2005年11月22日 (火)

この宿なしの小猫

捨て猫 迷子 乞食            漱石一覧 

下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。

  漱石は〈捨て猫〉に変身し、〈捨て猫〉の言葉で語った『吾輩は猫である』で、はじめて作家としての道を歩き始めた。

この〈捨て猫〉のイメージは「健三は海にも住めなかった。山にも居られなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した」と述べられた『道草』の健三に通じるものがある。

『吾輩は猫である』の「吾輩」は竹垣のくずれた穴から苦沙彌の家の台所 にはいこんで、おさんに首筋をつかんで投げ出される。しかし「ひもじいのと寒いのにはどうしても我慢ができん」ので、何度投げ出されてもはいあがり、とうとう主人の好意で苦沙彌家に寄生することになったのである。

『虞美人草』の小野さんも「暗い所に生まれた」「水底(ミナソコ)の藻」であった。「ある人は私生児だとさえ云う。筒袖を着て学校へ通う時から友達に苛められていた。行く所で犬に吠えられた。父は死んだ。外で辛ヒドい目に遇った小野さんは帰る家がなくなった。已むなく人の世話になる」と語られている。小野さんは人の世話になって学校に行き、学問を手段として、暗い坑の中からはい出そうとする。

一方、小野さんの羨む家と財産の所有者である甲野さんは、すべてを捨てて家を出たいと願いながら途中で引っ掛かっているのである。「酔払っていると知りながら、胡座(アグラ)をかく事も跪坐カシコマることも出来ない人類 だろう」と宗近君に言われて、「まあ立ん坊だね」と淋しく笑う。

『坑夫』の主人公は家出して漂泊し、地の底まで迷って行く。『三四郎』の美禰子は自分を「お貰いをしない乞食」と言い、「迷子(ストレイシーフ)゚」と言う。

『それから』の代助は甥 の誠太郎の前途について、「到底人間として、生存する為には、人間から嫌われると云う運命に到着するに違いない。その時、彼は穏やかに人の目に着かない服装ナリをして、乞食の如く、何物かを求めつつ、人の市をうろついて歩くだろう」と思う。

そして彼自身、父と社会の掟に背いて三千代に対する愛に生きようとした時、「明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食(コツジキ)の群の中に見出」さなければならなかった。

『行人』の一郎は「こうして髭を生やしたり、洋服を着たり、シガーを銜えたりするところを上部から見ると、如何にも一人前の紳士らしいが、実際僕の心は宿なしの乞食みたように朝から晩までうろうろしている」と言う。

この一郎の言葉は『門』の宗助にも、『彼岸過迄』の須永にも、『こゝろ』の先生、『道草』の健三にもあてはまるのであろう。

最後の作品『明暗』では、吉川夫人を訪問した帰り道、橋の所で暗い欄干の下にうずくまる乞食を見た津田について「彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうと寧ろ早過 ぎる瓦斯煖炉の温かい焔をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中には 殆んど入る余地がなかった」と述べられている。

藤井の叔母に「心が派手で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走はないかって、きょろきょろ其所いらを見廻してる人みた様で」 と言われ、「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」と言う。

失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩 馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう?

「明暗」の終りに近く、馬車で清子のいる温泉に向かう津田は、しきりに鞭打たれる惨めな痩せ馬を見て、自分自身をこの「彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物」と同じだと思う。津田は、「温泉烟ユケムリの中に乞食の如く蹲踞ウズクまる津田の裸体ハダカ姿」と形容されるのである。

〈捨て猫〉〈迷子〉〈乞食〉のイメージは、漱石の作品世界の裏と表に始めから終りまでさまざまな形であらわれ、漱石の文学世界をつらぬく一筋の赤い糸となっている。

『文学論』序にも「余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あはれなる生活を営みたり」「清らかに洗ひ濯げる白シャツに一点の墨汁を落としたる時、持ち主は定めて心よからざらん。墨汁に比すべき余が乞食の如き有様にてヱストミンスターあたりを徘徊して・・・」と述べている。

この序文はいよいよ大学を止めて作家として生きる決 意を固めていた時期に、『文学論』そのものとは独立に『読売新聞』に発表された。

漱石はこの文章で、学者としての自己を総括し、文学を生命とする作家として生きる決意を表明したのである。このために漱石は不愉快な英国生活をどうしても想起しなければならなかった。   

「帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たるの光栄と権利を有する余は、五千万人中に生息して、少くとも五千万分の一の光栄と権利を支持せんと欲す。此光栄と権利を五千万分の一いかに切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若くは余が本国を去るの挙に出づる能はず、寧ろ力の継く限り、之を五千万分の一に回復せん事を努むべし。是れ余が微小なる意志にあらず。余が意志以上の意志なり。余が意志以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざるなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣民たるの光栄と権利を支持する為めに、如何なる不愉快をも避くるなかれと云ふ。」

二年間のロンドン生活は、漱石の作家としての自己確立に決定的な意味を持ったと思う。この学者としての自己を総括した『文学論』序は、やがて、大学をやめて『朝日新聞』に入社し、「文学を生命とする」職業作家として生きる覚悟を述べたものであった。

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