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2012年12月 2日 (日)

2005/7/11(月)→2006/6/15(木)

2005/7/11(月)→2006/6/15(木)
  
.「吾輩は猫である」から  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/6/15(木) 17:17

「ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理窟がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」 
http://gendai.net/ 

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195.(untitled)
名前:伊豆利彦    日付:2006/6/16(金) 8:44
狂気は「吾輩は猫である」の主要なテーマだった。   

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196.(untitled)
名前:伊豆利彦    日付:2006/6/16(金) 8:48
「趣味の遺伝」は「陽気の所為で神も気違になる。「人を屠りて餓えたる犬を救え」と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼かして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた。」という言葉ではじまる。   

193.英国留学中の手紙から 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/6/15(木) 19:6

① 国運の進歩の財源にあるは申すまでもこれなく候へば、 御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存じ候。 同時に国運の進歩はこの財源を如何に使用するかに帰着致し候。 只己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも只財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存じ候。

② 欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致し候。 この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめ、 若しくは無教育に終らしめ、 却つて平凡なる金持をして愚なる主張を実行せしめる傾なくやと存候。 幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別を生じ、 且耶蘇教の惰性と仏国革命の殷鑑遠からざるより、 これら庸凡なる金持どもも利己一遍に流れず他の為め人の為に尽力致し候形跡これあり候は、 今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。   

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194.Re: 英国留学中の手紙から
名前:伊豆利彦    日付:2006/6/15(木) 19:12
漱石の思想と文学の基礎は、英国留学時代に養われた。
ノート、日記、書簡は漱石文学の宝庫だと思う。   

191.明治四十二年の東京大学総長の頭脳の程度 返信  引用 

名前:水川景三    日付:2006/6/6(火) 1:16

 「実業家米国の招待に応じて渡航 うちに神田乃武、佐藤昌助、巌谷小波あり。何の為なるやを知らず。実業家は日本にゐると天下を鵜呑にした様なへらず口を叩けども、一足でも外国へ出ると全くの唖となる為ならん。
 文科大学にて神話を課目に入れんとするの議を起す。総長浜尾新「神話」の神の字が国体に関係ある由にて抗議を申し込む。明治四十二年の東京大学総長の頭脳の程度は此位にて勤まるものと知るべし。」
(明治42年7月26日の日記)

といった感想を記しつつ、漱石は満韓の旅に9月から出立した。
ロシア人の呼称や中国人の呼称、また苦力の描き方と朝鮮人に対する見方、感懐は若干の違いを見せている様にも思われる。
高宗への同情は何に対しての同情なのか。
同情は優越感の裏返しとも言われる。
朝鮮民衆、その国の歴史に対する同情といえるのかどうか。
自然風物への興趣と戦争の悲惨とそれにまつわる抑圧被抑圧の国の歴史
に思いを馳せているのは間違いないと思う。
抑圧された国の悲哀は感じているのだろうと思うが。   

186.朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかり 返信  引用 

名前:金 正 勲    日付:2006/6/2(金) 9:1

朝鮮の王様が譲位になった。日本から云へばこんな目出度事はない。もつと強硬にやつてもいゝ所である。然し朝鮮の王様は非常に気の毒なものだ。世の中に朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかりだらう。

1907年7月19日漱石が小宮豊隆に送った書簡の内容だが、漱石の意識はその歴史的な事件に無感覚ではない。ヘーグ密使事件を口実に伊藤博文が朝鮮王高宗を強制に退位させたのは、7月18日のことだから、その翌日は朝鮮王の退位のことで朝鮮は大騒ぎであった。次々と朝鮮民衆の蜂起が続いたほど事体は深刻であったが、はたして漱石の心境はどのようなものだったのだろう。

 漱石はおそらく帝国日本の侵略政策が齎した結果、朝鮮王や朝鮮民衆が如何に苦痛と弾圧に堪えない日々を暮らしていたか自覚的であったはずだ。「朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかりだろう」と言えるほど関心を寄せていたのもその事実を裏付ける。

しかし、 

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187.Re: 朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかり
名前:金 正 勲    日付:2006/6/1(木) 21:18

例えば「明暗」には次のような場面がある。

「お嫁なんか何んなのでも其所いらにごろごろ転がつてるぢやありませんか」(略)
「いくら女が余つてゐても、是から駆け落をしようといふ矢先ですからね、来ッこありませんよ」
駆落といふ言葉が、不図芝居で遣る男女二人の道行をお延に想ひ起させた。(略)
「僕だつて朝鮮三界迄駆落のお供をして呉れるやうな、実のある女があれば、斯んな変な人間にならないで、済んだかも知れませんよ。実を云ふと、僕には細君がないばかりぢやないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もつと広く云へば
人間がないんだとも云はれるでせうが」   

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188.Re: 朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかり
名前:水川景三    日付:2006/6/2(金) 22:37
金 正 勲 様
お知らせがあります。
貴殿HPのメールフォームを使いましたが届いたかどうか心配です。   

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190.Re: 朝鮮の王様に同情してゐるものは僕ばかり
名前:水川景三    日付:2006/6/3(土) 9:16
メールしました。   

185.戦禍の象徴 「靴」 返信  引用 

名前:水川景三    日付:2006/5/13(土) 11:40

「時事問題」のところに、
ワシントン連邦議会前広場にイラク戦犠牲者の靴が並べられたとの記事が紹介されていて、思い出した。

旅順を訪れた漱石は、戦利品陳列所を見学する。
以下その一節。

《たった一つ覚えているものがある。それは女の穿いた靴の片足である。地が繻子で、色は薄鼠であった。その他の手投弾や、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に判然残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん時でも意志の起り次第鮮に思い浮べる事ができる。
 戦争後ある露西亜の士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。その時彼はこの靴を一目観て非常に驚いたそうだ。そうしてA君に、これは自分の妻の穿いていたものであると云って聞かしたそうだ。この小さな白い華奢な靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き洩らした。》

実見したのかどうかは不明だが、強烈な印象を残す場面として書かれている。戦果に酔うことなく、戦争の悲惨、むなしさに思いを致しているのはこの文の特徴だと思う。それは「趣味の遺伝」に漂うトーンと通底しているものだろう。   

184.「吾輩は猫である」から 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/5/7(日) 17:34

いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。

 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘(わがまま)なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾(どうきん)する小供のごときに至っては言語同断(ごんごどうだん)である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛(ほう)り出したり、へっつい[#「へっつい」に傍点]の中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内(かない)総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨(と)いだら細君が非常に怒(おこ)ってそれから容易に座敷へ入(い)れない。台所の板の間で他(ひと)が顫(ふる)えていても一向(いっこう)平気なものである。吾輩の尊敬する筋向(すじむこう)の白君などは逢(あ)う度毎(たびごと)に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産(う)まれたのである。ところがそこの家(うち)の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族(ねこぞく)が親子の愛を完(まった)くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅(そうめつ)せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの三毛(みけ)君などは人間が所有権という事を解していないといって大(おおい)に憤慨している。元来我々同族間では目刺(めざし)の頭でも鰡(ぼら)の臍(へそ)でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善(よ)いくらいのものだ。しかるに彼等人間は毫(ごう)もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪(りゃくだつ)せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪(うば)ってすましている。白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人を持っている。吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。
http://www1.ezbbs.net/27/tiznif/   

183.「吾輩は猫である」から 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/5/7(日) 15:35

いかにして米国からの独立を実現するか、それが問題だ。
核兵器を持ち、軍事力を強化して一戦まじえるか。
世界最強の好戦主義者の米国に対して、それは自滅の道だ。

「吾輩は猫である」に次の言葉がある。

しかし猫の悲しさは力ずくでは到底(とうてい)人間には叶(かな)わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒のごとく不意に肴屋(さかなや)の天秤棒(てんびんぼう)を喰(くら)う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠(かす)めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択(えら)ぶのである。天秤棒は避けざるべからざるが故に、忍[#「忍」に傍点]ばざるべからず。人の邸内へは這入り込んで差支(さしつか)えなき故込[#「込」に傍点]まざるを得ず。この故に吾輩は金田邸へ忍び込む[#「忍び込む」に傍点]のである。
http://ohtan.txt-nifty.com/column/

掲示板3413 参照

http://www1.ezbbs.net/27/tiznif/   

182.広田先生と憲法 返信  引用 

名前:水川景三    日付:2006/5/3(水) 8:49

広田先生は、自らの高校時代を振り返りつつ次のように言った。

「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」

それは、自由主義的考えの文部大臣森有礼が右翼に暗殺された翌年である。
広田先生は母(と思われる人)の臨終の際を次のように語っている。

《いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某の世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。》

その告白によって、広田先生は現実への浪漫的憧憬を打破される。
少女のその後はどんなものであっただろうか。
有礼につながる娘だったのだろうか。
恐らく政治の世界につながって生きているであろうその娘は、
広田先生にあった時の自らの姿形が一番好きだと言う。
その後の彼女の生は、輝いてはいなかったのだろう。
そして、広田先生の青春も幻滅の中に閉じこめられたのではなかったか。

憲法発布、議会開設が日本の民衆を幸せにするものではなかったことが
広田先生の批評のことばに、またこの挿話に込められているように思う。
日清・日露戦争を通じて西欧に伍する世界に冠たる一等国になったと
上滑りしてはならないと戒められているように感じる。

あらためて時勢を憲法記念日に思ってみるのである。   

181.林田 茂雄 著 「漱石の悲劇」 返信  引用 

名前:御影 暢雄    日付:2006/4/10(月) 21:58

林田茂雄著「漱石の悲劇」は優れた夏目漱石論だと私は思っています。志賀直哉のことを調べていて、志賀が当時の一流階級の暮らしを送りながら、その生活が普通の水準の生活と思っていたのではと私は分析するに至りました。漱石の小説の主人公宅にも婆やと書生が必ず出て来ますが、林田氏はこのことが漱石の生活水準感覚を現していると同著で看破しています。また、林田氏の「漱石の文章には芸がある」という言葉は、漱石文学を一言で集約していると思います。一労働者から文筆家になった林田氏の漱石論は、もっと多くの人に知っていただきたいと思っています。   

177.「君は日本の運命を考えた事があるのか」 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/4/9(日) 13:43

「虞美人草」の甲野さんと宗近君の会話

「元来、君は我儘過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
今までは真面目の上に冗談の雲がかかっていた。冗談の雲はこの時漸く晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後ろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風邪が癒れば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と露西亜の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
「亜米利加を見ろ、印度を見ろ、亜弗利加を見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ間に殺されているんだ」
凡てを爪弾きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋を敲いて、慄とした様に肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。 

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178.Re: 「君は日本の運命を考えた事があるのか」
名前:伊豆利彦    日付:2006/4/10(月) 8:41
英国留学中の日記

 1月27日
夜下宿の三階でつくづく日本の前途を考ふ。日本は真面目ならざるべからず。日本人の眼はより大ならざるべからず。

 3月21日
英人は天下一の強国と思へり。仏人も天下一の強国と思へり。独乙人もしか思へり。彼等は過去に歴史あることを忘れつつあるなり。羅馬は亡びたり。希臘も亡びたり。今の英国仏国独乙は亡ぶるの期なきか。日本は過去において比較的に満足なる歴史を有したり。比較的に満足なる現在を有しつつあり。未来は如何あるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄つる勿れ。黙々として牛の如くせよ。 孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。 汝の現今に蒔く種はやがて汝の収むべき未来となって現はるべし。

 

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179.Re: 「君は日本の運命を考えた事があるのか」
名前:伊豆利彦    日付:2006/4/10(月) 8:59
⑩ 3月15日
日本人を観て支那人といはれるを厭がるは如何。支那人は日本人より遥かに名誉ある国民なり。ただ不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり。心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と呼ばるるを名誉とすべきなり。仮令然らざるにもせよ日本は今までどれほど支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよかろう。西洋人はややともすると御世辞に支那人は嫌いだが日本人は好き だといふ。これを聞き嬉しがるは世話になった隣の悪口を面白いと思って自分方が景気がよいと いふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり。
⑪ 3月16日
日本は三十年前に覚メザめたりといふ。然れども半鐘の声で急に飛び起きたるなり。その覚めたるは本当の覚めたるにあらず。狼狽しつつあるなりただ西洋から吸収するに急にして消化する暇なきなり。文学も政治も商業も皆然らん。日本は真に目が醒めねばだめだ。
⑫3月18日
吾人の眠る間吾人の働く間吾人が行屎走尿の裡に地球は回転しつつあるなり。吾人の知らぬ間に回転しつつあるなり。知らざる者は危ふし。知る者は運命を形くるを得ん。   

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180.Re: 「君は日本の運命を考えた事があるのか」
名前:伊豆利彦    日付:2006/4/10(月) 9:2
明治の天皇制も軍隊制度も欧米を真似てつくったのだ。 

174.自慢をする丈(だけ)にどこか足りないところがあって 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/4/9(日) 13:17

「吾輩は猫である」から

元来黒は自慢をする丈(だけ)にどこか足りないところがあって、彼の気焔(きえん)を感心したように咽喉(のど)をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御(ぎょ)しやすい猫である。 

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175.Re: 自慢をする丈(だけ)にどこか足りないところがあって
名前:伊豆利彦    日付:2006/4/9(日) 13:21
かつて日本は、「日本は神国なり」だの「八紘一宇」だのといって自慢する言葉が氾濫した。

「出て来い、ニミッツ、マッカーサー」などと歌ったものだ。

この頃、また、当時の気風が復活する傾向があるのは心配だ。   

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176.Re: 自慢をする丈(だけ)にどこか足りないところがあって
名前:伊豆利彦    日付:2006/4/9(日) 13:28
人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。   

173.豚的幸福  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/4/8(土) 8:18

掲示板3254と重複

漱石の「吾輩は猫である」に次の言葉があった。誰かのことを言っているようだ。

迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。

http://blog.mag2.com/m/log/0000102032   

167.一通の手紙 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2006/3/22(水) 9:1

「明暗」には小林が津田に一通の手紙を渡す場面がある。
小林は原と話をしている間、津田にその手紙に目を通すことを進める。
手紙を読ませる小林、そして読ませられる理由を聞き質す津田。
この二人のやり取りは、結局小林に衝動的意外性を招くのだが、一方そこから小林の真剣さも窺える。

小林は津田にその手紙を読ませたのだろう。

「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
 こう云った小林は、手紙を隠袋へしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
 彼はこう云って原の方を見た。 

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168.Re: 一通の手紙
名前:金正勲    日付:2006/3/22(水) 9:4
なぜ小林は津田にその手紙を読ませたのだろう。   

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169.Re: 一通の手紙
名前:伊豆利彦    日付:2006/3/31(金) 19:18
「明暗」の小林の手紙は津田の精神を強く動かすのだと思います。
昔の津田はこのような社会に対する深い同情を小林とともにしていたのではないでしょうか。
津田はこのような自己を忘れて、実業の世界に入って、精神をむしばまれている。
小林はそのような津田を「戒飭」しようとして、手紙を見せたのだと思います。
それが、いかに強く津田を動かしたかは、煙草の灰が1寸近くになるまでの長い間この手紙に引き込まれるのです。
津田が 住む世界のすぐ裏側にこんな世界があるということ、これも人間だという感慨を呼び起こすところにこの手紙の意味があるでしょう。   

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170.Re: 一通の手紙
名前:伊豆利彦    日付:2006/4/1(土) 10:6
このくらい世界は、やがて津田が訪れるもう一つの世界と対応している。

次は、津田が手紙を読んだ直後の感想だ。

しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。

そして、次は温泉場に急ぐ馬車のなかでの感想だ。

「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」

人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰うか、迷児つくか、蹴爪ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」

大きな自然が人間を取り巻いているように、くらい世界、貧困の現実は贅沢を求めてあくせくする津田のすぐ足元に広がっている。

津田は自分を<特別な人間>と考えたがる。
しかし、人間は結局は同じなのではないだろうか。

それが<則天去私>の世界観だと思う。   

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171.Re: 一通の手紙
名前:金正勲    日付:2006/4/1(土) 20:47
その「くらい世界」、それは漱石の内部と外部の問題が同時に突出したものではなかったか。しかし、今までは内部の方に重点が置かれてきたような気がする。

漱石は晩年病気に苦しんでいた。漱石の肉体問題、それは当然津田の肉体にも投影され、津田の精神まで刺激していたのであろう。その精神と肉体の対立、そして物質主義と精神主義、そのような世界が「明暗」にはくっきりと根を下ろしているような気がしてならない。

一通の手紙に象徴される津田と小林の対立も、そこから例外ではなかろう。それこそ漱石が明治社会に違和感を感じ、苦悩し続けていた根本的な問題ではなかったか。それで、そこには精神まで浸透するメカニズム世界への警告のメッセージが込められているといえる。「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」と原にいう小林の言説に痛快さまで覚えられるからだ。

そのような漱石の苦悩が肉体まで浸透し、「明暗」執筆中の漱石を如何に苦しめるものであったか言うまでもない。彼を苦しめたのは胃潰瘍だけではなかった。1915年12月からはリューマチを病んで、1916年1月にはリューマチ治療のため、一人で、湯ヶ原の天野屋に出かけた。しかし、漱石の肉体は衰弱し、東京大学医学部真鍋嘉一郎からは糖尿病診断まで受ける。漱石は世界戦争の真っ盛りに死に向かって一歩ずつ前進していたのである。

清水茂は次のように述べている。「「門」の「宗助」の内部に進行していた「神経衰弱」と「結核性のもの」は、生きながら死に、死につつ生きている空しい<時>のなりゆきの中での生存の<不安>そのものであった。「津田」の痔癆の「結核性」そのものに、これとおなじ暗喩性、暗示性があるとはおもわれない。が、その「結核性」の有無について、無しとする「医者」の断言が、かえって残した一脈の<不安>感そのものに、小説の展開への暗示性がよみとれる」という。「『明暗』にかんする断想」(『作品論 夏目漱石』双文社、一九七六年)

その<不安>が「社会に対する深い同情」を齎していると思われる。
http://home.naver.com/k6738157/   

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172.Re: 一通の手紙
名前:金正勲    日付:2006/4/3(月) 11:40
ご指摘の通り「手紙を読んだ直後の津田の感想」、つまり「人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ」という文章にも省察の目が照らされていると思います。

津田と小林の対立はその「位置の懸絶」から起因するものではないでしょうか。
それは<特別な人間>と<普通の人間>の対立の問題でもあり、漱石はそのような「社会に対する深い同情」を持って、それを相対的な視点から見下ろしていた思います。

先生の文章を通し、私の問題意識も広がっているような気がします。   

164.乃木大将の殉死について 返信  引用 

名前:みっちゃん    日付:2006/3/1(水) 13:54

伺いたいのです。明治天皇の崩御、乃木大将の殉死を当時の人々はどう受け止めたのでしょうか?特殊な出来事だったのか、広く共感を呼んだのか?その当時、他にも多くの後追い自殺があったとすれば、「こころ」の中の「明治の精神に殉死する」という言葉は、今の私たちには思いもよらぬほどの説得力を持っていたのかもしれないですよね。後追い自殺をする人が多かったと書いてあるものもあるのですが、裏付けとなる具体的なデータがあれば教えていただけませんか? 

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165.Re: 乃木大将の殉死について
名前:伊豆利彦    日付:2006/3/1(水) 14:46
具体的なデータは知りませんが、漱石が「こころ」を書く直前に「模倣と独立」という講演で、次のように述べている。

乃木さんが死にましたろう。あの乃木さんの死というものは至誠より出でたものである。けれども一部には悪い結果が出た。それを真似して死ぬ奴が大変出た。乃木さんの死んだ精神などは分らんで、唯形式の死だけを真似する人が多いと思う。そういう奴が出たのは仮に悪いとしても、乃木さんは決して不成功ではない。結果には多少悪いところがあっても、乃木さんの行為の至誠であるということはあなた方を感動せしめる。それが私には成功だと認められる。

具体的な自殺者の数については、誰か知っている人に教えてもらいたいと思います。    

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166.Re: 乃木大将の殉死について
名前:みっちゃん    日付:2006/3/1(水) 16:12
お返事、ありがとうございました。漱石自身が「それを真似して死ぬ奴が大変出た。」と書いているのだから、それを踏まえて「こころ」を書いているのは、たしかですね。「明治の精神に殉死する」という言葉は、当時かなり受け入れやすい理由だったのですね。おかげさまで疑問が氷解し、とても嬉しいです。本当にありがとうございました!!   

160.「趣味の遺伝」の一節 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/2/15(水) 9:16

旅順のたたかいで、浩さんは隊の先頭に立って突進し、敵の塹壕に飛び込んだが、そのままあがって来る事はなかった。

以下、「趣味の遺伝」から

塹壕に飛び込んだ者は向へ渡すために飛び込んだのではない。死ぬために飛び込んだのである。彼らの足が壕底に着くや否や穹窖より覘を定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬く間に彼らを射殺した。殺されたものが這い上がれるはずがない。石を置いた沢庵のごとく積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横わる者に、向へ上がれと望むのは、望むものの無理である。横わる者だって上がりたいだろう、上りたければこそ飛び込んだのである。いくら上がりたくても、手足が利かなくては上がれぬ。眼が暗んでは上がれぬ。胴に穴が開いては上がれぬ。血が通わなくなっても、脳味噌が潰れても、肩が飛んでも身体が棒のように鯱張っても上がる事は出来ん。二竜山から打出した砲煙が散じ尽した時に上がれぬばかりではない。寒い日が旅順の海に落ちて、寒い霜が旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して二十の砲砦が悉く日本の手に帰しても上る事は出来ん。日露の講和が成就して乃木将軍が目出度凱旋しても上がる事は出来ん。百年三万六千日乾坤を提げて迎に来ても上がる事は遂に出来ぬ。これがこの塹壕に飛び込んだものの運命である。しかしてまた浩さんの運命である。蠢々として御玉杓子の如く動いていたものは突然とこの底のない坑のうちに落ちて、浮世の表面から闇の裡に消えてしまった。旗を振ろうが振るまいが、人の目につこうがつくまいがこうなって見ると変りはない。浩さんがしきりに旗を振ったところはよかったが、壕の底では、ほかの兵士と同じ様に冷たくなって死んでいたそうだ。 

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161.Re: 「趣味の遺伝」の一節
名前:伊豆利彦    日付:2006/2/15(水) 9:33
この兵士たちは靖国神社にまつられたのであろうか。   

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162.Re: 「趣味の遺伝」の一節
名前:伊豆利彦    日付:2006/2/15(水) 17:20
前節につづいて、残された浩さんの母について、漱石は次のように書いている。

 ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。然し浩さんはまだ坑から上って来ない。図らず新橋へ行って色の黒い将軍を見、色の黒い軍曹を見、脊の低い軍曹の御母さんを見て涙まで流して愉快に感じた。同時に浩さんは何故壕から上がって来んのだろうと思った。浩さんにも御母さんがある。この軍曹のそれの様に脊は低くない、又冷飯草履を穿いた事はあるまいが、もし浩さんが無事に戦地から帰ってきて御母さんが新橋へ出迎えに来られたとすれば、やはりあの婆さんの様にぶら下がるかも知れない。浩さんもプラットフォームの上で物足らぬ顔をして御母さんの群集の中から出てくるのを待つだろう。それを思うと可哀そうなのは坑を出て来ない浩さんよりも、浮世の風にあたっている御母さんだ。塹壕に飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。娑婆の天気は晴であろうとも曇であろうとも頓着はなかろう。然し取り残された御母さんはそうは行かぬ。そら雨が降る、垂れ籠めて浩さんの事を思い出す。そら晴れた、表へ出て浩さんの友達に逢う。歓迎で国旗を出す、あれが生きていたらと愚痴っぽくなる。洗湯で年頃の娘が湯を汲んでくれる、あんな嫁が居たらと昔を偲ぶ。これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。然し親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪の中から折れたと同じ様なものでしめ括りがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一が帰って来たらばと、皺だらけの指を日夜に折り尽してぶら下がる日を待ち焦がれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。白髪は増したかも知れぬが将軍は歓呼の裡に帰来した。色は黒くなっても軍曹は得意にプラットフォームの上に飛び下りた。白髪になろうと日に焼けようと帰りさえすればぶら下がるに差し支えはない。右の腕を繃帯で釣るして左の足が義足と変化しても帰りさえすれば構わん。構わんと云うのに浩さんは依然として坑から上がって来ない。これでも上がって来ないなら御母さんの方からあとを追いかけて坑の中へ飛び込むより仕方がない。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/syumino.htm   

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163.Re: 「趣味の遺伝」の一節
名前:伊豆利彦    日付:2006/2/15(水) 9:51
浩さんの母親は靖国に参拝して慰められただろうか。

「趣味の遺伝」については、「平和新聞」に次の紹介を書いた。
『文学に見る戦争と平和』 第八回 夏目漱石 「趣味の遺伝」

興味のある方はご一読ください。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/syumino.htm    

159.『韓国語リスニング』(三修社、2006年2月20日)を刊行 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2006/1/30(月) 18:27

日本の出版関係者に依頼され、そのうち韓国語テキスト作業をやってきましたが、いよいよそのテキストが刊行されました。

本題は『韓国語リスニング』(三修社、2006年2月20日)です。
分かりやすい本ですので、CDで会話文を聞きながら本に目を通すだけで十分だと思います。

韓国語を学ぶ人や韓国へ旅行に行く人が毎年増えています。

日本留学の経験のある私にとって、嬉しいときは、韓国語を学ぶ日本人学習者が毎年増えつつあるというお便りに接する際です。

日本の皆さんが韓国語を学び、韓国に来られ、韓国の文化を理解したうえで韓国人と付き合うことは非常に大切なことだと思います。

このことを知っているから、私は韓国で、韓国から日本へ旅行に行く観光客や日本語学習をする学生を対象にした日本語テキスト開発の仕事も怠けておりません。

韓国人が日本語を理解すること、また日本人が韓国語を学ぶことは、より充実した韓日交流のためにも絶対に必要なことだと思います。

韓国の皆さん、日本に行って寿司を食べましょう。
日本の皆さん、韓国に来られ、本場のキムチを食べてみませんか。

2006年には韓日交流を深めるのに最善を尽くしたいと思います。

よろしくお願い申し上げます。
http://www.sanshusha.co.jp/np/details.do?goods_id=2593   

158.新規掲載 「明暗」の時空 「日本文学」84年1月  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/1/20(金) 17:21

20年も前の論文ですが、金正勲さんが「明暗」論を書こうとしているので、旧稿をuploadしてみました。

今の私は大戦の最中の作品で、戦争との関わりに関心がありますが、この年1月の「点頭録」との関係で考えると、<大きな自然>の問題と、大戦の問題は同時にとらえられるのではないかと思っています。
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/meiannojikuu.htm   

157.漱石の病気、そして『明暗』 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2006/1/12(木) 22:47

漱石の病気と世界大戦の問題、それを核として念頭におきながら津田の病気に焦点を当て、『明暗』を読み取った。
つまり、津田の病気に世界戦争の影が根を下ろしているという視点から、病気のことを詳しく探ってきたのである。

言ってみれば、津田の病気には漱石の病気が生々しく生かされている。
「漱石は痔の治療のために佐藤病院に通院しており、後にその経過を素材として『明暗』を書くが、『明暗』にはこの不安な心情がはっきりと書き表されている」(「漱石と天皇制」93ページ)わけである。

ところで、その「不安な心情」はどこから来たのであろうか。
それは漱石の内部と外部両面に潜在している根本的な問題であり、その激動の時代を生きた漱石の抱える苦悩でもあった。

漱石は死の年であった1916年の年明けにそれを『点頭録』に凄絶に吐露している。
かつて漱石の文章にそれほど露骨な表現は見られなかったが、前例のない生々しい声であった。
如何に漱石が当時精神的・肉体的疲労に陥られていたか言うまでもない。

そのエッセイに続き、漱石は最後の小説『明暗』を書いた。
それ故『明暗』は漱石の内部の戦いと外部の戦いが同時に展開されている小説であり、ここにはそれが津田の病気を通じて徹底的に形象化されているような気がしてならない。

要するに津田の病気を軸に作品が展開されていると思われるほど、「明暗」中に津田の病気は重要な伏線として働いているが、同時に津田の病気は非常に象徴的な意味網を形成していると言ってよい。
『硝子戸の中』からの「病気の継続」が、「明暗」においては津田の病気として露になっているわけだ。

漱石は、世界大戦の真っ盛りであった1916年、『明暗』執筆中に病気と格闘しながら、その身でまた「病気と戦争する」人間津田を描いた。
だから、一方漱石は「欧州の大乱」を意識しながら津田の病気を描いていたはずである。

漱石は、津田の病気を自分が経験した病気の意味よりはるかに重要に考えていたのであろう。
津田の「主観をこえた肉体の問題」を浮き彫りにする意味はここにあるのであり、それがこの作品の持つ特徴ともいえよう。

156.漱石の新年 「門」と「道草」 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/1/8(日) 9:45

[道草]
159 彼の頭には明日の日の丸が映った。外を乗り回す人の絹帽子の光が見えた。洋剣サアベルの音だの、馬の 嘶イナナキだの、遣羽子の声が聞えた。彼は今から数時間の後又年中行事のうちで、尤も人の心を新にすべく 仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。
陽気そうに見えるもの、賑やかそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の臂を把って、一所に引張って行こうとするものは一つもなかった。彼はただ饗宴に招かれない局外者として、酔うことを禁じられた如くに、又酔うことを免れた人であった。彼は自分と御米の生命ライフを、毎 年平凡な波瀾のうちに送る以上に、面前マノアタリ大した希望も持っていなかった。こうして忙しい大晦日に、一人家を守る静かさが、丁度彼の平生の現実を代表していた。

百一
 歳が改たまった時、健三は一夜のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。
「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ」
 実際彼の周囲には大晦日も元日もなかった。悉く前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見て御目出とうというのさえ厭になった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。
 彼は普通の服装をしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬木立と荒た畠、藁葺屋根と細い流、そんなものがぼんやりした彼の眼に入った。然し彼はこの可憐な自然に対してももう感興を失っていた。
 幸い天気は穏かであった。空風の吹き捲らない野面には春に似た靄が遠く懸っていた。その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の身体を包んだ。彼は人もなく路もない所へわざわざ迷い込んだ。そうして融けかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に佇立んでいる間に、気分を紛らそうとして絵を描いた。然しその絵があまり不味いので、写生は却って彼を自暴にするだけであった。彼は重たい足を引き摺って又宅へ帰って来た。途中で島田に遣るべき金の事を考えて、不図何か書いて見ようという気を起した。

 赤い印気で汚ない半紙をなすくる業は漸く済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼はまた洋筆を執って原稿紙に向った。
 健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また己れの病気に敵討でもしたいように。彼は血に餓えた。しかも他を屠る事が出来ないのでやむをえず自分の血を啜って満足した。
 予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
 「ああ、ああ」
 彼は獣と同じような声を揚げた。

「門」
[16]☆161 足駄 下町 164 「実際正月と云うものは予想外に煩瑣ウルサいものですね。
◆◆それで今日の 昼から、とうとう塵世を遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。
◆◆◆すると今度は急に退屈に・・・・然し、いくら退屈だって、この上御目出度いものを見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし・・・それで、御正月らしくない、と云うと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のない貴方、・・・・超然派の一人イチニンと話し がしてみたくなったんで・・・

◆宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があった。そうし て時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物になりはしなかったろうかと考えた。   

153.「虞美人草」から 悲劇論 その1 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/1/4(水) 16:26

「悲劇は遂に来た。来るべき悲劇はとうから預想していた。預想した悲劇を、為すがままの発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世に跨がる業を根柢から洗わんが為である。不親切な為ではない。

隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目を揺かせば一目を眇す。手と目とを害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意に外ならぬ。 

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154.Re: 「虞美人草」から 悲劇論 その1
名前:伊豆利彦    日付:2006/1/8(日) 9:9
この言葉は、明治以来の日本の歴史を予言的に要約している。
日本は戦争の道を歩いて1945年の破滅に至った。

戦争に反対するものは次々に投獄され、拷問され、殺されさえした。

日本のその道は<近代化>の道であったろう。
そのことについて今年は考えたい。

戦後の日本は60年、<近代化>の道をあるいてふたたび破滅の切迫を痛感させられる時代を迎えた。

漱石の言葉がますます身に沁みる時代になった。   

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155.Re: 「虞美人草」から 悲劇論 その1
名前:伊豆利彦    日付:2006/1/8(日) 9:1
隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目を揺かせば一目を眇す。

日本の現実を憂い、それを正そうとしたものたちは次々に弾圧された。
検挙され、投獄され、拷問され、殺されさえした。

「吾輩は猫である」に次の言葉がある。

然し猫の悲しさは力づくでは到底人間には叶わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、如何に此方に道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒の如く不意に肴屋の天秤棒を喰う恐れがある。理は此方にあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択ぶのである。

漱石は卑怯な人間だった。

中野重治の小説に、
漱石は素町人だ。暗い男だ。卑怯な人間で、逃げて逃げて逃げまくったのだという言葉があった。

中野は豪傑をもって自ら任じていたのだろう。

中野は漱石を軽蔑し、森鴎外に天晴れな敵を見た。
中野は美しいものを求め、自らを美しいものしようと努力した。
ときに、美しいものであるかのように錯覚し、美しいものとしてふるまった。
中野の転向について考える。
中野のロマン主義について考える。

この頃、私は中野に感心しながら、しかし、疑わしく思うようになった。

漱石は自己の暗黒を見ていた。
自己の弱さ、卑怯を自覚していた。
漱石は普通の人を尊敬した。
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000102032   

152.新掲載  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2006/1/4(水) 10:2

日々通信 いまを生きる 
第188号 2006年1月1日 また正月が来た new

漱石の「点頭録」について書いた。
年末に偶然テレビで柳沢桂子さんの「般若心経」についての話を見て、漱石の無の思想について考えた。

無の自覚と自己の社会的責任の自覚が結びつく<一体二様>の思想に漱石の特徴がある。
自己を無と自覚することによって、自己をしばる<自我>意識から解放され、自由な存在として、世界を自我中心から解放された新しい眼で見、自由に積極的に世界を認識し、行為する。

これに関連して、宮沢賢治の<宇宙の微塵となりて>という思想にあらためて眼が開かれた。

宮沢の根柢には「法華経」があるという。

「春と修羅」の序は次の言葉ではじまっている。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

私は<実体>ではなくて<現象>なのだ。
この言葉がながく私の心に残っていた。
さまざまな現象の結合、交差する場所としての私、いまというとき、いまという世界を離れて私はない。
100年前には私は決して存在することがなかったのだ。
私は固定して動かぬ実体ではない。
私は世界の中心ではない。
私は世界をどうすることもできない。
世界があって私がある。世界の中に私はある。歴史を私は生きる。歴史の中に私はある。
私があって世界があるのではない。私があって歴史があるのではない。

<年頭に際して、自分は此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした迄である。>

<古仏と云われた人の真似も長命も無論わが分ではないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於いての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽そうと思うのである。自分は点頭録の最初に是丈の事を云っておかなければ気が済まなくなった。>

私もこの<一体二様>考えを抱いて、<羸弱なら羸弱なりに>いまに生きることを感謝し、激動するいまを生きたい。
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2006/01/188_2006__c076.html   

148.漱石の病気、そして『明暗』 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2005/12/30(金) 8:55

津田の病気は正確に言えば痔瘻(穴痔)である。痔瘻は「肛門周囲の皮膚と肛門官粘膜の上皮細胞の表面間に伸びている肉芽組織と繊維組織で形成されている幹である」(ヤンヒョンキュ訳、Ian Finlay著書)。

胃腸病大辞典(http://www.ichou.jp/ency/DXansX/jiro.html)にはその病態について「穴痔と言われてきました。肛門の奥から細菌が入って肛門周囲が化膿したものを肛門周囲膿瘍と言います。そして、細菌の通過した穴を痔ろうといいます」と、

そして治療については「肛門周囲膿瘍は強い痛みと熱感を生じます。この段階では切開により早急に膿(うみ)を出すことが必要です。(応急処置)。そして、痔ろうはそのままにしておくと再び化膿し肛門周囲膿瘍を伴う」(胃腸病大辞典)と書かれている。

治療法において現代とは異なるところもあるだろうが、今の時点からみても本文の内容は十分通用するものである。(専門医者に確認完了)津田は言ってみれば肉芽組織で出来ている瘻管を切開する手術を受けたに違いない。痔瘻の治療にはその肉芽組織で出来ている瘻管を除去するよりいい方法はないと言われているからだ。

ただ手術の方法においては、患者の病状によって、全体の瘻管を切除する「瘻管切除手術」と「瘻管切開手術」があるが(注)、津田の場合はどれに当てはまるだろう。漱石の日記には「正午痔瘻の切開」と書かれ、「切開」という用語が用いられているだけで、「切除」という言葉はない。色々な病症から推測してみるのだが(注)、「瘻管切除手術」を受けたとしたら、「皮膚欠損を生じ、治癒期間が長くなる」恐れもあり、「括約筋」の損傷が酷くなる可能性もある。(注)

しかし、「瘻管切除手術」を受けたか、「瘻管切除手術」を受けたか医学に専門的知識が乏しい私には分からない。もし専門家なら「括約筋を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰められるんですか」(153)と聞く津田に「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜に三分ほど削り上げた所があるのです」(153)という医者の言葉から推察できなくもないだろう。
http://home.naver.com/k6738157 

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149.Re: 漱石の病気、そして『明暗』
名前:金正勲    日付:2005/12/30(金) 8:42
漱石は手術して4日後、10月1月に次のように記している。

「10月1日(火)十一時浣腸。
ガーゼを取り替へる。
瓦斯[ガス]多量に出る。
便は軟便にて少々なり。
「出血はありましたか」と聞く。
「是が癒り損なつたらどうなるでせう」
「又切るんですさうして前よりも軽く穴が残るのです」
心細い事である。
「なに十中八九迄は癒るのです」
「三週間遅くて四週間です。」
「括約筋をどうして切り残して下からガーゼが詰められるのですか」「括約筋は肛門の出[口]にやありません。五分程引込んでゐます。夫を下からハスに三分程削り上げた所があるのです。括約筋の三分一です」
瘡のない右の方がはれて苦しい。
床の中でぢつと寐てゐる。
あしたから通じをつけると云って腹のゆるむ薬を一日三回に飲む。」   

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150.Re: 漱石の病気、そして『明暗』
名前:水川景三    日付:2005/12/30(金) 15:36
1911(明治44)年9月、第一回目の痔瘻切開手術を受けて後状況はなかなかによくはならず、2ヶ月経っても「痔が癒り損なつて未だ尻に細い穴が出来てゐる、是が結核性で追つて腸結核にでもなつちあ夫限りだと心細い事を考へたりしてゐる。実際そんな例もあるのだからな」(11月22日野村伝四宛)と書いています。漱石は痔には悩まされたでしょうが、命奪われる危急の病とは思っていなかったのではないでしょうか。

神経が集中する軟弱部を切られる生理的な戦慄を津田は感じるのですが、それが結核へと結びつく恐怖には思いが至っていないようです。「根本的療治」が云々されても深くその意味をつかみきれないところにこそ津田の、津田的現代人の病があるのでしょう。

その間漱石の周囲には煤煙事件で三山の辞表提出、乃木自刃がありました。自らの命を賭して生きることの意味を問ういうことへの思いは強かったと思います。もちろん少し前には、自らの大患があり、大逆事件に殉じた者がいたということもそのことの思いを強めているだろうと思います。   

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151.Re: 漱石の病気、そして『明暗』
名前:金正勲    日付:2005/12/30(金) 16:25
水川さん、ありがとうございます。
確かに漱石の日記のどこを見ても「結核性」とは書かれていなせん。
私も多数の論者のご指摘もあり、津田の痔が「結核性」であるかという問題だけは考え直したいと思っているところです。

ただ漱石にとっては「命奪われる危急の病」ではなかったけれども、漱石は「明暗」で津田の痔を「危急の病」と思われるほど非常に大切な意味として描いていますね。

そのことを問題にしているのです。
http://nbbs.naver.com/nmulti/h_read.php?board_id=k6738157_0&nid=1789&page=2   

145.漱石の病気、そして『明暗』 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2005/12/27(火) 11:33

漱石は津田の手術場面を次のように描く。

浣腸の結果も十分でなかった。
津田はそれなり手術台に上つて仰向に寝た。冷たい防水布がぢかに皮膚に触れた時、彼は思はず冷りとした。堅い括り枕に着けた彼の頭とは反
対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向つて寝る人のやうに、少しも落ち付けなかつた。彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニツケル製の四角な浅い盆みたやうなものを持つて彼の横を通つたので、白い金属製の光がちらちらと動いた。仰向けに寝てゐる彼には、それが自分の眼を掠めて通り過ぎるとしか思はれなかつた。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸み見たのだといふ心持が猶のこと募つた。(略) 

切物の皿に当つて鳴る音が時々した。鋏で肉をじよきじよき切るやうな響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。津田は其度にカーゼで拭き取らなければならない赤い血潮の色を、想像の目で腥ささうに眺めた。ぢつと寝かされてゐる彼の神経はぢつとしてゐるのが苦になる程緊張して来た。むづ痒い虫のやうなものが、彼の身体を不安にするために、気味悪く血管の中を這ひ廻つた。(四十二)

しかし、念頭におかずにいられないのは、手術後津田が医者から「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分凝としてゐて下さい」という注意を受ける事実である。手術したにもかかわらず、「瘢痕が案外堅い」、「出血の恐れ」がある。

佐藤から切開手術を受けて3ヶ月も経たない時点、漱石は1911年12月8日の日記に「佐藤さんへ行く痔が癒るやら癒らぬやら実以て厄介である」と書いた。そして痔の病気が再発し、その翌年1912年9月26日には佐藤から再手術まで受けている。

漱石はそれを、「正午痔癆(瘻)の切開。前の日は朝パンと玉子紅茶。昼は日本橋仲通りから八丁堀茅場丁須田丁から今川小路迄歩いて風月堂で紅茶と生菓子。晩は麦飯一膳。四時にリチネヲ飲んで七時に晩食を食ふたが一向下痢する景色なし、翌日あさ普通の如く便通あり。十時頃錦町一丁目十佐藤医院にきて浣腸。矢張り大した便通なし。十二時消毒して手術にかゝる。コカイン丈にてやる。二十分ばかりかゝる。瘢痕が存外かたいから出血の恐れがあるといふので二階に寢ゐる。括約筋を三分一切る。夫がちゞむ時妙に痛む。神経作用と思ふ。縮むなといふideaが頭に萌[きざ]すとどう我慢しても縮む」(9月26日の日記)と記しているから、生々しい証言として残っているのだが、如何にその病気が治らない病気であるか実感したに違いない。

手術したが、「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがあ」る状態の津田の病気はどうなっていくだろうか。はたして治るだろうか。
http://home.naver.com/k6738157 

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146.Re: 漱石の病気、そして『明暗』
名前:伊豆利彦    日付:2005/12/27(火) 16:5
>「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがあ」る状態の津田の病気はどうなっていくだろうか。

手術後の医者の言葉は

「瘢痕が案外堅いんで、 出血の恐れがありますから、 当分凝としていて下さい。」

津田はこの注意を無視し、医者に相談もせずに温泉に行く。
温泉で出血することになるのは予告されているようなものではないだろうか。
http://nbbs.naver.com/nmulti/h_read.php?board_id=k6738157_0&nid=2611&page=1   

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147.Re: 漱石の病気、そして『明暗』
名前:伊豆利彦    日付:2005/12/27(火) 16:12
津田が出血して倒れれば、お延も吉川夫人もお秀も、皆集まってくることになる。
そして小林もくることになれば、全員集まる大団円となるのだろう。

津田とお延がともになにより大事にしていた<自尊心><プライド>が一挙に崩壊する。そして、そこに、新しい<復活の曙光>が射すのだろう。

弱点を相互に露出することによって成立する新しい関係である。
そこまで行くか。
また、途中でひっかかるか。
そこに、作品としての「明暗」の問題があるが、それはどうでもいいのではないか。
解決が問題ではなくて、問題の露出が重要なのだ。
http://nbbs.naver.com/nmulti/h_read.php?board_id=k6738157_0&nid=2611&page=1   

144.人間の不安は科学の発展から来る。 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/12/26(月) 8:36

「行人」人間の不安は科学の発展から来る。

[32]336 「こうして髭を生やしたり、 洋服を着たり、 シガーを銜えたりするところを上部から見ると、 如何にも一人前の紳士らしいが、 実際僕の心は宿なしの乞食みたように朝から晩までうろうろしている。 二六時中不安に追い懸けられている。 情けない程落付けない。 仕舞には世の中で自分程修養の出来ていない気の毒な人間はあるまいと思う。 そういう時に、 電車やなにかで、 不図眼を上げて向う側を見ると、 如何にも苦のなさそうな顔に出っ食わすことがある。 邪念の萌さないぽかんとした顔に注ぐ瞬間に、 僕はしみじみ嬉しいという刺激を総身にうける。 僕の心は旱魃に枯れかかった稲の穂が膏雨を得たように蘇える。 同時にその顔--何も考えていない、 全く落付払ったその顔が、 大変気高く見える。
◆ ほとんど宗教心に近い敬虔の念をもって、 その顔の前に跪いて感謝の意を表したくなる。 自然に対する僕の態度も全く同じ事だ。 昔のように唯うつくしいから玩ぶという心持は今の僕には起こる余裕がない」
337 「人間の不安は科学の発展から来る。 進んで止まることを知らない科学は、 かつて我々に止まることを許してくれたことがない。 徒歩から俥、 俥から馬車、 馬車から汽車、 汽車から自動車、 それから航空船、 それから飛行機と何処まで行っても休ませてくれない。何処まで伴れて行かれるか分からない。 実に恐ろしい。」
◆「人間全体が幾世紀かの後に到着すべき運命を、 僕は僕一人で僕一代のうちに・・・ 僕は人間全体の不安を、 自分一人に集めて、 そのまた不安を、 一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している。   

143.二十世紀の堕落 道義慾の崩壊  欧洲から押し寄せた海嘯 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/12/26(月) 8:30

二十世紀の堕落 道義慾の崩壊  欧洲から押し寄せた海嘯

 代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈していた。又これをこれ等新旧両慾の衝突と見傚していた。最後に、この生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。   

142.大逆事件前後 修善寺の大患と四つの講演 new 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/12/20(火) 2:44

新規に掲載しました。
http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/   

139.<継続中>の思想 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/12/16(金) 6:23

<継続中>の思想は「夢十夜」第三夜の罪の自覚に連なり、<父母未生以前>の思想に連なるのでしょう。

そしてそれは「オシアン」「カリツクスウラ」に連なる。
さらに、英詩の天地未分のときの幻想に連なる。

<継続中>の思想を軸に漱石の生涯と全文学が照らし出される。
そこに「こころ」から「道草」、「明暗」へと展開する漱石の世界があるのだと思われる。 

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140.Re: <継続中>の思想
名前:金正勲    日付:2005/12/17(土) 11:31
津田の病気は<継続中>であり、馬車に乗って温泉に向かう彼の心境からも病気の治療に自意識が抜けていることが読み取れます。

こうして夜路を馬車に揺られて行くのも、有体に云えば、その人の影を一図に追かけている所作に違なかった。御者は先刻から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止せばいいと思うのに、濫りなる鞭を鳴らして、しきりに痩馬の尻を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身?    

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141.Re: <継続中>の思想
名前:伊豆利彦    日付:2005/12/17(土) 18:27
次の言葉は、<継続中>の思想と深く関わっていると思います。
そして、それは<自然の理>の思想と連続していると思います。

 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て篏めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他から牽制を受けた覚がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅の方へ歩いて行った。
http://www.yamaguchijiro.com/   

137.「道楽と職業」と人間疎外 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/12/14(水) 21:46

「道楽と職業」は関西の四つの講演の最初のもので、具体的な現象の分析を通して、日本社会=文明社会の矛盾=本質に迫ろうとした。

金正勲訳『 私の個人主義 他』に寄せた私の解説「漱石の『自己本位』」に私は次のように書いた。

<分業化が進んだ現代社会では、職業が多様化し、細分化して、人々はごく限定され、専門化された仕事に閉じ込められ、「不具」化される。「開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になってしまう」のである。学者にしても、いまの学者は専門以外には何も知らない「不具」が揃っている。自分なども「完全な人間をますます遠ざかって、実に突飛なものになり終せて」しまったと漱石は言う。>

水川さんが指摘した人間の自己疎外の問題である。

自己を「片輪」な人間と認識するところに漱石の後期文学は出発する。
「彼岸過迄」の須永も松本も「片輪」な人間だ。
「行人」の一郎、「こころ」の先生も同様だ。

「道草」の健三、「明暗」の津田もそうだ。

これは、「創作家の態度」の偏見論に通ずるものであり、漱石の全作品の作中人物についていえることだが、これまでの漱石論ではこの認識が乏しかったのではないか。

漱石の文学は近代的な自我主義では解けない。
その発展の自己否定論でも解けない。

この問題は作家的出発以来のものだが、後期においていっそう深められた。

「明暗」は自己の優越性を誇る「片輪」な津田やお延の挫折の物語だ。
それは、近代主義の敗北だ。

近代主義の特徴は自己の優越性を追求し、勝とう勝とうとすることだ。
それは戦争の論理だ。
戦争は近代主義の必然の帰結だ。
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/sou@jikohoni.htm 

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138.Re: 「道楽と職業」と人間疎外
名前:伊豆利彦    日付:2005/12/14(水) 21:55
初期の漱石は他を批判したが、後期の漱石は自己を徹底して批判した。
他を攻撃するのではなくて、内部に血を流したのである。

<彼は血に餓えた。しかも他を屠る事が出来ないのでやむをえず自分の血を啜って満足した。>

という「道草」の言葉はそのような漱石をあらわしている。

「明暗」の津田は漱石が見出したネガティブな自己像だった。
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/sou@jikohoni.htm 

133.津田の病気は「継続中」 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2005/12/8(木) 8:38

「明暗」は津田が痔の病気で医者に診察を受ける場面から始まる。
ところでその診察の場面は、医者の誤診によって再発する可能性と意外性を持つものとして描かれている。
それで、自分の体の局部にどんなことが起こるか分からないという不安に襲われる津田の苦悩が読み取れる。

その不安は当然肉体から精神に転移するものであると言ってよい。
いわば痔の病気は「がりがり掻き落し」ても、「まだ奥がある」状態であり、津田の肉体の奥底まで食い入っている。
しかし、一方では「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない」と呟くほど彼の精神を刺激するものであるに違いない。

実際漱石が痔の病気に苦しみ、手術まで受けたのは1911年である。
彼は2月長与胃腸病院に入院中に文部省から文学博士号授与の意向を伝えられた。
しかし、それを拒否し、辞退している。
文部省もしつこくせがみつく。

胃の病気に悩み、博士号授与の問題で文部省ともめ、愉快な気持ちではなかった漱石は8月大阪朝日新聞社から頼まれ、関西巡回の講演旅行にたった。
自分の「自己本位」の世界が他者によって脅かされるような不安を感じ、彼はそれに必死に抵抗したのであり、心身とも極度に衰弱していた。

そのような不愉快の事件、胃病からの肉体的疲労、精神的不安から少しも離れていないまま関西へ下った。
病気は局部まで浸透する。
真夏に無理をし、「道楽と職業」、「現代日本の開化」、「内容と形式」、「文芸と道徳」という講演を次々と行い、体を壊した彼は帰郷すると、神田区錦町(現千代田区神田)の医者佐藤恒祐を訪れる。
痔の病気の治療を受けるためであった。
その後通院治療をしてもなかなか治らず、ついに1912年9月26日佐藤に切開手術をしてもらい、10月2日まで入院している。

このように津田の痔の病気は、作家個人の体験とも結びついているのだが、ここで注意したいのは、漱石にとって病気というのは決して完治できるものではないという事実だ。
肉体的であれ、精神的であれ少なくともそれが人間にとって予想外深刻性を持つものであり、却って「行きどまり」が見えないほど悪化していく可能性を喚起させる。

津田の病気もすぐ治るものとしては決して書かれていない。
手術を受けたとして完治になる可能性は希薄である。
漱石は、手術後まもなく清子に会う目的で無理に温泉へ出かける津田の姿を描き込んでおくのを忘れていなかった。

「転地療養」とはいうものの、津田の外出は湯治療のためではなかった。
医学の立場からより綿密な検討が必要だが、津田の局部はどうなるだろう。
出かける津田を通して病気の悪化の可能性を予告していると言えば過言であろうか。

津田の病気は「継続中」である。
http://home.naver.com/k6738157/ 

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134.Re: 津田の病気は「継続中」
名前:水川景三    日付:2005/12/9(金) 21:41
冒頭の津田の痔疾の手術が、漱石自身の痔の手術を想起してのものであるなら、最晩年、この時期を想起しつつ「明暗」は構想されたということになるのでしょう。

 では、なぜ1911年なのかが気になるところで、ご指摘の通り1910年~11年は、漱石自身と社会情勢が激動した時代で、その間の距離のとり方が大変微妙に思えます。

 漱石に「拒否し、辞退」するプロテスト的側面と、沈思黙考する側面とが交差している、そんな時期ではないかと思います。

 そうした自己の、あるいは、津田の、吉川の階級の問題が批判されていくのではないかと思わせられます。津田を批判することは、自己批判でもあるのでしょう。自己を含めて見下ろして書いている作者漱石を感じます。

 津田の「病い」は、解決することなく継続し、日本の破滅へとつながり、そして、現代にも継続中なのだろうとの思いをもって読んでいます。そういう意味では、まさに仰るとおり病いの「悪化」しかないのだろうと思います。   

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135.Re: 津田の病気は「継続中」
名前:金正勲    日付:2005/12/10(土) 9:24
水川さん、西垣 勤先生の病気の具合はいかがですか。
今年西垣先生には本当にお世話になり、感謝の気持ちです。

さて、今年1月1日、年が明ける大事な瞬間、私はこの掲示板で伊豆先生、あなたと次のようなやり取りをしていた。

 正 勲 > 経って→経て (2005/01/01(Sat) 00:00:30)
水川景三 > 満韓の旅の意味、位置づけは大患に隠れて見えにくいのではないかと思いますが、おそらく大きな意味を持っていたのではないでしょうか。掲載していただいた上の正月文の暗さは異様な感じさえします。諧謔の意味とともにとらえなおすことが必要だと思います。今年もよろしくお願いいたします。 (2005/01/01(Sat) 11:13:02)
伊豆利彦 > 伊藤博文の暗殺について「門」のお米は「どうして、まあ殺されたんでしょう」とくりかえすが、宗助と小六の漫才のような受け答えではぐらかされてしまう。 (2005/01/02(Sun) 08:02:07)
伊豆利彦 > 漱石はなぜ伊藤が殺されたのかを考えていたのだろう。しかし、問を問のままに残して、とんちんかんな答えでごまかした。 (2005/01/02(Sun) 08:05:46)
伊豆利彦 > 書いたものと書かなかったもの、書かなかったものに漱石の作品にこめた思いがあるのかもしれない。 (2005/01/02(Sun) 08:09:06)
 正 勲 > 水川さん、よろしくお願いします。日本に規定された漱石論があるなら、新たな角度から日本の若い研究者によってどんどん打破されてほしいですね。 (2005/01/03(Mon) 08:13:29)
 正 勲 > 満韓旅行から帰国した漱石と、「門」で伊藤博文の暗殺について聞かれ、「運命」という言葉ではぐらかす宗助、そしてその時代を念頭において考えていきたいのですね。面白いものが出そうです。 (2005/01/03(Mon) 08:49:46)

その後、あなたがこの掲示板から見えなくなり、ちょっぴり淋しかったのです。

漱石が、1911年を想起しながら「明暗」の執筆に取り組んだのは間違いないでしょう。
あなたは大切な指摘をしておられるのです。

幸徳秋水ら12人が処刑された「大逆事件」、日本政府の民衆への弾圧、『青鞜』の創刊、朝鮮との関連などを念頭に置かずにはいられません。

漱石の病気や津田の病気は、このような時代状況と世界戦争中に「悪化」しているのです。

したがって、関西旅行に立つ漱石から痔の手術を受け、「明暗」を書く途中永眠する漱石までを追っていくと、津田の病気は明らかに見えてくるでしょう。

一方、津田の病気を追っていくことで、当時の漱石像も窺えると思います。

http://home.naver.com/k6738157/   

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136.Re: 津田の病気は「継続中」
名前:水川景三    日付:2005/12/11(日) 9:21
金正勲様、また年が移り変わろうとしているのですね。貴重なご指摘をいただきありがたく思います。西垣先生は、もう回復されたのではないかなと勝手に安心しているのですけれども・・・。「継続中」という概念は、大事な問題を含み込んでいるのだろうと思います。継続して考えて行きたいと思っています。

明石に来て「道楽と職業」を講演した中で、漱石は、社会発展に伴う個人の労働に於ける疎外の問題を衝きました。そして、真実追究の仕事をする人間は、他からの力で自己を変えさせられてはならないと明言しました。

「己を捨てなければ立ち行かぬように強いたりまたは否応なしに天然を枉げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥るのです。」

時代に徴してみると、時宜に適った、あるいはとても勇気ある発言であったと思うのです。「現代日本の開化」の社会批判もそうですが、トーンとしてこちらも共通するものがあると思わせられます。

「衝濤館」から波音を聞きながら時代を見据えていたのでしょう。今、そこからは明石海峡大橋が荒波を圧して架けられています。   

131.<継続中>について 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/11/30(水) 15:54

「継続中」は漱石の思想の中核をなすもので、この掲示板でも度々述べています。

韓国漱石研究会の報告、「過去と昔」
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/kankoku%20kouen%20sanbusaku.htm

「漱石と天皇制」10
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/souseki@tennousei.htm

漱石と現代  横浜市立大学最終講義
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/souseki1.htm

などにも論及しています。

「日々通信」66号には、蘆溝橋事件については、漱石の<継続中>という言葉と関連させて記しました。
http://homepage2.nifty.com/tizu/tusin/tu@66.htm

ホームページに掲載していないものでも、私の「明暗」論、「道草」論ではそれに論及しているはずです。

参考にしていただければ幸いです。 

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132.Re: <継続中>について
名前:伊豆利彦    日付:2005/12/7(水) 8:1
<継続中>の思想と同時に<変化>の思想が漱石の思考の中核にある。
この二つは矛盾していないか。
漱石の論理は矛盾の論理である。
漱石の思想、その創作方法は徹底して弁証法的である。   

129.再掲 セルマの歌 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/11/28(月) 9:16

漱石の翻訳 セルマの歌 をupしました。
「セルマの歌」を電子化してupしました。
英国から帰国した直後、神経衰弱がひどくて、しきりに英詩を書いたり、画を描いたりしていたときの作品です。

「オシアン」からの翻訳ということですが、当時の漱石は、このような浪漫的な精神状態だったようです。

家と家、氏族と氏族、民族と民族、国と国、対立は対立を呼び、ふくしは復讐を呼ぶ。

親をうしない、兄をうしない、恋人をうしない、悲しみに暮れる女、しかし、その悲しみから立ち上がり、復讐を誓う。

日露戦争の前夜でした。

これは「幻影の盾」になります。
そして晩年の「硝子戸の中」の<継続中>という思想になるのでしょう。

この悲劇の思想が「吾輩は猫である」を生んだということをどう考えるか。

漱石の根柢に生きつづけたこの詩をどう考えたらいいか。
意見、感想を聞かせていただけたら幸です。 

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130.Re: 再掲 セルマの歌
名前:伊豆利彦    日付:2005/11/28(月) 11:39
この掲示板漱石の広場のアーカイブをアーカイブ掲示板1にuploadしました。
参考に利用してください。

http://homepage2.nifty.com/tizu/keijiban/keijiban1.htm
http://homepage2.nifty.com/tizu/keijiban/keijiban1.htm   

127.継続中 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/11/28(月) 9:6

「硝子戸の中」を読むと、戦争の問題と病気の問題、自分の生涯の問題が重なり合って想起される様子がよく分かる。

三十 継続中

 「そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょう」
 この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、「どうかこうか生きています」という挨拶をやめて、「病気はまだ継続中です」と改ためた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合に出した。
「私はちょうど独乙が聯合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入って、病気と睨めっくらをしているからです。私の身体は乱世です。いつどんな変が起らないとも限りません」
 或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。或人は黙っていた。また或人は気の毒らしい顔をした。
 客の帰ったあとで私はまた考えた。―― 

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128.Re: 継続中 つづき
名前:伊豆利彦    日付:2005/11/28(月) 9:12
<世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」>

そしてそれは「硝子戸の中」の

<客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時もはや彼らに向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。ただどんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。
 私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨ましく思っている。>   

125.漱石の病気、そして『明暗』 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2005/11/27(日) 12:52

漱石は1916年5月26日から東京、大阪の両「朝日新聞」に『明暗』を連載しはじめる。
そして、その2日後の5月28日の日記には次のように書いている。

 糖分の検査つづき。五月二八日(?)真鍋より電話。午、晩、二九日朝、の尿を例の如くパン三分一で試すといふ。二九日送る。三十一日電話にて報告あり。午の分に出る。是は朝脳を使ふ仕事(小説一回を書く)の為だめらうとの疑。是から毎週一回宛尿の検査をやるといふ。午の分に出た糖分は前のより少量なる由。真鍋の助手は研究のため自分の小便の表を作つてゐる由。(『日記』)

『明暗』を連載しはじめたばかりだが、漱石の体からは糖が出ている。それを我慢しながら彼は、痔の病気で、津田が医者に診察を受ける場面を描いていく。
自分は胃潰瘍と糖尿に苦しみながら、他人の痔の病気を描いていくのだ。肉体の苦しみに抵抗しながら医者に病気の診断を受け、手術を受ける津田を描かなければならないというような必然性はあったのか。
それから、はたしてそれはどのようなものであったのだろう。

その時代は、非常に混迷した状況の続きであった。
漱石が『明暗』を発表する2年前の1914年6月、ボスニアのサラエボでオーストリア皇太子夫婦がセルビアの民族主義者によって殺害される事件が発生している。
その事件が始発になり、ついにドイツとオーストリアを中心とした同盟国と、イギリスやフランスやロシアなどの連合国との世界戦争が勃発する。
「経済復興」という旗を揚げ、海外への商品市場の開拓と原料供給地の確保のため、勢力を拡大しつつあった帝国主義列強のヘゲモニー争奪戦から惹起されたその戦争は予想されるものであった。

1915年ドイツはベルギーでイギリスとフランスの軍隊にガスを噴射し、これによって多くの人命を失った連合軍側も以後、化学武器で応酬し、両方とも100万人以上の死傷者を出す惨劇を演出してしまう。

悲痛な現実を鋭い視線で直視していた漱石に、その戦争はどのように映るものであったのだろう。
戦争の恐怖と残虐について具象的な言及があまり見られなかったのだが、漱石の文章は、晩年にその本質的な問題について触れ、彼の潜在的な意識を表面に浮上させ、明確な表現として遺憾なくその腕前を発揮する。

1916年新年明けに発表した『点頭録』には、具体的で明瞭なメッセージが書き込まれていた。
当時新聞を読む読者は、漱石の文章にうなずいた筈だ。
この新年のエッセイに共感を覚えていない読者は一人もいなかっただろう。

その『点頭録』を引き継いで発表された最後の小説『明暗』には、そのような明瞭なメッセージが具体的な表現として描かれてはいない。

しかし、
http://home.naver.com/k6738157/ 

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126.Re: 漱石の病気、そして『明暗』
名前:伊豆利彦    日付:2005/11/28(月) 8:57
漱石は戦争を近代文明、人間生存の根柢にある<原罪>のようなものと思い、これをどう克服するかを問題にしたのだと思う。

漱石の戦争批判は近代文明批判であり、人間批判であった。
漱石は「明暗」を自己の生涯の総決算として書いたと思う。

「吾輩は猫である」以来の漱石文学の総決算として「明暗」を考察する必要がある。

さしあたっては、「私の個人主義」「硝子戸の中」「道草」「点頭録」などとの関連で「明暗」の問題を検討する必要があると思う。

繰り返しになるが、漱石が戦争の問題を近代文明と近代の人間の問題として追求したことが重要だと思う。

病気に苦しみ、死を、目前にひかえ、自己の生涯と近代文明のあり方そのものを根柢から解明し、根本的批評をくわえるところに「明暗」は成立した。

新掲示板1に<野間君>に対する返信として、漱石と日露戦争その他について、すこし書いた。

意見を聞かせてください。   

124.新掲載 「この宿なしの小猫」 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/11/23(水) 8:0

漱石は〈捨て猫〉に変身し、〈捨て猫〉の言葉で語った『吾輩は猫である』で、はじめて作家としての道を歩き始めた。

『坑夫』の主人公は家出して漂泊し、地の底まで迷って行く。『三四郎』の美禰子は自分を「お貰いをしない乞食」と言い、「迷子(ストレイシーフ)゚」と言う。

「明暗」の終りに近く、馬車で清子のいる温泉に向かう津田は、しきりに鞭打たれる惨めな痩せ馬を見て、自分自身をこの「彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物」と同じだと思う。津田は、「温泉烟ユケムリの中に乞食の如く蹲踞ウズクまる津田の裸体ハダカ姿」と形容されるのである。

〈捨て猫〉〈迷子〉〈乞食〉のイメージは、漱石の作品世界の裏と表に始めから終りまでさまざまな形であらわれ、漱石の文学世界をつらぬく一筋の赤い糸となっている。

http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/   

122.漱石とイプセン 返信  引用 

名前:原 伸一郎    日付:2005/10/31(月) 22:46

「戦争を語り継ぐ」MLでご高説拝読いたしております。漱石の研究者でいらっしゃる先生のお役には立たぬと思いながら一筆差し上げます。 私の父は 原 千代海(ちよみ)。イプセンの研究者でした。2006年、イプセンの没後百年まで生きていたいと願いながら、今年四月に98歳の天寿を全うしました。父は非常な読書家でもありました。漱石もずいぶんと読み込んでおりましたが、2003年、岩波書店の「図書」に四回連載で「漱石とイプセン」という一文を掲載いたしております。多くの人々にイプセンを読んで欲しいとの想いが、ある種の強引さ「あせり?」を感じさせるような筆致でつづられております。60歳を過ぎてからノルウエイ語を独学でこなし、80歳過ぎに未来車からイプセン全集を刊行した父のイプセンへの愛が、漱石の作品との対比で述べられております。ご興味がおありでしたらコピーをお送り申し上げますがいかがでしょうか。 

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123.Re: 漱石とイプセン
名前:伊豆利彦    日付:2005/11/1(火) 0:54
漱石はイプセンについて「三四郎」その他で書いていて、強い影響を受けたと思います。<漱石とイプセン>というテーマは魅力あるテーマです。私もイプセンには興味を持っています。父上のご労作を読ませていただければ、大変ありがたいことです。ぜひ、コピーを読ませてください。   

120.「虞美人草」から 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/15(土) 10:33

漱石の「虞美人草」に次の言葉がある。

「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気は中々已まないものだ」
「已まなくって好いから、突き当るのは真っ平御免だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工の好な人間がさ」   

117.「吾輩は猫である」 愛の第一義 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/12(水) 8:52

人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、
相互を残りなく解するというが愛の第一義
 
よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入(はい)って見るとなかなか複雑なもので十人十色(といろ)という人間界の語(ことば)はそのままここにも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。髯(ひげ)の張り具合から耳の立ち按排(あんばい)、尻尾(しっぽ)の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好き嫌い、粋無粋(すいぶすい)の数(かず)を悉(つ)くして千差万別と云っても差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌(そうぼう)の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相求むとは昔(むか)しからある語(ことば)だそうだがその通り、餅屋は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をいうと彼等が自(みずか)ら信じているごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすら分らない男なのだから仕方がない。 

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118.Re: 「吾輩は猫である」 愛の第一義
名前:伊豆利彦    日付:2005/10/12(水) 9:18
戦争は人間の認識を硬直化する。
彼は敵だ。敵は憎い。敵は殺せ。

戦争は逆上から生まれ、人を逆上に駆り立てる。
戦争の最中に書かれたのが「吾輩は猫である」だと思えば、さまざまなことが思われる。   

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119.Re: 「吾輩は猫である」 愛の第一義
名前:伊豆利彦    日付:2005/10/13(木) 8:2
ガンジー村通信 vol. 145に次の言葉がありました。新掲示板2から再録します。

【1】いま、私たちが深く考えるべき問題(15)横山紘一から

 日本は勝れた神の国であるという国家観は当然、他国を蔑視する態度につな
がっていきます。アジアの他の民族は弱く劣っている、だから強く勝れた日本
が、ヨーロッパ列国による植民地支配から、かれらを解放し、アジアに一大帝
国を建設しようという、次のようなスローガンが唱えられたのです。
「大東亜共栄圏を建設しよう」
「東亜新秩序を確立しよう」
そして、すでに幾度か記しましたが、

「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、各民族
ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立
セントスルニ在ル」

という東条英機の演説がなされたのです。
 「アジアの各国・各民族を解放し共存共栄の新秩序を確立する」という、一
見、美しい文句ですが、この裏には、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウ
ニ入レタ」意図が隠されていたのです。みずから「大東亜戦争」と称したその
戦争は、共存共栄をもたらすどころか、多くの人びとを殺すという残酷な結果
のみをもたらしたのです。
http://blog.mag2.com/m/log/0000131341 

114.「吾輩は猫である」勝とう勝とうの念 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/11(火) 19:31

彼等は糸瓜の如く風に吹かれて超然と澄し切っている様なものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。只その言語動作が普通の半可通の如く、文切り形の厭味を帯びてないのは聊かの取り得でもあろう。 

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115.Re: 「吾輩は猫である」勝とう勝とうの念
名前:伊豆利彦    日付:2005/10/11(火) 19:38
勝とう勝とうの念は近代の精神である。

最後の年の作品「明暗」のお延を駆り立てるのも<勝とう勝とう>の念だった。

「吾輩は猫である」は日露戦争の最中に書かれたが、「明暗」は第1次世界大戦の最中だった。   

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116.Re:  「明暗」 愛の戦争
名前:伊豆利彦    日付:2005/10/11(火) 19:51
夫婦ともに近代的な自我の所有者で<勝とう勝とう>の年に駆り立てられているならば、それは、毎日が<たたかい>ということになるのではないか。

毎日土俵の上で顔を合せて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻は何時でも夫の相手であり、又会には夫の敵であるにした所で、一旦世間に向ったが最後、何処までも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結び付けられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、耻ずかしくていられないというのがお延の意地であった。

愛の戦争という眼で眺めた彼等の夫婦生活に於て、何時でも敗者の位地に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼は已を得ず征服されるので、心から帰服するのではなかった。堂々と愛の擒になるのではなくって、常に騙し打に会っているのであった。お延が夫の慢心を挫く所に気が付かないで、ただ彼を征服する点に於てのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。   

112.漱石の言葉 新掲示板2から再録 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/11(火) 16:37

2788.漱石の言葉 返信 引用

名前:伊豆利彦 日付:10月11日(火) 15時42分
英国で中国人とまちがえられることが多かった夏目漱石は、日記に次のように書いた。

日本人ヲ観テ支那人トイハレルト厭ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリ遥カニ名誉アル国民ナリ、タダ不幸ニシテ目下不振ノ有様にニ沈淪セルナリ、心アル人ハ日本人ト呼バルヽヨリモ支那人と云ハルヽヲ名誉トスベキナリ、仮令然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ、少シハ考ヘテ見ルガヨカラウ、西洋人ハヤヽトモスルト御世辞ニ支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好キダトイフ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイトイフ御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ。

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2789.「吾輩は猫である」から
名前:伊豆利彦 日付:10月11日(火) 15時57分
元来黒は自慢をする丈(だけ)にどこか足りないところがあって、彼の気焔(きえん)を感心したように咽喉(のど)をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御(ぎょ)しやすい猫である。

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2790.「点頭録」から
名前:伊豆利彦 日付:10月11日(火) 16時0分
 個人の場合でも唯喧嘩に強いのは自慢にならない。徒(〔いたず〕)らに他(ひと)を傷(あや)める丈である。国と国とも同じ事(こと)で、単に勝つ見込があるからと云つて、妄(〔みだ〕)りに干戈(〔かんか〕)を動かされては近所が迷惑する丈である。文明を破壊する以外に何の効果もない。勝つたものは勝つた後(あと)で、其損害を償ふ以上の貢献を、大きな文明に対してしなければならない筈である。少なくとも其心掛がなくてはならない筈である。

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113.Re: 漱石の言葉 新掲示板2から再録 続
名前:伊豆利彦    日付:2005/10/11(火) 16:38
2791.Re: 漱石の言葉
名前:伊豆利彦 日付:10月11日(火) 16時4分
漱石が英国に留学していた時期は、中国で義和団事件がおこり、日本でも英国でも、中国に対する評判は散々だった。
中国を野蛮で蒙昧な後進国とし、軍隊を派遣して、これを鎮圧するのが当然だと思われていた。

八ヶ国連合が鎮圧に派遣され、北京にまで攻め込んだ。
日本は隣国だからというので、もっとも多くの軍隊を派遣し、もっとも勇敢に戦って、西洋人からほめられた。

これについて、英国留学中の漱石は次のように書いている。

  人は日本を目して未練なき国民といふ。数百年来の風俗習慣を朝食前に打破して毫も遺憾と思はざるはなるほど未練なき国民なるべし。去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味において未練なきかは疑問に属す。西洋人の日本を賞讃するは半ば己れに模傚し、己れに師事するが為なり。その支那人を軽蔑するは己れを尊敬せざるが為なり。彼等の称讃中にはわが国民の未練なき点をも含むならん。去れどもこれを名誉と思うは誤なり。深思熟慮の末去らねばならぬと覚悟して翻然として過去の醜穢を去る、これよき意味において未練なきなり。目前の目新しき景物に眩(くらま)せ られ一時の好奇心に駆られて百年の習慣を去る、これ悪しき意味においての未練なきなり。沈毅の決断は悔(くゆ)る事なかるべく、発作的の移動はまた後戻(あともど)リする事あるべし。日本人は一時の発作 にて凡ての風俗を棄てたる後また棄てたるものをひろひ集めつつあるなり。俳句は棄てられてま た興りぬ。謡は廃せられてまた興りぬ。

 

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2792.Re: 漱石の言葉 「思い出すことなど」
名前:伊豆利彦 日付:10月11日(火) 16時18分
 進んで無機有機を通じ、動植両界を貫(つらぬ)き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間(すきま)なく発展して来た進化の歴史と見傚(みな)すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁(ページ)を埋(うず)むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭(ひゃくせきかんとう)に上(のぼ)りつめたと自任する人間の自惚(うぬぼれ)はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯(さかのぼ)っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点(がてん)せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛(から)きジスイリュージョンを甞(な)めている。

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2793.Re: 漱石の言葉 
名前:伊豆利彦 日付:10月11日(火) 16時31分
「文芸と道徳」から

有体に白状すれば私は善人でもあり悪人でも――悪人と云うのは自分ながら少々ひどいようだが、まず善悪とも多少混った人間なる一種の代物で、砂もつき泥もつき汚ない中に金と云うものが有るか無いかぐらいに含まれているくらいのところだろうと思う。   

111.私の個人主義 レジメ  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/10(月) 11:58

権力 自分の個性を他人の頭の上に無理矢理圧し付ける道具
金力 他人の上に誘惑として使用し得る道具として至極重宝なもの

◆権力を振り蒔いて、他を自分のようなものに仕立上げようとする
◆金を誘惑の道具として、其誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする

◇自分の個性が発展できるような場所[本領 中腰]
他人に対しても其個性を認めて、彼等の傾向を尊重するのが理の当然
◆自我 自覚 他人の自我 公平の眼 正義の観念
◆我々は他が自己の克服のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならない 妨害し得る地位 義務の付着して居らない権力というものが世の中にあろう筈がない

◆私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってはならないものです。
◆金銭 至極重宝 どんな形にでも変わって行くことが出来る [永日小品]
◆そのうちでも人間の精神を買う手段に使用出来るのだから恐ろしい[野分]人間の徳義心を買い占め る、即ち其人の魂を堕落させる道具とするのです。
◆相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力 不都合 実際その通りに金が活動するなら・・・
◆見識の必要 見識に応じて、責任を以てわが富を処置しなければ世の中に済まない いな自分自身にも済むまい

1)自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、 同時に他人の個性も尊重しなばならない。
2)自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務
3)自己の金力を示そうとするなら、それに伴う責任

◆もし人格のないものが無闇に個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。

◇イギリス 自由を愛する国でありながら、秩序の行き届いた国 嫌いではあるが事実
自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会教育
彼等の自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。
義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考える
そういう我が儘な自由は決して社会に存在し得ない 存在してもすぐ他から排斥され踏み潰される に極まっている。

個人主義 
金力権力の点に於て其通りで、俺の好かない奴だから畳んでしまえとか、気に喰わない者だから遣っ付けてしまえとか、悪いこともないのに、ただそれらを濫用したら何うでしょう。人間の個性はそれで全く破壊されると同時に、人間の不幸も其処から起こらなければなりません。たとえば私が何も不都合を働かないのに、単に政府に気に入らないからと云って、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたら何んなものでしょう。警視総監に夫丈の権力はあるかも知れないが、徳義はそういう権力の使用を彼に許さないのであります。

◇又は三井とか岩崎とかいう豪商が、私を嫌うという丈の意味で、私の家の召使を買収して事ごとに私に反抗させたなら、是又何んなものでしょう。もし彼等の金力の背後に人格というものが多少ともあるならば、彼等は決してこんな無法を働く気にはなれないのであります。

以下110につづく   

110.「私の個人主義」から 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/10(月) 9:35

「私の個人主義」の一部を記します。

◆党派心がなくて、理非がある主義 朋党を結び団体を作って、権力や金力のために盲動しないということなのです。
◆人に知られぬ淋しさ
◆個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはその筈です。槙雑木まきざっぽうでも束になっ ていれば心丈夫ですから。
◆一体何々主義ということは私のあまり好まない所で、人間がそう一つ主義に片付けられる者ではあ るまいとは思いますが・・・・・

◆国家主義 個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱導するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気た筈は決してあり洋画内のです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのあります。

◆理論というよりも寧ろ事実から出る理論 つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危うくなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨張して来る、それが当然の話です。
◆私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だと云って、用もないのに窮屈が る人に対する忠告も含まれている・・・・

◆国が強く、戦争の憂が少なく、そうして他から犯される憂なければない程、国家的観念は少なくなって然るべき訳で、其空虚を充たす為に個人主義が這入って来るのは理の当然・・・・

◆日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家々々と騒ぎ廻る必要はない筈です。火事の起こらない先に火事装束をつけて窮屈な思いをしながら、町内中を駈け歩くのと一般であります。

◆国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。
◆国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でいなければならな いのに……徳義心の高い個人主義に矢張重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。   

109.「三四郎」の言葉  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/10/6(木) 8:49

新掲示板2に書き込んだものを参考のため重複掲載します。

2767.「三四郎」の言葉
名前:伊豆利彦 日付:10月6日(木) 8時45分
漱石枕流さん、投稿に感謝します。
私も同感です。

日刊ゲンダイの言葉は、鋭くて、共感することが多いが、おっしゃるような弱点もあると思います。

「三四郎」の広田先生が与次郎を批評した言葉を思い出します。

<実質もなければ、品位もない、まるで救世軍の太鼓のようなものだ。読者の悪感情を引き起こすために、書いてるとしか思われやしない。徹頭徹尾故意だけで成り立っている。常識のある者が見れば、どうしてもためにするところがあって起稿したものだと判定がつく。>

そのまま日刊ゲンダイの記事にあてはまるとは思いません。
広田先生は与次郎に依存し、与次郎を愛していました。
与次郎に対する批評は、現代の進歩的で積極的な若者の欠陥をついていると思います。
先生は若者を愛しながら批評していた。
あるいは、批評しながら、愛していた。

その広田先生は先生を敬愛する与次郎から批評される。
三四郎も、一面で先生に感心し、一面で、その観念性を批評します。
相互の批判が交錯する言語空間が「三四郎」のせかいなのでしょう。   

108.漱石や明治は遠くなりにけり――司馬遼太郎の問いかけ 返信  引用 

名前:ゼファー生    日付:2005/9/27(火) 1:21

「日本ペンクラブ:電子文藝館」や赤旗 9月22日付け文化欄の記事を読み、ちょっと、感じることがあって、小文を書いてみました。よろしかったらお読み下さい。
http://palm.nishinari.or.jp/?%BD%BD%C7%AF%B0%EC%EB%B4%C1%F3%E3%D6%CC%B4%2F2005-09-27   

105.「漱石と鎌倉市長選」 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/9/15(木) 11:51

16日に夜7時から鎌倉生涯学習センターで<なかち漱祐さんと市政を語り合う会>が開かれ、仲地さんのほかに、私も「漱石と鎌倉市長選」という題で話をすることになった。

いまからでは間に合わないかもしれないが、お近くの方で、興味のある方はどうぞ。 

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106.Re: 「漱石と鎌倉市長選」
名前:水川景三    日付:2005/9/15(木) 16:4
仲地漱祐さんの出馬は正式決定となったのでしょうか。平和と暮らしと文化、憲法を守る立場でぜひ頑張って頂きたいと思います。   

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107.Re: 「漱石と鎌倉市長選」
名前:伊豆利彦    日付:2005/9/15(木) 19:30
10月16日告示、23日投票で、いま、候補者活動中です。   

104.漱石の偏見論 自然の復讐 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/9/15(木) 11:8

漱石雑談に<漱石の偏見論 自然の復讐>を掲載しました。
http://www.ngendai.com/   

102.仲地漱祐さんの立候補について 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/8/30(火) 16:57

仲地漱祐さんが鎌倉市長選挙に立候補を決意された。仲地さんは漱石のお孫さんである。4女愛子さんの長男だ。お婆さんすなわち鏡子夫人が、ぜひ、漱の字をつけるようにと言われ、漱祐と命名されたという。多分、はじめての男の孫だったのではないか。
長女筆子さんのお嬢さん、松岡陽子さんが、とてもかわいらしい子だったと回想しておられる。

椿わびすけさんの掲示板に関連記事があるので参照してくだされば幸いである。

いまもそのかわいらしさは残っているように思う。
漱石は100年の後に生きることをねがった。
漱石は単に文学史に名が残るのではなく、自分の精神が100年後の人の血脈に生きて、社会的な意識を形成するのに役立つことを求めるのだと言った。

この漱石の思いはその作品を通じて、いままさによみがえり、大きな影響を与えている。すくなくとも私は、その精神をよみがえらせる仕事をしているつもりである。多くの研究者は、漱石のこの言葉をどう思うだろうか。多分、彼らはこの言葉をあまり重視していないだろう。私のたたかいは、漱石を現代によみがえらせるために、漱石を矮小化する研究者によって流布された陳腐な漱石像をこわし、漱石をいまによみがえらせることだ。

ところで、漱石の血脈を継ぐ漱祐さんが、決然と立たれたことは、ほんとうにうれしい。私のできる限りのことをしたい思いである。

関連記事が椿わびすけさんの掲示板にある。
松岡さんのメールもある。
参照していただければありがたい。
 ↓
http://hpmboard1.nif.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=ANC56573 

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103.Re: 仲地漱祐さんの推薦文
名前:伊豆利彦    日付:2005/8/30(火) 19:34
仲地漱祐さんの推薦文   

 仲地さんは夏目漱石のお孫さんである。四女愛子さんの長男、一九四六年(?)の生れである。漱石の鏡子夫人が存命中で、漱の一字をその名につけるように強くいわれ、漱祐と命名されたのだという。漱石の精神がこの孫に伝わることを念願されたのであったろう。
 私は仲地さんには漱石の精神がはっきり受け継がれていると思う。
 仲地さんは栄光学院中学に入学されたが、ドイツ人の言いなりになる校長に抗議したため、栄光の高校に進むことができず、関東学院高校に移って同校を卒業されたという。
 弱きをたすけ強きをくじくのが私の精神だと仲地さんは言われる。
 これが漱石の精神だ。私は仲地さんとお話しながら、事ごとに漱石を思い出しまして愉快だった。
 漱石は百年の後に生きることを望んだ。
 鎌倉は漱石が愛した古都です。私は漱石が、いま鎌倉に生き返って新しい時代のために奮闘するのを見る思いで、仲地さんの奮闘を期待します。
http://hpmboard1.nif.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=ANC56573   

101.映画「吾輩は猫である」 返信  引用 

名前:名無しの探偵    日付:2005/8/22(月) 18:47

戦前の作品でこの映画を観る。主人公の苦沙味先生には丸山(原爆で亡くなった人)氏、友人の迷亭には徳川夢声といった配役。
戦後に活躍していた俳優が駆け出しの役者で出ていた。(学生役など)
清川虹子が隣人の車夫の女房で出ていた、中年の頃と変わらぬ容貌なのですぐ本人と判明。
同姓の清川玉枝が鼻に細工して寒月君(北沢彪)のお見合い相手の母で
いろいろと物議をかもす役で出ていた。
戦後もこの作品はいくつか映画化されたはずだが、丸山氏の演技に注目する私としてはこの猫の映画化作品が一番気に入っている。   

100.毎日新聞記事 夏目漱石:『明暗』韓国語訳を刊行 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/8/16(火) 11:20

夏目漱石:『明暗』韓国語訳を刊行 世界文学としての漱石研究に期待
2005.08.12 毎日新聞大阪夕刊 7頁 文化 写図有 (全879字) 

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 夏目漱石(1867~1916年)の最後の作品「明暗」が、韓国の漱石研究者によって初めて韓国語に訳され、先月、韓国の汎友社から刊行された。漱石文学の中で最高峰との評価もある「明暗」の翻訳は、漱石の主要な作品が既に翻訳されている韓国内での漱石研究に弾みをつけると期待されている。

 「明暗」は漱石が死去する1916(大正5)年、朝日新聞に188回にわたり連載された小説。未完で、漱石作品中、最も長い。執筆中の漱石が「則天去私」の境地に達したことでも有名だ。

 韓国版『明暗』=写真=は解説・年譜を含め564ページ。韓国・全南科学大学で日本近代文学を教えている助教授の金正勲(キムチョンフン)さん(43)が翻訳した。

 金さんは韓国の朝鮮大学校国語国文学科を卒業後、日本に留学し、関西学院大学大学院で文学博士号を取得。01年には漱石の作品論『漱石~男の言草・女の仕草』を日本語で出している。

 金さんによれば、韓国では日本の近現代文学を研究対象にした学会が、73年から現在までに主要なものだけで10近く生まれた。研究者が重視する芥川龍之介、川端康成、島崎藤村ら近代文学の作家の中でも、漱石の作品が最も多く研究の対象にされている。

 01年には、韓国の漱石研究者による論考集『夏目漱石文学研究』が発刊されるなど研究が本格化しているが、未訳の作品があり、日本での優れた漱石論の翻訳が十分でないという。

 金さんは「日本が近代国家として歩む中での男女関係や個人の苦悩、社会への懐疑的な見方など、漱石作品に描かれたことは普遍的な問題として今も私たちをとらえる。『明暗』の翻訳が韓国での漱石研究を深める手助けになればうれしい」と語る。

 金さんに翻訳を勧め、巻末の解説を執筆した漱石文学研究者で、相愛大学人文学部教授の鳥井正晴さん(58)は「『明暗』は漱石文学の最高峰であるばかりでなく、『源氏物語』のように千年の命脈を保つ世界文学だと思う。現在、英語、中国語、仏語の翻訳があるが、韓国語訳で、漱石文学の豊かさがより多くの人に伝えられることは大きな意義がある」と話している。【有本忠浩】

毎日新聞社

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97.「日本ペンクラブ電子文藝館」よりお知らせ 返信  引用 

名前:椿 わびすけ    日付:2005/8/4(木) 0:45

伊豆先生

「日本ペンクラブ電子文藝館」より喜ばしいお知らせメールが到着しましたので、ご紹介いたします。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

メールタイトル 「どうぞ ペン電子文藝館に投稿を 秦恒平」

 下記のようなことを「電子文藝館」http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ ではじめます。
 ご参加をお願いし、加えて、趣旨をご吹聴いただければ幸いです。

 日本ペンクラブでは、かねて委員会でも理事会でも総会報告でも話題にしてきましたが、「ペン電子文藝館」は、「読者」の皆さんとの間に、「絆」と言いましょうか「通路」といいましょうか、そういう工夫をぜひにと考えてきました。
 展観作品はもう六百を越し、遠からず千作品にも必ず達します。
 そんな時、たまたま一読者より、最近本館に展示された五人の詩人の作品について「投稿」がありました。内容は真摯で見るべき内容にみ、委員会は大いに歓迎し感謝しました。

*「読者の庭」を開園します。
 今後もこういう、展観作品に触れた「作品論・作家論」や、もっと膨らみのある「評論・鑑賞・感想」が寄稿される気運にあるならまことに喜ばしいと、電子文藝館に新たに「読者の庭」を設け、随時それら投稿を展示し国内外に発進して行きたいと決しました。
 但し、委員会で内容を審査させて頂きます。主には、謂われない誹謗や雑言が加えられるのを排したく、また日本ペンクラブの掲げるペン憲章等との齟齬を見ますと共に、何といっても文章のもつ価値・品位をそれなりに計らせて頂きます。そのことはしかし、作品や作者への阿諛追従はもとより、やたら称讃の文章を望んでいるというのでは決してありません。「読者」の当然の権利として忌憚ない率直な文章がもたらす好刺激をこそ望んでいますし、読者同士の、時には読者と作者との論争をすら内心期待しています。
 およそ一万字前後を基準にし、難漢字、よみがな、オドリ字、傍点等については「本館」の基準に従い委員会で調整します。その範囲内なら、展示されている諸作品・諸作者群への「触れ方」に特に制限を設けませんが、時に具体的にご相談することもあります。
 また採否についての質疑の応酬は致しません、ご承知下さい。
 お断りしておきますが、当面、投稿は展観作品・作家(群)へのいわゆる「評論・鑑賞・感想」に限ります。小説や詩歌等の「創作」については、いずれ別の提案をする機会がありましょう、此処ではそれらを含みません。
 今回投稿されました神津ふみ子さん(静岡)の文章を、先ず「読者の庭」に掲載し、随時投稿のあるに従い、本館同様の方法で掲載して行きます。愛読者、学生諸氏の参加を待望します。
 この「庭」から、第二の小林秀雄や伊藤整や中村光夫や山本健吉の誕生を楽しみにしたいと「ペン電子文藝館」は願っています。  館長・理事

掲載料は不要、原稿料も出ません。
http://homepage1.nifty.com/xkyou/index.html 


http://homepage1.nifty.com/xkyou/index.html    

95.セルマの歌 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2005/7/11(月) 9:56

漱石は、日露戦争の前夜、オシアンから

セルマの歌 new
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/serumanouta.htm
カリックスウラの詩 new
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/karitukusuura.htm

を翻訳して発表した。

新しくupしたので、読んでいただければ幸いである。

戦いにに死んだ男を嘆く女の歌である。
漱石は戦争の不条理を思うと同時に、その避けがたさを嘆いた。

戦争は避けがたく、悲劇は必然である。
それ故に、それを避ける努力を説いた。
人間の自然の感情を重視するとともに、その悲劇性を痛感した。
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/serumanouta.htm 

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96.Re: セルマの歌
名前:伊豆利彦    日付:2005/7/11(月) 22:45
漱石にとって、戦争は原罪のようなものだったのかも知れない。
宿命のようなもの
人間がある限り戦争をつづける。

しかし、それは、避けるべきものだった。

人間というもの
努力

<悲劇はついに来た>という言葉
<道義>の再建
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/serumanouta.htm 

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