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2011年11月 8日 (火)

日本近代文学と天皇制

日本近代文学と天皇制 『漱石と天皇制』所収

       一 福沢諭吉と天皇制
 福沢諭吉は、「古の民は政府を視ること鬼の如くし、今の民はこれを視ること神の如くす。古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む」と述べた。そして、それは「一新の後、未だ十年ならずして、学校兵備の改革あり、鉄道電信の設あり、その他石室を作り、鉄橋を架する等、その決断の神速なるとその成功の美なるとに至りては、実に人の耳目を驚かすに足れり」というような明治政府の文明開化-近代化政策の見事な成功によるとした。明治維新以前においては、一部に尊王攘夷を説く者があっても、普通の人民にとってはまったく無関係であった天皇が、極めて短時日の間に絶対的な尊崇の対象になり、神として拝まれるに至ったのは、こうした「上からの近代化」の成功によるところが大きかった。
 『学問のすすめ』の諭吉は、人民がひたすら政府をありがたがって、「独立の気力」を欠くならば、いかに「文明の形」を作っても、「民心を退縮せしむるの具」となるばかりで、文明の発達を阻害することになると説いた。『文明論之概略』では「国体」と「血統」と「政統」の区別を論じ、「国体を保
つ」とは国の独立をまもり、「自国の政権」を失わぬことで、そのためには「人民の智力」を進めなくてはならぬと強調した。「開闢草昧の世」には人民が事物の理に暗く、外形のみに畏服するので、「理外の威光」を用いざるを得ない。これが「政府の虚威」である。「虚威」を主張しようとすれば、「下
民を愚にして開聞の初に還らしむる」のが上策である。しかし、これでは結局国民の力が衰弱し、「国体」を失うことになる。このように諭吉は論じた。
10  この諭吉が、一八八二〈明一五〉年に『帝室論』、八八〈明二一年に『尊王論』を発表している。自由民権運動の全国的な高揚期に『帝室論』を書き、憲法発布、国会開設の直前に『尊王論』を発表したのである。ここには民権運動の激化を恐れ、「挙国一致」を求める論吉の立場がはっきりとあらわれている。諭吉は「経世の要用」の観点から「帝室」の有用性を論じた。党派間の軋轢抗争を調和するもの、「平生より微妙不可思議の勢力を耀かして、無形の際に禍を未萌に予防する」ものとして、「帝室至尊の神聖」の効用を強調した。諭吉は帝室の尊き所以を「尚古懐旧の情」、「人生稀有の品を悦ぶの情」に求めた。瓦片石塊でも日本唯一のもの、世界第一のものといえば巨万の富を投じ、老樹古木もその由来を聞けば伐るに忍びない。「我が日本国に於て最古最旧、皇統連綿」たる帝室が「天下万民の共に仰ぐ所」となり、「神聖」とされるのも、「人情の世界」において決して偶然ではないと諭吉は論じた。諭吉は天皇に対する国民の尊崇の根拠を「理外の人情」に求め、その存在理由も、「理外の人情」に訴えて国民統合の中心となることにあるとした。この観点から、天皇が常に政権から遠く離れて、一方で、あらゆる政治勢力から独立した不偏不党の軍隊を掌握して軍事の中心となり、一方で、学術文化の功労者を表彰するなどしてその振興に力をいれ、政治から独立した不偏不党の恩徳あまねき絶対的存在として、軍事と学術文化、日本の近代化の中心であることを国民に印象づけることの必要を説いた(6)。
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 天皇の有用性を論ずることは天皇を相対化することである。諭吉には天皇に対する崇拝畏敬の念は少しも見られない。諭吉が求めたのは何よりもまず国の独立であり、そのための文明開化であった。明治初年の諭吉はこの観点から「古習に惑溺する」民心の根底からの変革を求め、「下からの近代化」
を徹底して求めたが、自由民権運動の激化に恐れを抱くに及んで、「古習に惑溺」し、「今尚ほ封建の余習を残し、理外に君上を尊信する」日本国民を、「文明の精神」に向かわせるのではなくて、かつて否定した「理外の威光」「虚威」によって支配し、「社会の安寧」をはかり、「挙国一致」を実現しようとしたのである。このような諭告の転換の根底には、西欧列強によるアジア侵略の問題がある。「今の世」を「禽獣世界」であり、「世界古今に義戦なし」と見る諭吉は、「結局、今の禽獣世界に処して、最後に訴ふべき道は必死の獣力に在るのみ」と考え、「西洋の諸国と対立して、我人民の報国心を振起せんとするの術は、之と兵を交るに若くはなし」と主張するまでに至っている。諭告は「天然の自由民権論は天道にして人為の国権論は権道なり」といい、「我輩は権道に従ふ者なり」と宣言した。そして、かつて鋭く対立した攘夷家について「我輩の所論も、他なし、此精神を変形して之を用んと欲するのみ」というに至った。(8)
 諭吉は国内の政争の激化を防ぎ、対外戦争のための強大な軍隊を建設するために、「民心収攬の中心」としての天皇が政党政派から独立した軍隊を統率することの意味を強調した。これは政治から独立した天皇の軍隊を強調した「軍人勅諭」の発布(一八八二年一月)と対応し、天皇の軍隊の確立を民
間の立場から主張するものであった。明治のはじめには到底天皇制を支持する立場には立ち得なかった諭吉のような合理主義者の変貌は、日本における天皇制の基盤が極めて短時日の間に広く深いものとなっていったことを示している。その根底には国民的独立の達成と軍事力の急速な強化という課題があったが、外圧を強調して革命的反対派を抑圧し、天皇と、天皇を中心に据える国家と軍隊を不偏
不党の絶対的なものとし、日本を「特別な国」とする幻想を国民の間に深く浸透させたことは、単に政治上の問題であるにとどまらず、近代日本の思想、文学、芸術にとっても重大な問題であった。

      二 天皇幻想と「大逆事件」

 明治天皇の死に際して、明治元年生まれの徳富蘆花は、「明治が大正となって、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生を持って往つておしまひになつたかの様に感じた」と記している。夏目漱石もまた、「維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である」と言い、『こゝろ』の先生は「其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」と述べている。明治の作家たちは明治という時代に対する強い一体感を感じていた。蘆花は「大逆事件」に際して、「天皇陛下に願ひ奉る」という一文を書いて天皇に直訴しようとし、十二名の死刑執行直後に一高で「謀叛論」と題する講演をおこなった。蘆花は「彼等もまた天皇の赤子」といい、「我々の脈管には自然に勤王の血が流れてゐる。僕は天皇が大好きであ12 る」と述べている。また、幸徳らの活動の自由を奪って彼らを暴力行動計画にまで追い詰め、二十四名中十二名しか助命しなかった責任を政府高官に求め、旧幕時代の封建社会が打破された明治初年の日本の意気は実に凄まじいものだったと回想している。蘆花にとって天皇は、明治という時代の「自由平等革新の空気」を代表する偉大な存在であった。「何処に陛下の人格を敬愛してますく徳に進ませ給ふ様に希ふ真の忠臣がある乎」と明治政府の高官たちを論難する蘆花は、自身の天皇に対する誠忠を疑わなかったのであろう。蘆花の天皇に対する感情が幻想であったことは否定できないが、そ
れだけ内面化し、深い感情になっていた。諭吉にとっては人民支配の道具にすぎなかった天皇が、蘆花においてはこのように魂の奥深くを支配するものとなっていた。
 『虞美人草』の甲野さんは、「日本と露西亜の戦争ぢやない。人種と人種の戦争だよ」「亜米利加を見ろ、印度を見ろ、亜弗利加を見ろ」という。『三四郎』には「危ない」という言葉が繰り返される。
  日本はこの「危ない」で充満しているというのである。そして、広田先生は日本の未来を「滅びるね」という。侵略的な西欧列強の軍事的圧力を痛切に感じながら、民族的独立と近代化を実現しなければならなかった明治という時代と共に成長した漱石には、西洋に対するコムプレックスと抵抗感、そして、強い危機意識と民族的一体感があった。漱石にとっても天皇は、この明治という時代が育んだ国
家意識と切り離しがたいものであった。明治天皇の死の直後に『哲学雑誌』の巻頭に掲げられた「明治天皇奉悼之辞」の「過去四十五年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる」大行天皇という言葉は、やはり漱石の実感であったろう。
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 『野分』の白井道也は「国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいゝのさ」といって、市電の電車賃値上げ反対闘争の犠牲者救援の演説会に弁士として出席した。明治三九年八月二一日の深田康算宛書簡には「小生もある点に於て社界主義故堺枯川氏と同列に」電車賃値上げ反対の行列に加
わったと新聞に出ても一向に差し支えないと書いている。日露戦争直後の漱石が社会主義に対する共感を隠さなかったことは事実であり、その社会主義は「維新の志士の精神」を受け継ぎ、国家主義とも重なり合う所のあるものであった。『それから』でも、一方で資本主義社会の腐敗を描くと同時に、幸徳秋水らに対する警察の取り締まりについて触れている。この漱石が「大逆事件」に無関心であった筈がない。それは天皇制政府と人民との敵対関係を白日のもとに暴き出した。この事件に対する蘆花の混乱した対応は、当時の知識人の受けた衝撃と混乱を直接に露出したものであった。漱石には
「大逆事件」についての直接の発言はない。そして、一般にはほぼ時を同じくして漱石を襲った修善寺の大患ばかりが重視されるが、時として、まったく発言しないことが、より深い、重大な関心の現れであることがある。とにかく、この事件以後漱石の思想と文学に一大転換が起こったことを無視す
ることはできない。
 福沢諭吉は天皇が実際の政治に対して超越的で、あらゆる政争の上に立つことによって、その神聖性、絶対性を保持し、「日本人民の精神を収攬するの中心」となるべきことを強調した。現実の政治は冷たく苛酷であっても、「帝室の恩徳は其甘きこと飴の如く」でなければならぬ。「乱臣賊子」なるものも等しく「日本国内の臣子」であり、「天覆地載の仁」に「軽重厚薄」があってはならぬ。天皇が絶対の存在である以上、天皇の敵対者はいない筈である。もし敵対するものがあったとしても、それは「瘋癲」であるから、刑に処することなく、「一種の檻に幽閉」すれば十分だと諭吉は述べた。諭吉
14 はプラグマチックな国民統治の観点から「神聖なる天皇」の幻想を重視したのである。蘆花の天皇に対する幻想は、諭吉が作り出そうとした幻想そのままであった。それは明治の国民一般に浸透していたのである。「大逆事件」は政府が自らこのような幻想を打ち壊し、国民を畏怖戦慄せしめることによって支配しようとするに至ったことを示している。これは日露戦争後の社会情勢に対する天皇制政府の危機感の現れであるが、明治という時代が一つの新しい転回を遂げたことを示すものであった。それは思想と文学にとっても新しい転回点となった。

      三 啄木の浪漫主義と天皇制

 「大逆事件」によって最も激しい衝撃を受けた文学者の一人である石川啄木の場合、明治一九年生まれということもあって、天皇幻想ははるかに深く内面化していた。明治四〇年一月一日、啄木は日記に「神武紀元第二千五百六十七年の元旦」と記し、新年の新聞がいずれも軌を一にして「四十年前を回顧し、この短時代に成し遂げたる聖代の文化を誇り、且つ将来の希望を述べ、無窮の皇徳を頌」していることに共感を示している。かつて啄木は日露戦争の勝利に熱狂して、「民族的理想」とか「民族的使命」とかいう言葉に酔っていた。「自己拡張の意志」と「自他融合の意志」は、自己と民族の同一化によって、民族的な「自己拡張」と「自他融合」を「民族的理想」「民族的使命」とする侵略的民族主義に容易に転じ得るものである。ここには、強者に憧れ勝利を讃美する啄木の浪漫主義があった。
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 「無限」「永遠」「偉大」を夢見、限りなき「美」と「真理」に憧れる啄木の浪漫的精神は、神話的世界の夢想と結び付き、王朝的言語の世界に迷いこんで、深遠、荘重、絢爛、豪奢な装いをこらした幻想的な世界をつくり出した。『あこがれ』の序詩「沈める鐘」は、次のような詩句で始まっている。「混沌霧なす夢より、暗を地に、/光を天にも劃ちしその曙、/五天の大御座高うもかへらすとて、/七宝花
咲く紫雲の『時』の輦クルマ」旧約の天地創造神話と日本の神話や王朝文化の幻想がないまぜになったこの詩的幻想世界は、日露開戦を讃美する「西伯利亜の歌」の世界に通じている。「俯仰古今のわれ一人/神の語を読み得ては、/高き救ひを呼ばふべく」「かへり見すれば曙白シノノメの/鈍色動く空の遠(をち)、/ああ天の民醒めざるや」そして啄木は「無人に似たる西伯利亜に/大旗を立てて真と美の/国の理想を揚ぐるべく/時は来りぬ。鐘鳴り渡れ」とうたいあげた。
 徳富蘆花も「みゝずのたはこと」に天皇の死を悼んで、「比叡の朝は霞む共、鴨の夕風涼しくも、禁苑の月冴ゆとても、鞍馬の山に雪降るも、御所の猿辻猿の頬に朝日は照れど、鳥啼く椋(むく)の梢に日は入れど、君は来まさず……」にはじまる長大な挽歌をうたいあげている。御大葬の夜に書いた「東の京西の京(明治天皇の御始終)」と題する一節の後半部分が自然に歌になったのである。他は全文口語で書かれたこの田園生活日記のこの一章だけが王朝的言語で書かれ、それがまたいつの間にか万葉風の挽歌に変わっていった所に、蘆花の深部の感情の流出が見られる。天皇の死に直面して、異常な感情の高まりに、深層の言語が自然に溢れ出たのであったろう。啄木にしても、内部の自然な感情の高まりが、たとえ稚拙ではあるにしても、あのような言葉の世界に迷いこませたのだと思われる。ここには、明治の文学者の内部に生きる天皇制の問題がはっきりあらわれている。
 しかし、日露戦争後は戦勝に対する「幻滅」や「現実暴露の悲哀」が一般化した。もはや、個人と国家の一体性は信じられなかった。啄木は日露戦争当時を顧みて、当時日本国民の全体を揺り動かし

16 た国民的熱狂は中学生的な興奮にすぎなかったとしている。そして、かつて自分をとらえた詩的幻想の世界を、「揮発性の言語」の世界として否定した。啄木の詩的幻想を破つたのは日露戦争後の厳しい生活の現実だった。また、当時勃興した自然主義への共感であった。限りない上昇と拡大を夢見、「偉大」と「理想」に憧れる浪漫的情熱は、たちまち、自己の卑小と無力を嘆き、虚無と絶望の世界へ溺
れこむ感傷に転位する。啄木もまた、こうした感傷から自由ではなかった。しかし、啄木は感傷に溺れることを拒み、生活の現実を直視しようとした。啄木もまた自然主義を生んだ時代の潮流の中にあった。
 啄木は、自然主義は明治の日本が生んだ「最初の哲学の萌芽」であると評価した。それは「文学を解放した。少なくとも解放しようとした。(16)「旧道徳、旧思想、旧習慣のすべてに対して」反抗を試み、(17)「一切の美しき理想は皆虚偽である!」という「重大な教訓」をあたえた。(18)しかし、それはまだ行くべき処まで行かずに、途中で停滞し、弛緩しようとする傾向を作った」と啄木はいう。(19)啄木は文学に「批評」を求めた。その観点から日本の自然主義者が「たゞの記述、たゞの説話に傾いて来」たことを批判した。(20)啄木はその原因を自然主義者が「国家」の問題を回避したことに求めた。旧道徳・旧思想・旧習慣に対する戦いは、どうしても国家の問題に突き当たらずにはいない。「道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離して考へる事は、極めて明白な誤謬」であり、「日本人に特有なる卑怯である」と啄木は主張した。(21)
17「日本は其国家組織の根底の堅く、かつ深い点に於て、何れの国にも優つてゐる国」だから、国家と個人の関係についての疑惑乃至反抗は、「何れの国の人よりも深く、強く、痛切でなければならぬ筈」であった。しかし、自然主義の運動も、国民の生活と思想を支配する「国家といふ既定の権力」に対する追及を回避した。さらに「実際上の問題」を軽蔑するのが「近代の虚無的傾向」と考えて、「国家と言ふものに就いて真面目に考へてゐる人を笑ふやうな傾向」が現れた。啄木は日本の青年が国家の強権に対して「確執を醸した」ことがなく、国家が我々にとって「怨敵」となる機会もなかったことを、我々の境遇は「彼の強権を敵とし得る境遇の不幸よりもさらに不幸」だと述べた。(24)この「不幸」こそ、日本の近代文学を呪縛する天皇制の問題であった。

      四 木下尚江と天皇制

 日本国民にとって極めて痛切である筈の国家の問題を回避する「日本人に特有なる卑怯」は、単に文学だけの問題ではなかった。思想、哲学、学問のあらゆる領域において顕著な傾向であり、基督教でさえこの傾向を免れなかった。それどころか日本の学問や宗教は国家に屈服し、妥協し、国家の矛盾を弥縫し、美化し、国民を欺瞞するものとなった。木下尚江は「由来大学は政府の手足」であり、「学問独立の精神」はその片影だに認められないとして、「帝国大学を破滅せよ」と主張した。大学諸教授は政府の御用学者となり、時代の頑冥思想に追随して、国法学においても、倫理学においても、天皇制を基礎づける牽強附会の説をなして来た。(25)外国の君主政治を評論するときは甚だ猛烈であっても、「特殊なる日本の君主政治」に対しては、修辞の限りを尽くして「徹頭徹尾之を謳歌讃美」した。しかし、それは単に学者の罪とだけいうことはできない。そうでなければ、日本の君主政治を論じただけで、国民一般の感情が直ちにこれを「不敬」と認める程、「社会の空気」が「一種の異風」を帯び
18 ているのだと尚江は指摘した。(26)
 日本の哲学も宗教もともに君主政治を根底としていると尚江は主張した。基督教も、「在来の偏狭なる愛国心に同胞主義を鍍金」したものを基督教だと称して、天皇制国家の家僕となった。日本では釈尊も基督も「愛国神の門番」となった。社会党もまた「経済的平等を希望するに過ぎず」とひたすら弁疏して、社会党を目して「君主政治の転覆者」だとするのは自分等を「誣ふる」者だと憤激する。
「看よ、日本の何処に君主政治を否定する所の思想あり熱情ありや」と尚江は悲痛な叫びを上げた。
「日本国民の皇帝を崇拝するは理論に非ずして純信仰なり」「吾人の祖先は実に天子様を拝めば目が盲するとまでに畏敬したりし也」「君主神権の信仰は日本国民遺伝の熱烈なる感情也」「日本国民の胸底には革命を感応すべき情熱を有せざる也」これらの言葉には、国民の感情を呪縛する天皇制の根深さに直面して絶望的にならざるを得なかった尚江の気持ちが切実に現れている。
 日本は「特別な国」であり、天皇は「神聖不可侵」の絶対的存在で、これに疑義を抱くだけで国賊扱いされた。日本の学者は日本の国体と天皇について、何一つまともな説明を与えなかった。彼らがその根拠としてあげるのは、僅かに特殊な日本の歴史であるが、その歴史説すら今日の学問知識に照(29)らせば、牽強附会の弥縫策であることを免れなかった。尚江はこのように論じ、日本人の天皇崇拝は理性によるものではなくて、長い歴史を通じて形成され、蓄積された「遺伝的感情」であり、信仰であると強調した。しかし、それは非理性的な、不条理な感情であるから恐ろしいのであった。日本にも「その理性においてもはや君主神権説を肯定せざる」「新国民」が多数現れてきたが、その血管を流れるものは皆「純乎たる『君主神権』の熱烈なる感情」であると尚江は主張し、知識は恐れるに足り19ない、「革命は決して理性より来るもの」ではないといって、「近き未来に革命の破裂を期すべきを信ずる能はず」と、革命に対する絶望の感情を率直に表明した。
 天皇制は単に外部から国民を抑圧する強権であるだけでなく、国民の内部に、その支配を許し、それを支え、それに依存する感情が強固に存在したのである。これと強権が結び付いて、反対者の存在を一切許さない「一種の異風」を帯びた「社会の空気」を作り出した。尚江はそれが日本の学問、思想、文学を内部から根源的に制約していると考えた。西洋の学説は様々に輸入紹介されたが、自己に根差し、自分の生きる現実、日本の社会の現実を徹底して解明する思想や学問は発展しなかった。啄木が批判した実際の問題を軽蔑し、ヨーロッパの夢を追い求める近代主義は、このような天皇制の地盤の上に花開いたのである。尚江は、このような天皇制は虚無主義と道徳的退廃をもたらさずにはいないと指摘している。
 日露戦争中から日本の青年学生は、戦争に対して冷淡だとか、「愛国の公心」が欠乏しているとかと批判された。これに対して尚江は、最近十数年間の政府の教育の方針がひたすら愛国心の培養であるにも拘わらずこのような非難嘆声を聞くのは、その教育が、形式では「愛国」を標榜しながら、その実際は努めて公共心の発動を抑制したためだと論じた。渡良瀬川の鉱毒事件で学生が大挙して視察し、その荒廃に憤激して救済の必要を唱えたとき、政府は学生の社会的関心の抑圧に努めた。政府は君主神権説を唱え、ひたすら国家と君主の前に拝脆することを求めて、「国家」に対する自由討議を許さなかった。今日の学生に対する非難が事実ならば、言論の自由を奪い、青年学生の国家と社会に対すろいきいきした興味と関心を抑圧した政府の失敗であると尚江は論じた(26)

20  尚江はまた、当今の青年社会が「奢侈淫靡」とか、「外観の修飾に汲々として僥倖を冀ふの悪潮滔々たる」とかの理由で論難されることについて、いわゆる「貴顕紳士の淫行」、「政府の議員買収」、「政治家と紳商との結託」等々が公然と横行する社会の罪であると主張した。今日の青年は「頭は藩閥政府に依て発明されたる神権的忠君、鎖港的愛国の道徳律に束縛されながら、全身既に資本家時代の無道徳的濁流に漂はさ」れている。尚江はここに今日の青年の煩悶の根源があると指摘した。資本主義の発展が旧来の封建的道徳の基盤を掘り崩しているにも拘わらず、依然として天皇制の基盤としてそれに固執し、個人を基礎とする新しい近代的な道徳の確立が阻害されている。これが無思想無道徳の退廃を必然にしたのである。
 尚江は「虚無主義の詩思」が日本の歴史を貫流していることを強調し、支配階級の極度の腐敗と過酷な搾取にも拘わらず、天皇を担いで反政府の動きを徹底して抑圧するならば、虚無主義の発生は不可避であると論じた。物質的傾向の徒は暴力を以て現世の破壊を思い立ち、精神的傾向の徒は「厭世直ちに一切の覊絆より脱却する」ことを求めるようになる。尚江がこの二つの虚無主義を表裏の関係において把握し、これを共に天皇制の所産としたことは、一方でついに「大逆事件」というような形で破局へと突き進んだ運動の無政府主義化があり、一方で尚江自身が社会主義運動から離脱するという方向に進んだことを含めて、日本の思想及び文学の運動が啄木が批判したような停滞を余儀なくされた事情を述べたものとして注目すべき発言である。
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      五「時代閉塞の現状」と文学

 明治三九年一〇月、「旧友諸君に告ぐ」を発表して木下尚江は社会主義運動から離れていった。前記の諸発言の直後の事である。「時代閉塞の現状」という啄木の言葉そのままの時代であった。追い詰められた運動は幸徳らの直接行動論に脱出の道を求めたが、それにもまた成功の可能性は認められなかった。尚江は、今日においては暴力革命が「平民革命階級必然の運命」であり、これに「真に多大の興味を感得」するとしながら、「然れども僕は基督教徒也」と述べて、運動を離れた。運動が分裂、解体し、多数の脱落者を出しながら、ますます絶望的に過激化し、政府の弾圧がますます苛酷になっていった時代であった。
 明治四〇年一月の「野分」を最後に、漱石は教師と作家の兼業を止め、朝日新聞に入社して職業作家の道を歩き始める。しかし、その第一作『虞美人草』には、『二百十日』『野分』に描かれたような、直接社会に働き掛ける能動的な精神は見られない。甲野さんは鋭い文明批評家ではあるが、既に社会に対して働き掛ける意志を失った、懐疑的な哲学者である。「隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一目を揺かせば一目を砂す。手と目を害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々刻々に深くなる。」作品の末尾に掲げられた甲野さんの手記の一節である。悲劇を予想しながらも何もしないのは、自己の無力を知る故である。事態をそれ自身の法則に従う自然の発展に任せ、避けがたい悲劇に直面させて「三世にまたがる業を根底から洗」うのだと甲野さんは言う。この甲野さんの言葉は、「時代閉塞の現状」に直面する漱石が、自分自身の創作方法を述べているのだと見ることもできる。現実の矛
22 盾を作中において解決するのではなく、虚構においてその矛盾を行き着くところまで発展させて、現実倒れなければならない。作者は藤尾に明治日本の運命を仮託したということもで驕慢の女は驕慢に倒れなければならない。作者は藤尾に明治日本の運命を仮託したということもできるであろう。

 啄木の『我等の一団と彼』の執筆は[大逆事件]の発覚と時期が重なっている。主人公の「彼」高橋は徹底したリアリストであった。「世の中を救ふ」というような「誇大妄想狂」ではなく、「かくせねばならん」という野心もないが、「斯く成らねばならん」という結論は持っている。そして、「時代の推移」は確実にその実現の方向に進んでいることを知っているので絶望することはないという。ここには個人の意志や希望によっては時代を動かすことはできないが、時代はそれ自身の法則に従って、必然の道を進むのだという思想がある。しかし、高橋はその実現は「僕等の子供が死んで、僕等の孫の時代、それも大分年を取ったころになって」だという。高橋は「時機を待つ人」であった。「時代の力ばかり認めて、人間のカーーー個人の力といふものを軽く見すぎる弊が有りはしないか?」という「私」に、高橋は「僕はただ僕自身を見限つてるだけだ」という。「人類だの、人格だの、人生だの、凡てあんな大袈裟な、不確かな言葉」は大嫌いで、「誰より
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も平凡に暮らして、誰よりも平凡に死んでやらうと思つてる」というのである。
 啄木は高橋をこの「時代閉塞の現状」において、現実を最も鋭く見抜いた先進的な思想の持ち主である故に身動きできなくなった人間として描いた。高橋は一切の理想の虚妄であることを知り、現実を罵り、理想を語る言葉の空しさを知っていた。しかし、時代を動かす歴史の力を信じて、じっと自己に耐え、現実を見詰め続けた。高橋は啄木の思想を一面化し、徹底させた虚構の人物であり、「私」によってその特異な見解や生活態度だけが語られている。啄木はその目をひたすら高橋の特異性と先進性に注いだ。高橋の生活や肉体、生身の人間としての一般性はすべて捨象されている。徹底した現実主義の主張が甚だ観念的に描かれたのである。
 「大逆事件」発覚直後の評論「時代閉塞の現状」は、時代の思想状況を的確に批評し、新しい思想と文学の方向を示したすぐれた評論であった。啄木はあらゆる理想主義に反対した。しかし、同時にあらゆる虚無主義に反対した。人間はあらゆる困難にうちかって人間の進歩を実現した。この人間の進歩を実現させたのは、決して人間の理想ではなく、「生活の必要」である。『我等の一団と彼』はあくまでも新しい明日を志向しながら、空虚な理想主義的おしゃべりや、言葉だけの自慰的な反抗の身ぶりなどを厳しく否定し、観念的な言語による自己欺瞞の拒絶を強く主張したという点で、新時代の文学の方向を示した。しかし、それは否定と拒絶であり、一つの思想の提示であった。そして、この時代における最も先進的な人間のあり方を示そうとしたために、観念的になることを免れなかった。啄木は「生活の必要」の観点から現実を描き出す方法と言語を自分のものにしていなかった。そこに時代閉塞の現状」における新しい文学の課題があった。

      六 天皇制と文学
                                        「俺はもう書く事なんか止さう」と、暗い寒い夜、出し抜けに妻に言ったと啄木は書いている。(34)書くことは山ほどあった。しかし、いくら書いても発表することができない。『我等の一団と彼』も「時代閉塞の現状」も、そのほか死に至るまで病床で書き綴った多くの貴重な文書も、啄木の生前には発
24 表されなかった。戦後になってょうやく日の目を見たものも少なくなかったのである。この啄木の悲惨な現実は、天皇制と文学の関係を端的に語っている。そして、それは日本の近代文学の在り方を根底において規定している。漱石は、その年に死を迎えることになる一九一六〈大正五〉年一月の「点頭録」に、軍国主義を論じ、トライチヶを論じて、西洋では政治上の問題の背後に、思想家なり学者なりの言説を大きな因子として見る傾向があると指摘した。これに反して現代の日本では、政治と思想は「同じ社会にあって、てんでんばらくに孤立してゐる。さうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに両者の連鎖を見出すかと思ふと、それは発売禁止の形式に於て起る抑圧的なものばかりである」と述べた。これは天皇制による言論の抑圧について語る言葉であっただけでなく、それが日本の思想や文学を内部から蝕み、不具的な発展をもたらしたことを指摘する言葉であった。
 「大逆事件」の一九一〇年前後は『白樺』や『スバル』、第二次『新思潮』、『三田文学』などが創刊され、様々な傾向の新進作家が文壇に登場した年である。彼らの作家的生涯はその出発点において天皇制の暗い影を負わなければならなかった。例えば志賀直哉は、内村鑑三の強い影響を受け、渡良瀬川鉱毒事件に対する強い関心から激しく父と対立し、これがその後の長い不和の始まりとなった。また、戦争と軍隊を徹底して嫌い、日露戦争の頃には反戦的な小説の構想をしきりに練っていた。しかし、『白樺』同人として登場した直哉の作品には、こうした社会的な問題についての関心はまったく表面に出ていない。むしろ、自覚的にそれを排除し、作品世界を日常的な生活の世界に限定することによって、作家としての自己を出発させた。
 直哉は、『我等の一団と彼』の高橋が嫌った人間だとか人格だとか自由だとか世界だとかいう抽象
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的観念的な言語を徹底して排除し、また感情的な言語、主観的な言語も排除して、ひたすら日常的、生活的な言語で、自己の感覚と感情、自己の個性を表現する道を切り開いた。その意味で直哉の文学は啄木の観念性を乗り越えて、新しい文学的可能性を切り開いたのだということができる。日常的生活言語の文学というだけなら、既に自然主義の成果があるが、直哉の積極性は、直哉の主人公が自己の閉じこめられた現実と激しく戦う、生き生きした能動的な感情を表現した点にある。しかし、その初期を代表する『大津順吉』を見れば明らかなように、直哉の主人公は、社会の現実と直接触れあう
場所において生きることがなかった。彼の戦いは、社会から彼の存在を守る家の内部における家族との戦いであった。それも、家にあって社会を代表し、最大の敵である筈の父の姿は直接には描き出すことをしていない。順吉の戦いは、作者も順吉も大真面目であるが、真面目であればあるほど家庭内暴君の甘えが剥き出しになり、ある種の滑稽感がつきまとう。直哉は社会を中心に置き、社会の方から、社会正義や人間的理想を主とする自意識の眼で自分を見、世界を見ることを自分に禁じ、あくまでも自分を世界の中心に置き、自分の触れる限り、感じる限りの世界を、自分の気持ちを主にして描いた。直接に社会を描こうとすれば、抽象的観念的になり、自己閉塞的な自意識の世界に迷い込んで行く事を免れなかった。何よりもまず自分自身から出発し、自己の具体的な「生活の必要」を追究することが必要だった。漱石の場合も、『二百十日』『野分』から 『虞美人草』を経て『それから』に至り、さらに『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと進んでいく過程で、直接に社会や文明を論じ、道徳や革命を語る抽象的観念的な、大状況の言語は次第に消えていった。しかし漱石の場合、例えば『こゝろ』の先生のように社会からまったく孤立した自閉的な人物を
26 描いても、先生の背後には明治という時代があり、「明治の精神」があった。先生は先生から独立に生存する叔父やKや奥さんやお嬢さん(後の奥さん)との関係の中に、自己の精神のドラマを生きる。作者はわざわざ「両親と私」の章を設けて、先生の精神のドラマを、先生の世界とは全く異質の世界との対照において展開した。漱石の作品世界において主人公は決して世界の中心ではないことをいっている.「私の個人主義」の漱石は、自己の人間としての権利を強く主張すると共に、他者の権利をも尊重すべきことを説いた.漱石の主張する自己は決して絶対的特権的な自己ではなかった.
『文学論』の序文に漱石は、自分は日本国民としての五千万分の一の権利を主張するという意味のことをいっている.「私の個人主義」の漱石は、自己の人間としての権利を強く主張すると共に、他者の権利をも尊重すべきことを説いた。漱石の主張する自己は決して絶対的特権的な自己ではなかった。漱石の作品世界で特権的な自己を主張する者は、その特権意識によってつまずき倒れる。漱石の作品の主人公は決して先進的な絶対的な優越者ではなかった。彼らはそれぞれに何等かの欠陥を持っていて、そのために傷ついたり苦しんだりする。自己の絶対性、その先進性と優越性を信じて、周囲のすべてと戦い、人間の可能性を自ら切り開こうとした直哉の主人公の戦いは、天皇制下の閉塞状況において、極めて限定された局面においてしか展開できず、やがて自己の運命に対する戦いに変質して、大きな自然に自我が吸い込まれ、大きな調和を見出すことで終わった。直哉の作品世界は、どこまでも人間の可能性を求める主人公の戦いを軸として、専ら垂直的に展開した。直哉の主人公たちは極めて倫理的だが、その倫理は絶対を指向する垂直的な倫理であって、主人公と周囲の人たちとの関係は、横に並ぶ対等な人間と人間の関係ではなかった。主人公の周囲の人々は常に垂直的に上昇しようとする主人公によって裁断され、多様な人間がそれぞれにその個性を主張することは許されなかった。直哉の文学は個性的だといわれるが、それは主人公=作者の個性が作品世界をおおいつくす一元的世界だという意味であって、作者が作品世界の多様な個性をその多様性において描き出す個性主義というわけではない。
 天皇制下の日本においては、天皇と国家に対する絶対服従が強制され、思想の自由が奪われたために、人生に対する能動的な態度、国家や社会に対する積極的な関心が失われ、無思想無道徳、ひたすら利己的になる傾向が強まった。無理想無解決の自然主義がこの時代の支配的な文学となったのは偶然ではない。直哉を始め白樺の作家たちはこのような文学状況に反対して、生命と個性の発展を求め、その表現を追求したが、狭い世界に閉じこめられた作者=主人公の個性を絶対化するだけのものに終わった。有島武郎の『或る女』も結局、一元的なモノローグの世界であることを免れていない。天皇制の強要する世界観が天皇を頂点とする一元的世界観であり、これに対立する白樺も同じく一元的であることを免れなかった所に、日本の近代文学の根本的な問題がある。天皇制と最も激しく戦ったプロレタリア文学もこの一元的世界観に強固に支えられていた。これと今日にいたるまで個人主義道徳が確立されていないこととは無関係ではない。個人主義とさえいえば無思想無道徳の利己主義とされ、道徳の問題は、天皇制や国家主義の復活と結びつけられてしか提起され得ない傾向がある。この意味で、個人主義の確立を求め、多元的作品世界の実現のために戦った漱石の文学的戦いは、画一的一元的な天皇制世界観と道徳に対して戦われた最も意味深い戦いであり、今日もその意味を失っていない。漱石にとって、天皇制の現実に対する思想的道徳的な戦いと文学的戦いは密接に結びついていた。そして、それが漱石の作品世界を豊富にし、創造的にしたのである。

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29 日本近代文学と天皇制
 〔注〕
(1)福沢諭吉『学問のすすめ』第五編
(2)同右
(3)福沢諭吉『文明論之概略』第二章
(4)福沢諭吉『尊王論』
(5)同右
(6)同右
(7)福沢諭吉『通俗国権論』
(8)福沢諭吉『時事小言』
(9)福沢諭吉『帝室論』
(10)徳富蘆花『みゝずのたはこと』
(11)夏目漱石「マードック先生の日本歴史」
(12)福沢諭吉「帝室論」
(13)石川啄木「権威は勝利者にあり」
(14)石川啄木「文学と政治」
(15)石川啄木「食ふべき詩」
(16)石川啄木「一年間の回顧」
(17)石川啄木「性急な思想」
(18)石川啄木「時代閉塞の現状」
(19)石川啄木「一年間の回顧」
(20)石川啄木「時代閉塞の現状」
(21)石川啄木「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」
(22)石川啄木「性急な思想」
(23)同右
(24)石川啄木「時代閉塞の現状」
(25)木下尚江「帝国大学を破滅せよ」『飢渇』所収
(26)木下尚江「革命の無縁国」『飢渇』所収
(27)同右
(28)同右
(29)同右
(30)同右
(31)木下尚江「愛国心欠乏の原因」『直言』明治三八年二月五日
(32)木下尚江「警鐘鳴る」『飢渇』所収
(33)木下尚江「神王国の道」『飢渇』所収
(34)石川啄木「平信」

18 ているのだと尚江は指摘した。
 日本の哲学も宗教もともに君主政治を根底としていると尚江は主張した。基督教も、「在来の偏狭なる愛国心に同胞主義を鍍金」したものを基督教だと称して、天皇制国家の家僕となった。日本では釈尊も基督も「愛国神の門番」となった。社会党もまた「経済的平等を希望するに過ぎず」とひたすら弁疏して、社会党を目して「君主政治の転覆者」だとするのは自分等を「誣(し)ふる」者だと憤激する。
   「看よ、日本の何処に君主政治を否定する所の思想あり熱情ありや」と尚江は悲痛な叫びを上げた。
 「日本国民の皇帝を崇拝するは理論に非ずして純信仰なり」「吾人の祖先は実に天子様を拝めば目が盲するとまでに畏敬したりし也」「君主神権の信仰は日本国民遺伝の熱烈なる感情也」「日本国民の胸底には革命を感応すべき情熱を有せざる也」これらの言葉には、国民の感情を呪縛する天皇制の根深さに直面して絶望的にならざるを得なかった尚江の気持ちが切実に現れている。
 日本は「特別な国」であり、天皇は「神聖不可侵」の絶対的存在で、これに疑義を抱くだけで国賊扱いされた。日本の学者は日本の国体と天皇について、何一つまともな説明を与えなかった。彼らがその根拠としてあげるのは、僅かに特殊な日本の歴史であるが、その歴史説すら今日の学問知識に照らせば、牽強附会の弥縫策であることを免れなかった。(29)尚江はこのように論じ、日本人の天皇崇拝は理性によるものではなくて、長い歴史を通じて形成され、蓄積された「遺伝的感情」であり、信仰であると強調した。しかし、それは非理性的な、不条理な感情であるから恐ろしいのであった。日本にも「その理性においてもはや君主神権説を肯定せざる」「新国民」が多数現れてきたが、その血管を流れるものは皆「純乎たる『君主神権』の熱烈なる感情」であると尚江は主張し、知識は恐れるに足り
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ない、「革命は決して理性より来るもの」ではないといって、「近き未来に革命の破裂を期すべきを信ずる能はず」と、革命に対する絶望の感情を率直に表明した。
 天皇制は単に外部から国民を抑圧する強権であるだけでなく、国民の内部に、その支配を許し、それを支え、それに依存する感情が強固に存在したのである。これと強権が結び付いて、反対者の存在を一切許さない「一種の異風」を帯びた「社会の空気」を作り出した。尚江はそれが日本の学問、思想、文学を内部から根源的に制約していると考えた。西洋の学説は様々に輸入紹介されたが、自己に根差し、自分の生きる現実、日本の社会の現実を徹底して解明する思想や学問は発展しなかった。啄木が批判した実際の問題を軽蔑し、ヨーロッパの夢を追い求める近代主義は、このような天皇制の地盤の上に花開いたのである。尚江は、このような天皇制は虚無主義と道徳的退廃をもたらさずにはいないと指摘している。
 日露戦争中から日本の青年学生は、戦争に対して冷淡だとか、「愛国の公心」が欠乏しているとかと批判された。これに対して尚江は、最近十数年間の政府の教育の方針がひたすら愛国心の培養であるにも拘わらずこのような非難嘆声を聞くのは、その教育が、形式では「愛国」を標榜しながら、その実際は努めて公共心の発動を抑制したためだと論じた。渡良瀬川の鉱毒事件で学生が大挙して視察し、その荒廃に憤激して救済の必要を唱えたとき、政府は学生の社会的関心の抑圧に努めた。政府は君主神権説を唱え、ひたすら国家と君主の前に拝脆することを求めて、「国家」に対する自由討議を許さなかった。今日の学生に対する非難が事実ならば、言論の自由を奪い、青年学生の国家と社会に対す
ろいきいきした興味と関心を抑圧した政府の失敗であると尚江は論じた。(31)

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