2007年8月24日 (金)

第76回 城山三郎 大義の末 (その二)

  • 小指のない手の掻き鳴らす鐘は、轟然と式場に炸裂し、余韻までが幾重にもゆり返して響いて行く。式場の空気は一変した。善楽寺のだいこくさんが……。とあちこちにささやきが起り鐘の音の重なるごとにざわめき立ってくる。その音に呼びさまされ、肉親を奪われた当時の悲しみと憤りが急速に会衆たちの胸に戻ってくるようであった。

 小学校の講堂では太平洋戦争の戦死者に対する天皇の内帑金でつくられた木盃の伝達式がおこなわれていた。御真影の前に立った肥田は遺族の礼拝を受けて、木盃の小箱を一つずつ遺族に渡していた。そのとき、轟然と善楽寺の鐘が鳴り響きはじめたのである。
 鐘は種村の母、二人の息子をこの戦争で失ったさめが打ち鳴らしているのだった。さめは毎日十時に、十九歳で死んだ息子への思いを込めて十九の鐘をつきならしていた。今日も伝達式に出席せず、いっそうはげしくつきならしたのだ。肥田は狼狽し、参列者はあらためて戦争で死んだ働き手の父や夫、息子を思う本当の感情を呼び覚まされた。さめの撞く鐘は天皇を利用したこの偽善的な式の雰囲気を破壊したのだ。
 柿見が復員して故郷の駅に着いたとき、県庁をやめさせられ牛車をひいた百姓姿の肥田に出会って驚いた。肥田は悄然としていたが、やがて町役場につとめ、収入役になり、いまは町長になって、次の選挙での再選を狙っていた。
 『大義』を読めと柿見たちにすすめた体操教師高橋は教職追放で学校をやめ、肥田のかわりに県庁に就職した。戦争中沈黙を守っていたシンパの西は、戦争責任追及の声をあげ、活発な活動をはじめ、教頭になった。しかし、時代が変わってレッドパージの風が吹きはじめ、学校をやめて町会議員に立候補した。それを足場に町長になろうとしたのである。
 時代とともに人々は転変した。柿見が戦後いちばん感動したのは共産党幹部釈放のニュースでだった。一つの思想を信じているという理由だけで、十数年という永い獄中生活を送らされていたという事実が感動させたのだ。
 柿見は一切の書類を焼却せよという命令にそむいて『大義』を隠し持って復員した。東京郊外のH高校に入学し、校内を風靡する天皇制批判に取り囲まれながら、自分のすべてを賭けて、肉体の一部になった天皇への思いを捨てることができなかった。
 当時の自分が空白だったとすれば自己の存在が失われると思われた。戦後の高校生からセガレと呼ばれた皇太子が来校したとき、遠くから見たその素朴な少年の姿に親愛感を覚え、<大義>を求める自分の存在の根拠がそこにあるような気がした。
 しかし、その皇太子はT大の五月祭で原爆展をこんなつまらないものは見ないといった。H高から進学した京都K大では、天皇行幸のために大学祭で原爆展そのものが開催できなくなった。天皇はものものしい警護に囲まれ、学生に警官隊が襲いかかった。
 各地をまわる天皇や皇太子は政治的に利用されていた。肥田は皇太子が来県し、G町を通過する際に拝謁の機会をつくり、それを町長再選に利用しようとし、町民を宣伝車で動員した。
 高校時代に皇太子をセガレと呼び、天皇制批判を展開した大久保も、いまは会社員になって皇太子殿下とよび、その来社のために尽力している。種村さめの撞く鐘はふたたび国民を支配する天皇制の虚偽をあばきだす。柿見も「君が代」と皇太子殿下万歳の声がみちわたる中で、セガレ、セガレーと絶叫し、警備の警官にとらえられた。
この作品は1959年に初版が刊行された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第74回 大田洋子  屍の街 (その2)

 西の家でも東の家でも、葬式の準備をしている。きのうは、三、四日まえ医者の家で見かけた人が、黒々とした血を吐きはじめたときき、今日は二、三日まえ道で出会ったきれいな娘が、髪もぬけ落ちてしまい、紫紺いろの斑点にまみれて、死を待っているときかされる。
 死は私にもいつくるか知れない。私は一日に幾度でも髪をひっぱって見、抜毛の数をかぞえる。いつふいにあらわれるかも知れぬ斑点に脅えて、何十度となく、眼をすがめて手足の皮膚をしらべたりする。蚊にさされたあとの小さな赤い点に、インクでしるしをつけておき、時聞か経ってから、赤いあとがうすれていれば斑点ではなかったと安心する。

 八月六日の夜は河原で野宿した。夜になると遠くの方から間の伸びた呻き声がきこえて来た。単調な呻き声は低く沈んで、あちこちから聞こえた。夜があけると、一夜苦しみつづけた人々が死んで行った。
 河原から見える限りの山はまだとろとろと燃えていた。猛火の燃え落ちた町は太陽の下で見る影もない残骸をさらしている。
 三日目になると、河原は死臭に満ちていた。明るくなると、昨日まで生きていた人が方々に倒れて息をひきとっている姿が見え出した。河原には五つばかりの女の子が手を投げ出し、横ざまに倒れて、昼寝のように死んでいた。水際には赤ん坊が焦げた全身を陽に照らして亡くなっていた。軍の小舟が河に来て、重傷の兵隊たちと屍とを積んで去った。宮島の少年の死体はくずれかけてまだそこにあった。
 三日目、ようやく罹災証明書を手に入れ、故郷の玖島の知人宅に仮寓するために出発した。途中、見知らぬ人の家に泊めて貰うなど苦労して、乞食のような姿で、かつては旧家を誇っていたが、いまは住む家もなくなった故郷に帰って行った。
 玖島には多数の罹災者が帰って来ていたが、八月十五日以後、二十日すぎから突如として<原子爆弾症という恐愕にみちた病的現象>が現れはじめ、人々は累々と死んで行った。
 火傷は相当大きな火傷でも治癒したが、どんなに小さくても切り傷がある患者は、やがて斑点が現れ、紫紺いろの斑点にまみれて死んで行った。原子爆弾が人類最初の経験でその被害がどれほどのものか、原爆症がどんなものか想像もできなかった。すべては未知の世界だった。世界の科学者もそれを知らず、被爆者は実験モルモットにされたのだった。
 「私」は周囲の被爆者が次々に死ぬ中で、自分もやがて死ぬことを覚悟し、自分が経験した人類未知の世界を書き残しておこうと、死に脅かされながら書き急いだ。
 被爆当日一切を焼失し、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆もなかった。寄寓先の家や村の知人に、障子からはがした茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらって、いままでに表現されたことのない、思い出すのが辛い悲惨な経験を書きつづった。<背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思った。>と作者は一九五〇年版の序文に書いている。
 戦後間もなく書き上げられたこの作品は、占領軍に発表を禁止され、一九四八年十一月に一度出版されたが、多くの大事な場所が削除された。一九五〇年にはじめて冬芽書房から、検閲も削除もない状態で出版されたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第75回 城山三郎 大義の末 (その一)

  キリストを仰ぎ、釈迦を尊ぶのをやめよ、万古、天皇を仰げ。
 天皇に身を奉ずるの喜び、なべての者に許さることなし。その栄を喜び、捨身殉忠、悠久の大義に生くるべし。
 皇国に生れし幸い、皇道に殉ずるもなお及び難し。子々孫々に至るまで、身命を重ねて天皇に 帰一し奉れ……。

 杉本五郎中佐著『大義』の一節である。この本を柿見は、戦後、さまざまな噂をおそれて戦争に関する本の多くを処分したあとも、ひそかに保存していた。若い体操教師の高橋(予備役陸軍少尉)がすすめたものだったが、その頃の柿見たちの胸にりんりんと迫るものがあり、「汝、我を見んとせば尊皇に生きよ。尊皇精神のある処、常に我在り」に始まるくつかの節を暗誦したこともあった。
 戦争の時代、ひたすら天皇を尊崇し、思慕し、天皇のために死のうと思い詰めた少年たちがいた。彼らは具体的には天皇についてなにも知らなかった。エゴイスティックな大人たちの醜悪な現実を厭い、美しい生き方を求めて、至高至尊の天皇の幻に一身を捧げた。天皇は彼らの生存の支柱であった。
 天皇のために命を捧げる喜びは誰にも許される喜びではないと『大義』の著者は言う。その喜びを求めて柿見は、同級生の種村や森とともに中学四年から予科練に入隊した。すでに戦争末期のことで飛行機も軍艦もなく、回天または震洋艇という水中・水上特攻に廻されることになっていたが、はげしい訓練はつづいた。
 突撃訓練中に種村と衝突して転倒し、菊のご紋章のついた銃をかばって顔面を岩盤に激突させ、前歯を折る負傷をした。このとき、種村も同様に銃をかばって胸を強打した。種村は肋膜炎になり、ろくな治療も受けずに四日後に死亡した。
 種村が死んだのは広島に原爆が投下された日だった。青白い閃光におそわれ、激震が来た。西の空にきのこ雲が立ち上がるのが見えた。その日以後、特殊爆弾の被害を避けるために国防色の服装はすてられ、略帽からズックの編上靴にいたるまで、白一色が用いられることになった。
 それから三日目の夜、種村の母さめと妹のひろみが遺骨を受け取りに来た。病気の父のかわりに兵事課員の肥田がついてきた。予科練の分隊は全員白の服装で、衛門をはさむ道の両側に整列して、故郷に帰る種村の遺骨を見送った。
 種村の兄はフィリピンで戦死した。母さめはその兄が出征するとき両手の小指を切断して「母も一緒に戦地へ行きます」と手紙を添えて送った。いま、どんな思いで種村の遺骨を迎えたか。
 付き添いの肥田は柿見たちが予科練に入隊したときにも体操教師の高橋とともに引率者として同行したのだった。そのとき、高橋が種村がもっていた『大義』に母と妹の写真が挟んであったのを見つけ、女の写真などけしからんと言って大事な本で殴り、それを取り上げた。森が取り返しに行くと、肥田はその『大義』をもてあそびながら猥談をしていたという。こんな肥田に迎えられる種村がみじめに思われた。
 やがて八・一五が来る。天皇のために死のうとした少年たちが敗戦をどう迎えるか。国民を戦争に駆り立てた肥田や高橋たちはどう変貌するか。それが作者の過去が折り込まれたこの作品の主題である。
                    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月22日 (火)

第73回 大田洋子  屍の街 (その1)

河原の人は刻々にふえ、重い火傷の人々が眼立つようになった。はじめのうちはそれが火傷とはわからなかった。火事になっていないのに、どこであんなに焼いたのだろう。ふしぎな、異様なその姿は、怖ろしいのでなく、悲しく浅間しかった。せんべいを焼く職人が、あの鉄の蒸焼器で一様にせんべいを焼いたように、どの人もまったく同じな焼け方だった。普通の火傷のように赤昧がかったところや白いところがあるのでなくて、灰色だった。焼いたというより焙ったようで、焙った馬鈴薯の皮をくるりとむいたように、その灰色の皮膚は、肉からぶら下っているのだ。

 八月五日は一晩中警報がつづいて、解除になったのは六日の七時過ぎだった。それから床に入った「私」は蚊帳のなかでぐっすりねむっていた。そのとき「私」は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ、大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。
 気がついたとき、「私」は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやり佇んでいた。朝はやくあんなに輝いていた陽の光は消えて、梅雨時の夕ぐれか何かのようにあたりはうす暗かった。
「私」は東京で仕事ができず広島に帰ってきていたのだった。母と妹と、妹の女の赤ん坊と、女ばかり四人住んでいた。妹の良人は六月末に二度目の応召をして、それきりどこにいるともわからないままであった。
 「私」の寝ていた二階にはなんにも見えなかった。蚊帳や寝床さえもあと形もなかった。枕元にあった防空服も防空帽も時計も本もないのだ。その代り外は平素見えなかったところまで、見渡す限り壊れ砕けた家々が見えた。
 階段は板や瓦や竹でふさがっている。血まみれの妹が化物のような顔に変りはてて、階段の途中まであがって来た。白い洋服は染めたように真赤になり、白い布で顎を釣った顔は紫の南瓜のように腫れていた。
 やがて火の手が方々に上がりはじめた。私たちはバケツと雨傘を持っただけで、背負袋を背負って倒壊した町を河原に避難した。何の欲もないうつけた心であった。
 避難者はあとからあとからと詰めかけて来た。たれもかれも怪我をしていた。河原は負傷者だけの来るところかとも思われた。顔とか手足とか、着物から出ているところを、なんで切ったのかよくわからないが、五ヵ所も六ヵ所もの裂傷を受けて血だらけになっていた。
 ほとんどの人が上半身はだかであった。どの人のズボンもぼろぼろで、パンツーつしかつけていない人もあった。その人々は水死人のようにふくれていた。顔はぼってりと重々しくふくれ、眼は腫れつぶれて、眼のふちは淡紅色にはぜていた。どの人もみな、蟹がハサミのついた両手を前に曲げている形に、ぶくぶくにふくれた両手を前に曲げ空に浮かせている。そしてその両腕から襤褸(ぼろ)切れのように灰色の皮膚が垂れさがっているのだ。
 熱い白砂の上には、点々と人が坐り、佇み、死んだように横たわっていた。火傷の人たちの吐きつづける音に神経をたまらなくした。太陽の暑さと火事の焔の熱さとで、いつの間にか流れの水の傍へひきよせられて行った。そのあたりには火傷の兵隊たちがいっぱい、仰向けに倒れていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)