第76回 城山三郎 大義の末 (その二)
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- 小指のない手の掻き鳴らす鐘は、轟然と式場に炸裂し、余韻までが幾重にもゆり返して響いて行く。式場の空気は一変した。善楽寺のだいこくさんが……。とあちこちにささやきが起り鐘の音の重なるごとにざわめき立ってくる。その音に呼びさまされ、肉親を奪われた当時の悲しみと憤りが急速に会衆たちの胸に戻ってくるようであった。
小学校の講堂では太平洋戦争の戦死者に対する天皇の内帑金でつくられた木盃の伝達式がおこなわれていた。御真影の前に立った肥田は遺族の礼拝を受けて、木盃の小箱を一つずつ遺族に渡していた。そのとき、轟然と善楽寺の鐘が鳴り響きはじめたのである。
鐘は種村の母、二人の息子をこの戦争で失ったさめが打ち鳴らしているのだった。さめは毎日十時に、十九歳で死んだ息子への思いを込めて十九の鐘をつきならしていた。今日も伝達式に出席せず、いっそうはげしくつきならしたのだ。肥田は狼狽し、参列者はあらためて戦争で死んだ働き手の父や夫、息子を思う本当の感情を呼び覚まされた。さめの撞く鐘は天皇を利用したこの偽善的な式の雰囲気を破壊したのだ。
柿見が復員して故郷の駅に着いたとき、県庁をやめさせられ牛車をひいた百姓姿の肥田に出会って驚いた。肥田は悄然としていたが、やがて町役場につとめ、収入役になり、いまは町長になって、次の選挙での再選を狙っていた。
『大義』を読めと柿見たちにすすめた体操教師高橋は教職追放で学校をやめ、肥田のかわりに県庁に就職した。戦争中沈黙を守っていたシンパの西は、戦争責任追及の声をあげ、活発な活動をはじめ、教頭になった。しかし、時代が変わってレッドパージの風が吹きはじめ、学校をやめて町会議員に立候補した。それを足場に町長になろうとしたのである。
時代とともに人々は転変した。柿見が戦後いちばん感動したのは共産党幹部釈放のニュースでだった。一つの思想を信じているという理由だけで、十数年という永い獄中生活を送らされていたという事実が感動させたのだ。
柿見は一切の書類を焼却せよという命令にそむいて『大義』を隠し持って復員した。東京郊外のH高校に入学し、校内を風靡する天皇制批判に取り囲まれながら、自分のすべてを賭けて、肉体の一部になった天皇への思いを捨てることができなかった。
当時の自分が空白だったとすれば自己の存在が失われると思われた。戦後の高校生からセガレと呼ばれた皇太子が来校したとき、遠くから見たその素朴な少年の姿に親愛感を覚え、<大義>を求める自分の存在の根拠がそこにあるような気がした。
しかし、その皇太子はT大の五月祭で原爆展をこんなつまらないものは見ないといった。H高から進学した京都K大では、天皇行幸のために大学祭で原爆展そのものが開催できなくなった。天皇はものものしい警護に囲まれ、学生に警官隊が襲いかかった。
各地をまわる天皇や皇太子は政治的に利用されていた。肥田は皇太子が来県し、G町を通過する際に拝謁の機会をつくり、それを町長再選に利用しようとし、町民を宣伝車で動員した。
高校時代に皇太子をセガレと呼び、天皇制批判を展開した大久保も、いまは会社員になって皇太子殿下とよび、その来社のために尽力している。種村さめの撞く鐘はふたたび国民を支配する天皇制の虚偽をあばきだす。柿見も「君が代」と皇太子殿下万歳の声がみちわたる中で、セガレ、セガレーと絶叫し、警備の警官にとらえられた。
この作品は1959年に初版が刊行された。
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