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2005年9月20日 (火)

いまよみがえる夏目漱石

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鎌倉の仲地漱祐さんが市長選挙に立候補された。
夏目漱石のお孫さんである。
4女愛子さんの長男で、1946年2月26日生れだという。
横浜の大空襲で横浜の家が焼けたので、お婆さんの住む池上の夏目家に転がり込んでいて、そこで生まれた。
鏡子夫人は男の子が生まれたのをひどく喜び、<漱>という字を是非つけろと言われ、漱祐という名がつけられたのだという。
お祖父さんの記憶はもちろんないが、鏡子夫人は1963年没だから、大変可愛がってくれたお祖母さんのことはいろいろ記憶があるという。

漱石や鏡子夫人をお祖父さん、お祖母さんと呼ぶ漱祐さんの話を聞いていると、漱石の世界が、ごく身近なものに感じられて愉快だった。

中学3年のとき、ドイツ人の校長と喧嘩して、高校までつづく私立の名門進学校を中学で止めさせられたという話を聞き、その信条は<弱きを扶け強きを挫く>だと聞いて、漱石の<百年の後に生きる>という言葉を思い出した。

<百年の後に生きる>とは文学史にその名が残るという意味ではない。漱石は「自分が社会的分子となって未来の青年の肉や血となって生存」することを求めた。

1906年10月23日、哲学者の友人狩野亨吉に宛てた手紙に、東京高等師範を辞して松山中学に赴任した当時を回想して、次のように書いている。

ア「自分の立脚地から云ふと感じのいい愉快の多い所に行くよりも感じの悪い、 愉快の少ない所に居ってあく迄喧嘩をして見たい」
「それでなくては生甲斐のない様な心持ちがする。何の為めに世の中に生れているのかわからない気がする」

イ「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。そうしてその内に立って花々しく打死をするか敵を降参させるかどっちかにして見たいと思っている」

ウ「打死をしても自分が天分を尽くして死んだという慰籍原があればそれで結構である」 「 尤も烈しい世の中に立って(自分の為め、家族の為めは暫らく措く)どの位人が自分の感化をうけて、どの位自分が社会的分子となって未来の青年の肉や血となって生存し得るかをためして見たい」

エ「彼等がかく迄に残酷なものであると知ったら、こっちも命がけで死ぬ迄勝負をすればよかった」

オ「自分が戦わなければ、それだけ「社会の悪徳を増長」させることになる。これからはこんな場合には「 決して退くまい。否進んで当の敵を打ち斃してやろう」

これは大学をやめて文学一筋に生きようとして迷っていた時のお言葉だが、やがて『朝日新聞』に入社し、「虞美人草」で職業的な作家として出発したとき、「文芸の哲学的基礎」という講演で、次のように述べている。

「文芸は単に文芸であってはならない。文芸の意味は、作家の偉大な人格が読者の心にしみわたり、その血となり肉となって子々孫々まで伝わることにある。」

「自分が真の意味において一代に伝わり、後世に伝わって、始めて我々が文芸に従事することの閑事業でない事を自覚するのであります。始めて自己が一個人でない、社会全体の精神の一部分であると云う事実を意識するのであります。始めて文芸が世道人心に至大の関係があることを悟るのであります」

「虞美人草」執筆当時の手紙には次のような言葉がある。

  細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割(麦のひきわり)などを食っているよし。芋の薄切は猿と択えらぶ所なし。残忍なる世の中なり。而(しこう)して彼等は朝から晩まで真面目に働いている。

岩崎の徒を見よ!!!
終日人の事業を妨害して(いな企てて)三食に米を喰っている奴等もある。漱石子の事業はこれらの敗徳漢を筆誅するにあり。

『二百十日』の圭さんは阿蘇の噴煙を仰いで、「仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの轟々鳴って噴き出すのと同じ事さ」と言う。圭さんは「僕の精神はあれだよ」と言い、「血を流さない」「文明の革命」を主張するのである。

「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
「刀を使わなければ、何を使うのだい」
圭さんは、何にも云わずに、平手で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返叩いた。
「頭か」
「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」
「相手は誰だい」
「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴等さ」
「うん」
「社会の悪徳を公然商買にしている奴等さ」
「うん」
「商買なら、衣食の為めと云う言い訳も立つ」
「うん」
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等は、どうしても叩きつけなければならん」
「うん」
「君もやれ」
「うん、やる」

京都の椿わびすけさんが掲示板に仲地さん立候補のことを書いてくださり、仲地さんの従姉、マックレイン・松岡陽子さんの次のメールが紹介された。
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=ANC56573

従弟の仲地漱祐が鎌倉市長立候補とのこと面白いです。彼は本当に可愛い赤ん坊だったのを覚えています。私は彼が七つのときこちらに来てしまい、数年前母の十三回忌にほとんど五十年ぶりかで会ったということですので、もし町で擦れ合っても絶対にお互いに分かりません。私は二百パーセント戦争反対の人間なので、その点でも「改憲には反対。戦争であれだけの犠牲を払って得た9条だけは変えてはいけない。鎌倉市は全国に先駆けて平和都市宣言をしており、市政はこれを尊重する義務がある」と彼が言っているというところが気に入りました。勝つと嬉しいですが……

漱石の孫たちが平和主義者としてがんばっているのは、漱石の精神を受け継ぐものと思われて愉快である。

平和は漱石の生涯追求した主題だった。
特に、死の年(1916年)の新年に発表した『点頭録』は「軍国主義」「トライチケ」の章を設け、平和への熱い心を語っている。

いま、漱石がよみがえり、孫の漱祐さんの奮闘を支援してくれることを強く望む。
漱石については本通信<第165号 2005年9月7日 日露戦後百年と夏目漱石>を参照していただければ幸いである。
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2005/09/156_2005__778c.html

昨夜は中秋の明月だった。
中国では盛大に観月会が開かれる。アジア各地に同じ風習があるのだろう。
同じ月が中国も朝鮮も、アジアと世界を100年前と同様に照らしている。
パレスティナやイラクの難民はどんな思いでこの月を眺めていたか。

考えれば、戦闘機だの、戦車だの、空母、ミサイル、トマホークだの、莫大な富を集中して最新兵器をそろえ、これで、多数の非戦闘員を殺戮する。なにか、馬鹿げた話だ。

「点頭録」に次の言葉がある。

自分は常にあの弾丸とあの硝薬とあの毒瓦斯とそれからあの肉団(にくだん)と鮮血とが、我々人類の未来の運命に、何(ど)の位の貢献をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或(あ)る時は気の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々(をり/\)は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ残酷な事実を自白せざるを得ない。左様(さう)した立場から眺めると、如何(いか)に凄(すさま)じい光景でも、如何に腥(なま)ぐさい舞台でも、それに相応した内面的背景を具(そな)へて居ないといふ点に於(おい)て、又それに比例した強硬な脊髄を有して居ないといふ意味に於て、浅薄な活動写真だの軽浮(けいふ)なセンセーシヨナル小説だのと択(えら)ぶ所がないやうな気になる。

戦後の世界を考えれば、たえず、武力で他国を威嚇してきたのはアメリカだった。
しかし、その時代もいまようやく終ろうとしているのではないか。
もちろん、それは簡単ではないだろうが、イラクの失敗はルイジアナの悲劇と重なって、アメリカのネオコンの後退を招かずにはいない。

戦力を抛棄する日本国憲法はかつて世界に例を見ないものだから、不安を感ずるのは当然だ。
しかし、その憲法のもとで曲がりなりにも経済大国になった日本は、いまは、武力によらずしても国土と国民を守ることが出来るようになったのではないか。戦後の日本は、世界の未来を照らす。
平和立国を強化することで、世界類のない発展を遂げることは世界の希望だ。
平和憲法を徹底して守ること、いまのあいまいな脱憲法状況を憲法によって正していくこと、そのことだけが、日本を守り、アジアの信頼と世界の尊敬を得る道だ。
いま、あらためて、明治以来の軍国化の道を清算して新しく歩み出した戦争直後の日本に立ち返り、そこから、これからの日本の安全と発展について根本から考え直して見るべきときだろう。

どれだけの武装をすれば日本は安全だろう。
そのために、どれだけの社会福祉を犠牲にすれば日本人は幸福になるだろう。
しばしば、私たちは古くさい偏見にとらわれて自縄自縛に陥る。
他国に無量の犠牲を強い、自国民をに多大の不幸を強いて、そしてぬきさきならぬ泥沼にあえぐアメリカを参考にして、よくよく考えるべきときだ。

コイズミ政権もペテンはたちまち神通力をうしなって、結局、平壌宣言の実現と、それによる拉致問題解決への道へと歩みはじめることだろう。
今までは、ある勢力が家族の方々を、拉致問題を解決できない自縄自縛の道に動員していたのだ。
経済制裁せよと叫ぶ家族の姿はあまりに痛々しくて見ていられなかった。

無知の故に、すべてが逆さまに見えるように国民を動員してきた日本のマスメディアは、これから、すこしはまともに、アジアの姿を伝えようになるかも知れない。
これからは、もう少しまともな方向に進む可能性が開けてきたように思う。

漱石はその社会的、平和的本質が見えなくなるように、漱石研究者たちの多くは奮闘している。
彼らとたたかい、漱石のほんとうの姿をいまによみがえらせるのは、私が残された時間にしなければならない仕事だ。
健康に注意してそのために努力したい。

天高く馬肥ゆの秋である。
皆さんのご健康を祈る。

  伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

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2005年9月15日 (木)

漱石の偏見論 自然の復讐

漱石の偏見論 自然の復讐                      漱石一覧 

  漱石は日露戦争直前の時期の英文ノートに、地震や津波は人間に対する「自然の復讐」であると記している。人々は火山の火口のまわりで死のダンスを踊りながら、太陽がまた明日も昇ると信じて、楽しい人生だなどと言っていると言い、紳士淑女、大学教授、政治家などが、進歩や文明開化の名において、虚偽に虚偽を重ね、自然を破壊し、自然に背くことに対して、激しい呪咀の言葉を投げ掛けている。「自然は真空を嫌う。愛か憎悪か!自然は代償を好む。眼には眼を!自然は戦を好む。死か独立か!」漱石は「自然は復讐を奨励する」と言い、「復讐は甘美である」と言う。「自然に背く害虫」である人間を殺すのは、自分達の女神である「自然の法」だと言うのである。

      「自然の復讐」は地震や津波としてあらわれるばかりではない。漱石は戦争を人間の根底に潜む「野獣性」の爆発であり、文化文明に自惚れて驕慢になり、自然を忘れ、自然に背いて顧みない人間に対する「自然の復讐」であると言う。しかし、人間はこの戦争をさえ、ますます美しい言葉で飾り立てる。敵に対しては最大級の侮蔑と悪罵を浴びせ、味方には最大級の美化と称賛の言葉を捧げる。この偽善性こそ限りなく人間を堕落させるのだと漱石は言う。

      万物の霊長だなどと自惚れて、現代の文化文明を賛美し、「正義」だとか「人道」だとか、「愛は神聖だ」とかと、自己の野獣性を美しい言葉で飾り立て、互いに称賛しあっている紳士淑女の偽善と自惚れに対して、漱石は激しい憎悪の言葉を書き連ねている。彼等を踏みにじるために、お前の希望や研究、お前に貴重なもののすべてを犠牲にせよ。そして、彼等がお前の足の下であえぎながら、最後の息とともに弱々しい後悔の叫びをあげるまで決して止めてはならぬ。彼等は進歩の名において、彼等よりもよきものを、彼等の堕落した水準にまで引きおろそうとしている。彼等のこの傲慢や術策の価値を彼等に知らせねばならぬ。漱石の英文のノートには、このような意味の激しい言葉が延々と書き連ねられている。

      この激しい怒りと弾劾、憎悪と呪咀、血にかわく復讐の誓いは、誰にも知られないように、自分だけのノートに英文で書かれている。この激情は直接に公然と発表することが出来なかった。しかし、それだけに一層激しく心の中で沸騰した。この激情が漱石を作家の道に駆り立てた。それは決して見破られてはならないが、どうしても表現されなければならなかった。それは芸術的に加工され、変形されて『吾輩は猫である』という独特の芸術世界を生み出した。その滑稽諧謔はこの激情の文学的変形である。

      『二百十日』の圭さんは阿蘇の噴煙を仰いで、「仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの轟々鳴って噴き出すのと同じ事さ」と言う。圭さんは「僕の精神はあれだよ」と言い、「血を流さない」「文明の革命」を主張するのである。漱石は生涯にわたって「自然の理屈」を強調した。社会現象にも「自然の理屈」が貫徹する。フランス革命が起こるのも「当然」であり、「自然の理屈」であった。人間が自己にうぬぼれて驕慢になり、自然を忘れ、自然に背き、自然を蹂躙して顧みない時、戦争が起こり、革命が起こる。漱石にとって、それは避け難い「自然の復讐」であり「自然の理屈」であった。

      『道草』の漱石は「彼は血に餓ウえた。しかも他を屠ホフることが出来ないので已ヤムを得ず自分の血を啜ススって満足した」と書いている。『虞美人草』の甲野さんが「悲劇論」で言う「自然の制裁」もまた、この「自然の復讐」「自然の理屈」と別のものではなかった。

    最後の作品『明暗』について言われる「則天去私」の思想も、その根底にはこの激しい「自然」の思想があった。

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2005年9月 8日 (木)

日露戦後百年と夏目漱石

「日々通信」第165号 2005年9月7日    漱石一覧 

9月5日はポーツマスで日露講和条約が結ばれた日である。
日露戦後100年ということになる。
いま、私たちはどこにいるか、どこに行こうとしているか。それを知るために、この一世紀をふりかえってみたい。

ともすれば、私たちは前へ、前へと、ひたすら前方をのみ見て、自分たちの歴史をふりかえってみることが少ないのではないだろうか。

漱石は1911年3月「マードック先生の日本歴史」という文章に次のように書いた。

「維新革命と同時に生まれた余から見ると、 明治の歴史は即ち余の歴史である」

「歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今の吾等は刻々に押し流されて、瞬時も一所に低徊して、吾等が歩んで来た道を顧みる暇を有たない。吾等の過去は存在せざる過去の如くに、未来の為に蹂躙されつつある。吾等は歴史を有せざる成り上がり者の如くに、ただ、前へ前へと押されて行く」(低徊のテイはぎょうにんべん)

我等の二つの眼は「二つながら、昼夜ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮(あせり)に焦慮(あせつ)て、汗を流したり呼息(いき)を切らしたりする」

「恐るべき神経衰弱はペストより劇ハゲしき病毒を社会に植付けつつある」

「夜番の為に正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる 家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにも拘わらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている」

「吾等は渾身の気力を挙げて、吾等が過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである」

 私は1926年生まれで、この年、大正天皇が亡くなられ、昭和と呼ばれる時代を迎えたから、この「明治の歴史は即ち余の歴史である」という一語は身に沁みる。

 漱石がこの文章を書いたのは1911年、明治44年であった。明治という時代は、この文章を書いた一年半あまり後に終わった。

 1911年といえば、1910年に幸徳事件が発覚し、この年一月に処刑されたのだった。日露戦後6年、日本は維新後40年あまりで世界の一等国に名を連ねたわけだが、その内実は苦しかった。

 日露戦争は日本がはじめて西洋の大国とたたかった大戦争だった。日本は敗けるかもしれない、それでも戦わなくてはならないという思いが日本国民を結集させた。

 ロシアは日清戦争のあと、日本から遼東半島を清国に還付させ、これを自らの支配下におき、その勢力を満州一帯から朝鮮に及ぼそうとしていた。

 このままでは日本は危ない、対露戦争は不可避であるとして、日清戦争後は対露戦争の準備が急がれた。臥薪嘗胆というような言葉が合言葉になり、国民は重税に耐え、多額の献金や公債を負担させられて、ひたすら軍事力の増強が急がれた。 

日露戦争は50万の兵士を動員し、死傷者は11万8千人、戦費は15億2千万円に達した。
 国民は勝利に沸いたが、講和による賠償金や領土割譲は、到底はらった犠牲を償うものとは思われず、不満が爆発して日比谷焼討事件になった。

 漱石はこの日露戦争の最中に「吾輩は猫である」を書きはじめ、戦後には「趣味の遺伝」を発表した。
 「趣味の遺伝」を見れば、漱石がどんな思いで、あの戦争を見ていたかがわかる。

「坊っちゃん」以下の諸作品は日露戦後の日本の現実と格闘する漱石が生んだ作品である。

「私の個人主義」は第一次世界大戦が勃発し、日本が青島を攻略した直後の講演である。
 そして死の年の正月に「点頭録」を書いた。
「明暗」は、死を目前にひかえ、想像もできなかったような戦争を展開するヨーロッパの現実を見据えながら書き綴った作品である。

 これらについてはすでにたびたび「日々通信」で触れてきたし、私のホームページに紹介の文章を掲載している。

 しかし、いま、イラク戦争の最中に日露戦争講和100年を迎え、その文学的生涯が、あらためて鮮明に浮かびあがってくる。
 私はあらためて、新しい気持で、日露戦後日本の問題、さらには近代日本の知識人と民衆の問題を、漱石を読むことで考えたいと思う。

 漱石は私の生涯かけて読んできた作家だ。
 これについての論考も数多く書いた。
 しかし、いま、9・11、イラク戦争を契機に世界史の転換が眼前に展開し、近代文明の矛盾が露出して、その終焉が問題になりはじめたいま、日露戦後の日本と全力をあげて格闘し、近代日本の諸問題を総括した漱石が新しく見えて来た。

 私の余命はもういくばくもない。
 私は私の漱石論をなんとかまとめたいという希望をもっていた。
 しかし、それを体系的に書き下ろす余裕はない。
 私の興味はあまりに多岐にわたり、漱石論一本にしぼりきれないのだ。
 それで、ホームページに「漱石雑談」というブログを開き、随時断片的な記事を書き、全体として、ひとつのまとまった漱石論を展開したいと思ったのだった。
 しかし、それも私の散漫に拡散する興味のためにすこしも進まなかった。今度、新しいテーマがうかび、なんとか書きすすめることが出来るように思う。

 もし、興味があれば私の「漱石雑談」をときどきのぞいて、感想や意見をコメントしていただければありがたい。
 私はそれを力に残り少ない時間のいくばくをそれに注いで、命のあるうちにいくらか目鼻をつけたいと思う。

 なお、日露戦争と漱石については、「近代文学の周辺 第五回 勝利の悲哀 漱石と蘆花」http://homepage2.nifty.com/tizu/syuuhen/@syuuhen5.htm
を参照していただければ幸いである。

 興味のある方は、「文学に見る戦争と平和」所収の次の項目を参照していただきたい。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/a%20sensou.htm
第三回 島崎藤村 「農夫」 (『藤村第詩集』「夏草」)
第四回 幸徳秋水 『二十世紀之怪物 帝国主義』
第五回 内村鑑三  寡婦(やもめ)の除夜 
第六回 木下尚江 『火の柱』
第七回 与謝野晶子 君死にたまうことなかれ
第八回 夏目漱石 「趣味の遺伝」 
第九回 徳富蘆花 「勝利の悲哀」
第十回 田山花袋 「一兵卒」
第十三回 夏目漱石「私の個人主義」

漱石と二十世紀 
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki20seiki/sousekinewpage1.htm
  第一回 ロンドンで二十世紀を迎える  
  第二回 『吾輩は猫である』と日露戦争
  第三回 「文明の革命」の思想  
  第四回 「新聞屋」として生きる
  第五回 漱石と社会主義
  第六回 変化する東京の光と影 
  第七回 月給で買われる人間
  第八回 「大患」と「大逆事件」後の新しい思想
  第九回 高等遊民
  第十回 『点頭録』と『明暗』 世界大戦と軍国主義の時代に

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