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2009年12月 3日 (木)

戦後の文学における敗戦の意味

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 戦後の文学における敗戦の意味                      伊豆利彦

 一九四五年八月十五日、その日はいつもと変らずに明け、同じように暮れた。くりかえす自然の営みにおいて、それは決して特別の日ではなかった。人々にとっても、肉体的体験としてはすこしも特別の日ではなかったろう。けれどもそれは日本人にとって生涯忘れることの出来ない日となった。人々は自分の実感として、歴史のまっただ中にいることをまざまざと感じた。それはまさに歴史的な国民的な体験であった。もちろんその内容はさまざまであったが、むきだしにされた自分白身に直面し、国家について、歴史について、そしてまた人間について、それらすべて根本的な問を自らに問わなければならなかった。それは各人の生涯の転換点であり、新しい出発点であった。戦後の文学もこの日を出発点としたのであり、その日の意味をさまざまに追求している。

 <戦争が終った。ー-それは不思議でも何でもない。戦争がいつ終るだろう?それは何百ぺん考え、何千べんつぶやいたことだろう。しかしまた、戦争が終ったーーそれは何と不思議な、とんでもないことだろう。>徳永直は「妻よねむれ」でそのような混乱した自分を表白するところから出発した。疎開先の農家の土間で、村人たちと天皇の放送を聞いた直は、その瞬間の村人たちの当惑と混乱と昂奮を伝えている。天皇や政府を信じ、すべてを失ってなお一生懸命な国民の激情のどこへ持って行きようもない噴出がそこにはあった。

 徳氷直は転向作家であり、誇るべきなにものももっていなかった。戦時下の暗い日々の記憶も、語れば愚痴にしかならぬ。しかし直はそこから出発するしかなかった。戦争の意味を理解することも批判することもできず、ただそれが強いる犠牲ばかりを一身に負って生きなければならぬのが国民であった。直はわが身をそのような国民の場におき、そこから出発しようとした。戦争の末期に死んだ妻の生涯を、まぎれもなく戦争の犠牲であり戦死なのだとすることによって、そのように生き、そのように死んだ数知れぬ日本の女たち、数知れぬ国民の苦しみと痛みにふれていった。理屈で戦争に反対し、民主主義を主張するのではない。暗い時代に理屈はわからぬままに戦争にかりたてられ、その犠牲となった人間の痛苦の日々を追求することで、新しい時代のあるべき姿を見出そうとしたのである。

<お前はくらがりの中で生きてきた。死ななかったから生きているといったような生涯を生きてきた。おれをひくつで臆病な人間にしたような、人間と人間とのあいだをさえぎるくらがりの中で生きてきた。>直にとって敗戦はその<くらがり>をうち破り、新しい光をもたらすものであった。結婚早々から彼等を苦しめ続けた憲兵隊も特高も廃止された。巣鴨刑務所の古い友人から、外国人記者たちが共産党員を探し求めて訪ねてきたときの感動を伝えて来た。<海をこえて光がさしてきた。>そのことに直は感動し、直の過去にもかかわらず、戦後の運動への参加をよびかける<共産党員の愛情>に感動している。

 直はアメリカ兵をはじめて見たときの感動を語り、アメリカ語をしやべれぬことをくやしがっている。<おれはかけていって、あのアメリカ兵たちと握手をしたい>というのである。<人間の世界は広いんだ。海のむこうにも数知れぬほどの人間がいる>と直は死ん
だ妻に語りかける。<信じあうことで、よき精神をたよりあうことで、命をかけた共産主義者、この世を住みよくしたい人々が何千万といるんだ。>直は戦後ひらけた明るい可能性、その光り輝く人間連帯の夢を、戦争下の暗い現実との極端な対照において語っている。

 <いまはもうびっこひきひきだろうと何だろうと、たとえ弾丸はこびにでも、塹壕ほりにでもはせ参じなくてはならぬ。ざんげも決算も、いまはあとまわしだ。そんなもの死んでからだってかまわないようなもんだ。>直は転向の傷を負ったまま新しい運動に参加しようとする決意を語っている。しかしかつて卑屈で臆病で意気地なしであったものが、どうして今度はどんなことがあっても戦場を離れずにたたかい続けることが出来るのだろうか。直の決意はそれとして美しく、作者の主体的真実を疑うことはできないが、しかしそこには直ひとりの問題でない、戦後の日本文学にとっての重大な問題がある。

 「播州平野」のひろ子は、天皇の声がたえるとすぐ「わかった?」「無条件降伏よ」と弟夫婦にいいきかせている。直に見られた混乱と当惑はここにはない。百合子はこの瞬間を歴史の大きな展望においてとらえ、その感動に<身内が顫へるやうになって来るのを制しかねた>のである。現実におし流され、自分自身を見失ってよろめきあるく愚かさのかわりに、常に歴史を見通し、あやまりなく生きたものの感動と自信がこの作品を支えている。ひろ子にとって敗戦は解放であった‥歴史的政治的な意味でだけでなく、十二年もの
間、夫を待ち続け、眠れぬ夜々をすごした女として、妻としての実 感において、それはまさに解放なのであった。個人の個人としての感情が、そのまま歴史的であり得たところに、暗い時代を屈することなく生きぬいた人間の光栄がある。

 ひろ子はただひたすら重吉において生きた。人間的社会的な自由が奪われ、<くらがりの中>で生きることを強いられた日々を、夫婦の結びつきを唯一の支えにして生きた点で、それは「妻よねむれ」と共通なものがある。しかしひろ子は重吉によって時代の荒波
からわが身を守り、日本の未来と結びついた。その意味でこの二人の愛は、直の場合や、日本の幾百千万の妻たちの場合と区別される。彼等は時代に翻弄され、わずかに身を寄せあうことで辛うじて息をついた。「妻よねむれ」に直が書いているように、それは<くらやみの中を四つんばいするようなくらし>であり、<からだとからだをゆわえつけ、手足でしょびきあわねばおし倒されるようなくらし>だった。

 百合子はしかし夫や恋人を軍隊にとられた幾百千万の日本の妻たち恋人たちの痛みと苦しみを、わが身の痛苦と重ねあわせてとらえている。軍隊と刑務所-同じ国家権力に夫を奪われたという点で、ひろ子は自分の苦しみを日本の女たちの心に結びっけた。同じように夫を奪われた女として、妻として、しかし現実におし流されることなく生きたひとりの人間として、その人間精神の高みにおいて、百合子は数知れぬ目本の女たちの苦しみと悲しみを思いやり、はげまし力づけようとしている。このような眼で百合子は混乱する日本の現実を見渡し、理解し、同情をもって描き出している。

 山口県の夫の実家へ赴くひろ子の眼を通して、百合子は車中の混乱を描き、車窓に展開する廃墟と化した日本の姿を描いた。人々の心を結びっけるものが失われ、目前の小さな利害のために人々はばらばらになってしまっている。車中であった片脚の傷痍軍人はこれからの生活に不安を抱き、自分自身を見失ってしまっている。百合子は戦争が破壊したのは町々や家財などではなくて、実に人間の心であり生活なのだということを力をこめて書いている。一家の中心を失った重吉の実家の生活は干潟のように乾ききってしまい、いいようもなく<破産>してしまっていた。<剛毅を。剛毅を。ひろ子はそれが湧き出づる清水ならば、手に掬って、その人の口から注ぎこみたいやうに感じた。>片脚の傷痍軍人についていわれたこの言葉は、自信を失い、精神の支えを失い、感情を破産させて、右往左往する荒廃した日本人のすべてに向けていわれたのであったろう。

 百合子は敗戦日本の混乱と破産の姿をのみ描いたのではない。たとえば燈火管制の遮光笠を明るくするための笠に作りかえた友人の工夫を、戦争の遺物を新しい戦後の出発のためにつくりかえる積極的な努力として、好感をもって描いている。また若いさわ子の生活に<廃墟の堆積物の間から咲き出てゐる一本のたんぽぽのやうな風情>を感じ、<伸びようとする一筋の抑へがたいもの>を見ている。作中くりかえして出て来る朝鮮人の姿には、独立の喜びと明日への希望があふれ出ている。そしてひろ子は敗戦の象徴のような洪水の山陽道を、鉄道が寸断されたために、一歩一歩あるいて行く。目の悪い男と足の弱い女が助けあって歩いて行く姿を百合子は、敗戦において、それはまさに解放なのであった。個人の個人としての感情が、そのまま歴史的であり得たところに、暗い時代を屈することなく生きぬいた人間の光栄がある。

 ひろ子はただひたすら重吉において生きた。人間的社会的な自由が奪われ、<くらがりの中>で生きることを強いられた日々を、夫婦の結びつきを唯一の支えにして生きた点で、それは「妻よねむれ」と共通なものがある。しかしひろ子は重吉によって時代の荒波
からわが身を守り、日本の未来と結びついた。その意味でこの二人の愛は、直の場合や、日本の幾百千万の妻たちの場合と区別される。彼等は時代に翻弄され、わずかに身を寄せあうことで辛うじて息をついた。「妻よねむれ」に直が書いているように、それは<くらやみの中を四つんばいするようなくらし>であり、<からだとからだをゆわえつけ、手足でしょびきあわねばおし倒されるようなくらし>だった。

 百合子はしかし夫や恋人を軍隊にとられた幾百千万の日本の妻たち恋人たちの痛みと苦しみを、わが身の痛苦と重ねあわせてとらえている。軍隊と刑務所-同じ国家権力に夫を奪われたという点で、ひろ子は自分の苦しみを日本の女たちの心に結びっけた。同じように夫を奪われた女として、妻として、しかし現実におし流されることなく生きたひとりの人間として、その人間精神の高みにおいて、百合子は数知れぬ目本の女たちの苦しみと悲しみを思いやり、はげまし力づけようとしている。このような眼で百合子は混乱する日本の現実を見渡し、理解し、同情をもって描き出している。

 山口県の夫の実家へ赴くひろ子の眼を通して、百合子は車中の混乱を描き、車窓に展開する廃墟と化した日本の姿を描いた。人々の心を結びっけるものが失われ、目前の小さな利害のために人々はばらばらになってしまっている。車中であった片脚の傷痍軍人はこれからの生活に不安を抱き、自分自身を見失ってしまっている。百合子は戦争が破壊したのは町々や家財などではなくて、実に人間の心であり生活なのだということを力をこめて書いている。一家の中心を失った重吉の実家の生活は干潟のように乾ききってしまい、いいようもなく<破産>してしまっていた。<剛毅を。剛毅を。ひろ子はそれが湧き出づる清水ならば、手に掬って、その人の口から注ぎこみたいやうに感じた。>片脚の傷痍軍人についていわれたこの言葉は、自信を失い、精神の支えを失い、感情を破産させて、右往左往する荒廃した日本人のすべてに向けていわれたのであったろう。

 百合子は敗戦日本の混乱と破産の姿をのみ描いたのではない。たとえば燈火管制の遮光笠を明るくするための笠に作りかえた友人の工夫を、戦争の遺物を新しい戦後の出発のためにつくりかえる積極的な努力として、好感をもって描いている。また若いさわ子の生活に<廃墟の堆積物の間から咲き出てゐる一本のたんぽぽのやうな風情>を感じ、<伸びようとする一筋の抑へがたいもの>を見ている。作中くりかえして出て来る朝鮮人の姿には、独立の喜びと明日への希望があふれ出ている。そしてひろ子は敗戦の象徴のような洪水の山陽道を、鉄道が寸断されたために、一歩一歩あるいて行く。目の悪い男と足の弱い女が助けあって歩いて行く姿を百合子は、敗戦日本の廃墟と混乱の現実をくぐりぬけて、新しく出発する戦後の運動の端緒を象徴するものとして描いている。そこには苦しみと困難がある。しかしその中を一歩一歩あるいてゆくことによって、確実に解放の喜びに結びっくのである。

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 たしかに敗戦は一面において解放であった。百合子は「風知草」に、出獄の同志たちを中心に新しい運動がはじまってゆく姿を、深い感動をもって描き出している。紙に書いてはり出された「赤旗編輯局」という五文字をひろ子はくりかえしくりかえし心に反覆する。それは<これまで日本ではただの一遍も通行人に読まれたことのない表札>なのである。真新しい感動を覚えるひとつひとつの経験は、暗い過去の記憶をよび起さずにはいない。そしてその過去の記憶が戦後の新しい現実に対する感動をいっそう深く新鮮なものにするのである。

 しかしこの解放をもたらしたのは<海をこえてさしてきた光>であって、日本国民が自力で解放したのではない。それは敗戦であって、決して単純に解放であったわけではない。日本は完全に占領軍の支配下にあり、新聞・雑誌・放送等の言論や、映画・演劇にいたるまで、いっさいが占領軍の検閲統制を受けた。もちろんそれは政治犯を釈放し、治安維持法を撤廃した。そして天皇制国家権力を崩壊せしめた。しかし同時にそれは新しい占領行政のはじまりであった。たとえば原爆の被害について、都市爆撃の非人間性について、戦争裁判の偽善性について、そしてまた占領下に生きる国民の苦しみついて、書くことも表現することも出来なかった。占領政策の批判はおろか、占領軍将兵の個々の暴行をさえもあきらかにすることができなかった。

 「妻よねむれ」は戦争末期の混乱を書き、八月九日のソ連参戦は日付までいれて記しているが、原爆投下についてはひとこともふれていない。「播州平野」でひろ子が夫の実家まで、あの敗戦直後の混乱の中をかけつけたのは、夫の弟直次が広島で原爆のために行方不明になったからである。しかし「播州平野」には<広島の未曾有の爆撃>という言葉が出て来るだけで、原子爆弾のことは言葉としてさえ出て来ない。ましてその被害のなまなましい描写など全然でてこない。夫をさがしてあちこち歩きまわるつや子は、まるで普通の行方不明人をさがして歩きまわっているような印象をしか与えないのである。

 百合子はまたアメリカおよびアメリカ人にっいては、原子爆弾について書くのを避けたのと同様に、極力ふれることを避けている。当時は日本共産党も占領軍を解放軍として歓迎したのだし、「妻よねむれ」に見られるように、アメリカ人の明るさや、その民主主義を讃美するのが一般的風潮だったのだから、百合子の態度はこのような傾向に対する批判もしくは抵抗を示すものであったかも知れない。しかし諸都市を爆撃したのも原爆を落したのもアメリカだが、重吉たちを解放したのも占領軍である。占領軍や占領政策にふれずに「風知草」や「播州平野」の主題を展開することは不自然であった。またそれは敗戦日本の現実、敗戦と解放の矛盾を含んだ関係をリアリスティックに追及することを不可能にした。

すなわち戦争は終り、治安維持法は撤廃され、特高や検事局思想部は廃止され、そして刑務所の扉が聞かれて、共産主義者その他の政治犯は釈放された。このように何によってということがいっさい省略された結果、重吉たち共産主義者はその正しさのためにひとりでに解放されたかのような印象をあたえる。その結果、占領軍によって解放されたことから生ずる矛盾や、自力で解放を実現し得なかった日本国民の問題、重吉やひろ子たちを含めた共産主義者がどうして敗北せねばならなかったかについての自己検討等は、いっさい追及されないですんでしまっている。

 占領軍の問題を消去することによって、重吉たち非転向の共産主義者は絶対化された。悪いのは戦争であり天皇制国家権力であった。それが崩壊した戦後の日本においては、そのもっとも激しい弾圧に屈することなく戦い続けた非転向の共産主義者は、唯一の正しい勢力として光り輝くのである。しかしその正しさは、日本の現実、民衆の生活からきり離され、牢獄にとじこめられて辛うじて守り得た正しさであった。思想として信念としての精神的な正しさであり、現実的な力としての正しさではなかった。それは現実にふれ、民衆の中に生き、そのことによって自らを豊富にすることができず、その反対に民衆にそむかれ、現実から疎外されて、孤立にたえて守りぬかれたのである。それは矛盾である。しかし避け得ぬ矛盾である。けれども百合子はこの矛盾を矛盾として追及するのでなく、それを絶対の正しさとして、自分自身をひたすらそれに結びつけようとした。

 百合子はその正しさの高みにたち、日本の現実を遠く広く見渡し、その苦しみを大きな歴史の流れに位置づけて描き出している。そこに「播州平野」の大きな特微かあるが、しかしその反面、このような混乱の渦の中でもがき苦しむ日本人の生活の内部に深くはいり、敗戦の現実をその内部から描き出すことはできなかった。この作品の主人公であるひろ子は、日本の現実に生きるものとしては生きていない。ひたすら重吉において生き、重吉にむかって生きているのであって、他に対しては客人として、旅行者として接しているにすぎない。なるほど彼女は敏感に反応し、理解し、同情し、積極的なはげましの言葉をかける。しかしそこには具体的で現実的な生きた人間同士の関係はない。あらゆる具体的なできごとは常に全般的な考察と展望の中に解消されてしまう。人々は理解と同情と考察の対象であるにとどまり、ひろ子と同一の平面に対等の主体としてたち、全人間的存在として生きた関係をもつということは決してないのである。ひろ子から人々に働きかけることはあっても、人々からひろ子に働きかけることはなかった。ひろ子は戦後の現実に傷つき苦しみ、また傷つけあい苦しめあうその生活のひとつひとつの体験を通して自分の思想を形成し、真実の生活を探り求めようとしているのではない。真実の生活は重吉においてすでに保持されており、その重吉にたどりつくことこそ問題なのである。

 徳永直は百合子と反対に転向者として泥にまみれて生きた。直は6 自分自身の暗い過去をほり返すところから出発しなければならなかった。しかし直の場合も戦後の解放が自力でなしとげられなかったことについての鋭い自己検討はされていない。自身の過去を語るのは、戦争の日々がいかに暗かったかを語るためであり、それによって自分を戦争の犠牲者として描き出しているのである。たしかにそれは一面において真実であったが、しかしそのようにして自分の過去を徹底して追及することを避け、自分を卑屈で、臆病で、意気地なしであったと全面的に否定し去るのは、責任を回避する擬態めいたものを感じさせる。それは戦争と天皇制国家権力を絶対化するものであり、そのことによって占領軍と非転向の共産主義者を絶対化するものである。転向した自分白身をも含めて、敗北した戦前の運動を徹底して追及するところから、日本の大地に根ざした運動のよみがえりを発見するのでなければ、一種の精算主義となって真実の再発足とはなり得ないであろう。それが転向という苦い体験をしたものが、新しくその体験を生かして運動に参加じてゆく道である筈だった。そうでなくて、自身の転向をひたすら時代のせいにし、また自分の臆病とか卑怯とかいうもののせいにするならば、結局かつてはひどい時代だったから駄目だったが、今度は天皇制国家権力がアメリカによって打倒されたから何とかやれるだろうということになってしまう。それは敗戦と被占領の現実を美化し、ひたすら占領軍に頼って解放を実現しようとする倒錯に陥ることをまぬがれない。
   「妻よねむれ」においても、戦争の日々の暗黒と戦後の光明が対置されている。そして非転向の共産主義者を絶対化し、それと結びつくことによって、自分自身の過去から脱出しようとし、解放の夢と願いと決意を語ることによって、自分自身の現実と戦後に生きる民衆の現実をとびこえている。かつてプロレタリア文学の政治主義や観念的傾向を痛烈に批判して、民衆の生活の現実をその内部から描き出すリアリズムの徹底を主張した直であるのに、新しく開けた解放の可能性に目がくらみ、おのれの主体を深く検討するいとまもなしにかけだしたのである。もちろんこれは直だけの問題ではない。占領軍を解放軍として迎えた日本の解放運動全体の問題であり、敗戦日本の一般的光景だったのである。

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 「妻よねむれ」や「播州平野」は、作者の暗い時代を生きた切実な体験と、敗戦を迎えてそこに新しい明日を思うあつい心に支えられて、それぞれにすぐれた文学的リアリティを獲得している。しかしそこに実現せられた文学的リアリティは私小説的なものであることをまぬがれなかった。敗戦日本が直面しなければならなかったいいようもない困難と不幸、その国民の現実は十分に追及され得たとはいいがたい。戦後の文学を検討しようとするときは、これらの作品が、個人的真実に支えられてはいるけれど、結局主観的であることをまぬがれなかった希望やよろこびのために素通りしてしまった問題の追及からはじめる必要がある。

 敗戦が一面において解放であった事実を否定することはできないであろう。しかし国は敗れ、外国軍隊に占領され、数知れぬ戦死者、未帰還者があって、町々は廃墟と化し、国民は飢えに苦しんでいるとき、突如として日本には敗戦を讃美し、占領下の民主主義を謳歌する予言者や指導者が氾濫した。新聞や雑誌は昨日までとうってかわってこれらの人々の論説で埋められた。彼等はいずれも戦争に反対し、抵抗を続け、戦時下にあっても自己の真実を守りぬいたと主張した。しかしそれほどすぐれた戦士たちが数知れずいたのならば、何故日本はあのような戦争で破滅しなければならなかったのであろうか。必要なのは自己主張であるよりも、自己批判や自己検討であった。それを通してのみ日本の再生は可能であった。もしも自身の無力と敗北を自覚せず、徒らに自己の正当化に熱中し、あたかも勝利者のようにふるまうならば、その真理と光明にみちた議論は、ついに空語であることをまぬがれない。それは敗北を勝利にすりかえる阿Q的英雄の氾濫であったというべきである。

 彼等は戦争と軍国主義を糾弾し、戦争責任を追及する。しかしそれは戦争がすでに終り、軍国主義が打倒されているからである。それは<冬の花火>のように<ばからしく間がぬけて>いはしないだろうか。しかし彼等は大真面目で<悲痛な決意>を示したりなどしているのである。太宰治は本当の自分自身というものを見つめることなく、いたずらに指導者ぶって、<肩をそびやかして、何やら演説してことさらに気勢を示している人たち>の偽善に反撥するところから戦後の文学的出発を行っている。<大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。>と「冬の花火」(昭21.6「展望」の女主人公はいうのである。

 「パンドラの匝」の詩人は、時の政権に反対して山にかくれた中国の自由思想家について語っている。十年たって世の中が変り、彼は山から出て来て昔の思想を説くが、そのときはもうそれは<陳腐な便乗思想>になっていたのである。自由思想は時の権力に対するたたかいの中にその真実があり、それは決して固定した内容のものではあり得ない。<その主張は日々にあらたに、またあらたでなければならぬ。日本に於て今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。>と彼はいう。「冬の花火」は<……日本の国は隅から隅まで占領されて、あたしたちはひとり残らず捕虜なのに、それをまあ恥しいとも思はずに……>という女主人公の言葉からはじまっている。治は被占領の敗戦国という現実を直視することを求めたのである。<新現実。まったく新しい現実。ああこれをもっともっと高く強く言ひたい!>と治はいう。<そこから逃げ出しては駄目である。ごまかしてはいけない。容易ならぬ苦悩である。>(「十五年間」)十年前に覚えた定義を暗記しているだけで<新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めよう>としてはならぬ。それでこの<容易ならぬ苦悩>をすりぬけ、ごまかして指導者ぶってはならない。

 <自分を駄目だと思ひ得る人はそれだけでも既に尊敬するに足る人物である。>と「十五年間」(昭21.4「文化展望」)に治は述べている。<もっと気弱くなれ!偉いのはお前ぢゃないんだ!学問なんて、そんなものは捨てちまえ。おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければどうにもこうにもなりやしない。>治が求めたのは自己革命であった。そこから出発するものでなければ、いかなる議論も言葉だけで生命のない<サロン思想>に終ってしまう。立派な言葉が横行すればするほど、日本の文化は堕落するのである。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義も<発明された当初の真実を失ひ、まるでこの世界の新現実と、遊離して空転してゐるやうにしか思はれない>と治はいう。

 治にとって八・一五はそのような自己革命の契機でなければならなかった。それはたんに敗北ではなくて、旧き日本と旧きおのれの滅亡であり、同時にその新生でなければならなかった。「パンドラの函」の主人公は世界が崩壊し、すべてが失われ、過去の一切がほ
ろびてしまうのを感じ、そのことによって自分がすべてから解放され、新しく生まれかわるのを感じるのである。

 「パンドラの函」は昭和二十年十月から十二月にかけて「河北新報」に連載された。それは戦争直後、多くの作家が未だ動揺と混乱に自分自身を見失っていた時期に書き続けられたのである。治はその動揺と混乱そのものの中に新しい生のはじまりを見出そうとして
いる。<古い気取りはよさうぢやないか。それはもうたいてい、ウソなのだから。>敗戦の日本に生きる肺結核の青年を描きながら、この作品は不思議な明るさと希望をたたえている。それは暗黒そのものを生きる人間の明るさであり、絶望の彼方に見出された希望で
ある。治はこの作品において「かるみ」の世界を描き出している。それはすべての囚われからの解放である。<すべてを失ひ、すべてを得たものの平安こそ、その「かるみ」>なのだと治は書いている。<命を羽のやうに軽いものだ>と思い、そのようなものとして、刻々の命を愛するのである。

 自分白身の無力と無意味を知り、虚無と暗黒を見つめるものだけが、そのような人間のささやかな生活を愛し得るであろう。そうしてはじめてその隣人を愛することができる。また自分の罪を自党するものにして、はじめて他をゆるすことができる。このような愛と
ゆるしの土台の上に立つのでなければ、いかなる主義も思想もニセモノであることをまぬがれない。治は敗戦がそのような自覚の契機となり、その自覚の上に新しい人間的な愛と連帯の世界が形成されるのを夢みたのである。

 治は敗戦ののがれることのできない不幸や苦しみや悲しみや等々から出発しようとした。その絶望と暗黒は太宰文学の前提である。それは既成秩序や時の権力への反抗ではあるが、新しい未来の展望を拒否するものなのであった。崩壊そのもの、破滅そのものが美化され、憧憬され、そこにのみかすかにある生命のよみがえりが期待された。治のロマンチシズムは、敗戦日本の悲劇を一身に担う不幸と悲しみの象徴として、天皇を観念的に美化し、絶対化している。治はそこに十字架にかかったキリストを見たのである。

 「十五年間」の末尾には「パンドラの函」の一節を若于訂正してかなり長く引用している。<真の勇気ある自由思想家なら、今こそ何を措いても叫ばねばならぬ事がある。天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違ふとはこの事だ。……>それは敗戦と被占領の日本の不幸と悲しみにふれることなく、敗戦によって復活し、占領下の民主主義を讃美し、何々主義だとか何々思想だとか、十年以上も昔の思想をそのままくりかえしているいわゆる「文化人」なるものに対する抗議であった。

 治は「パンドラの函」において、あらゆる不幸と苦難と災厄の彼方、暗黒と絶望の彼方に、それらをくぐりぬけてはじめて得られるほのかな希望を探り求めたのであるが、戦後の日本の現実はそのような希望をうち砕く勢で進行した。あまりにも正人君子が多すぎたのである。自分の正しさを主張して、他人を責め、未来の光明を約束する「文化人」が横行した、誰ひとりとして自己の責任を追及するところから出発しようとはしなかった。もとよりそうした人々は沈黙を守り、自分の内部を見つめ続けるしかなかったのであろう。

 治は「十五年間」に<「余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり」などと、戦争がすんだら急に、東条の悪口を言ひ、戦争責任云々と騒ぎまはるやうな新型便乗主義>について書き、<いまではもう、社会主義思想さへ、サロン思想に堕落してゐる。私はこの時流にもついて行けない。>と述べている。

 占領下の言論・思想・結社の自由を謳歌して、はなばなしい言葉が乱れ飛んだが、そこにはついに日本の真の現実、そのいいようもない不幸と悲しみ、その<容易ならぬ苦悩>にふれ、そこから生み出された新しい思想は見出し得なかった。それらは結局ふるい思想の復活であり、<この世界の新現実と遊離して空転してゐる>言葉だけの<サロン思想>の氾濫であった。<私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめたいもの、それをいまの日本の[新文化]は素通りして走りさうな気がしてならない。>と治はいう。古い時代は終ってはいない。未だほんとうの新しい時代ははじまってはいないのだ。<私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言はせてくれ。>と「十五年間」におのれの過去をかえりみていう治は、戦後の日本に<サロン思想>の復活氾濫を見て<またもやヤケ酒を飲みたくなって来>るのをおさえることができなかった。

 この十何年が<実に悪い時代だった>とするならば、そのことに<サロン思想>でしかあり得なかった思想の頽廃は責任がある。もちろんその責任を感じ得ぬところに<サロン思想>の<サロン思想>たる所以があるわけだが、そのような旧思想の復活は、戦前にもましていっそうひどい頽廃を日本にもたらすばかりであると思われた。<こんな具合ぢや仕様が無い。また十何年か前のフネノフネ時代にかへったんでは意味が無い。戦争時代がまだよかったなんて事になると、みじめなものだ。うっかりすると、さうなりますよ。どさくさまぎれに一まうけなんて事は、もうこれからは、よすんだね。なんにもならんぢやないか。>という「十五年間」のこの予言は、今日からかえりみて全く見当外れだったと言い得るだろうか。
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 太宰治にとって、敗戦は古きもの一切の敗滅でなければならなかった。人はおのれの自負や気どりや欲望や、すべてを捨て去ることによって新しくよみがえらなければならなかった。<すべてを失い、すべてを得たものの平安>こそ、治の求めた新しい時代の新しい生き方であった。「ヴイヨンの妻」や「斜陽」の女人公たちは、そのような新しい人間の誕生として描かれたのである。しかしそれらは結局作者のロマンチックな夢の投影であるにとどまって、戦後の現実を力強く生きて行く逞しさと現実性をもたなかった。作者は生きる姿勢のようなもの、タッチのようなものは示しても、そのような生を具体的な内容と構造をもって示すことは出来なかった。それは治の思想的なたたかいが観念的な反逆にとどまり、現代に対する逆説的な問題提起ではあり得ても、現代そのものを領略する構造的な認識と思想をおのれの内部に形成することができなかったからである。所詮治は反逆から反逆へと、枕するところもなしに彷徨して、現実を破壊するかわりに、自分自身を破滅させるしかなかった。

 「冬の花火」の女主人公は新芸術が<新現実を描かねばならぬ>とするならば、描かれるべきものは、上野駅の浮浪者の群であり、広島の焼跡であり、または<東京の私たちの頭上に降って来たあの美しい焔の雨>であるという。それらはすべてを失って新しく生きかえるよりほかに生きようのない敗戦日本の象徴であるが、それはまた戦後の被占領の日本において、徹底して追及することが避けられた主題なのであった。とりわけ<広島の焼跡>こそは、ただたんに敗戦日本の象徴であるだけでなく、現代そのものの矛盾の象徴であった。それは現代の十字架であり、そこからまさに人類の新しい時代がはじまったのである。人間は生まれ変らなければならなかった。もしそうでなければ人類の破滅はまぬがれることができない。しかしそのような生まれかわりは未だ実現せず、むしろ人類はさまざまな主義や思想を唱えつつ、その破滅への道をひたすらに、踊りつつ、笑いつつ、歩き続けているのではないか。そうであるならば戦争直後において治の提出した問題は、たとえそれが観念的であり、自己破壊を必至とするようなものであったとしても、今日なおいっそう切実な意味をもって迫って来ないではいない。

 「播州平野」がまさに原爆をとりあげなければならぬところでそれを避けなければならなかったことの意味を追及する必要がある。それを避けたところで、またはそれを避けねばならぬことの問題性を深刻に追及することのないところで展開された民主主義文化は、やはりその土台の脆弱性のために崩壊せざるを得なかった。治はその問題を観念的にしか提出することができなかった。しかし大田洋子や原民喜など、直接それを体験しなければならなかった作家にとっては、そこから出発し、それと現実的に対決し、それをつきぬけるのでなければ、どのような生き方も、作家としてのあり方もあり得ないのであった。日本の敗戦のごまかしようのない現実を、彼等は生き、そこから出発することによって、戦後の文学が追及しなければならぬ避け得ぬ問題を、くらべようもなくなまなましい具体性と現実性をもって提起したのである。これらの作家にとって、戦後の日本の被占領の現実と、そこに実現された民主主義的解放の虚偽性は、まさに人間として死に、作家として死ぬことを強要する業苦の日々を意味していた。

 「夏の花」の作者は、原爆にあって死をくぐりぬけたときの感動を、<今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた>と書いている。その時はまだこの空襲の真相を殆ど知っていなかったにもかかわらず、<このことを書きのこさねばならない>と心に呟いたのである。その激烈で異様な体験は、その意味もわからぬままに、作家の作家としての魂をよびおこさずにはいなかった。「屍の街」の作者は<涙をふり落しながら、その人々の形を心に書きとめ>ようと、この理解することのできぬ悲惨な現実をじっと見つめている。それを書くのは<これを見た作家の責任だ>と考えるのである。

 しかしそれは決して単に<責任>などというものではなかった。それを書くことなしにはもはや作家であることができなかった。そこには文学上の困難があり、人間としての困難があり、被占領の現実という困難があった。それらはもはやその作品化を不可能とするばかりか、生きてゆくこと自身を不可能にするような困難であった。しかしそこから逃げだすこともごまかすことも出来なかった。ほかの作品を書こうとすると、<私の中に烙印となっている郷里広島の幻が、他の作品のイメージを払いのけてしまうのだった。>と、大田洋子は昭和二十五年冬芽書房刊の「屍の街」の序文に書いている。

 洋子は<一九四五年の八月から十一月にかけて、生と死の紙一重のあいだにおり、いつ死の方に引き摺って行かれるかわからぬ瞬間を生きて「屍の街」を書いた>のである。寄寓先の家や村の知人に、障子からはがした茶色にすすけた障子紙や、ちり紙や、三本の鉛筆などをもらって、<背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから死にたい>と思いつめて書きつづったものだという。しかしこの「屍の街」は<個人的でない不幸な事情に戦後も出版することができなかった>と作者はその序文に記している。原子爆弾に関するものは科学的な記事以外発表できないというのであった。昭和二十三年十一月に発表されたときには、かなり多くの枚数が<自発的に>削除され、<影のうすい間のぬけたもの>にならざるを得なかった。<発表できないことも、敗戦国の作家の背負わなくてはならない運命的なものであった>と作者はいう。しかしそれがどのように残酷な、作家としてだけでなく、人間としても作者を破滅させるようなものであったかは、神経症で入院しなければならなかったときのことを書いた「半人間」その他で追求されている。

 <私は人口四十万の都市が、戦火によって、しかも一瞬に滅亡する様をはじめて見た。その戦火が、原子爆弾という、驚くべき未知の謎をふくんだ物質によってなされた事実をも、そのときはじめて知った。原子爆弾症の凄惨さも、人間の肉体を、生きたまま壊し崩す強大で深いものとして、始めて見るものであった。>(傍点引用者)作者は原爆の体験を<何もかもが生れてはじめて見なくてはならなかったものであり、それを見なくてはならなかったこと自体、悲惨であった>という。未だかつて経験したこともなければ、想像することさえできなかった異様な事態に突如としてつきおとされた。もはやどんなことが起ろうとも不思議とは思われなかった。それはすでに人間の次元を超えた体験だったのである。

 <気がついたとき、私は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやり佇んでいた。ひどくぼんやりして、ばかのように立っていた。><なぜ生きているのだろう。ふしぎであり、どこかに死んだ私が倒れていないかと、ぼんやりした気持であたりを見たりした。>「屍の街」はその瞬間をこのように書いている。それはもう戦争ではなかった。「私」はもしかしたらこれは世界の終るときに起る地球の崩壊なのかも知れぬと、ぼんやり思ったりしたのである。

 <あたりは静かにしんとしていた>と作者は書いている。新聞では<一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した>などと書いたが、これは既成観念で書いたので、<じっさいは人も草木も一度に死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった>という。日頃は慾深な人たちも、持てるものも見捨てて出ていった。それは<心をうしなっている>状態だったからだと作者は書いている。<このしびれたようなうつろさは、その後もながく、三十日も四十日も経ってからも、ほとんど変りなかった>という。<私どもは壊滅した町を歩いても、なんの感じもまだ起らなかった。あたりまえのとき、あたりまえのことが起きたように、びっくりもせず、泣きもせず、だから別に急ぎもしないで、人々のうしろから近くの土手へあがった。> それは戦争を体験して、生と死の間をくぐりぬけた人に共通する一種の虚脱状態の極限的なものであったというべきであろうか。太宰治は「パンドラの函」に<程度の差はあるが、今の女のひとの顔には皆一様に、マア坊みたいな無欲な透明の美しさがあらわれているように思われた>と書き、<戦争の苦悩を通過した新しい「女らしさ」だ>といっている。<すべてを失い、すべてを得たものの平安>こそ彼等のものであった。ここではもう<悲痛な決意>などなんの役にもたたず、ウソにきまっていた。<へんに大袈裟な身振のものや、深刻めかしたものは、もう古くてわかりきって>いて、この未曾有の新現実に対してはナンセンスであった。広島の現実を直視するならば<主義なんて問題ぢやないんです。そんなものでごまかそうたって、駄目です>等々という「パンドラの函」の言葉がいかに重大な問題を提起しているかは明かである。

 「屍の街」もまた廃墟からの出発、虚無と自己喪失からの新しい人間的よみがえりを追及している。三日の間、廃墟を彷徨し、河原や墓地に夜をすごしたあと、やっと仮りの宿りにおちついた作者たちは、<よく、でもまあ、生きていたわいのう。死んでしもうても、私は不思議とも思わんに>などと、まじめな顔をしていいあっている。その異常なこの世のものとも思えぬ体験から、しかし<私は深深とした人生の影を新しく汲みとった思いである>と作者は述べている。<河原で多くの死体と起き伏したその一つのことでさえも>作者にとって何にくらべることもできぬ大きな教えを永久に残すものと思われた。この経験のあとでは家の中の人間の生活が拘束の多い不自由なものと感じられるようになったのである。今まで当り前と思っていたものが何ひとつ当り前ではないのであった。<どのようにしてでも生きることは出来るという希望のような明るさが、私の胸を去来しはじめた>というとき、それは明かに決定的な人間革命のはじまりを語っているのである。それは生活についてのこれまでの固定的な観念を打ち破り、これまでの生活は、<持ちすぎてその圧力に押しつけられて、精神までも俗悪化されていたのだった>と反省するにいたっている。それはまさに新しい人間の誕生であった。

「屍の街」の作者は彼女が体験した現実が、いかに作品化しがたいものであるかを語っている。それは彼女にはじめての体験である だけでなく、人類にはじめての体験であった。それは<小説を書くものの文字の既成概念をもっては描くことの不可能ない体験であ
り、<先ず描写の言葉を創らなくては、到底真実は描き出せなかったのである。しかし作者はそれ故に書かねばならなかった。書か ずにはいられなかった。ここに新しい作家、新しい文学の誕生がある。作者はこの決定的な潰滅の体験をただ呪ってばかりいるのではない。<私のうちに作家魂の焔が燃えて来るのを感じはじめて幸福 である。長い冬傀りに虐げられて来たもののみが感得する、あの劇しい感動が私をゆり動かす。>と作者は書いている。作者はこの体験をくぐりぬけることによって、自分自身だけでなく日本全体が新しいよみがえりを実現することを期待している。<日本の土と人間は、日本のものであって誰のものともなり得ない>ことをこの絶滅の体験をくぐりぬけてあらためて深く切実に思い、<日本の土と人間の復活、というよりも旧い皮膚の剥奪によって新しい人間像を創り出す>ことを求めてやまないのである。作者における作家魂の燃焼はこの期待に結びついている。

 大田洋子にかぎらず、原民喜にしても、その原爆の体験を、思い出すことの苦痛に耐えて、くりかえしくりかえし追求せずにはいられなかったのは、それが彼等の生存と認識の原点となり、それときりはなしては人間について、生存について、なにひとつ考えること
ができなかったからである。あらゆる現実の向う側に、彼等はそれを見ないではいられない。それはすでに爆発したのであり、彼等はそれを体験した。それはすでに現代における人間の生存の条件となっている。彼等の体験は~本人全体の体験、人類全体の体験なのであった。彼等は自身の体験を全人類の体験たらしめ、そのことによって人類のよみがえりを実現しようとした。しかしその努力は空しかった。彼等はその体験の故に、かえって自分たちが異常な人間として、一般の生活から疎外されるのを感じなければならなかった。世界はあたかもその体験がなかったかのように、頽廃と殺戮と破滅の道を歩いた。朝鮮戦争が勃発したとき、原民喜は自殺し、大田洋子は神経症が悪化して入院しなければならなかったのである。

 敗戦も原爆も遠くなった。その記憶は日に日にうすれ、太宰治が危惧したように、戦前のフネノフネ時代以上の空しい類廃の時代に逆もどりしてしまった。ヴェトナムでは空前の大殺戮が正義と人道の名において展開され、世界を何度も廃墟と化し得るだけの水爆が蓄積され、しかもその蓄積は刻々と増大しつつある。そして敗戦や原爆の真実の姿にふれ、そこに人間のよみがえりのモメントを求めた作家たちは、太宰治も原民喜も大田洋子も、絶望のうちに、人間不信と自己不信にさいなまれっつ死んでしまった。しかし彼等がその生命を賭けて書き綴った諸作品は生き残り、今日においてもすこしもふるくなることなく、いっそう切実なひびきで人々によびかけ
ているのである。
                   『日本近代文学』第9集 1968年10月

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