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2010年8月 1日 (日)

死を見つめる漱石

 大学を退職する時、最終講義で夏目漱石の『点頭録』に触れた。それももう、七年も昔になる(私の最終講義は1952年)。しかし、年老いて死を身近かに感じるようになった今になって、生涯馴れ親しんだ漱石の文学は、ますます新しい意味をもってよみがえって来るようになった。とりわけ、その晩年の作品は切実なものになって来た。
『点頭録』は一九一六年(大正五)一月一日から二十一日まで、九回にわたって『東京朝日新聞』に連載されたのであった。第一回は「また正月が来た」と題して、新年を迎えた感慨を述べ、このあとに「軍国主義」「トライチケ」の章がつづいている。元来、もっと長期間にわたって連載するはずのところを、健康の理由もあって九回で中断したのだという。前年の正月には三十九回にわたって『硝子戸の中』を連載していることを思うと、『点頭録』が九回で中断したのは残念である。『硝子戸の中』は筆をもっぱら身辺に限っているが、この『点頭録』は一九一四年以来継続中の第一次世界大戦を真正面から論じ、とりわけこの後世界を支配するにいたった軍国主義をとりあげ、この思想を鼓吹し、今度の戦争に深い関係のある思想家としてトライチケを論じていたのである。                 
「英仏の評論家は現在の戦争を単に当面の事実としてばかり眺めていないのみならず、又それを政治上の問題としてばかり考えていないのみならず、其背後に必ず或思想家なり学者なりの言説を大いなる因子として数えたがっている傾向に見える。実際欧州の思想家や学者はそれ程実社会を動かしているのだろうか」と述べて、思想家や学者と政治の関係に強い関心を示し、これに反して現代の日本では、政治は飽くまでも政治、思想はまたどこまでも思想であって、「二つのものは同じ社会にあって、てんでんばらばらに孤立している。そうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに両者の連鎖を見出すかと思うと、それは発売禁止の形式に於て起る抑圧的なものばかりである  」と論じた。
 漱石はこの年十二月にこの世を去ったのだから、二度と「また正月が来た」という言葉をくりかえすことは出来なかった。鏡子夫人は『漱石の思い出』に「大患以来毎年引き続いての病気に、此頃ではすっかり老け込んで、髪といわず、髭と言わず、随分白くなって居りました」と述べている。リューマチに苦しみ、湯河原に転地して、『点頭録』は途中で打ち切られなけれる運命にあった。四月には糖尿病の診断を受け、三ケ月間の治療を受けている。その間にまた胃病で病臥するといった具合である。この年、漱石は数え年で五十歳を迎えたのであった。人生五十年といわれた時代である。余命いくばくもないという思いは避けがたかったであろう。主観的願望や意志がどうであろうと、それを蹂躙して顧みない死が刻々に迫っているという自覚はあったが、しかしまた、もう二度と正月を迎えることが出来ないのだとは思っていなかったであろう。
 まさに漱石はこのように知と無知、生と死、有と無、明と暗の間を生きて、心は過去に向きがちであった。そして、自分の一生は何であったのかと、自己の生涯、自己の生存の意味を問う思いが強まっていた。それは一九一〇年(明治四三)の「修善寺の大患」で一度「死」を体験して以後急速に強まっていたが、とりわけ「明治」とよばれた時代が終り、「大正」という新時代が来て、デモクラシー運動が強まるなど、若い世代の活躍が目立ち始めた時、いっそう切実なものになって行った。一九一四年(大正三)に発表された『こゝろ』は、元来「先生の遺書」として書かれたのであり、それに続いて『硝子戸の中』『道草』が書かれた。
『こゝろ』を発表して間もなくの講演「私の個人主義」が英国留学時代を回想していて、『文学論』序文や『野分』に呼応していていることはよく知られているが、『こゝろ』執筆に先だって、母校一高で講演した「模倣と独立」でも自分の一高時代を回想し、罪と告白について語っており、それが『こゝろ』のモティーフになっている。この時期の漱石は人生の出発点である学生時代や、作家として出発した当時をしきりに思い起こしていた。そして、『硝子戸の中』で自分の生い立ちを語り、『道草』を書き、『点頭録』を書いたのである。
『点頭録』の漱石は「また正月が来た」という言葉に続けて、「振り返ると過去が丸で夢のように見える。何時の間に斯う年令を取ったものか不思議な位である」と言い、近頃の自分は「ただの無として自分の過去を観ずる事がしばしばある」と述べている。過去が無であるならば、現在も無であり、未来も無であるということになり、「一生は終に夢よりも不確実なものになってしまう」。しかし、「驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽い尽して儼存しているという確実な事実である」と漱石は言う。そして、「年頭に際して、自分は此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした迄である」と述べ、六十一になって始めて道に志し、百二十になるまで「化導」に努めた唐の高僧趙州について語っている。
「寿命は自分の極めるものでないから、固より予測は出来ない」「古仏と云われた人の真似も長命も、無論自分の分ではないかも知れないけれども、羸弱 なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於いての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽くそうと思うのである」と漱石は述べている。一方で自分の死をみつめ、一切を無と観じながら、一方で現在に生きる自己を強く意識して、激動する世界を見つめ、積極的な発言をしようとしたのである。こうして「軍国主義」「トライチケ」が書かれ、『明暗』が書かれた。『道草』や『明暗』の背後に、死を見つめ、無を自覚すると同時に、世界大戦の現実をしっかりと見据えている漱石がいることを忘れることは出来ない。
 軍国主義は漱石の言葉どおり、第一次世界大戦以後の世界を支配して、第二次世界大戦に至った。漱石は大戦の行方を見届けることなく、ロシア革命の前夜に世を去った。誰もこの世の終りは見届けることが出来ない。二十世紀の終りを生きて、二十一世紀の行方を決して見届けることが出来ない私たちである。何かをしおおせようとすればあせりもしよう。もはや何事もしおおせる事は出来ないと自覚するところから、新しい生が開けるように思う。晩年の漱石はそこから新しい世界を開いた。遠くない未来に確実な死を控えて、無力は無力なりに可能なかぎり今を生きて、そこに私なりの新しい世界を開きたいと思う。
ることなのであろう。二十世紀の終りに、大学を退職する時、最終講義で夏目漱石の『点頭録』に触れた。それももう、七年も昔になった。しかし、年老いて死を身近かに感じるようになった今になって、生涯馴れ親しんだ 漱石の文学はますます新しい意味をもってよみがえって来るようになった。とりわけ、その晩年の作品は切実なものになって来た。
 年をとってもなかなか世界に対する興味は衰えない。生涯の終わりの時期に、かえって日々さまざまな新しい世界が開けて興味が分散し、なかなか一つのことに集中できない憾みがある。書きたいことは次々に出て来るが、文章はなかなか書けない。これが老いのしるしなのであろう。しかし、『点頭録』は一九一六年(大正五)一月一日から二十一日まで、九回にわたって『東京朝日新聞』に連載されたのであった。第一回は「また正月が来た」と題して、新年を迎えた感慨を述べ、このあとに「軍国主義」「トライチケ」の章がつづいている。元来もっと長期間にわたって連載するはずのところを、健康の理由もあって九回で中断したのだという。前年の正月には三十九回にわたって『硝子戸の中』を連載していることを思うと、『点頭録』が九回で中断したのははなはだ残念である。『硝子戸の中』は筆をもっぱら身辺に限っているが、この『点頭録』は一九一四年以来継続中の第一次世界大戦を真正面から論じ、とりわけこの戦争以後、世界を支配するにいたった軍国主義をとりあげ、この思想を鼓吹し、今度の戦争に深い関係のあった思想家としてトライチケを論じていたのである。
「英仏の評論家は現在の戦争を単に当面の事実としてばかり眺めていないのみならず、又それを政治上の問題としてばかり考えていないのみならず、其背後に必ず或思想家なり学者なりの言説を大いなる因子として数えたがっている傾向に見える。実際欧州の思想家や学者はそれ程実社会を動かしているのだろうか」と述べて、思想家や学者と政治の関係に強い関心を示し、これに反して現代の日本では、政治は飽くまでも政治、思想はまたどこまでも思想であって、「二つのものは同じ社会にあって、てんでんばらばらに孤立している。そうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに両者の連鎖を見出すかと思うと、それは発売禁止の形式に於て起る抑圧的なものばかりである」と論じた。
 漱石はこの年十二月にこの世を去ったのだから、二度と「また正月が来た」という言葉をくりかえすことは出来なかった。鏡子夫人は『漱石の思い出』に「大患以来毎年引き続いての病気に、此頃ではすっかり老け込んで、髪といわず、髭と言わず、随分白くなって居りました」と述べている。リューマチに苦しみ、湯河原に転地して、『点頭録』は途中で打ち切られなけれる運命にあった。四月には糖尿病の診断を受け、三ケ月間の治療を受けている。その間にまた胃病で病臥するといった具合である。この年、漱石は数え年で五十歳を迎えたのであった。人生五十年といわれた時代である。余命いくばくもないという思いは避けがたかったであろう。主観的願望や意志がどうであろうと、それを蹂躙して顧みない死が刻々に迫っているという自覚はあったが、しかしまた、もう二度と正月を迎えることが出来ないのだとは思っていなかったであろう。
 まさに漱石はこのように知と無知、生と死、有と無、明と暗の間を生きて、心は過去に向きがちであった。そして、自分の一生は何であったのかと、自己の生涯、自己の生存の意味を問う思いが強まっていた。それは一九一〇年(明治四三)の一度「死」を体験した「修善寺の大患」以後急速に強まっていたが、とりわけ「明治」とよばれた時代が終り、「大正」という新時代が来て、デモクラシー運動が強まるなど、若い世代の活躍が目立ち始めた時、いっそう切実なものになって行った。一九一四年(大正三)に発表された『こゝろ』は元来「先生の遺書」として書かれたのであり、それに続いて『硝子戸の中』『道草』が書かれた。
『こゝろ』を発表して間もなくの講演「私の個人主義」が英国留学時代を回想していて、『文学論』序文や『野分』に呼応していていることはよく知られているが、『こゝろ』執筆に先だって、母校一高で講演した「模倣と独立」でも自分の一高時代を回想し、罪と告白について語っており、それが『こゝろ』のモティーフになっている。この時期の漱石は人生の出発点である学生時代や、作家として出発した当時をしきりに思い起こしていた。そして、『硝子戸の中』で自分の生い立ちを語り、『道草』を書き、『点頭録』を書いたのである。
『点頭録』の漱石は「また正月が来た」という言葉に続けて、「振り返ると過去が丸で夢のように見える。何時の間に斯う年令を取ったものか不思議な位である」と言い、近頃の自分は「ただの無として自分の過去を観ずる事がしばしばある」と述べている。過去が無であるならば、現在も無であり、未来も無であるということになり、「一生は終に夢よりも不確実なものになってしまう」。しかし、「驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽い尽して儼存しているという確実な事実である」と漱石は言う。そして、「年頭に際して、自分は此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした迄である」と述べている。
 一方で無を見つめながら、一方で現在に生きる自己を強く意識して、激動する世界を見つめ、積極的な発言をしようとしていた。六十一になって始めて道に志し、百二十になるまで「化導」に努めた唐の高僧趙州について語り、「寿命は自分の極めるものでないから、固より予測は出来ない」「古仏と云われた人の真似も長命も、無論自分の分ではないかも知れないけれども、羸弱 なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於いての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽くそうと思うのである」と述べている。
 軍国主義は第一次世界大戦以後、世界を支配して、第二次世界大戦に至った。思えば二十世紀は、恐ろしい速さで破壊力、殺傷力を拡大強化して来たのであり、それが「正義と人道」の名において、容赦なく無辜の人民に振るわれるようになった時代である。漱石はそれを見届けることなく、これから一年もたたずに世を去った。世界はどうなるか、そして、日本は?私はそれを見届ける事は出来ない。しかし、世界の終末は誰も見届けることが出来ないのであろう。私たちに出来るのは、今を無力は無力なりに全力をあげて生きることなのであろう。

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