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2011年12月14日 (水)

夏目漱石と天皇制

夏目漱石と天皇制  全
                                               伊豆  利彦
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  明治の末年から大正の始めにかけて、「大逆」事件(1910年)、南北朝正閏問題(1911年)、辛亥革命(1911年)、明治天皇の死と大正天皇の践祚・改元(1912年)、明治天皇の大葬との乃木大将の殉死(1912年)、明治天皇の死後1年半あまりで、その後を追うように同じ腎臓病で死去した昭憲皇太后の死と葬儀(1914年)、そして、即位の大礼(1915年)など、 天皇制について深く考えさせられる事件が続いた。美濃部達吉の「憲法講話」(1912年)が出て、天皇機関説をめぐる論争が繰り広げられたのもこの時代である。「大逆」 事件後の「冬の時代」から「民本主義」が強調される「大正デモクラシー」の時代へと、思 想的文化的な時代の相貌は大きく変わって行った。
  漱石についていえば、この明治から大正への代替わりの時期は、修善寺の大患以後のいわゆる後期三部作を書いた時期であり、最晩年の『道草』、『明暗』へと続いて行く時期である。従来、漱石の文 学はこうした時代の動きと無関係に、ひたすら漱石個人の内面的世界の発展展開として読まれて来た。しかし、この時期の漱石は、毎年のように相次ぐ大きな病気に苦しみ、次第に迫って来る自己の死をじっと見つめながら、自己の生涯と明治という時代の終焉を重ね合わせ、新しい時代について、人間と社会、日本の天皇制についてなど、自己の外部に広がる世界について真剣に考え、最後の力を振り絞って書き続けていたのである。
  1912年(明治45)7月20日の日記によれば、漱石はこの日の晩、号外で「天子重患」のことを知った。 尿毒症で昏睡状態ということで、両国の川開きが差し止められた。漱石はこの川開きの中止について、「天子未だ崩ぜず川開を禁ずる必要なし。細民これがために困る者多からん。当局者の没常識驚くべし」と書いた。そして、演劇その他の興業ものの停止について、「停止とか停止せぬとか騒ぐ有様也」 と当局者の狼狽ぶりに対する軽蔑の感情をあらわに示し、「天子の病は万臣の同情に価す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与へざる限りは進行して然るべし。当局之に対して干渉がましき事をなすべきにあらず」と批判した。
  もし 「臣民」 に中心より遠慮の意があるならば、営業を勝手に停止するのは勿論自由だが、「然ら ずして当局者の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば、表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども其実は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。 恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に醸すと一般也」と、漱石は当局者のやり方を厳しく批判した。新聞紙は異口同音に「都下闃寂火の消えたるが如し」というが、「妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聴」しているので、これは「天子の徳を頌する所以」でなく、かえって「其の徳を傷くる仕業」であると、鋭い観察を下している。
  これに先立つ六月十日の日記にも、皇室に関する同様な記述がある。行啓能を見た感想として、皇后、皇太子は喫煙し、他の観客は禁煙であることについて、これは陛下殿下の方で我等臣民に対して遠慮があってしかるべきだと述べ、もし、自身喫煙を差し支えなしと思うのならば、臣民にも同等の自由を許されるべきだと記している。さらに、陛下殿下に対して煙草を煙管に詰めてやったり、火をつけてやったりしていたのは「見てゐても片腹痛き」ことで、「かゝる愚なることに人を使ふ所を臣民の見てゐる前で憚らずせらるゝは見苦しき事なり。直言して止めらるゝ様に取計ひたきものなり。宮内省のものには斯程の事が気が付かぬにや。気が付いてもそれしきの事が云ひ悪きや。驚くべき沙汰也」と批判している。
  漱石は「帝国の臣民陛下殿下を口にすれば馬鹿丁寧な言葉さへ用ひれば済むと思へり。真の敬愛の意に至っては却つて解せざるに似たり」と述べ、「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴えて敬愛の念を得らるべし。それが一番堅固なる方法也。それが一番長持ちのする方法也」と記している。そして、「政府及び宮内官吏の遣口もし当を失すれば皇室は愈重かるべし而して同時に愈臣民のハートより離れ去るべし」と述べている。
  当時の日記のこの二つの文章は、漱石が皇室の前途に「恐るべき結果」が生ずる危険を感じ、「堅固なる方法」「長持ちのする方法」を真剣に考えていたことを示している。漱石は天皇制否定論者ではなかった。しかし、天皇を絶対化し神格化し、人民を押さえ付ける道具とすることに反対だったし、また、天皇を利用して私利私欲をはかる権力者の在り方にも敏感で、そうした傾向が次第に露骨になって来ることに天皇制の危機を感じていた。この危機感の根底には1910年の「大逆」 事件があり、清朝が滅んで宣統帝がラストエンペラーになった1911年の辛亥革命があった。
  「大逆」 事件の名の下に、堺利彦や大杉栄など当時獄中にあった者を除いて、無政府主義者ばかり でなく社会主義者までも根こそぎ検挙された1910年は、漱石のいわゆる「修善寺の大患」の年であった。この年以後、漱石の文学に大きな変化が見られるが、それはすべて大患による変化と解釈するのが、これまでの漱石論の大勢でる。たしかに、大患が与えた思想的影響は深く、「大逆」 事件に関する直接の発言はない。しかし、「大逆」 事件とその後のいわゆる「冬の時代」は、後期の漱石の文学に 大きな影を落としているのである。
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  『野分』(1907年)の主人公は「電車事件」の犠牲者救援のための演説会で演説する。これに反対の 妻は、「社会主義だなんて間違へらるとあとが困りますから」と引きとめるが、「間違へたつて構わな いさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」といって、 会場に赴くのである。 「電車事件」というのは、1906年3月の東京市内三電車会社の電車賃値上反対市民大会に対して凶徒 聚嘯罪が適用された事件のことと思われるが、 8月にも電車賃値上げ反対のデモが行われている。こ れに関連して、夏目漱石についても関係のある記事が都新聞に出たらしい。 8月12日の深田康算宛書簡に漱石は次のように書いている。
   都新聞ノキリヌキワザく御送被下難有存候電車ノ値上ニハ行列ニ加ラザルモ賛成ナレバ一向差シ支無之候。 小生モアル点ニ於テ社界ママ主義故堺枯川氏ト同列ニ加ハリト新聞ニ出テモ毫モ驚ロク事無之候コトニ近来ハ何事モ予期シ居候。新聞位ニ何ガ出テモ驚ロク事無之候。都下ノ新聞ニ一度ニ漱石ガ気狂ニナツタト出レバ小生ハ反ツテウレシク覚エ候
  この時期の漱石は、高浜虚子に宛てて「世界総体を相手にしてハリツケにでもなつてハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」(1906年7月3日)などと書き、鈴木三重吉に宛てて「苟くも文学を以て生命とするものならば・・・(中略)・・・維新の当士[時]勤皇家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。 間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ」 (1906年10月26日)と書いたりしていた。この激しい気持ちで『野分』を書き、「文芸上の述作を生命とする」(「入社ノ辞」 1907年)者として朝日新聞に入社したので あった。
  この時期の漱石の激しい精神には、たしかに社会主義者の精神に通いあうものがあった。しかし、朝日新聞入社後の第一作である『虞美人草』の甲野さんには、もはや『野分』の白井道也の直進する激し さはない。そこには明らかに漱石の挫折が認められる。そして、その挫折の背後には、この時期に顕著になった明治の社会主義運動の分裂と後退という事実がある。思えば電車賃値上げ反対の市民大会は、明治の社会主義運動の最後の高揚という感があった。この時は国家社会主義者の山路愛山が代表者になっていたのだし、社会主義者の大きな結集があり、市民の盛り上がりも大きかった。しかし、社会主義に対する弾圧は苛酷を極めた。普通選挙を実現し、議会制民主主義によって社会主義を実現する可能性は極めて乏しかった。幸徳らは人民の直接行動を主張する無政府主義に転じ、一方、木下尚江らは絶望して運動から離脱していった。
  『虞美人草』の末尾に、次のような甲野さんの日記の言葉がある。「悲劇は遂に来た。来るべき悲劇はとうから預想して居た。預想した悲劇を、為すが侭の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である」 「隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一目イチモクを 揺ウゴかせば一目を眇す。手と目を害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉づるは恐るゝのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意に外ならぬ」
  この言葉には『野分』の激しさはない。しかし、道也の激しさがともすれば内容を欠いた抽象的観念的な決意の表白となり、言葉ばかりが空転する空虚さを免れなかったことを思うと、ここには絶望的な現実をふまえ、かえってそこに、作家としての自己の使命を見出した作家としての決意が語られていると見ることも出来る。ここには現実に対して知識人が如何に無力であるかが語られている。現実にはびこる悪を除去しようとすれば、たちまち弾圧されて手も足も出ない。現実が現実自身の法則により、それ自身の矛盾によって破滅への道を進むのをどうすることも出来ず、手をこまぬいてじっと見ているよりほかに方法がないのである。
  人は破滅=悲劇に直面してはじめて、自己の罪を自覚し、自己に目覚めて、再生の道を求める。作家は現実の時間を圧縮し、作中において想像的にまざまざと破滅=悲劇を体験させ、読者が自己の罪を自覚し、自己に目覚めることを可能にしようとする。漱石はそこに作家としての自己の道を見出した。『虞美人草』以後、漱石はもはや現実をに能動的に働きかけ、現実を変革しようとする積極的な 主人公を作中に登場させることはない。これ以後、漱石文学には直接的な救済も解放の道が示されることはもなく、作中人物たちは最も深刻に近代の悪に毒され、身動き出来ぬ自己疎外に陥った人々となる。漱石は近代の暗黒を徹底して追及したのであり、そこに解放と救済の可能性を探り求めたのである。
  『それから』では、平岡の口から「幸徳秋水といふ社会主義の人を政府がどんなに恐れてゐるか」が語られる。秋水の家の前には巡査が二三人ずつ昼夜張り番をしている。一時は天幕テントを張って、 その中から狙っていた。秋水が外出すると巡査が後をつける。見失いでもすると大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人のために月々百円使っているという。平岡はこれを戦争で儲けた大倉組の詐欺的商法と並べて、「現代的滑稽の標本」だという。代助は社会主義に興味を持たないので黙っていたというが、この作品は日糖事件という政財界癒着の汚職事件を扱っており、この作品に当時の腐敗した社会に対する厳しい批判が込められていることは明らかである。しかし、石川啄木が鋭く指摘したように、それは如何ともし難い「時代閉塞の現状」であった。代助は自分を「精神的敗残者」という。漱石はこの時代の閉塞状況を生きる代助の絶望と退廃を描き、人間的生存の可能性を探った。
  漱石が幸徳らに対してどのような見解をもっていたかを直接知ることは出来ないが、強い関心と同情を寄せていたことは否定出来ない。漱石の探偵嫌いはよく知られている。 政府はひたすら警察の力で秋水らの運動を外部から押さえこんだばかりでなく、さらに密偵を用いて運動と組織の内部に忍び込み、内部から撹乱して運動を崩壊させようとした。漱石がこうした政府のやり方に反感を持ったのは当然である。しかし、同時に強い不安と恐怖にとらわれたことも否定出来ないと思う。
  『それから』には冒頭から不安の色が濃厚に立ち込めている。そして、代助はアンドレーエフの  『七刑人』の最後の処刑の場面を思い起こして「ぞっと肩をすくめ」るのである。代助の生きる現実世界を取り巻くものとして、幸徳らの運動があり、日本の警察による探偵たちを動員しての執拗な追及があり、『七刑人』の恐怖がある。幸徳らはこの作品が書かれた翌年検挙され、一年もせずに処刑されてしまった。それは理不尽な裁判であった。もはや『七刑人』の恐怖は、単に外国の作品に見られる想像的現実に過ぎないものではなかった。
  幸徳らの事件は「修善寺の大患」と重なっており、漱石におけるこの事件の意味は見失われがちである。大患後の後期三部作の作品論的検討は別の機会に譲らなければならないが、これらの作品において、主人公たちの自己閉塞と自己疎外がますます深刻になって来ていることだけは、容易に指摘することが出来る。これらの作品は、「大逆」 事件以後の「時代閉塞の現状」を生きる知識人の苦悩を 追究したものと見る時、漱石の文学世界はもう一つの新しい光で照らし出されることになる。
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  幸徳秋水逮捕の記事が解禁になって新聞紙上に出たのが1910年6月3日のことである。 事件の概略が報じられたのは6月5日、漱石が長与胃腸病院に入院したのは6月18日のことであった。当時の新聞記 事によれば、幸徳は病気の身ではあるし、警戒も厳しくて身動き出来ないので、直接的な運動からは身を引き、療養と著述に専心するために湯河原の天野屋に滞在中で、同志からは変節者として糾弾されていたのだという。幸徳がやがて、この事件の首班として処刑されるなどとは、この段階では、到底想像出来ないことであった。しかし、半年後の1911年1月24日、幸徳らは不敬罪で狡首刑に処せら れた。この時、漱石は修善寺の大吐血後、 再び長与病院に入院中であった。退院は2月26日である。    この幸徳らの逮捕から処刑に至る半年余りは、日本の思想と文学にとって極めて重大な時期であった。石川啄木が思想的に大きな飛躍を遂げるのもこの時期であったが、この重大な時期に、漱石は修善寺で大吐血をし、生死の間をさまよい、長い療養生活を送ったのであった。この時期、1910年7月1 日に病院に啄木が見舞いに来ており、5日にもまた立ち寄っている。特別な意味はないかも知れない が、同じ朝日新聞に職を持つとはいえ、あまりに掛け離れた境遇の二人であり、これまで交流がなかっただけに、やはり気になる出来事である。
  この時期の漱石は、入院中にもかかわらず朝日新聞紙上に連続的に評論を発表している。1910年7 月のものに「文芸とヒロイック」「艇長の遺書と中佐の詩」「鑑賞の独立と統一」「イズムの功過」などがある。大患の後は「思ひ出すことなど」が病院で書かれるが、1911年2月以後になると、「博士問題とマードック先生と余」 「マードック先生の日本歴史」 「博士問題の成行」 「文芸委員は何をする か」 「学者と名誉」 などを相次いで発表する。 このように連続的に大量の評論を発表したのは、 漱石 の生涯でこの時だけである。
  この間に、6月には長野で「教育と文芸」 と題して講演し、 8月には関西地方で開かれた朝日講演会 に参加して、13日には明石で「道楽と職業」、15日には和歌山で「現代日本の開化」、17日には堺で  「中味と形式」、18日には大阪で「文芸と道徳」と、連日の講演旅行をしている。 病後で小説が書け ないから、 朝日のこの講演依頼に応じたというのだが、 交通事情も悪く、 冷房などもちろんない時代に、病後の身にとっては余りにも強行軍であった。その結果は、ついに胃潰瘍が再発し、大阪の湯川 病院に入院する破目になった。何がこの時期の漱石をこのように激しい言論活動に駆りたてたのだろうか。それを「大逆」事件と関係がなかったと考えることは出来ない。
  幸徳らの事件そのものが、言論、思想、学問に対する、政治権力による不当な弾圧であった。そしてこれを契機に、文学や思想の各方面にわたって発禁が相次ぎ、広い範囲にわたって言論活動に対する無法な弾圧の嵐が吹き荒れた。幸徳らが処刑された直後には南北朝正閏問題が起こっている。南北朝併立の見地に立つ当時の小学校国定教科書が、万世一系皇統連綿の公理に反すると批判され、国粋団体大日本国体擁護団などの動きも絡み、新聞紙上を賑わす政治問題化した。その結果、教科書は書き換えられ、国定教科書編纂官の喜田貞吉は休職になったのである。
  漱石の博士号辞退はこの時期に起こった。これは決して、単に漱石の偏屈というような個人的気質の問題に還元してしまうことの出来る問題ではない。もともと『吾輩は猫である』や『虞美人草』などにも、博士号を有り難がる気風に対する批判はあった。しかし、幸徳らが処刑された直後に博士号 が授与され、 しかも、 辞退したにも拘わらず辞退を認めないという、政府の一方的な高圧的態度に接するに及んで、 漱石の怒りは爆発した。
  政府は一方で学問思想に対する苛酷な弾圧を続けながら、その手で漱石に博士号を授与して、 学問的権威を付与しようとした。 しかも辞退することを許さないというのである。それは国家が学問に対する評価を行い、権威づけをすることであり、国家を学問の上に置く思想の現れであった。しかも、 辞退を許さぬというのは、 学問的には何の権威もない国家が、 学問の問題にまで自己の権威を絶対化し、 学者個人の意志を無視蹂躙するものであった。
   漱石には政府の横暴に対する怒りがあったばかりでなく、 国家の権威を妄信し、学問の内容も分 からず、むやみに博士号を有り難がる世間一般の風潮に対しても反感と怒りがあった。博士をむやみに有り難がるのは、博士ならざる学者を、たとえ彼がどのような研究をしていても、ただ、その名の故に博士より劣る者ときめこみ、低劣な研究と生活の条件に放置して顧みないことである。漱石は、博士は学者中の貴族だといっている。博士号授与は学者の中に差別を持ち込むものである。しかも、学問的には何の権威もなく、むしろ学問・思想の圧迫者である政府がその選別をするのである。当時 世間を騒がせた漱石の博士号辞退事件は、政府が代表するとする国家の権威が、学問の世界にまで力を及ぼそうとすることに対する戦いであり、学問における権威主義、さらには権威主義一般に対する戦いであった。
  この時期、漱石は博士問題だけでなく、「文芸委員は何をするか」「学者と名誉」などで、政府が国家的な文芸院や学士会院などを作って、文学や学術奨励のために賞を授与することに強く反対した。 「文芸委員は何をするか」で漱石は、「政府はある意味に於て国家を代表している。少くとも国家を 代表するかの如き顔をして万事を振舞うに足る位の権力者である」と述べている。国家と政府を区別して考えている点は、漱石の思想を考える上で興味があるが、この政府によって委員に選任された文学者の見解は、様々な見解の中のひとつであり、「一家の批判」に過ぎない。それなのに、「政府の威信」によって「普通文士の格を離れて、突然国家を代表すべき文芸家」にされ、「天下をして彼等の批判 こそ最終最上の権威あるものとの誤解を抱か」せることになるのである。これは「その起因する所が文芸そのものと何等の交渉なき政府の威力に本づくだけに猶更の悪影響」を与えるものであると、漱石は「文芸委員」の制度そのものを鋭く批判している。
  「(政府が)文芸委員を文芸に関する最終の審判者の如く見立てて、この機関を通して尤も不愉快 なる方法によつて、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物のみを奨励して、その他を圧迫するは見やすき道理である」と、漱石は政府の意図を鋭く暴露した。そして「政府は今日迄わが文芸に対して何らの保護を与えていない。寧ろ干渉のみを事とした形迹がある。それにも拘わらず、わが文学は過去数年の間に著しい発展をした」として、余計なお世話をせず「野生の儘で放って置けば、此先順当に発展する丈である」と述べた。
  一方で幸徳らを理不尽に処刑し、言論・学問・思想に対して横暴苛酷な専制的弾圧を加えながら、一方で官製文芸委員によって文芸保護をはかるという政府の欺瞞性、それが文芸保護に名を借りた干渉であり、政府による文芸の統制に道を開くものであることを鋭く暴露したのである。
 
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  「文芸委員は何をするか」の見地は、1912年(大正元年)10月、明治天皇の大葬の直後に書かれた「文展と芸術」にも受け継がれている。漱石はこの一文を「芸術は自己の表現に始まつて、自己の表現に終はるものである」という一句で始めているが、この言葉は漱石の芸術観の根底をなすものとして、文中で繰り返して述べられている。芸術家はひたすら自己の内的衝迫に忠実に、自己の表現に終始すべきもので、他者の評価をあてにして創作してはならないというのである。漱石はこの見地から、美術家の登竜門とされる文展に対する厳しい批判を展開した。文展は国家の権威を背景とする文部省主催の官選美術展である。芸術が徹底した自己の表現であることによって、常に新しく創造的であることが求められる以上、芸術評価の基準は決して一元化されるものでなく、芸術に国家の権威を持ち込むことは許されない。漱石は、国家の権威を背景にすることによって、文展が美術家に対する世間の評価に大きな影響を持ち、文展に落選したために妻君から離縁されたという話まであるといって、このような文展は、「既に法外な暴威を狭サシはさんで、間接ながら画家彫刻家を威圧していると見て宜ヨロシかろう」と述べている。そして、この頃のように文展の及落が画家彫刻家の間で大問題になる以上 は、やがては「御上の御眼鏡」にかなって仕合せよく入選した作家でなければ画家として世間に立つことが出来なくなるだろうと指摘している。
  「文展と芸術」の漱石は、自分が個人主義の立場に立つことを宣明し、いつかこの問題をもっと深く考え、そしてもっと明らかに語りたいと述べている。さらに、自分が「如何に権威の局所集中を忌むか」「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものの勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」をも「最も明らかに語りたい」と述べている。
  この約束を果したのが、1914年(大正3)11月の学習院での講演「私の個人主義」である。「私の個人主義」で展開される思想は、「文展と芸術」の根底をなす思想であり、「大逆」 事件以後、修善寺の大 患をはさんで展開された一連の評論活動と密接に結びついている。
  「文展と芸術」 の漱石は、「個性を尊重すべき芸術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭 同気のものばかり選択するという精神では審査などの出来る道理がないあ。具眼者ならば、己れに似寄ったものの代りに、己れに遠きもの、己れに反したもの、少なくとも己れ以外の天地を開拓しているものに意を注いで、貧弱なる自己の趣味性に刺激を与え、爛熟せる自己の芸術観を啓発すべきである」と述べた。審査の任に当たる者は「同類相求むるの旧態」を捨て、「異類相援くるの新胸懐」を開いて批判の席にすわるべきだというのである。
  漱石は作中に常に自己と異質の人物を登場させ、他者の眼を導入して、作品世界を新鮮にし、現実認識を深化し続けた。漱石における個人主義の問題は、人生観、社会観、世界観の問題にとどまらず、それは直ちに芸術観の問題であり、批評方法、創作方法の問題であった。人生観、社会観、世界観の問題が直ちに芸術観、批評方法、創作方法の問題と結びついて一つの世界を形成しているところに漱石の特質がある。
  漱石の権威主義に対する批判、「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛かる所謂モッブなるもの」に対する批判は、政府が文芸院や学士会院や文展などをを作って、国家の権威を背景に学問・芸術を支配しようとすることに対する批判であるだけでなく、西欧の「新しい」文芸思想の権威を笠に着て、派閥の力で狭い文壇を支配しようとする傾向、特に当時の文壇を支配した自然主義派なるものに対する批判でもあった。
  1910年7月の「文芸とヒロイック」では、故障で沈没した潜航艇の佐久間艇長が、酸素の欠乏のた めに、呼吸が困難になり、刻々と死が迫って来る状況において、事故の実態を最後まで乱れる筆で書き記した事実に深く感動したことを記し、ヒロイックな行為をすべて虚偽とする自然派の主張に対して、「重荷を担うて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議な行為があると 云ふ事を知る必要がある」と述べている。自然派も狭い文壇の中で通用すればいいというのでなければ、「彼等と雖も亦自然派のみに専領されていない広い世界を知らなければならない」というのである。
  これは現代の人間にもなおあるヒロイックな行為についての感動を述べると共に、既製の人生観やイズムによって人生はかかるものと決め込んで、現実そのものに眼をふさぎがちな現代の傾向、イズムに縛られて、現実を固定的公式的にしかとらえられない自然派の傾向を批判したもので、「イズムの功過」に連なる見解である。
  この時期に漱石がヒロイックなものに改めて強い関心を寄せたことは、一身を犠牲にして人民の解放を目指した幸徳等の事件と関係があるのではないかと思われるが、一方で漱石は、軍神と崇められる広瀬中佐が旅順口閉塞に出発する時に残したという詩について、必要もないのに自己のヒロイックな感情を誇張して表現しており、自己広告の感があるとして厳しく批判した。
  漱石が強調しているのは人間的真実ということであり、自己の内的必要に迫られるということである。そこにはじめて人間と現実の新しい発見が生まれる。漱石はこの新しい発見を何物にも増して重視した。固定的なイズムの枠の中に現実を閉じ込めることに反対すると共に、自己をみせびらかすために、自己の感情を誇張する大袈裟な表現、紋切り型の表現を厳しく批判したのである。
  現実は常に自己の意識を超え、既製のイズムや理論を超えている。現実は常に解き難い謎なのである。たしかに他者の経験、既製の理論やイズムに学ぶことによって自己の認識が拡大されるということは否定できない。しかし、他者の経験、既製の理論やイズムに縛られ、世界をその枠の中に閉じ込めるならば、自己の狭い主観に閉じこもるのと同様に、人生の真実、現実世界の真実から隔てられ、遠ざけられる。
  あらゆるイズムや既製の理論は、自己の認識を拡大し、解放するためにあるので、その枠の中に自己を閉じこめるためにあるのではない。この現実に直接触れ、この現実を直接生きる苦難に満ちた生存の戦いそのものこそ、本質的に人間の認識を拡大し、発展させる。あらゆる創造的な認識の源泉はそこにあり、新しい創造的な文学の源泉もそこにある。
  「イズムの功過」の漱石は、イズムは「既に経過せる事実を土台として成立するもの」「過去を総束するもの」「経験の歴史を簡略にするもの」「与えられたる事実の輪廓」であり、「型」であるとして、「此型を以て未来に臨むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵コシラえた器に盛終モリオオ せようと、あらかじめ待ち設けると一般である」と述べている。そして、自然主義もまた一つのイズムであり、「西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶載した品物である」から、「吾人が此輪廓の中味を充◇ジンするために生きて居るのでない事は明かである。吾人の活力発展の内容が、自然に此輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである」と強調し、「人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来を其中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒久を認識してもらう方が彼等のために得策ではなかろうかと思う」と論じた。
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  漱石がイズムを嫌ったのは、多くの場合、イズムは自己を絶対化し、普遍化し、自己完結的に、 すべてを自己の支配下に置こうとするからである。それは認識を一面で拡大する便利なものだが、一面で、認識をその枠内に閉じ込め、事実を無視した観念的一面化に陥り、思考と言語の硬直化、固定化を招きがちである。この欠陥が最も露骨に現れ、狂気にまで達するのが、戦争の時代の国家主義である。
  漱石が作家としての道を歩き始める出発点となった『吾輩は猫である』は、人間が「万物の霊」などと称して自己を絶対化し、自己中心の自分勝手を脱し得ない愚かさを、猫の眼と言葉を借りて嘲笑するものであった。『吾輩は猫である』の執筆は日露戦争の最中だった。戦争は人間の精神を硬直させ、痙攣させ、狂気にまで駆り立てる。戦争は自国を絶対化し、敵国を絶対的に否定する。「正義」  「人道」の旗を掲げぬ戦争はなく、敵国の非を鳴らし、悪をあばかぬ戦争はない。『吾輩は猫である』の漱石は、この人間精神の硬直と痙攣、その狂気性を「猫」の言葉、滑稽諧謔の文章で嘲笑した。
  『吾輩は猫である』と平行して書かれた「倫敦塔」から「趣味の遺伝」にいたる『漾虚集』の諸作品は、戦争の狂気と暗黒の現実を見つめ、この現実の彼方に絶対的な愛の幻想を歌いあげている。「幻影の盾」の漱石は、戦争を「君の為め国の為めなる美しき名を藉カりて、毫釐ガウリの争に千里の恨を報 ぜんとする」ものと言い、「正義と云ひ人道と云ふは朝嵐に翻がえす旗にのみ染め出イダすべき文字で、 繰り出す槍の穂先には嗔恚の◇ホムラが焼け付いている」と記した。
  「陽気のせいで神も気違いになる」という一句で始まる「趣味の遺伝」は、戦争の狂気性と暗黒性を描き、この戦争で引き裂かれた神秘的な愛を、戦争とは対照的な静かさと永遠性において、幻想的に展開している。
  戦争の時代ほど内容のない美辞麗句が氾濫する時はない。戦争の言語は生身の人間の実感を疎外したきまり文句の世界である。真実は覆い隠され、美辞麗句に飾られた虚偽の言語が国民の情緒に訴えかけ、国民的狂気を煽り立てる。理性の言葉、戦争の真実に迫り、個人の真情を表現する言葉は、非国民扱い、国賊扱いされ、孤立化し、圧殺される。
  天皇は国民を戦争、狂気と死に駆りたてるためのイデオロギー的、情緒的シンボルであった。戦争を賛美し、天皇を担ぎあげる言語は、必ず自己を失って、古臭い美辞麗句に色どられた硬直した言語、虚偽の言語、紋切り型のきまり文句となる。それが戦争の言語、天皇制の言語の避け難い運命である。漱石が広瀬中佐の詩に虚偽を感じ、不快の念を隠そうとしなかったのは、それが中佐自身の言語であるよりは、戦争の言語であり、天皇制の言語だったからである。
  「文展と芸術」 で「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものの勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」を強調した時、漱石は単に自然主義者達の派閥的な文壇支配を問題にしていただけではないだろう。言論機関をあげて遂行された国民大衆の情緒的思想的動員と、直接に警察力を動員した国家権力による言論思想の弾圧とが結びつき、国民的な一大狂気を実現した戦争の時代の経験は、それ以上に「恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべき」ものとして、漱石の心に生き続けていたに違いない。
  新聞雑誌は戦争一色に塗り潰され、この国民的狂気を推進し、鼓舞激励する機関となった。たとえば、与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」は、発表当時、 大町桂月によって「もしわれ皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加うべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるもの也」(「詩歌ノ骨髄」 『太陽』1905年1月)と論難された。これは単に大町桂月の問題にとどま るものではなかった。
  天皇と国家の名による、国民の思想的情緒的動員は「大逆」 事件でも行われた。戦争と国家主義は つきものだが、「大逆」 事件は平和の時代に、天皇を利用して、ありもしない国家の危機を作り出し、 政府に反対するものを根こそぎ弾圧し、天皇主義、国家主義を国民に浸透させようとしたのである。  1914年、学習院での講演「私の個人主義」で漱石は、「たとえば私が何も不都合を働かないのに、 単に政府に気に入らないからと云って、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたら何ドんなものでしょ う」「又は三井とか岩崎とかいう豪商が、私を嫌うという丈の意味で、私の家の召使いを買収して事 毎に私に反抗させたら、是又何ドんなものでしょう」と述べている。権力と金力が自己を絶対化し、自己に反対するものを無法に圧迫することに反対したのである。
  そして、国家主義について、今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように言いふらし、またそう考えて、個人主義なるものを蹂躙しなければ国家がほろびるようなことを唱導している者が少なくないが、「そんな馬鹿げた筈は決してありようがないのです」と言い、「事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのです」と述べた。
  漱石は自分の立場を、「党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団体を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです」と言う。
  「国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家々々と云って恰アタカも国家に取り付かれたような真似マネは到底我々に出来る話ではない。常住座臥ジョウジュウザガ国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つのことを考えている人は事実ありえない」国家主義者の主張は事実を無視し、自己の真実を偽った虚偽のものであり、この虚偽の上に立って、他の国民の個人の自由と真実を抑圧し、虚偽の言葉を氾濫させ、国民の道徳を低下堕落させる。
  「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものの様に見える」と漱石は言う。国と国とは、「辞令」はいくらやかましくても、「徳義心」はそんなにない。「詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なもの」である。「国家を標準とする以上、国家を一団と見 る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でいなければならない」と、漱石は指摘している。
  「大逆」 事件のそのものが権力によるでっちあげであった。「詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテ ンに掛ける、滅茶苦茶なもの」という漱石の言葉そのままのものであった。それが如何にひどいものであるかは、裁判の結果を伝えた当時の新聞を読むだけでも明瞭であった。
  石川啄木は1911年(明治44年)1月18日、幸徳らの判決の日の日記に、「日本は駄目だ」と考えたことを書いている。そして、夕刊の一新聞が法廷で微笑した幸徳の顔を「悪魔の顔」と呼んでいたことを記している。翌1月19日には、朝、枕の上で国民新聞を読んでいたら「俄かに涙が出」て、「畜生! 駄目だ!」という言葉が我知らず口に出たという。「御用記者」は「社会主義は駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、さうして日本代々社会政策を行ってゐる国である」などと書いていた。啄木は事実を無視するその言葉を、深い悲しみを以て書き写している。  「ああいふ奴は早速殺して了はなくちゃあ可かん。さうしなくちゃ見せしめにならん。一体日本の国体を考へて見ると、彼奴等を人並に裁判するといふのが既に恩典だ。諸君は第一此処が何処だと思ふ。此処は日本国だ。諸君は日本国に居って、日本人だといふことを忘れとる。」 啄木は当時ひそか に書き記した「A LETTER FROM PRISON」の「EDITOR'S NOTES」に、この事件を国際的な観点から批評した国際法学者を、「建国の精神」や「日本の国体」を忘れていると罵り非難したある地方版担当記者のことを書き記してている。 
  「こういう極端に頑迷な思想」は、ある新聞などによってやや誇大に吹聴されているけれども、実際はごく少数者で、国民の多数は被告二十六人に同情もしていなかったが、憎悪の感情を抱く理由も持たなかった。国民はそれだけ皇室から遠く離れて暮らしていたのであり、この事件の重大さを理解するだけの「知識的準備」を欠いていたと啄木は述べている。社会主義に対する無知は民衆だけの事では無かった。警察官も、裁判官も、その他の官吏も、新聞記者も、この事件に質問をした議員までも、社会主義と無政府主義の区別さえ知らなかった。予審決定書にさえ「この悲しむべき無知」が見られると啄木は述べている。啄木自身もまた、「大逆」事件に直面して、あわてて関係文献を読みあさるまでは、同様に「この悲しむべき無知」の中にいたのである。
  啄木が読みあさった社会主義関係の文献は、もちろん「国禁の書」であった。天皇制は日本を「特別な国」とし、強固なタブウによって、国民の言論・思想、学問・芸術、政治的社会的運動を厳しく抑圧した。この抑圧が国民の「悲しむべき無知」を生んだ。しかも、この事件を契機に弾圧は益々強化された。国民は政治に対して益々無関心となり、「無知な」政府、「無知」な官吏、「無知な」警察官、「無知な」裁判官が、「無知な」国民を、天皇の名によって専制的に支配した。これが天皇制の特質である。
  「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものの勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」を強調した「文展と芸術」の言葉は、何よりも鮮烈に、言論・思想・表現の自由の抑圧の上に成り立つ日本の社会、この天皇制の現実を撃つ言葉であった。
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  1910年夏、胃腸病院入院中の断片に「アルismヲ奉ズルハ可。 他 ノismヲ排スルハlifeノdiversityヲunifyセントスル智識欲カ、 blindナル passion[yuouthful]ニモトヅク。 さう片付けねば生きてゐ られぬのはmonotonousナlifeデナケレバ送レヌト云フ事ナリ。 片輪トモ云ヒ得ベシ。lifeハactionニテdeterminateナリ思想(感情)ニ於テindeterminateナリ。 indeterminateナルハ茫漠ナル故ニアラズ。 アラユルalternativeヲ具備スル故ナリ」「Lifeノharmonyトハアラ ユルelementsが援ケ合フテone endニleadスルノ意ニアラズ。oposing elements,カンセリングfactorsニdue placeヲ与ヘテvaluationノgradationヲツケルコトナリ。ダカラ結果ハresultantナリ。additionニアラズ。dualismニテモtrialismニテモ差支ナシ。 elementsニbalanceガ取レタトキハinactivityデ差支ナシ」等々注目すべき言葉を書き記している。
  この断片の見解は、やがて「イズムの功過」等の評論になり、「中味と形式」その他、翌年の関西地方各地での講演へと発展するが、幸徳らが検挙され、「大逆」 事件なるものが世の中を騒がせ始めた 直後に、漱石がこのような、一元主義、絶対主義を否定する見解を改めて確認し、活発な評論活動を展開したことの意味は大きいと思う。
  『吾輩は猫である』の独仙は「昔はお上の御威光ならなんでも出来た時代です。その次にはお上の御威光でもできないものができてくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかることができない世の中です。はげしくいえば先方に権力があればあるほど、のしかかられる者のほうでは不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔と違って、お上の御威光だからできないのだという新現象のあらわれる時代です。昔の者から考えると、ほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です」と述べている。これと同様な言葉を、漱石は『吾輩は猫である』執筆当時のノートにも記している。
  独仙は、「昔と今は人間がそれだけ変わってる」「世態人情の変遷 というものはじつに不思議なもの」というが、「大逆」 事件はこのような時代の変遷を無視し、天皇の名によって、政府に反対する者を理不尽に勦滅しようとするものであった。言論思想の自由に対する、  この時代錯誤的な専制的絶対主義の横暴は必ず反動を呼び、国家 体制の危機を招かずにはいない。漱石は革命の立場に立つ者ではなかった。しかし、言論思想の自由を求め、革命の危険を深刻に憂える者として、政府の横暴に反対しないではいられなかった。「危ない、気をつけないと危ない」という言葉は、『草枕』にも『三四郎』にも繰り返されている。しかし、漱石は公然と政府を批判したり、警告を発したりすることは出来なかった。
社会に対して積極的な関心を持てば持つほど、現実との接点を失 い、世間から孤立して、自閉的な懐疑の泥沼にのめり込み、はてしない自己矛盾に苦しまなければならないのが、この時期の知識人であった。これ以後展開される後期の漱石の文学活動は、それだけ屈折したものになることを免れなかった。
  後期三部作の世界はますます自閉的になる知識人の問題を軸に展開している。『彼岸過迄』の須永は「軍人の子でありながら軍人が大嫌いで、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義の男」であった。「少なくとも敬太郎にはさう見えた」のである。
  『行人』の一郎は学者でありながら、学者としての自己の存在の意味を疑っている。「兄さんは書物を読んでも、理屈を考へても、飯を食つても、散歩をしても、二六時中何をしても、其処に安住する事が出来ないのださうです。何をしても、こんな事をしてはゐられないといふ気分に追ひ掛けられるのださうです」とHさんはいう。「自分のしてゐる事が、自分の目的エンドになつてゐない程苦しい事 はない」と一郎はいうが、前記の断片によれば、元来、人生が一つのエンドに導かれる予定調和的なものである筈はなかった。そのような幻想が破れ、人間解体の危機に直面する所にこの時代の知識人の苦悩があった。
  漱石はこの知識人の苦悩を、時代の先端に立つ者の苦悩として徹底して追究し、内部から描き出した。しかし同時に、漱石は一貫して、この知識人の自己閉鎖性、観念的一元論的な自己絶対化を批判し、その克服を課題とした。漱石が追究した近代知識人の苦悩と暗黒は、天皇制下の日本の知識人一般の問題であったために、漱石研究家の多くは、漱石の主人公たちに同化し、その苦悩を絶対化する観点に立つ場合が多かった。しかし、漱石は自らその苦悩を担いながら、同時にその自閉性を批判し、広い世界に眼を向け続け、ついに『道草』を経て『明暗』に至る道を切り開いて行った。天皇制下の知識人の苦悩を描いただけではなく、それを超えて新しい生の可能性を求め続け、自己を超えた広い世界に眼を見開こうとしていたのである。
  漱石の政府に反対する意思は、直接には、わずかに自分自身にかかわる博士号辞退問題や文展批判において、権力による学問芸術思想の支配に対する執拗な抗議と批判として展開されたにとどまる。しかし、この時期の漱石は、積極的に講演活動を行い、直接、多数の聴衆に語り掛ける機会を数多く持った。
  また、『彼岸過迄』の序文に自分の作品の読者について、「文壇の裏通りも露地も覗いた経験」のない、「全くたヾの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息してゐる丈」の「教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる」と述べた。関西地方各地での朝日講演会でも、常に普通の生活をしている聴衆を意識しながら、直接、その聴衆に語りかけているのである。
  「自分は凡て文壇に濫用される空疎な流行語を藉カリて自分の作物の商標としたくない。たヾ自分らしいものが書きたい丈である」と漱石は『彼岸過迄』の序文に書いている。「自分の作物を新しいくと吹聴する事も好まない。今の世に無暗に新しがってゐるものは三越呉服店とヤンキーと夫ソレから文壇に於る一部の作家と評家だらうと自分はとうから考へてゐる」というのである。
  しかし、1911年(明治44)1月3日付森田草平宛書簡には「われ等は新しきものの味方に候。 故に『新潮』式の古臭き文字を好まず候。草平氏と長江氏はどこまで行つても似たる所甚だ古く候。われ等は新しきものの味方なる故敢て苦言を呈し候」と書いている。もちろん、これは親しい弟子に宛てた手紙で、いくらかふざけている所があるとは思われるが、西洋の新しい文学思想の輸入に専ら努め、文壇的新流行を撒き散らしている『新潮』を、敢えて古臭いと言い、新しい思想に敏感な草平や長江を「どこまで行つても似たる所甚だ古く候」といって、「われ等は新しきものの味方に候」という言葉を二度も繰り返しているのである。
  漱石は文壇の流行思想を全く陳腐なものと感じ、文壇の中だけで通用する、自己満足的な片言めいた符丁のやり取り、きまり文句の世界を軽蔑した。漱石は文学を狭い文壇から解放しようとした。この観点から、「文壇の裏通りも露地も覗いた経験」のない、「全く たヾの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけ」の「教育あるかつ尋常なる士人」を相手に、文壇の流行などは度外視して、ひたすら「自分らしいもの」、自分の眼と心で とらえた真実、自己の経験そのものに根差した文学に、真の新しさを主張したのである。
  漱石が「教育あるかつ尋常なる士人」をはっきりと意識しながら、その言論と文学の活動を展開したのは、修善寺の大患で生と死の間を往還するという大きな経験をし、自然としての人間、まわりの人々の好意によって辛うじて生命をつなぐ「たヾの人間」としての自己を痛切に感得したからに違いない。漱石にとってこの「ただの人間」としての自己の発見は痛切であり、新鮮であった。そして、この  「たヾの人間」こそ社会にあって真面目に働き、人々の生活を支え、新しい時代を切り開いて行く。
  文壇の流行思想は言葉であった。既に言われたものであり、人々の手垢にまみれたものである。どんな新しい思想も文壇内部ではたちまちきまり文句になり、現実はそのきまり文句に絡め取られてしか語られない。しかし、「たヾの人間」はこのような言語から自由な、現実そのものを生きる生身の人間達であった。その世界は、未だ表現されない、どれほど探究しても探究しつくすということのない無限の謎であり、文学の宝庫であった。漱石はこの「たヾの人間」の立場に立ち、「たヾの人間」を読者とし、決まり文句でない「たヾの人間」の言語で、自己の文学世界を創造して行こうとした。
  漱石は「時代閉塞の現状」を生きる知識人としての自己そのものの矛盾と苦悩を掘り下げることによって、後期の諸作品を展開した。それは出口のない迷路であり、袋小路であった。しかし、漱石は実にしばしば頭をあげて大空を仰ぎ見、「全くたヾの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息している丈」の「教育あるかつ尋常なる士人」を思い浮かべた。また、『彼岸過迄』のお作や『行人』のお貞さんのような、謙虚に自己の運命を受け入れ、真面目に働く素朴な庶民を思い浮かべた。
  時代の先端にあって矛盾に引き裂かれて生きる知識人の苦悩を、特権化し、絶対化し、それだけ切り離して追究するのでなく、多様な人間が同時に生きている大きな人間世界、更に大きな自然世界の中でとらえ、巨大な自然と人間の歴史の流れの中でとらえる時、個別人間の苦悩は新しい光でとらえなおされ、新しい相貌を現出することになる。
  このように見て来ると、「食うべき詩」や「性急な思想」等で、詩人の資格を「人であること」「普通の人であること」に求め、近代主義批判を展開した啄木と、漱石がその世代を異にし、境遇を異にしながら、しかもあまりに共通した問題に直面していたことに驚かされる。
  そして、若き啄木が、時代の先端で苦闘する知識人として、「時代閉塞の現状」を打開するために、新しい「明日の必要」の観点から、今日の現実の組織的考察を求めたのに対して、漱石は自然的また社会的存在としての、人間存在の根源的なありように探究の眼を注ぎ、大きな人間の生の営み、その生成と発展の歴史を展望することによって、現代の社会と文明を批判し、新しい明日の展望を探り求めたのである。「道楽と職業」「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」と展開する1911年(明治44)夏の関西地方各地での講演は、 直接時局に触れることはなかったが、そのような意味を担うものとしてとらえ直される必要があると思う。
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  1911年夏の一連の講演で、漱石は一貫して「現代」を問題にし、時代の変化を強調している。この傾向は前記1910年夏の「断片」にも見られ、『吾輩は猫である』以来、漱石の文学に一貫して見られる特徴であるが、 特にこの時期 の漱石は、新しい視座から自己の生涯を、自分の生きた時代と重ね合わせて概括的に検討し直そうとしている。それは明治という時代の終焉にめぐりあわせて、『こゝろ』や『道草』を生み、『明暗』という作品の世界へと展開するのであるが、これらの作品を生み出す基盤はとなるものは、修善寺の大患と幸徳事件を契機に、既にこの時代から漱石の内部に発展していたである。
  「マードック先生の日本歴史」(1911年3月)に漱石は、「維新革命と同時に 生まれた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である」と述べている。し たがって、 自分にとっては明治の歴史は何の不思議もない当然至極なものでしかなかったのに、この自分にとって至極当たり前の日本の歴史が、西洋人であるマードック先生には極めて驚くべきものだったのである。そのことに漱石は驚いている。
  修善寺の大患は、自己について、人間について、根源的な認識の拡大をもたらした。「大逆」 事件は否応無く、明治という時代を支配する天皇制の問題に 眼を向けさせた。そして「マードック先生の日本歴史」は、明治の日本を西洋人の眼で照らし出し、日本の近代をもう一つの眼で見ることを教え、西洋人の日本を見る眼と考え方について考えさせた。
  「歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今の吾等は刻々に押し流されて、瞬時も一所にてい徊して、吾等が歩んで来た道を顧みる暇を有たない。吾等の過去は存在せざる過去の如くに、未来の為に蹂躙されつつある。吾等は歴史を有せざる成り上がり者の如くに、ただ、前へ前へと押されて行く」と、「マードック先生の日本歴史」の漱石は書いている。「財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸け隔たった国民が、鼻と鼻を突き合わせた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう」のである。それは、この高いものと同程度にならなければ、「わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼等を真向マトモに圧迫する」からである。我等の二つの眼は「二つながら、昼 夜ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮アセリ に焦慮アセツて、汗を流したり呼息イキを切らしたりする」。そしてその結果、「 恐るべき神経衰弱はペストより劇ハゲしき病毒を社会に植付けつつある」と漱石は述べている。この神経衰弱は漱石自身が苦しんだ病気であり、また後期の作品で追求し続けたテーマである。
  「夜番の為に正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにも拘わらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている」と漱石は言う。日露戦争後の日本が、ますます軍備の拡張を進め、国民の経済が破壊されていることを指摘しているのである。しかも、このように無理に無理を重ねても、日本の未来が決して明るいものとは思えないと漱石は言う。「吾等は渾身の気力を挙げて、吾等が過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである」と言い、「吾等は吾等の現在から刻々に追い捲られて、吾等の未来を斯の如く悲観している」と述べている。
  「現代日本の開化」で漱石は「内発的開化」と「外発的開化」について論じたが、「富国強兵」「殖産興業」を旗印として、国民の犠牲の上にひたすら軍事力の強化に努め、近代産業の確立を理想とする国家主義的な近代化路線は、豊かで多様な「人間活力の発現」としての「内発的開化」の可能性を抑圧し、ひたすら「外発的開化」の道を、痩せ馬に鞭打って突き進もうとするものであった。明治の日本は無理に無理を重ねて、世界が驚く驚異的な発展を遂げた。この無理が祟って、社会的・文化的・道徳的に、至る所にその矛盾と破綻を暴露していた。「大逆」 事件はその一つに過ぎない。「大逆」 事件直後の日本にあって、漱石は明治日本の過去と現在を眺望し、暗い心で日本の未来に思いを馳せた。

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  「中味と形式」で漱石は、「現今日本の社会状態」というものは 「目下非常な勢いで変化しつつ」あり、それにつれて我々の内面生活というものも「刻々と非常な勢いで変わりつつある。瞬時の休息もなく運転しつつ進んでいる」と言う。今日の社会状態は20年前、30年前とは大変違っており、我々の内面生活も違っているのだから、政治経済、社会の体制もこの激しい変化に対応して変わって行かなければならないと論じている。
  「何故徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起つたか。つまり 一つの型を永久に持続することを中味の方で拒むからなんでせう。なるほど一時は在来の型で抑えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴れ添はない形式は何時か爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思ふ」と漱石は言う。 
  「明治に適切な型」は、「明治の社会的状況」、それを形造る「貴方方の心理状態」にぴたりと合うような「無理の最も少ない型」でなければならない。個人主義や自然主義がしきりに問題になるのは、我々の生活の内容が昔と自然に違って来た証拠で、これが「在来の型」と衝突しているのである。「昔の型」を守ろうとする人はそれを押し潰そうとするし、「生活の内容に依って自分自身の型を造ろうとする人は、それに反抗する」。今の時代にふさわしい「一種の型」を考えるのは、貴方方の問題でもあり、一般の人の問題でもあり、 「最も多く」人を教育する人、人を支配する人の問題でもあると、 漱石は述べている。
  漱石は個人主義や自然主義について述べていて、無政府主義や社会主義については論及していない。しかし、「大逆」 事件直後のことである。これらの講演の背後にこの事件の衝撃があったことは否定出来ない。この現代の文化・道徳の諸問題を中心に論じた一連の講演は、いずれの場合も、日本の未来に対する強い関心と、現代社会の行き詰まりに対する鋭い批判的洞察に貫かれている。
  特に「中味と形式」は、題目は抽象的哲学的であるにも拘わらず、その内実としては、現実生活と社会制度の関係を論じ、「斯カクの如き社会を統べる形式と云うものはどうしても変えなければ社会が動いていかない。乱れる、纏まらないと云うことに帰着するだろう」というように、生活の実態に応じて形式=制度を変える必要を説き、しばしば革命の可能性を問題にするなど、「大逆」 事件以後の漱石 の強い危機意識が濃厚に現れている。
  この一連の講演を通じて、漱石は「人間活力の発現の経路」としての「開化」と、それを阻害する社会制度や文化・学問・思想・道徳の問題を論じている。この「人間活力」は形なきもので、旧思想、旧道徳、旧社会、旧制度との摩擦葛藤を通じて「発現」するのである。漱石は未来のあるべき姿について明確な見解を示さず、いずれの講演も結論が曖昧である。漱石は専ら現状の分析につとめ、その矛盾を指摘するにとどまっている。
  もちろん、「大逆」 事件直後の厳しい思想抑圧の現実があり、それが議論を抽象的で曖昧なものにしているという事実もあるに違いない。しかし、漱石は未来を形あるものとして提示することより、未だ形のない、未定の未来に向けて運動する「人間活力の発現の経路」、その運動の過程、未来を切り開く人間の在り方、その精神を重視した。そこに漱石の思想の特質があった。
  注目すべきことは、「自然の進化の法則」という言葉を用いていることである。いかに権力が抑圧しても、「人間活力の発現の経路」は「自然の進化の法則」に基づくものであり、それを抑えることは出来ない。問題は、いかにそれを無理なく、摩擦少なく、展開させるかであった。それを可能にする社会体制の確立が、現代の緊急な課題であると漱石は言う。
  『それから』では、金力と権力の結合による醜悪な汚職事件が、決して日糖事件に限られるような部分的なものではなく、日本の政治と経済の全体にかかわる構造的なであることを鋭く暴き出している。そして幸徳ら無政府主義者の活動に対する苛酷な抑圧体制を取り上げ、平岡に現代的滑稽の見本と言わせている。
  この『それから』執筆中の日記(1909年6月17日)に、「○○○ 東宮御所の会計をしらべてゐる。皇太子と皇太子妃殿下が二人前の鮪のさしみ代(晩食だけで)五円也。一日の肴代が三十円なりと。天子様の方は肴代一日分百円以上なり。而して事実は両方と[も]一円位しかかゝらぬ也。あとはどうなるか分からず」と、皇室の経済の乱脈さについて書いている。そして、 「伊藤その他の元老は無 暗に宮内省から金を取る由。 十万円、五万円。なくなるとよこせと云ってくる由。人を馬鹿にしてゐる」 と、皇室を食い物にする元老の腐敗と横暴を憤っている。 このような権力の腐敗と横暴を厳しく糾弾する漱石は、現代社会の批判の上に立って、明治の現実に最も適切な社会の「型」を問題にしたのである。
  しかし、政府は「大逆」 事件に名をかりて、無政府主義者を苛酷 に弾圧したばかりか、人民の実際生活や、思想感情の実態を無視して、言論思想、政治活動の自由をひたすら抑圧した。この極端に反動的な政府のやり方は、「自然の進化の法則」に逆らい、「人間活 力の発現の経路」を阻害しようとするもので、かえって革命の危険を招き寄せるものと思われた。
  この時期の漱石は、決して革命の立場に立ってはいないが、革命の可能性に思いをめぐらし、その危険を警告していたのである。この時、中国で辛亥革命が起こり、漱石の不安と恐れを決定的なものにした。
  1911年11月11日の日記に漱石は辛亥革命について、「近頃の新聞 は革命の二字で持ち切つてゐる。革命といふやうな不祥な言葉として多少遠慮しなければならなかつた言葉で全紙埋つてゐるのみならず日本人は皆革命党に同情してゐる」と記している。8月16日以来 中断していたのを、この日から再開したのである。この間、関西各 地の講演旅行の途中に大阪で発病し、8月から9月にかけて、大阪の湯川病院に一ケ月近く入院するという事件が起こった。帰京してからは痔を切開している。さらに朝日新聞の池辺三山が辞職し、漱石も辞表を出すという事件が起こった。この後も辛亥革命の経過は日記にその都度書き記しているが、その間にさらに、末娘のひな子が急死するという事件が起こっている。公私にわたり思いがけぬ事件が次々起こり、不安な感情に襲われ続ける日々であった。
  「革命の勢がかう早く方々へ飛火しやうとは思はなかった。一ケ月立つか立たないのに北京の朝廷はは殆んど亡びたも同然になった様子である。痛快といふよりも寧ろ恐ろしい」「仏蘭西の革命を対岸で見た 原 ゐた英吉利と同じ教訓を吾々は受くる運命になったの だらうか」とこの日の日記に書いている。漱石はディッケンズの  『二都物語』を愛読した。「二百十日」の圭さんはこの作品について語り、「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりや、あゝなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの(火山が)轟々鳴って吹き出すのと同じ事さ」と言う。ここでも「自然の理屈」と言い、「当然の現象」と言っている。「 大逆」 事件の直後に辛亥革命に直面した漱石は、政府に敵対するものを天皇の名によって不当に処刑し、言論思想、政治活動の自由を徹底して抑圧する暴虐な明治国家と天皇の行く末を暗い思いで見詰めなければならなかった。
  この頃、漱石は痔の治療のために佐藤病院に通院しており、後にその経験を素材として『明暗』を書くが、『明暗』にはこの不安な心情がはっきりと書き表されている。病院の帰りの電車の中で、津田は始めて痔の激痛に襲われた時のことを思いだし、「此肉体はいつ何時どんな変に会はないとも限らない。それどころか、今現に何んな変が此肉体のうちに起りつゝあるかも知れない。さうして自分は全く知らずにゐる。恐ろしい事だ」と考える。そして、「偶然の出来事といふのは、ポアンカレの説によると、原因があまりに複雑過ぎて一寸見当が付かない時に云ふのだね」という友人の言葉を思い出す。
  この論稿の冒頭に引用したが、行啓能を見た感想を記した1912年6月の日記に「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くし て我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也」と書き、天皇重患が伝えられ、同年7月20日の日記に両国の川開きが禁止され、演劇その他の興行 物の停止が問題になった時に、このようにして当然の営業を休むならば、心の中では皇室を恨み、不平を内に蓄えて「恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀す」ことになると記したのは、決して偶然ではない。漱石はあきらかに、 政府のやり方次第では日本にも革命が起こり、 天皇制が覆滅される可能性があることを感じていたのである。
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  天皇死後の諸行事について漱石は強い関心を寄せ、改元の詔書、朝見式詔勅、陸海軍人に対する詔勅、陸軍大臣、海軍大臣の奉答文、朝見式詔勅に対する西園寺首相の奉答などは、全文日記に書き写している。また、拝訣式、納棺式については、「御船(内棺のことか)の厚さ七分、中棺は二寸、三棺の間はセメントを詰込、総体の長さ一丈、高さ3尺四寸・・・・」「御船の中に入れる遺骸には白羽二重の清 き衣、同じ枕、三襲の褥、丹其他の香数種」 といった具合に細かく書き記している。 また、じゅ車(牛車)や、青山から桃山までお棺を運ぶ御輦についても実に細かく記している。明治国家が成立して始めての儀式に対する漱石の関心の深さが分かる。
  この儀式についての漱石の見解は記されていないが、それを明治の日本に「最も適切な型」であると考えたとは思われない。行啓能や天皇重患の際の日記では、皇室の神格化、皇族に対する余りに特権的な仰々しい取り扱いを厳しく批判していた。この観点からすれば、このいかにも古代的、権威主義的で、国民が親しみを込めて哀悼の意を表することなど到底許さない儀式の在り方は、当然厳しい批判の対象になっていた筈である。
  英国留学中、ヴィクトリア女皇が死去し、漱石はその葬儀の行列を見た。エドワード七世の戴冠式の時は、下宿の主人の肩車に乗って見物した。英国の国民は大変気軽に、自由な気持ちでこれらの行列を見物したのである。この英国の皇室と民衆の間の関係からすれば、日本の皇室はいかにも国民から遠く離れた存在であった。漱石の日本の皇室の在り方に対する危惧と批判は、この英国での経験に基づく所が大きかったと思われる。
  英国の王室の歴史は、王権をめぐる絶えざる対立抗争の歴史であった。その歴史を背負って現在の王室と国民の関係が作り出された。これを題材としたシェークスピアの歴史劇を、漱石は大学の講義でしばしば取り上げ、『マクベス』については『趣味の遺伝』などの作中で、直接論及している。『倫敦塔』もまた、この暗い歴史に直接題材を求めた作品である。天皇の死去後の諸儀式に対する漱石の関心の深さは、日本の皇室と国民の関係、ひいては、日本の天皇制の未来に対する危惧と深く結び付いていたのである。
  8月1日の新聞に出ていた図のような喪章の広告を、漱石は丁寧に日記に書き写している。天皇死去の翌々日、大正改元の翌日に、森又組という商店が、いち早く大正屋と改称し、天皇の死を商売に利用する広告を出したのである。漱石はその抜目なさに現代を見たのであろう。天皇に対する個人的、人間的感情ではなくて、国民の現実から掛け離れた天皇の神格化と、儀礼的形式的な弔意の表明の強制、そして、それを利用した金儲けや、政治権力の強化といった動きばかりが目立った。
  『こゝろ』で漱石は、天皇の死と乃木大将の殉死を取り上げている。先生は、天皇の死と乃木大将の殉死を直接のきっかけに自殺するが、乃木大将の心は自分には分からないと言い、乃木とは正反対 の死に方を求めた。
  乃木は妻を道連れにし、死の直前に夫婦そろって、厳かな礼装で写真を撮った。それはある意味では、はなばなしい儀礼的な行為であった。これと反対に先生は、ただ一人の親しい人である妻にも自殺と分からぬように、ただ一人でひっそりと死ぬつもりだと、ただ私ひとりだけに宛てた遺書に書いている。先生の自殺はただ先生個人の、個人的以外の何ものでもない行為であった。それはまったく非儀礼的であった。「内発的」な、「自己本位」の行為であった。   自己の内部に「異様の熱塊」があると信じ、島田や姉を、自分とはまったく違った世界の人間だと思っていた『道草』の健三は、やがて、自分と彼らを何の懸隔もない同じ人間だと思うようになる。学問だとか社会的位置だとか、すべての虚飾や形式をはぎ取って、赤裸の人間存在そのものを直視するようになったのである。新年を迎えた健三は、「一夜のうちに変つた世間の外観を、気のなさゝうな顔をして眺め」、「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ」と思う。この思いはただ正月の風景に向けられただけのものではなかったろう。
  明治天皇の死去に際して、あれ程こまかく記録した漱石であるが、大葬についての記録は何もない。ただ、「乃木大正の事。同夫人の事」とぽつりと記されているだけである。明治天皇の死後一年半で昭憲皇太后が、天皇と同じ腎臓病で死去した。やはり大袈裟な葬儀が行われ、新聞は連日その模様を紙面一杯使って大きな活字で伝えた。しかし、漱石の日記はこれについて何も伝えていない。漱石が『こゝろ』を執筆したのはこの直後である。『こゝろ』の漱石は天皇の死を契機に引き起こされた大きな騒ぎを背景に、この時代に背を向けて生きた一人の知識人の、まったく個人的な心の問題を追及し、人間存在の根底にある問題に迫ろうとしたのである。
  「過去四十五年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる大行天皇去月三十日を以て崩ぜらる」という言葉に始まる、天皇の死の直後に書かれた「明治天皇奉悼之辞」の言葉は、学界を代表する者の言葉として、決して単に儀礼的なだけのものではなかったろう。漱石は明治という時代と自己の生涯を重ね合わせ、明治という時代のシンボルとして、天皇の生涯を深い思いで回想し、哀悼の意を述べたのであろう。
  たしかに、天皇の生涯は明治という時代そのものであり、漱石自身の生涯と深い所で結びついていた。しかし、明治という時代と自己の生涯の結びつきの深さを思えば思うほど、明治という時代に生きていながら、明治という時代に対立し、時代の外に生きるしかない、人間としての自己の問題が深刻な問題になった。
  前述のように、「芸術は自己の表現に始まり、自己の表現に終はる」という言葉を繰り返し、政府の芸術に対する干渉と支配に激しく抗議した「文展と芸術」は、1916年10月、 明治天皇の大葬の直後に書かれた。そして作品としては、周囲との対立と自己疎外の感情に苦しむ知識人の苦悩を追求したを『行人』が書かれる。この時期漱石は強い神経衰弱に陥り、『行人』は途中で中断されなければならなかったほどである。漱石の内部に、天皇の死を利用するかのように巨大なページェントを日本全土にわたって展開し、マスコミを動員して国民の感情をあふりたてた政府のやり方に対する反感と抗議の感情が強まっていたことは否定できないと思う。
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  1914年8月、『こゝろ』連載中に第一次世界大戦が起こった。漱石 が『明暗』の執筆途中にこの世を去った時は、ロシア革命のまさに前夜であり、世界大戦は継続中であった。晩年の漱石は、世界の激動をひしひしと感じ、一つの時代の終焉を痛切に自覚しながら、若き日の自分を回想し、明治という時代と、明治と共に終始した自己の生涯を、深い感慨で反芻していた。そして、新しい時代に向けて、己の生涯を賭けたメッセージを送り続けていた。
  『硝子戸の中』の漱石は、しばしば幼時を回想し、病気続きの現在の健康に触れて、「継続中」ということを言っている。「凡て是等の人の心の奥には、私の知らない、又自分達さへ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでゐるのではなからうか。もし彼等の胸に響くやうな大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思ふだらう」「所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾 を、思ひくに抱きながら、一人残らず、死といふ遠い所へ、談笑しつゝ歩いて行くのではなからうか。唯どんなものを抱いてゐるのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだらう」漱石は自己の内部に潜み、人々の内部に隠れている、自分の気付かぬ恐ろしいものに目を向けた。
  『道草』の末尾で、健三は「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時までも続くのさ。たヾ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」と言う。『道草』の世 界は、自分も変わり、周囲も変わる、人間も自然もすべてが変わって行く世界である。漱石はこの変化して止まぬ世界に、人間と自然の「活力の発現の経路」を見た。人間存在の根源にある生命を見、人間が生きる限り免れることの出来ない人間の罪業と暗黒を見た。
  「人間活力の発現の経路」としての開化は、ただひたすら明るいものではなくて、避け難く血と罪業につきまとわれている。しかも「 自然の進化の法則」として遮り止めることが出来ない。健三は何度 となく、「畢竟己自身は何うなるのだらう」という感慨に駆られない ではいなかった。
  自己が何物であり、世界がいかに成り行くかを、ついに人は知ることが出来ない。自分自身が自分を知らずにいるのだし、まして生まれつきと境遇を異にする他人の心は、到底理解することが出来ない。『明暗』の世界は、謎の心を抱いて、謎の世界を彷徨し、自己の意識を超えた世界に直面して、自己を根底から揺り動かされ、自己変革を迫られる人間の物語である。
  お延は「丸で別世界に生れた人」としか思われない小林の出現に心を掻き乱され、津田は小林から読まされた「丸で別世界の出来事としか受け取れない位の」不幸な青年の手紙に衝撃を受ける。「今迄前の方ばかり眺めて、此所に世の中があるのだと極めて掛つた彼は、急に後を振り返らされた。さうして自分と反対な存在を注視すべく立ち留まつた。するとあゝあゝ是も人間だといふ心持が、今日迄出会つた事もない幽霊のやうなものを見詰めてゐるうちに起つた。極めて縁の遠いものは却つて縁の近いものだつたといふ事実が彼の眼前に現はれた」と漱石は書いている。東京を去って温泉場を目指す津田は、暗い夜の山中の風景に、「あゝ世の中には、斯んなものが存在してゐたのだつけ、何うして今迄それを忘れてゐたのだらう」と思うのである。
  津田の過去の真実を知ろうとして焦りに焦るお延について漱石は、「それが彼女の自然であった。然し不幸な事に自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥か上にも続いてゐた。公平な光りを放つて、可憐な彼女を殺さうとしてさへ憚らなかった」と書いている。
  大戦は「継続中」であり、革命の波はロシアを始め世界各地に広がろうとしていた。中国・朝鮮を始め、アジアの国々には、反抗の波が次第に高まり、自由と独立を求める運動が強まってて来ていた。日本国内でも、抑圧された民衆が次第に反抗の声を上げ始めていた。この大きな世界の渦の中で、いったい自分はどうなるか、そして日本はどうなるか。自己の死を見詰める漱石は、自分を取り巻く世界の動向に暗い目を向けた。
  生涯の最後の年、大正5年正月に発表した「點頭録」で、漱石は自己の生涯を振り返り、軍国主義について論じている。前年の『硝子戸の中』がひたすら自己の狭い世界について語ろうとしたのとは反対に、「點頭録」では、病気のために中断しなければならなかった けれども、世界的な視野で政治や社会の問題を論じようとしたのである。
  漱石は世界大戦について、「人道の為の争いとも、信仰の為の闘 いとも、又意義ある文明の為の衝突とも見做す事」が出来ず、ただ「軍国主義の発現」としてしか考えられなかったと言っている。この戦争で自分の興味をひくのはただ「軍国主義の未来」ということ だけで、「独逸だの仏蘭西だの英吉利だのという国名は自分に取ってもう重要な言葉でも何でもなくなった」と言う。どちらの国が勝つかではなくて、「独逸に因つて代表された軍国主義が多年英仏に於て培養された個人の自由を破壊し去るだらうか」ということに、はるかに鋭い神経を働かせているというのである。
  そして、ドイツの軍国主義は敵国たる英仏にも多大の影響を与え、その軍国主義化を招いているのだから、戦争が片付かないうちから、英仏は精神的にはもうドイツに負けたと評しても好い位なのだと言う。漱石は、この大戦のもたらしたものは「軍国主義の勝利」ということだけだと言い、「此時代錯誤的精神が自由と平和を愛する彼等に斯く多大の影響を与へた事を悲しむものである」と述べている。
  軍国主義の勝利は文明を破壊する以外に何の効果もなく、軍国主義にその償いを期待することは出来ないと漱石は言う。漱石にとって世界の未来は暗かった。しかし、日本の未来はさらに暗い。 日本の政治は言論思想を抑圧することしか知らなかったと漱石は言う。もともと軍国主義的傾向の強い日本は、ますます軍国主義化を強めるだろう。言論・思想、政治活動の自由はますます苛酷に弾圧されるだろう。その果てに待っているものは何か。
  11915年の7月[?]の書簡で漱石は、「戦後における日本人の覚悟」についてやまと新聞の質問に答え、日本人がむやみに西洋の新しいものに食いつき、ただ次々に新しい名前を追い掛けるばかりの、軽薄な表面的模倣に明け暮れていることを批判している。そして、  「若し覚悟といふ覚悟が必要なら、日本は危険だとさへ思って、それを第一の覚悟にしてゐれば間違ひはありますまい」と述べている。漱石にとっては、戦前も戦後もなかった。日本の社会と文化の根本的な在り方そのものが問題なのであった。
  列強が軍国主義を強めて相互に戦い合う現代にあって、日本の軍国主義はますます急ピッチで強化されるに違いない。そのために、ますます天皇を国民支配の権威の根拠、国家主義の根源として担ぎあげ、ますます国民の自由を奪い、旧道徳旧思想旧制度に縛り付けることに努力するだろう。しかし、ひたすら国民の自由を奪い続けるならば、「人間活力の発現の経路」は「自然の進化の法則」として、必ず爆発し、「革命を招く」ことになる。天皇制軍国主義は、その内部に必然的な崩壊の危険をはらんでいた。
  さらに、国民の人間としての自由、自由な思考と自由な研究のない所に「内発的開化」の道は開けない。狭隘な国家主義の旗を高く掲げ、自国の文化の特殊性を誇りながら、しかも、ひたすら模倣をこととする「外発的開化」の道を突進するのである。それは国家主義の強調にもかかわらず、文化的に「西洋の奴隷」になることであり、所詮、 西洋に追い付くことは出来ない。 列強がひたすらアジアの植民地化を競い、力に頼って戦い合う世界的な軍国主義の時代に、ひたすら「外発的開化」の道を突進し、文化的に「西洋の奴隷」になるしかないならば、日本の前途は危険極まりないと考えざるを得ない。
                            11
  漱石は「外発的開化」の避け難さを自覚しながら、「内発的開化」を説き、国民の人間的自由、言論・思想・学問・芸術の自由を求めた。そして、それを可能にする明治の日本に「最も適切な型」=社会体制を求めた。しかし、それは一体いかなるものか、また、いかにしてそれを実現するのか、これらの問いに答えることは漱石には出来なかった。日本の現実に身動き出来ぬ苦しみを味わいながら、漱石は広い世界に眼を向け、さらに大きな「自然の進化の法則」に眼を向けたのである。
  漱石は自己の無力を知っていた。そうでなくても、個人の力ではどうすることも出来ないことであった。「中味と形式」の漱石はそ れを国民すべての問題だと言った。「それを具体的にどう現はして宜いか」は諸君の判断だと述べた。特別な個人ではなく、一般的な国民一人ひとりの人間的自覚と国民的主体の確立が必要だった。
  『彼岸過迄』で「たヾの人」を問題にし、「中味と形式」で生活する 「普通の人」を問題にした漱石は、「素人と黒人」では芸術における 専門家と非専門家を論じて、「昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、其人は黒人ではなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潜るのではなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである」と論じた。この素人である「たヾの人」、国民一般の創造的エネルギーが解放されなければならない。漱石は芸術や学問を狭い専門家の枠に閉じ込めることに反対し、広い国民的基盤の確立を求めた。その創造の源泉は普通の人の生活の現実にあると考えたのである。
  学問や芸術に限らず、政治や社会の問題においても、漱石は普通の人の生活の現実を重視した。現代に最も適切な社会の「型」を決定するのは、普通の人の日々の生活の必要であった。新しい社会と文化の主体としての国民の問題を漱石は提起し、その自由と解放を求めた。そして、国民一般のそのような人間的国民的自覚を求めた。しかし、その実現は決して短日月に可能ではなかった。漱石はそれを未来に求め、青年達に期待した。晩年の漱石が病気の身にも拘わらず、一高や学習院や高等工業などで、文学が専門でない若い学生達に対して、創造的文化について、個人主義について熱心に講演したは、このような気持ちの現れであった。
  一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを、漱石は強く感じていた。やがてこの世を去らなければならぬ者として、漱石は若い世代に期待していた。自己のすべてを語り、自己を伝えて、青年の胸に「新しい命」として蘇ることを求めた。さらに漱石は、彼らに触れることで自分の古い血を新しく蘇らせようとした。
  1916年8月24日、漱石は芥川龍之介と久米正雄に宛てて、一日の うちに続けざまに二本の手紙を書き、「君等の手紙がまあり 原 に 溌溂としてゐるので、無精の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はヾ君等の若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです」と書いている。
  漱石は、「君方は能く本を読むから感心です。しかもそれを軽蔑し得るために読むんだから偉い」と言い、「牛」になることの必要を説いた。「あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出なさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知ってゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うんく死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」と漱石は書いている。
  芥川等に宛てた手紙に見られるのは、若い世代に期待するというだけではなく、若い世代に敬意をはらい、それに触れて自分を新しくしようとする謙虚な気持ちである。漱石は死の直前まで、絶えず自己を新しくし、「人間」を押し続けて、新しい世界を切り開いて行こうとした。漱石は「文士を押す」のでなく「人間を押す」のだと強調している。文学に始まって文学に終わるのでなく、普通の人間の生活の現実に根差し、現実に必要なものとして文学が発展することを求めたのである。
  「若し活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば・・・・・存在するならばではない、そんなものは死文芸としてより外に存 在は出来ないものである、枯れて仕舞はなければならないのである。 人工的に幾ら声を嗄らして天下に呼号しても殆ど無益かと考へます」と、「文芸と道徳」の漱石は述べている。ここには文芸と「活社会」の関係がはっきりと示されている。
  1906年(明治39)11月、教師をやめて専門的に作家の道を歩き始める決意が強まった時期に、十年計画で敵を倒す積もりだったが、十年計画では無理なので、百年計画に改めたという意味のことを高浜虚子に宛て書いている。当時の漱石は「百年の後を見よ」ということをしばしば手紙に書いている。
  朝日入社直後には、東京美術学校で「文芸の哲学的基礎」と題して講演し、「自己が真の意味に於て一代に伝はり、後世に伝はつて、 始めて我々が文芸に従事することの閑事業でないことを自覚するのであります。 始めて自己が一個人ではない、社会全体の精神の一部分であると云ふ事実を意識するのであります」と述べている。『こゝ ろ』や芥川等に宛てた手紙を見ると、漱石のこの考えは死を前にして、ますます強まっていたと思われる。
  漱石は天皇制という言葉も知らず、もちろん、直接天皇制の批判する言説も発表してはいないが、漱石の生涯は一貫して天皇制に反対する戦いであったということが出来る。
  『趣味の遺伝』の漱石は、凱旋する軍隊に対する万歳の渦の中で、どうしても万歳が言えぬ男を描き、戦死した友人とその母のために熱い涙を流している。漱石は常に現実の暗部に眼を注ぎ、そこに自分の文学の根拠を置いた。芥川は始めて漱石の家を訪ねた時、漱石が他の客に「自分はまだ生涯に三度しか万歳を唱えたことはない」と言って、「最初は、・・・・・・二度目は、・・・・・・、3度目は、・・・・・・」と克明に数え上げるのを聞いたと伝えている(「漱石山房の冬」)。
  万歳は1889年、憲法発布の当時、 国民が声を合わせて唱和して、天皇を讃美するために作られた。明治天皇制の確立と呼応し、これを讃美するために案出された人工的なもので、自然の声でも、昔からの習慣でもない。その後、個人のために使われることもあったが、主として戦争とかや国家的な行事の際に、天皇と国家をを讃美して、「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と唱え、万歳、万歳、万々歳と繰り返して唱和したのである。漱石としては、個性を没却して集団的興奮の渦に埋没する、新しい習慣の万歳はどうしても唱え難く、生涯、その習慣がつかなかったのであろう。それは、漱石の思想と無関係ではないが、それ以上に、ハートの問題であり、感性の問題であった。それは、漱石の天皇制に対する嫌悪や反感が、単に頭脳の問題ではなくて、心臓=ハートの問題であり、感性の問題だったということを示している。
  漱石の生涯は、天皇と国家を絶対化し、それによって国民の自由と独立を奪い、「内発的開化」を阻害する明治の国家体制=天皇制と 徹底して対立するものであった。しかし、漱石の生きた時代は暗かった。天皇制を批判する運動も思想も弾圧しつくされた。このような時代にあって、漱石は直接に政治的社会的見解を述べることはしてい。漱石は主として、このような時代に生きる人間の内面に向かい、個人的道徳について語った。私達は、様々な言説を通してわずかにその輪郭を想像すことが出来るだけである。そして、天皇制下の知識人の暗い閉塞状況を徹底して描き出し、あらゆる希望を拒絶して、この社会をひたすら暗黒として描いた漱石に、明治日本の現実と徹底して対立する作家を見るのである。
  すべてを一元的に統一し、現実を一つの「型」にはめこもうとする観念的思想に漱石は反対し、現実の多義性と多様性を強調した。この多元的思考は漱石の思想の思想と文学の特徴として、その生涯を貫いて見られるが、これは国家主義の押し付けに反対し、個人の自由と独立を何よりも重視する個人主義の主張と重なり合うものである。漱石においては政治的社会的思想が、哲学的人間観、文学観、創作方法と結び付いている。それはまた、万歳についてのエピソードに見られるように、感覚的生活的なものまでも支配し、生活全体的、全人間的なものであった。
  しかし、天皇制下に生きる以上、そのための歪みを免れることは出来ない。天皇制を批判しながら天皇制に侵食されるのである。  『行人』の一郎や『こゝろ』の先生、『道草』に描かれた健三など、いずれもそうした歪みにつきまとわれている。漱石自身にこれらの人物と重なり合うものがあったのは否定出来ない事実であった。しかし、漱石の文学はこれらの歪みを摘出し、歪みを歪みとして描き、そのことによって、その克服を目指す所に特徴があった。
  漱石は決して未来のあるべき姿を描き出すことはしなかった。その意味での人間や社会の理想を語ることもしなかった。自己の内部の暗黒を見詰め、自己の死を直視する漱石は、常に「世界滅却の日」を思い、破滅の危険にさらされている暗澹たる日本の前途を思った。漱石の文学は暗い。天皇制下の暗い現実を徹底して描く漱石は、絶えず暗い絶望にとらえられた。
  しかし、漱石は大きな自然に眼を向け、遠い過去から生き続けて来た人間の歴史の大きな流れを思って、眼前の暗黒に溺れこむことから自己を救った。絶望にとらえられる漱石は、絶望を拒否する漱石であった。漱石は、どんな時でも苦難の生を黙々として生き続ける普通の人達を思った。「牛になること」が必要なのだ。漱石は死を見詰めながら、黙々として、牛のように「人間」を押して行くことの必要を思った。漱石は「人間の活力の発現の経路」しての開化と、「 自然の進化の法則」を思い、その目を若い世代に向けた。そこに、 絶望にとらえられながらも、ついに自分の見ることの出来ない「百年の後」を思う漱石がいる。 

(「横浜市立大学論叢」人文科学系列 第40巻第1号 1989年3月)

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