2007年4月20日 (金)

<新しい作品論>と「道義」 

  漱石一覧 

 今、ことあるごとに私の心に浮かぶのは、『虞美人草』末尾の「悲劇は遂に来た。来るべき悲劇はとうから予想していた」と「自然の制裁」を説いた甲野さんの日記である。「道義に重きを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。──悉く万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に──この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に──喜劇の進歩は底止する所を知らずして、道義の観念は日を追うて下る。道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここに於いて万人の眼は悉く自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なるを知る。而して始めて悲劇の偉大なるを知る」と言う。


 『虞美人草』は評判が悪い。特にその根幹をなす「道義」論は、封建的な旧思想・旧道徳として否定されがちである。しかし、いまは現代の<豊かな社会>、大量生産、大量消費の近代文明の矛盾が深刻になり、人類の破滅が切迫した問題として自覚される時代になった。あらゆる分野で、まさかと思うようなことが続発し、未来に対する不安が強まっている。オウムの事件や神戸の少年の事件、その他頻発する青少年の痛ましい事件は、現代に生きる人間の危機を切実に思わせる。いま私たちは現代の社会と文化、人間について、自分自身について、「自己の出立点」に立ち返り、根底から検討し直すことが求められていると思う。


 漱石は一八九四年、松山中学在任中に同校の『校友会雑誌』に「愚見数則」と題して、「理想なきものの言語動作を見よ、醜陋の極なり」「理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初めから無学でいる方がよし」と述べた。そして十年後、朝日新聞に入社する直前の「白井道也は文学者である」の一句で始まる『野分』でも、「学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間ができあがるのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る、好悪の判然する、善悪の分界をのみこんだ、賢愚、真偽、正邪の批判をあやまらざる大丈夫ができあがるのが目的である」という白井道也の主張が述べられている。


 この一世紀も昔の主張は、今日においてもなおその意味を失っていない。しかし、現実とあまりにもかけ離れていて、まともに論ずるのも恥ずかしい気がするのである。何よりも私たち自身が「理想」を失って右往左往している。まさに「醜陋の極」であり、道也から「書物を開いて飯を食って満足しているのは、綱渡りが綱を渡って飯を食い、皿廻しが皿を廻わして飯を食うのと理論に於て異なる所はない」と言われても仕方がない。


しかし、いまごろ白井道也などを持ち出すのはとんでもない時代錯誤ではないか。いまはあらゆる理想が虚偽として否定される時代である。そもそも人間そのものが意味も目的もない存在なのだ。学問や教育から意味とか目的、理想とか道徳とかを排除せよ。このような主張が最も<現代的>な思想として、臆面もなく主張される。なるほど、それは極めて破壊的であり、革命的である。しかし、現実を少しも破壊せず、変革しない。むしろ、破滅に向かう現代を肯定し、あらゆる腐敗に手を貸すものであり、その意味で<現代的>なのである。


 石川啄木は「自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有する心、そういう性急な心をもしも『近代的』というものであったならば、否、いわゆる『近代人』はそういう心を持っているものであるならば、我々は寧ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く『非近代的』である事を恃み、かつ誇るべきである」と述べた。一九一〇年二月「性急な思想」の一節である。そして、同じ年の八月、大逆事件の嵐の吹きすさぶ中で書いた「時代閉塞の現状」では、「一切の美しき理想は皆虚偽である!」と宣言し、「我々の理想はもはや『善』や『美』に対する空想である訳はない。一切の空想をを峻拒して、そこに残る唯一つの真実───『必要』!これ実に我々が未来に向って求むべき一切である」と述べた。啄木は「一切の美しき理想」を否定すると同時に、自分自身の生活に立ち返り、「明日の必要」の観点から、人間を否定し、自己を否定し、結局は現実に対する戦いを放棄する近代の虚無的傾向と戦った。


たしかに、いまは理想なき時代、権威なき時代である。かつて人々の世界像を形成し、生きる指針となった宗教や思想は次々にその権威を失った。世界はいまは不透明な、すべてを飲み込むブラックホールのような、得体の知れない謎と化した。<新しい作品論>はこのような現代の状況と深くかかわっている。それは作者の意図やテーマ、主人公による統一的一元的な作品把握を拒否する。作品は読者によって始めて成立する多様な言語の集合、体系である。それ故、話者や視点など、話法の問題に関心が集中することになる。このような作品の解体と統合によって、新しい作品世界が出現し、<私たち>の読みが深まったことはたしかである。


私たちは <私たち>とか<みんな>とかいう言葉に対して拒否的な反応を示しがちである。これらの言葉によって私たちの個が押しつぶされて来たからである。あるいは自分を<特別な人間>だと思っているからである。<特別な人間>という自意識は幻想だと思うが、作品の読みは一人一人異なっている。<私>の読みは<私たち>とか<みんな>とかに還元されるものではない。私たちが書くのは<私>が<みんな>と違うからである。しかし、私たちがこれまでの読みに対立して、<私>の読み、<私の作品世界>について述べる時、私たちは自分だけの世界、<私>の世界から<みんな>の世界へと進み出ている。私は違うと自己を主張する時、私は<みんな>の読みを訂正しようとしているのである。すくなくとも、このような読みもあることを示し、<みんな>の読み、<みんなの作品世界>を多様化し、拡大しようとしている。


自己の内部に止まる限り、<私>の読みは絶えず揺れ動き、混沌としている。このとらえどころのないものを<みんな>の言葉によってとらえ直し、分節化し、構造化し、<私>を<みんな>のものにする努力によって、それははじめて明確なものになる。<私>は<私たち>に媒介され、内部は外部にさらされて、はじめてその存在を明確にする。しかし、もちろんそれは終わりではない。それによって私たちはさらに新しく<私>を発見し直し、自然と人間、世界を発見し直す。一つの作品論はもう一つの作品論を生む。その限りない運動の中に<私たち>の作品世界はある。


漱石や啄木は時代を支配する理想や道徳の虚偽性を暴露し、既成の思想や理論の権威を否定する所から出発した。彼等にとって自明なものは何もない。自分自身でさえ謎なのである。一切の既成の道徳観、価値観、社会観、人間観を否定し、すべての支えを失って世界が謎と化し、虚無と絶望に直面する所から彼等は出発した。

もはや文学は正しい世界の全体像や人間像から出発することは出来ない。そこに示されるのは世界の断片であり、歪んだ不完全な像である。罪ある人間、行き詰まった人間、破滅する人間など、その錯誤と苦悩によって、人間とは何か、いかに生きるべきかを問う。そこには問いがあって答えがない。答えがあるように見えても、その答えが新しい問いを含んでいる。そのような作品だけが時代を超えて生きつづけ、何時までも新しい。新しいと思われた答えは何時でもたちまち古くなる。


文学は救済をもたらさない。むしろ救済の幻想を破壊する。あらゆる幻想を破壊して、なお「そこに残る唯一の真実」、私たちがいま、ここに生きているという生の事実から出発する。人間は死に向かって生き、破滅に向かって急いでいる。私たちは「明日の必要」の観点から、いま生きている私たちの生き方を新しく全面的に考察し直す必要に迫られている。改めて「自己の出立点」に立ち返り、「縄は新たに張らねばならぬを知る」のである。甲野さんの「道義」は私たちを縛り、権力に奉仕させる旧思想、旧道徳ではなく、死と破滅に直面する私たちが生き延びるために必要な新しいモラル、自然と人間の新しい関係、人間と人間の新しい関係を作り出すものである。世界を解体し、多様な読みを主張する<新しい作品論>は、このような「道義」への志向を内包すると思うがどうだろうか。


それぞれ異なる<私>から出発する生徒と教師が、作品を媒介として、<私たち><みんな>の世界を作り出す。限りなく新しく作品を発見し直し,世界と人間、そして、自分自身を新しく発見し直す。このような精神の運動、自己発見、自己変革の場として文学の教室を作り出すことは出来ないだろうか。そのためには教師自身の固化した精神の解放が何よりも先に求められる。それを可能にする新しい文学研究と教育の実践の結びつきを私は期待している。

  新しい作品論へ、新しい教材論へ 1999年6月刊 所収 次へ ホーム 戻る

| | コメント (0)

2005年12月20日 (火)

大逆事件前後 修善寺の大患と四つの講演

大逆事件前後                           漱石一覧 
 修善寺の大患と四つの講演
                           
    1

修善寺の大患が漱石の思想と文学に大きな影響をもったことはたしかなことです。一度死んで生き返ったという経験は、人間の生存について改めて深い認識をもたらしました。「思い出すことなど」にこの時の経験を書いていますが、大きな自然の前に、いかに人間が小さな無力な存在であるか、あらゆる社会的な権威、自信や誇り、自然に背いてあくせくする生活がいかに空しいものであるかを、静かなしみじみした筆致で書き記しています。寝たきりで、身動きすることもままならなくなった漱石は、赤子のように、雀の子や烏の子のように、食事も口まで運んでもらい、すべてを周囲の人の力に頼って生きたのです。自分で生きているのではなくて、周りの人々に生かされていると思い、人々の好意に感謝する気持が湧然とわきおこったと漱石は書いています。
  この修善寺の大患で、漱石の思想と文学を前期と後期に区分し、この経験の決定的な意味を強調するのが、これまでの漱石研究の一般的なやり方です。しかし、修善寺の大患は「大逆」事件の時期と重なっています。「大逆」 事件は天皇を利用して、無政府主義者だけでなく、社 会主義や反政府的な思想を全面的におさえつけようとした事件で、これを契機に言論思想に対する検閲や取り締まりが極端に厳しくなり、所謂冬の時代を現出したのです。生死の境を行き来する重病に苦しんでいた漱石は、現実を遠く離れた別世界に生きていましたし、この事件に対する直接の言及はありません。このため、「大逆」 事件の漱石に対する影響は無視されがち ですが、『野分』や『それから』の作者である漱石が、この事件に強い関心を示さなかった筈はありません。
  「思い出すことなど」の漱石は、ドストエフスキーが死刑を宣告され、死刑台上で処刑の直前に赦免された時の事を記して、僅かに死をまぬがれた自分の運命と比較し、「寒い空と、新しい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、シャツ一枚でふるえている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記しています。この直後に死刑を執行された幸徳らのことを、漱石は繰り返して想像し、殺された彼等と生き残った自分とを思い比べたに違いありません。『明暗』執筆前後のノートにも、ドストエフスキーのこの時の経験に基づいて書かれた『白痴』の一節が、英文でかなり長く書き写されています。

       2

  修善寺の大患の前、幸徳らが検挙された直後に当たる長与病院入院中から、大患の時期を除いて、この時期の漱石は異常と言ってもいいほど多数の評論を書いています。最初の入院中、一度朝日新聞の同僚たちと見舞いに来た石川啄木が、四五日後に今度は一人で訪ねて来ていますが、「大逆」 事件を契機に思想的に大きな発展を遂げた啄木だけに、話題がこの事件に及ん だのではないでしょうか。この時期の漱石は断片ノートに、一つのイズムを奉ずるのはいいが、他のイズムをひたすら否定して、人生をただ一色に片付けることに反対だと記しています。行為はひとつだが、思想や感情は多様だと言い、人生にはさまざまな要素があって、決してひとつの目的に導かれるものではないと言うのです。一つのイズムを絶対化し、固定したイズムの眼鏡でものを見る観念的な態度を批判する見解は、この時期に発表された「イズムの功過」ばかりでなく、大患前後の活発な言論活動で一貫して強調されました。
  「文芸とヒロイック」では、事故で沈没した潜航艇の佐久間艇長が、遺書として、事故の記録を死に至るまで沈着冷静に乱れる文字で書き記したことを、「このヒロイックなる文字」が、現代の「器械的の社会の中に嚇カクとして一時に燃焼せられたるを喜ぶ」と述べています。そして、「本能の権威」のみを説く自然派の小説家も、「重荷を担ニノうて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、またこの種不可思議の行為があるということを知る必要がある」と述べています。
  これらの評論は、たしかに当時の文壇を支配した自然主義の主張が、人生と文学を硬直した一面的な人間観世界観に閉じ込めるのに対する批判として書かれていますが、「大逆」 事件を 契機として急激に強化された、天皇と国家を絶対化し、日本を特別な国として、対立者の存在を認めようとしない弾圧思想に対する批判でもあったと思います。この弾圧は真実を追求しようとする真面目な言論を言論界から追い出し、天皇と国家を美化する個性のない虚偽の言語を氾濫させました。漱石は自然主義批判や芸術評価の問題を前面の押し立てながら、このような時代の風潮と鋭く対立する注目すべき評論を、入院中にもかかわらず次々に発表したのです。   「艇長の遺書と中佐の詩」では艇長の遺書を、当時軍神と崇められた広瀬中佐の忠君愛国の感情を誇大に表現した詩と比較して、中佐の詩は「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」と厳しく否定しています。書く必要もないのに書いた自己広告的な詩で、むやみに偉がっている。こんな詩を作る人だと思うと、その壮烈な行為まで疑いたくなるというのです。中佐の詩に対する漱石の軽蔑と嫌悪は、あきらかに、天皇と国家を美化し、絶対化して、自己の真実を失った、この時代に氾濫した言語に対する痛烈な批判でした。この虚偽の言語によって、真実の言語が抑圧され、弾圧されたのです。艇長の遺書に対する漱石の感動には、暗い時代にあっても自己を曲げず、生命を賭して戦う幸徳らに対する関心に通じるものがあったのではないでしょうか。
  幸徳らの処刑からまだ一カ月しか経っていない二月二十日、文部省から博士号授与の通知があり、まだ入院中の漱石は直ちにこれを辞退しました。しかし、文部省は既に発令済みだからとして辞退を認めませんでした。政府をすべての上に置き、個人の意志を無視して顧みない文部省の横暴を怒った漱石は、この経緯を「博士問題の成行」に書き、博士制度を破壊しなければならんとまでは考えないが、博士でなければ学者でないように世間に思わせるほど博士に価値を付与したら、厭うべき弊害が続出することを憂えると述べました。この意味でフランスにアカデミーのあることも快く思わないとも言いました。
  漱石の博士号辞退は決して偶然的な、孤立した事件ではありませんでした。幸徳らが処刑された直後に南北朝正閏論が政治問題化し、国定国史教科書が書き換えられ、編纂官が休職になりました。この言論思想学問を弾圧する文部省が漱石に博士号を授与し、その辞退も認めないと言うのです。自己を絶対の権威者とし、学問や芸術まで権威主義で支配しようとする政府に対する漱石の激しい抗議と戦いが博士号辞退事件であり、当時相次いで発表された「文芸委員は何をするか」「学者と名誉」「文展と芸術」などの評論活動でした。博士号だけでなく、学問芸術を奨励するという名目で賞を与えたり、展覧会を主催したりして、国家が学問芸術に関与することに激しく反対したのです。
  「文芸委員は何をするか」の漱石は、「文芸其物と何等の交渉なき政府の威力」に基づく  「文芸委員」の制度そのものを批判し、政府が「此機関を通して、尤も不愉快なる方法によって、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物のみを奨励して、其他を圧迫するは見易き道理である」と、鋭い指摘をしています。その後の「文展と芸術」でも、漱石は文部省主催の美術展覧会が、国家の権威を背景にして世間の評価に大きな影響を持つことを批判して、「既に法外の暴威を挟サシはさんで、間接ながら画家彫刻家を威圧している」と見てよく、やがては「お上の御眼鏡」にかなって文展に入選しなければ、画家彫刻家として世に立つことが出来なくなるだろうと述べています。
  「文展と芸術」は明治天皇の大葬直後の評論ですが、漱石は自分は個人主義の立場に立つと言い、「如何に権威の局所集中を忌むか」「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものゝ勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」について、別の機会に「最も明らかに語りたい」と強い言葉で述べていす。ここには天皇の死を利用して国家意識を極度に盛り上げようとすることに対する反感と抗議があり、二年後の講演「私の個人主義」はこの約束を果したものでした。

       3

  修善寺の大患は人間存在と自己生存の意味について深刻に考えさせ、「大逆」事件は、自分の生涯そのものである明治日本の社会と日本の未来について、根本的に検討し直させました。漱石の退院は一九一一年二月二六日ですが、この直後に「マードック先生の日本歴史」を発表し、ひたすら西洋の文化に圧倒された明治の日本が、焦りに焦ってその模倣に明け暮れ、自分自身を見失って、「恐るべき神経衰弱はペストより劇ハゲしき病毒を社会に植え付けつつある」と述べています。そして、日露戦争後の日本がますます軍備の拡張を進め、国民の生活が破壊されていることを指摘し、このように無理に無理を重ねても、日本の未来は決して明るいものとは思えないと述べています。

  現実の暗さを見つめ、日本の前途を憂える漱石は、辛うじて取り留めた自分の生命の限り、横暴な国家権力を批判して、新しい未来のために戦おうとしました。博士号辞退事件に始まる前記の評論活動はその現れです。そしてこの夏、明石、和歌山、堺、大阪の各地で連続して講演しています。この講演旅行はもともと病後の漱石には無理な計画で、途中から胃病に苦しみ、一カ月近くも大阪の湯川病院に入院することになりました。この前にも長野で講演していますが、病後の漱石が無理をしてこのようにしばしば聴衆の前に立ったのは、社会に直接語りかけようとする気持ちの現れだと思われます。

  「現代日本の開化」で漱石は、「開化は人間活力の発現の経路である」と定義しました。開化を「人間活力の発現」、「自然の理」に基づくものとした所にこの定義の意味があります。これは開化と言えば直ちに西洋化のことと考えがちな当時の風潮に対して、文化の多様な発展の可能性を認め、西洋の文化をその一つの形態と見るものでした。そこには西洋において実現された開化を絶対化し、ひたすらその模倣に努めるのでなく、創造的な独自の文化の実現を求める漱石の考えが現れています。

  『それから』には、「進化の裏面を見ると何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象」だという言葉がありましたし、

「道楽と職業」では、「現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支えない」と述べています。

「現代日本の開化」でも、「開化が進めば進むほど競争が益マスマス劇ハゲしくなって生活はいよいよ困難になるような気がする」「競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである」というようなことをしきりに強調しました。現代を美化し、讃美する傾向に対して、漱石は現代の開化の矛盾を直視したのです。とりわけ日本のように、優勢な西洋文明に接触してその強力な影響を受け、「外発的な開化」を強いられる場合は、そこに多くの無理が生じることを指摘しています。

  しかし漱石の講演は、現代の開化の矛盾を説き、日本の開化が「外発的」であることを指摘するだけのものではありませんでした。「中味と形式」で漱石は「形式は内容の為の形式であって、形式の為に内容が出来るのではない」と述べ、「内容が変れば外形と云うものは自然の勢いで変って来なければならぬ」と主張しました。中味が変わったのに古い形式を守り続けようとすれば、「学校なら騒動が起る、一国では革命が起る。政治にせよ教育にせよ或は会社にせよ、わが朝日社の如き新聞にあってすらそうである」と言うのです。

  「現今日本の社会状態」は「目下非常な勢いで変化しつ」つあり、我々の内面生活も「刻々と非常な勢いで変わりつつある」のだから、政治経済、社会の態勢も、これに対応して変わって行かなければならない。「何故徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒むからなんでしょう。どうしたって内容に伴れ添わない形式は何時か爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う」と漱石は述べています。そして、「内容の変化に注意もなく頓着トンジャクもなく、一定不変の型を立て て、そうして其型は唯タだ在来あるからと云う意味で、又其型を自分が自分が好いて居ると云 うだけで、そうして傍観者たる学者の様な態度を以モッて、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推オして行ったならば危ない」と述べたのです。

  旧来の古い型に国民を縛り付けようとすれば、必ず反抗が起こり、革命が起こると主張する漱石は、観念に対する事実の優位性を説き、現実を理論に従属させ、形式に囚われがちな学者の欠陥を指摘して、現に生活している普通の人たち、「実生活の経験を嘗めているもの」の現実の必要から、古い形式、制度や法律を改変し、新しい社会を作ることを強調しました。

  そして、最後の大阪での講演「文芸と道徳」では「若し活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文芸としてより外に存在は出来ないものである、枯れて仕舞わなければならないのである」と述べました。「完全な一種の理想的の型」をこしらえて、それで生活を律しようとした旧時代の道徳を虚偽であり、権力者に「都合のいいような義務の負担に過ぎない」と批判した漱石は、しかし、無理想、無解決を標榜して、結局は現代の不条理、人間と社会の弱点をすべてを容認する自然主義にも反対したのです。

  「人間の歴史は今日の不満足を次日物足りる様に改造し次日の不平を又其翌日柔らげて今日迄コンニチマデつづいて来たのだから、一方から云えば正マサしく是コれ理想発現の経路に過ぎんので あります」と漱石は述べています。現代には現代の理想が必要だ言うのです。しかし、それは支配者に都合がいい忠臣孝子の理想の型に人民を押し込めることでもなければ、西洋の模倣でも、学者が頭の中でこしらえたものでもなく、現に生活している普通の人々の生活の必要が生み出すものでした。漱石は「我々現在生活の陥欠を補う新らしい意義を帯びた一種の浪漫的道徳」が必要だと言い、それを「活社会の要する道徳」と言ったのです。

  「大逆」 事件の直後に行われたこれらの講演が、この事件を契機として、天皇と国家を絶対 とする反動の嵐が吹き荒れる日本の前途を深く憂え、歴史の主体としての国民の自覚を強く求めると同時に、これからの文学がこのような「活社会の要する道徳」の追究として発展すべきことを主張したのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年11月22日 (火)

この宿なしの小猫

捨て猫 迷子 乞食            漱石一覧 

下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。

  漱石は〈捨て猫〉に変身し、〈捨て猫〉の言葉で語った『吾輩は猫である』で、はじめて作家としての道を歩き始めた。

この〈捨て猫〉のイメージは「健三は海にも住めなかった。山にも居られなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した」と述べられた『道草』の健三に通じるものがある。

『吾輩は猫である』の「吾輩」は竹垣のくずれた穴から苦沙彌の家の台所 にはいこんで、おさんに首筋をつかんで投げ出される。しかし「ひもじいのと寒いのにはどうしても我慢ができん」ので、何度投げ出されてもはいあがり、とうとう主人の好意で苦沙彌家に寄生することになったのである。

『虞美人草』の小野さんも「暗い所に生まれた」「水底(ミナソコ)の藻」であった。「ある人は私生児だとさえ云う。筒袖を着て学校へ通う時から友達に苛められていた。行く所で犬に吠えられた。父は死んだ。外で辛ヒドい目に遇った小野さんは帰る家がなくなった。已むなく人の世話になる」と語られている。小野さんは人の世話になって学校に行き、学問を手段として、暗い坑の中からはい出そうとする。

一方、小野さんの羨む家と財産の所有者である甲野さんは、すべてを捨てて家を出たいと願いながら途中で引っ掛かっているのである。「酔払っていると知りながら、胡座(アグラ)をかく事も跪坐カシコマることも出来ない人類 だろう」と宗近君に言われて、「まあ立ん坊だね」と淋しく笑う。

『坑夫』の主人公は家出して漂泊し、地の底まで迷って行く。『三四郎』の美禰子は自分を「お貰いをしない乞食」と言い、「迷子(ストレイシーフ)゚」と言う。

『それから』の代助は甥 の誠太郎の前途について、「到底人間として、生存する為には、人間から嫌われると云う運命に到着するに違いない。その時、彼は穏やかに人の目に着かない服装ナリをして、乞食の如く、何物かを求めつつ、人の市をうろついて歩くだろう」と思う。

そして彼自身、父と社会の掟に背いて三千代に対する愛に生きようとした時、「明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食(コツジキ)の群の中に見出」さなければならなかった。

『行人』の一郎は「こうして髭を生やしたり、洋服を着たり、シガーを銜えたりするところを上部から見ると、如何にも一人前の紳士らしいが、実際僕の心は宿なしの乞食みたように朝から晩までうろうろしている」と言う。

この一郎の言葉は『門』の宗助にも、『彼岸過迄』の須永にも、『こゝろ』の先生、『道草』の健三にもあてはまるのであろう。

最後の作品『明暗』では、吉川夫人を訪問した帰り道、橋の所で暗い欄干の下にうずくまる乞食を見た津田について「彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうと寧ろ早過 ぎる瓦斯煖炉の温かい焔をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中には 殆んど入る余地がなかった」と述べられている。

藤井の叔母に「心が派手で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走はないかって、きょろきょろ其所いらを見廻してる人みた様で」 と言われ、「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」と言う。

失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩 馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう?

「明暗」の終りに近く、馬車で清子のいる温泉に向かう津田は、しきりに鞭打たれる惨めな痩せ馬を見て、自分自身をこの「彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物」と同じだと思う。津田は、「温泉烟ユケムリの中に乞食の如く蹲踞ウズクまる津田の裸体ハダカ姿」と形容されるのである。

〈捨て猫〉〈迷子〉〈乞食〉のイメージは、漱石の作品世界の裏と表に始めから終りまでさまざまな形であらわれ、漱石の文学世界をつらぬく一筋の赤い糸となっている。

『文学論』序にも「余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あはれなる生活を営みたり」「清らかに洗ひ濯げる白シャツに一点の墨汁を落としたる時、持ち主は定めて心よからざらん。墨汁に比すべき余が乞食の如き有様にてヱストミンスターあたりを徘徊して・・・」と述べている。

この序文はいよいよ大学を止めて作家として生きる決 意を固めていた時期に、『文学論』そのものとは独立に『読売新聞』に発表された。

漱石はこの文章で、学者としての自己を総括し、文学を生命とする作家として生きる決意を表明したのである。このために漱石は不愉快な英国生活をどうしても想起しなければならなかった。   

「帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たるの光栄と権利を有する余は、五千万人中に生息して、少くとも五千万分の一の光栄と権利を支持せんと欲す。此光栄と権利を五千万分の一いかに切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若くは余が本国を去るの挙に出づる能はず、寧ろ力の継く限り、之を五千万分の一に回復せん事を努むべし。是れ余が微小なる意志にあらず。余が意志以上の意志なり。余が意志以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざるなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣民たるの光栄と権利を支持する為めに、如何なる不愉快をも避くるなかれと云ふ。」

二年間のロンドン生活は、漱石の作家としての自己確立に決定的な意味を持ったと思う。この学者としての自己を総括した『文学論』序は、やがて、大学をやめて『朝日新聞』に入社し、「文学を生命とする」職業作家として生きる覚悟を述べたものであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月20日 (火)

いまよみがえる夏目漱石

                                                                       漱石一覧 

鎌倉の仲地漱祐さんが市長選挙に立候補された。
夏目漱石のお孫さんである。
4女愛子さんの長男で、1946年2月26日生れだという。
横浜の大空襲で横浜の家が焼けたので、お婆さんの住む池上の夏目家に転がり込んでいて、そこで生まれた。
鏡子夫人は男の子が生まれたのをひどく喜び、<漱>という字を是非つけろと言われ、漱祐という名がつけられたのだという。
お祖父さんの記憶はもちろんないが、鏡子夫人は1963年没だから、大変可愛がってくれたお祖母さんのことはいろいろ記憶があるという。

漱石や鏡子夫人をお祖父さん、お祖母さんと呼ぶ漱祐さんの話を聞いていると、漱石の世界が、ごく身近なものに感じられて愉快だった。

中学3年のとき、ドイツ人の校長と喧嘩して、高校までつづく私立の名門進学校を中学で止めさせられたという話を聞き、その信条は<弱きを扶け強きを挫く>だと聞いて、漱石の<百年の後に生きる>という言葉を思い出した。

<百年の後に生きる>とは文学史にその名が残るという意味ではない。漱石は「自分が社会的分子となって未来の青年の肉や血となって生存」することを求めた。

1906年10月23日、哲学者の友人狩野亨吉に宛てた手紙に、東京高等師範を辞して松山中学に赴任した当時を回想して、次のように書いている。

ア「自分の立脚地から云ふと感じのいい愉快の多い所に行くよりも感じの悪い、 愉快の少ない所に居ってあく迄喧嘩をして見たい」
「それでなくては生甲斐のない様な心持ちがする。何の為めに世の中に生れているのかわからない気がする」

イ「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてその内に立って花々しく打死をするか敵を降参させるかどっちかにして見たいと思っている」

ウ「打死をしても自分が天分を尽くして死んだという慰籍原があればそれで結構である」 「 尤も烈しい世の中に立って(自分の為め、家族の為めは暫らく措く)どの位人が自分の感化をうけて、どの位自分が社会的分子となって未来の青年の肉や血となって生存し得るかをためして見たい」

エ「彼等がかく迄に残酷なものであると知ったら、こっちも命がけで死ぬ迄勝負をすればよかった」

オ「自分が戦わなければ、それだけ「社会の悪徳を増長」させることになる。これからはこんな場合には「 決して退くまい。否進んで当の敵を打ち斃してやろう」

これは大学をやめて文学一筋に生きようとして迷っていた時のお言葉だが、やがて『朝日新聞』に入社し、「虞美人草」で職業的な作家として出発したとき、「文芸の哲学的基礎」という講演で、次のように述べている。

「文芸は単に文芸であってはならない。文芸の意味は、作家の偉大な人格が読者の心にしみわたり、その血となり肉となって子々孫々まで伝わることにある。」

「自分が真の意味において一代に伝わり、後世に伝わって、始めて我々が文芸に従事することの閑事業でない事を自覚するのであります。始めて自己が一個人でない、社会全体の精神の一部分であると云う事実を意識するのであります。始めて文芸が世道人心に至大の関係があることを悟るのであります」

「虞美人草」執筆当時の手紙には次のような言葉がある。

  細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割(麦のひきわり)などを食っているよし。芋の薄切は猿と択えらぶ所なし。残忍なる世の中なり。而(しこう)して彼等は朝から晩まで真面目に働いている。

岩崎の徒を見よ!!!
終日人の事業を妨害して(いな企てて)三食に米を喰っている奴等もある。漱石子の事業はこれらの敗徳漢を筆誅するにあり。

『二百十日』の圭さんは阿蘇の噴煙を仰いで、「仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの轟々鳴って噴き出すのと同じ事さ」と言う。圭さんは「僕の精神はあれだよ」と言い、「血を流さない」「文明の革命」を主張するのである。

「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
「刀を使わなければ、何を使うのだい」
圭さんは、何にも云わずに、平手で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返叩いた。
「頭か」
「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」
「相手は誰だい」
「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴等さ」
「うん」
「社会の悪徳を公然商買にしている奴等さ」
「うん」
「商買なら、衣食の為めと云う言い訳も立つ」
「うん」
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等は、どうしても叩きつけなければならん」
「うん」
「君もやれ」
「うん、やる」

京都の椿わびすけさんが掲示板に仲地さん立候補のことを書いてくださり、仲地さんの従姉、マックレイン・松岡陽子さんの次のメールが紹介された。
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=ANC56573

従弟の仲地漱祐が鎌倉市長立候補とのこと面白いです。彼は本当に可愛い赤ん坊だったのを覚えています。私は彼が七つのときこちらに来てしまい、数年前母の十三回忌にほとんど五十年ぶりかで会ったということですので、もし町で擦れ合っても絶対にお互いに分かりません。私は二百パーセント戦争反対の人間なので、その点でも「改憲には反対。戦争であれだけの犠牲を払って得た9条だけは変えてはいけない。鎌倉市は全国に先駆けて平和都市宣言をしており、市政はこれを尊重する義務がある」と彼が言っているというところが気に入りました。勝つと嬉しいですが……

漱石の孫たちが平和主義者としてがんばっているのは、漱石の精神を受け継ぐものと思われて愉快である。

平和は漱石の生涯追求した主題だった。
特に、死の年(1916年)の新年に発表した『点頭録』は「軍国主義」「トライチケ」の章を設け、平和への熱い心を語っている。

いま、漱石がよみがえり、孫の漱祐さんの奮闘を支援してくれることを強く望む。
漱石については本通信<第165号 2005年9月7日 日露戦後百年と夏目漱石>を参照していただければ幸いである。
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2005/09/156_2005__778c.html

昨夜は中秋の明月だった。
中国では盛大に観月会が開かれる。アジア各地に同じ風習があるのだろう。
同じ月が中国も朝鮮も、アジアと世界を100年前と同様に照らしている。
パレスティナやイラクの難民はどんな思いでこの月を眺めていたか。

考えれば、戦闘機だの、戦車だの、空母、ミサイル、トマホークだの、莫大な富を集中して最新兵器をそろえ、これで、多数の非戦闘員を殺戮する。なにか、馬鹿げた話だ。

「点頭録」に次の言葉がある。

自分は常にあの弾丸とあの硝薬とあの毒瓦斯とそれからあの肉団(にくだん)と鮮血とが、我々人類の未来の運命に、何(ど)の位の貢献をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或(あ)る時は気の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々(をり/\)は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ残酷な事実を自白せざるを得ない。左様(さう)した立場から眺めると、如何(いか)に凄(すさま)じい光景でも、如何に腥(なま)ぐさい舞台でも、それに相応した内面的背景を具(そな)へて居ないといふ点に於(おい)て、又それに比例した強硬な脊髄を有して居ないといふ意味に於て、浅薄な活動写真だの軽浮(けいふ)なセンセーシヨナル小説だのと択(えら)ぶ所がないやうな気になる。

戦後の世界を考えれば、たえず、武力で他国を威嚇してきたのはアメリカだった。
しかし、その時代もいまようやく終ろうとしているのではないか。
もちろん、それは簡単ではないだろうが、イラクの失敗はルイジアナの悲劇と重なって、アメリカのネオコンの後退を招かずにはいない。

戦力を抛棄する日本国憲法はかつて世界に例を見ないものだから、不安を感ずるのは当然だ。
しかし、その憲法のもとで曲がりなりにも経済大国になった日本は、いまは、武力によらずしても国土と国民を守ることが出来るようになったのではないか。戦後の日本は、世界の未来を照らす。
平和立国を強化することで、世界類のない発展を遂げることは世界の希望だ。
平和憲法を徹底して守ること、いまのあいまいな脱憲法状況を憲法によって正していくこと、そのことだけが、日本を守り、アジアの信頼と世界の尊敬を得る道だ。
いま、あらためて、明治以来の軍国化の道を清算して新しく歩み出した戦争直後の日本に立ち返り、そこから、これからの日本の安全と発展について根本から考え直して見るべきときだろう。

どれだけの武装をすれば日本は安全だろう。
そのために、どれだけの社会福祉を犠牲にすれば日本人は幸福になるだろう。
しばしば、私たちは古くさい偏見にとらわれて自縄自縛に陥る。
他国に無量の犠牲を強い、自国民をに多大の不幸を強いて、そしてぬきさきならぬ泥沼にあえぐアメリカを参考にして、よくよく考えるべきときだ。

コイズミ政権もペテンはたちまち神通力をうしなって、結局、平壌宣言の実現と、それによる拉致問題解決への道へと歩みはじめることだろう。
今までは、ある勢力が家族の方々を、拉致問題を解決できない自縄自縛の道に動員していたのだ。
経済制裁せよと叫ぶ家族の姿はあまりに痛々しくて見ていられなかった。

無知の故に、すべてが逆さまに見えるように国民を動員してきた日本のマスメディアは、これから、すこしはまともに、アジアの姿を伝えようになるかも知れない。
これからは、もう少しまともな方向に進む可能性が開けてきたように思う。

漱石はその社会的、平和的本質が見えなくなるように、漱石研究者たちの多くは奮闘している。
彼らとたたかい、漱石のほんとうの姿をいまによみがえらせるのは、私が残された時間にしなければならない仕事だ。
健康に注意してそのために努力したい。

天高く馬肥ゆの秋である。
皆さんのご健康を祈る。

  伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2005年9月15日 (木)

漱石の偏見論 自然の復讐

漱石の偏見論 自然の復讐                      漱石一覧 

  漱石は日露戦争直前の時期の英文ノートに、地震や津波は人間に対する「自然の復讐」であると記している。人々は火山の火口のまわりで死のダンスを踊りながら、太陽がまた明日も昇ると信じて、楽しい人生だなどと言っていると言い、紳士淑女、大学教授、政治家などが、進歩や文明開化の名において、虚偽に虚偽を重ね、自然を破壊し、自然に背くことに対して、激しい呪咀の言葉を投げ掛けている。「自然は真空を嫌う。愛か憎悪か!自然は代償を好む。眼には眼を!自然は戦を好む。死か独立か!」漱石は「自然は復讐を奨励する」と言い、「復讐は甘美である」と言う。「自然に背く害虫」である人間を殺すのは、自分達の女神である「自然の法」だと言うのである。

      「自然の復讐」は地震や津波としてあらわれるばかりではない。漱石は戦争を人間の根底に潜む「野獣性」の爆発であり、文化文明に自惚れて驕慢になり、自然を忘れ、自然に背いて顧みない人間に対する「自然の復讐」であると言う。しかし、人間はこの戦争をさえ、ますます美しい言葉で飾り立てる。敵に対しては最大級の侮蔑と悪罵を浴びせ、味方には最大級の美化と称賛の言葉を捧げる。この偽善性こそ限りなく人間を堕落させるのだと漱石は言う。

      万物の霊長だなどと自惚れて、現代の文化文明を賛美し、「正義」だとか「人道」だとか、「愛は神聖だ」とかと、自己の野獣性を美しい言葉で飾り立て、互いに称賛しあっている紳士淑女の偽善と自惚れに対して、漱石は激しい憎悪の言葉を書き連ねている。彼等を踏みにじるために、お前の希望や研究、お前に貴重なもののすべてを犠牲にせよ。そして、彼等がお前の足の下であえぎながら、最後の息とともに弱々しい後悔の叫びをあげるまで決して止めてはならぬ。彼等は進歩の名において、彼等よりもよきものを、彼等の堕落した水準にまで引きおろそうとしている。彼等のこの傲慢や術策の価値を彼等に知らせねばならぬ。漱石の英文のノートには、このような意味の激しい言葉が延々と書き連ねられている。

      この激しい怒りと弾劾、憎悪と呪咀、血にかわく復讐の誓いは、誰にも知られないように、自分だけのノートに英文で書かれている。この激情は直接に公然と発表することが出来なかった。しかし、それだけに一層激しく心の中で沸騰した。この激情が漱石を作家の道に駆り立てた。それは決して見破られてはならないが、どうしても表現されなければならなかった。それは芸術的に加工され、変形されて『吾輩は猫である』という独特の芸術世界を生み出した。その滑稽諧謔はこの激情の文学的変形である。

      『二百十日』の圭さんは阿蘇の噴煙を仰いで、「仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの轟々鳴って噴き出すのと同じ事さ」と言う。圭さんは「僕の精神はあれだよ」と言い、「血を流さない」「文明の革命」を主張するのである。漱石は生涯にわたって「自然の理屈」を強調した。社会現象にも「自然の理屈」が貫徹する。フランス革命が起こるのも「当然」であり、「自然の理屈」であった。人間が自己にうぬぼれて驕慢になり、自然を忘れ、自然に背き、自然を蹂躙して顧みない時、戦争が起こり、革命が起こる。漱石にとって、それは避け難い「自然の復讐」であり「自然の理屈」であった。

      『道草』の漱石は「彼は血に餓ウえた。しかも他を屠ホフることが出来ないので已ヤムを得ず自分の血を啜ススって満足した」と書いている。『虞美人草』の甲野さんが「悲劇論」で言う「自然の制裁」もまた、この「自然の復讐」「自然の理屈」と別のものではなかった。

    最後の作品『明暗』について言われる「則天去私」の思想も、その根底にはこの激しい「自然」の思想があった。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月 8日 (木)

日露戦後百年と夏目漱石

「日々通信」第165号 2005年9月7日    漱石一覧 

9月5日はポーツマスで日露講和条約が結ばれた日である。
日露戦後100年ということになる。
いま、私たちはどこにいるか、どこに行こうとしているか。それを知るために、この一世紀をふりかえってみたい。

ともすれば、私たちは前へ、前へと、ひたすら前方をのみ見て、自分たちの歴史をふりかえってみることが少ないのではないだろうか。

漱石は1911年3月「マードック先生の日本歴史」という文章に次のように書いた。

「維新革命と同時に生まれた余から見ると、 明治の歴史は即ち余の歴史である」

「歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今の吾等は刻々に押し流されて、瞬時も一所に低徊して、吾等が歩んで来た道を顧みる暇を有たない。吾等の過去は存在せざる過去の如くに、未来の為に蹂躙されつつある。吾等は歴史を有せざる成り上がり者の如くに、ただ、前へ前へと押されて行く」(低徊のテイはぎょうにんべん)

我等の二つの眼は「二つながら、昼夜ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮(あせり)に焦慮(あせつ)て、汗を流したり呼息(いき)を切らしたりする」

「恐るべき神経衰弱はペストより劇ハゲしき病毒を社会に植付けつつある」

「夜番の為に正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる 家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにも拘わらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている」

「吾等は渾身の気力を挙げて、吾等が過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである」

 私は1926年生まれで、この年、大正天皇が亡くなられ、昭和と呼ばれる時代を迎えたから、この「明治の歴史は即ち余の歴史である」という一語は身に沁みる。

 漱石がこの文章を書いたのは1911年、明治44年であった。明治という時代は、この文章を書いた一年半あまり後に終わった。

 1911年といえば、1910年に幸徳事件が発覚し、この年一月に処刑されたのだった。日露戦後6年、日本は維新後40年あまりで世界の一等国に名を連ねたわけだが、その内実は苦しかった。

 日露戦争は日本がはじめて西洋の大国とたたかった大戦争だった。日本は敗けるかもしれない、それでも戦わなくてはならないという思いが日本国民を結集させた。

 ロシアは日清戦争のあと、日本から遼東半島を清国に還付させ、これを自らの支配下におき、その勢力を満州一帯から朝鮮に及ぼそうとしていた。

 このままでは日本は危ない、対露戦争は不可避であるとして、日清戦争後は対露戦争の準備が急がれた。臥薪嘗胆というような言葉が合言葉になり、国民は重税に耐え、多額の献金や公債を負担させられて、ひたすら軍事力の増強が急がれた。 

日露戦争は50万の兵士を動員し、死傷者は11万8千人、戦費は15億2千万円に達した。
 国民は勝利に沸いたが、講和による賠償金や領土割譲は、到底はらった犠牲を償うものとは思われず、不満が爆発して日比谷焼討事件になった。

 漱石はこの日露戦争の最中に「吾輩は猫である」を書きはじめ、戦後には「趣味の遺伝」を発表した。
 「趣味の遺伝」を見れば、漱石がどんな思いで、あの戦争を見ていたかがわかる。

「坊っちゃん」以下の諸作品は日露戦後の日本の現実と格闘する漱石が生んだ作品である。

「私の個人主義」は第一次世界大戦が勃発し、日本が青島を攻略した直後の講演である。
 そして死の年の正月に「点頭録」を書いた。
「明暗」は、死を目前にひかえ、想像もできなかったような戦争を展開するヨーロッパの現実を見据えながら書き綴った作品である。

 これらについてはすでにたびたび「日々通信」で触れてきたし、私のホームページに紹介の文章を掲載している。

 しかし、いま、イラク戦争の最中に日露戦争講和100年を迎え、その文学的生涯が、あらためて鮮明に浮かびあがってくる。
 私はあらためて、新しい気持で、日露戦後日本の問題、さらには近代日本の知識人と民衆の問題を、漱石を読むことで考えたいと思う。

 漱石は私の生涯かけて読んできた作家だ。
 これについての論考も数多く書いた。
 しかし、いま、9・11、イラク戦争を契機に世界史の転換が眼前に展開し、近代文明の矛盾が露出して、その終焉が問題になりはじめたいま、日露戦後の日本と全力をあげて格闘し、近代日本の諸問題を総括した漱石が新しく見えて来た。

 私の余命はもういくばくもない。
 私は私の漱石論をなんとかまとめたいという希望をもっていた。
 しかし、それを体系的に書き下ろす余裕はない。
 私の興味はあまりに多岐にわたり、漱石論一本にしぼりきれないのだ。
 それで、ホームページに「漱石雑談」というブログを開き、随時断片的な記事を書き、全体として、ひとつのまとまった漱石論を展開したいと思ったのだった。
 しかし、それも私の散漫に拡散する興味のためにすこしも進まなかった。今度、新しいテーマがうかび、なんとか書きすすめることが出来るように思う。

 もし、興味があれば私の「漱石雑談」をときどきのぞいて、感想や意見をコメントしていただければありがたい。
 私はそれを力に残り少ない時間のいくばくをそれに注いで、命のあるうちにいくらか目鼻をつけたいと思う。

 なお、日露戦争と漱石については、「近代文学の周辺 第五回 勝利の悲哀 漱石と蘆花」http://homepage2.nifty.com/tizu/syuuhen/@syuuhen5.htm
を参照していただければ幸いである。

 興味のある方は、「文学に見る戦争と平和」所収の次の項目を参照していただきたい。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/a%20sensou.htm
第三回 島崎藤村 「農夫」 (『藤村第詩集』「夏草」)
第四回 幸徳秋水 『二十世紀之怪物 帝国主義』
第五回 内村鑑三  寡婦(やもめ)の除夜 
第六回 木下尚江 『火の柱』
第七回 与謝野晶子 君死にたまうことなかれ
第八回 夏目漱石 「趣味の遺伝」 
第九回 徳富蘆花 「勝利の悲哀」
第十回 田山花袋 「一兵卒」
第十三回 夏目漱石「私の個人主義」

漱石と二十世紀 
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki20seiki/sousekinewpage1.htm
  第一回 ロンドンで二十世紀を迎える  
  第二回 『吾輩は猫である』と日露戦争
  第三回 「文明の革命」の思想  
  第四回 「新聞屋」として生きる
  第五回 漱石と社会主義
  第六回 変化する東京の光と影 
  第七回 月給で買われる人間
  第八回 「大患」と「大逆事件」後の新しい思想
  第九回 高等遊民
  第十回 『点頭録』と『明暗』 世界大戦と軍国主義の時代に

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2005年5月18日 (水)

現代によみがえる漱石

リンク: .

http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/sou@gendainiyomigaeru.htm

漱石を読む会10周年記念誌に書いたエッセイ。
これをはじめに、このつづきのような文章を書いていきたい。

漱石との出会い

『吾輩は猫である』は日露戦争の最中に書かれた。

戦争は精神を硬直させ、偏見と熱狂が人々を駆り立てる。

「猫」はこの精神の硬直をカリカチュアライズした。

それは、漱石の生涯をつらぬく方法であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

漱石の「自己本位」 

リンク: .

金正勲さんの著書(翻訳)につけた私の解説。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年5月16日 (月)

金正勲さんのホームページから

リンク: 멀티게시판 :: 네이버.

韓国から刊行された漱石文献とその表紙

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年5月10日 (火)

はじめに

漱石一覧 

漱石について、日々考えたこと、思いついたことを記録する。

皆さんのコメントをいただければ幸いだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)