第75回 城山三郎 大義の末 (その一)
キリストを仰ぎ、釈迦を尊ぶのをやめよ、万古、天皇を仰げ。
天皇に身を奉ずるの喜び、なべての者に許さることなし。その栄を喜び、捨身殉忠、悠久の大義に生くるべし。
皇国に生れし幸い、皇道に殉ずるもなお及び難し。子々孫々に至るまで、身命を重ねて天皇に 帰一し奉れ……。
杉本五郎中佐著『大義』の一節である。この本を柿見は、戦後、さまざまな噂をおそれて戦争に関する本の多くを処分したあとも、ひそかに保存していた。若い体操教師の高橋(予備役陸軍少尉)がすすめたものだったが、その頃の柿見たちの胸にりんりんと迫るものがあり、「汝、我を見んとせば尊皇に生きよ。尊皇精神のある処、常に我在り」に始まるくつかの節を暗誦したこともあった。
戦争の時代、ひたすら天皇を尊崇し、思慕し、天皇のために死のうと思い詰めた少年たちがいた。彼らは具体的には天皇についてなにも知らなかった。エゴイスティックな大人たちの醜悪な現実を厭い、美しい生き方を求めて、至高至尊の天皇の幻に一身を捧げた。天皇は彼らの生存の支柱であった。
天皇のために命を捧げる喜びは誰にも許される喜びではないと『大義』の著者は言う。その喜びを求めて柿見は、同級生の種村や森とともに中学四年から予科練に入隊した。すでに戦争末期のことで飛行機も軍艦もなく、回天または震洋艇という水中・水上特攻に廻されることになっていたが、はげしい訓練はつづいた。
突撃訓練中に種村と衝突して転倒し、菊のご紋章のついた銃をかばって顔面を岩盤に激突させ、前歯を折る負傷をした。このとき、種村も同様に銃をかばって胸を強打した。種村は肋膜炎になり、ろくな治療も受けずに四日後に死亡した。
種村が死んだのは広島に原爆が投下された日だった。青白い閃光におそわれ、激震が来た。西の空にきのこ雲が立ち上がるのが見えた。その日以後、特殊爆弾の被害を避けるために国防色の服装はすてられ、略帽からズックの編上靴にいたるまで、白一色が用いられることになった。
それから三日目の夜、種村の母さめと妹のひろみが遺骨を受け取りに来た。病気の父のかわりに兵事課員の肥田がついてきた。予科練の分隊は全員白の服装で、衛門をはさむ道の両側に整列して、故郷に帰る種村の遺骨を見送った。
種村の兄はフィリピンで戦死した。母さめはその兄が出征するとき両手の小指を切断して「母も一緒に戦地へ行きます」と手紙を添えて送った。いま、どんな思いで種村の遺骨を迎えたか。
付き添いの肥田は柿見たちが予科練に入隊したときにも体操教師の高橋とともに引率者として同行したのだった。そのとき、高橋が種村がもっていた『大義』に母と妹の写真が挟んであったのを見つけ、女の写真などけしからんと言って大事な本で殴り、それを取り上げた。森が取り返しに行くと、肥田はその『大義』をもてあそびながら猥談をしていたという。こんな肥田に迎えられる種村がみじめに思われた。
やがて八・一五が来る。天皇のために死のうとした少年たちが敗戦をどう迎えるか。国民を戦争に駆り立てた肥田や高橋たちはどう変貌するか。それが作者の過去が折り込まれたこの作品の主題である。
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