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2007年8月13日 (月)

漱石を読む会 2007 年8月26日 『虞美人草』 その2  

  京に着ける夕 
 汽車は流星の疾(はや)きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。余が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟(ごう)と去った。
 たださえ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡(ひえ)と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒(はるさむ)の宵に、とく走る汽車から会釈なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯(ひ)が尽きる北の果(はて)まで通らねばならぬ。
「遠いよ」と主人が後から云う。「遠いぜ」と居士が前から云う。余は中の車に乗って顫(ふる)えている。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。昨日までは擦れ合う身体(からだ)から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身(そうみ)に煮浸(にじ)み出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏(さんぷく)の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽(しゅっこつ)とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配した。

 始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日(こんにち)に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁(わきま)えぬ。汁粉であるか煮小豆(ゆであずき)であるか眼前に髣髴する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の迅(すみや)かなる閃(ひらめ)きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜のごとく干枯(ひから)びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮(ちぢ)めて京都を南から北へ抜ける。

連載近代文学の周辺  第九回
漱石は日露戦争直前の時期の英文ノートに、地震や津波は人間に対する「自然の復讐」であると記している。人々は火山の火口のまわりで死のダンスを踊りながら、太陽がまた明日も昇ると信じて、楽しい人生だなどと言っていると言い、紳士淑女、大学教授、政治家などが、進歩や文明開化の名において、虚偽に虚偽を重ね、自然を破壊し、自然に背くことに対して、激しい呪咀の言葉を投げ掛けている。「自然は真空を嫌う。愛か憎悪か!自然は代償を好む。眼には眼を!自然は戦を好む。死か独立か!」漱石は「自然は復讐を奨励する」と言い、「復讐は甘美である」と言う。「自然に背く害虫」である人間を殺すのは、自分達の女神である「自然の法」だと言うのである。
  「自然の復讐」は地震や津波としてあらわれるばかりではない。漱石は戦争を人間の根底に潜む「野獣性」の爆発であり、文化文明に自惚れて驕慢になり、自然を忘れ、自然に背いて顧みない人間に対する「自然の復讐」であると言う。しかし、人間はこの戦争をさえ、ますます美しい言葉で飾り立てる。敵に対しては最大級の侮蔑と悪罵を浴びせ、味方には最大級の美化と称賛の言葉を捧げる。この偽善性こそ限りなく人間を堕落させるのだと漱石は言う。
  万物の霊長だなどと自惚れて、現代の文化文明を賛美し、「正義」だとか「人道」だとか、「愛は神聖だ」とかと、自己の野獣性を美しい言葉で飾り立て、互いに称賛しあっている紳士淑女の偽善と自惚れに対して、漱石は激しい憎悪の言葉を書き連ねている。彼等を踏みにじるために、お前の希望や研究、お前に貴重なもののすべてを犠牲にせよ。そして、彼等がお前の足の下であえぎながら、最後の息とともに弱々しい後悔の叫びをあげるまで決して止めてはならぬ。彼等は進歩の名において、彼等よりもよきものを、彼等の堕落した水準にまで引きおろそうとしている。彼等のこの傲慢や術策の価値を彼等に知らせねばならぬ。漱石の英文のノートには、このような意味の激しい言葉が延々と書き連ねられている。
  この激しい怒りと弾劾、憎悪と呪咀、血にかわく復讐の誓いは、誰にも知られないように、自分だけのノートに英文で書かれている。この激情は直接に公然と発表することが出来なかった。しかし、それだけに一層激しく心の中で沸騰した。この激情が漱石を作家の道に駆り立てた。それは決して見破られてはならないが、どうしても表現されなければならなかった。それは芸術的に加工され、変形されて『吾輩は猫である』という独特の芸術世界を生み出した。その滑稽諧謔はこの激情の文学的変形である。
  『二百十日』の圭さんは阿蘇の噴煙を仰いで、「仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの轟々鳴って噴き出すのと同じ事さ」と言う。圭さんは「僕の精神はあれだよ」と言い、「血を流さない」「文明の革命」を主張するのである。漱石は生涯にわたって「自然の理屈」を強調した。社会現象にも「自然の理屈」が貫徹する。フランス革命が起こるのも「当然」であり、「自然の理屈」であった。人間が自己にうぬぼれて驕慢になり、自然を忘れ、自然に背き、自然を蹂躙して顧みない時、戦争が起こり、革命が起こる。漱石にとって、それは避け難い「自然の復讐」であり「自然の理屈」であった。

日露戦争と虞美人草
 朝鮮・中国 ふみつぶす 藤尾 小夜子

[13]224 「藤尾の様な女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気を付けないと危ない」
  女は依然として、肉余る瞼を二重に、愛嬌の露を大きな眸の上に滴しているのみである。危ないという気色は影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると昨夕の様な女を五人殺します」
  鮮かな眸に滴るものはぱっと散った。表情は咄嗟に変る。殺すと云う言葉はさほどに怖しい。――その他の意味は無論分らぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
  女は咽喉から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥み下した。顔は真赤になる。

「動けば吐く」
「厄介《やっかい》だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界|万斛《ばんこく》の反吐皆|動《どう》の一字より来《きた》る」

生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶の累《わずらい》を捨て たるは、雲の岫を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥を超絶したる活気である。古今来を空しゅうして、東西位を尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫も吸い尽くして、元の五彩に還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側《こちらがわ》なるすべてのいさくさは、肉|一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情けの油を注《さ》して、要なき屍に長夜の踊をおどらしむる滑稽である。遐《はるか》なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。

 死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気は中々已まないものだ」
「已まなくって好いから、突き当るのは真っ平御免だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工の好な人間がさ」
山を下りて近江の野に入れば宗近君の世界である。

四  甲野《こうの》さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
 小野さんは色を見て世を暮らす男である。
 甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「生死因縁無了期《りょうきなし》、色相世界《しきそせかい》現狂癡《きょうちをげんず》」
 小野さんは色相《しきそう》世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖《つつそで》を着て学校へ通う時から友達に苛《いじ》められていた。行く所で犬に吠《ほ》えられた。父は死んだ。外で辛《ひど》い目に遇《あ》った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。

F「 支那や朝鮮なら、 もとの五分刈で、 此のだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
[1] 甲野と宗近  東洋専門の外交官 東洋の経綸

 「今に人間が進化すると、 神様の顔へ豚の睾丸をつけた様な奴ばかり出来て、 →前回F

韓国漱石研究会講演から 過去が追いかけてくる
 漱石の文学で「過去」が、大きな意味を持ち、作品の中心的主題になるのは、『朝日』入社直後の「虞美人草」からでした。
 「過去」という語の使用頻度は「吾輩は猫である」2件、「坊っちゃん」0件、「草枕」1件でした。「野分」は10件ありますが、その用法は前述の通りでした。ところが、「虞美人草」になると31件で、たとえば、次のように使われています。

われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近付いて来る。逼って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超えて、暗夜を照らす提灯の火の如く揺れて来る、動いてくる。(中略)今までは只忘れればよかった。未来の発展の暖く鮮やかなるうちに、己れを捲き込んで、一歩でも過去を遠退けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤られて、動くかとは掛念しながらも、先ず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫でていた。

 忘れたい「過去」が追いかけてきて、小野さんの「現在」と「未来」をおびやかす。このテーマはさまざまに変形されて、「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」とこの後の漱石文学の中心的主題となります。

健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は平生の彼にとって遠い過去のものであった。然しいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。

「道草」の直前のエッセイ「硝子戸の中」でも、当時の世界大戦と自分の病気を関連させて、「継続中」ということを言っています。ヨーロッパの戦争と同様に自分の病気は「継続中」なのだ。しかし、「継続中」のものは自分の病気だけではないだろう、だれの心の奥にも「私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜んでいる」のではないか。もしそれが、彼らの胸に響くような大きな音で一度に破裂したらどうだろう。

「所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。」

「私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。」

 遠い過去からいまにつづき、そして未来につづく連鎖のなかに自分はいて、自分はその過去の罪過を忘れているが、それが突然いまの問題としてつきつけられる。「夢十夜」の第三夜、背中に背負った子供が急に重くなり、「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と言う夢の話は、漱石の作品に形を変えてくりかえされるのであります。

 この問題はアジアに対する日本の問題だと考えることが出来ます。英国留学中、三月十五日の日記に次のような言葉があります。

日本人ヲ観テ支那人トイハレルト厭ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリ遥カニ名誉アル国民ナリ、タダ不幸ニシテ目下不振ノ有様にニ沈淪セルナリ、心アル人ハ日本人ト呼バルヽヨリモ支那人と云ハルヽヲ名誉トスベキナリ、仮令然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ、少シハ考ヘテ見ルガヨカラウ、西洋人ハヤヽトモスルト御世辞ニ支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好キダトイフ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイトイフ御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ。

 また、おなじ頃の断片には次のように記しています。

人は日本を目して未練なき国民といふ。数百年来の風俗習慣を朝食前に打破して毫も遺憾と思はざるはなるほど未練なき国民なるべし。去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味において未 練なきかは疑問に属す。西洋人の日本を賞讃するは半ば己れに模傚し、己れに師事するが為なり。其支那人を軽蔑するは己れを尊敬せざるが為なり。 (句読点は引用者による)

 すこし後の文章でありますが、1911年に発表した「マードック先生の『日本歴史』」には次のように書いています。

 歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一所に〓徊して、われらが歩んで来た道を顧みる暇を有たない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙せられつつある。われらは歴史を有せざる成り上りものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く。

 われらはただ二つの眼を有っている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮(あせり)に焦慮(あせっ)て、汗を流したり呼息(いき)を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇しき病毒を社会に植付けつつある。夜番のために正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにもかかわらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである。

 漱石は日本がアジアの一員として、中国文化の恩恵を受けて発展してきた過去があるにもかかわらず、これを忘れ、ひたすら西洋を模倣し、中国を馬鹿にし、中国と戦って、近代国家として発展し、それを誇りにしている。しかし、その内実は軍備に追われて悲惨なものだと言っているのであります。

「虞美人草」の小野さん、「道草」の健三の問題はこの日本の近代化の問題と重なり合うものがあるのではないでしょうか。それは漱石自身の問題であると同時に、日本の近代化の矛盾を示すものでもあったのです。そして、日本はどこへ行くか。

 漱石の小説の主人公たちは、よみがえる過去と出会って自分自身を発見し直すのですが、日本は過去をふりかえる余裕もなしに、ひたすら、前へ前へと突き進んでいる。その日本の未来を、漱石は憂慮と不安をもって見つめ、「危ない、日本は危ない」と警告を発しているのです。

19 そんな確かなもの  42宇宙は謎
[2] 藤尾と小野 30世界  露西亜  虚無党  掏摸  二人の世界
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極《きわ》まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を喙《ついば》んでは嬉しげに羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損ねた。

 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。→前回

当世
316 来る人も往く人も只揉まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸に見出して、安々と踵を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう後ろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢の様に心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し潰す為めに皆が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢の間に立って、多数より優れたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションは尤も当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。只あっと云って、当世的に生存の自覚を強くする為めである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる後家に帰って安眠する為めである。小野さんはこの多数の当世のうちで、尤も当世なものである。得意なのは無理もない。

392 若い女と連れ立って路を行くは当世である。只歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵とは云わせぬ。今宵限の朧だものと、即興にそそのかされて、他生の縁の袖と袂を、今宵限り擦り合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋めて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支ない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併べられた二つの石の引っ付く様な浅い関係ではない。

 百年計画
◆森田草平宛書簡「百年の後百の博士は土と化し千の教授も泥と変ずべし」
人若し向上の信を抱いで原事をなす時貴キ事神人ヲ超越シテ蓋天蓋地に自我ヲ観ズ。天子様ノ御威光デモ是許リハドウモ出来ン。漱石ハ喧嘩ヲスル度ニ此域ニ出入ス。白楊先生は如何

[16]「竹越先生が月給でも奮発すれば直ちに大学の方を辞職して腰ぬけ共を驚かしてやる。然し月給を奮発せんとあれば腰抜共を驚かす必要はない」( 松根東洋城宛) 「百年計画」を強調し、「僕のわる口を申すものが先非を後悔する迄是非長命であればよいと思う」「はやってもっはやらなくても百年後には僕丈残るのだから安心なものだ」「千駄木辺のワイく共は何しに太陽の光線を浴びて居るのか分らない。あんな奴等に空気を吸わせるのは惜しい気がする。今に漱石先生の罸でみんな鼻がつまって口がつまって屏息して死んでしまう」

虞美人草執筆当時のノート→前回

[17]「食えなければ、いつ迄も(大学に)囓カジり付き獅噛シガみつき、死んでも離れない積もり」 「入社の辞」 ◆朝日では月給二百円、外に年二回あわせて四カ月分のボーナス◆大学が年俸八〇〇円、高等学校が七〇〇円で、明治大学の講師◆社に顔を出すのは月に二回

1906年(明治39)11月、教師をやめて専門的に作家の道を歩き始める決意が強まった時期に、十年計画で敵を倒す積もりだったが、十年計画では無理なので、百年計画に改めたという意味のことを高浜虚子に宛て書いている。当時の漱石は「百年の後を見よ」ということをしばしば手紙に書いている。
  朝日入社直後には、東京美術学校で「文芸の哲学的基礎」と題して講演し、「自己が真の意味に於て一代に伝はり、後世に伝はつて、 始めて我々が文芸に従事することの閑事業でないことを自覚するのであります。 始めて自己が一個人ではない、社会全体の精神の一部分であると云ふ事実を意識するのであります」と述べている。『こゝろ』や芥川等に宛てた手紙を見ると、漱石のこの考えは死を前にして、ますます強まっていたと思われる。

入社の辞         明治40年5月3日
新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。[中略]新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差丈けである。

 大学では四年間講義をした。[中略]年期はあけても食えなければ、いつ迄も噛り付き獅噛みつき、死んでも離れない積でもあった。所へ突然朝日新聞から入社せぬかと去う相談を受けた。担任の仕事はと聞くと只文芸に関する作物を適宣の量に適宣の時に供給すればよいとの事である。文芸上の述作を生命とする余にとって是程難有い事はない、是程心持ちのよい待遇はない、是程名誉な職業はない

 大学で講義をするときは、いつでも犬が吠えて不愉快であった。

 余の居宅の近所にも犬は大分居る、図書館員の様に騒ぐものも出て来るに相達ない。

 大学では講師として年俸八百円を頂戴していた。子供が多くて、家賃が高くて八百円では到底暮せない。仕方がないから他に二三軒の学校を馳あるいて、漸く其日を送って居た。いかな漱石もこう奔命につかれては神経衰弱になる。其上多少の述作はやらなければならない。酔興に述作をするからだと云うなら云わせて置くが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。夫丈けではない。教える為め、又は修養の為め書物も読まなければ世間へ対して面目がない。漱石は以上の事情によって神経衰弱に陥ったのである。

 学校をやめてから、京都へ遊びに行った。其地で故旧と会して、野に山に寺に社に、いずれも教場よりは愉快であった。鶯は身を逆まにして初音を張る。余は心を空にして四年来の塵を肺の奥から止き出した。是も新聞屋になった御蔭である。

 人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変り物として出来得る限りを尽すは余の嬉しき義務である。

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