を発展させた。しかし自己をひき裂く生活と意識の矛盾が、銀行員という小市民的生活から来るものであることを自覚し、現在の生活によって自然=本能が疎外され、ねじまげられていることを自覚したとき、自分の内部にくすぶり続け、限りない自己矛盾にかりたてるものこそ、自然=本能の衝動だということをはっきり感じとった。自己内部の矛盾と分裂は、社会性や意識性をきりすてることによって解決することはできない。この矛盾を生み出す根源をあきらかにすることによって、はじめてそれは解決される。多喜二はそれが自然=本能と、それを疎外する社会=小市民的生活の矛盾であることを明かにした。自然=本能の衝動はそれを疎外する社会、小市民的生活、そこに生まれる小市民的な生活意識とたたかい続け、変革しなければやまない。多喜二は自然=本能の衝動を、このような変革のエネルギーとしてとらえ、そのもっとも直接的なあらわれを農民に求めて、源吉をつくり出した。この自然=本能は社会や知識や文化等々に対立させられるのではなく、新しい社会や知識や文化等々を生み出す根源的なエネルギーである。この多喜二の「自然=本能」の把握は、近代文学に新しい地平をきりひらくものであり、プロレタリア文学を近代文学史において、たんに政治的立場やイデオロギーによってではなく、文学自体の質的な発展として位置づけるものであった。

小林多喜二関連論文http://homepage2.nifty.com/tizu/proletarier/top@.htm

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