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2010年4月21日 (水)

「虞美人草」の世界 下

 「虞美人草」の世界 下
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  「僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思つてゐた。旨いものが食へると思つてゐた。綺麗な着物がきられると思つてゐた。詩的に生活が出来てうつくしい細君がもてて。うつくしい家庭が[出]来ると思つてゐた。」明治三十九年十月二十六日付鈴木三重吉宛書簡(第二信)の一節である。「もし出来なければどうか
して得たいと思つてゐた。換言すれば是等の反対を出来る丈避け様としてゐた」と漱石は書いている。「道草」の健三は、子供の時から「何でも長い間の修業をして、立派な人間になって世間に出なければならないといふ慾」をもっていた。「京に着ける夕」の漱石は、「子規と来た時は斯様に寒くはなかった」と書いている。子規と来たのは夏だから、寒くないのは当然である。それなのにわざわざ「斯様に寒くはなかった」と書くのは、「京に着ける夕」の寒さが
単に身体の寒さではないことを示している。漱石は子規とともに夜の清水を徘徊して、「幾点の紅燈に夢の如く柔かなる空想を縦まゝに酔はしめ」たのである。前掲狩野亨吉宛明治三十九年十月二十三日付書簡(第一信)には「考へて見ると僕は愚物である。大学で成蹟がよかったそれで少々自負の気味であった」と書いている。「制服の釦を真鍮と知りつゝも、黄金と強ひたる時代」のことである。
  「虞美人草」の漱石は、暗い所に生い立った小野の世界が変ったことを書いている。「変だと考へるのは悪るく変った時である。小野さんは考へずに進んで行く。友達は秀才だと云ふ。教授は有望だと云ふ。下宿では小野さんくと云ふ。小野さんは考へずに進んで行く。」漱石は「小野さんは考へずに進んで行く」という言葉をくり返している。「進んで行ったら陛下から銀時計を賜はつた。浮か
び出した藻は水面で白い花をもつ。根のない事には気が付かぬ。」
この小野は、制服の釦の真鍮を黄金と強いた、若き日の漱石の一面を伝えるものである。「真鍮は真鍮と悟った」とき、漱石は制服を捨て、「赤裸の儘」世の中に飛び出し、「尻を端折って西国へ出奔」しなければならなかった。
 漱石心松山行きについて狩野亨吉宛前掲書簡(第二信)に、「世の
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中は下等である。人を馬鹿にしてゐる。汚ない奴が他と云ふ事を顧慮せずして衆をた恃み勢に乗じて失礼千万な事をしてゐる。こんな所には居りたくない。だから田舎へ行ってもつと美しく生活しやうーー是が大なる目的であった」と書いている。これは三日後に書いた前掲三重吉宛書簡と呼応する言葉である。「余は比較的にハーム
レスな男である。進んで人と争ふのを好まねばこそ退いて一人(種々な便宜をすて、色々な空想をすて、将来の希望さへ棄てき退いて只一人安きを得ればよいと云ふ謙遜な態度で東京をすてたのである」と漱石はいう。小坂晋が明らかにしたように、この松山行きの背後に大塚捕緒子との結婚問題があったとすれば、楠緒子との結婚は、「種々な便宜」をあたえるものであり、「色々な空想」をはぐく
み、「将来の希望」に道を開くものであった。三重吉宛書簡の旨い物を食い、綺麗な着物を着、美しい細君を持ち、美しい家庭をつくり、詩的な生活を実現するもので、「どうかして得たい」と子供の時から思っていたものであった。「真鍮は真鍮と悟ったとき」というのは、自分が真鍮であることを悟ったというだけでなく、自分が望んでいた生活、楠緒子によって代表される美しい女性の世界、美
しい家庭生活の夢、中流上層家庭の世界、そしてまた大学が代表する学問の世界、要するに近代文明の世界そのものが、真鍮を黄金と強いるものであることを悟ったときなのであった。狩野宛書簡には、「文明の衣をつけた野蛮人」といい、この手紙のすこし前に発表した「二百十日」では、「文明の皮を剥ぐ」ということを強調している。
  「道草」執筆の半年前、漱石は学習院で「私の個人主義」と題して講演し、大学で三年間勉強して、文学はついにわからずじまいだつたと述べている。 「腹の中は常に空虚」で、「始終中腰で隙があつたら、自分の本領へ飛び移らうくとのみ思って」いたが、その「本領」というのが、あるようでないようで、どうしても飛び移ることができなかったという。こうした不安を抱いて大学を卒業し、松山から熊本へ引越し、遂に外国にまで渡った漱石は、あらゆる費用をきりつめて書物を買い、神経衰弱になるほど勉強したが、いくら書物を読んでも「腹の足にはならないのだ」とあきらめなければならなかった。「同時に何の為に書物を読むのか解らなくなって来た」という。自己を発見することの必要をいうために、自己を見うしなって生きなければならなかった、根なし草のような、不安で空虚な自分の過去を語ったのである。この講演と同様のことを、明治三十九年十一月四日付読売新聞紙上に発表した「文学論序」に、もっとはげしい言葉で述べている。それは漱石の大学に対する訣別の辞ともいうべき文章(1)であるが、「文学論序」を書き、「野分」を書いて、新しい作家としての道にふみこもうとした漱石が、しきり
に自分の過去をふりかえり、それをばね(傍点)にして、はげしく前に進み出ようとしていたことは明らかである。そのはげしい心情は、前掲の狩野宛、三重吉宛の書簡にもはっきりあらわれている。
 生涯の大きな転回点に立つ漱石は、かつての生涯の一大転回点、すべてを捨てて松山に赴き、一中学教師の生活に埋もれようとした当時のことを、はげしい心で想起しなければならなかった。当時のことをもっともよく知っている狩野亨吉にあてた書簡は、そのことをはっきりと示している。「地位を得てから今日に至って、余の家庭に於ける其他に於ける歴史は尤も不愉快な歴史である。十余年前
の余であるならばとくに田舎へ行つてゐる」という漱石は「然し今
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の僕は松山へ行った時の僕ではない」というのである。

   僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。どんな事があつ
  ても十年前の事実は繰り返すまい。今迄は己れの如何に偉大な
  るかを試す機会がなかった。己れを信頼した事が一度もなかつ
  た。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼
  りにして生話しやうとのみ生活して居た。是からはそんなもの
  は決してあてにしない。余は余一人で行く所迄行って、行き尽
  いた所で斃れるのである。
 この漱石によって語られる過去の漱石は、自己なき自己であり、
小野的自己である。「洋行から帰る」船の中の漱石は、出発の直前
にその死を知った子規のことを、熱い心で思いうかべていたであろ
う。過去の自分ともっとも深く結びついている子規のはげしい生涯
を思いうかべながら、東京に待つ新しい生活にふみこむ決意を固め
たのである。同じように大学をやめて新しい作家の生活にふみこ心
うとする漱石は、なによりも先ず京都に赴き、狩野宇吉にあい、正
岡子規を想いうかべ、自分の過去とはっきり直面して、そこから新
しい勇気を得ようとした。「虞美人草」の世界は、漱石が自分の内
部の小野的自己をはっきり直視し、その「文明の皮」を引きはぎ、
自分自身について、人間について、真剣な検討を展開する所に成立
した。その時漱石は、狩野亨吉と正岡子規のふたりを思いうかべて
いたのであり、このふたりを彷彿させる、哲学者甲野欽吾、実行家
宗近一を登場させることによって、「虞美人草」の世界を展開した。
もとより甲野・宗近が漱石の分身であり、漱石の内部世界を表現す
る人物であることは否定できない。しかし狩野・正岡と甲野・宗近
はその名においてもひびきあうものを持っており、たとえそれが作品世界において、どれはどの変形を蒙らされ、作品世界を形成する作中人物化されているにしても、漱石の心にこのふたりがはっきりと生き続け、作品世界にその影を投げていることは否定できないと思われる。
 「虞美人草」の世界の主人公は、しかし小野清三であり、藤尾である(2)。漱石は「野分」において暗い過去に悩み、美しい生活にあこがれる、自己なき大学卒業生高柳周作を、深い同情をもって描いた。高柳は森田草平をモデルにしたといわれるが、しかし漱石はそこに自分の過去を見ていたということができよう。むしろそれ故に、草平に対してあれほどの同情を示し、温かい激励と訓戒をあた
え続けたのである。「野分」の高柳は「虞美人草」の小野である。漱石は小野に自分自身の過去を見ただけでなく、森田草平を見、鈴木三重吉、小宮豊隆、中川芳太郎、その他自分の周囲に集まる多くの青年たちを見た。これらの文学を夢み、美しい生活にあこがれる青年たちに共通する弱点を一身に担う入物が小野であった。漱石の小野に対する態度は、その弱点を弱点として描き出しているにもか
かわらず、決して冷酷ではない。むしろあたたかく同情的である。「作者は小夜子を気の毒に思ふ如くに、小野さんをも気の毒に思ふ」(九)と、わざわざ作中にことわっている。漱石は周囲に集まる青年たちを通して、自分の過去を新しく発見しなおし、そのことによって、現代の青年たちを新しく発見しなおした。そこに創造されたの
が小野の世界であり(3)、「虞美人草」の世界である。
 (1) 前掲拙稿「夏目漱石の明治三十九年」参照。
 (2) 小野主人公説は、二十年近く昔の読書会における、現在中央区立京橋図書館長福井経正の発言に示唆を受け、ながく心に
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 残りながら、今日まで展開できなかったものである。
(3) 桶谷秀昭「夏目漱石論」に、小野についての注目すべき考察がある。

 小野清三は漱石の過去であるだけでなく、また漱石の現在を表現する。漱石は過去をふりきり、ひたすら新しい揚所に進み出ようとして、よみがえる「過去の幽霊」にとらえられ、立ちすくまなければならなかった。その過去に帰り、その過去をくぐりぬけることによってしか、漱石は作家としての道をきりひらくことができなかった。小野はこの過去におびやかされ、目をそむけようとしてそむけることができず、かえって過去の世界に吸いこまれて行く漱石の、
暗い心を表現している。狩野亨吉宛前掲書簡によれば、狩野は養母とその娘とともに漱石が住んで居る夢を見て、そのことを漱石に知らせてやったらしい。しかもそのころ、なにか養母に関する記事が日本新聞に出たと推察される(1)。このことは、漱石に暗い過去をよみがえらせるに十分な出来事である。やがて漱石は「道草」に描かれたような、養父母とのうっとうしい関係にまきこまれることに
なるが、故郷である東京に帰り、文名にわかにあがるとともに、いやでも忘れていた暗い過去を思い出させる多くの人々や事物に出会わなければならなかったろう。しかし漱石を脅かすものは、そのような生いたちにまつわる暗い過去ばかりではなかった。
 小坂晋が明らかにしたように、大塚楠緒子は「密会」(「明星」明治三七年一月)、「あの方の記」(同明治三八年一月)その他に、現在の夫に満足せず、過去の恋人を恋か慕い、謹厳な学者の仮面をひきはいでその温かい血にふれようとし、また女学生時代、通学途上でしばしば出会った大学生に対する思慕が今にいたるまで消えぬというような、あやしく揺れ動く人妻の心をさまざまに描いている。
 「客間」(「早稲田文学」明治三九年三月)では、十年ぶりに再会した漱石を彷彿させる人物を描き、ふたりの間の心の動揺を描いている。そして漱石が「虞美人草」を連載したのと平行して、万朝報に連載した「露」では、明らかに漱石と思われる文学者に対する、女主人
公の限りない思慕と憧憬と崇拝の心を表現している。英国から帰国した漱石と大塚家の間には往来があり、「硝子戸の中」に書かれているように、楠緒子がひとりで漱石を訪ねることもあった。このような楠緒子は、いやでも漱石に楠緒子との結婚を夢みた当時を思い起こさせ、あやしい心の動揺をよびおこさずにはいなかったろう。明治三十八年の夏にそのノートをつくった「文学評論」には、人妻
を夫から奪って、戦争中にもかかわらず、戦争をよそに愛の生活を営む男女のことを例としてあげ、明治四十年四月、「虞美人草」執筆直前の講演「文芸の哲学的基礎」は、嫁に行きながら他の男を慕う女のことを例としてあげている。このとき漱石が、楠緒子がその頃しきりに書いていた小説のことを思いうかべていなかったとはいえないだろう。しかし漱石における楠緒子の問題は、小坂晋が想像するよりも、はるかに複雑だったと思われる。その複雑さは「虞美
人草」にもはっきりその影を落している。
 漱石にとって楠緒子は「過去の女」であった。生いたちにまつわる暗い過去とともに、葬り去りたい過去の記憶であった。それは松山行きにまでいたる屈辱の記憶と結びついている。しかし葬り去ったはずの過去はむこうからよみがえって来る。「道草」の健三は、
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 「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起ったことは何時迄も続くのさ」というが、「虞美人草」の漱石は、「打ち遣った過去は、夢の塵をむくくと掻き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜から出す。おやと思ふ間にぬっくと立って歩いて来る」(九)と書いている。そして「打ち遣った時に、生息(いき)の根を留めて置かなかったのが無念であるが、生息は向で吹き返したのだから是非もない」と書き、「甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追ひ付かれゝば労らねば済まぬ」と書いた。小野は過去と未来にはさまれて苦しむ男であるが、この小野に托された漱石の過去は二重の過去であった。ひとつは暗い所から脱出して美しい夢を見た青年の日の漱石にとっての過去であり、もうひとつは、その青年の日の夢をも、過去の夢として葬り去った現在の漱石の過去である。「後を向けばひゅうと北風が吹く。此寒い所をやっとの思ひで斬り抜けた昨日今日、寒い所から寒いものが追っ懸けて来る。」「われは過去を棄てんとしっゝあるに、過去はわれに近付いて来る。遍って来る。
静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超えて、暗夜を照らす提灯の火の如く揺れて来る、動いて来る。」(四)この「寒い所から寒いものが追っ懸けて来る」という言葉は、「京に着ける夕」の寒さを思わせ、「暗夜を照らす提灯の火の如く」という言葉は、前述の「明暗」の一節を思わせる。ここにはよみがえる「過去の幽霊」、「宿命
の業火」におびえる漱石がいる。

 小夜子は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二璽の関を隔てゝ逢ふ瀬はない。たまく忍んで来れば犬が吠える。自からも、わが来る所ではないか知らんと思ふ。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に蔵して、猶更に疑を路上に受くる様な気がする。(九)

 これは夫と思う小野に対する小夜子の心の表現としては不自然ではあるまいか。むしろ過去の夢を追う楠緒子の、人目はばかる後めたい心を表現しているように思われる。また楠緒子に対する漱石の後めたさをあらわしているとも考えられる。漱石は虚心に楠緒子とつきあおうとしながらも、決して虚心につきあうことはできなかったろう。楠緒子は漱石を魅惑する。しかし漱石はその魅力をおそれ、反撥せざるを得ない。惹かれると同時に反撥したのである。楠緒子のナルシズム(2)は、すべての男が自分を愛することを求めたのであり、その作品にあらわれた男たちは、いずれも彼女にひざまずく男たちであった。この楠緒子に惹かれながらも反撥する心が、楠緒子をモデルにして、藤尾のような女を創造した。もちろんそれは、漱石の楠緒子に対する愛を示すものだということができるだろう。しばしば漱石は夢に楠緒子を見、想像世界にまざまざと思い描くこ
とがあったと思われる。しかしそれは変形された楠鶴子であり、現実の楠緒子ではなかった。現実の楠緒子に対しては、すべてを過去として、拘泥することなくつきあおうとしたと思われる。しかし漱石の心の平衡はしばしば崩れようとした。平衡を保つためには反撥を強化しなければならなかった。この心の葛藤が藤尾をつくり出し、 「虞美人草」の世界を形成したと思われる。
 漱石は狩野亨吉宛前掲書簡に、「元来夢といふものに限らず何も予期しないで行雲流水の趣で見てゐると甚だ愉快なものだ。拘泥する途端に凡てをぶち壊して仕舞ふ」と書いている。「草枕」の非人情論を思わせる言葉であるが、これはまた、前述の「硝子戸の中」
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の、思いがけず幌@車に乗っ・た楠諸子に路上で会い、楠緒 子とも知らずに美しい人だと思い、芸者だろうと思ったという回想と関係があるように思われる。狩野宛書簡の漱石は、「僕の様な人間は君程悟つてゐないから@ややともすると拘泥していけないが夢丈は自由自在で毫も自分に望も予期心ないから甚だ愉快だ」と続け、「どんな悪夢を見てもどんな罪な夢を見ても自然の極致を尽してゐるから愉快だ」と書いている。そして「実世間では人間らしく振舞つてゐてもチョイく拘泥する所が自分にあるから却って醜悪な感じがする」と述べているのである。現実世界では世間に拘泥し、過去に拘泥して、自由に自然な自分の心を生きることの出来ない漱石が、夢の中ではそれらすべての拘泥から解放され、自然な愛を自由に実現し得ることを語っているのだと思われる。夢に見るのが楠緒子ひとりとは限らない。むしろ漱石は、夢においてさまざまな女たちと、自由に交通したのではないかと思われる。すでに明治二十二、三年の漱石は夢に美人を見ることの愉快を、正岡子規宛の書簡に繰り返して書いている。夢に見る女たちは現実の女性のいやな所をすこしも持たず、現実世界におけるように厄介なごたごたをひきおこすことはすこしもないのである。
  「生きて居る過去も、死んだ過去のうちに静かに@ちりばめ鍍られて」(四)と漱石は書いている。それが完全な過去、死んだ過去、動かぬ世界であって、夢にのみ、想像にのみよみがえるのであるならば、美しいものはどこまでも美しく、どんなにでも自由に、自然な心で愛することが出来る。そしてそれは現実に生きる限りどうしても避けられぬあらゆる拘泥、あらゆる不愉快から解放して、限りない慰葺と平安を与えてくれる。しかしその過去が生きかえり、現実世界によみがえってくると、夢は破れ、平安と慰藉はうしなわれて、不愉快な現実の渦にまきこまれてしまう。漱石は楠鈴子を愛したであろう。しかしそれは現実に生きる女としての楠緒子ではない。肉をもち、我にかりたてられ、漱石を支配し、破滅させようとする楠緒子ではない。「過去の女」として、夢と想像の世界にのみ生きる、非現実の女としての楠緒子である。あらゆる現実性を剥ぎとられ、漱石の心の中で自由に変形された、縹渺として美しいばかりの楠緒子である。そのようなものとして楠緒子は漱石の内部に生きていた。この楠鈴子が現実の女として、あらゆる魅力をたたえて接近するのを、漱石はおそれた。世間をおそれ、自己をおそれる漱石は、楠緒子に惹かれつつ、反発せざるを得なかったと思う。
  「動けば吐く」と甲野はいう。「凡ての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万鮮の反吐皆動の一字より来る」(一)という。よみがえる過去を殺したいと思う漱石が、「虞美人草」の小野に表現されている。
 「打ち遣った時に、生息の根を留めて置かなかつたのが無念であるが」(前出)と書く漱石である。漱石が楠緒子を愛する夢を見たとするならば、楠緒子を殺す夢を見なかったとはいえない。夢と想像の世界の楠緒子のイメージを愛する故に、現実によみがえり、夢と想像の世界の慰藉と平安をうちこわし、破滅におとしいれる楠緒子を、おそれ、憎まなければならなかった。「虞美人草」執筆中の明治四十年七月十九日付小宮豊隆宛書簡に、「藤尾を仕舞ひに殺すのが一篇の主意である」と述べ、その言葉の通り、漱石は藤尾の死をもって「虞美人草」を終らせた。そして漱石は死んだ藤尾を、「凡てが美くしい。美くしいものゝなかに横は人の顔も美くしい。驕る眼は長へに閉ぢた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天
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の、思いがけず幌@車に乗っ・た楠諸子に路上で会い、楠緒 子とも知らずに美しい人だと思い、芸者だろうと思ったという回想と関係があるように思われる。狩野宛書簡の漱石は、「僕の様な人間は君程悟つてゐないから@ややともすると拘泥していけないが夢丈は自由自在で毫も自分に望も予期心ないから甚だ愉快だ」と続け、「どんな悪夢を見てもどんな罪な夢を見ても自然の極致を尽してゐるから愉快だ」と書いている。そして「実世間では人間らしく振舞つてゐてもチョイく拘泥する所が自分にあるから却って醜悪な感じがする」と述べているのである。現実世界では世間に拘泥し、過去に拘泥して、自由に自然な自分の心を生きることの出来ない漱石が、夢の中ではそれらすべての拘泥から解放され、自然な愛を自由に実現し得ることを語っているのだと思われる。夢に見るのが楠緒子ひとりとは限らない。むしろ漱石は、夢においてさまざまな女たちと、自由に交通したのではないかと思われる。すでに明治二十二、三年の漱石は夢に美人を見ることの愉快を、正岡子規宛の書簡に繰り返して書いている。夢に見る女たちは現実の女性のいやな所をすこしも持たず、現実世界におけるように厄介なごたごたをひきおこすことはすこしもないのである。
  「生きて居る過去も、死んだ過去のうちに静かに@ちりばめ鍍られて」(四)と漱石は書いている。それが完全な過去、死んだ過去、動かぬ世界であって、夢にのみ、想像にのみよみがえるのであるならば、美しいものはどこまでも美しく、どんなにでも自由に、自然な心で愛することが出来る。そしてそれは現実に生きる限りどうしても避けられぬあらゆる拘泥、あらゆる不愉快から解放して、限りない慰葺と平安を与えてくれる。しかしその過去が生きかえり、現実世界によみがえってくると、夢は破れ、平安と慰藉はうしなわれて、不愉快な現実の渦にまきこまれてしまう。漱石は楠鈴子を愛したであろう。しかしそれは現実に生きる女としての楠緒子ではない。肉をもち、我にかりたてられ、漱石を支配し、破滅させようとする楠緒子ではない。「過去の女」として、夢と想像の世界にのみ生きる、非現実の女としての楠緒子である。あらゆる現実性を剥ぎとられ、漱石の心の中で自由に変形された、縹渺として美しいばかりの楠緒子である。そのようなものとして楠緒子は漱石の内部に生きていた。この楠鈴子が現実の女として、あらゆる魅力をたたえて接近するのを、漱石はおそれた。世間をおそれ、自己をおそれる漱石は、楠緒子に惹かれつつ、反発せざるを得なかったと思う。
  「動けば吐く」と甲野はいう。「凡ての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万鮮の反吐皆動の一字より来る」(一)という。よみがえる過去を殺したいと思う漱石が、「虞美人草」の小野に表現されている。
 「打ち遣った時に、生息の根を留めて置かなかつたのが無念であるが」(前出)と書く漱石である。漱石が楠緒子を愛する夢を見たとするならば、楠緒子を殺す夢を見なかったとはいえない。夢と想像の世界の楠緒子のイメージを愛する故に、現実によみがえり、夢と想像の世界の慰藉と平安をうちこわし、破滅におとしいれる楠緒子を、おそれ、憎まなければならなかった。「虞美人草」執筆中の明治四十年七月十九日付小宮豊隆宛書簡に、「藤尾を仕舞ひに殺すのが一篇の主意である」と述べ、その言葉の通り、漱石は藤尾の死をもって「虞美人草」を終らせた。そして漱石は死んだ藤尾を、「凡てが美くしい。美くしいものゝなかに横は人の顔も美くしい。驕る眼は長へに閉ぢた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天
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の、思いがけず幌@車に乗っ・た楠諸子に路上で会い、楠緒 子とも知らずに美しい人だと思い、芸者だろうと思ったという回想と関係があるように思われる。狩野宛書簡の漱石は、「僕の様な人間は君程悟つてゐないから@ややともすると拘泥していけないが夢丈は自由自在で毫も自分に望も予期心ないから甚だ愉快だ」と続け、「どんな悪夢を見てもどんな罪な夢を見ても自然の極致を尽してゐるから愉快だ」と書いている。そして「実世間では人間らしく振舞つてゐてもチョイく拘泥する所が自分にあるから却って醜悪な感じがする」と述べているのである。現実世界では世間に拘泥し、過去に拘泥して、自由に自然な自分の心を生きることの出来ない漱石が、夢の中ではそれらすべての拘泥から解放され、自然な愛を自由に実現し得ることを語っているのだと思われる。夢に見るのが楠緒子ひとりとは限らない。むしろ漱石は、夢においてさまざまな女たちと、自由に交通したのではないかと思われる。すでに明治二十二、三年の漱石は夢に美人を見ることの愉快を、正岡子規宛の書簡に繰り返して書いている。夢に見る女たちは現実の女性のいやな所をすこしも持たず、現実世界におけるように厄介なごたごたをひきおこすことはすこしもないのである。
  「生きて居る過去も、死んだ過去のうちに静かに@ちりばめ鍍られて」(四)と漱石は書いている。それが完全な過去、死んだ過去、動かぬ世界であって、夢にのみ、想像にのみよみがえるのであるならば、美しいものはどこまでも美しく、どんなにでも自由に、自然な心で愛することが出来る。そしてそれは現実に生きる限りどうしても避けられぬあらゆる拘泥、あらゆる不愉快から解放して、限りない慰葺と平安を与えてくれる。しかしその過去が生きかえり、現実世界によみがえってくると、夢は破れ、平安と慰藉はうしなわれて、不愉快な現実の渦にまきこまれてしまう。漱石は楠鈴子を愛したであろう。しかしそれは現実に生きる女としての楠緒子ではない。肉をもち、我にかりたてられ、漱石を支配し、破滅させようとする楠緒子ではない。「過去の女」として、夢と想像の世界にのみ生きる、非現実の女としての楠緒子である。あらゆる現実性を剥ぎとられ、漱石の心の中で自由に変形された、縹渺として美しいばかりの楠緒子である。そのようなものとして楠緒子は漱石の内部に生きていた。この楠鈴子が現実の女として、あらゆる魅力をたたえて接近するのを、漱石はおそれた。世間をおそれ、自己をおそれる漱石は、楠緒子に惹かれつつ、反発せざるを得なかったと思う。
  「動けば吐く」と甲野はいう。「凡ての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万鮮の反吐皆動の一字より来る」(一)という。よみがえる過去を殺したいと思う漱石が、「虞美人草」の小野に表現されている。
 「打ち遣った時に、生息の根を留めて置かなかつたのが無念であるが」(前出)と書く漱石である。漱石が楠緒子を愛する夢を見たとするならば、楠緒子を殺す夢を見なかったとはいえない。夢と想像の世界の楠緒子のイメージを愛する故に、現実によみがえり、夢と想像の世界の慰藉と平安をうちこわし、破滅におとしいれる楠緒子を、おそれ、憎まなければならなかった。「虞美人草」執筆中の明治四十年七月十九日付小宮豊隆宛書簡に、「藤尾を仕舞ひに殺すのが一篇の主意である」と述べ、その言葉の通り、漱石は藤尾の死をもって「虞美人草」を終らせた。そして漱石は死んだ藤尾を、「凡てが美くしい。美くしいものゝなかに横は人の顔も美くしい。驕る眼は長へに閉ぢた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天
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の、思いがけず幌@車に乗っ・た楠諸子に路上で会い、楠緒 子とも知らずに美しい人だと思い、芸者だろうと思ったという回想と関係があるように思われる。狩野宛書簡の漱石は、「僕の様な人間は君程悟つてゐないから@ややともすると拘泥していけないが夢丈は自由自在で毫も自分に望も予期心ないから甚だ愉快だ」と続け、「どんな悪夢を見てもどんな罪な夢を見ても自然の極致を尽してゐるから愉快だ」と書いている。そして「実世間では人間らしく振舞つてゐてもチョイく拘泥する所が自分にあるから却って醜悪な感じがする」と述べているのである。現実世界では世間に拘泥し、過去に拘泥して、自由に自然な自分の心を生きることの出来ない漱石が、夢の中ではそれらすべての拘泥から解放され、自然な愛を自由に実現し得ることを語っているのだと思われる。夢に見るのが楠緒子ひとりとは限らない。むしろ漱石は、夢においてさまざまな女たちと、自由に交通したのではないかと思われる。すでに明治二十二、三年の漱石は夢に美人を見ることの愉快を、正岡子規宛の書簡に繰り返して書いている。夢に見る女たちは現実の女性のいやな所をすこしも持たず、現実世界におけるように厄介なごたごたをひきおこすことはすこしもないのである。
  「生きて居る過去も、死んだ過去のうちに静かに@ちりばめ鍍られて」(四)と漱石は書いている。それが完全な過去、死んだ過去、動かぬ世界であって、夢にのみ、想像にのみよみがえるのであるならば、美しいものはどこまでも美しく、どんなにでも自由に、自然な心で愛することが出来る。そしてそれは現実に生きる限りどうしても避けられぬあらゆる拘泥、あらゆる不愉快から解放して、限りない慰葺と平安を与えてくれる。しかしその過去が生きかえり、現実世界によみがえってくると、夢は破れ、平安と慰藉はうしなわれて、不愉快な現実の渦にまきこまれてしまう。漱石は楠鈴子を愛したであろう。しかしそれは現実に生きる女としての楠緒子ではない。肉をもち、我にかりたてられ、漱石を支配し、破滅させようとする楠緒子ではない。「過去の女」として、夢と想像の世界にのみ生きる、非現実の女としての楠緒子である。あらゆる現実性を剥ぎとられ、漱石の心の中で自由に変形された、縹渺として美しいばかりの楠緒子である。そのようなものとして楠緒子は漱石の内部に生きていた。この楠鈴子が現実の女として、あらゆる魅力をたたえて接近するのを、漱石はおそれた。世間をおそれ、自己をおそれる漱石は、楠緒子に惹かれつつ、反発せざるを得なかったと思う。
  「動けば吐く」と甲野はいう。「凡ての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万鮮の反吐皆動の一字より来る」(一)という。よみがえる過去を殺したいと思う漱石が、「虞美人草」の小野に表現されている。
 「打ち遣った時に、生息の根を留めて置かなかつたのが無念であるが」(前出)と書く漱石である。漱石が楠緒子を愛する夢を見たとするならば、楠緒子を殺す夢を見なかったとはいえない。夢と想像の世界の楠緒子のイメージを愛する故に、現実によみがえり、夢と想像の世界の慰藉と平安をうちこわし、破滅におとしいれる楠緒子を、おそれ、憎まなければならなかった。「虞美人草」執筆中の明治四十年七月十九日付小宮豊隆宛書簡に、「藤尾を仕舞ひに殺すのが一篇の主意である」と述べ、その言葉の通り、漱石は藤尾の死をもって「虞美人草」を終らせた。そして漱石は死んだ藤尾を、「凡てが美くしい。美くしいものゝなかに横は人の顔も美くしい。驕る眼は長へに閉ぢた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天
1440
   女の如く美くしい」(十九)と書いた。もはや藤尾は「ホヽヽゝと「歇私的里(ヒステリ)性の笑」を「高く迸(ほとばし)」らせることもない。死において藤尾は、現実に生きる女のあらゆる醜悪から解放されて、ひたすら美であることができた。死において藤尾は永遠の女性となった。「死は万事の終りである。又万事の始めである」と漱石は書いている。
 楠緒子を彷彿させる女を、漱石はすでに「草枕」に描いている(3)。
   漱石は那美の表情を、「軽侮の裏に、何となく人に鎚りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいてゐる。才に任せ、気を負へば百人の男子を物の数とも思はぬ勢の下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る」と書いた。この和解しがたい矛盾に引き裂かれた那美を分解して、藤尾、小夜子、糸子がつくられた。しかし注目すべきは、画工が 「Sadder than in the moon's lost light。……」という詩句を思いうかべ、もし自分が那美を愛し ていて、今のような一瞥の別れを味わったのなら、きっとこんな意味をこんな詩に作るだろうといい、その上に
     Mignt 1 look on thee in death,
     With bIiss I would yield my breath.
   という二句さえつけ加えたかも知れぬといっていることである。死においてブリスを味わうという発想は、ミレーのオフェリアにひきつけられ、長良の乙女がオフェリアになって、河を流れながらうつくしい声で歌をうたうのを夢に見るところにも、また那美の顔を種にして、美しい女が椿の落ちる鏡が池に浮いているところを描きた
83  いというところにもあらわれている。漱石は那美に、「私が身を投げて浮いて居る所をーー苦しんで浮いてる所ぢやないんですーーやすやすと往生して浮いて居る所を奇麗な画にかいて下さい」といわせ、画工に「椿が長へに落ちて、女が長へに水に浮いてゐる感じをあらはしたい」と思わせる。「薤露行」の、「山に野に白き薔薇、白き百合を採り尽して舟に投げ入れ」、花に包まれて静かに河を流れ下るエレーンの姿は、漱石の心にまざまざと生き続ける美しいイメージだった。

   エレーンの屍は凡ての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るゝ黄金の髪に埋めて、笑へる如く横はる。肉に付着するあらゆる肉の不浄を拭ひ去って、霊其物の面影を口鼻の間に示せるは朗かにも又極めて清い。苦しみも、憂ひも、恨みも、憤りもーー世に忌はしきものゝ痕なければ土に帰る人とは見えず。

  「草枕」の「うつくしき人が、うつくしき眠りに就いて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚(うつつ)の儘で、此世の呼吸を引き取る時に」という、直接に「虞美人草」の藤尾の死を思わせる画工の想像にも、死んだ女に惹きつけられる漱石がいる。生きている限り女はさまざまに変化し、漱石を苦しめた。妻に苦しみ、楠緒子に悩まされる漱石にとっては、死の世界=永遠の世界に生きる動くことのない女たち、たゞ回想の世界に、夢と想像の世界にのみ生きる女たちだけが、安らかな心で自由に愛し、交通することができる女たちであった。「生きて居る過去も、死んだ過去のうちに鏤(ちりばめ)られて」という「虞美人草」の言葉は、「吾は骨なり」「吾も骨なり」「吾も骨なり」「吾は肉なり」という前掲断片ノートの詩句と呼応する。漱石は楠緒子を「過去の女」として、すでに死に、またはふたたびあうことのない愛する女たち、母をふくみ、嫂登世をふくみ、井上眼
-一一
   科であった少女をふくむ「過去の女」たちの間に葬り、ただ夢と回想と想像の世界にのみ生きる女として、自由に変形したその美しいイメージを愛していたのであったろう。しかし「吾は肉なり」と楠緒子はよみがえって来た。生きて「紫の袂」をひるがえし、「紫の 風」を吹き送って来る。想像の世界における楠緒子に対する愛を、ひたすら美しいものとしてまもるためには、生きて動く楠緒子を、想像において殺さなければならなかった。
    (1) 「日本新聞」明治三十九年七、八、九、十月の記事を訓べたが、該当する記事を発見できなかった。御教示を得ることができれば幸である。
    (2) 小坂晋前掲書。
    (3) 同。

     6

  「動けば吐く」と甲野はいう。「動けばあらはれる。あらはるれば一か二か三か必ず始末がっく」と「草枕」の漱石は書いた。「既に一となり、二となり、三となった暁には、@泥帯水(たでいたいすい)の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳には行かぬ」というのである。
 「考へれぱ外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸もしたくない。畳から根の生えた植物の様にじっとして二週間ばかり暮して見たい。」「草枕」の言葉である。はげしく動く現実世界の渦にまきこまれ、はげしく動こうとする自分自身を恐れる漱石は、動かぬ世界、死者たちの世界を思い、生も死もない、天地も日月明暗も未だ分れぬ渾沌たる始源の世界、父母未生以前の世界にあこがれる。「生きてあらん程の自覚に、生きて受くべき有耶無耶の累を捨て」、すべての拘泥を超越することを願う甲野は、比叡の山中で大きな自然の中にとけこんで行くのを感じ、「古今来を空しうして、東西位を尽くしたる世界の外なる世界に片足を踏み込んでこそーー」(一)と考える。それでなければ、「それでなければ化石になり
たい。赤心吸ひ、青も吸ひ、黄も紫心吸ひ尽くして、元の五彩に還すことを知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。又万事の始である」と考える。この甲野の感慨は、前述のように漱石の断片ノートの言葉と呼応しており、次のによう続く。

   時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積
  んで年となすとも、詮ずるに凡てを積んで墓となすに過ぎぬ。
  墓の此方側なる凡てのいさくさは、肉一重の垣に隔てられた因                果に、枯れ果てたる骸骨に入らぬ情けの油を注して、要なき屍
  に長夜の踊をおどらしむる滑稽である。遐(はるか)なる心を持てるもの
  は、遐なる国をこそ慕へ。

 狩野亨吉宛前掲書簡には、過去をふりきり、斃れる所まで行くという、はげしくこの世と戦う漱石の決意が語られていた。同じく三重吉宛前掲書簡には、「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」と述べ、「野分」一篇にこの「烈しい精神」を吐露した。朝日入社にまで漱石を駆りたてたのはこの「烈しい精神」であった(1)。「虞美人草」執筆中の漱石は、

   細民はナマ芋を薄く切って、夫れに敷割などを食って居る由。
  芋の薄切は猿と択ぶ所なし。残忍なる世の中なり。而して彼等
  は朝から晩迄真面目に働いで居る。
  岩崎の徒を見よ!!!一
         1442

85
   終日人の事業の妨害をして(否企で(ママ)ゝさうして三食に米を食
   ってゐる奴等もある。漱石子の事業は此等の敗徳漠を筆法する
   にあり。
            (明治四十年八月十六日付中村@(クサカンムリに翁)宛書簡)と書いた。「虞美人草」の世界を成立させたものが、この「烈しい精神」であることは確かである(2)。しかし同時にそれは、化石を
思い、死を思う心である。また「わが泣く声は秋の風」と、芭蕉の句を切実に思い、「わが呼ぶ声は一ーわが呼ぶ声は/あゝわが呼ぶ声はーーなどてよみに/よみにーーなにとて/よみに聞えざる」と
死者たちの世界によびかけずにいられない心である。甲野欽吾はこの漱石の心を表現する人物である。そして「虞美人草」の世界は、甲野の世界を創造することによって成立した。
    一人の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、
  ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に醒き雨を
  浴びる。一人の世界を方寸に纒めたる団子と、他の清濁を混じ
  たる団子と、層々相連つて千人に干個の実世界を活現する。(七)

 よみがえる過去におびやかされ、あらためて自分の過去をふりかえり、内部の世界を見つめるとき、漱石は今まで自分自身でさえ気づかなかった自分自身、忘れるともなく忘れていた、思いもかけぬ自分自身を発見した。自己の内部に葛藤する「百の世界」、百の自己を発見することは、同時にさらに複雑にいりみだれ、葛藤する新しい人間世界の発見である。「虞美人草」の世界は、こうして発見された作者の内部世界のドラマであり、人間世界のドラマである。
 「野分」の白井道也の世界は単一的であった。道也には過去も暗黒もない。拘泥することのない脱俗の人であり、解脱の人である。懐疑を知らぬ道也はひたすらおのれを信じ、おのれの内部の唯ひとつ
の声、魂の命ずる所に従って直進する。道也自身がその名の如く道なのであり、思惟は同時に行為であった。このように道也の世界が垂直的直線的であるだけでなく、「野分」一篇の小説世界そのもの
が、単一的であり、垂直的直線的である。暗い過去を持ち、懐疑と煩悶の子である高柳の世界は、道也の世界に従属し、吸収される。
「野分」に限らず、「謙虚集」の諸作品の世界にしろ、「坊つちゃん」、「草枕」、コー百十日」の世界にしろ、「猫」をのぞいて、これまでの漱石の小説世界は単一的であり、垂直的直線的であった。わずかに「草枕」の那美の世界が、前述のような亀裂をもっているが、これも画工の世界に吸収され、自立した世界としては展開されない。しかし「虞美人草」の世界は、もはやそのように単一的であることが出来ず、垂直的直線的であることが出来ない。
  「遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕へ」という甲野欽吾にしても、もはや脱俗・解脱の人ではあり得ず、地上に生きる懐疑と煩悶の子であり、つまらぬことに拘泥する苦悩の人であった。
もはや甲野は決して第一義に生きることはできない。「酔払って居ると知りながら、胡座(あぐら)をかく事も脆坐(かしこま)る事も出来ない人間だらう」(三)と宗近にいわれ、「まあ立ちん坊だね」と淋し気に笑う甲野は、
母と糸子の長く続く問答の間、父の肖像の額を抱えたまま、いつまでもじっと立っている。ここには白井道也と対照的に、道をうしない、信仰をうしない、自己をうしない、行為をうしなって、茫然と立ちすくむ現代の知識人がいる。甲野においては思惟の世界、理想と憧憬の世界と現実世界はもはや和解し難く分裂しており、考える ばかりで現実をどうすることも出来ないのである。
1443
86
(1) 前掲拙稿「夏目漱石の明治三十九年」参照。
(2) 拙稿「『虞美人草』の思想」(「日本近代文学」第二集昭和四
 〇年五月)参照。

 明治四十年四月、朝日入社直後の美術学校での講演「文芸の哲学的基礎」は、新しい作家の生活にはいる漱石の決意を披瀝するものであったが、漱石は人間が何であるかを示すことによって、人々に
いかに生きるべきかを教えるのが文学者の仕事であり、それは決して閑事業ではないことを強調している。漱石にとって、文学はわが理想に表現をあたえ、わが理想によって読者を感化し、読者の内部
に生きて時代を動かすものであった。漱石はその意味で後代に生きること、百年の後に生きることを求めたのであった(―)。しかしこれまでの生活を捨て、すべてを賭して作家として生き、そのことに
よって現実とたたかい、現実を動かそうとするとき、あらためて動かし難い現実の重さをひしひしと感じ、自分の無力を痛切に思い知らなければならなかった。「京に着ける夕」の寒さは、過去に直面
することの寒さであると同時に、前途の困難と不安におののく寒さでもあった。自己の無力を思い知り、自己と現実の暗黒、人間生存の空しさを痛感するとき、漱石は死を思い、化石たらんと願う心をまぬがれなかった。現実からはじき出された漱石は、永遠と絶対を求めて、無限なる宇宙空間をさまよい、死者の世界にむかって哀切なよびかけをせずにはいられない。「遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕へ」という甲野の感慨は漱石自身の感慨であり、その光に照らし出されることによって、「虞美人草」の世界が形成されたのは確かである。漱石はあくまでも地上の人であり、地上の現実をはっきり見すえる所に、その小説世界を展開していった。しかし天地未分の始源にかえり、永遠の時間と無限の宇宙空間を想望することによって、「虞美人草」の世界は新しい相貌において展開されたのである。

   救世軍は此時太鼓を敲いて市中を練り歩るいて居る。病院で
  は腹膜炎で患者が虫の気息を引き取らうとして居る。露西亜で
  は虚無党が爆裂弾を投げてゐる。停車場では掬摸が捕まつてゐ
  る。火事がある。赤子が生れかかつてゐる。練兵場では新兵が
  叱られてゐる。身を投げてゐる。人を殺してゐる。藤尾の兄さ
  んと宗近君は叡山に登つてゐる。(二)

 これが小野と藤尾のふたりがふたりだけの世界に顔を見合わせている時なのである。まさしくそれは、「層々相連つて千人に干個の実世界を活現する」人間世界であった。ふたりは社会を忘れ、他者の存在を忘れた。しかしふたりがたとえいかに忘れようとも、ふたりが生きているのは、この人間世界のただ中であることを、漱石ははっきりと描き出した。現実世界からの脱出を願う漱石は、同時に自分がこの現実世界のただ中に生きる存在であることを、片時たりとも忘れることがなかった。そこに「虞美人草」の世界が成立する。漱石は永遠の時間と無限の宇宙空間の中に人間世界をとらえ、この
人間世界に生きるそれぞれの人間が織りなす人間のドラマを、限りなく広い眺望の中で展開した。宇宙の永遠と無限に比するなら、それは極小の地上世界に演じられる、「詮ずるに凡てを積んで墓とな
すに過ぎぬ」はかないドラマであるだろう。しかし人間は、漱石がその作家的出発の地点で「倫敦塔」に書いたように、「生れて来た
1144
  以上は生きねばならぬ」のであった。「生きねばならぬと云ふは耶蘇孔子以前の道で、又耶蘇孔子以後の道」なのである。たとえそれがどれほどはかなく無意味なものであろうとも、生きる限り、生きてそれぞれのドラマを織り成して行かねばならぬ。漱石は宇宙の永遠と無限を想望し、人間生存の無意味を直視することによって、と
もすれば現実に囚われ、過去に拘泥して、破滅的な自己閉塞の世界におちこんで行くことから脱却した。そうすることで漱石は、それぞれの人間が織りなす人間世界のドラマをその多様性と広がりにおいて把握する自由を得た。またそのことによって、過去の世界に深くはいり、自己の内部に百の世界、百の自己を発見し、その葛藤を直視して、人間世界のドラマをまざまざと描き出すことが出来た。
    「甲野さんは眇然として天地の間に懸つてゐる。世界滅却の日を只一人生き残った心持である。」(八)「虞美人草」の世界は漱石が自已の無力と暗黒を自覚するところにきりひらいた小説世界である。
   「悲劇は遂に来た。来るべき悲劇は預想して居た。預想した悲劇を、為すが儘の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である」~九)と漱石は甲野の日記に書いた。「隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一目を揺かせば一目を眇す。手と目とを害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。」人々はひたすら生きる。自分が何であるか、自分が何処へ向って急いでいるかを知らず、ただひたすら、己れの性に従って生きる。漱石はもはやこれらの人々にいかに生きるべきかを教えようとはしない。そもそも漱石はそれを知らないのである。漱石はただそれがいかなる破局へと人々を導くかを知っていた。漱石はこの破局に急ぐ人間世界を圧縮して描く所に、「虞美人草」の作品世界を形
成した。「世界滅却の日」を見つめ、読者がそれを自覚することを求めたのである。自己を知り自己の破滅を自覚するとき、そこに新しい道がきりひらかれはしないだろうか。漱石は「悲劇の偉大なる勢力を味はゝしめて、三世に跨がる業を根紙から洗はんが為」といい、「手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意に外ならぬ」(同)と書いてい

  「虞美人草」執筆中の漱石は、八月五日付鈴木三重吉宛書簡に、「短かく切り上げるのは容易だが自然に背く調子がとれなくなる。如何に漱石が威張っても自然の法則に背く訳には参らん。従って自然がソレ自身をコンシュームして結末がつく迄は書かなければならん」「もし自然の法則に背けば虞美人草は成立せず」と書いた。漱石は自己の内部に住む諸人物に形をあたえ、彼等が彼等自身の「自然の法則」に従って発展し、作品世界がひとつの結末に到達するまで描かなければならなかった。「虞美人草」を書く漱石には、「自然の法則」に貫ぬかれ、破滅にいたる人問世界のドラyがはっきり見えていた。「自然の制裁」を描く漱石は、「自然の制裁」をおそれる漱石である。無限の宇宙空間を彷徨し、死を思う漱石は、どこまで
も地上に生きることを求める漱石であった。そこに自己をおそれ、「道義の必要」を説かなければならぬ漱石がいる。「虞美人草」はその道義性の故に、一般に否定的な評価を受けている。しかし「道義の必要」は「自然の法則」とわかちがたく結びついている。自已の自然をおそれ、「自然の制裁」をおそれる漱石の暗い心が、「道義の必要」を説かせたのである。
  「道義」の世界は「第一義」とは明確に区別される人為的な世界
!445
88  である。それはどこまでも生きようとして、自己をおそれ、自然をおそれ、破滅をおそれる人間がっくり出した「雅号」の世界である。
   はやくも(一)において甲野は、「雅号は好いよ。世の中には色々な雅号があるからな。立憲政体だの、忠、信、孝、悌、だのって様々 な奴があるから」といい、「雅号なんざ、どうだつて、質さへ倣かなら構はない主義だ」という宗近に、「そんな恍かなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」といっている。「虞美人
草」の世界は「野分」とは対照的な世界である。その「道義」は白井道也の「道」とは決定的に異質の世界である。「虞美人草」の世界は「野分」の世界が崩壊したところに成立した世界である。その
「道義」はもはや絶対的なものではない、人為的な仮構の世界であった。それは信念の所産ではなく、懐疑の所産であり、人間の生存の矛盾の自覚の所産であった。やがて漱石は「道義」の世界をつき破り、「自然」の世界へ出て行こうとする。しかしそのときも、漱石の内部には「自然」をおそれる暗い心が生き続けていた。「虞美人草」の世界は漱石の文学世界全体の根底に生き続ける世界であり、さまざまに変形しながら、漱石文学のいたるところにその暗い影を投げかけている。
    作品に対する論者の好悪を述べることはもとより論者の自由であろう。しかし自己の標準による作品の評価に急で、その作品世界が呈示している問題を、可能な限り深く追求し、それが漱石の文学世界全体に対して持つ意味を明らかにすることをせぬならば、作品に対する研究者の正当な態度とはいえないであろう。「虞美人草」はそのような不当な取り扱いを受けることが多く、その作品世界の意味が十分に解明されていない作品であると思う(2)。
(1) 前掲拙稿「『虞美人草』の思想」参照。
(2) 平岡敏夫「『虞美人草』論」(「日本近代文学」第二集、昭和
 四○年五月)は「虞美人草」再評価のために積極的な問題提起
 をしている。
誤記訂正 前号所載(上)の次の箇所を訂正します。
 四四頁上段一行目「五年の昔」↓「十五年の昔」
四五頁上段七行目「わが鳴く声」↓「わが泣く声」
四五頁上段一〇行目「にはじまる舞」↓「にはじまる詩」
           (いずとしひこ’横浜市立大学教授)
1446
『文学』 1974年12月

酔う去就鏤める
たでい
帯水帯水

 帯水

1442
はr
1442

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『虞美人草』の思想 上

「虞美人草」の思想 上

     一                     

 「虞美人草」は漱石の朝日新聞入社第一作であり、はじめての長篇小説である。これまでの生活を清算して小説一本で立とうとした作者は、この作品に自分のすベてを賭けた。それはこれまでの生活及び文学の総決算であり、新しい出発点を示ナものであった。
 このためにやや力みすぎて自然な流露感を欠くことになり、文章も凝リに凝った嫌味なものとなる欠陥をまぬがれなかった。けんらんたる文章に装われて作者が必要以上に顔を出し、自己の見解を述べる饒舌が目立っている。この文章に妨げられて、読者は直接に作品の世界にはいりこんで行くことができない。作者は文章によって自己を誇示し、読者を支配しようとしているように見える。ここには小説の文章に対ナる誤解があったと思われる。この文章のために、この作品には否定的な評価をあたえられる場合が多かった。「猫」や「坊ちゃん」において自在な口語文章を展開した漱石が、この作品においてこのような文語的発想におちいったのは何故であろうか。
 漱石の文学を貫くものは現実に対する鋭い批評である。漱石には世界のすベてを敵としても戦おうとする強烈な戦闘的意識がある。明治三十七・八年頃の英文ノートを見るものは、いわゆる教養社会、紳士階級の偽善性を痛罵し、これらの人々に血を以て復讐を誓っている言葉の激しさに驚かないではいられない。
   I hate you。 ladies and gentlmen。 I hate you one and all;
  I hate you to the end of my life and the last of yuor race

    ……人間はのどもとすぎれば熱さを忘れる。目の前のことにばかリ追われている。我々は死の踊りを眠れる噴火口のふちで踊っているのだ。そしてそれをjoly lifeなどといっている。今日朝日が昇ったから、明日も亦昇るだろうと信じて、死とともに踊っている。人は人をナイフで切り、皮肉で切リ、しかも決して今度は自分の切られる番が来るだろうとは考えない。

   「自然は償いを好む。自然は復讐を奨励する。復讐はいつでも甘美である。」 漱石はほとんど呪いのようなこれらの言葉を、長々と英文で書き記している。「彼等をふみにじることが出来るように、お前の希望、研究、お前の愛するすべてのものを捨てよ。彼等がお前の足の下で喘ぎ、最後の息で後悔の弱々しい叫びをあげるまでは
決して止めてはならぬ。……」漱石のこの呪いや復讐の誓いは、行為としては勿論、言葉としても直接の表現を禁じられていた。これらは秘められたノートに、しかも英文で、誰からも知られぬようにひそかに書き記されたのである。しかしこの激情が作家としての漱石の胸底にもえ続け、創作活動の強烈なモチーフとなっていることは明かである。
   漱石の怒りは直接的な発現を阻まれたために、著しい自己嫌悪を生み、絶望感、罪悪感、厭世感となって、彼の精神を内部から蝕んだ。これらの情念は彼の内部で原色的などぎっさで葛藤し、ほとんど彼を狂気に導こうとした。漱石における芸術は、最初、このような破滅からの自己救済の意味をもっていた。「草枕」はこうした救いとしての芸術に対する考え方を展開したものである。「草枕」をも含めて「猫」から「二百十日」に至る一系列の作品が、鋭い社会批判、文明批評を内包するものであることは明かであるが、作者は努めて自己を抑制し、余裕のある態度で、一種の滑稽化によってこれを行った。
 しかし今、すべてをなげうって小説一本に自分のすべてを賭けようとするとき、こうした逃避的な態度を続けることは出来なかった。「虞美人草」は作者の胸底にもえる怒りと呪い、復讐の誓いを文学において実現しようとするものであった。「虞美人草」には作者の血なまぐさい激情がこめられている。この激情がこの作品を文語的発想のものとしている。「猫」、「坊ちゃん」、「二百十日」のように余裕のある態度で文章を綴るとぺ漱石は口語を自由に駆使す
るが、自己の内奥に閉じこめられた心情や思想を直接に表現しようとするとき、作者の表現は文語的になったのである。

    二

 「虞美人草」を勧善懲悪の小説であるとして、その価値を否定する見解があるが、勧善懲悪であることそのことが、ただちに否定の理由になるというわけはない。いわゆる勧善懲悪の小説が否定されるのは、それが時代の支配的イデオロギーに安易に依拠して、そのために、人間の本質を深く追求することが妨げられるからであろう。善は必ずしも善ではない。悪は必ずしも悪ではない。価値観の転換深化なくしては、人間の真実に迫る生命ある文学を生むことが
出来ないのである。「虞美人草」ははたしてこのような価値観の転
換深化を内に含んでいなかったであろうか。
110  なるほど漱石は「第一義」を問題にし、「道義」の必要を説く。
  理想なく道義なく、おのれにおごる人間に対する「自然の制裁」を作品の主題としている。勧善懲悪の意図が作者にあったことは明かである。しかし作者は「第一義」とか「道義」とか「自然の制裁」とかいうことによって如何なることをいおうとしたのであろうか。これらの内容を深く検討することなく、ただ既成の意味においてのみ把握して、「虞美人草」を勧善懲悪の小説としてひたすら否定するのは意味のないことである。
   漱石は「野分」において白井道也における道を、外部にあって人間を導くものではなく、人間の内部より出で、行為において外部にあらわれる無形のものとして措定している。このような道=理想の考え方は、自己の外部にある絶対的な軌範としての封建的な道の考え方とは根本的に対立する。同時にまた西洋の理想に圧倒され、それを絶対化し、その前にひざまづく西洋崇拝とも対立する。漱石によればこれらはともに自己本来の姿を見失い、奴隷的である点において共通である。
   [わたしは名前なんて宛にならないものはどうでもいゝ。只自分の満足を得る為めに世の為めに働くのです。結果は悪名にならうと、臭名にならうと気狂にならうと仕方がない。只かう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。」白井道也における道=理想は如何なる権威によっても正当化されること求めず、ひたすら自己の魂に従って生きようとするものであった。これは徹底的な自己本位の立場を示すものである。このような自己本位の立場に立つ漱石が、「虞美人草」において「我の女」として設定された藤尾の徹底的な否定者としてあらわれるのは何故であろうか。
 誰もが引用するように、漱石は小宮豊隆に宛てた手紙に、「藤尾といふ女にそんな同情をもってはいけない」といい、「小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない」と書いている。小宮豊隆が藤尾を讃美したのは当然である。藤尾は当時のいわゆる「新しい女」を代表する女である。それに対して小夜子は自分を主張することを知らぬ「日蔭の花」のような女であり、「過去の女」である。
しかるに漱石は藤尾を否定し、小夜子を肯定している。小野と小夜子の結婚に道義の実現を見るのは、約束をすべてに優先させて考える古いモラルではないだろうか。漱石の尊重する徳義心とか道義とかは結局封建的なモラルの肯定に帰するのであろうか。
 たしかに漱石は、藤尾を意識して「新しい女」として描き、その上でこれを否定している。漱石に当時の「新時代」に対する批判があったことは明かである。しかし藤尾はその新しさのために否定されたのではなく、小夜子はその古さのために肯定されたのではない。むしろ漱石は古さ新しさを価値の基準であるかのように考える明治以来の日本を支配する考え方を否定したのである。小夜子は一途に小野を信じかつ愛したのに対して、藤尾はひたすら相手を支配
しようとした。藤尾は愛されることを知って愛することを知らなかった。藤尾の結婚の条件は銀時計であり、博士号であり、小野が自分のいいなりになることであった。藤尾の生き方は自己本位のよう
                       に見えて実は自己本位ではない。相手をひたすら支配しようとするものは、かえって相手に支配されることになる。藤尾には人が何といおうが自分はこの道を行くのだという、自己の内部より出る理想がなかった。それ故小野が小夜子と一しょにいるのを見て驚くのであり、小野に逃げられると外交官試験に合格した宗近に金時計をあたえようとし、ついには自殺することになる。
 藤尾と同様に、小野もまた藤尾を人間として愛していたのではない。小野が甲野の家の財産に心を動かされていたことは否定出来ない。もしもこの二人の関係が本当の愛であったならば、この作品は全く異った主題のものとして展開したであろう。「それから」においては、代助と三千代を姦通罪という社会的な罪をあえておかしても結ばせた漱石である。小野と小夜子を過去の約束のためにのみ結
ばせたわけではない。小野が不安なのは、藤尾に対する愛が偽リであり、小夜子の愛が純粋で真実なものであることを感じていたためである。

      三

   漱石は現代に生きる人間の自己疎外を鋭く追求した。金銭、物質、名誉、社会的位置、世間体等々に縛られて、人間は本来の自分を見失っている。小野や藤尾や藤尾の母、そしてまた浅井といった人物に、現代日本人の自己喪失の悲惨な姿が追求されている。彼等を縛る古き道義は否定された。しかも彼等を導く新しい理想は発見されていない。道義なく理想なき彼等を動かすものは、我慾であり、我執である。彼等は他人をおしのけ他人を犠牲にしてかえりみ
ることを知らない。
 「野分」の白井道也はかかる人間の状態を救おうとして、前後をかえりみず突進した。しかし[虞美人草]の甲野欽吾は、考えれば考えるほど身動き出来なくなる。甲野もまた現代に生きる人間として疎外をまぬがれていないのである。道也は自ら道を体していると信ずる信念の人であり、行為の人であったのに対して、甲野は懐疑の子であり、自分白身をさえ疑わずにはいられない。常に徹底することが出来ず、中途半端な「立ちん坊」的存在であることをまぬが
れない。
 「まあ立ちん坊だね」と淋し気に笑う甲野を、「毛筋程な細い管を通して、捕へ難い情けの波が、心の底から辛うじて流れ出し」たのだと作者は説明する。このたちまちに消えて行く「薄く、柔らかに、寧ろ冷やか」な笑の中に甲野の一生は明らかに描き出されているという。「こころ」の先生は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締めることの出来ない人」とされているが、甲野もまた同様に人間に対する愛か自然に流露することをはばまれているのである。
 白井道也に漱石の理想が托されているとするならば、漱石の現実は甲野欽吾により濃厚に反映している。理想を求め第一義に生きようと順う心は、それが強ければ強いほど、自分をも含めた人間の現実に絶望させられる。甲野を支配する暗く重い懐疑と厭世思想に、

112
漱石は自分の切ない心情を表現したのである。この小説がどのような結末で終ろうとも、甲野=漱石に救いはない。全体としてこの小説に救いなどありはしない。知れば知るほど、考えれば考えるほど、求めれば求めるほど、底知れぬ暗黒の中におちて行くのが甲野である。または漱石である。いくら知っても知りつくすことは出来ない。いくら考えても明らめつくすことは出来ない。ただ徒らに懐疑の雲を増すばかりである。甲野=漱石もまた藤尾や藤尾の母などとちがった意味で、「我」にとらえられていたのだといえる。自己の無力、思考の無力を痛感する甲野=漱石は、物慾や世間体や我執から解放されるだけでなく、疑う自分、考える自分からも解放されなければ、自由はなく、救いはないと考えるが、人間はついにこのような自由、このような救いを自分のものにすることは出来ない。こうした暗い認識が、甲野=漱石に「道義の必要」を説かせる。
 白井道也は自分の内部に道のあることを信じて疑わなかった。それ故、名前などどうでもよかった。悪名も臭名も狂気もおそれなかった。しかし甲野は、物さえたしかなら名前などどうでも構わぬ主義だという宗近に、「そんなに飽かなものが世の中にあるものか。だから雅号が必要なんだ」といっている。漱石における「道義」は、人間の空しさ、たよりなさ、救いのなさを徹底的に自覚する所に形成さるべきものであった。

   四

「白井道也は文学者である」という一句に始まる「野分」は漱石における文学者の理想をあらわしたものといえる。「動くべき社会をわが力にて動かナが道也先生の天職である。高く、似いなる。公けなる、あるものの方に一歩なりとも動かすのが道也先生の使命である。道也先生は其他を知らぬ」と漱石は書いている。やがて教師生活をやめて作家生活に入ろうとする時期に、たんにおのれ一人の魂を救済ナるのでなくて、「動くべき社会をわが力にて動か」そうとする白井道也を文学者の理想をあらわすものとして描いたことの意味は大きい・道也自身が教師をやめて筆と舌とによってたたかおうとしたのである。そこに教師生活をやめて作家生活に入らなければならぬ作者自身の必然性が表白されていたのだということもできる。
 道也のいう「高く、偉いなる、公けなるあるもの」が如何なるものであるかは具体的にあきらかにされてはいない。そこに道也=漱石における道といい理想というものの無内容な観念性を指摘する見解があるが、前述のように漱石における理想は、外部にあって人を導くものではなくて、内部にあって人を導き、行為において外部にあらわれる無形のものとして措定されているのであり、むしろそこにこの作品の積極的な意味を見るべきである。
 「理想は魂である。魂は形がないからわからない。只人の魂の、行為に発現する所を見て旁髭するに過ぎん」と道也はいうが、この思想が漱石を作家としての道に進ませることになった。理想は言葉ではなく、その人の生涯の事業~‥たたかいを通じて旁髭するほかないものであるならば、白井道也のように直接に理想を説いても、空

  虚なものを感じさせるばかりであろう。白井道也が私たちに感銘をあたえるのは、その言葉の内容によってよりも、おのが理想に殉じて、あらゆる苦難に耐え、妻にまで背かれながら、空しくさえも響くその言葉を、勝利の見通しもなしに語り続けてやまぬ悲壮な姿のためである。ここに漱石が演説家の道ではなくて作家の道を択んだ理由がある。
   道也の戦いは勝敗を度外視した戦いである。勝敗の如何にかかわらず、それがわが魂の命ずる所である故に行くのである。行けるところまで行き、斃れるまで戦うのだと道也はいう。道也における理想は目的=終点を示すものではなく、その戦いは終りなき、勝利なき戦いであった。北村透谷のいう「戦いの中途に何れへか去るを常とする」戦いが道也における戦いであった。道也の戦いが敗北に終ることは必至である。
   「虞美人草」末尾の甲野の日記に漱石は「予想した悲劇を為すが儘に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である」と書いた。「隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一目を揺かせば一目を砂す。手と目を害して、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々刻々に深くなる」と書いた。白井道也と反対に、甲野は個人の無力を知る故に、自分の力で社会を動かそうとはしない。勝敗を度外視し、おのれを忘れて戦い斃れる白井道也が第一義に生きたのであるに対して、我を知り彼を知リ、戦いの敗北に終るのを知って戦いを抛棄し、拱手して懐疑と苦悩のうちに日を送り、世を捨ておのれを捨てることをのみ夢みる甲野には、インテリゲンチャの頽廃がある。
 道也の戦いが敗北に終るほかない以上、行為を奪われ、人間としての自然な感情の流露をはばまれて、中途半端な姿勢で幽霊のように立ちすくむ甲野の頽廃は余儀ないものであった。漱石はこのような甲野に自分をも含めた近代日本のインテリゲンチャの暗い行き詰まりの姿を表現している。甲野の批判者として単純率直でとらわれることなく行動する宗近を作者は描いているが、宗近の行動性は多分に思慮を欠く単純さによって保証されているのであって、甲野の
アンチテーゼとしての意味は持ち得ても、甲野の苦悩を克服する存在とはなり得ない。このように道也のたたかいが敗北に終り甲野の頽廃の余儀なさを認めないわけにはゆかなかったにもかかわらず、それを認めた上で、しかも道也の魂を自分の魂として、自分の力であくまでも社会を動かそうとした所に、「虞美人草」の方法が生まれ、文学者としてどこまでもたたかいぬこうというはっきりした自
覚が確立された。

    五

 明治四〇年四月、朝日新聞入社直後に美術学校で行った講演で、漱石は「一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は文芸上の作物としてあらはるゝより外に路がないのであります」と述べている。この「文芸の哲学的基礎」と題する講演には、新しい作家生活にふみ入った漱石の文学に対する抱負といったものがかなり濃厚にあらわれている。
114  漱石には後世にのこる仕事をするのだという意識があった。しかもこの意識は「野分」執筆の前後から一層強くなっている。虚子に宛てた手紙(明治三三・一一・一一)に十年計画で敵を斃すつもりだったが百年計画に改めたと書いている漱石は、「文芸の哲学的基礎」で、文芸家の精神的気魄は無形の伝染によって社会の大意識に伝染し、永久の生命を人類内面の歴史中に得ることによって自己の使命を完了するのだと述べている。
   漱石にとって、文学はわが理想に表現をあたえ、わが理想によって読者を感化し、読者の血肉となり、読者の中に生きて時代を動かすものであった。理想は無形のものであって、人間の行為によって髣髴することが出来るだけのものであるから、技巧を通じて感覚化しなければならない。「文芸の哲学的基礎」によれば、発達した理想と完全な技巧とが合したとき「文芸の極致」に達し、これに接するだけの機縁の熟しているものに「還元的感化」を与えるのである。「還元的感化」とは読者の意識の連続と作者の意識の連続とが一致して、普通の人間の境地を離れて物我の上に超越する-ー我を忘れ、彼を忘れ、無意識に(反省的でなく)享楽をほしいままにして、この間は時間もなく、空間もなく、ただ意識の連続があるだけという体験を味わうことであるが、この体験において作者の理想は
読者の血肉となるのである。
   「野分」においては作者の理想は白井道也に体現されており、もしも読者が「野分」から還元的感化を受けるならば、読者の意識は道也の意識と一致することによって、作者の理想にもっとも深いところで感化されることになる。これに反して「虞美人草」にはそのような作者の理想を体現した人物はいない。疎外された諸人物のおりなす現実的喜劇が、突如として破局を迎え悲劇に転ずるのである。この劇的な展開を通じて、現実に対する強烈な反省をひきおこすのが「虞美人草」の方法である。作者の理想は作品の構造、作品の展開を通じて、また現実の批判的な追求において表現されている。
 「野分」から「虞美人草」への方法の転換は、作者が人間を動かし社会を動かそうとする個人の力の無力を認識し、人間および社会を動かすのは入間自身、社会自身の内的矛盾であることを発見したためである。現代人は自分自身および自分の生きる社会の本質を見失って、理想もなく道義もなく、ひたすら我慾と我執に駆り立てられ、時代の流れにおし流されて、無自覚に生きている。彼等が自分自身に目ざめるのは破滅に直面したときでしかない。それまでは理想を求め、道義の必要をいうものは変人あつかい、狂人あつかいをまぬがれぬ。作者は我慾が我慾のために、我執が我執のために破滅の危機におちいる姿を描き出し、そのことによって読者の覚醒を求めたのである。
 「文芸の哲学的基礎」を一貫して漱石が読者の意識を重視し、作家の創作活動を読者に対する働きかけとして把握していることは注目すべきである。「虞美人草」もまた明らかに読者に対する働きかけであった。その働きかけは前記虚子宛書簡に百年計画で敵を斃すつもりだといっていることと無関係ではないだろう。「虞美人草」

  執筆中、中村蓊宛書簡(明・四〇・八・一六)で漱石は次のように述ベている。

     細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食ってゐるよし。芋の薄切は猿と択ぶところなし。残忍なる世の中なり。しかして彼等は朝から晩まで真面目に働いてゐる。
     岩崎の徒を見よ!!     終日人の事業の妨害をして(いな企てて)さうして三食に米を喰ってゐる奴等もある。漱石子の事業はこれ等の敗徳漢を筆誄するにあり。

   この言葉は「虞美人草」のモチーフを語るものであると思われるが、このように直接に社会を批判し、金力や権力を非難する言葉は、「虞美人草」の作中には見ることが出来ない。「猫」から「野分」に到る作品群には、作者はしばしば滑稽化のかげにかくれて社会に対する批判を行ない、金銭や権力によって人間の精神を支配しよう
とするものを直接に非難する言葉を吐いているのである。ここに虚子宛書簡に、十年計画から百年計画に改めたといっていることの意味が具体的にあらわれていると思う。
   この虚子宛書簡は「二百十日」と「野分」の間の時期に書かれている。「二百十日」には金力や権力に対する非難の言葉が氾濫しており、フランス革命の必然性、「文明の革命」の必要が説かれて、漱石の革命官言とも見ることの出来る作品であった。しかしこの革命宣言は具体性を欠き、それを支える主体のあいまいさのために、空虚なおしゃべりに堕することをまぬがれなかった。いかに金力や
権力を罵倒しても、言葉によってこれを倒すことはできない。これに対して「野分」が青年に対するよびかけであり、その覚醒を求める作品である点に漱石の転換がある。金力や権力を非難するよりも、自己=理想を喪失して、時代の流れにおし流されて生きる受動的なその日暮しの生き方を批判し、金力や権力の支配に抗して新しい時代を創り出して行く確固たる人格、積極的な主体の確立を目ざして、日本人の魂の覚醒、新しい理想の発見を意図した点に、漱石が敵を斃す計画を十年計画から百年計画に改めたということの意味がある。この転換は「野分」から「虞美人草」へと進み、さらにその後の作品へと発展することによっていっそう深化された。

    六

 「虞美人草」は天下国家を直接に問題にするのではなくて、日常的な家庭生活における人間のあり方を問題にしている。しかし作者はこのことによって日本の将来を問題にしているのである。「日本の運命を考えたことがあるのか」と甲野はいう。「アメリカを見ろ、インドを見ろ、アフリカを見ろ。」それらはいずれも西欧帝国主義によって侵略された国である。日露戦争の勝利に酔って、ひたすら西欧化の道を歩こうとしている時であった。そのときに当って甲野=漱石は日本の未来に暗澹たるものを見ないではいられなかった。西洋文化の根抵にある「我」の思想は、他をぼろぼして顧ることなき残酷なものであり、他国他民族をぽろぼして進む帝国主義的侵略の道は、あのはなやかな、ヒューマニスティックな西洋文明の裏面の本質である。しかるに日本はこの西洋の恐るべき本質を見抜く

116 ことなく、ひたすらそれを礼讃し、その前に膝まづいている。日本がひたすら西洋を模倣して進むとすれば、そのはてに待っているものは何か。「色を見るものは形を見ず。形を見るものは質を見ず。」目前の美、目前の栄光、目前の利益に目を奪われて、自分を見失い、自分を裏切り、ひたすら自分を愛し信ずるもの、古き日本のま
ごころをふみにじって、ただ前へ前へと進むならば、そのはてに待っているものは何か。「危い。小野さんは危い」と作者はいうが、小野の危さはまた日本の危さでもあったのだ。
   現代社会の根本の問題、日本の将来の問題を、日常生活を如何に生きるかという生き方の問題、思想の問題、倫理の問題として追求した点に、この作品の本質的な新しさがある。日本の自然主義が思想の否定、事実の絶対化、現実に対するたたかいの放棄によって、辛くも肉体に固執する狭隘なリアリズムを確立し、そのことによって日本の文学界を支配しはじめようとした時期に、漱石は如何に生
きるがよいかという理想の問題をどこまでも追求し、思想の確立を求めて、自分白身をも含めた日本人の現実を鋭く批判的に追求する、批判的リアリズムの深化の方向を進みはじめた。こうすることによって、漱石は現実に対するたたかいを、文学の問題として深めていったのである。「虞美人草」はそれが持つさまざまな欠陥にもかかわらず、そのような漱石の転回点を示し、日本のリアリズム深化の方向を示す作品として、今日にもよびかけるものの多い作品である。

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