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2005年12月20日 (火)

大逆事件前後 修善寺の大患と四つの講演

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 修善寺の大患と四つの講演
                           
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修善寺の大患が漱石の思想と文学に大きな影響をもったことはたしかなことです。一度死んで生き返ったという経験は、人間の生存について改めて深い認識をもたらしました。「思い出すことなど」にこの時の経験を書いていますが、大きな自然の前に、いかに人間が小さな無力な存在であるか、あらゆる社会的な権威、自信や誇り、自然に背いてあくせくする生活がいかに空しいものであるかを、静かなしみじみした筆致で書き記しています。寝たきりで、身動きすることもままならなくなった漱石は、赤子のように、雀の子や烏の子のように、食事も口まで運んでもらい、すべてを周囲の人の力に頼って生きたのです。自分で生きているのではなくて、周りの人々に生かされていると思い、人々の好意に感謝する気持が湧然とわきおこったと漱石は書いています。
  この修善寺の大患で、漱石の思想と文学を前期と後期に区分し、この経験の決定的な意味を強調するのが、これまでの漱石研究の一般的なやり方です。しかし、修善寺の大患は「大逆」事件の時期と重なっています。「大逆」 事件は天皇を利用して、無政府主義者だけでなく、社 会主義や反政府的な思想を全面的におさえつけようとした事件で、これを契機に言論思想に対する検閲や取り締まりが極端に厳しくなり、所謂冬の時代を現出したのです。生死の境を行き来する重病に苦しんでいた漱石は、現実を遠く離れた別世界に生きていましたし、この事件に対する直接の言及はありません。このため、「大逆」 事件の漱石に対する影響は無視されがち ですが、『野分』や『それから』の作者である漱石が、この事件に強い関心を示さなかった筈はありません。
  「思い出すことなど」の漱石は、ドストエフスキーが死刑を宣告され、死刑台上で処刑の直前に赦免された時の事を記して、僅かに死をまぬがれた自分の運命と比較し、「寒い空と、新しい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、シャツ一枚でふるえている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記しています。この直後に死刑を執行された幸徳らのことを、漱石は繰り返して想像し、殺された彼等と生き残った自分とを思い比べたに違いありません。『明暗』執筆前後のノートにも、ドストエフスキーのこの時の経験に基づいて書かれた『白痴』の一節が、英文でかなり長く書き写されています。

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  修善寺の大患の前、幸徳らが検挙された直後に当たる長与病院入院中から、大患の時期を除いて、この時期の漱石は異常と言ってもいいほど多数の評論を書いています。最初の入院中、一度朝日新聞の同僚たちと見舞いに来た石川啄木が、四五日後に今度は一人で訪ねて来ていますが、「大逆」 事件を契機に思想的に大きな発展を遂げた啄木だけに、話題がこの事件に及ん だのではないでしょうか。この時期の漱石は断片ノートに、一つのイズムを奉ずるのはいいが、他のイズムをひたすら否定して、人生をただ一色に片付けることに反対だと記しています。行為はひとつだが、思想や感情は多様だと言い、人生にはさまざまな要素があって、決してひとつの目的に導かれるものではないと言うのです。一つのイズムを絶対化し、固定したイズムの眼鏡でものを見る観念的な態度を批判する見解は、この時期に発表された「イズムの功過」ばかりでなく、大患前後の活発な言論活動で一貫して強調されました。
  「文芸とヒロイック」では、事故で沈没した潜航艇の佐久間艇長が、遺書として、事故の記録を死に至るまで沈着冷静に乱れる文字で書き記したことを、「このヒロイックなる文字」が、現代の「器械的の社会の中に嚇カクとして一時に燃焼せられたるを喜ぶ」と述べています。そして、「本能の権威」のみを説く自然派の小説家も、「重荷を担ニノうて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、またこの種不可思議の行為があるということを知る必要がある」と述べています。
  これらの評論は、たしかに当時の文壇を支配した自然主義の主張が、人生と文学を硬直した一面的な人間観世界観に閉じ込めるのに対する批判として書かれていますが、「大逆」 事件を 契機として急激に強化された、天皇と国家を絶対化し、日本を特別な国として、対立者の存在を認めようとしない弾圧思想に対する批判でもあったと思います。この弾圧は真実を追求しようとする真面目な言論を言論界から追い出し、天皇と国家を美化する個性のない虚偽の言語を氾濫させました。漱石は自然主義批判や芸術評価の問題を前面の押し立てながら、このような時代の風潮と鋭く対立する注目すべき評論を、入院中にもかかわらず次々に発表したのです。   「艇長の遺書と中佐の詩」では艇長の遺書を、当時軍神と崇められた広瀬中佐の忠君愛国の感情を誇大に表現した詩と比較して、中佐の詩は「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」と厳しく否定しています。書く必要もないのに書いた自己広告的な詩で、むやみに偉がっている。こんな詩を作る人だと思うと、その壮烈な行為まで疑いたくなるというのです。中佐の詩に対する漱石の軽蔑と嫌悪は、あきらかに、天皇と国家を美化し、絶対化して、自己の真実を失った、この時代に氾濫した言語に対する痛烈な批判でした。この虚偽の言語によって、真実の言語が抑圧され、弾圧されたのです。艇長の遺書に対する漱石の感動には、暗い時代にあっても自己を曲げず、生命を賭して戦う幸徳らに対する関心に通じるものがあったのではないでしょうか。
  幸徳らの処刑からまだ一カ月しか経っていない二月二十日、文部省から博士号授与の通知があり、まだ入院中の漱石は直ちにこれを辞退しました。しかし、文部省は既に発令済みだからとして辞退を認めませんでした。政府をすべての上に置き、個人の意志を無視して顧みない文部省の横暴を怒った漱石は、この経緯を「博士問題の成行」に書き、博士制度を破壊しなければならんとまでは考えないが、博士でなければ学者でないように世間に思わせるほど博士に価値を付与したら、厭うべき弊害が続出することを憂えると述べました。この意味でフランスにアカデミーのあることも快く思わないとも言いました。
  漱石の博士号辞退は決して偶然的な、孤立した事件ではありませんでした。幸徳らが処刑された直後に南北朝正閏論が政治問題化し、国定国史教科書が書き換えられ、編纂官が休職になりました。この言論思想学問を弾圧する文部省が漱石に博士号を授与し、その辞退も認めないと言うのです。自己を絶対の権威者とし、学問や芸術まで権威主義で支配しようとする政府に対する漱石の激しい抗議と戦いが博士号辞退事件であり、当時相次いで発表された「文芸委員は何をするか」「学者と名誉」「文展と芸術」などの評論活動でした。博士号だけでなく、学問芸術を奨励するという名目で賞を与えたり、展覧会を主催したりして、国家が学問芸術に関与することに激しく反対したのです。
  「文芸委員は何をするか」の漱石は、「文芸其物と何等の交渉なき政府の威力」に基づく  「文芸委員」の制度そのものを批判し、政府が「此機関を通して、尤も不愉快なる方法によって、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物のみを奨励して、其他を圧迫するは見易き道理である」と、鋭い指摘をしています。その後の「文展と芸術」でも、漱石は文部省主催の美術展覧会が、国家の権威を背景にして世間の評価に大きな影響を持つことを批判して、「既に法外の暴威を挟サシはさんで、間接ながら画家彫刻家を威圧している」と見てよく、やがては「お上の御眼鏡」にかなって文展に入選しなければ、画家彫刻家として世に立つことが出来なくなるだろうと述べています。
  「文展と芸術」は明治天皇の大葬直後の評論ですが、漱石は自分は個人主義の立場に立つと言い、「如何に権威の局所集中を忌むか」「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものゝ勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」について、別の機会に「最も明らかに語りたい」と強い言葉で述べていす。ここには天皇の死を利用して国家意識を極度に盛り上げようとすることに対する反感と抗議があり、二年後の講演「私の個人主義」はこの約束を果したものでした。

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  修善寺の大患は人間存在と自己生存の意味について深刻に考えさせ、「大逆」事件は、自分の生涯そのものである明治日本の社会と日本の未来について、根本的に検討し直させました。漱石の退院は一九一一年二月二六日ですが、この直後に「マードック先生の日本歴史」を発表し、ひたすら西洋の文化に圧倒された明治の日本が、焦りに焦ってその模倣に明け暮れ、自分自身を見失って、「恐るべき神経衰弱はペストより劇ハゲしき病毒を社会に植え付けつつある」と述べています。そして、日露戦争後の日本がますます軍備の拡張を進め、国民の生活が破壊されていることを指摘し、このように無理に無理を重ねても、日本の未来は決して明るいものとは思えないと述べています。

  現実の暗さを見つめ、日本の前途を憂える漱石は、辛うじて取り留めた自分の生命の限り、横暴な国家権力を批判して、新しい未来のために戦おうとしました。博士号辞退事件に始まる前記の評論活動はその現れです。そしてこの夏、明石、和歌山、堺、大阪の各地で連続して講演しています。この講演旅行はもともと病後の漱石には無理な計画で、途中から胃病に苦しみ、一カ月近くも大阪の湯川病院に入院することになりました。この前にも長野で講演していますが、病後の漱石が無理をしてこのようにしばしば聴衆の前に立ったのは、社会に直接語りかけようとする気持ちの現れだと思われます。

  「現代日本の開化」で漱石は、「開化は人間活力の発現の経路である」と定義しました。開化を「人間活力の発現」、「自然の理」に基づくものとした所にこの定義の意味があります。これは開化と言えば直ちに西洋化のことと考えがちな当時の風潮に対して、文化の多様な発展の可能性を認め、西洋の文化をその一つの形態と見るものでした。そこには西洋において実現された開化を絶対化し、ひたすらその模倣に努めるのでなく、創造的な独自の文化の実現を求める漱石の考えが現れています。

  『それから』には、「進化の裏面を見ると何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象」だという言葉がありましたし、

「道楽と職業」では、「現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支えない」と述べています。

「現代日本の開化」でも、「開化が進めば進むほど競争が益マスマス劇ハゲしくなって生活はいよいよ困難になるような気がする」「競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである」というようなことをしきりに強調しました。現代を美化し、讃美する傾向に対して、漱石は現代の開化の矛盾を直視したのです。とりわけ日本のように、優勢な西洋文明に接触してその強力な影響を受け、「外発的な開化」を強いられる場合は、そこに多くの無理が生じることを指摘しています。

  しかし漱石の講演は、現代の開化の矛盾を説き、日本の開化が「外発的」であることを指摘するだけのものではありませんでした。「中味と形式」で漱石は「形式は内容の為の形式であって、形式の為に内容が出来るのではない」と述べ、「内容が変れば外形と云うものは自然の勢いで変って来なければならぬ」と主張しました。中味が変わったのに古い形式を守り続けようとすれば、「学校なら騒動が起る、一国では革命が起る。政治にせよ教育にせよ或は会社にせよ、わが朝日社の如き新聞にあってすらそうである」と言うのです。

  「現今日本の社会状態」は「目下非常な勢いで変化しつ」つあり、我々の内面生活も「刻々と非常な勢いで変わりつつある」のだから、政治経済、社会の態勢も、これに対応して変わって行かなければならない。「何故徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒むからなんでしょう。どうしたって内容に伴れ添わない形式は何時か爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う」と漱石は述べています。そして、「内容の変化に注意もなく頓着トンジャクもなく、一定不変の型を立て て、そうして其型は唯タだ在来あるからと云う意味で、又其型を自分が自分が好いて居ると云 うだけで、そうして傍観者たる学者の様な態度を以モッて、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推オして行ったならば危ない」と述べたのです。

  旧来の古い型に国民を縛り付けようとすれば、必ず反抗が起こり、革命が起こると主張する漱石は、観念に対する事実の優位性を説き、現実を理論に従属させ、形式に囚われがちな学者の欠陥を指摘して、現に生活している普通の人たち、「実生活の経験を嘗めているもの」の現実の必要から、古い形式、制度や法律を改変し、新しい社会を作ることを強調しました。

  そして、最後の大阪での講演「文芸と道徳」では「若し活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文芸としてより外に存在は出来ないものである、枯れて仕舞わなければならないのである」と述べました。「完全な一種の理想的の型」をこしらえて、それで生活を律しようとした旧時代の道徳を虚偽であり、権力者に「都合のいいような義務の負担に過ぎない」と批判した漱石は、しかし、無理想、無解決を標榜して、結局は現代の不条理、人間と社会の弱点をすべてを容認する自然主義にも反対したのです。

  「人間の歴史は今日の不満足を次日物足りる様に改造し次日の不平を又其翌日柔らげて今日迄コンニチマデつづいて来たのだから、一方から云えば正マサしく是コれ理想発現の経路に過ぎんので あります」と漱石は述べています。現代には現代の理想が必要だ言うのです。しかし、それは支配者に都合がいい忠臣孝子の理想の型に人民を押し込めることでもなければ、西洋の模倣でも、学者が頭の中でこしらえたものでもなく、現に生活している普通の人々の生活の必要が生み出すものでした。漱石は「我々現在生活の陥欠を補う新らしい意義を帯びた一種の浪漫的道徳」が必要だと言い、それを「活社会の要する道徳」と言ったのです。

  「大逆」 事件の直後に行われたこれらの講演が、この事件を契機として、天皇と国家を絶対 とする反動の嵐が吹き荒れる日本の前途を深く憂え、歴史の主体としての国民の自覚を強く求めると同時に、これからの文学がこのような「活社会の要する道徳」の追究として発展すべきことを主張したのです。

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コメント

漱石雑談の大逆事件の前後のことで、漱石があの事件に衝撃を受け、ドストエフスキーについての作品があることをはじめて知りました。たぶん、明治天皇の死去のとき、乃木大将の行動について
批判した小説があったと記憶していますが、なんだったか忘れました。知っておられたら教えてください。
 私は、山村暮鳥会のメンバーで、暮鳥も又、当時、ドストエフスキーに言及したものがあり、当時の文学者の心境を推察しています。

投稿: 白石祐子 | 2006年8月 7日 (月) 11時56分

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