2008年1月27日 (日)

小林多喜二『東倶知安行』

 『東倶知安行』は、一九二八年(昭和三)二月の第一回普選の選挙闘争の体験を描いている。経験の順序とすれば『一九二八年三月十五日』に先だつわけだが、作品としては『一九二八年三月十五日』のあとを受け、それをのりこえて新しい境地をきりひらこうとしたものである。
 『一九二八年三月十五日』を書きあげたときの感動を多喜二はのちに『「一九二八年三月十五日」』(『若草』一九三〇年九月号)その他に書いているが、ひとりでじっとしていることができず、なにも知らぬ友人にコーヒーとビフテキをおごったという。それはただたんに力をこめた作品を完成したという感動であるにとどまらザ、この作品を書きあげることによって、自分が新しい場所に進み出たという感動でもあったとおもう。すなわち多喜二はこの作品によって、敵権力の前にはっきりとその姿をさらし、もはやひき返すことのできぬ場所にわが身をおいた。

 『東倶知安行』には、はじめて実際運動に参加した青年の感動があふれるような清新さで描かれているが、それは『一九二八年三月十五日』によって、全体的な革命運動の一翼として新しい一歩をふみ出した作者の感動と重なりあい、それに支えられて、生きいきした文学的リアリティーを生みだしている。そこには『一九二八年三月十五日』を書きあげ、それを発表することによって作者自身のものとなった新しい自己発見の感動、歴史と民衆の広範なたたかいとしっかり結びつけられたという自覚とそれにもとづく新しい決意がある。

 二月の選挙のあとで多喜二は『瀧子其他』を改作して『創作月刊』四月号に発表し、また三・一五直後の四月には『防雪林』を書きあげている。いずれも前年からとりかかっていた作品であるが、その末尾が放火、もしくは放火を暗示する形で終わっていることは偶然とは考えられない。『瀧子其他』の場合、前年九月のノート原稿『酌婦』では、窓の下をメーデー行進が通るところで終わっているのだから、この改作部分がとりわけて当時の作者の暗い心境を示していることになる。それは『東倶知安行』の末尾で、開票の当日、「私」が「老人」と場末のバーで飲んでベロべロになってしまうのと無関係ではない。
 生まれてはじめて参加した選挙闘争の体験が、多喜二の生涯に決定的な意味をもつものであったことはたしかである。前掲文に多喜二はこの選挙のときいっしょになった「色々のタイプの人たち」について書き、「それ等がすベて全く新しい『驚異』をもって迫ってきた。われわれはそう何時でも、個々の経験に対して『驚異』という言葉を使える打ち当り方をするものではない」(傍点原文)、とのべている。しかしあらゆる努力にもかかわらず選挙は敗北に終わり、現実はますます暗黒にむかって進んでいった。そして多喜二には銀行員としての同じことのくり返しの生活が続いた。選挙の体験が切実であればあるほど、多喜二は焦躁感に苦しみ、ぬけだすことのできぬ中途半端な生活が耐えがたかった。三・一五はこのような多喜二をうちのめした。

「『残されたもの』の悲哀に溺れながら、『午前四時』を、循環小数のように繰りかえしている。ボヘミアンのライフだ。酔眼をしょぼしェぼさせながら、午前三時頃、カフェー・キリンのテーブルで=・=」(傍点原文)と多喜二は三月三〇日の斎藤次郎宛書簡に書いている。ここには挫折感にうちひしがれ、行くべき方向を見失って彷捏する小市民的インテリゲンチアの姿がある。弾圧で仲間たちを失って絶望的になった多喜二は、『防雪林』の末尾を組織的なたたかいに敗北した源青の放火で終わらせざるをえなかった。そのことによって、作者自身のおさえることのできぬ反抗と憎悪を、絶望的なままに投げつけたのである。

 たしかに多喜二における社会主義への志向は、一時的な挫折や敗北によってかき消されてしまうようなものではなかった。選挙前の二月二日づけ新井紀一宛書簡には、自分は「必然的に」実際運動に参加していくのだと書き、「それは自分の生活、境遇、意識、文芸と離し切れない交互作用から来てい」ると告げている。多喜二は社会主義者として生きるしかなかった。しかもそうであればあるほど、自分自身のエゴイズムに苦しみ、挫折感におそわれ、懐疑と焦躁と絶望におちこんでいった。そのようなかれをつき動かし、新しい決意をもってたちあがらせたのは、獄中の同志たちの不屈のたたかいであり、ナップの成立であった。

 蔵原惟人らのはげましのもとに、『一九二八年三月十五日』を書きあげた多喜二は、自分自身をはっきりと国家権力と対決する場所におき、そのことによって同じたたかいをたたかう数しれぬ人びととしっかりひとつに結びついたのである。この事命的連帯の真新しい感動のなかで、多喜二は、自分が長い孤独な彷復のはてに、ようやく自分のあるべき場所に到達したこと、自分がまさに真の自分として、歴史のまっただなかに、世界のまっただなかに立っていることを感じた。『東倶知安行』をつらぬくものは、この新しい自己発見の感動である。

 『東倶知安行』を書きあげてまもなく友人斎藤次郎にあてて、「君が、自分の画のどれに対しても自信のもてないという事は、キット、内面的に見て、自分の本質が分らないからではないかと思う。又、君の描く画が、一作毎に変るのだとしたら、矢張り、本質への盲目から、そのことが来ているのではないかと思う」(一九二八年一〇月六日付)と書いている。多喜二はこのことばを、『一九二八年三月十五日』『東倶知安行』を書くことによって、はっきりと自分自身に到達しえたという自信のうえに立って書いたのである。

 もとより多喜二における自分自身の発見は、同時にいたるところのすみずみで、労苦に耐え迫害に抗してたたかい続ける名も知らぬ無数の人々との連帯の発見であり、またこの民衆のたたかいを支える長い苦難にみちた相剋の歴史の発見であった。この発見の感動に貰かれることによって、多喜二は『一九二八年三月十五日』から『東倶知安行』 へとその主題を発展させた。

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『一九二八年三月十五日』ではもっばら警察内部のたたかいが描かれた。大衆からも仲間からもきり離されて、 ひたすら精神力だけを頼りに、極限的な苦痛に耐える孤独なたたかいである。しかしそれとの対決なしにはいかなる革命的思想も空語に終わるしかなかった。天皇制下の日本にあっては、それは避けることのできないもっとも本質的なたたかいであった。多喜二は拷問の場面を力をこめて描き、国家権力の本質をあばきだすと同時に、そのことによって自分自身の小市民性と必死にたたかった。それは獄中の仲間たちのたたかいと同様、外部の現実からきり離され、ひたすら自分自身の極限を見つめるたたかいであった。それがこの作品を重苦しく息づまるものにしている。

  『東倶知安行』はこれとはまったく対照的に、選挙闘争というもっとも大衆的な場面で、広範な大衆との結びつき、運動を支える基盤の広さと探さを追求している。吹雪の平原を馬橇で突っ走る場面に象徴されるロマンティックな革命的情熱の高揚は、重苦しい拷問の場面とは対照的である。ここにはひろびろとした広がりがあり、ダイナミックな動きがある。ひとりの青年が中途半端な会社員の生活のわくを破って、躍動する運動の前面に出ていき、直接大衆に語りかけ、働きかける。そしてかれは同志を見いだし、自分自身を見いだす。

 しかしだからといって作者は現実の暗い部分を見落としているのではない。『一九二八年三月十五日』と同様に、自分自身の小市民的意識と対決し、また運動そのものが内包する矛盾にも鋭い目を向けている。「私」は選挙のために組合に出入りしていることがわかれば、それだけで「首」になる銀行員だった。そしてその首には六人の親子がぶらさがっていた。しかし「私」は勤めのために表だった活動ができぬことを「運動への大きな『卑怯』」と考え、自分のエゴイズムを乾しく責めないではいられなかった。多喜二はインテリゲンチアの意識と生活の矛盾を追求し、それからの脱出の喜びを描いている。すなわちこのような「私」だったから、遊説隊に欠員ができてそれに参加することができたとき、その喜びは大きく、「出征軍人のように」興奮したのである。

 倶知安行きがきまった夜、「私達」がいつも通る薄暗い小路を通る場面を多喜二は書いている。そこには淫売屋が二、三十軒も軒をならべ、「雪の遠慮もなく吹込む土間に、女がショールを首にまきつけて、袖に手をひっこめたまま、表を見て立っていた」。それは初期の多喜二がもっばら追求してきた世界である。出発の前夜の場面にこの情景をあえて挿入したのは、作家としての多喜二が過去への別れを告げているのだと思う。多喜二はこの救いのない暗黒の世界を追求して苦しみ続けてきた。むしろその苦しみによって社会主義へと進み出たのである。そこを巣立って、はげしいたたかいの場へ、光り輝く躍動の世界へ出発サる多喜二は、しかしそのたたかいが、この暗黒の世界に光明をもたらすものであることを、この短い場面で暗示している。ただありのままに経験を語っているように見えるこの作品は、対照の鮮かな、構成に苦心した作品なのである。

 出発の朝の場面で、多喜二は沈下ケーソソの工事に行く人夫、駅のベンチに寝ている土工部屋から追い出されたと一見してわかる垢だらけの男を描いている。そして「物憂くあくび」をする駅員や、列車の中の朝鮮人労働者たち、これらの人びとが今朝は特別な意味をもって迫ってきたのである。「私」は自分をとりまく世界としっかり結びつき、どんな他人も自分と無関係なよそよそしい存在ではなかった。銀行の壁のなかで「蛆虫」のように受動的に、無意味に生きた青年が、その長い苦しい彷復のはてに、ついにその壁を破って明るい光のなかに出てきた。この作品のいたるところからあふれ出ているのは、人間的連帯の感動であり、さなぎのからを破ってとび出した人間の、ういういしいよみがえりのよろこびである。

 かれは自分が世界に働きかける人間として、はじめて世界のまっただなかに立っているのを感ずる。かれは世界に手蒜ばサ。すると世界もかれに手を伸ばす。そしてかれは自分がはじめて本当の自分として生きているのを感ずる。かれは列車の窓から山のなかにはられたビラを見つけ、「目につく、目につく-・」と「子供のように」喜ぶ。一枚のビラにもそれをはった人たちを感じ、その人たちとの結びつき、またそれを見る人たちとの結びつきを感じるのである。

 私は広間諒に集った群衆を見た。私ほ興奮してきた。1私ほ叫ぶ。と、あの無数の群衆がそれと一慧つり上ってく
 るのだ。それは本当だろうか。私はこう云う。と、彼等はそうしようと手をさしのべてくる。彼は「求めている。」私はそ
 れが「何」であるか、そして、それは「どうすれは」獲得出来るかを云う。そこで、彼等は「そうだ」「そうだった」と云つて立ち上る(傍点)のだ!だが、それほ本当に出来るだろうか!(傍点原文)
               
 はじめて演壇にあがる直前の興奮が、この文章の強い短いリズムを通して、直接に私たちに伝ってくる。私たちは「私」=作者の荒い呼吸の音をさえ聞くことができる。
 こうした高揚がもっとも詩的な形象となってあふれ出ているのは、吹雪の平原を馬橋で突っ走る場面である。それはいかにも北海道らしい雄大な、そして荒々しくたくましい描写である。かれらは吹雪に声を奪われながら、無理に声をしばって思い思いに遠慮のない大声で、叫び、かつ歌った。荒れ狂う広大な大自然のまっただなかで、思いっきり解放された若い情熱は、吹雪がほげしければはげしいほど、いっそうはげしくもえあがったのである。しかし多喜二はこうした興奮を手ばなしで讃美しているのではない。吹雪のなかで道遠い、樺をひきかえす惨めな気持を多喜二は書いている。それは壷の象徴的な意味をもつ場面である。光明と同時に暗黒を描かずにいられないのが多喜二のリアリズムである。

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 やらせておけば明日の朝までも演説し続けるという、目も見えず耳も聞こえぬ七十歳の老人のことを多喜二は書いている。こんな老人までもがこの運動を支えている。それはまさにひとつの「驚異」だった。かれは酔うとかならず幸徳秋水の昔話をした。十八歳の時から、こういう運動をやってきているのである。多喜二は大きな感動をもって、北のはてに雪に埋もれながら、七十歳になる今日までも、十人歳の日の情熱を失うことなくたたかい続けた老人の姿を描き出している。

 この老人を飾る栄光はなにひとつない。金もなく地位もなく、目や写さえも奪われていた。そして余命もなにほどもなく、ついに革命の成就をその眼に見ることなく、空しく死んでいかねばならぬ。息子は老人に背いて家を出ていた。働きに出た娘は工場長におかされ、ストライキに破れてくびになり、いまは身を売って老人を養っていた。多喜二はこの悲惨な老人を通して、日本の解放運動の底辺にあるもっとも深い、もっとも真実なものにふれ、
はげしくゆすぶられている。
 「私のような小倒ロな人間は(私はかくさず云おう、実際この老人の前で何んの嘘が云えよう。)この何時目鼻がつくか分らない『何代がかり』の運動を、恐らくそう効目も見えず、又恐らく誰もそう高く『認め』てもくれないこんな所でしかも、こんなに大きな犠牲を払ってやって行ける本当の気持をもっているだろうか。」(傍点原文)
                                                                                                                     ヽ                  多喜二は自分をこの老人の前におくとき、自分の覚悟がいかにうわついたものであるかを思いしらなければならなかった。自分は勝利を夢季て、レーニンのような「無産階級の『大立物』」になりたいと思っているのだ。もし一生かかって自分がそのまま埋もれ、前途の見通しもつかぬとしたらとっくに裏切ってしまっているのだ。多喜二は自分の内部にある革命にたいするロマンティックな幻想をあはきだし、中央に出て認められることを望む小市民的意識を鋭く追及している。

 「私」はこの老人が「我等の島正」とよばれる「全国的な人気闘士」の代議士候補者とならんでいるのを「不思議に深い気持」で眺め、「理由が分らず憂鬱」になる。多喜二は解放運動の底辺を支える暗い現実を見つめ、表面にあらわれることのない無数の犠牲と労苦を、複雑な感動で感じとった。そして多喜二はそこに自分の進む道を見いだした。解放運動をその表面のはなやかさにおいて描くのでなく、それを支える暗い現実を追求サるリアリズムの道をえらんだのである。

 政治的スローガンや革命的情熱の高揚に酔い、現実のリアリスティックな追求を怠る主観主義的傾向に対立して、多喜二はその文学的出発以来徹底してリアリズムの道を追求してきた。その努力が解放運動の現実と結びついて『一九二八年三月十五日』を生んだのだが、『東倶知安行』はその成果のうえにたって、さらに深く運動の内部にはいり、運動が内包する矛盾、その暗い部分にまで迫っていったのである。多喜二はこの矛盾から目をそむけることなく、矛盾を内部に卒みつつおし進められる運動の姿を追求するところに、その新しい道をきりひらいていこうとした。

 敗北に終わった開票の日、家にじっとしていられずに小樽に出て来た老人と、場末のバーで酒を飲む、暗いなんともいえぬやりきれぬ場面でこの作品は終わっている。べろべろに酔った老人は、歩きながら「辛徳秋水」のことをなん度もくり返すが、「私」は老人が小樽に出て来た金は娘が身を売って得たものだと気がついて愕然とする。多喜二はこの悲惨な事実を悲惨な事実として描き出している。しかし多喜二はそれをひたすら解放運動の犠牲として、運動の非人問性を糾弾しょうとしているのではない。たしかにこの老人と娘の生涯は犠牲の生涯である。解放運動はかれらの苦しみをふやしこそすれ、へらしはしなかった。それは耐えがたい矛盾である。しかしこの矛盾のゆえに解放運動を否定するならば、結局において現状維持を肯定するブルジョア的ヒューマニズにおちいることをまぬがれない。それはこの現実をそのままにしておいて人間的でありうるという前提にたっているのである。多喜二はこの矛盾を矛盾として見つめ、犠牲の痛みに胸をえぐられながら、それでもなおたたかわれるたたかいに、複雑な気持で感動している。

 多喜二は「人間的」ということを、たんに観念的に、センチメンタルにとりあげるのでなく、その深刻な矛盾において追求している。組合の委員長鈴本は「嬶(かかあ)」をぶん殴ってきたという。その妻はなにもなくなったから飯を炊く炭や石炭を貯炭場から盗んでくるという生活に耐えているのである。四人の子どもは喰うや喰わずでやせ衰え、学齢になっても学校へやることができない。電灯は三カ月前からとめられている。家族を犠牲にして運動に奔走する鈴本は非人問的であると責められなければならないか。

 多喜二はこの鈴本や老人の生活と対比して、自分がしばりつけられている会社員生活を描き出している。立身出世して「人を使えるような」支店長になろうとする「意識」がかれらを支配している。そのためにはどんなことでもし、資本主義の発展椎持に全部の望みをかけているのである。同僚が首をきられようがどうしようが、いっさい知らぬ顔をしている「個人主義」、「勿事(ことなかれ)主義」がかれらのモットーである。多喜二は「彼等が『犬(傍点)』という名前で呼ばれていないことを不思議にさえ思う」と書いている。
 しかし「私」は偽りの届け出をして、ほんのひとときその生活から脱け出しているにすぎない。もしもそれから全的に脱出しようとすれば、鈴本や老人の苦しみにかれ自身が直面しなければならない。多喜二はかれらの苦しみ、解放運動に内在する矛盾を、自身の問題として真剣に直視している。そこには資本主義社会にあって人間的に生きようとする人間の矛盾が、もっとも先鋭な形であらわれているのである。

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 『東倶知安行』において多喜二が、はじめて実際運動に参加して直接大衆にふれ、新しく自分自身を発見した感動を描き、その人間的意味を明らかにしただけでなく、運動の底辺に生きる人間の苦しみをとらえ、それを解放運動の内包する矛盾として追求したことの意味は大きい。それは作者自身が生涯をかけてこの運動に参加しょうとし、それゆえその矛盾をみずからの矛盾として苦しんでいたからこそ可能なのであった。しかし多喜二はこの矛盾に苦しむ自身の生活をリアリスティックに追求するのではなく、それをとびこえることによって運動に参加しようとした。作者はその矛盾を鋭く描き出しながら、強引にそれをとびこえようとしている。この作品を貰くものはその飛躍の感動であるが、それは矛盾が矛盾として描かれることによって、いっそう強い感動として表現されている。しかし現実生活をとびこえた多喜二は、リアリストとしてもう一度現実に帰ってこなければならない。多喜二は「老人」の悲惨な現実を描くことでこの課題に答えようとした。そこに多喜二のリアリズムがあるわけだが、それを描いたこの作品の結末は、暗い中途半端なものになってしまっている。そこにこの作品の問題点が残っている。
 たしかに日常生活からの飛躍と断絶なしには解放運動に参加することはできないであろう。しかしそれは日常生活の矛盾の発展としてのみ可能なのであって、日常生活からの飛躍と断絶と同時に、その連続が追求されなければならない。この点で『東倶知安行』における多喜二のリアリズムは不徹底であった。会社員としての生活の矛盾を徹底して追求し、それを内部から克服する可能性を探るかわりに、その醜さがひたすら「清算」すべきものとして、固定的に強調されている。解放運動の現実は、現実に生きる「私」の会社員としての日常生活とはひたすら対照的に、それからの離脱と隔絶の場所でのみ描かれている。多喜二は自分自身の日常生活の暗黒をとびこえることで、日本の現実をとびこえてしまった。それゆえ、革命運動が内包する矛盾を鋭くとりあげながら、しかもその内部に深くたちいり、日本の現実の全体的な矛盾との関係において、十分リアリスティックに描き出すことができなかった。それは多喜二がこの選挙闘争のあとで、挫折感に苦しみ、絶望的にならざるをえなかった事情と無関係ではないのである。
 「私」は「島正」とならんだ「老人」の姿に「理由も分らず憂鬱に」なるが、多喜二はそこからさらに一歩進んで、この老人の内部につきいることができなかった。それゆえこの作品は解放運動の光と影を、その鋭い対照において照らし出すにとどまったのである。そこからこの作品のおちつきの悪い、中途半端な結末が出てきている。もしも多喜二がこの老人の内部にはいり、なにがかれをこのように生きさせるかを追求したならば、そこに日本の現実の矛盾が集中的に凝縮しているのを見たはずである。この老人の悲惨な姿に象徽的にあらわれた解放運動の矛盾と苦しみは、資本主義社会の矛盾と苦しみのもっとも尖鋭な、もっとも集中的なあらわれである。解放運動を支え、動かし、それを発展させるものは、日本の現実の矛盾と苦悩である。それゆえ解放運動の現実は、日本の現実を徹底的にあばきだし、そこに生きる人間の矛盾と苦悩をリアリスティックに追求することによってのみ、はじめて強固な現実性をもって描き出されえたのである。
 『東倶知安行』は一九二八年九月に書きあげられ、『創作月刊』に投稿されたが、没になって掲載されず、一九三〇年になって『改造』十二月号に発表された。当時多喜二は獄中にあり、獄外の同志たちが残された家族の生活を心配して、この旧作を発表するように事をはこんだのである。多喜二はこの作品が雑誌に発表されることには反対で、この作品について「声変り時のニキビ中学生のように、この上もなく不愉快な、中途半端なものです」(一九三〇年十一月二十日付中野鈴子あて書簡)といっている。たしかにこの作品には、解放運動の現実をその内部から描き出すのでもなけれは、また自分の生活の矛盾を内部から徹底的に追求するのでもない中途半端さがある。会社員生活に自己嫁悪をおぼえ、離脱を願う青年が、運動の現実にふれて感動し、同時にその矛盾と苦悩にふれて暗い気持になる。結局それは解放運動を指向する小市民インテリゲンチアによってとらえられた運動の現実であり、その光明と暗黒であって、小市民的な観念性と感傷性を十分にまぬがれているとほいえないのである。
 しかし多喜二ほ「何代がかり」の運動ということをくり返して強調し、広くて深い運動を支える底辺の現実に目を向けている。個人の力でほなくて、日本のいたるところのすみずみで苦悩に耐え迫害に抗してたたかう民衆の力こそ歴史を動かす力であることを、感動をもって描きだし、運動を広大な歴史的展望において把握しようとする地点にたっている。それは多喜二が明確に革命的作家として新しい一歩をふみ出そうとして、自分がはじめて実際運動に参加したときの経験を、新しい感動をもって描き出した作品であり、その中途半端な結末をも含めて、そうした多喜二の新しい出発を記念する作品となっている。
 たしかに中途半端な結末に終わらざるをえなかったことはこの作品の欠陥であるだろう。しかし多喜二が革命的な高揚だけではなく、底辺にあってたたかう人間の悲惨ともいうべき現実に目を注いだことの意味は大きい。そこにリアリスト多喜二の鋭い目がある。多喜二は現実から目をそらすことによってではなく、いっそうそのリアリズムを徹底させ、日本の現実の陪黒に深くはいっていくことにょって、この作品の欠陥をのりこえようとした。すなわち次作『蟹工船』は、日本のもっとも暗い地獄的な現実を徹底して描き出し、あらゆる矛盾にもかかわらずおし進められる解放運動の必然性と、その人間的意味をあきらかにした。
『蟹工船』において多喜二ははじめて資本主義社会のもっとも残酷な搾取の場にたち、その最底辺で虐使される労働者の生活をリアリスティックに追求することによって、日本の現実とその解放のたたかいを、もっとも深いところから描き出した。この最底辺の地獄的世界から照らし出すとき、日本の現実のあらゆる矛盾と苦悩は、はじめてその総体的連関において、生きいきと立体的に描き出すことが可能となった。多喜二はプロレタリア・リアリズム確立の道を一歩大きくふみ出したのであるC
『東倶知安行』はそのような多喜二が、小市民的インテリゲンチアとしての自身に訣別し、労働者農民のたたかいに参加することによって、ゆるぎないプロレタリア・リアリズムへと到達しようとする、その新しい出発の過渡的な姿を示す作品である。のちに多喜二はこの作品を「その芸術的価値は別として、私には忘れられない作品である」(前掲「『一九二八年三月十五日』」)とのべている。それは労働者農民の「己れ自らの活動舞台」への登場と、「急進的な知識階級のホウハイとした合流」という歴史的事実を示しているというのである。しかしそれはたんにそこに描かれた歴史的事実のためばかりでなく、プロレタリア・リアリズムの道へと新しい出発を出発したプロレタリア文学運動の新しい出発の姿を示し、それが内包する矛盾を明らかにすることによって、プロレタリア・リアリズムの新階段を準備した作品として、その文学史的意味において、「忘れられない作品」なのである。(『小林多喜二読本』所収)

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2007年7月29日 (日)

小林多喜二と近代文学  民主文学 1973年2月

小林多喜二没後四十周年記念特集

  ― 過去の文学に対する多喜二の態度

 小林多喜二は治安維持法で起訴されて、一九三〇(昭和五)年八月から翌年一月まで、豊多摩刑務所で未決の生活を送った。始めての東京の秋を独房で迎えた多喜二は、北海道とちがって、いつまで続き、どこまで深くなるかわからない東京の秋に驚嘆し、有島武郎がいったという「東京の空を見て死にたい」という言葉を深い感慨をもって思い起している。有島は北海道を描いた作家で、中学(小樽商業)時代に文学に目を見ひらいたときから、多喜二に大きな影響をあたえた作家だった。あまりにも多忙な生活を続けてきた多喜二にとって刑務所は自分自身をふりかえり、これまでの生活と文学を根本的に検討する得がたい機会でもあった。このことと東京の秋の空に有島を思いうかべることとは無関係ではなかった。
 刑務所でこれまであまり読まなかった古典的な作家を読んだことは、多喜二の思想と文学に新しい広がりと深まりをあたえた。バルザックとディッケンズをはじめて知った多喜二は、獄中からの手紙にその感動を率直にのべて、これまでの自分の作品は「綴方文学」にしかすぎなかったと繰り返している。これらの作家を日本のプロレクリア文学がほとんど知らずに来たということが、プロレタリア文学をこの上なく空虚なくせに、傲慢にさせたのだと多喜二はいう。過去の文学をアウフヘーベンするなどというが、真剣に学ぶことなしにどうしてそれが可能であるか。実際はただ単に否定という意味位にしか考えていなかったのだ。このように多喜二は、プロレタリア作家たちが過去に学ばず、現実にも深くはいって行かず、半分職業的に、惰性だけで書くようになる危険を問題にして、「ぼくたち自身の内にあるボス的意識」をきびしく批判した。
 過去の文学に学ばず、これを安易に否定するのは、文学の問題をイデオロギーの問題に還元する態度と結びついている。こうした安易なィデオロギー主義は、プロレタリア文学に固定化、一般化、平均化の傾向を招かずにいない。多喜二はそれを「ボス的意識」と結びつけて批判したのである。出獄後の多喜二は、プロレタリア文学のこれらの傾向を批判する評論を、精力的にくり返して書いた。現実の豊富さから出発し、文学を文学として追及することをしないから、「われわれの作品を共産主義的に武装しなければならない」ということがいわれると、「党のスローガンをそのまま説明するような作品の傾向」が生まれる。
「作品の中に文字通り・スローガンを持ち込み、或いは取り上げられる題材を所謂尖鋭化した闘争場面に限定し、すべての生きた現実の多様性を抽象し、われわれの作家が持っている種々な特質を、その『質』の上でも『題材』の上でも狭く固定しようとした。そこに平均化の傾向が生れて来たのである。」このように多喜二は、どの作家の作品も似たような筋道をとって、同じ結着にたどりつき、取り扱われる人間も「われわれに都合のいい(!)人間」になってしまっていることを、鋭く批判した。
 獄中の多喜二は、バルザックやディ。ケンズ等外国の作家たちばかりでなく、武者小路実篤についても数多くの手紙に書いている。多喜二は武者小路がひたすら自己を信じ、ただ自己にのみ忠実であることによって、まったく独自の芸術を生み出したことに感動した。武者小路の素朴な情熱、自己を素材にむき出しに、事もなげに奔放に表現する力を強調して、プロレタリア文学の作家たちが、ともすれば自己を見うしない、新しい流行にかぶれ、公式理論にもたれかかって、惰性的な小手先の仕事におちこみがちなことを批判したのである。
 武者小路に感動する多喜二は、徹底して自分自身であることによって、徹底して共産主義者であり、プロレタリア作家である道をあるこうとした。多喜二が斎藤次郎にあてた手紙に、武者小路の「その妹」「友情」について「君が『今』もう一度これらの作品を読み返して見ることを僕は切に望んでいる」と書いたことは、斎藤が画をかく青年であり、自分の方向を定めかねて迷っていたことから考えて、多喜二が武者小路からうけつごうとしたものが何であったかを示している。一九二八年十月の手紙には斎藤が自分のどの画にも自信がもてず、また画が一作毎に変るのは「自分の本質」に対して盲目であるためではないかと指摘している。多喜二は斎藤が「自分の本質」をしっかりつかみ、自分自身のユニークな芸術をうちたてることを、くり返し望んで来たのである。多喜二の武者小路に対する感想も、この文脈の中でとらえるとき、その意味が明確になる。多喜二は武者小路からもっとも本質的なものを受けつぎ、プロレタリア文学においてそれを発展させようとしたのである。
 多喜二が斎藤に対して「自己の本質」云々と書いたのは、「一九二八年三月十五日」を書きあげた直後のことであった。多喜二はこの手紙で、さまざまの画に、さまざまに心を奪われることの危険をいい、一人に「惚れこむ」ことの必要を説いた。「一人に! これがスローガンだ。モットウだ。そしたら、そこから君の道が出て来る。」 この多喜二が惚れこんだ一人の作家は志賀直哉であった。「一九二八年三月十五日」の背後には志賀直哉がいる。「一九二八年三月十五日」執筆中の多喜二は、当時刊行された改造社版の現代日本文学全集「志賀直哉集」(一九二八年七月刊)の巻頭言について、「まさに里見弥の『一刀一拝の芸術』『胎芸』の、至上の境地をつきぬけて、もう一つ上の至上に至っているという感じだ。精読を望む。」と一九二八(昭和三)年七月十五日に、斎藤にあてて書いている。
 「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というようなものは全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上でもし私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思はないだらう。」これが直哉の巻頭言である。獄中の多喜二は、「一九二八年三月十五日」を書く以前に帰り、「新しい、まだ誰も知らなかったような作家として、そのような新しい誰もが今まで見ることがなかった作品」を書いて行きたいと念願した。この多喜二の心に去来するのは、直哉の文学を心に抱いて、ひたすら精進した当時の自分の姿であった。多喜二は自分の仕事を、文学として芸術として、きちんと自立したひとつの世界として確立してゆくことを求めた。ブルジョア作家だ、プロレタリア作家だ、文戦だ、ナップだ、等々というレッテルによって文学を考えることが、プロレタリア文学を堕落させる。新しく無名の新人が 「処女作を書く時のような気持」で出発しなおそうとする多喜二は、あの巻頭言のついている「志賀直哉集」を、わざく小樽の家からとりよせてくれるように、斎藤にあてて頼んでいる。
 多喜二は獄中から直哉にあてて手紙を書き、これまでの自分の作品がいかに「粗雑な古ぼけた、薄っぺらなもの」であったかを、この上なくはっきり知ることができたと書いている。多喜二の手紙には直哉に対する深い敬意と親愛の情がこめられている。「急にわきたつような気持から」この手紙を書くのだといって、「此処で、手紙を書く気持を、私はどのように云っていゝか分りません。それは、まるで何かむさぼるような気持です」という。たしかにそれは、決して通り一ペんの気持ちで書かれたものではなかった。関西講演のあとで奈良の直哉を訪ねようとした矢先に大阪で逮捕されたのであった。出獄後の手紙でも、直哉上京のさいにあえなかったことを残念がっており、その後地下活動にはいる前に、奈良に直哉を訪ねて念願をはたしているのである。
 多喜二と直哉、ふたりはどれほど遠く離れた世界に生きた作家であったろう。しかし多喜二は自分と直哉を結ぶ共通の世界を信じていた。それ故くり返して、自分の作品に対する直哉の遠慮のない批判を求めたのである。多喜二は直哉を文学の師として、それに導かれてここまで来たという思いがあった。獄中での直哉に対する感慨は、決してその場かぎ力のものではなかった。多喜二はいつも直哉をおもい、処女作以前の自分をおもって、ともすれば作品が粗雑になり、観念的になるのをいましめ、自己にむちうった。多喜二は常に前進し、作品の世界を拡大していったが、一方ではたえず直哉にもどり、直哉の目を保持し続け、その目で自分の作品を批判した。「一九二八年三月十五日」ばかりでなく地下生活の中で書いた最後の作品、「党生活者」にもはっきりと直哉の目は生きているのである。

  2 多喜二の転回点

 プロレタリア文学運動の内部には、過去の文学をブルジョア文学として一挙に否定し去る傾向が根強くあったが、文学を階級的立場や作者のイデオロギーに還元するこの傾向に対して、多喜二は一貫して反対し続けた。過去の文学に学ぶことは、イデオロギー主義、政治主義、テーマ主義を克服して、文学を文学として、芸術として発展させること、人間を一面的にでなく、その根底から、全体的に把握し、観念としてではなく、具体的なたしかな形象として描き出す努力を意味する。
 獄中の多喜二は鹿地亘にあてて、チェホフを「一般的命題」でかたづけずに「知る」努力をしてほしいと書いている。「正しい方向」とか「正しいイデオロギー」の強調によって、文学がそのセンチメントをうしない、読者の胸に訴えるものでなくなる危険を、具体的に橋本英吉の作品に即して論じ、「イデオロギーの百の純粋さと同時に、(そのイデオロギーが依ってもって育ち、肉付けするところの)プジコロギー(心理、情緒だ!)がそれに伴わなければならない」と強調したのである。そして「それのない作品は、労働組合の先生の方が、よりうまくやってくれる領分なのだ」といっている。
 多喜二のこの考え方は、「一九二八年三月十五日」以前、その出発以来一貫している。一九二七(昭和二)年五月の小樽新聞に発表した「十三の南京玉」は「無産階級意識を(頭からではなしに)胸から把握」することを強調して、葉山岳樹の「淫売婦」や「セメント樽の中の手紙」の意味を指摘した。そして「プロレタリア文学は宣伝手段でなければならない」というような一面的な意見や、「唯物史観がそのまx芸術論におきかえられている愚な議論」が横行するプロレタリア文学の現状に対する鋭い批判をあびせている。一九二八(昭和三)年一月の「吹雪いた夜の感加」(「小樽新聞」)ではこの問題についてさらにつっこんで、次のように論じた。
 トルストイの「復活」に関連して、「単純に、人間主義の作家だから、『馬鹿々々しい説法』である無抵抗主義の作家だから、というレッテルを貼りつけ、それだけの理由で黙殺するのは、結局何事もそれから学び得る所以ではない」と多喜二は主張した。コミュニズムのABCが表現されてさえいれば、ただちにそれをコミュニズムの芸術だとするのは、「コミュニズムのA、B、Cで安易な自慰をやる」ものだ。トルストイが「復活」で試みたあの社会の「えぐりだし」をコミュニストの態度でやるのが、コミュニズムの芸術である。そのなまなましい具体性において現実を暴露することに、「広いコミュニズムの芸術の未墾地」が横だわっており、「それは他の深い、尊敬すべき理論家、実際家にも与えられていない別のタアレント、芸術家の特殊性であると思う。」と述べた。多喜二は文学が政治やイデオロギーに還元されることに反対して、「芸術家の特殊性」、芸術の独自な存在理由を主張したのである。
 磯野小作争議や小樽合同労組の争議を経験し、社会科学研究会に参加して、労働農民党や小樽合同労組の人だちとの接触を深めていった一九二七年は、多喜二にとって決定的な一年であった。この年、多喜二は労働芸術家連盟に加盟し、その分裂に際しては前衛芸術家同盟に参加した。一九二八年を迎えた多喜二は、その一月一日の日記に「思想的に、断然、マルキシズムに進展して行った。古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである。」「さて、新らしい年が来た。俺遠の時代が来た。我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ。」と害いている。この年二月の第一回普選のだたかいに、東倶知安方面の演説隊に加わるなど、多喜二は自分自身を政治運動の中へ大きくつき出して行こうとしていた。この新年早々の感動の中で、政治と文学の問題についてきびしい緊張を強いられながら、「吹雪いた夜の感想」を書いたのである。この個人的にも社会的にも激動する時代の渦の中で、多喜二は「防雪林」を書いた。それは多喜二の文学―-その思想と生活の転回点を示すものであり、その新しい出発を記念する作品である。
 多喜二が葉山嘉樹の第一作品集「淫売婦」を読んだのは一九二六(大正一五)年五月のことであった。その時の感動を「『淫売婦』一巻はどんな意味に於ても、自分にはグァンー と来た。言葉通りグァンと来た。」と日記に書いている。多喜二が「防雪林」を書き、プロレタリア文学の道を歩きはじめるのに、この葉山との出あいは決定的な意味をもっている。「ブルジョアに対するプロレタリアの階級意識。生産階級の消費、有閑階級に対する反抗意識、搾取されている意識」こういうものが人道的に裏打ちされて、強烈に表現されていることに多喜二は圧倒された。それは「意識」としてはあった。けれどもそれ程「情熱的に」「具体的に」は出ない気持ちであった。
  一九二九(昭和四)年一月、多喜二は葉山にあてた手紙に「今、不幸にして、お互に、政治上の立場を異にしていますが、--貴方がマキシム・ゴーールキーによって洗礼を受けたと同じように、私は貴方の優れた作品によって、『胸』から生き返ったと云っていいのです。」と書いた。自分を本当に育ててくれた作品は「戦旗」の人たちのどの作品でもなく、実に葉山の作品と平林たい子の二、三の作品だったというのである。とこには文学、芸術を政治的立場やイデオロギ”ーの問題に還元することに反対して、文学、芸術それ自体の力を重視する多喜二がいる。翌年一月の「新潮」には、葉山の小説に「初めて襟首をつかまれたのだと云っていい」と書き、「それはまったく『逞しい腕』だった。葉山は日本の文学が今迄決して持だなかった『逞しい文学』をひっさげて登場してきた。その最初の作家だった。それはあらゆる『僕等』を振りまわし、こづきまわした。--葉山の『海に生くる人々』一巻は僕にとって剣を擬した 『コーラン』だった。」と書いている。
  「海に生くる人々」ははげしくあれ狂う海とたゝかう海上労働者の逞しい姿を描き出している。自然の暴威とたゝかう労働者は、同時に苛酷な搾取とたたかう労働者であった。葉山は自然そのもののような労働者を描き、本能につき動かされ、愛を求め、人間らしい自由を求めて夢想する労働者を描いた。観念としての労働者でなく、自然の中に生きる、肉体をそなえた労働者、怒り、たゝかうとともに、嘆き、かなしみ、あるいはよろこび、おそれる労働者を描いた。多喜二は「十三の南京玉」に見られるように、葉山の文学が「頭から」でなく、「胸から」人を動かすとごろにその芸術の独自の価値を見た。ふみにじられ虐げられて生きる人間の美しい感情が、はげしく逞しい反抗意識に結びついて、異常なほどに人をつき動かすのである。
 多喜二のこの感動は、「チェルカッシュ」その他のゴーリキーを読むことで、さらに深められ、新しい世界にふみこんで行った。
「生活を嘆かない。金に頭を下けない。人生の弱い方面に頭をつっこまない。堂々と生きて行く。『人生がどうにもならないものなら、クヨ?くしたってなんのたしにもなるまい。」このゴーリキーに対する感動を、「こういう性格、こういう人生態度(圏点)、こういう筆致(圏点)…………これ等は悲惨な、無希望の、自己否定、自己苛責の、自然主義文学にとって大きな打撃であったろう。そして又同時に、浅薄な理想主義文学に対して、判然として道を示したことにもなる。」(一九二六年九月の日記)と述べた。
 多喜二は秋田から北海道へ夜逃げしてきた数知れぬ貧農たちの息子のひとりだった。多喜二の内部には「貧農の子」としての記憶、その自覚、そのあつい火がもえくすぶっていた。銀行員としての生活は、多喜二にその火がもえあがるのを許さなかった。しかしその火は内部から多喜二の身をやき、いつかは激しくもえあがって、多喜二の身と心をやきつくさずにはいなかったのである。葉山やゴーリキーの文学は多喜二の魂をはげしくゆすぶった。そして北海道の大地にもえあがった労働者農民のたたかいは、多喜二の思想と生活をつき勣かして、多喜二を新しいたたかいの場所におし出した。多喜二は自分の内部にもえる熱い火をはっきりと自覚し、それに表現をあたえることで、自分自身を新しい場所につき出して行こうとした。「防雪林」はこの多喜二の転回点、新しい出発点を示す記念すべき作品であった。

  3 多喜二における「自然」の問題

 「『世界意識』という神聖な病気」について、多喜二は一九二六年五月の「新樹」第九集に書いた。カフェーでビフテキを食べようとする。その瞬間、寒空に飢えている人を思ってしまい、食べることができない。笑おうとすると、笑えない多くの人の存在が彼の顔をひきゆがめてしまう。日向を歩いてゆくとき、日の光を一日も見ずに土の底にうごめいている多くのものを考える。この「『世界意識』という神聖な病気」は近代の知識人に共通する問題であり、近代文学の基本的な主題として、近代文学を発展させる原動力となった。それは近代社会の矛盾が人間疎外、自己疎外の問題として、知識人の意識に集中的にあらわれたのである。
 日本の近代文学においては、知識人の内部矛盾の問題はまず理想と現実の矛盾としてあらわれた。北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋等はこの矛盾を追及して自然主義文学を生んだのである。やがてそれは社会と個人、社会と自然の問題を知識人内部の意識の矛盾、その分裂と二重性の問題として展開され、理性と感性、「頭脳」と「心臓」の矛盾相克が追及された。「自然の児」として生きるか、「社会の児」として生きるか、この矛盾を主題とした夏目漱石の「それから」は、日本の近代文学に新しい問題を提起したのであった。単に社会と自己の間の対立矛盾ではなくて’、自己内部の矛盾が主題とされたのである。「社会の児」たらんとする自己と、「自然の児」たらんとする自己が、一人の人間の内部に同時に存在する。心臓が求めるものを頭脳が拒否し、頭脳が求めるものを心臓が拒否する。漱石の「彼岸過迄」は「心臓(ハート)」と「頭脳(へッド)」が矛盾相克し、行動不可能になって立ちすくむ知識人の姿を描いた。
 この近代知識人の矛盾、意識の分裂は、近代社会の矛盾が激化して、その悲惨な様相をあらわにし、プロレタリアートの自己主張、その解放の運動が時代をうごかしはじめたとき、いっそう深刻になった。漱石は「明暗」において小市民的知識人の生活を、社会の下層に生きる人々を描き出すことによって、新しい光で照らし出した。しかし一九一六(大正五)年、漱石の死によって中断されたこの作品では、この社会矛盾を自らの矛盾として追及する知識人は登場しない。多喜二の「『世界意識』という神聖な病気」は、社会矛盾の激化によってあらわにされた小市民的知識人の矛盾である。「それから」における「社会」は、人間の’「自然」を抑圧するものとしてあらわれた。それ放武者小結実篤は、漱石が「社会」と「自然」の矛盾にひきさかれて、立ちすくんでいるのを批判して、どこまでも自己の「自然」を強調し、この「自然」に即して「社会」をつくりかえることを主張したのである。
 武者小路にとっては自己の内部矛盾や意識の分裂は問題にならなかった。あらゆる矛盾にうちかって発展する「自己の単一性と絶対性」が信しられている。そこに懐疑的でない、健康で逞しい武者小路の自己主張と行動性、素朴でむき出しな力強い文学が生まれた。しかし多喜二にはそのように、「自己」を信じ、「自己」を主張することができなかった。多喜二の「自己」は現実の暗黒に照らし出され、底辺に生きる人々の悲惨な現実を自らの苦悩としてになわなければならなかった。自己の幸福を求める心は、この現実の暗黒をおもう心と矛盾する。しかもこの現実の解放なくして多喜二の「自己」の幸福はないのである。多喜二の「自己」は現代社会の矛盾にひきさかれ、「『世界意識』という神聖な病気」にむしばまれて、ひたすらその苦悩を深めていかなければならなかった。
 多喜二は自分が貧農の子であり、「赤貧洗う、と云ってもまだるっこい生活」をしながらも、親類のおかげて高商を出て、銀行員としての小市民的な生活をしているところに、「あらゆる事件に打ち当っての矛盾、不徹底」の由来があると考えた。このことを多喜二は一九二六(大正一五)年九月の日記に書いているが、この自覚は葉山やゴーリキーにふれることによって、切実なものになったのであった。「その出発を出発した女」は日本の鏝底辺の暗黒に生きる少女の不幸を追求し、彼女を愛し、救おうとする安本の努力を、「自己をおもう心」と「世界をおもう心」の統一を求めるものとして描き出した。しかし安本の努力は空しかった。安本の努力が失敗に終ることを描くことによって、多喜二は個人の努力や善意によってはどうすることもできない苛酷な現実を描き出し、そこからお文と安本を新しく出発させようとしたのである。しかし一九二七(昭和二)年五月ごろからとりかかったこの作品は、十一月に中篇までで中絶し、「防雪林」が書きはしめられた。この時期の時代の激動が多喜二の思想と生活をゆり動かし、知識人としての「自己」をやきつくす火を激しくもえあがらせたのである。
  「その出発を出発した女」の行きづまりについて、多喜二は「あまりに個人的に心理を開展して行くことが自分を不安にしたから」と書いている。そして同じ日の日記に「防雪林」について「原始人的な、末梢神経のない、人間を描きたいのだ。チェルカアソュ、カインの末裔、如き。そして、更に又、農夫の生活を描く。」 と書いている。これは多喜二の内部にもえる火がいかなるものであるかを端的に示す言葉である。「我等何を為すべきかではなくて、いかになすべきかの時代だ」というもえたつ思いが、「その出発を出発した女」を中断して、「防雪林」を書かせた。現実を変革するのは知識人限りない自己矛盾と自己苛責の苦悩ではなくて、虐げられた民衆の生きようとする本能であり、自然そのものである逞しいエネルギーである。
  「防雪林」の源吉は、知識人としての多喜二をつき倒し、うちのめす「原始人的な、末梢神経のない人間」として描かれた。「その出発を出発した女」の安本や、多喜二自身の苦悩とは無関係な、逞しく行動的な人間である。源吉は無口な人間である。そして他の人間がワイワイいうばかりで結局何もしないでいるとき、「ノソ@くと出かけて行って、独りで、とてつもない大きなことを仕出かした」のである。彼の行動は「頭から」のものではなく、彼の本能=自然が彼にそれを強いるのであった。彼の怒りと反抗は、しいたげられ、収奪されつくす農民の生活から来るものであり、生きようとする本能=自然の欲求の爆発であった。
 移住農民である源吉の父が、ようやく一人前の農地にした開拓地を地主に奪い取られようとしたとき、まだ幼かった源吉は、その地主の脛にかじりついてどうしても離れなかった。自然は万人に平等であるのに、法律は農民から土地を奪い、冷酷に農民をしめころす。自然の子である源吉は、このような法と権力を認めることができなかった。この小説が鮭の密漁からはじまっているのは、階級支記の道具であり、民衆から自然の富を奪って、飢えと貧困を強制する近代社会の根幹をなす、人為的な法の権威に対する「自然」の反抗が、この作品のテーマであることを示している。
 「防雪林」の自然描写は逞しく雄大である。多喜二はゴーリキーの自然描写が「情熱的自然描写」ともいうべきもので、作者の主観が濃く出て、そこに作者の人生態度、世界観がはっきり出ていることに心を動かされた。とくに「チェルカカッシュ」の冒頭は「それだけで】世界文学にその価値を堂々と主張し得る名文だと絶讃した。「防雪林」の自然描写はこの「チェルカッシュ」を念頭におき、それに対抗しようとする抱負をもつものであった。多喜二は広大な北海道の原野を描き、氾濫のあともなまなましい石狩川を描いた。増水した石狩川に漕ぎ出し、激流に抗して奮闘する場面、密漁の鮭の頭を殴りつけ殴りつけする場面は、自然の巨大なエネルギーと自然そのままの逞しい人間が相うち、奔流となってもりあがるダイナミックな描写である。多喜二は巨大で無気味な自然を描き、この荒々しい自然の中に生きる人間を、大胆なタッチで描き出した。自然と人間のだたかいを通して、自然と人間はひとつになり、大自然の息吹きはそのまま源吉の息吹きとなって、作品全体にはげしく息づいている。
 多喜二が描いた農民は、社会科学によって処理され、肉体のなまなましさや、不透明性を濾過された、観念としての農民ではない。多喜二の描いた農民は肉体をもった、自然としての人間である。自然の中に、肉体をもった人間として生き、働き、性欲につき動かされ、苦悩し、怒り、かなしむ。多喜二はその不透明な混沌たるエネルギーと情熱を描いた。社会科学が捨象する具体性において農民をとらえ、その生存の全体的様相を描き出した。そうすることで「防雪林」は芸術としての独自性を確立した。多喜二における「自然」の問題は、たんに自然描写の問題に倭小化されるべきではない。社会と人間をとらえる基本的な思想の問題であり、芸術を芸術として成り立たせる芸術のあり方の問題である。多喜二は人間を「自然」としてとらえ、近代社会における自然としての人間の疎外の問題を、たたかう農民を描くことによって追及した。こうして多喜二は近代文学の問題を正当にうけつぎ、それを発展させるものとして、プロレタリア文学の立場を確立した。それ故に多喜二は近代文学の遺産を全面的にわがものとする立場に立つことができたのである。
「防写植」を転回点として、プロレタリア作家としての道を歩きはじめた多喜二は、その後を一貫して人間の自然=肉体を描き、その土台の上に、社会を描き、解放闘争を描いた。「一九二八年三月十五日」「蟹工船」「党生活者」などが芸術としての高い達成を示しているのはこのためである。多喜二は人間をイデオロギーに還元して観念化する傾向とたたかい続け、大地にしっかりと根をおろしたリアリズムの確立を目ざして努力し続けたのである。

  4 近代文学の新しい地平

 「防雪林」を書いた多喜二の念頭には、有島武部の「カインの末裔」があった。この一九一七(大正六)年の作品によって、有島は作家として世に認められたのである。この作品は北海道の広大な自然の中に、自然そのままのような仁右衛門という農夫を描き出している。有島はこの作品について、仁右衛門は「自然から今掘り出されたばかりのような男」で、「人間と融和して行く術に疎く、自然を征服して行く業に暗い」と述べている。それにもかかわらず「生きねばならぬ激しい衝動」に駆りたてられて、「人からは度外視され、自然からは継子扱いされ」て苦しい生活を生きるのである。
 「長い影を地にひいて、やせ馬の手綱を取りながら、彼は黙りこくって歩いた。」冒頭の文章である。冬が追ってはげしい風の吹く夕暮れ、立ち木一本生えていない大草原の心細いほどまっすぐな一本道を、赤ん坊を背負った妻をともなって、仁右衛門はよろよろと動いて行く。そしてこの作品は一年あまりの後、農場を追われた夫婦が、一頭の馬、一人の赤ん坊も「自然から奪い去られて」、吹きつける雪の中を何処へともなく歩き去ってゆくところで終っている。広大な自然の中で、彼等はいかにもちっぼけで惨めな存在である。有島は自然と人間を対立させ、人間を小さく惨めなものとして描いた。そして自然のままの人間である仁右衛門は、集団をなして社会的生活を営む村人だちとも対立して、孤立して生活する。仁右衛門は村人を軽蔑し、ひたすら本能の衝動に従って、エゴイスチックに生きる。仁右衛門が村の掟や約束に従わないのは、権力や地主の支配とのだたかいを意味するのではなくて、村人との共同や協力を拒否して、ただ自分勝手に生きるためである。自然と人間を対立させる有島は、個人と社会、人間の自然=本能と社会を対立させる。
「カインの末裔」は「自己を描出したにほかならない」と有島はいう。有島の地主制度、資本制変に対する批判はこの作品にもはっきりあらわれている。しかし有島はいかにして農民をこの苛酷な現実から解放するかを追及しているのではない。現実の農民の苦悩ではなくて、社会生活に虚偽を感じ、反社会的な破滅の道を志向しようとする、自分の内部にひそむ衝動を、仁右衛門という仮構の人物を通して表現したのである。社会の矛盾に敏感で、悲惨な生活にあえぐ人々をおもわずにいられない有島は、同時に自分の内部のエゴイズムを自覚して苦しむのである。そしてこのエゴイズムを絶対化して、このエゴイズムが人間の自然=本能であると考える。これは自然主義以来の思想であるが、有島にとって自己に志実に、自己の自然=本能に従って生きるとは、このエゴイズムに従って、排他的に、反社会的に、孤立して生きることであった。この時代の知識人の苦悩、「『世界意識』という神聖な病気」から、有島はこうして自己を救出しようとした。有島は一方で社会主義の到来を、当然な不可避なことだとしながら、ブルジョアの子である自分がその実現のために努力するのは、自己を偽るものであり、民衆の自己解放のためにも有害であると主張した。民衆は民衆自身によって、その自然=本能、エゴイズムによって解放されなければならぬ。ブルジョアの子である自分は破滅の道を歩くしかないというのである。
 しかし人間の自然はそのようなエゴィズムとしてのみとらえられるべきであろうか。むしろ現代の社会制度、経済制度が、人間の自然を疎外してエゴィズムを生んだのではないか。自然は事物と事物を結びつけ、事物と人間、人間と人間を結びつけて、それぞれの個体を巨大な全体に統合する。たしかにそれはあらゆる矛盾、あらゆる闘争を内包する。しかしその矛盾、対立、闘争をつらぬいて、巨大な自然の統合の力、生成発展の力が働いている。武者小路実篤はこれを自然の意志、宇宙の意志、人類の意志と名づけ、自分の内部にそれが生きていることを信じた。武者小路は楽天的であった。自己を肯定し、自己を信じ、自由奔放に自己を主張した。武者小路も現実の暗黒、その矛盾、対立、闘争を見なかったのではない。しかしそれらを貫いて実現される巨大な調和を信じて、ひたすら自己を肯定したのである。有島もまたあらゆる矛盾を内に合みっつ発展する自然の生命を信じなかったわけではない。しかし現実の暗黒により強くひきつけられ、その矛盾、分裂を自分自身の問題として追及したのである。武者小路は自分の信念、信仰を語ることで現実をと
びこえ、有島は階級対立の激化する社会の中で、ひたすら激化する知識人の自己矛盾を追及し、ついに自分自身をひきさいて破滅の道をあるいた。
 「防雪林」の自然は人間を疎外し破滅させる自然ではない。現代の社会、国家権力、資本家、地主の支配は農民だちから自然を奪い、生活を奪い、人間を奪っている。源吉をつき動かす自然0本能の衝動は、それらの奪い取られたものを農民自身のものとして奪い返そうとするものであり、村人たちの歴史と生活にしっかり結びついている。仁右衛門が過去もなく未来もなく、何処からともなくあらわれて何処へともなく去って行く孤立者、漂泊者であるのに対して、源吉は処女地をきり開き、荒れた大地を耕して農地にした父たちの労苦と結びつき、同じ運命をになう村人たちのよろこびとかなしみ、その労苦の生活ともっとも深い所で結びついている。
 源吉は北海道の大地にしっかり根をおろした農民として、大地と大地の富を奪うもの、恋人を奪い去りふみにじるものに対して、はげしい怒りを叩きつけた。その怒りはすべての農民の心の底にうっ積している怒りであった。源吉をつき動かす自然=本能は決して排他的なエゴイズムではなく、源告を村人だちから孤立させるものではなかった。この作品の冒頭の鮭の密漁の場面でも、源告は密漁した鮭を決してひとりじめにしようとせず、村人たちに配っている。それが源吉の自然な感情であった。自然をひとりじめにして農民たちから奪いとるものに対する、自然=本能の怒りが源告をつき動かしたのであったから。
 たしかに自分だけの利益を追求する排他的なエゴイズムが現代の人間をかりたてていることは否定できない。しかしそれを自然=本能として固定化し絶対化することはできない。むしろそれは、現代の社会経済制度が人間の自然=本能を疎外することによってつくり出した社会的なものだということができる。このような社会に対するたたかいは、新しい人間と人間の結びつき、新し.い人間の回復を目ざすものである。多喜二が「防雪林」で描いたのは、このようなたたかいの原動力となる自然=本能であり、貧困と抑圧に苦しむ貧農ひとりひとりの、おしひしがれた生活と心の奥深くにもえくすぶっている熱い火である。
 多喜二は内地を追われて移住してきた農民の故郷への熱い思慕を描き、土地に対する異常なほどの執着と懸命な労働を描いた。しかし彼等は故郷を追われ、土地を奪われ、辛うじて生きているという惨めな生活を強いられる。老人たちは宗教に救いを求め、若者たちは都会にあこがれて村を出て行く。都会に出た女たちは淫売婦に転落してゆく。源吉の恋人は都会に出て大学生にだまされ、妊娠して帰郷し、悲惨な自殺をとげる。多喜二はこの現実を深い愛情と、はげしい怒りをこめて描いた。この悲惨な生活のどん底から、彼等はもうどうにもならなくなって立ちあがるが、戦いは敗北に終り、残酷な拷問が彼等をうちのめすのである。
 「防雪林」はしかし日本の農民の一般的な現実をありのままに描き出しただけのものではなかった。貧困と社会の重圧におしひしがれ、因習と法に縛られて運命に翻弄される農民のみじめさを描くだけでなく、そのみじめな生活の深奥にもえている熱い火を、源吉という人物を創造することで描き出した。それはまた、銀行員という小市民的生活の中で中途半端なぐずぐずした生活しか出来ぬ多喜二自身の内部にもえる熱い火、自然=本能の衝動の表現でもあった。「防雪林」もまた多喜二自身の「自己を描出したにほかならない」作品だということができる。
 しかし「防雪林」は、「『世界意識』という神聖な病気」にむしばまれ、生活と意識、自己意識と世界意識の矛盾に苦しむ有島が、自分の内部のエゴイズムを自然=本能の衝動としてとりだし、他を捨象して描き出した「カインの末裔」とは本質的に異なっている。仁右衛門は農民の現実、その矛盾や苦悩とは無関係に、ただ有島の「自然=本能」の観念に具体的な形をあたえたにすぎなかった。それは有島がブルジョアの子であり知識人であることによって制約され、疎外された自然=本能であるにすぎず、北海道の原野をきりひらき、きびしい自然とにたかって生きてゆく農民とは、まったく異質のものであることをまぬがれなかった。
 有島は社会矛盾が激化した時代の知識人として、時代の苦悩を一身ににない、新しい可能性を求めて苦しんだ。有島は「自然=本能」を強調することによって、知識人の限りない意識の分裂を解決しようとした。有島は自然を軸として人間と社会の矛盾を追及し、近代文学の新しい段階をきりひらいた作家だということができる。しかし有馬は自然=本能を根源的にとらえることができず、疎外された自然=本能を自己意識や世界意識と対立させ、知識、文化、社会と対立させたため、人間と社会の土台の上にダイナミックに全体的に描き出すことができなかった。本能と知識、自然と文化、生活と意識、自己と世界、自然と人間、自然ど社会等々が限りなく並列的に対立させられ、知識人の自己意識や世界意識、その知識性、社会性をきりすてるかたちで、その「自然=本能」を強調したのである。このような有島の思想と文学が非現実的であり観念的であって、知識人の矛盾を解決するものでないことはあきらかである。それは現実と自己を変革し、発展させるものでなく、現実の矛盾を固定化し、絶対化するものであった。
 多喜二は同時代の知識人として、有島の苦悩を自分自身の苦悩として追及するところに、その思想と文学を発展させた。しかし自己をひき裂く生活と意識の矛盾が、銀行員という小市民的生活から来るものであることを自覚し、現在の生活によって自然=本能が疎外され、ねじまげられていることを自覚したとき、自分の内部にくすぶり続け、限りない自己矛盾にかりたてるものこそ、自然=本能の衝動だということをはっきり感じとった。自己内部の矛盾と分裂は、社会性や意識性をきりすてることによって解決することはできない。この矛盾を生み出す根源をあきらかにすることによって、はじめてそれは解決される。多喜二はそれが自然=本能と、それを疎外する社会=小市民的生活の矛盾であることを明かにした。自然=本能の衝動はそれを疎外する社会、小市民的生活、そこに生まれる小市民的な生活意識とたたかい続け、変革しなければやまない。多喜二は自然=本能の衝動を、このような変革のエネルギーとしてとらえ、そのもっとも直接的なあらわれを農民に求めて、源吉をつくり出した。この自然=本能は社会や知識や文化等々に対立させられるのではなく、新しい社会や知識や文化等々を生み出す根源的なエネルギーである。この多喜二の「自然=本能」の把握は、近代文学に新しい地平をきりひらくものであり、プロレタリア文学を近代文学史において、たんに政治的立場やイデオロギーによってではなく、文学自体の質的な発展として位置づけるものであった。

小林多喜二関連論文http://homepage2.nifty.com/tizu/proletarier/top@.htm

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