« 2012/10/24(水)→2012/12/02  | トップページ | 2008/2/5(火) → 2009/11/11(水) 22:9 »

2012年12月 2日 (日)

:2009/12/5(土)→2012/2/11(土) 3:27

:2009/12/5(土)→2012/2/11(土) 3:27

生涯の最後の年、大正5年正月に発表した「點頭録」で、漱石は自己の生涯を振り返り、軍国主義について論じている。前年の『硝子戸の中』がひたすら自己の狭い世界について語ろうとしたのとは反対に、「點頭録」では、病気のために中断しなければならなかった けれども、世界的な視野で政治や社会の問題を論じようとしたのである。

漱石は世界大戦について、「人道の為の争いとも、信仰の為の闘 いとも、又意義ある文明の為の衝突とも見做す事」が出来ず、ただ「軍国主義の発現」としてしか考えられなかったと言っている。この戦争で自分の興味をひくのはただ「軍国主義の未来」ということ だけで、「独逸だの仏蘭西だの英吉利だのという国名は自分に取ってもう重要な言葉でも何でもなくなった」と言う。どちらの国が勝つかではなくて、「独逸に因つて代表された軍国主義が多年英仏に於て培養された個人の自由を破壊し去るだらうか」ということに、はるかに鋭い神経を働かせているというのである。

そして、ドイツの軍国主義は敵国たる英仏にも多大の影響を与え、その軍国主義化を招いているのだから、戦争が片付かないうちから、英仏は精神的にはもうドイツに負けたと評しても好い位なのだと言う。漱石は、この大戦のもたらしたものは「軍国主義の勝利」ということだけだと言い、
「此時代錯誤的精神が自由と平和を愛する彼等に斯く多大の影響を与へた事を悲しむものである」
と述べている。

軍国主義の勝利は文明を破壊する以外に何の効果もなく、軍国主義にその償いを期待することは出来ないと漱石は言う。

 漱石にとって世界の未来は暗かった。しかし、日本の未来はさらに暗い。日本の政治は言論思想を抑圧することしか知らなかったと漱石は言う。もともと軍国主義的傾向の強い日本は、ますます軍国主義化を強めるだろう。言論・思想、政治活動の自由はますます苛酷に弾圧されるだろう。その果てに待っているものは何か。

 1915年の7月[?]の書簡で漱石は、「戦後における日本人の覚悟」についてやまと新聞の質問に答え、日本人がむやみに西洋の新しいものに食いつき、ただ次々に新しい名前を追い掛けるばかりの、軽薄な表面的模倣に明け暮れていることを批判している。そして、「若し覚悟といふ覚悟が必要なら、日本は危険だとさへ思って、それを第一の覚悟にしてゐれば間違ひはありますまい」と述べている。

「夏目漱石と天皇制」より→
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/souseki@tennousei.htm 

370.『現代文集』の発行に就いて 返信  引用 

名前:水島寒月    日付:2012/2/11(土) 3:27

二月十二日の夜十一時半頃、一月末迄『実業之世界』記者であった安成貞雄氏(くん)が、社の三階に寝泊りしている僕を訪ねて来た。『至急相談したい事があって、遅いとは思ったがやって来た』と云う。僕は寝床の中で本を読んでおったので直ぐ会った。『いよいよ馬場孤蝶先生を推し立てる事になった。今日、先生の宅で、生田長江、森田草平その他の諸君に集まって貰って相談を取り極めた。選挙運動の方法は、全然英国の方法に拠ることにした。この社から出る安部さんの「誰を選ぶべきか」に書いてある通りの方法を採ることにしたのだ』『しかし、先生にも吾々にも金がない。そこで、馬場先生と吾々の知っている人々から原稿を貰って、大きな文集を作って、その原稿料を運動費に充てる計画を立てた。今確実には言えないが、少なくとも四五十人には寄稿を承諾して貰えるだろうと思う。どうだろう、その本の出版を引受けて貰えないだろうか。』と云って原稿を依頼すべき人々の名簿を見せた。

今日の政治界が一大革新を要することは言う迄もない。僕は、多少の抱負を持っている。敢えて選挙場裏に打って出たいと考えているが、年齢(とし)が足らない。そこで、政治界に、何等(なんら)か貢献したいと考えたので、安部磯雄先生を訪ねて、『今度の総選挙に際して、国民に選挙の意義を理解せしめたい。御同感ならば、選挙に関する本を著して戴きたい。』と御願いした。安部先生は『私も平素から選挙界の弊風を慨(なげ)いておるから、それでは是非書こう。』と快諾して下すった。そして書いて下すったのは安成君が云った『誰を選ぶべきか』と云う本である。安成君は、その出版の相談にも与(あずか)り、その原稿をも読んでいるのである。僕は、馬場勝弥氏が『誰を選ぶべきか』に詳述された選挙の方法をそのまま採用すると聞いて、自分の理想の一部が実行されることを欣(よろこ)んだ。馬場氏には僕も会ったことがある。その人物見識は、安成君や和気君から聞いてよく知っている。

僕は、寄稿者を四五十人として、出版の胸算用を立てて見た。そして、少なくとも損はしないと考えた。安部先生の『誰を選ぶべきか』を出版する時、もともと多少の損失位は厭わない覚悟であったのであるから、その本に書いてある方法で運動する人の為(た)めに本を作ることは僕の望む所である。それで損をしなければ、出版業者としても引受けるのが至当である。そこで、僕は、安成君に『宜しい、引受けよう。』と言った。安成君は『それで安心した。』と云って、十一時五十分に帰って行った。

原稿が集まったのを見ると、文壇の名家八十氏の作品が揃っている。安成君や和気君に聞くと、今度の様な企てに対して文壇の殆ど全部が賛同したのは、空前であると云う。そして、馬場氏がその目的を達するに、日本空前の方法によることは、文壇が社会の趨勢に一歩を進めていると云う明証であると思う。僕は本書の出版を引受けることを以って、自分の理想の一部の実行と信じ、且つ、それを依嘱せられたことを光栄とするものである。

大正四年三月一日
実業之世界社に於いて
野依秀一
______________________________
まだ、著作権が切れていないのね。 

--------------------------------------------------------------------------------

373.Re: 『現代文集』の発行に就いて
名前:伊豆利彦    日付:2012/2/22(水) 20:17
ご投稿ありがとうございました。
)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-17/index.html   

--------------------------------------------------------------------------------

374.Re: 『現代文集』の発行に就いて
名前:水島寒月    日付:2012/2/27(月) 11:13
このサイトで、この文集の存在を知り原本を入手しました。
何とか電子化できると良いんですが。まだ入力率5%…   

361.『それから』 欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ) 返信  引用 

名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/12(木) 13:1

 代助は人類の一人(いちにん)として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)と心得てゐた。 

--------------------------------------------------------------------------------

366.Re: 『それから』 欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)
名前:伊豆利彦    日付:2012/1/24(火) 15:5
今の世は政治家だけでなく、マスメディアも大学教師も軽蔑せずにはいられない不幸な世の中だ。   

--------------------------------------------------------------------------------

367.Re: 『それから』 欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)
名前:金 正 勲    日付:2012/2/8(水) 10:18
『野分』で白井道也は次のように述べている。

 英国風を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己れに理想のないのを明かに暴露している。日本の青年は滔々として堕落するにもかかわらず、いまだここまでは堕落せんと思う。すべての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である。奴隷をもって甘んずるのみならず、争って奴隷たらんとするものに何らの理想が脳裏に醗酵し得る道理があろう。   

--------------------------------------------------------------------------------

368.Re: 『それから』 欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)
名前:伊豆利彦    日付:2012/2/8(水) 21:38
白井道也にとっての理想はいかなるものか。西洋に対する東洋か。魂から出る理想とはいかなるものか。魂は言葉ではない。言葉ではあらわすことのできない何かだ。「道草」には「異様の熱塊」という言葉があった。1910年の夏、秋水らが検挙されて間もない時期に、長与病院に入院中の漱石を石川啄木は二度訪ねている。啄木は二葉亭四迷全集の編集をしていて、二葉亭から強い感化を受けていた。幸徳らの謙虚に衝撃を受けて、「時代閉塞の現状」を書き、「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」と記している。漱石は啄木に共感し、美しい言葉で飾られた広瀬中佐の詩を否定し、潜航艇が沈没して、刻々に死に追い詰められている状況で書き綴った佐久間艇長の遺書にの乱れた文章を褒めたたえている。
http://www.asahi.com/politics/update/0207/TKY201202060686.html   

--------------------------------------------------------------------------------

369.Re: 『それから』 欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)
名前:金 正 勲    日付:2012/2/9(木) 16:53
代助は「現代の社会を、二十世紀の堕落」と見たが、白井道也は現代の社会に住む青年たちの堕落の理由を理想の欠乏によるものと見た。たしかに欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)に襲われつつある彼らに理想を持つ余裕などがあるわけではない。

しかし、「理想」=「魂」である。青年たちに「理想は諸君の内部から湧き出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となりついに諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上るのである。」と聞かせたのも道也である。

その「魂」とは何か。漱石は1906年の秋、鈴木三重吉宛ての書簡に「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神」という言葉を書いたことがある。漱石にとってデモクラシーとは何か。正義とは何か。人格とは何か。   

--------------------------------------------------------------------------------

371.Re: 『それから』 欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)
名前:金 正 勲    日付:2012/2/11(土) 16:2
1906年8月11日の「都新聞」の記事には次のような内容が載っている。

 電車賃金値上反対の旗幟を標榜して其の絶交運動を市民に促す為め開催されたる日本社会党有志者の行列ハ昨日午前九時五十分神田区三崎町三町目一番地の同党本部を出でたり行列の一行ハ出来得るだけ質素に且つ静粛ならん事を期したるより総数を十人と限り堺枯川、森近連平、野沢重吉、菊江正義氏外四名と堺氏の妻君夏目(漱石)氏の妻君是に加り(傍線は論者)

堺利彦・片山潜らが日本社会党を結成してからまもない頃であった。その翌年には桂内閣により社会主義への弾圧が厳しくなり、日本社会党の結社禁止、そして1910年には天皇暗殺計画を企てたという容疑で幸徳秋水らが逮捕される事件に続くのだから、その激動の流れから見ても非常に敏感な時期であったといえる。   

--------------------------------------------------------------------------------

372.小生もある点に於て社界主義故
名前:伊豆利彦    日付:2012/2/17(金) 12:59
 漱石は都新聞の記事についてしらせた深田康算に次のような返事を書いている。

都新聞のきりぬきわざわざ送被下難有存候電車の値上には行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候。

「草枕」執筆直後のことである。
このあと、「二百十日」を書き、「野分」を書いた。
「二百十日」の圭さんは自分を豆腐屋主義の平民主義だと主張した。
当時、平民主義を標榜し、「平民新聞」を機関紙としていた堺らに対する漱石の関心は否定できない。
http://www.asahi.com/national/update/0213/TKY201202130203.html   

363.漱石と魯迅 平和というものは、人間の世界には存在しない 返信  引用 

名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/14(土) 20:24

魯迅は革命の思想を説き、その観点から戦闘の精神を強調した。

「平和というものは、人間の世界には存在しない。強いて平和とよばれているものは、戦
争が終わった直後、あるいは未だ戦争が始まらないときを言うに過ぎない。外見は、平穏
のようだが、そこには常に暗流が潜んで居て、一度時節到来すると、直ちに動きはじめる
のである。」

「平和が破れることによって、人間は向上するのである。しかしながら、そのために、上
は天子から、下は駕篭かき人足に至るまで皆以前の生活を変えなければならない。だから、
彼らが協力して、この芽をおしつぶし、その旧来の生活を永く保持しようと考えるのも、
人情の常だといえよう。旧来の状態が永く保存されているのを、古い国というのである。」

 こうした魯迅の言葉を平和のために戦うという私達はどのように考えたらいいだろうか。

1987・7・5  芦溝橋事件五〇周年記念講演 草稿
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/rojinto.htm 

--------------------------------------------------------------------------------

364.夏目漱石が「点頭録」デ紹介したジョルジュ・パラントの言葉 
名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/15(日) 19:20
フランスでは科学的に「力」というものが、正義権利の観念と衝突した。・・・・ルソー式、四海同胞式、平和式、平等式、人道式なる観念のために本来の「力」という考えがつい 曲げられて・・・・・・正義と人道と平和の為にこの「力」というものを軽蔑し且カツ否定しなければな らなくなった。・・・・・・奮闘も差別も自然の法則であることを忘れた。美其物も一種の「力」であ り又「力」の発現であることを忘れた。正義其物も本来の意味から云えば平衡を得た「力」に過ぎ ないということを忘れた。「力」の方が原始的で、正義の方は却て転来的であるという事も忘れた。 斯んな僻見に比べるとニーチェの方が何ドの位尤もであったか分からない。・・・・・・・   

--------------------------------------------------------------------------------

365.漱石「点頭録」 現代に所謂列強の平和とはつまり腕力の平均に外ならない
名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/15(日) 19:37
彼等が其平和の必要条件として、それとは全く両立しがたい腕力の二字を常に念頭に置くべく強いられるに至っては、彼等と雖も今更ながら天のアイロニーに驚かざるを得まい。現代に所謂列強の平和とはつまり腕力の平均に外ならないという平凡な理屈を彼等は又新しく天から教えられたのである。土俵の真中で四つに組んで動かない力士は、外観上至極平和そうに見える。今迄彼等の享有した平和も、実はそれ程に高価で、又それ程に苦痛性を帯びていたのである。しかも彼等は相撲取のよう にそれを自覚していなかったために突然罰せられた。換言すれば生存上腕力の必要を向後当分の 間忘れる事の出来ないように遣付けられた。   

358.『倫敦塔』  生れて来た以上は、生きねばならぬ。 返信  引用 

名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/11(水) 10:1

又想像してみる。生れて来た以上は、生きねばならぬ。敢て死を怖るるとは云わず、只生きねばならぬ。生きねばならぬと云うは耶蘇孔子以前の道で、又耶蘇孔子以後の道である。何の理窟もいらぬ、只生きたいから生きねばならぬのである。凡ての人は生きねばならぬ。この獄に繋がれたる人もまたこの大道に従って生きねばならなかった。同時に彼等は死ぬべき運命を眼前に控えておった。如何にせば生き延びらるるだろうかとは時々刻々彼等の胸裏に起る疑問であった。一度びこの室に入るものは必ず死ぬ。生きて天日を再び見たものは千人に一人しかない。彼等は遅かれ早かれ死なねばならぬ。されど古今にわたる大真理は彼等に誨えて生きよと云う、飽くまでも生きよと云う。彼等は已を得ず彼等の爪を磨いだ。尖がれる爪の先を以て堅き壁の上に一と書いた。一をかける後も真理は古えの如く生きよと囁く、飽くまでも生きよと囁く。彼等は剥がれたる爪の癒ゆるを待って再び二とかいた。斧の刃に肉飛び骨摧ける明日を予期した彼等は冷やかなる壁の上に只一となり二となり線となり字となって生きんと願った。壁の上に残る横縦の疵は生を欲する着の魂魄である。余が想像の糸をここまでたぐって来た時、室内の冷気が一度に脊の毛穴から身の内に吹き込む様な感じがして覚えずぞっとした。
          

--------------------------------------------------------------------------------

359.「硝子戸の中」 <どういう風に生きて行くか>を基本とする
名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/11(水) 10:14
不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地に就いて常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
然し現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曽祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事が出来ないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私の他に与える助言はどうしてもこの生の許す範囲内に於てしなければ済まない様に思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人として他の人類の一人に向わなければならないと思う。既に生の中に活動する自分を認め、又その生の中に呼吸する他人を認める以上は、互の根本義は如何に苦しくても如何に醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなに情なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝らしている。こんな拷問に近い所作が、人間の徳義として許されているのを見ても、如何に根強く我々が生の一字に執着しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事が出来なかった。   

--------------------------------------------------------------------------------

360.『文学論』序 五千万人中に生息して、少くとも五千万分一の光栄と権利を支持せんと欲す
名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/11(水) 13:41
 倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。

帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たる光栄と権利を有する余は、五千万人中に生息して、少くとも五千万分一の光栄と権利を支持せんと欲す。此光栄と権利を五千万分一以下に切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若くは余が本国を去るの挙に出づる能はず、寧ろ力の継く限り、之を五千万分一に回復せん事を努むべし。是れ余が微少なる意志にあらず、余が意志以上の意志なり。余が意志以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざるなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣民たるの光栄と権利を支持する為めに、如何なる不愉快をも避くるなかれと云ふ。   

--------------------------------------------------------------------------------

362.日本人の目的
名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/14(土) 17:42
ロンドン留学中のノートに漱石は「日本人の目的」は 「(1)文明ノ大勢ニ従ヒchanceヲminimumニスルコト (2)外国ニ抵抗シ、之ヲ圧伏 スルコト (3)宇内ヲ統一スルコト (4)然ル後世界全体ヲ改造スルコト」と記している。   

355.処刑直前に赦免されたドストエフスキー 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2012/1/10(火) 2:9

 漱石は処刑寸前に赦免されたドストイェフスキーについて、1911年1月10日の朝日新聞に掲載された『 思い出すことなど』二十一に書いている。幸徳らの公判中で、1月19日に判決が出て、24日に処刑された。非公開で、証人調べもせず、まったくの暗黒裁判だった。死刑を言い渡され、処刑台上に引き出されたドストエフスキーについて書いた次の文章には、やがて死刑を宣告される幸徳らへの思いが込められていると思う。

 同じドストイェフスキーもまた死の門口まで引き摺られながら、辛うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を危(あや)めにかかった災は、余の場合におけるがごとき悪辣な病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打ち貫かれようとしたのである。
 彼は彼の倶楽部で時事を談じた。やむなくんばただ一揆あるのみと叫んだ。そうして囚われた。八カ月の長い間薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空の下に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、襯衣(シャツ)一枚の裸姿となって、申渡の終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍に立つ同囚に問うた言葉である。……白い手帛(ハンケチ)を合図に振った。兵士は覘(ねらい)を定めた銃口(つつぐち)を下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の捏ね丸めた熱い鉛の丸(たま)を呑まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。 

--------------------------------------------------------------------------------

357.「七刑人」
名前:伊豆利彦    日付:2012/1/10(火) 12:2
『それから』にアンドレーエフの「七刑人」を読み、仲間が次々に処刑されて、最後に残った刑人の感慨に衝撃を受ける代助が描かれている。

代助は今読み切ったばかりの薄い洋書を机の上に開けたまま、両肱(りょうひじ)を突いて范乎(ぼんやり)考えた。代助の頭は最後の幕で一杯になっている。――遠くの向うに寒そうな樹が立っている後に、二つの小さな角燈が音もなく揺めいて見えた。絞首台は其所にある。刑人(けいじん)は暗い所に立った。木履(くつ)を片足失くした、寒いと一人が云うと、何を? と一人が聞き直した。木履を失くなして寒いと前のものが同じ事を繰り返した。Mは何処(どこ)にいると誰か聞いた。此所(ここ)にいると誰か答えた。樹の間に大きな、白い様な、平たいものが見える。湿っぽい風が其所から吹いて来る。海だとGが云った。しばらくすると、宣告文を書いた紙と、宣告文を持った、白い手――手套(てぶくろ)を穿(は)めない――を角燈が照らした。読上げんでも可かろうという声がした。その声は顫えていた。やがて角燈が消えた。……もう只(たった)一人になったとKが云った。そうして溜息(ためいき)を吐(つ)いた。Sも死んでしまった。Wも死んでしまった。Mも死んでしまった。只(たった)一人になってしまった。……
 海から日が上った。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。そうして引き出した。長くなった頸(くび)、飛び出した眼、唇の上に咲いた、怖(おそ)ろしい花の様な血の泡に濡れた舌を積み込んで元の路へ引き返した。……   

356.羅馬ハ亡ビタリ。希臘モ亡ビタリ 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2012/1/10(火) 10:49

英国の繁栄に驚く漱石は、それがアジア、アフリカの植民地の収奪によって成り立つものであることを知っていた。ロンドンに到着してすぐ、南アフリカでボーア人を残酷に殺戮した軍隊の凱旋に熱狂するロンドン人を見た。文明を誇る英国が、貧富の差が激しく、裏面に恐ろしい暗黒が秘められているのを見た。そして、英国ばかりでなくドイツもフランスも世界一の強国と自己を誇り、そこに恐ろしい帝国主義戦争の因子が秘められていることを知った。

「吾人ノ眠ル間、吾人ノ働ク間、吾人が行屎走尿の裡(うち)に地球ハ回転シツヽアルナリ。吾人 ノ知ラヌ間に回転シツ[ヽ]アルアリ。運命ノ車ハ之ト共ニ回転シツ[ヽ]アルナリ。知ラザル者ハ危シ。知ル者ハ運命ヲ形クルヲ得ン」

 留学中の漱石が日記に記した言葉である。そして漱石は「天下一」を誇りあう英独仏について、「彼等ハ過去ニ歴史アルコトヲ忘レツヽアルナリ。羅馬(ローマ)ハ亡ビタリ。希臘(ギリシャ)モ亡ビタリ。今ノ英国仏国独乙ハ亡ブルノ期ナキカ」と記している。大きな歴史の中で、世界を支配する強国の運命を思い、日本の前途を憂えたのである。

漱石がこれらを書いたのは一九〇一年、幸徳秋水が『二十世紀の怪物 帝国主義』を刊行した年の三月のことであった。 

331.従軍行 返信  引用 

名前:水島寒月    日付:2011/11/26(土) 12:3

はじめまして、寒月です。
漱石の[従軍行]は、"異化"の作用を考える必要があって、
"辯"のベクトルはロシアでは無く
学問を軽んじ、戦争を好む中央政府であると思いますが、
如何でしょうか?

これは楊炯の従軍行が念頭にあって、
(寧為百夫長、勝作一書生)
政府の軍国主義に対する激しい憤りを表している。
詳しくは、唐詩選国字解(東洋文庫)を参照のこと
漢詩は難しい…
解説がないと分からんように作ってるからどうもネ。 

--------------------------------------------------------------------------------

332.Re: 従軍行
名前:水島寒月    日付:2011/12/4(日) 17:1
↑すみません"辯"ではなく、"讐"です。   

--------------------------------------------------------------------------------

335.Re: 従軍行
名前:伊豆利彦    日付:2011/12/13(火) 20:5
異化についてのご指摘は大事だと思いますが、それが直ちに政府批判になるというのは分かりにくいので、くわしく教えて下さい。   

--------------------------------------------------------------------------------

336.Re: 従軍行
名前:伊豆利彦    日付:2011/12/14(水) 8:53
大分以前のものですが、私が書いたものがあります。感想・ご意見をいただければ幸いです

 漱石の「従軍行」は詩としてすぐれたものではなかった。類型的な表現からも自由ではない。しかしそこにはロシアに対する悪罵の言葉や、戦争を美化し、国民をあおりたてるような景気のいい、勇ましい言葉はない。むしろこの詩から感じられるのは重苦しい圧迫感であり、孤独感であり、暗い宿命、罪と呪いの匂いである。戦争詩一般の上昇的な気分に対して、ここにあるのは下降的な気分である。ここには漱石の暗い緊迫した心があり、孤独ではげしい戦の意志の表明はあるが、それはむしろ暗く寒く暗澹としていた。「吾に讎あり、艨艟吼ゆる」「吾に讎あり、貔貅群がる」「銕騎十万、莽と
して来る。」敵は強大であるのに、これに対抗するものは「男子の意気」や「勇士の胆」でしかない。ここには集団としての軍隊の姿はなく、単騎太刀をふりかざす孤独な戦士の姿だけがある。

以下「漱石と天皇制」所収「日露戦争と作家としての出発」
http://tizu.cocolog-nifty.com/ronbun/2011/12/post-f666.html   

--------------------------------------------------------------------------------

339.Re: 従軍行
名前:水島寒月    日付:2011/12/19(月) 0:55
まず私自身、正規の教育を受けていませんが…

題名から
元来、従軍行とは漢詩の楽府題(がふだい)の一つで、従軍の苦しみを歌った詩です。
楽府題とは、古体詩の一種です。前漢の時代、民間歌謡の採集のため楽府という音楽官署が設立されたましたが、
楽府において集められた歌謡そのものを指す言葉となったそうです。

なので、音楽の伴奏をつける為に必ず決められた形式の“漢詩”でないとイケナイ
(漱石は承知の上で、帝国文学に対しケンカを吹っかける訳です)
敢えてそれを無視し“新体詩”を叩き出す以上、含意を汲み取る必要があると思います。

そして漱石の親しんだ、江戸時代の教養として、
「荻生徂徠が『唐詩選』を高く評価したことから、弟子の服部南郭の注釈書『唐詩選国字解』
(平凡社東洋文庫全3巻)がベストセラーになった」背景があります。

その中に楊烱(ようけい) の“従軍行”が収められています。
漱石は勿論、漢詩を勉強した人なら知っているとみて間違いないと思います。
今、手元に唐詩選国字解がありませんので手短に内容を…

楊炯(生年不詳-692年):中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる。

<従軍行>(楊烱)五言律詩

烽火照西京|烽火(ほうか)西京(せいけい)を照らし

烽火:のろし 西京:長安
心中自不平|心中(しんちゅう)自(おの)ずから平(たい)らかならず

牙璋辭鳳闕|牙璋(がしょう)鳳闕(ほうけつ)を辞し
   

--------------------------------------------------------------------------------

340.Re: 従軍行(2)
名前:水島寒月    日付:2011/12/19(月) 1:30
<従軍行>(楊烱)五言律詩
烽火照西京|烽火(ほうか)西京(せいけい)を照らし

烽火:のろし 西京:長安
心中自不平|心中(しんちゅう)自(おの)ずから平(たい)らかならず

牙璋辭鳳闕|牙璋(がしょう)鳳闕(ほうけつ)を辞し
   

--------------------------------------------------------------------------------

341.Re: 従軍行
名前:水島寒月    日付:2011/12/19(月) 1:35
<従軍行>(楊烱)五言律詩

烽火照西京|烽火(ほうか)西京(せいけい)を照らし
     烽火:のろし 西京:長安
心中自不平|心中(しんちゅう)自(おの)ずから平(たい)らかならず

牙璋辭鳳闕|牙璋(がしょう)鳳闕(ほうけつ)を辞し
     牙璋:軍隊を出陣させるのに使う割り符 鳳闕:天子の宮殿
鐵騎繞龍城|鉄騎(てっき)竜城(りゅうじょう)を繞(めぐ)る
     鉄騎:鉄の騎兵部隊 竜城:匈奴のとりで
雪暗凋旗畫|雪暗くして旗画(きが)凋(しぼ)み
     旗画:軍旗の絵模様
風多雜鼓聲|風多くして鼓声(こせい)雑(まじ)わる

寧爲百夫長|寧ろ百夫の長と為らんも

勝作一書生|一書生と作(な)るに勝れり
___________________

   詳説は後日に書くつもりです…

これが、漱石の“従軍行”の元ネタに見えませんか?
特に秀逸な(悲愴ですが)

牙璋辭鳳闕
鐵騎繞龍城
雪暗凋旗畫
風多雜鼓聲

の部分が。

漱石の省いた最後の二句は
反語で、一生を学問に費やすより、たとえ小隊長でも軍人になるほうがマシだ!との意。
日本の辞書にもある慣用句ですが、軍事拡張政策を痛烈に諷刺する文句だそうです。
さすがに、「寧爲百夫長 勝作一書生」と書けば、良くて巣鴨留置所へ直行ですので。
書いてありませんが…
分かる人には、従軍行と言えばこの句が瞬時に閃くのではないでしょうか?

●結論
漱石の“従軍行”は、楊烱の従軍行を援用し、従軍の苦しみを歌った詩で新政府の軍拡政策を諷刺している。
一方、くどいほど古い漢語を用いて、時空のズレを宣言し、これは(中国の漢)神代?の事であって、日露戦争の批判でないと言い訳する。
そして、分かる人に異化で云いたい事を伝える訳です。

ひとまずココまで、
「日露戦争と作家としての出発」 の感想:漱石が「戦争は呪い」との認識に立っている事は。
私も理解しました。煽動的な詩とは解せません。
しかし当時、帝国大学と言う場所は仁参を踏みにじっていた事実はあります。
仁参:御三どんの象徴(漱石「創作家の態度」より)転じて細民のこと。   

--------------------------------------------------------------------------------

343.Re: 従軍行
名前:伊豆利彦    日付:2011/12/19(月) 8:32
楊烱の従軍行についてはよくわかりますが、漱石の「従軍行」についてははっきりしません。漱石の詩そのものについて解釈してほしいと思います。
http://j.people.com.cn/94474/7679117.html   

--------------------------------------------------------------------------------

344.Re: 従軍行
名前:水島寒月    日付:2011/12/30(金) 15:42
漱石は、明治維新を唐の高宗(天皇大帝)の皇后“則天武后”が行った権力簒奪になぞらえています。

天皇大帝:則天武后が高宗に付けた諡(おくりな)で北極星の神格化、後に北斗七星と習合。
     なお明治維新前後、唐突に再使用された“天皇”の由来とする説があります。元来名乗る事ができない称号である。

例えば、
則天は王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を四肢切断の上、酒壷に投げ込ませた。
蕭氏は死に際、「則天が生まれ変わったら鼠になり、自身は猫に生まれ変わり食い殺す」と呪いながら死んだ…
これは、デビュー作「吾輩は猫である」の由来です。

本題に、漱石の“従軍行”段落二

天子の命ぞ、吾讎撃つは、
      臣子の分ぞ、遠く赴く。
百里を行けど、敢て歸らず、
      千里二千里、勝つことを期す。
粲たる七斗は、御空のあなた、
      傲る吾讎、北方にあり。
 
始めの二句は皮肉で、最後の句が

北方の彼方に光り輝く、北斗七星(天皇大帝)
 実はあなたが、“傲る吾讎”ですよ!と解せる話です。

そこで、楊炯(則天により左遷された宮廷詩人)
よりも過激な漱石は“彼ら”を始末する為に、
形の上では従軍しているけれども、反旗を翻し
天に誓い、血に渇く太刀を持ち出し、話者としての“吾”から武器を持った“我”になり、(←漢字の原義に基づく)
最終的に、兵士の群像から抜け出し“われ”は俗物ども全て滅ぼす武士であると宣言する。

一方、最終段落の

瑞穗の國に、瑞穗の國を、
      守る神あり、八百萬神。

結びならば、当然命を受けたの天子様を出すところ(まだ生存するなら…)
「なに、昔から日本には八百萬神がいるではないか」と言うあたり、諧謔的ではないでしょうか?
二重思考すると、
則天!去(レ)!私(ヲ)! 私:ここでは、私利私欲のこと。
が思いつきますが…   

--------------------------------------------------------------------------------

352.Re: 従軍行
名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/3(火) 22:17
大変な学識に感心しました。しかし、そんなに難しく読まなければならないのでしょうか。当時の知識人はこれほどの学識があったのでしょうか。金子健二氏の「人間漱石」によれば、この詩は大学では不人気だった様です。多分寒月さんのように深い読みはできなかったのでしょう。
http://tanakanews.com/   

--------------------------------------------------------------------------------

354.Re: 従軍行
名前:水島寒月    日付:2012/1/5(木) 22:37
返信ありがとうございます。
大嫌いな角川文庫の後書きに、これについて悪く書かれていたので、だいぶ調査しました。
(↑:ヒトラーの「わが闘争」を文庫本にして出す会社!)
権力の横暴を常に警戒し難解に書くことで、漱石はあの時代を生き延びたと思います。   

353.夏目漱石 「また正月が来た」の言葉 返信  引用 

名前:伊豆利彦転載    日付:2012/1/4(水) 20:11

 寿命は自分の極めるものでないから、固より予測は出来ない。自分は多病だけれども、趙州の初発心の時よりもまだ十年も若い。たとひ百二十迄まで生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思ふ。それで私は天寿の許す限り趙州の顰にならつて奮励する心組こゝろくみでゐる。古仏と云いはれた人の真似まねも長命も、無論自分の分ぶんでないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於おいての感謝の意を致して、自己の天分の有あり丈たけを尽さうと思ふのである。
http://tanakanews.com/   

337.木下順二氏の「本郷」 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2011/12/17(土) 0:0

最近、木下順二氏の「本郷」を再読し、いろいろと発見がありましたので、感想を述べます。

・夏目漱石について

「本郷」は木下氏の生誕地、本郷を中心に、作者の半生を振り返った自叙伝のようなエッセイですが、土地柄、漱石のことがよく出てきます。中でも本郷の教会の場面が印象的です。この教会は「三四郎」の最後の場面で、教会から出てきた美禰子を三四郎が待ち受け、借金を返したり、美禰子の結婚を確かめる場所ですが、木下氏も第五高等学校の生徒のとき、信徒であったため、キリスト教の会議で、この教会を訪れ、ほのかに思慕を寄せていた女性が、既に亡くなっていたことを人づてに聞いて、ある感慨を持ちます。
そして傾倒し、耽読していた「三四郎」の場面と、自身の体験をだぶらせて思い出深く語っています。

木下氏は「三四郎」の中の「風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。」というフレーズをひき、この教会での体験を美しく描いています。

さらに青春時代のこのような体験を大切にするため、戦後に「三四郎」を再読したことがないと述べています。

伊豆先生も「クオヴァデイス」の印象を壊さないために、再読されなかったと以前述べられていましたが木下氏も同様の読書体験を持っています。

・第五高等学校について

「本郷」には五高のこともよく出てきます。木下氏は4修で一度落第し、翌年合格したそうです。
名物教授が多く、後に著名な国文学者となるある生徒はドイツ語の時間に「Durch」(英語のthrough)の発音を正確に出来ず、結局何回も言い直しさせられて、それで講義の時間が終わってしまったというようなエピソードが書かれています。

五高は伊豆先生の母校であり、漱石や八雲も教鞭をとり、また上林暁氏や梅崎春生氏等多くの作家が学び、中野孝次氏の「麦熟るる日に」にもその学生生活が詩情豊かに描かれています。

私は旧制高校に憧れがあり、最近亡くなられた、北杜夫氏の学生時代を描いたエッセイも好んで読んだことがあります。

余談ですが、かつて木下順二氏がラジオ番組で、私の一冊を語ったときやはり熊本出身の石光真清氏の「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の自伝四部作をあげていたのを覚えています。

また、テレビ番組で、映画監督の黒澤明氏が、私の1冊に「三四郎」をあげていたのも思い出しました。 

--------------------------------------------------------------------------------

338.Re: 木下順二氏の「本郷」
名前:匿名    日付:2011/12/18(日) 1:20
「五高は伊豆先生の母校であり」?
伊豆先生の母校は旧制武蔵高校では?   

--------------------------------------------------------------------------------

342.Re: 木下順二氏の「本郷」
名前:伊豆利彦    日付:2011/12/19(月) 8:23
匿名氏のご指摘通り、私は武蔵高校出身です。当時は修学年限が2年に短縮されました。また、1年の10月(?)から勤労動員で工場に通いました。
http://j.people.com.cn/94474/7679117.html   

--------------------------------------------------------------------------------

345.Re: 木下順二氏の「本郷」
名前:飯島幹也    日付:2011/12/19(月) 23:53
伊豆先生の出身高校に対する、ご指摘、ご訂正ありがとうございました。勘違いしていて、まことに申し訳ありませんでした。   

--------------------------------------------------------------------------------

346.Re: 木下順二氏の「本郷」
名前:伊豆利彦    日付:2011/12/21(水) 21:53
五高といえば、横浜市大で一緒だった西郷信綱さんが五高出身で、西郷さんは木下順二さんと五高でご一緒だったと思う。梅崎春生、霜多正次
なども同級だったと思う。西郷さんは私より10年年長で、その約10年上の林房雄が五高出身だ。そして、1896年、五高の教授だった夏目漱石は竜南海雑誌に「人生」を寄稿している。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/12/19/0200000000AJP20111219001900882.HTML   

--------------------------------------------------------------------------------

347.漱石は「人生」に次のように書いた。
名前:伊豆利彦転載    日付:2011/12/21(水) 22:0
人生は一個の理窟に纏め得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何)せん、若し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且(かつ)乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉   

--------------------------------------------------------------------------------

348.Re: 木下順二氏の「本郷」
名前:pegion    日付:2011/12/21(水) 22:46
林房雄さんも、霜多正次さんも、「不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来」ったのでしょうか?
「人生は一個の理窟に纏め得るものにあらず」といいながら、理屈にこだわったのが漱石ではなかっのかとの思いがします。   

--------------------------------------------------------------------------------

349.Re: 木下順二氏の「本郷」
名前:飯島幹也    日付:2011/12/23(金) 0:45
ご紹介いただきました漱石の「人生」を読んで、「道草」の健三の言葉「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起ったことは何時までも続くのさ」を思い出しました。

「本郷」の中には様々な人との交遊も描かれており、五高で友人であった梅崎春生氏と漢詩の交換をしたことが語られています。

また木下氏は本郷のYMCA寮に長らく住まわれており、同じ寮に住んでいた森有正氏と友人になるのですが、自身の特異な体験を話した時の森氏の驚いた表情を書きとめています。

木下氏は寮の自分の部屋から自分自身が出てくるのを廊下の端から目撃する経験をしています。これはドッペルゲンガーと呼ばれる不思議な現象のようです。

さらに木下氏は自分が誕生した日の光景をはっきり記憶しているとも述べています。 

121.韓国漱石研究会編『夏目漱石の前期三部作研究』が出版 返信  引用 

名前:金正勲    日付:2005/10/15(土) 10:49

韓国で日本文学を専攻する研究者たちが集まって、『夏目漱石の前期三部作研究』(J&C、2005年8月30日)を発行した。
2003年6月の『夏目漱石作品『心』研究』に引き続き、2年ぶりに刊行した論文集である。

夏目漱石研究会が発足し、創刊号『夏目漱石文学研究』が紹介されたのは2001年5月である。
早くも三番目の論文集が独特の壮丁を持って、私たちの前に近づくようになったのだ。

この本には漱石の「前期三部作」と称える作品『三四郎』、『それから』、『門』に対する9編の論文とシンポジウム及び招請講演の内容が収録されている。

「夏目漱石の『三四郎』・『それから』・『門』に見られる女性像」、「日本における『三四郎』研究傾向と成果への照明」、「『三四郎』と『それから』に描かれている感覚表現考察」というシンポジウム発表題目からも窺えるように、それぞれ異なる研究対象と方法がこのように括られ、紹介されるということ自体がまず目新しい。

一貫して漱石文学研究に取り組んできた研究者たちが集まった場で、選定された研究者が自分の文学的特性を明確に表現し、全ての研究者がその内容について思惟と処方を繰り返えし、質疑・討論するという事実から改めて熱情を覚える。 

漱石研究者を日本から招聘し、講演会を開き、その内容をそっくりそのまま載せ、紹介しているのも興味を引く。
今度は横浜市立大学名誉教授伊豆利彦氏が、「夏目漱石の前期三部作と過去」というテーマで、漱石の作品中に使われる<過去>を<昔>という用語と見分け、<昔>は現在との断絶、<過去>は現在との連続という認識のもとに各作品中に描かれた<過去>の意味を明確に分析している。

このシンポジウム内容に基づき、研究者たちは自分の論の体系を構築している。
長い時間築造してきた自分の色彩をシンポジウムを通じて検証し、そういう知的刺激と感動を一定のフレームに盛って、文字言語で精製した方式で表現しているのだ。
この本に載っている9編の論文は、そのような過程を経て誕生した結果物である。 

「夏目漱石の『それから』に描写された人間像考察−長井得を中心に−」、「夏目漱石『三四郎』論−研究史的考察」、「夫婦関係から読む『門』」、「『三四郎』に描かれた恋愛の風景−ベーコンの23ページを下図にして−」、「夏目漱石『門』研究−<姦通>を通じて見た日本の<近代化>を中心に−」、「『三四郎』論−美禰子の造形の特徴を中心に−」、「『三四郎』論」、「『門』−「お米」の不安の構造に関する考察−」、「『それから』私見」が順番によって掲載されている。 

そこには芸術性の境界が瓦解する要素も、研究者の権威と地位を弱化させる装置も内在していないように見える。
漱石論と係わる文字と言説、そしてそういう表現方式だけが唯一に效用性の価値を持つ空間として感じられるからだ。

韓国で読まれる漱石文学の現住所が把握できる著書に間違いない。
http://home.naver.com/k6738157/menu6.html 

--------------------------------------------------------------------------------

333.Re: 韓国漱石研究会編『夏目漱石の前期三部作研究』が出版
名前:ヨウケイギ    日付:2011/12/7(水) 12:21
門について   

--------------------------------------------------------------------------------

334.Re: 韓国漱石研究会編『夏目漱石の前期三部作研究』が出版
名前:伊豆利彦    日付:2011/12/8(木) 7:56
韓国で僧籍研究が深まり、かつて過酷な植民地政策に苦しんだ怨恨を超えて、日本人を深く理解しようとする動きが強まったことは、日韓・日朝友好、東アジアの結びつきを深める上で大きな意味があると思う。それだけでなく、韓国からの光を当てることで、漱石や日本文学の一般的な理解が深まると思う。

 韓国の動きが中国をはじめアジア諸国にひろがることを期待する。
http://www.asahi.com/national/update/1206/TKY201112060510.html   

330.倫敦留学中の日記 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2011/11/17(木) 19:54

倫敦留学中の漱石は1901年3月21日の日記に次のように書いた。

英人は天下一の強国と思へり。仏人も天下一の強国と思へり。独乙人もしか思へり。彼等は過去に歴史あることを忘れつつあるなり。羅馬は亡びたり。希臘も亡びたり。今の英国仏国独乙は亡ぶるの期なきか。
http://j.people.com.cn/94476/7642393.html   

329.「日本近代文学と天皇制」 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2011/11/8(火) 13:55

『漱石と天皇制』所収 「日本近代文学と天皇制」より

 啄木の『我等の一団と彼』の執筆は[大逆事件]の発覚と時期が重なっている。主人公の「彼」高橋は徹底したリアリストであった。「世の中を救ふ」というような「誇大妄想狂」ではなく、「かくせねばならん」という野心もないが、「斯く成らねばならん」という結論は持っている。そして、「時代の推移」は確実にその実現の方向に進んでいることを知っているので絶望することはないという。ここには個人の意志や希望によっては時代を動かすことはできないが、時代はそれ自身の法則に従って、必然の道を進むのだという思想がある。しかし、高橋はその実現は「僕等の子供が死んで、僕等の孫の時代、それも大分年を取ったころになって」だという。高橋は「時機を待つ人」であった。「時代の力ばかり認めて、人間のカーーー個人の力といふものを軽く見すぎる弊が有りはしないか?」という「私」に、高橋は「僕はただ僕自身を見限つてるだけだ」という。「人類だの、人格だの、人生だの、凡てあんな大袈裟な、不確かな言葉」は大嫌いで、「誰よりも平凡に暮らして、誰よりも平凡に死んでやらうと思つてる」というのである。
http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/2011/11/post-597b.html   

322.作家による漱石の作品への批判 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2011/5/20(金) 23:57

久しぶりに投稿させていただきます。

多くの作家が漱石の作品を評価していますが、漱石の作品に対してネガティブな感想を述べている文章について書きたいと思います。

1つは堀田善衛さんの「若き日の詩人たちの肖像」に、「少年は漱石と鴎外を少しばかり読んでみて、これは無教養な東京の官吏や役人風なインテリの読むものだ、ときめ込んでいた」とあります。若き日の堀田善衛さんは漱石に関心がなかったようです。

もう1つは学研により1969年に出版された現代日本の文学全集の漱石集の中で、解説を担当された丸谷才一さんは、「一体、漱石の新聞小説は、殊にあとになればなるほど空気が重くよどんで風通しが悪くなるのだが、『三四郎』だけは例外的にそういう欠点をまぬがれている。」
「第一に彼は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』という、小説の傑作を三つも書いた。」と述べています。
丸谷才一さんは上記三つの作品しか認めていません。
高い評価の文章が多い中で、このような批判に接することも、漱石の作品の理解のためには、大変重要な経験かと思います。 

--------------------------------------------------------------------------------

323.Re: 作家による漱石の作品への批判
名前:伊豆利彦    日付:2011/6/19(日) 10:53
作品に対する評価は時代により、人によりさまざまです。同じ人でも年齢で異なった評価をする場合があります。読者の批評は読者の文学にもとめるものによって異なると思います。

堀田善衛は富山県高岡市の古い回船問屋に生まれ、上京して慶応大学でフランス文学を学びました。『 若き詩人たちの肖像』の若者は早熟で頭のいい青年でした。当時はすでにマルクスやレーニンの著書を読むことは困難になっていましたが、英文で読み、戦争に傾斜する時代に対して批判的な意見を持っていました。田舎から東京に出てきて、ひたすら西洋の最新の思想と文化に憧れた若者が、西洋の近代に対して批判的な漱石の文学を古くさいと思ったのは当然です。田舎者といえば東京生まれで東京育ちの漱石に対して堀田の方がはるかに田舎者だったといえるでしょう。むしろ、田舎者の方が西洋のモダンな文化に憧れるのはないかと思います。

私の知人・友人でも、漱石に対する評価はさまざまです。漱石は中学生のころに卒業したという人も多い。漱石の前期と後期では、前期が面白いというのは日本人の大多数の意見でしょう。

漱石が作品を発表した当時は自然主義の全盛時代で、漱石に対する文壇主流の評価は低かった。戦争中も漱石に対する評価は低かった。「道義の作家」として祭り上げられたことも、けなされたこともあった。「暗い作家」ということが強調された時代もあった。

戦時中は漱石の作品はあまり読まれず、少年時代の私は『吾輩は猫である』くらいしか読まなかった。受験参考書で『草枕』の冒頭を読んで感心したが、全文を読む機会はなかった。

戦後は『 道草』などに関心が寄せられた。暗い戦争の時代を生きた苦悩が漱石評価に変化をもたらしたのだ。私が漱石に関心を持つようになったのは、1950年代からである。猪野謙二さんの「現代日本の開化」について、「外発的開化」と「内発的開化」論じられたことは漱石論に新しい時代を開いたと思う。

いまの私は『虞美人草』末尾に記された甲野さんの日記の一節、「悲劇はきた」に始まる言葉だ。悲劇は突如として生を死に変える。死に直面して、始めて人は自分に帰り、新しい生の可能性を探り求める。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110619-00000075-san-int   

--------------------------------------------------------------------------------

324.Re: 作家による漱石の作品への批判
名前:飯島幹也    日付:2011/6/20(月) 23:50
ご返信ありがとうございます。

漱石ほどの作家になると、作品に対する評価や受け入れられ方を研究することで、その時代時代の社会状況を理解することできるようですね。様々な批判を受けつつも、いまだに真実と新しさを保ち続け、多くの人々に励みを与える作品の数々は、大変な文化的財産だと思います。

また伊豆先生ご自身の漱石作品への関心の経緯も教えてくださり、大変興味深かったです。私自身は、周期的に急に漱石の文章が読みたくなるときがあります。1度、漱石の長編13編を連続して読んだことがあります。主に夜間や休日、通勤時間などを利用したのですが、だいたい3ケ月かかりました。その時思ったのは、他の作家の小説を読まずに、漱石の作品だけを連続してある期間読むことは、通常の読書とはまた違った印象を作品に対して持てるということです。もちろん、そのことでどれだけ理解が深まったかは、わかりませんが、漱石の1冊1冊を続けて読破することで、相互の作品が、様々な関連を持って私に何かを考えさせるように思いました。

堀田善衛さんは、『若き日の詩人たちの肖像』の中で、当時、強い感銘を受けた作品にポーランドの作家シェンケビッチの『クオ・ヴァディス』を挙げています。

この小説は、ローマ帝国を舞台に、使徒達の活躍によるキリスト教の浸透と、ネロ帝の迫害を描いた歴史小説ですが、信徒の私にとっても、思い出深い作品です。

漱石門の野上弥生子さんが、この作品に触発されて、『秀吉と利休』を書いたことを後年知り、感慨深いものがありました。

丸谷才一さんは上記の漱石集の解説で、さらに「『三四郎』以後の小説に対してわりあい低い評価を下したからといって、文学者としての漱石に対して尊敬を払っていないわけではない。むしろその反対である。」とも述べています。その理由として、①『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』という傑作を3つも書いていること、②偉大な知識人でありながら、しかも優れた小説家であって、つまり一文明の知的指導者であったし、こういう位置を彼ほど長い期間保ち続けている文学者はほかに見られないのである、と述べています。

 

--------------------------------------------------------------------------------

326.Re: 作家による漱石の作品への批判
名前:伊豆利彦    日付:2011/6/21(火) 21:47
シェンケヴィッチの『クオ・ヴァディス』は私も、戦時中でしたが、中学生のころに読んで強烈な印象を受けました。
その後読み直す機会もなくて今日に至りました。当時の私は熱烈なキリスト教徒でした。いま再読すれば、また、新しい感銘があることでしょう。
ただ、昔の読書の記憶はまったく違っていることが多いので、不確かな過去の記憶を大事にしていたほうがいいかもしれません。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110619-00000075-san-int   

--------------------------------------------------------------------------------

327.Re: 作家による漱石の作品への批判
名前:飯島幹也    日付:2011/6/23(木) 0:47
ご返信ありがとうございます。

青春時代の印象を大切にしたいために、『クオ・ヴァディス』の再読を躊躇われるていらっしゃるというお話、大変印象深いです。多感な時期に読んだ本の記憶が、数十年も記憶の中で生き続けるのは、まさに文学の豊かな力だと思います。

私にもそのような小説がいくつかありますが、むしろ初読では気付かなかった箇所が、再読、三読により気づくことが多くあります。

それは私が社会での経験を深めることにより、若いころには理解できなかった箇所が、少しづつ理解できてくるということだと思います。

漱石の作品で言うと、『道草』を学生時代に読んだときには、どこが面白いのかほとんどわからなかったのですが、40代で読んだときには身につまされることが多く、漱石に対して友人にも似た親愛を抱いたことがあります。

優れた小説を繰り返し読めるというのは幸せなことですね。   

--------------------------------------------------------------------------------

328.Re: 作家による漱石の作品への批判
名前:飯島幹也    日付:2011/7/18(月) 10:7
 最近たまたま『両像 森鷗外』という松本清張氏の鷗外の評伝を読みましたので、ご紹介したいと思います。ご承知のように清張氏は『或る「小倉日記」』で鷗外の小倉日記の所在を探し求める孤独な青年を描き芥川賞を受け、また『鷗外の婢』という推理小説を書くなど鷗外に造詣の深い作家です。
 『両像 森鷗外』の中で清張氏は一戸務という人が昭和8年に発表した論文を紹介し、「一戸氏は保の作製した資料内容と鷗外「抽齋」伝とを比較して、両者の距離にほとんど間然なきを指摘した。」と述べています。『澁江抽齋』が抽齋のご子息の保氏の提供した資料をもとに執筆されたことは、よく知られていますが、その資料と鷗外の文章にあまり違いがないというのです。『澁江抽齋』には鷗外のではなく保氏の文学的才能が見られるということです。保氏の資料と『澁江抽齋』の文章の類似箇所を並べて、例証しています。
 松本氏はさらに、鷗外の評論家がこの一戸論文に言及していないことを批判しています。
 松本氏は作家の評伝も多く書き、『文豪』は逍遥、紅葉、鏡花、緑雨の実像に迫った力作です。
 作家による漱石作品への批判を投稿させていただきましたが、漱石と並び称される鷗外の評伝で、思わぬ事情を教えられましたので、ご紹介させていただきました。   

325.幻想文学について 返信  引用 

名前:都民    日付:2011/6/21(火) 2:20

『旧約聖書』『新約聖書』を読んで、なぜ聖書がこれほど愛読されたきたのか少し理解できた気がしました。『エレミヤ書』や『ヨブ記』は文学としても大変な傑作であると思います。また、幻想的な描写が多いことに驚かされました。

大学時代、富士川義之先生の講義で、幻想文学とは何かとローズマリー・ジャクソンの『Fantasy』を読んでいきながら考えさせられました。

『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』は幻想文学の傑作ですが、幻想のなかに人間の真実を追求することは、文学のもっとも根源的な形態の一つであると思います。時代や国が違っても、それは変わらないと思います。『マクベス』や『夕鶴』をあげることもできるでしょう。

私は古典から多くを学びたいと思っています。   

320.漱石の木曜会 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2011/2/12(土) 23:56

夏目漱石宅で、木曜日に漱石の教員時代の教え子や漱石を慕う若手文学者が集まり、さまざまな議論をした木曜会の様子は鏡子夫人の「漱石の思い出」などにも詳しく書かれていますが、時に癇癪を起す漱石に、多くの人々が魅了され、集まったのは、やはり大きな人間的魅力があったのだと思います。
人間関係の希薄さに、気楽さを感じつつも、寂寥を覚える私には、「来たる者は拒まず、去る者は追わず」のこの会に羨望を抱きます。
阿川弘之さんの「志賀直哉」を読むと、直哉邸にも千客万来だったと書かれていますし、臼井吉見さんの「安曇野」にも、相馬夫妻を中心に中村屋には多くの、芸術家や文学者が集まったことが書かれています。
文豪と呼ばれる人には、文才だけでなく、なにか人を引き付けるものを備えていたんですね。 

--------------------------------------------------------------------------------

321.Re: 漱石の木曜会
名前:伊豆利彦    日付:2011/3/16(水) 23:46
漱石の弟子たちへの手紙を読むと、一々親切に長い手紙を書いていることに感心します。温かい思いやりと的確な教えに弟子たちは引きつけられたのだと思います。上下関係ではなくて友人関係の様なものを感じます。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011031690070602.html   

315. 漱石の新年  返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2011/1/22(土) 6:30

 夏目漱石は1867年(慶応3年)旧暦1月5日、新暦では2月9日に牛込の馬場下に生まれた。慶応3年は丁卯の年である。いまから数えれば12×12、144年昔のことになる。

1915年(大正4)の1月13日から2月3日まで朝日新聞に連載した『硝子戸の中』第2回に、ある雑誌の新年号に写真の撮影を申し込まれたことを書いている。その雑誌に掲載される写真はみな笑っているのが気になって撮影を断ったが、笑わなくていいのだと言われて承諾した。ところが、出来上がった雑誌の写真はやはり笑っていた。修正を加えられたのだ。

 1915年の前年は4月20日から8月11日まで、「朝日新聞」に『こころ』を連載した年だが、脱稿した八月一日の前後からヨーロッパの戦争が拡大し、日本も参戦して、世界大戦に発展した。この時期、神経衰弱が悪化して家族を苦しめ、何をする気にもならない暗鬱な気分で過ごしたことは、十一月二十五日、学習院輔仁会で行った講演「私の個人主義」の冒頭に語られている。この年は新年とはいえ、決して笑っている顔を世間に曝す気にはならなかったのだ。第1回には暗い気分で新年を迎えたことが書かれている。

>去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当(けんとう)がつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来(きた)るべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だと零(こぼ)している。
(『硝子戸の中』一 朝日新聞一九一五年一月一三日)

ホームページ
http://homepage2.nifty.com/tizu/ 

--------------------------------------------------------------------------------

319.Re:  漱石の新年 
名前:伊豆利彦    日付:2011/1/22(土) 6:34
上記「漱石の新年」には日付に誤記があったので訂正しました。   

316.「大逆」事件とドストエフスキー 返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:2011/1/20(木) 6:14

 幸徳秋水らが「大逆事件」の名のもとに死刑を宣告されたのは1911年1月18日のことだった。前年5月末から6月にかけて、数百人の社会主義者・無政府主義者検挙され、26人が明治天皇暗殺計画容疑として起訴され、異例の速さで秘密裁判が行われて、1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決が出て、12名は特赦無期刑になったが、1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。

漱石はこの事件について直接言及することはなかったが、『思い出す事など』(1910年10月29日~11年2月20日)第21回に、死刑を宣告されて計の執行直前に特赦で命を助かったドストエフスキーのことを、いわゆる修善寺の大患で一度意識を失って生き返った経験とからませて語っている。

>彼は彼の倶楽部で時事を談じた。やむなくんばただ一揆あるのみと叫んだ。そうして囚われた。八カ月の長い間薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空の下に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、襯衣(シャツ)一枚の裸姿となって、申渡の終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍に立つ同囚に問うた言葉である。……白い手帛(ハンケチ)を合図に振った。兵士は覘(ねらい)を定めた銃口(つつぐち)を下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の捏ね丸めた熱い鉛の丸(たま)を呑まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。
(『 思い出すことなど』二十一) 

--------------------------------------------------------------------------------

317.誤記訂正
名前:伊豆利彦    日付:2011/1/20(木) 6:23
「『大逆」事件とドストエフスキー」には誤記があったので訂正しました。1月18日に処刑されたと記しましたが誤りで、判決を言い渡されたのでした。訂正します。、   

--------------------------------------------------------------------------------

318.啄木の日記から
名前:伊豆利彦    日付:2011/1/20(木) 17:21
1月18日 半晴 温
 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。午前に前夜の歌を精書して創作の若山君に送り、社に出た。
 今日程予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。二時半過ぎた頃でもあったろうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ二十四人!」そういう声が耳に入っだ。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告していた。予はそのまゝ何も考えなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考え乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
 夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあった。
 〔受信〕牧水君より。
1月19日 雨 寒
 朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」
 そういう言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、そうして日本は代々社会政策を行っている国である。と御用記者は書いていた。
 桂、大浦、平田 小松原の四大臣が待罪書を奉呈したという通信があった。内命によって終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判々決について大権の発動があるだろうという通信もあった。
 前夜丸谷君と話した茶話会の事を電話で土岐君にも通じた。
1月20日 雪 温
「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送った
 昨夜大命によって二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されだそうである。
 東京は朝から雪がふっていた。午後になっても、夜になっても止まなかった。
 仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたいたいような気分がした。
 前夜書いた「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送った。それと共に、毎月二人の書くものは、何頁ずつという風に自由な契約にしよう、そうでないと書くということが権利でなくて義務のような気がすると言ってやった。
 〔発信〕土岐君へ。 
http://mainichi.jp/select/today/news/20110120k0000m030147000c.html?inb=fa 

313.漱石の名言 返信  引用 

名前:山嵐    日付:2010/10/17(日) 11:59

ネット上にて「馬は走る。花は咲く。人は書く。自分自身になりたいが為に」という文が、漱石の「名言」として紹介されています。
どのような文脈でいわれたのか、著作にあるのか、ぜひ知りたく探してきましたが、見つかりません。
これは本当に漱石の言葉なのでしょうか。
下世話な質問でもうしわけありませんが、ご教示いただければ幸いです。 

--------------------------------------------------------------------------------

314.Re: 漱石の名言
名前:伊豆利彦    日付:2010/10/18(月) 8:6
私もわかりません。ご存じの方はお知らせください。   

312.朝日新聞の漱石についての記事について 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2010/8/14(土) 21:30

本日の朝刊に「漱石、閔妃墓訪問の謎 日韓併合前年、韓国旅の道中」と題する記事が掲載されていました。
紀行『満韓ところどころ』や日記から、漱石の閔妃事件に対する関わりを論じた記事です。
その中で金正勲・全南科学大学(光州)副教授の「歴史認識をしっかり踏まえたうえで、批判だけで終わらず、文化共存の視点から、漱石文学の新しい読みをしたい」というコメントが紹介されていました。   

308.(untitled) 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2010/7/27(火) 1:0

ご返信ありがとうございます。

 小川国夫氏の「漱石、頼りになる案内人」は文芸春秋2004年12月臨時増刊号 特別版「夏目漱石と明治日本」に掲載されています。 
 「漱石が時代をよく知る小説家であることは、今さら言う必要もないことですが、彼が反時代的であったことも頭に入れておかなければなりません。彼は(いわゆる)日本の進歩を追いかけはしませんでした。それを見すかしていました。それが貴重なものを抹消して行くのをいきどおっていました」という意見を述べています。
 伊豆先生が多感な少年期にキリスト教に深く親しまれたことを知り、大変うれしく思いました。私も、戦時中の日本の教会がどういう態度を取ったかを聞いたり、読んだりしたことがあります。
 誠実な信徒達には、悲しく辛い時期だったと心が痛みます。あらためて、現在の信仰や言論の自由が尊いものに思われます。
 また私もキリスト教に影響を受けた作家の作品を読むのが好きで、信徒であった島尾敏雄氏の作品なども好んで読みます。代表作の「死の棘」の題名はコリント人への手紙に出てくる言葉ですね。
 信徒ではありませんが大江健三郎氏の作品も魂の救済や罪や赦しといった極めてキリスト教的なテーマを持つゆえ、海外でも多くの読者を獲得しているのだと思います。大江氏がブレイクやイエーツといった信仰をテーマとした作品を多く書いた詩人に対する理解と愛着をもとに小説を書いていることも有名ですね。
 最近ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が多くの人々に読まれていることもうれしい現象です。

 暑さきびしき折、お元気でお過ごしください。 

--------------------------------------------------------------------------------

309.死を見つめる漱石
名前:伊豆利彦転載    日付:2010/8/1(日) 15:18
旧稿ですがUPロードしました。
参考になれば幸いです。
http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/2010/08/post-30be.html   

--------------------------------------------------------------------------------

310.Re: (untitled)
名前:飯島幹也    日付:2010/8/2(月) 0:8
前回の投稿で返信にするつもりが、あわてて新しい投稿を増やしてしまい申し訳ありませんでした。
また「死を見つめる漱石」のご転載ありがとうございます。大変興味深く拝見しました。
自身の死を予感して、初めて人間らしく生きられるということはよく言われることですが、まして漱石のような才能あふれる作家が修善寺大患等で、死を見つめたからこそ晩年の傑作が生まれたことを理解しました。
私も満50歳で、漱石の年齢を超えましたが、まだ気分的には30歳くらいの感覚で、とても漱石の境地には至りません。
文中で「漱石の思い出」を書いた鏡子夫人のことが出てきますが、漱石の亡くなったあと、東京大田区の上池上に住まわれていたと思うのですが、私も池上で生まれ小学校時代を過ごし、不思議な縁を感じたことがあります。
私が池上で過ごした同じ時期に、清岡卓行氏が暮らしており、奥様を失った悲しみを「アカシアの大連」で描いていたこともあとで知りました。   

306.漱石、頼りになる案内人 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2010/7/21(水) 0:7

題名は小川国夫氏が漱石を論じた文章の題名です。確かに漱石の作品は現代において、まさに「頼りになる案内人」という表現にぴったりの存在感を持っていると思います。
小川国夫氏も好きな作家です。私もキリスト教徒(プロテスタント)であり、小川氏の作品のテーマに強く惹かれます。
また私は横浜市立大学の英文科を出ていますが(伊豆先生の講義も受けたことがあります。)その当時、仏文科の教授をされていた、金子博氏が同人誌「青銅時代」で小川国夫氏、丹羽正氏などとともに、作品を書いていたことをつい最近知り、感慨深いものがありました。 

--------------------------------------------------------------------------------

307.Re: 漱石、頼りになる案内人
名前:伊豆利彦    日付:2010/7/26(月) 13:20
ご投稿ありがとうございます。

私も父がキリスト教で、戦争中は熱心なキリスト教徒でした。
戦争の末期は広い教会に信者は私一人のこともありました。
牧師は祈りの中で皇軍の武運長久を祈ると言うようになり、私は疑問を感じるようになり、戦後はアメリカべったりの若い牧師や、軽薄な若者が集まってくるようになって、いつのまにか教会を離れてしまいました。

年をとってからは仏教に関心を持つようになりましたが、私の思想の基礎は少年時代のキリスト教だと思っています。戦後の文学では武田泰淳、椎名麟三、遠藤周作などに強い影響を受けました。大岡昇平にも少年期のキリスト教の影響があると思います。

小川国夫さんの「頼りになる案内人」は何に収録されていますか。ぜひ読んで見たいと思います。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-07-26/2010072601_02_1.html   

304.野分 自己に何等の理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。 返信  引用 

名前:伊豆利彦転載    日付:2010/7/13(火) 18:11

野分 自己に何等の理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。

「事実上諸君は理想を以ておらん。家に在っては父母を軽蔑し、学校に在っては教師を軽蔑し、社会に出でては紳士を軽蔑している。これ等を軽蔑し得るのは見識である。然しこれ等を軽蔑し得る為めには自己により大なる理想がなくてはならん。自己に何等の理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。現代の青年は滔々として日に堕落しつつある」

・・「英国風を鼓吹して憚からぬ者がある。気の毒な事である。己れに理想のないのを明かに暴露している。日本の青年は滔々として堕落するにも拘わらず、未だ此所までは堕落せんと思う。凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である。奴隷を以て甘んずるのみならず、争って奴隷たらんとするものに何等の理想が脳裏に醗酵し得る道理があろう。 

--------------------------------------------------------------------------------

305.Re: 野分 成功を目的として人生の街頭に立つものは凡て山師である。 
名前:伊豆利彦転載    日付:2010/7/13(火) 18:27
何歳まで生きるかは、 生きたあとで始めて言う可きことである。

◇自己がどれ程に自己の理想を現実にし得るかは自己自身にさえ計られん。 過去がこうであるから、 未来もこうであろう ぞと憶測するのは、 今まで生きていたから、 これからも生きるだろうと即断するようなものである。 一種の山である。 成功を目的として人生の街頭に立つものは凡て山師である。

◇社会は修羅場◇理想の大道を行き尽くして、 途上に斃るる刹那に、 わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行く……諸君の事業そのものによって伝えられなければならぬ。   

300.「彼岸過ぎまで」と「リトル・ドリット」 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2010/4/3(土) 22:14

前回、漱石とディケンズについてちょっと書きましたが、もう一つ気づいた点を書きます。

漱石の「彼岸過ぎまで」もディケンズの「リトル・ドリット」も男性の主人公の母親が実は生みの親ではなく、事情あって育ての親であり、なおかつ両者の主人公とも、その事実を知らずに育ったのです。
2つの小説の筋やテーマは違いますが、2人とも本能的に不安感をもって育ち、それが性格や運命に影響を与えている点は共通しています。
もし漱石がデイケンズのこの小説を読んでいたら、「彼岸過ぎまで」を執筆するときに念頭にあったのではないかという想像を楽しんでいます。 

--------------------------------------------------------------------------------

301.ディッケンズと「二百十日」
名前:伊豆利彦     日付:2010/4/8(木) 8:2
ご指摘ありがとうございました。
ディケンズと漱石は深い関係があったと思います。
「二百十日」では圭さんが二都物語について次のように言っています。

「君はジッキンスの両都物語りと云う本を読んだ事があるか」
「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ジッキンスは読まない」
「それだから猶貧民に同情が薄いんだ。――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」
「へえ、どんなものだい」
「そりゃ君、仏国の革命の起る前に、貴族が暴威を振って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寐ながら話してやろう」
「うん」
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ事さ」と圭さんは立ち留まって、黒い烟の方を見る。   

--------------------------------------------------------------------------------

302.漱石の手紙
名前:飯島幹也    日付:2010/4/10(土) 23:56
ご返信ありがとうございます。

漱石の手紙にディケンズの感想が書かれています。

1907年8月15日に小宮豊隆あてに書かれた手紙で、その中で次のように述べています。
「是で見るとヂッケンスやスコットが無暗にかき散らした根気は敬服の至だ。彼等の作物は文体に於いて漱石程意を用ひていない。ある点に於いて侮るべきものである。然しあれ丈多量かくのは容易な事ではない。」
この記述から、漱石がディケンズの小説をたくさん読んでおり、ディケンズの豊かな文才は認めつつも、自分のほうが、作品を書く苦心は払っていると思っていたことがわかります。
この時、漱石はちょうど40歳で、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「虞美人草」を既に発表し、朝日新聞社で職業作家としてスタートしていた時期です。
その漱石の気概や自負が明瞭に見られ、印象深いです。また自分のことを「漱石」と書いていることも面白いです。
手紙は作品と違って、漱石の本音が随所に見られ、肉声を聞くような親しさがあります。また、いろいろな発見があり、作品を解く鍵を与えてくれるように思えます。
なお、ある英文学者の文章によると、、「ピックウィック・ペイパース」、「マーティン・チャズルウィット」、「二都物語」の三冊が漱石の蔵書にはいっていたそうです。   

--------------------------------------------------------------------------------

303.佛蘭西の革命を対岸で見てゐた英吉利と同じ教訓
名前:伊豆利彦 転載    日付:2010/4/12(月) 23:49
明治44年11月11日の日記に漱石は次のように記している。二都物語を思い起こしていたのだと思う。

 近頃の新聞は革命の二字で持ち切っている。革命といふやうな不祥な言葉として多少遠慮しなければならなかった言葉で全紙埋まつてゐるのみならず日本人は皆革命党に同情してゐる。ーー革命の勢がかう早く方々へ飛火しやうとは思はなかった。一ヶ月立つか立たないのに北京の朝廷は亡びたも同然になった様子である。痛快というよりも寧ろ恐ろしい。
 佛蘭西の革命を対岸で見てゐた英吉利と同じ教訓を吾々は受くる運命になったのだらうか。
http://www.asahi.com/international/update/0412/TKY201004110168.html   

298.漱石の写真 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2010/3/31(水) 23:31

漱石の作品は大変堅苦しいという印象を持たれていますが、実際には「猫」、「坊っちゃん」はもちろんのこと、どの作品も、何とも言えないユーモアに満ちています。
青年たちが食わず嫌いで、この面白さを味わわないのは大変、残念です。例えば「坑夫」は、漱石が学んだ、英文学のディケンズの軽妙な語り口を思い出させます。
そこで、著作や文学史に使用される漱石の写真を笑顔のものにしたらどうでしょうか?
青年に親しみが湧くのではないでしょうか? 

--------------------------------------------------------------------------------

299.Re: 漱石の写真
名前:pigeon    日付:2010/4/3(土) 11:11
「ガラス戸の中」二

 私は生れてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復讐を受けたのかも知れない。

確かに「ニコニコ」した漱石の顔は不自然な気がしないでもない。ユーモアの底にも一抹の翳りがある。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/760_14940.html   

296.戦後の文学における敗戦の意味 返信  引用 

名前:伊豆利彦 転載    日付:2010/1/5(火) 13:7

 戦後の文学における敗戦の意味 伊豆利彦
 『日本近代文学』第9集 1968年10月

 一九四五年八月十五日、その日はいつもと変らずに明け、同じように暮れた。くりかえす自然の営みにおいて、それは決して特別の日ではなかった。人々にとっても、肉体的体験としてはすこしも特別の日ではなかったろう。けれどもそれは日本人にとって生涯忘れることの出来ない日となった。人々は自分の実感として、歴史のまっただ中にいることをまざまざと感じた。それはまさに歴史的な国民的な体験であった。もちろんその内容はさまざまであったが、むきだしにされた自分白身に直面し、国家について、歴史について、そしてまた人間について、それらすべて根本的な問を自らに問わなければならなかった。それは各人の生涯の転換点であり、新しい出発点であった。戦後の文学もこの日を出発点としたのであり、その日の意味をさまざまに追求している。

 <戦争が終った。ー-それは不思議でも何でもない。戦争がいつ終るだろう?それは何百ぺん考え、何千べんつぶやいたことだろう。しかしまた、戦争が終ったーーそれは何と不思議な、とんでもないことだろう。>徳永直は「妻よねむれ」でそのような混乱した自分を表白するところから出発した。疎開先の農家の土間で、村人たちと天皇の放送を聞いた直は、その瞬間の村人たちの当惑と混乱と昂奮を伝えている。天皇や政府を信じ、すべてを失ってなお一生懸命な国民の激情のどこへ持って行きようもない噴出がそこにはあった。

以下全文
http://tizu.cocolog-nifty.com/ronbun/2009/12/post-1816.html 

--------------------------------------------------------------------------------

297.Re: 戦後の文学における敗戦の意味
名前:伊豆利彦     日付:2010/1/5(火) 13:33
40年も以上の論文だが、私の戦後の文学に対する考え方を決定した論文である。この考え方は、広津和郎論でますます強化され、最近では夏目漱石を新しくとらえ直す景気となった。

以下を参照していただければ幸いです。

「いまよみがえる広津和郎  散文精神について」
http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/imayomigaeruhirotukazuo.htm

日文協近代部会 2006年10月15日 レジメ
二葉亭 漱石 啄木 広津 文学史の可能性
http://homepage2.nifty.com/tizu/bassui/bungakusinokanousei.htm

講演 漱石と啄木 
http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/souseki@takuboku.htm
http://tizu.cocolog-nifty.com/ronbun/2009/12/post-1816.html   

295.漱石の朝鮮 返信  引用 

名前:金 正 勲    日付:2009/12/30(水) 9:36

漱石は朝鮮旅行の時、ソウルの南山から下りて次のように歌った。

    高麗百済新羅の国を我行けば

       我行く方に秋の白雲

    肌寒くなりまさる夜の窓の外に

       雨をあざむくぽぷらあの音

    草繁き宮居の迹を一人行けば

       礎を吹く高麗の秋風

 しかし、この内容に穆(シズカ)さんは「要領を得ない歌だな」と述べたという。穆さんは、妻鏡子の妹時子の夫鈴木禎次の弟で、朝鮮総督府副総督をしていた人物。

漱石は、朝鮮総督府副総督(自分の妻の親戚に当たる穆さん)と過ごしていたわけだが、漱石の朝鮮を見る心境は複雑であっただろう。

イギリス社会の格差を鋭い視線で批判した漱石とはいえ、日本の朝鮮植民地化について日本の責任を公開的に問い詰めることができなかったところには、こうした背景からのものもあったと思う。   

294.漱石の好きな作品 返信  引用 

名前:飯島幹也    日付:2009/12/5(土) 1:6

自由な読者として、好きな作品のベスト5は、「吾輩は猫である」、「道草」、「彼岸過ぎまで」、「明暗」、「それから」です。
多くの女性たちの可憐な描写に強く惹かれます。例えば「それから」で本心を打ち明けられた三千代の姿です。それから子供の描写にも惹かれます。多くの作品に子供の姿が活写されており、「彼岸過ぎまで」で子供が亡くなる描写が印象深いです。さらに、作品に鏤められている、和漢洋に渡る、漱石の博識を読むのも楽しみです。 

→←↑↓

Nami線

|

« 2012/10/24(水)→2012/12/02  | トップページ | 2008/2/5(火) → 2009/11/11(水) 22:9 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92803/56237324

この記事へのトラックバック一覧です: :2009/12/5(土)→2012/2/11(土) 3:27 :

« 2012/10/24(水)→2012/12/02  | トップページ | 2008/2/5(火) → 2009/11/11(水) 22:9 »