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2012年2月15日 (水)

漱石の明治三十九年

漱石と天皇制 198 所収

         一

 夏目漱石が「猫」を発表して、作家としての道を歩きはじめたのは、明治三十八年一月、日露戦争の最中であった。慶応三年生まれの漱石は数え年で三十九才、明治の文学者としては異例におそい作家としての出発である。しかもひとたび創作活動をはじめると、明治三十八年中に「猫」の続稿を、第二(二月)、第三(四月)、第四(六月)、第五(七月)、第六(九月)と発表し続け、十月には単行本『吾輩ハ猫デアル』を刊行した。またこれと並行して、「倫敦塔」(一月)、「カーライル博物館」(同)、「幻影の盾」(四月)、「琴のそら音」五月)、「一夜」五月)、「薇露行」(十一月)と書き続け、明治三十九年一月の「趣味の遺伝」とあわせて、作品集『漾虚集』を明治三十九年五月に刊行した。これらの創作活動は、一高、東大における教師としての生活の中で行われたのであり、漱石の内部にとじこめられた創作の子不ルギーがいかに巨大なものであり、それがいかに表現を求めて一時に噴出したかを示している。
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 東大における漱石は明治三十六年九月以来『文学論』の講義を続けていたが、明治三十八年六月を
以て講了とし、同年九月からは「十八世紀英文学」(後に『文学評論』として刊行)を開講した。『文学論』はその序文によれば、十年がかりの計画でとりかかった研究を、それがまとまらぬうちに始めた講義であり、それ故難行を極めたのであった。それがいかに苦しい仕事であったかは、晩年の作品『道草』
に如実に描かれている。ひたすら科学的抽象的に文学の法則を明かにしようとして悪戦苦闘した『文学論』を、未完成のままで講了とし、十八世紀英文学に対して比較的自由な論評を加える講義にかえたことは、漱石が英国留学中にたてた計画の放棄を意味するが、そこには後述の「戦後文界の趨勢」に述べられているような意識もはたらいていたと思われる。そしてそれは漱石が創作の世界に急速に
ふみこんでいったことと表裏の関係にあり、漱石の生涯における重大な転換を示すものである。
 この後漱石は、さらに作家としての飛躍的な発展を続け、ついに大学教師の道を歩くことをやめ、創作に専念するにいたった。なんといっても初期の作品は、自己の内部の激情に芸術的表現の道をあたえ、そのことによって自己を救済しようとする排悶の文学であり、大学教師の余技であるという性格をまぬがれなかった。しかし日露戦後の現実において、にわかに開けた創作の世界は、ひたすら作品そのものによって現実とたたかう、作家の道に漱石をかりたててやまなかったのである。
 四十歳になんなんとして、東京帝国大学の講師であり、やがては教授の位置も約束されている人物が、突如として創作の筆をとりはじめるということさえ異例のことであった。まして大学をやめ、一新聞社に入社して、職業作家としての道をふみ出すということは、当時の日本における帝国大学の権威の高さ、そして一方新聞社というものに対する社会的評価の低さを思うとき、今日からは想像しが
k。
200 たいほどの転換であり、ほとんど狂気の沙汰に近いものであった。あえてそのようにふみきらざるを得ないものが漱石自身の内部にあったことは確かなことである。その背後に日露戦争という巨大な現実があり、戦後日本の激動する社会があり、新思想、新文学を待望する日本の文学界、思想界の動向があったことは否定できない。
 従来の漱石論は、ひたすら漱石の内面にくぐりいり、時代の潮流からきりはなして漱石を考察する傾向が目だっている。しかし漱石は、彼の生きた時代のまっただ中にあって、時代そのものと組みうちすることで、その作品世界を形成し、発展させたのである。
 明治三十九年十月二十三日付狩野亨吉宛書簡は、京都大学就任をすすめる狩野に対することわりの手紙である。漱石は「自分の立脚地から云ふと感じのいゝ愉快の多い所へ行くよりも感じのわるい、愉快の少ない所に居ってあく迄喧嘩をして見たい」という。世の中を一大修羅場と心得、はなばなしく討死するか敵を降参させるかどっちかにして見たい。自分では自分がどの位の事が出来てどの位のことに耐え得るか見当がつかない。もっとも烈しい世の中に立ち、自分のため、家族のためは暫くおいて、「どの位人が自分の感化をうけて、どの位自分が社会的分子となって生存し得るかをためして見たい」と述べたのである。
 同様な烈しい言葉を当時の漱石がしきりに書いていたことはよく知られている。この年七月三日付高浜虚子宛書簡には、「小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が楽しみに候。又喧嘩が何年出来るか夫が楽に候。」「世界総体を相手にしてハリツケにでもなって、ハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」と書き、また十月二十六日の鈴木三重吉宛書簡には、「苟も文学を以て生命とするものならば単に美といふ丈では満足が出来ない。丁度維新の当士〔時〕勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ」というような言葉を書き記している。
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 大学教師の余技として、いわば排悶のための文学から、時代のただ中にたって、徒手空拳、ひたすら文筆の力にのみ頼って、時代と格闘する専門作家の道にふみ出そうとする漱石の心には、これだけの烈しい覚悟があった。もちろん漱石は時代の重さを十分に知っていた。前記狩野宛書簡には「世の中は僕一人の手でどうもなり様はない。ないからして僕は打死をする覚悟である。打死をしても自分が天分を尽くして死んだといふ慰藉があればそれで結構である」と書いている。
 漱石はこの長い手紙をおいかけるように、さらに長い第二信を同じ日に書いて送り、東京を去って松山にいった十数年も昔のことにまで触れながら、自分はもう現実から逃げ出す失敗は決してくりかえさないという覚悟を披瀝し、「余は余一人で行く所迄行って、行き尽いた所で斃れるのである」と書いている。京都行きをことわった漱石は、自分の行くべき道をはっきり自覚し、異常な昂奮に襲われている。自分の生涯をふりかえりながら、敗北を必至とするかたかいに旅立つ自分を語り、その前途を思いやって、そのたたかいの中途において、道路に斃れる悲壮な決意を吐露している。
 これらの手紙に書かれた「文学を以て生命とするもの」の覚悟は、ほぽ同じ時期に書かれ、明治四十一年一月の『ホトトギス』に発表された「白井道也は文学者である」という一句にはじまる「野分」に作品化された。それはあきらかに、大学の教師をやめ、一新聞社員として、直接に時代と相渉る専門作家として生きる道をふみ出す覚悟を、天下に公表するものであった。
202  漱石は前掲狩野宛第二信に、東京を逃れて田舎に行っても東京同様の不愉快な思いをしなければならなかった経験を語り、自分の逃避的な態度は、それだけ「社会の悪徳を増長せしむる者」であり、「自らを潔くせんが為めに他人の事を少しも顧みな」いものであったという反省を述べている。そうして「もし是からこんな場合に臨んだならば決して退くまい。否進んで当の敵を打ち斃してやらう」と決意するにいたったというのである。これと共通の基盤に立って、明治三十九年九月に発表した「草枕」冒頭の「住みにくさが高じると、安い所へ引越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」という言葉は書かれている。
 しかし、「草枕」の漱石は現実とたたかうのでなく、芸術の世界をうちたてることによって現実を超えようとしている。「草枕」には現実の暗黒を直視し、痛烈な現実批判を展開する漱石がいる。現実の外に逃れようとしても所詮逃れ得るものでなく、芸術の世界も現実の外にではなく、逃れ得ぬ現実のただ中にうち建てられなければならない。しかし「草枕」の漱石は心のもち方を変えることで、現実のただ中にありながら、その苦しみから自己を救出しようとしており、そこに芸術による人間救済の可能性を求めている。所詮それは芸術のあり方のひとつを提示したにとどまり、大学教師の余技としての排悶の文学、自己救済の文学であることをまぬがれなかった。前掲狩野宛、三重吉宛書簡は、この「草枕」の芸術観をのりこえ、専門作家の道にふみ出そうとする決意を示したものとして、重視されるべきであろう。
 「草枕」に傾倒する三重吉に対して漱石は、「きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分一か知らぬが矢張り極めて僅小な部分かと思ふ。で草枕の様な主人公ではいけない。あれもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通さうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはならない」といわずにはいられなかった。単に「美的な文字」は「閑文字に帰着する」のであり、「俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る」のである。「然し大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。苟も文学を以て生命とするものならば単に美といふ丈では満足が出来ない」と述べる漱石は、「文学を以て生命とするもの」として、「進んで苦痛を求める」道をえらが、そのことによって、専門作家としての道をきりひらいた。
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        二

 明治三十九年の漱石は一月に、『猫』の第七、第八、三月に第九、四月に第十、そして八月に第十一最終回を発表している。また一月には「趣味の遺伝」、四月には「坊つちゃん」、九月には「草枕」、十月には「二百十日」を発表している。そして翌年一月「野分」を発表し、三月には大学をやめて、同四月に朝日新聞社に入社している。この間明治三十九年の秋以来、『文学論』の講義をまとめて刊行する努力を続け、明治四十年五月に刊行しているが、その序文は明治三十九年十一月に、読売新聞に発表されている。それは漱石にとって、彼自身も予想することのできなかったような激動の月日であった。この激動にかりたてたものとして、日露戦争の酷烈な現実、日露戦後の日本の激動を無視することは出来ない。
 明治三十八年八月の『新小説』に漱石は「戦後文界の趨勢」という談話を発表した。これは『新小204 説』が「戦後之文壇」と題して、八月以降十一月まで連載特集したもので、漱石はその冒頭を飾ったのである。ポーツマスの講和会議は八月に開かれ、講和条約調印は九月であった。漱石の談話は講話成立以前のものである。
204 維新後、西洋を知って以来、日本は西洋と戦ったことはなかったが、「砲烟弾雨の間に力を角するの戦争」がなかったというだけで、「物質上、精神上には平和の戦争は常に為れつゝあった」と漱石は述べている。「西洋から輸入された文化の庇蔭」を蒙って来た日本は、「その報酬として幾分か彼に侵蝕される傾向」をまぬがれず、「西洋には及ばない、何でも西洋を真似なければならぬと、一も二もなく西洋を崇拝し、西洋に心酔して」きたのである。しかし西洋の強国ロシアに対する戦勝は精神界にも影響をあたえ、「向ふも人なら、吾も人だ」という「自信自覚」を生み、「日本はどこまでも日本である。日本には日本の歴史がある、日本人には日本人の特性がある」と考えるようになり、「自然 の勢ひが西洋を標準としないで、日本といひ、自身を標準とすることになるから人間が窮屈でなくなる。文学界の製作としても非常に闊達になる、のび@くした感じを以て対することになる。批評の上にも自由な行動が出来るやうにならうと思ふ」と述べた。
 英国のエリザベス時代の文学が興ったのは、スペインの無敵艦隊を破って、天地が広くなり、「勃々たる生気」が湧いてきたことにひとっの理由があると漱石は述べたが、この例は、同じ号の『新小説』に発表された角田浩々歌客の談話にも、九月号の三宅雪嶺、十月号の島田三郎、十一月号の樋口龍峡等の談話にもとりあげられ、国民的自覚と活力の発揚が国民的な文学の発展を招くであろうと論じられた。このような上昇的な気分が日露戦後の文学界を支配していたのであり、漱石もまたその中にい
たのである。
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 坪内逍遥、島村抱月らによる文芸協会の設立、『早稲田文学』の復刊も、このような気運の中で実現された。たとえば島村抱月は、明治三十九年一月『早稲田文学』復刊第一号巻頭の「早稲田文学再興の辞」に「吾人は我国勃興の真の歴史を開くべき第一年、明治三十九年の初頭において……」と挨拶し、その巻頭論文「囚はれたる文芸」にも「附記」として、「時は国興こり、国民的自覚生ずるの秋なり」といい、「日本の現代といふ特殊の事情に応ずべき文学観なかるべからず。其は正しく日本的若しくは東洋的文芸の発揮といふことならんか」というような言い方をしている。しかし抱月のこの言葉は時代の合言葉を口にしているという感じで、主体的な迫力を欠いていた。「囚はれたる文芸」そのものが西洋の芸術観の紹介にとどまり、その後の活動もその範囲を出るものではなかった。
 当時国民的自覚とか、国民的文学の勃興とかいうことはしきりにいわれたが、声のみ高くして内容のない合言葉のようなものが大部分であった。その中で漱石が、それを生涯にわたって追究し続けたことが注目される。「戦後文界の趨勢」の主張は、「現代日本の開化」、「模倣と独立」、「私の個人主義」等、晩年にいたるまでくりかえされ、発展させられた。元来、英国留学以来漱石の心血を注いだ『文学論』そのものが、日本文学が西洋からの独立を実現するための理論的根拠をあたえようとする学術的労作であり、それを支えたものが痛切な日本人としての自覚であったことは、その序文や「私の個人主義」に明らかである。
 漱石は西洋崇拝からの解放を求めたが、その反動としての排外的な国粋保存主義とも対立した。漱石が強調したのは自由と解放であり、一切の束縛をたちきり、ひたすら自己に忠実であることによって、新しい未来をきり開くことである。「凡て物を判断するの標準は世と時とを問はず現在が標準であ る。自己が標準となるのである」と「戦後文界の趨勢」は述べている。日露戦争が漱石にもたらしたのは自由と独立の感情であり、自己の解放、感情の解放であり「自己本位の立場」の確立であった。
 『猫』や「倫敦塔」以下の諸作品は実にこのような自覚に支えられ、自己の自由な表現を求めて、新しい形式と内容を追及し続ける精神によってきり開かれた創造的な世界であった。
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「作物の批評」(明40・―・1『読売』)において漱石は、批評の基準の多元的であるべきことを主張して、狭小な主観的尺度で作品世界をせばめることに反対し、「死したる自然は古今来を通じて同一である。活動せる人間精神の発現は版行で押した様には行かぬ」「過去を綜合して得たる法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰へるとはこの為めである」と述べた。この主張は「創作家の態度」(明41・4)「イズムの功過」(明43・6)等にくりかえされ、深められた。
 「イズムの功過」の漱石は「人間精神上の生活に於て、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に与へられたる輪廓の為に生存するの苦痛を感ずるものである」「其時わが精神の発展が自個天然の法則に遵つて、自己に真実なる輪廓を、自らと自らに付与し得ざる屈辱を憤る事さへある」と述べた。西洋崇拝の奴隷的感情から国民を解放する日露戦争の勝利は、漱石にとって何よりも国民の自己を主とする自覚自信を生むものとしてとらえられ、文学の創造的発展の道をきり開くものと考えられた。
 漱石が文学を固定的な型にとじこめることに反対したのは、おのれの人生、おのれの精神を固定したものとして考えることを拒否したからである。漱石は自己の内部に、たえず変化し、流動し、発展するものを見ていた。自己と自己の生きる現実を、たえず新しく発見しなおし続けたのであり、そのことによってたえず前作をのりこえ、新しい文学世界を創造しつつ前進したのである。
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 「野分」の白井道也は、「諸君のどれ程に剛健なるかは、わたしには分らん。諸君自身にも知れぬ。只天下後世が証拠だてるのみである。理想の大道を行き尽して、途上に斃るゝ刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである。諸君は諸君の事業そのものに由って伝へられねばならぬ。単に諸君の名に由って伝へられんとするは軽薄である」と演説した。自己の何であるかは、その行為、事業においてのみあらわれるのであり、その外に自己はない。ただひたすら自己の道を行くことによって、自分自身を発見するしかないのであって、自分が何であるかは自分自身にもわからないというのである。
 明治三十八年二月七日付寺田寅彦宛書簡に漱石は、「漱石が熊本で死んだら熊本の漱石で。漱石が英国で死んだら英国の漱石である。……今日迄生き延びたから色々の漱石を諸君の御目にかける事が出来た。是から十年後には又十年後の漱石が出来る。俗人は知らず漱石は一箇の頑塊なり、変化せずと思ふ」と書き、Dynamic Law on Mr. K. Natsume.と記した。明治三十九年二月十五日付森田草平宛書簡には、「僕は死ぬ迄進歩する積りで居る」と書き、たとえば『猫』のこ即を書くと、この次にはもう書くことはあるまいと思うが、いざとなるとだんだん思想がうかんで来る、「すべてやり遂げて見ないと自分の頭のなかにはどれ位のものがあるか自分にも分らないのである」と述べた。
 前記狩野宛書簡には、「今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった。己れを信頼した事 がI度もな」く、ひたすら、朋友や目上や近所近辺を頼りにして生活しようとしてきたが、「是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行って、行き尽いた所で斃れるのである。それでなくては真に生活の意味は分らない」と、英国より帰国する 船中で決心したことを記している。
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「戦後文界の趨勢」の漱石は、「決して吾々には所信があって今日の大成功を期して居たとはいはれない」と述べている。西洋の強国ロシアに対し、「最初から死力を尽し、生きるか、死ぬかといふ精神であつたが、斯う勝を制して見ると国民の真価が事実の上に現はれた心地がする」というのである。
 漱石は「趣味の遺伝」に戦争の悲惨さを鮮烈に描き出したが、日露戦争を避け得るものだったとは考えていない。さらにその後に続く戦争をさえ避け得ぬものと考えていた。『虞美人草』の甲野さんは「君は日本の運命を考へた事があるのか」といい、「日本と露西亜の戦争ぢやない。人種と人種の戦争だよ」「亜米利加を見ろ、印度を見ろ、亜弗利加を見ろ」という。
 「趣味の遺伝」は「陽気の所為で神も気違になる」という一句ではじまっている。たしかに戦争こそは最大の狂気であるだろう。しかし漱石はこの狂気に人間の不条理な活力の激発を見た。日露戦後、ポーツマス条約を不満とする激昂した民衆の日比谷の焼打ち事件にも、漱石は暴発する民衆の狂気を見た。激動する現実の中で、漱石は自己の内部にも奔騰する狂気、血に渇き復讐を求める狂暴な精神を感じた。
 「趣味の遺伝」の漱石は、凱旋歓迎の万歳の歓呼の彼方に、「満洲の野に起った咄喊」を聞く。咄喊の声はあらゆる意味を絶している。「万歳の助けて呉れの殺すぞのとそんなけちな意味を有しては居らぬ。ワー其物が直ちに精神である。霊である。誠である。而して人間崇高の感は耳を傾けて此誠を聞き得たる時に始めて享受し得ると思ふ」(傍点原文)と漱石は書いている。「戦争の片破れ」であり、「髯茫々として、むさくるしき事乞食を去る遠からざる紀念物」である兵士たちについて、「彼等は日本の精神を代表するのみならず、広く人類一般の精神を代表して居る」と書いた。兵士たちは自分の意志で戦ったのではなかった。「自分の意志以上の意志」に従って、生死を賭して激しい戦いを戦った。
 漱石は満州の野に展開された激烈な戦争にゆり動かされて、自分自身の戦いに出発した。それはひたすら自己の内部のやみがたい声に従い、自己をさえぎるものはあくまでもうちたおそうとする戦いである。日露戦争が「所信があって今日の大成功を期して居た」戦争ではなく、「最初から死力を尽し、生きるか、死ぬかといふ精神」で戦って勝利したという事実は、漱石のこの戦いを鼓舞し激励した。日露戦争の勝利が国民の自覚自信を生み、西洋崇拝の呪縛から解放されて、新しい文学がおこるだろうといったとき、漱石は日本の文学が、ただ自分自身に忠実であることによって、創造的な新しい世界をきり開いて行くことを求めたのであって、国家主義とか、国粋保存主義とかの狭小な主義の文学の勃興を期待したのではない。

        三

 明治三十九年二月三日付野間真綱宛書簡に漱石は、「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇など上回ふ人は感心なものだ。……人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ」と書いた。
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 河上肇は明治三十八年十一月一日から同年十二月十日にいたるまで、読売新聞に「社会主義評論」を連載し、翌三十九年一月三十日に同社より単行本として刊行した。この連載中に無我苑の伊藤証信を知り、「無我の愛」の教えに感動して、「社会主義評論」を中絶し、農科大学、学習院等の教職を辞して無我苑に入り、全力をあげて伝道の仕事に従事するにいたった。河上はその入信の経緯を「大山鳴動」として明治三十八年十二月十四日から同三十日にかけて読売に連載し、ひき続き「人生の帰趣」を明治三十九年一月四日から二月二十七日かけて連載している。漱石が前掲書簡を書いたのは、「社会主義評論」が単行本として刊行された直後、「人生の帰趨」連載中のことである。
 「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」という孔子の言葉、「命もいらず、名もいらず、官位もまつたくいらぬ人は、始末に困るものなり、此始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業を成し得られぬなり」という西郷隆盛の言葉を河上は愛し、くり返してその著作中に用いている。河上は「無我の愛」に「絶対の非利己主義」を見出し、それを「絶対の真理」として、一切をなげうって「至善の一路」に進もうとしたのである。
 「社会主義評論」第三十六信「欄筆の辞」に、河上は自己の半生を告白して、「無我の愛」によって現世の一切の苦しみから解放され、「絶対の幸福と自由」を得た喜びを語っている。「嗚呼余は久しく何物をか求めて已まざりき、故に常に多少の苦悶と不安とありき、然り何人か然らざらんや、財あるものは財の盗まれんことを憂ひ、名あるものは名の墜ちんことを憂ひ、学に志すものは学の進まざるを、恋に満足するものは恋の変らざらんを恐る。しかも人生限りあり、而して人欲限りなし、誰か絶対の満足を得て死して可なりと感ずるものあらんや」河上は「無我の愛」によって「絶対の真理」「絶対の幸福と自由」を得て「夕に死すとも可なるを」思うにいたったといい、「嗚呼既に生死を忘る。名誉何かあらん、一切の事々物々皆な悦んで迎よべし」「上、天に恥ぢず、下、人に恥ぢず、貧賎移す能はず、威武屈する能はず、亦だ快ならずや」と述べている。
 河上は自分が自分の過去を赤裸々に告白したのは、「一に只だ夕に死すとも可なりの実感を証明せんが為め」であるといい、「人は見て狂となさん、しかも余之を為して恐れず、豈奇ならずや」と、その解脱の喜びを語っている。「此の絶対の幸福を他人に伝へんとするの念鬱勃として禁ずる能はず」
という河上は、「今日より後余は口に筆に此の真理の発現に身を致して死すべき時に死なんとぞ思ふ」と、大学をやめて読売の社員となり、文筆活動に従事する決意を語っている。
 漱石が河上肇に言及したものとして現在に残っているのは、前掲野間真綱宛書簡一通のみである。漱石の言葉はさりげないもので、河上はこの書簡について、「自分は冷かされてゐるのかも知れないが……」(「自画像」)と記している。しかし漱石はこの河上に深く動かされる所があったと思われる。漱石はこの手紙に、「忙しい事は依然として忙がしい。生涯此有様であらう。而して生涯落ちつく事はない。僕のキュー/へして居るのも亦姑息手段に過ぎぬ。要するに大俗物になって益大俗物たらんとアセルのだね。是ではどこがえらいか分らない。人間は他が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把握して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあったものではない」と述べている。
 漱石が大学をやめたいという考えをもったのは、英国から帰国して、東大で講義をするようになった直後からのことである。明治三十六年四月に講義をはじめた漱石は、同年五月二十一日に菅虎雄に宛てて、はやくも「次第にては小生は辞任を中出る覚悟」といい、六月十四日には「大学ハやメル積212 ダ」と書いている。英国留学中及び帰国後の漱石が強度の神経衰弱に悩んだことは周知の事であり、『猫』や「倫敦塔」以下の諸作品はこの苦痛からの脱出であり、排悶であった。
   作家としての活動が大きな反響をよび、読者の共感を得るに従って、漱石の前に新しい世界が急速に開けたのは事実である。「戦後文界の趨勢」の談話をした当時、明治三十八年七月十六日付中川芳太郎宛書簡は、学校の仕事、文筆の仕事、そして多数の来客に多忙を極める生活を伝え、「大学で一人前の事をして高等学校で一人前の事をして明治大学で三分一〔人〕前の事をして文士としても一人前の事を仕様といふ図太い量見だから到底三百六十五日を一万日位に御天と様に掛合って引きのばして貰はなくつちや追ひつかない話しさ」といっている。ここには新しく開けた世界に遮二無二とびこみ、存分に腕をふるって意気軒昂たる漱石がいる。「戦後文界の趨勢」が発表された八月の諸雑誌には、このほかに四篇の談話と、「一夜」が発表されている。
 しかしやがてそうした生活の空しさが漱石を圧迫するようになり、同年九月十七日付高浜虚子宛書簡には「毎日来客無意味に打過候。考へると己はこんな事をして死ぬ筈ではないと思ひ出し候」と書いている。「生涯のうちに自分で満足の出来る作品が二三篇でも出来ればあとはどうでもよい」という漱石だが、そのためには牛肉も卵も必要だというわけで、「遂々心にもなき商買(原)に本性を忘れるという「顛末」に立ちいたったというのである。「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候」と漱石はいっている。急速に開けていった創作の世界で自分の一切を賭した仕事をしたいと望むようになっ
た漱石は、自分の中途半端な生活と、中途半端な作品に満足することができなくなったのである。
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 大学をやめて全力を創作に注ごうとする考えが強まるにつれて、漱石は大学をやめることの不安を現実的なものとして感じはじめている。同年九月二十四日付野間真綱宛書簡には「心ばかり狼狽して仕事は一向出来ず愛想がつき申候。学校をやめたら創作家になれるだらうなかと己惚るのも矢張り本来の愚見かと存候」と述べている。明治三十八年九月に「猫」第六を発表し、十月に「吾輩ハ猫デアル」上篇)を最初の著書として刊行してのち、十一月の「薤露行」一篇のほかに発表していないのは、漱石の内部で創作の意味が問われ、ひとつの転換が生じたことを示している。
 この小休止を経て、明治三十九年一月には「趣味の遺伝」、「猫」第七・第八を同時に発表する大活躍をはじめた。この月には「昔の話」「予の愛読書」という二篇の談話も発表された。漱石は「趣味の遺伝」と「猫」第七・第八を十二月はじめの二週間で書きあげているが、その直前の十一月二十六日付高浜虚子宛書簡に「僕は当分のうち創作を本領として大にかく積りだが少々いやになった。然し外に自己を発揮する余地もないから矢張り雑誌の御厄介になる事に仕った」といっている。虚子宛の十二月十一日、十八日付の書簡によれば、漱石は二週間ばかり、大学も休んで創作に没頭したが、時間不足のため「趣味の遺伝」も「猫」も不満足なまま発表せねばならなかった。
 十二月九日付野村伝四宛書簡には「小説家程いやな家業はあるまいと思ふ。僕なども道楽だから下らぬ事も書いて見たくなるんだね。職業となつたら教師位なものだらう」と書き、同十八日の虚子宛書簡には「此二週間帝文とホトヽギスでひまさへあればかきつゞけもう原稿紙を見るのもいやになりました是では小説抔で飯を食ふ事は思も寄らない」といっている。これらの言葉は、漱石がまじめに大学の教師をやめて小説で飯を食うことを考えていたことを示している。二週間という短時日にあれ-
 だけの作品を書こうとしたのも、一方で彼の内部に沸騰する創作欲があったからにはちがいないが、同時に職業作家として、創作で衣食の道を得る可能性を試みたということがいえるのではないか。
 明治三十九年一月一日の鈴木三重吉宛書簡には「早稲田文学が出る。上田敏君抔が芸苑を出す。鴎外も何かするだらう。ゴチや@くメチや@く其間に猫が浮きっ沈みっして居る。中々面白い。猫が出なくなると僕は片腕もがれた様な気がする。書斎で一人で力味(原)んで居るより大に大天下に屁の様な気
焔*をふき出す方が面白い」と述べている。新年早々、勃興する文壇の新気運の中で奮闘しようとする漱石の気持がはっきりとあらわれている手紙である。
 一月十日付森田草平宛の手紙にも大学をやめたいといっているが、同十四日付菅虎雄宛書簡には「僕大学をやめて江湖の処士になりたい」と書いている。「創作を本領として大にかく積り」の漱石は、ますます大学をやめたいという思いを強めながら、中途半端な状態にとどまり続けていた。この漱石にとって衣食の問題を度外視し、ひたすら道を求めて、道のためにすべてをなげうって新生活にとびこんだ河上肇の生き方は衝撃的であった。河上の矯激ともいうべき行為は、改めて漱石に自分の生活の不徹底を思い知らせた。河上に言及した二月三日の前記野間宛書簡に「僕のキューくして居るのも亦姑息手段に過ぎぬ」といっているのはこのことを示している。たしかにそれは狂気の沙汰ともいえばいえたであろう。しかし漱石が「精神病なら其病気の所が感心だ」といったとき、それは決して皮肉の言ではなかった。
 この野間宛書簡のほかに、漱石が河上に言及した言葉は今日のこっていない。しかしやがてこの年十一月には、河上が「社会主義評論」「大山鳴動」「人生の帰趣」等を発表した読売新聞に「文学論序」を発表し、河上が「社会主義評論」の「擱筆の辞」でおこなったのと同様に、[著者の心情を容赦なく学術上の作物に冠して其序中に詳叙するは妥当を欠くに似たり。去れど此学街上の作物が、如何に不愉快のうちに胚胎し、……如何に不愉快のうちに出版せられたるかを思へば……」と、こみあげる激情をおさえかねる文章で過去を語り、過去に対する訣別の辞を述べた。
215
 「英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由」「帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり」河上が「絶対の真理」を得て解脱の喜びを語っているのに対し、漱石はあくまでも自己に執し、群屈した心情を吐露している。「だゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、『猫』を草し『濠虚集』を出し、又『鶉寵』を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず」といい、「長しへに此神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す」と述べた。
 こうして漱石は、すべてをなげうって、ひたすら道を求め、道のために戦う白非道也を主人公とする「野分」を書いて、作家としての新しい出発の宣言とするのであるが、この白井道也には、多くの点で河上肇と通じあうものがある。

         四

 日露戦争の最中に「倫敦塔」以下『漾虚集』の諸作品を書いて、人間の生存とその歴史の暗部にひそむ情熱と罪業に詩的表現をあたえ、『猫』においては自己批評から出発して、金力と権力に対する攻撃を諏刺と滑稽化によって展開するにいたった所に、明治三十八年の漱石の、作家としての出発があった。明治三十九年を迎える漱石は、「趣味の遺伝」によって『漾虚集』の世界に訣別した。
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 遠いロンドンの暗い空の下に、歴史そのものの化石のように凝然として立ち続け、二十世紀の文明をじっと見おろしている倫敦塔によって、はるかなる幻想と詩の世界にはいっていった漱石は、自分が現に生きている二十世紀の日本へ帰って来たのである。激烈な日露戦争に露出された人間の狂気、その暗い情熱と罪業を描き、自分の意志以上の意志に駆りたてられて、大風の吹く遠い満洲の野に不
条理な死を死んだものの死を描き、その墓前に、非現実的な幻の愛の花束を捧げ、『漾虚集』の世界と訣別した。
 「趣味の遺伝」と同じ月に発表された『猫』第七の苦沙弥先生は浴場の赤裸=化物の世界と、現実社会の衣服=文明の世界との中間にあって「逆上」の醜態を演じている。明治三十九年の漱石は現実のたゞ中におり、『猫』第八の苦沙弥先生は、落雲館の中学生とまことに大人げない、滑稽な「大戦争」を展開する。人間精神の激発はもはや「逆上」としてしかあらわれない。悲劇の時代は終り、現代はまさしく喜劇の時代なのであった。
 『猫』第九の苦沙弥は、鏡をわざわざもち出して来て、一生懸命に自分の顔を点検している。「大戦争」の空しさに疲れはて、八木独仙の消極哲学の影響を受けて、あらためて自己の再検討をはじめたのである。天道公平なるものの奇妙な手紙に心を動かされた苦沙弥は、この天道公平が独仙の影響を受けて精神に異常をきたし、今は精神病院にいる正真正銘の狂人であると知って、気ちがいの言葉に感服する自分は気ちがいになりかけているのではないかという恐怖を感じ、さらに、自分のちかごろの中庸を失した言動を思っては、すでに立派な気ちがいになっているのではないかと思う。
217 しかし考えて見れば、自分をとりまく人たちはいずれも大なり小なり気ちがいのようであり、「ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない」と思われて来る。むしろ「瘋癲院に幽閉されて居るものは普通の人で、院外にあばれて居るものは却って気狂である」と思はれ、ついに「何が何だか分らなく」なってしまう。『猫』第七では銭湯の浴槽での支離滅裂な会話を描き、ここでは「気狂が集合して鎬を削ってつかみ合ひ、いがみ合ひ、罵り合ひ、奪ひ合って、其全体が団体として細胞の様に崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云ふのではないか知らん」と書いている。そして「何返考へ直しても、何条の径路をとって進まうとも、遂に『何が何だか分らなくなる』丈は慥かである」というのである。
 この現実を人はどのように生きて行けばよいのか。森田草平宛明治三十九年二月十三日付書簡(第二便)の漱石は「天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない。どうするのがよいか。森田君君此問題を考へた事がありますか」と書いている。この時期の漱石が苦しい自己検討を強いられていたことは確かである。
 河上肇について書いた前掲野間真綱宛書簡は、この直前の二月三日に書かれたので、『猫』第九はこの直後に書かれている。漱石には河上の狂気に似た言動に共感を覚えるものがあり、「姑息手段」で生きている自分の生活に対する自己検討を強いられた。しかし、漱石には「姑息手段」で生きるしかないという苦い認識があった。漱石には現実社会に対する憤激があったが、その激情にわが身をまかせることはしなかった。生活問題に対する顧慮ということもあり、それが身の破滅をまねくものだということを知っていたということもある。しかしそればかりでなく、それが現代においてはついに 喜劇に終るしかないという認識があった。『漾虚集』の世界と訣別した漱石は、その激情を滑稽化して『猫』を書き続け、また「坊つちゃん」「草枕」「二百十日」の世界をきり開いていったのである。
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 「坊っちゃん」は『漾虚集』の世界と訣別した漱石が、日露戦後の日本社会の現実と格闘する精神によってきりひらいた新しい世界である。『猫』の世界は、もっぱら狭隘な 苦沙弥先生の家の中にのみ閉じこめられて展開し、その主人公は非行動的で、せいぜい落雲館中学生との「大戦争」位しかその行動は描かれなかった。その現実社会とのたたかいは、もっぱら辛辣な批評的言辞によってのみ展開されたのである。これに対して「坊つちゃん」の主人公は、現実社会のただ中に生き、複雑な人間関係の中で、現実社会そのものと格闘する。
 しかし漱石はその主人公を、単純率直で、いささか思慮分別に欠ける坊っちゃんにすることで、それを滑稽な喜劇的世界として展開した。漱石は自分の内部に沸騰する激情に身をまかすことを許さぬばかりか、激情に駆りたてられようとする自分をわらおうとさえした。自己の内部の矛盾や弱点、強固なエゴイズムに盲目にはなり得なかったのである。漱石の認識はたえずその反面から光があてられ、その一面性が否定された。そこに漱石の文学がアイロニーとして展開されなければならなかった所以がある。
 漱石にとって、赤裸々な自己告白など決して可能でなかった。漱石の自己認識はあまりに複雑すぎたのである。それ故、漱石の作品世界は一定の装置をほどこされることによってのみ成立し、作者は仮面をかぶってのみ作中に登場した。漱石の作品にはいたる所に漱石がいるが、同時にどの漱石も漱石の一面でしかなく、作者が全面的に自己を仮託した人物など、どこにもいないのである。
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 そもそも漱石自身が自分の本体はこれだという形では、自分自身をとらえることができなかった。漱石自身にとって、自己はたえず流動し変貌した。漱石の自己認識は、たえず否定されることによって発展した。このたえまなき流動と変貌のうちに、このたえまなく否定されることによって発展する自己認識のうちに漱石は存在し、その文学があった。
 「文学論序」を書き、「野分」を書いて、ついに大学をやめ、朝日に入社して、専門作家の道を歩きはじめた漱石を駆りたてたものが、前記狩野亨吉宛書簡、鈴木三重吉宛書簡に吐露されたような、どこまでも現実こまでも現実と相渉り、これと戦い続けようとするはげしい精神であったことはたしかである。しこれと全く同じ時期の十月二十日付野間真鯛宛書簡には、「近来世の中に住んで居るのが小便壷の中に浮いて居る様な気がする。「昔し小便壷の中に居る事に気がつかなかったときはもっと熱心であった。天下の人が戯れて居るのに自分丈真面目で居るのは酔漢の中に窮屈にかしこまつてゐる様なものだ」といっている。
 また同日付皆川正禧宛書簡には「青年は真面目がいゝ。僕の様になると真面目になりたくてもとてもなれない。真面目になりかける瞬間に世の中がぶち壊はしてくれる。難有くも、苦しくも、恐ろしくもない。世の中は泣くにはあまり滑稽である。笑ふにはあまり醜悪である」と書いた。一方にこの暗澹たる認識を抱きながら、しかも自己表現を求め、現実とたたかう道を求めて苦闘する所に、漱石の文学はたえず創造的に発展させられていった。
 「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」と書いた前記鈴木三重吉宛書簡の直前に、同日付で漱石は三重吉に宛てて、「僕の行為の三分二は皆方便的な事で他人から見れば気違的である」と書き、現在状態が続けば気ちがいであるが、現在状態が変化すればどう変るかもわからないと書いている。「一人の人間がどうでもなる所が自分ながら愉快で人には分からないからいい。気違にも、君子にも、学者にも一口のうちに是より以上の変化もして見せる」というのである。状況次第、相手次第でどうにでも変って見せるという漱石には、自分が本当の自分を生きていないという自覚と同時に、「方便的」にさまざまに変化する自分には、人には理解されない本当の自分があるのだという強い自己主張が秘められている。
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 自分の生活を「方便的」であり、「姑息手段で生きてゐる」と自覚し、そう生きるしかないのだと考えれば考えるほど、「自己の本領」の自覚はますます強まり、すべてを捨てて「自己の本領」に生きたい願いは切実になる。この手紙を追いかけるようにして「維新の志士の如き烈しい精神で……」という手紙を書いた所以である。
 しかし、本当の自分が何であるかは自分でも分からない。ただ自分の内部の声に従い、自分のすべてをなげうって、全力的に自己を現実に打ちつけるしかない。たとえそれがいかに喜劇的であり、狂気の沙汰であろうとも……。「わたしは名前なんて宛にならないものはどうでもいこ只自分の満足を得る為めに世の為めに働くのです。結果は悪名にならうと、臭名にならうと気狂にならうと仕方が ない。只かう働かなくつては満足が出来ないから働く迄の事です」と白井道也はいう。「かう働かなくって満足が出来ない所を以て見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従ふより外にやり様のないものだ。」白井道也における道は自己の外部に規範としてあるものではない。ただ自己の内奥の声に従って生きる所に道があるというのである。自分自身を生きることによって道をきり開こうとする創造的な道である。
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 白井道也は英語の教師をしていたが、深い漢学の素養をもっている。人格といい、解脱という。しかし道也の精神はふるい精神ではない。実にそれは明治の新精神である。すでに外部にある規範としての既成の道は滅びた。人はただ自己に従って生きるしかない。「諸君は道を行かんが為めに、道を遮ぎるものを追はねばならん。彼等と戦ふときに始めて、わが生涯の内生命に、勤王の諸士が敢てしたる以上の煩悶と辛惨とを見出し得るのである」自己はこの戦いのうちに、この「煩悶と辛酸」のうちにある。自己の何であるかは自分にもわからぬ。「理想の大道を行き尽して、途上に発るゝ刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである」と白非道也は述べたのである。
 漱石は道也を、西欧に学びながら、西欧の影響を脱して、自分自身の道を行くことによって新しい未来をきり開こうとする日本=東洋の知識人として描き出した。「英国風を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己れに理想のないのを明かに暴露して居る」と白井道也はいう。「凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」
 「趣味の遺伝」によって「倫敦塔」にはじまる『漾虚集』の世界に訣別した漱石は、日本の現実、日本の理想、日本の芸術を探り求めて、「坊つちゃん」を書き、「草枕」「二百十日」を書き、「文学論序」を書いて、「野分」に到達した。「坊つちゃん」の坊っちゃん、山嵐、そしてまた清は、赤シャツの代表する西欧かぶれに対して、明かに日本を代表している。そして、「草枕」は東洋の芸術への志向を示し、「二百十日」は維新の精神をよみがえらせようとするものであった。「文学論序」において公然
と英国に対する訣別の辞を述べた漱石は、「野分」において新文学の精神を、東洋の伝統の上に宣言するにいたったのである。漱石が『猫』のみならず、「坊つちゃん」「野分」を『ホトトギス』に発表しているのは偶然ではない。『猫』はホフマンを真似たのだという意見が出たとき、漱石がこれに激しく反発したのは、漱石の精神の本質にかかわる問題だったからである。
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          五

   森田草平に宛てた明治三十九年二月十三日付書簡には、「僕も弱い男だが弱いなりに死ぬ迄やるのである。やりたくなくつたつてやらなければならん」と書き、同第二便には「天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない」と書いた漱石が、明治三十九年十月二十二目付草平宛書簡には、「人若し向上の信を抱いで事をなす時貴キ事神人ヲ超越シテ蓋  天蓋地に自我ヲ観ズ。天子様ノ御威光デモ是許りハドウモ出来ン。漱石ハ喧嘩ヲスル度に此域に出入ス」と書いている。いつでも自己に対し、現実に対する批評的精神を保持し続けた漱石が、一方で小便壷云々といいながら、このような手紙を書き、また前記狩野宛書簡のようなことを書き、「維新の志
士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」といって、「文学論序」のような文章を書き、「野分」のような作品を書くにいたったことは、この時期の漱石の内部の激動がいかに大きかったかを示している。
   注目すべきことは「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」という漱石が、島崎藤村の『破戒』を想起して、「破戒にとるべき所はないが只此点に於テ他をぬく事数等であると思ふ」といつていることである。
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 『破戒』の刊行は明治三十九年三月二十五日、実際には二十八日に店頭に出したという。漱石は発売とほとんど同時に買っている。四月一日付森田草平宛書簡に「破戒は二三日前買ひました。先口紅緑が来て破戒の著者は此著述をやる為めに裏店へ這入って二年とか三年とか苦心したと聞いて急に島崎先生に対し〔て〕も是非一部買はねばならぬ気になりすぐ買って来ました」と書き、四月三日には同じく草平に宛てて、「破戒読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と絶讃している。「僕多く小説を読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ」というのである。
 同じ言葉は四月四日付虚子宛書簡にもくり返されているが、六月八日付野村儀作宛書簡にも、「破戒は小生も数日かゝりて通読致候あれは文章にてよませる小説では無之又局部々々の活動にて面白がらせる小説にも無之辛抱して仕舞迄よませて後感心させる作と存候」と書いている。そして草平や虚子に対していったのと同じ「明治の作物として後世に伝ふべきもの」という称讃の言葉をくり返し、「拙作中には破戒程の大作は無之」といっている。「破戒」と比較して『漾虚集』を褒めた手紙に対する返事としてこのように書いたことは、漱石の「破戒」から受けた感銘がいかに強かったかを示している。
 なによりも先ず漱石は、藤村がこの一作のためにすべてをなげうち、生活を賭して書いていることに心を動かされている。それは河上肇に対する場合と同様であるが、このことは決して感傷にすぎぬものではなかった。生活のすべてをなげうっても書かねばならぬ強烈な主題を藤村がもっていたことを示すのであり、それは近代文学にとって基本的な条件であった。文章の技巧や局部の面白さによっ

224 てではなく、作品をつらぬくその精神において、人生そのものに触れるその深さと真実さにおいて、それは評価されなければならない。
 「明治の作物として後世に伝ふべきもの」という感じを待ったとき、漱石はそこに作家の本領というものをはっきりと感じたのであった。十月二十二日付の前記森田草平宛書簡には、「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」「只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり」と書いた。それに続いて十月二十三日付の鈴木三重吉宛書簡に、前述のように「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」といい、『破戒』について言及しているのである。
 藤村は『破戒』に、自己を隠蔽して生きる青年の苦悩を描いた。真実を表白すれば、たちまち社会を追われ、現実的幸福を失わなければならない。しかし自己を隠蔽し、虚偽のうちに生きる生活は、たえがたい孤立と不安の生活であり、いかなる愛も友情も、かえってその身を苦しめるものと化してしまうのである。やはりそこにはいささかの自由も幸福もなかった。
 社会的生存と、人間的自由と真実との和解しがたい矛盾を藤村は追究し、その矛盾にひき裂かれ、右にも左にも進み得ぬ青年の苦悩を描いた。それは社会に目ざめ、自己に目ざめ、自由と真実に目ざめ、人間に目ざめた明治の人間が、ひとしく担わなければならぬ重い現実であった。明治の社会はもはや流動的であることをやめ、日露戦争における国民感情の爆発と国家主義の高揚は、やがて重苦しく国民の精神と生活を圧迫する空気に変っていった。それが動かすことの出来ぬ現実として、強く自覚されるようになっていったのが、日露戦後の日本である。
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 欝勃たる自由と解放の要求に目ざめた新時代の精神は、自己をとりまく現実の、どうすることも出来ぬ桂格に傷つき悩まなければならなかった。この近代日本の基本的な矛盾と真正面からとり組んだ作品である故に、『破戒』は当時の日本に強烈な衝撃をあたえた。丑松の苦悩は明治の目ざめた人間一般の苦悩であった。彼等は丑松に自分自身を見出し、丑松の苦悩を自ら苦悩したのである。藤村は
丑松を未解放部落出身の青年とすることで、この矛盾と苦悩を何人の目にも明かなように、煮つめた形で表現した。末解放部落の問題は単に未解放部落だけの問題にとどまるものでなく、近代日本の矛盾そのものの集中的表現である。
 もちろんそれを近代日本の矛盾そのものとして一般化することは、その固有の問題を捨象することになり、そこに『破戒』の弱点もあるわけだが、しかしそれにもかかわらず、やはりそのことによって『破戒』は近代日本の矛盾を深く抉り出す作品になったことは認められなければならない。漱石が前記森田草平宛四月一日付書簡で、「気に人つたのは事柄が真面目で、人生と云ふものに触れて居」ることだといい、まだ半分しか読んでいないにもかかわらず、恐らく傑作だろうと述べたのはこのためである。
 丑松は右と左にゆれ動き、あらゆる煩悶と苦悩、逡巡と遅疑のうちに、ついに我が身の真実を打ちあけることのないまま、唯一人の尊敬する先輩猪子蓮太郎の横死にあい、絶対絶命の場所においつめられて、ようやく決意して自己を告白する。この限りない煩悶、逡巡と遅疑をくりかえす孤立した不安な生活に、近代日本の知識人の姿がまざまざと描かれている。その懺悔と告白は、不安と動揺のうちに限りなく我が身を責めさいなみ、身と心を傷つける空しい虚偽の生活に対する訣別であり、新しい真実の生涯のはじまりであった。それはいいようのない苦難の生涯であるが、丑松は進んで社会の鞭を受けようとする。そのような矛盾があり、同胞がその苦難にうちひしがれているのである以上、それを逃れては真実の生活はあり得ぬのであり、ひたすらな孤立と不安動揺があるばかりであった。自ら進んでその苦難をひきうけるとき、そこにはじめて真実の生活が開けるのであった。丑松はそこにはじめて精神の自由を得、同胞との連帯、真の愛と友情を得て、新しい人生の曙光を見た。
 漱石もまた限りない不安と動揺のうちに、あらゆる逡巡と遅疑をくり返しながら、ひたすら自己の内部の声に従い、すべてをなげうって「自己の本領」に生きる、新しい生涯への旅立ちを願い続けたのであった。あらゆる艱難と辛酸を進んでわが身にひきうける、そのはげしい戦闘の生涯にこそ、真の人生、真の文学があることは、白井道也がくり返して強調し、漱石が狩野亨吉、鈴木三重吉、森田草平、高浜虚子らにあてた手紙に、くり返して表明した信念である。
 それは決して感傷的観念的な精神主義であるのではない。金力と権力の支配がますます露骨になり、近代的国家体制が強固に確立されて、それが国民の自由と幸福を実現するものでなく、かえってそれを抑圧するものであることが明らかになり、それと戦うことなしにはどうしても人間的な自由と真実をまもりぬくことが出来ないのである以上は、この悲壮な覚悟は、文学者が文学者であることをつらぬくために、どうしても必要な覚悟であった。
 たしかに明治三十九年は新時代、新思想、新文学の出発を告げる記念すべき年であった。これまでの自分の過去を虚偽として葬り、すべてをなげうって新しい真生活へ旅立とうとする所に、この新時代の思想と文学の出発があった。その背後に、日露戦争の勝利がもたらしたものが幻滅でしかなく、巨大な犠牲をはらってようやく実現された近代が、決して人間の幸福を保障するものではなくて、むしろ自然を破壊し、人間を破壊するものであることが次第に深刻に認識されるようになったという事実がある。
 河上肇の無我苑入りは、このような時代の知識人の苦悩と新生の希求を端的に示すものであったが、木下尚江はこの年十月「旧友諸君に告ぐ」を発表して、社会主義者としての過去に訣別し、『懺悔』一篇を刊行した。この年聖地パレスチナを巡礼し、ヤスナヤーポリヤナにトルストイを訪ねた徳富蘆花は、十二月に一高で「勝利者の悲哀」と題する講演をおこなって、「黒潮」第一号に発表し、翌年東京府下千歳村に移って田園生活をはじめた。島崎藤村の『破戒』はこのような新時代の動向を代表するものであった。
 明治三十九年の夏目漱石は、河上肇に共感をおぽえ、『破戒』に感動して、「文学を以て生命とするもの」として、あらゆる歎難と辛苦のうちにひたすら自己をつらぬいて生き、そこに自分自身の文学を確立する道を求めて旅立った。「文学論序」は過去に対する訣別の辞であり、「野分」は新しい出発の宣言であった。あらゆる自己の暗黒、矛盾、弱点をはっきり見つめながら、しかも、あえて一切をなげうち、はげしい戦闘の生涯にわが身を投じ、進んで時代の歎苦をI身にひきうけようとした漱石を、前記の人々に代表される時代の動向ときりはなして考えることはできない。漱石はみずからその道をえらぶことによって、藤村とともに、新時代を代表する作家となったのである。

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