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2011年12月14日 (水)

日露戦争と作家としての出発

日露戦争と作家としての出発
『漱石と天皇制』所収
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         一
 夏目漱石が『吾輩は猫である』「倫敦塔」カーライル博物館」によって、作家としての道を歩きは
じめたのは、日露戦争の最中であった。これらはそれぞれ、『ホトヽギス』『帝国文学』『学鎧』の明
治三十八年一月号に発表されたが、この明治三十八年一月一日に、半年にわたる血なまぐさい攻防の末、やっと旅順のロシア軍が降伏したのである。最新式の近代要塞に対して、日本軍はひたすら肉弾による突撃をくりかえし、屍の山を築いた。この攻城戦による日本車の死傷者は五万九千人に達したという。旅順の城はおちたけれど、実にそれは悲惨な戦であった。国民は連戦連勝を伝える号外にわきたったが、漱石は勝利のよろこびにどよめく国民的熱狂の中で、ますます孤独を深めつつ、『猫』や「倫敦塔」を書き綴り続けていたのである。漱石は勝利のかげに流されたおびただしい血をその暗
い眼でじっと見つめていたのであった。
 戦後まもなく、明治三十九年一月の『帝国文学』に発表された「趣味の遺伝」に、私たちは日露戦

178 争を漱石がどんな目で見ていたかを読むことができる。そしてそこから、戦争の最中に作家としての道を歩きはじめた漱石の心の秘密を探る手がかりを得ることができる。「陽気の所為で神も気違になる。『人を屠りて餓えたる犬を救へ』と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を憾かして満洲の果迄響き渡った時、日人と露人ははっと応へて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた」「趣味の遺伝」冒頭の言葉である。漱石は戦争を、「狂へる神」の声に応じて「餓えたる犬」が、人間の血をすすり肉をかみ、骨をしゃぶる残酷のきわみとして見た。ぼろぼろになって行進する凱旋の兵士たちを目撃した「余」は「戦争はまのあたりに見えぬけれど戦争の結果ー-慥かに結果の一片、然も活動する結果の一片が眸底を掠めて去った時は、此一片に誘はれて満洲の大野を蔽ふ大戦争の光景がありく@と脳裏に描出せられた」という。
 漱石は去年の十一月、旅順で戦死した浩さんのことを書いている。「二十六日は風の強く吹く日であつたさうだ。遼東の大野を吹きめぐつて、黒い日を海に吹き落さうとする野分の中に、松樹山の突撃は予定の如く行はれた」この遼東の大野を吹きめぐり「黒い日」を海に吹き落とそうとする「野
分」は、ちょうどそのころ『猫』を書き、「倫敦塔」を書いていた漱石の心をもはげしく吹いていたのである。
 浩さんは日の丸の旗をふって突撃し、敵の塹壕にとびこんで、二度とそこから出て来なかった。
「石を置いた沢庵の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者」の姿を漱石はまざまざと思いうかべ、「いくら上がり度くても、手足が利かなくては上がれぬ。……血が通はなくつても、脳味噌が潰れても、肩が飛んでも身体が棒の様に鯱張っても上がる事は出来ん」と書いている。
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 「広場を包む万歳の声は此時四方から大濤の岸に崩れる様な勢で余の鼓膜に響き渡った」漱石は凱旋を祝う歓呼の大波の中で、ひたすら悲惨な死を死んだ死者たちの生きる暗黒の世界を見つめた。
 「高々として御玉杓子の如く動いて居たものは突然と此底のない坑のうちに落ちて、浮世の表面から闇の裡に消えて仕舞った」のである。「余」は生まれてから一度も万歳を唱えたことがないという。万歳を唱えようとすると、「小石で気管を塞がれた様でどうしても万歳が咽喉笛へこびり付いたぎり動かない」のである。しかし今日は万歳を唱えてやろうと思っていたのに、戦塵にやつれはてた将軍の姿を見た瞬間、万歳の声はぴたりととまってしまった。ここには万歳に湧き立つ国民的熱狂の中で、戦争の痛み、その暗黒を見つめて、孤独を深める漱石がいる。漱石の心は歓呼の嵐の中でますま
す暗く寒かった。
 「寒い日が旅順の海に落ちて、寒い霜が旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して二十の砲砦が悉く日本の手に帰しても上る事は出来ん。日露の講和が成就して乃木将軍が目出度く凱旋しても上がる事は出来ん。百年三万六千日乾坤を提げて迎に来ても上がる事は遂に出来ぬ」漱
石は同じ言葉をくり返す。「ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。然し浩さんはまだ坑から上って来ない」この「上がる事は出来ん」のくりかえしのうちに、漱石の無量の思いがこめられている。
 そして漱石は、死んだ浩さんよりもさらに可哀そうなのは、「浮世の風にあたって居る御母さんだ」
という。凱旋を歓迎する国旗は、彼女にとっては悲しみを新たにする以外のものではない。雨が降れば垂れこめて浩さんのことを思い、晴れて表に出ては浩さんの友達にあい、歓迎で国旗を出せば、あ 

180 れが生きていたらと思う。年ごろの娘に親切にされるにつけても、あんな嫁がいたらと思うのである。光り輝く戦勝の日本にあって、漱石はその喜びの渦から自らを遠ざけ、暗い世界をのみ見つめていた。そして戦争とは何か、人間とは何かを改めて自らに問うていた。
 戦争の悲惨な現実こそ、平時はおおいかくされている人間の本質をあばきだし、人間とは何かという問を深刻になげかけるものであった。しかしその問を自覚することもなく、国民は勝利に熱狂し、言論思想界は国民を戦争にかりたてる誇大な言辞、実質のない言辞に充満していた。戦争に人間の暗黒な呪われた宿命と罪業を見る漱石は、この浮薄な一般的状況に対して、はげしい怒りを噴出させないではいられなかった。そこに漱石が国をあげての戦争、曠古の戦争といわれる日露戦争の最中に、『猫』を書き、「倫敦塔」を書き、作家としての道を歩きはじめるに至った所以がある。
『猫』九(明三九こ二)で、苦沙弥が凱旋祝賀会のための義損金募集に、極めて冷淡な態度をとったのは偶然ではない。「猫」六(明三八・一〇)には「大和魂」についての苦沙弥の戯詩が披露されている。「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸が云ふ」「東郷大将が大和魂を有って居る。肴屋の銀さんも大和魂を有って居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」誰もみな口をそろえて大和魂を讃美する時代の風潮に対する漱石の反撥がある。「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云ふ声が聞こえた」漱石は実体のない言葉で国民をあおりたてること、また国民があおりたてられることに抗議したのである。
 大和魂というような言葉や、「猫」九の義損金募集の手紙に見られる「日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて……」とか「曩に宣戦の大詔煥発せらるゝや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異郷に在りて克く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべかざる所なり」とかというような文句を、漱石は極力排斥した。これらは実質のない、言葉だけの言葉であり、むしろ真実を隠蔽し、自己を偽り他を欺く言葉である。戦争の熱狂が生み出すこのような空虚な言語の氾濫に対するたたかいとして、漱石はその作家としての道をふみ出したのである。

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         二
 これはかなり後のことであるが、漱石は、潜航艇の事故のために殉職した佐久間艇長が、事故の経過を書き綴った遺書に感動して、「艇長の遺書と中佐の詩」(明四三・七・二〇)という文章を書いている。中佐というのは旅順港閉塞の作業中戦死して、軍神と崇められた広瀬中佐である。まずいという点からいえばどちらもまずいけれど、佐久間大尉の遺書は刻々と死が迫り、一行書くすら容易でない状態で、どうしても書きのこしておかなければならないと思うことだけを「超凡の努力」をふりしぽって書き綴っている。「平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己広告の脚気」がそこにはない。艇長の声は「いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、最も娑婆気を離れた邪気のない」声であり、「殆んど自然と一致した私の少い声」である。漱石はそれが「人間としての極度の誠実心」から出たもので「其一言一句」は「真の影の如く」「今の世にわが欺かれざるを難有く思ふ」と書いた。
 これに対して中佐は、詩を残す必要もないのに、誰にでも作れる個性のない詩を作った。「彼の様な詩を作るものに限って決して壮烈の挙動を敢てし得ない」と漱石はいう。その内容がいかにも偉そうであり、また偉がっているからである。こんな詩は「単なる自己広告のために作る人が多さうに思


182 はれる」のである。「道義的情操に関する言辞」は、言葉だけではその真実性が保証されず、行為においてその言葉が実現されたときにのみ、その誠実が認められる。従って立派なことえらそうなこと、勇ましいことを並べた詩は、どこか空疎なものを感じさせないではいない。漱石はさらに進んで、自分の如きは「其言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである」と書いた。自己の壮烈と忠誠を誇示する詩の故に、中佐の壮烈な死に対しても、そこに虚偽の匂いを感じないではいなかったのである。
 日露開戦とともにさかんに作られた征露の歌や、戦争を美化し、悲壮感をあおりたて、国民を戦争にかりたてる誇大な言辞の氾濫を漱石は憎んだ。宣戦の布告は明治三十七年二月十目であるが、「太陽」三月号には、はやくも「日露開戦軍歌」(大和田建樹)、「征露宣戦歌」(野口寧斎)、「征露の歌」(井上哲次郎)、「征露軍歌旅順の海戦」(巌谷小波)、「魯西亜征伐の歌」(佐々木信綱)などの広告が出ている。同四月号にはこれらに加えてさらに「征露新軍歌」(久保天随)、「露西亜征伐軍歌」(大町桂月)、「征露軍歌 決死隊」(巌谷小波)、「女子軍歌」(塩井雨江)、「日露戦争 国民唱歌」(佐々木、大和田他)、「軍詩 征露大捷歌」(佐
藤六石)、「伐露楽府 大陸剣歌」(国府犀東)などの広告が出ている。
 これらがどのようなものであったかは、たとえば「太陽」四月号「国民軍歌」(武田千代三郎)の「露西亜伐つべし」と題するものを見ることで知ることができるだろう。「悪むべき 彼れ 露西亜は/我意を募り 信義を棄て 剛慢不遜/蠢戻跳梁侵略掠奪 傍若無人/天人共に 憤り怒る/伐ちて懲らせ 伐ちて懲らせ」「知らざるかなんぢ 知らざるか/無智を啓き之を訓へ 文化を拡め/懲膺凶暴 扶持柔弱 任侠義勇/水火も辞せず 死も恐れざる/大和男子こゝに在り」というようなもの
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である。
 漱石もまた『帝国文学』五月号に「従軍行」を発表し、「太陽」六月号には大塚楠緒子の「進撃の歌」が掲載されている。楠緒子の詩の一節をとって見れば「進めや進め一斉に 一歩も退くな身の耻ぞ/硝煙天地に漲りて 弾丸雨と飛び来とも/大和魂きたへたる 大和男子の名も高く/世界の花と歌はれむ 嗚呼武者振の見せ処/何に恐るゝ事かある 何に臆する事かある/日本男子ぞ嗚呼我は」というのである。漱石はこの詩について、明治三十七年六月三日の野村伝四宛書簡に「大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経の如し女のくせによせばいゝのに、それを思ふと僕の従車行抔はうまいものだ」と書いている。これは勤務先の一高で聞かされた島田三郎の演説について、「僕も駄弁を弄する事は人に負けぬ積りだが斯程迄に駄弁は振り舞はせない」と述べたのに続く言葉である。戦争の時代に戦争を美化し、志気を鼓舞する言辞は、論説にしても、詩歌にしても、型にはまったものにならざるを得ない。漱石はそれを甚だしく嫌ったのである。
 「猫」の原型ともいうべき断片に、漱石は「従軍行」という詩をとりあげている。「抑も敵は讐なれば……油断をするな士官下士官」というのだから、実際に漱石が発表したものとはちがう詩であるが、「先づ是等は進めや進めと敵は幾万の間に麻転んで居て此日や天気晴朗と来ると必ず一瓢を腰に
して滝の川に遊ぶ類の句だね」という批評を下している。これは一面において漱石自身の「従軍行」に対する自己批評であるが、それ以上に当時の戦争詩一般に対する批評であった。
 漱石は「いやに傲慢な人を馬鹿にする男」が「無闇矢鱈に剛慢とか無礼とか色々な形容詞を使って露西亜の悪口をついた」ことについて、「自分で自分の悪口をいって其悪口が当って居るので人に褒
184 められて喜んで居る」のだという。当時の日本に充満していた、敵国ロシアを最大級の形容詞で罵り、日本を美化して悲壮がる言葉、むやみに勇ましいことをいう言葉は、すべて単なる自己の感情を発散する言葉にすぎず、無内容で真実性のないものであった。それは前記の武田千代三郎や大塚楠緒子の詩にあきらかであろう。特にロシアに対する悪罵の言葉は、そのままそのような詩を書くもの自身に帰ってくる。こういう漱石の批判は、単に戦争詩戦争文学のみならず、戦争に熱狂して自己を見うしない、現実を見うしなって、誇大で空虚な言葉に酔っている当時の言論思想界、国民一般の風潮に対する批判であった。
         三

 漱石の「従軍行」は詩としてすぐれたものではなかった。類型的な表現からも自由ではない。しかしそこにはロシアに対する悪罵の言葉や、戦争を美化し、国民をあおりたてるような景気のいい、勇ましい言葉はない。むしろこの詩から感じられるのは重苦しい圧迫感であり、孤独感であり、暗い宿命、罪と呪いの匂いである。戦争詩一般の上昇的な気分に対して、ここにあるのは下降的な気分である。ここには漱石の暗い緊迫した心があり、孤独ではげしい戦の意志の表明はあるが、それはむしろ暗く寒く暗澹としていた。「吾に讎あり、艨艟吼ゆる」「吾に讎あり、貔貅群がる」「銕騎十万、莽と
して来る。」敵は強大であるのに、これに対抗するものは「男子の意気」や「勇士の胆」でしかない。ここには集団としての軍隊の姿はなく、単騎太刀をふりかざす孤独な戦士の姿だけがある。
 「天子の命ぞ、吾讎撃つは、/臣子の分ぞ、遠く赴く」自らの意志であるよりは、「天子の命に故に
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 「臣子の分」として遠く赴くのである。天子、国家、味方の軍隊、国民と、漱石は一体化しておらず、熱狂的な戦争の渦の中に我を忘れてとけこむことができないのである。「天に誓へば、岩をも透す、/聞くや三尺、鞘走る音。/寒光熱して、吹くは碧血、/骨を掠めて、憂として鳴る。/折れぬ此太刀、讎を斬る太刀、/のり飲む太刀か、血に渇く太刀」敵を屠り、その血を啜ろうとする激しい心を表現
していながら、その心はどこまでも醒めており、それがいささか理に落ちた表現となってあらわれている。この詩の世界を支配するのは「鞘走る音」「骨を掠めて、憂として鳴る」太刀の音がきこえる静寂の世界である。
 「粲たる七斗は、御空のあなた、/傲る吾讎、北方にあり。」「殷たる砲声、神代に響きて、/万古の雪を、今捲き落す。」ここにうたわれる戦争は、もはや現実の次元を超えて、はるかに違い無限の時間と空間を含む広大な自然のただ中で戦われる戦いである。「空を拍つ浪、浪消す烟、/腥さき世に、あるは幻影。/さと閃めくは、罪の稲妻、/暗く揺くは、呪ひの信旗。/深し死の影、我を包みて、/寒し血の雨、我に濺ぐ」あきらかにこれは現実の戦争であるよりは、漱石自身の内的世界の表象である。漱石は現実の戦争の彼方に、人間が父母未生以前の原初以来たたかい続けてきた戦い、人間が人間である限り永遠にまぬがれることのできぬ罪業としての戦いを見ている。
 漱石が見ているのは人間の罪であり、呪いである。漱石をとりまくのは深い「死の影」である。茫々とはてもなく広がる暗く寒くなまぐさい「幻影」の世界に、「幻影」を求めてひとり行く漱石は、「さと閃めく」「罪の稲妻」に照らし出される。すべてが茫々たる中に、罪だけが稲妻のように閃いて漱石の眼を射る。そして漱石は「罪の稲妻」に一瞬てらしだされた暗がりに「呪ひの信旗」がゆれうご
186 くのを見るのである。
   漱石はおのれの罪業と呪われた宿命をまざまざと感じ、恐怖と寒さにふるえている。しかし漱石はおのれの罪と呪いと宿命をひきうけ、「神代に響」く「殷たる砲声」にふるい立って、宿命としての戦いをたかかおうとする。「鬼とも見えて、焔吐くべく、/剣に倚りて、眥裂けば、/胡山のふyき、黒き方より、/銕騎十万、莽として来る」この「黒き方」より「莽として来る」圧倒的軍勢の中に、「天上天下、敵あらばあれ、/敵ある方に、向ふ武士」と単騎きりこもうとするのが漱石である。
「従軍行」が日露戦争に触発されて書かれた詩であることはいうまでもない。しかしそれは単なる戦争詩ではなくて、暗い漱石の内部世界の表現であった。日露戦争が漱石の内部世界の表現の契機となり、作家としての道を歩かせるにいたった事実をそれは示している。戦争は漱石の心を揺り動か
し、漱石の内部におしこめられていたはげしいものを噴出せしめた。戦争に揺り動かされることで、漱石は自分の内部世界の暗黒、その罪と呪いと宿命に目を向けさせられた。それは人間の罪と呪いと宿命であった。戦争はその集中的表現にほかならなかったのである。
 明治三十七年二月の「英文学叢誌」に、漱石は「セルマの歌」と「カリツクスウラの詩」を発表した。「オシアン」からの翻訳であるが、この他には一篇の翻訳をもしていない漱石であって見れば、これは単なる紹介のためのものであるのではなく、漱石自身の心情を表現するものであったと見るべきであろう。
 漱石は古い伝説の世界に、はげしい戦いと愛を生きた逞しい英雄たちを探り求めた。彼らは自然の中に自然そのものを呼吸して、自然さながらに生き、かつ戦って死んだ。そしてこの英雄たちを恋い
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慕う乙女たちは、彼らのあとを追い、彼らに殉じて死んだ。そのことによって彼等の愛は永遠の愛となった。セルマは歌う。「君とならば行かんものを、父を棄てても。心驕る兄を棄てても」セルマは家と家の争闘にへだてられる恋人のあとを求めて、暗闇の嵐の丘にさ迷い続け、「夢の如く去る吾命、生き残る甲斐もあらず」と死者の傍「岩咽ぶ河のほとり」に死ぬ。「山暮れて風高き宵、風の裡にわ
がまぼろし見えて、恋しき人の逝けるを泣かん」彼女は自分の泣く声が風の音となって聞く人の心をいたませるだろうというのである。
 アルビンは「泣くも亡き人のため、うたふも逝くもののためぞ」と猛き人モラアを悼む歌をうたう。
 「狭からんなが住居、暗がらんなが臥床。昔ありてふ偉丈夫の、三歩に足らぬ墓にすくみて、なれのかたみに残るものは、苔をいたヾく四つの石のみ」モラアを弔う女親もすでになく、恋い慕う乙女は彼を追って行き、そのまま二度と帰って来ない。ただ一人残った父の泣く声に、耳傾ける子は一人もいない。「亡者の眠りふかく、土塊の枕わびし。泣けど聞 かず。呼べども起たず。冥上に明くる朝なくして、眠れる者長へに覚めず」漱石は死者の世界を見つめ、死者の世界に生きる。逞しい英雄とその美しい恋は死において永遠であり、詩によって永遠である。「なれに子なし。なれを伝ふるは歌。其歌に後の世はなれを聞くべし、逝けるモラアを」死者たちの声は風の音となり、詩の言葉となって後の世によびかけるのであり、漱石はそれを聞いている。
 古い伝説の英雄の世界は戦いと愛の世界であり、宿命と死の世界である。クライモラの父を殺した呪われた楯をもって、死を必至とする戦に出でたつコンナルは、「はかり難き此命。われ死なばわが為に墓(おくつき) つくれ。石ならべ土盛りて後の世に吾名弔へ」という。英雄は恋する乙女に心ひかれなが・
188 ら、しかもおのれの宿命に従って、死すべき戦いに赴く。「泣きはらしたる目、墳にあてて、深さ歎きに浮上がる胸打て。春日の如くあでやかに、春風よりも長閑なる汝を棄つとも、吾行かん。つくれ吾塚」クライモラは「去らば行かん我も」と、戟をとり、太刀を佩き、輝く武器をもって、「コンナルと共に行く我、戦ふ野辺にダアゴオと見えん」と歌うのである。
 「吾等行きてまた還らず。吾等が墓は遥か彼方」それは「幻影の盾」(『ホトトギス』明三八・四)、  「薤露行」(『中央公論』明三八・一こと同じく「遠き世の物語」である。「人を屠り天に驕れる昔」、恋と戦いの時代の物語である。「セルマの歌」「カリツクスウラの詩」が発表された明治三十七年二月は、日露の戦雲急を告げ、国民はロシア討つべしの声に熱狂していた。激動の渦の中で漱石の「脳漿」は沸騰した。内部にとじこめられた暗い激情が噴出する場所を求めて沸き立ったのである。漱石にとって戦を思う心は死を思う心であった。戦と死と恋がひとつであるところに漱石の詩の世界がある。そしてそれは同時に人間の罪と呪いと宿命の世界なのである。
          四
 ロシアに対する宣戦は二月十日であるが、二月四日には御前会議で開戦が決定され、二月六日にはロシアに対する国交断絶が通告されている。二月八日には陸軍先遣部隊が仁川上陸を開始し、連合艦隊は旅順港外のロシア艦隊を攻撃している。この激動の中で漱石は、寺田寅彦宛書簡(二月九日)に
「水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我」にはじまる「水底の感 藤村操女子」という戯詩を書き送っている。「夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり」「うれ
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し水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず」もしかしたらこれは漱石の寅彦に対する同性愛的な感情の表白であるかも知れない。それはともかく、漱石にとって昂揚は同時に下降であった。
 民族の生死を賭けた戦争の切迫に、漱石の心ははげしく揺り動かされながら、しかも熱狂する国民の渦の中でますます孤独になり、ますますつよく死者の世界へとひきつけられて行った。この傾向は日本の「連戦連勝」に祝勝気分がかきたてられるとともにいっそう強まった。「従軍行」を作ったのは開戦後間もない時期のことであって、その後漱石は二度とこのような詩を作らなかった。征露の句の揮毫を求めた細見勝逸に対する書簡(明三七こ○こ○)に、「征露の句などは一句も無之候」とことわっている。
 明治三十七年のはじめごろ漱石がノートに書き記した英文は、このころの漱石の憤怒と孤独と幻想の世界を赤裸々に表現している。In sorrow she ate her heartにはじまる英詩を冒頭におき、全集で七頁にわたって激越な言葉が書き連ねられているのである。漱石の心にはひとりの女性が住み続けていた。江藤淳はそれを嫂登世と断定する(『漱石とその時代』)が、その永遠の女性はただ漱石の心にのみ住み続けた女性である。この幻の女性は漱石の生涯にさまざまな形であらわれ、彼女に対する幻想の愛が、漱石をして作家としての道を歩かせた。漱石の作品世界には、いつでもこの女性が形を変えて生きている。現実から隔絶され、自分ひとりの世界に帰り、ただひとり自分の心の内部の暗黒を見つめるとき、いつでも漱石はそのうすくらがりの中にこの女性を見出した。
 漱石は現実にこの女性に触れることは出来ない。この女性を漱石から隔てるものはこの世の掟であり、生と死のへだてである。この世の掟を恐れる故に、現実に彼女に触れることは死である故に、こ
●。
190 の世に生きる生をえらんだ漱石は、現実の彼女から遠ざけられる。漱石は彼女から遠ざかりつつ彼女を求める。彼女を求めつつ彼女から遠ざかる漱石は、ただ幻想においてのみ彼女と自由に往来することが出来るのであり、彼女への愛が、幻想の世界の現実化である作品世界に、ひたすら漱石を生きさせたのである。
 彼女を愛することはこの世の掟とたたかうことであり、この世そのものとたたかうことであった。
  彼女に対する愛は、この世に対するたたかいとひとつに結びついている。そしてまた、それは死と結びついている。死においてのみ、漱石は彼女と結びつき得るのであり、そこに永遠の愛は成就するのである。漱石において、愛と死とたたかいはひとつに結びついていた。そしてそれは罪であり、呪いであり、宿命であった。それは現実の掟に背くものである故に罪であった。また生をえらんで彼女を死なしめた故に罪であった。生きる限り、漱石は彼女を裏切り、この世の掟に従って生きる。
 漱石はこの世の掟にも、彼女に対する愛にも、おのれを完全につかせることが出来なかった。またこの両者のいずれからも、完全に離れることができなかった。いずれにも徹底することが出来ず、ふたつのポールにはさまれて、居場所をうしない、宙づりになっているのが漱石であった。漱石は自ら
の不徹底、卑怯、臆病を恥じなければならなかった。それ故に漱石は二重、三重の罪に苦しみ、自分の愛に呪われた宿命を感じなければならなかった。
 漱石は幻想=作品の世界においてのみ自由であった。そこでのみ彼は純一無雑の愛にひたることができた。はげしくこの世を呪い、おのれの宿命と罪を嘆き、血に飢える叫びをあげることが出来た。
 漱石の英詩と英文は、そのような作品=幻想の世界の表現であった。それは他者ののぞきこむことを
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許さぬ密閉せられた世界における、ただ自分ひとりのための魂の奥所の秘密の開示であった。そこに私たちは、漱石の作家としてのあゆみの核となる秘密の世界をまざまざと見ることが出来る。
 この英文の冒頭の、「彼女は悲しみの中で彼女の心臓を食べた」という言葉にはじまる英詩で、漱石は彼女は若く美しくして死んだという。彼女は彼女の愛のほかいかなる愛も知らず、彼女の死後、彼女をいたむものは誰もいなかったという。漱石は青白い月に照らされた彼女の淋しい墓をはっきりと見つめている。江藤はこの女性を登世と断定して、愛と禁忌の意識について語り、それ故、この詩からは彼女を愛した漱石自身が消去されているという。しかし彼女は、現実の女性の誰かれに必ずしも限定される必要はないであろう。むしろ彼女は漱石自身であるといってもいいのではないか。それは漱石における愛と真実の象徴である。現実の漱石は生きている故に真実の漱石は死んでしまった。彼女こそ真実の自分であり、自分は彼女=真実の自分を裏切って生きる偽りの自分であると考えることも出来る。本当の自分はすでに死んでおり、自分は死ぬことによって本当の自分に帰ることができ
る。漱石にとっては、あの世こそ真実の世界なのであった。ここで自分を若い女性に擬したあの「水底の感」を思いうかべてもいいであろう。ともかくも、この世の外なる幻影=真実の世界に生きる彼女を思うところから、この英文の作品世界が展開されていることに注目すればそれでいい。
 この英詩に続いて〇h! Sollow。 ever failing yet ever present,--。 the teeling of something lost.yet one dose not know what that something is.にはじまる激越な英文の世界が展開される。つねにうしなわれ、しかもつねに存在する悲しみ。それはなにものかを失ったという感じであるが、そのうしなわれたなにものかが何であるかは知ることが出来ない。このうしなわれたなにものかこそ、まさ
192 に彼女であったと考えることもできるが、ともかく漱石は喪失の感情に閉ざされ、自分が何を見ているか、どこにいるかもわからない薄暗がりの中にいるのである。それはあの漱石が「藤村操女子」として書いた、「水底の感」にうたわれた「暗からぬ暗きあたり」であり、そこに漱石は「夢ならぬ夢の命」を生きているのである。それは現実が非現実であり、非現実が現実であるような幻影の世界である。この幻影の世界こそ、漱石が作品を生み出す世界であり、漱石の文学=魂の故郷である。
 漱石は自分が自分の運命をぼんやりと知りながら、しかも何もすることが出来ない故に、自分を待ち受ける一時間のちの運命をすら知らぬ地をはう虫よりも、さらに惨めな存在だという。このような悲しみに閉ざされ、自己の卑小さを思う漱石は、現代を讃美し、万物の霊長などとうぬぽれて、おご りたかぶる人々を激しく攻撃する。自分自身にも、自分の隣人たちにも、大学教授や政治家たちにも、野獣以外の何ものも見出すことができないというのである。彼らは二十世紀の社会に適応するように若干のつけ加えがほどこされたにすぎぬ人間の姿をした獣性なのだ。人間はよろこびだとか、快楽だとか、あるいは愛は神聖だとかなどという言葉を次々につくり出して、自分たちの許されざる欲情や好みを美化しているにすぎないと、漱石はいう。
 しかし、彼等を非難し嘲笑することは、実は自分自身を非難し嘲笑することであった。漱石は自分の笑いに苦いひびきがあることを認めないわけにはいかなかった。自分自身の偽善的な虚飾を笑い、自分自身に傷つかざるを得ない。それ故いっそう、自分の本質に対して無自覚で、美しい言葉で自分
  を飾りたて、自分の優性を信じて疑わぬsuperior beingsに対して激しい怒りをなげつけないではいられない。彼らはたがいに美しい言葉でお互いを飾りたてあい、ほめあっているが、彼等は称讃の重
日露戦争と作家としての出発
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荷にひそかに呻いているのではないか。漱石はgood people が多すぎるといい、彼等に対して自分の憎悪を注いで、一服の解毒剤たらしめるつもりだという。漱石は自分の内部深くとじこめておいた自分の憎悪、苦いものを彼等におしみなく注ぎかけてやることを誓うのである。
 地震とか海嘯とかは、自然の人間に対する復讐なのだと漱石はいう。人々は火山の火口のまわりで死のダンスを踊りながら、太陽が明日もまた東から昇ると信じて、楽しい人生だなどといっているのである。紳士淑女なるもの、大学教授とか政治家とかいったものたちが、進歩だとか文明開化だとか
の名において、虚偽に虚偽を重ね、自然を破壊し自然に背くことに対して、漱石は激しい呪咀の言葉をなげつけている。
・「自然は真空を嫌う。愛か憎悪! 自然は代償を好む。眼には眼を! 自然は戦を好む。死か独立か! 自然は復讐を奨励する」漱石は「復讐はつねに甘美である」と書いている。自然に背く害虫である人間を殺すのは、自分たちの女神である自然の法である。「復讐!」と復讐を求めて叫ぶのは
自分たちの女神である。彼女は血にかわいている。彼女は彼女の顔を彼等の大の血で紫に汚すことを求めている。彼女は彼等の骨をかじり骨の髄をしやぶり、彼等の死体を燻製にして、その死骸の上で踊ることを求めている。
 この激しい言葉は「趣味の遺伝」の冒頭の言葉と全く重なりあっている。漱石は戦争にこの神=自然の復讐を見たのである。漱石は戦争に人間のおしかくされた野獣性の爆発、近代の矛盾の集中的爆発を見た。どこまでもエゴを追及し、他者をおしのけて発展を求める近代は、ついにたがいに血を流し、無残な殺戮をともなう衝突を必至とする。

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日露戦争と作家としての出発
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        五
 漱石は戦争において近代なるものの本質を見た。もしくは人間の宿命を見た。もはや単に傲れるロ
シアを討てというだけではすまないのである。戦争中の作品「幻影の盾」には、「君の為め国の為めなる美しき名を藉りて」といい、「正義と云ひ人道と云ふは朝嵐に翻がへす旗にのみ染め出すべき文字で」と書いている。戦争はいつでも美しい言葉で飾られる。しかしその本質は人間の野獣性の爆発ではないか。そこに自然に背く人間に対する神=自然の復讐がある。
 人間の野獣性を直視せず、それを美しい言葉で飾り立て、自己を美化し、他をおとしめてやまぬ近代の文明開化は、その虚偽故に復讐される。偽善におおいかくされ、おしこめられた人間の野獣性は、時として烈しく爆発し、その残虐さをほしいままに発揮して、人間をふみにじり、文化文明を破壊する。しかも人間は、野獣性そのものの発現である戦争をさえ、ますます美しい言葉で飾りたてるのである。敵に対しては最大級の侮蔑と悪罵を。そして味方には最大級の美化と賞讃を。この偽善性こそ人間を限りなく堕落させる。
 漱石はこの近代における偽善の仮面をひきはがし、人間の暗黒、人間の自然、人間の野獣性、その暗黒な呪われた宿命をあばき出そうとした。それが人間の故郷なのであり、それを直視しそこに帰り、そこから近代を総体的に検討することによってのみ、偽善的な近代の堕落は救われるというのである。
 漱石は自分の内部の奥深いところにとじこめられている近代に対する苦い思いと憎悪とを、近代の担い手であると自称し、うぬぼれている偽善的な紳士淑女たちに吐きかけてやろうという。それは文明開化の悪、近代の悪の解毒剤になるだろうというのである。漱石ははげしい言葉をほとんど狂気のように書き連ねる。
 お前の希望、お前の研究、そしてお前に貴重なすべてのものを、彼等をふみにじるために犠牲にせよ。彼等がお前の足の下であえぎながら、最後の息とともに弱々しい後悔の叫びをあげるまで、決してやめてはならぬ。彼等は進歩の名において、彼等よりもよきものを、彼等の堕落せる水準にまでひきずりおろそうとしている。彼等のこのうぬぼれ、この傲慢や術策の価値を彼等に知らせねばならぬ。
 英文ノートに見られるこの漱石のはげしい怒りと弾劾、憎悪と呪いの言葉、血にかわく復讐の誓いは、彼の作家活動の開始を告げる宣戦布告であった。漱石はその作家としての出発を、自分の周囲のものたちに対する、近代文明に対する、紳士淑女たち、大学教授や政治家たちに対するたたかいとし
て始めたのである。
 このころの断片ノートには英文で書かれたもののほかにも、いたるところにはげしい怒りと呪いの言葉、復讐の誓い、たたかいの決意を示す言葉が記されている。「一指を切れば一指を切り一髪を抜けば一髪をぬく睚眦の恨に報ずるに睚眦の讐を以てするは古の法にして今の法なり今の法にして人の
道なり尤も公明なる道なり」「正大なる道なり」。「水を誓はしめ火を誓はしめ」「銅汁を飲み鉄丸を嘸む胸裏一団の霊火ありて、/@@rの炉端を熔く吹く息は なり汝我前に出んか眉目悉く焼く」「凡ての男を呪ひ、凡ての女を呪ひ凡ての草凡ての木を呪ふ凡ての生けるものを呪ふ三世を坑中に封じ大千世界を微塵に擢き去る地球破滅の最終日我胸中にあり」という調子である。こうした激しい心の表現を求

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に浮上がる胸打て。春日の如くあでやかに、春風よりも長閑なる汝を棄つとも、吾行かん。つくれ吾塚」クライモラは「去らば行かん我も」と、戟をとり、太刀を佩き、輝く武器をもって、「コンナルと共に行く我、戦ふ野辺にダアゴオと見えん」と歌うのである。
 「吾等行きてまた還らず。吾等が墓は遥か彼方」それは「幻影の盾」(『ホトトギス』明三八・四)、
 『薤露行』(『中央公論』明三八・一)と同じく「遠き世の物語」である。「人を屠り天に驕れる昔」、恋と戦いの時代の物語である。「セルマの歌」「カリツクスウラの詩」が発表された明治三十七年二月は、日露の戦雲急を告げ、国民はロシア討つべしの声に熱狂していた。激動の渦の中で漱石の「脳漿」
は沸騰した。内部にとじこめられた暗い激情が噴出する場所を求めて沸き立ったのである。漱石にとって戦を思う心は死を思う心であった。戦と死と恋がひとつであるところに漱石の詩の世界がある。そしてそれは同時に人間の罪と呪いと宿命の世界なのである。

         四

 ロシアに対する宣戦は二月十日であるが、二月四日には御前会議で開戦が決定され、二月六日にはロシアに対する国交断絶が通告されている。二月八日には陸軍先遣部隊が仁川上陸を開始し、連合艦隊は旅順港外のロシア艦隊を攻撃している。この激動の中で漱石は、寺田寅彦宛書簡(二月九日)に「水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我」にはじまる「水底の感 藤村操女子」という戯詩を書き送っている。「夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり」「うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず」もしかしたらこれは漱石の寅彦に対する同性愛的な感情の表白であるかも知れない。それはともかく、漱石にとって昂揚は同時に下降であった。
 民族の生死を賭けた戦争の切迫に、漱石の心ははげしく揺り動かされながら、しかも熱狂する国民
の渦の中でますます孤独になり、ますますつよく死者の世界へとひきつけられて行った。この傾向は
日本の「連戦連勝」に祝勝気分がかきたてられるとともにいっそう強まった。「従軍行」を作ったの
は開戦後間もない時期のことであって、その後漱石は二度とこのような詩を作らなかった。征露の句
の揮毫を求めた細見勝逸に対する書簡(明三七・一〇・一○)に、「征露の句などは一句も無之候」とこ
とわっている。
 明治三十七年のはじめごろ漱石がノートに書き記した英文は、このころの漱石の憤怒と孤独と幻想の世界を赤裸々に表現している。In sorrow she ate her heartにはじまる英詩を冒頭におき、全集で七頁にわたって激越な言葉が書き連ねられているのである。漱石の心にはひとりの女性が住み続けていた。江藤淳はそれを嫂登世と断定する(『漱石とその時代』)が、その永遠の女性はただ漱石の心にのみ住み続けた女性である。この幻の女性は漱石の生涯にさまざまな形であらわれ、彼女に対する幻想の愛が、漱石をして作家としての道を歩かせた。漱石の作品世界には、いつでもこの女性が形を変え
て生きている。現実から隔絶され、自分ひとりの世界に帰り、ただひとり自分の心の内部の暗黒を見つめるとき、いつでも漱石はそのうすくらがりの中にこの女性を見出した。
 漱石は現実にこの女性に触れることは出来ない。この女性を漱石から隔てるものはこの世の掟であり、生と死のへだてである。この世の掟を恐れる故に、現実に彼女に触れることは死である故に、こ

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