啄木 1911年 二月十四日 本郷より 小田島理平洽宛
1911年 二月十四日 本郷より 小田島理平洽宛
!
i
啄木拝
この手紙はもっと早く書くはずでありましたが、入院以来何だか妙に怠け者になってしまってとうとうこんなに延びました、用向は一昨日米内山健幼君が見舞に来てくれられた時話したところが、同君から詳しく言ってやってくれるとの事でしたから、ここには簡単に書きます、雑誌「樹木と果実」発行の企ての事は、「スバル」「創作」二誌の広告でご承知下すったことと言い交すが、あれは土岐君と共に私が今後出来るだけ死身になってやろうとしてレる仕事なのであります、広告文にも多少書いておいたぱずでしたが、雑誌の目的は、単に文学雑誌たるのみでなく、保証金を納めざる雑誌としての可能の範囲において、現代の社会組織、経済組織、政治組織ないしいろいろの制度に対する根本批評を青年が進んでやるような機運を作りたいというにあります、今まで我々青年は余りにすべてのことを父兄に任せ過ぎていた、私はそう感じます、それも、任せておいて少しも差支がなければその方もいいのですが、事実において、我々青年の父兄の営業方針は今やこの日本という一つの銀行を恐るべき取付の日に導いています、ごく簡単な一例を挙げれば、彼等は今なお日本魂というものが日本の隅々にまで充満してるように言いますけれども、毎年徴兵検査を受ける壮丁の少くとも十分の九までは、皆その検査を一生の大厄と思っています、帝国軍人ということが既に名誉ではなくて苦痛であることは、君もよくご存じのはずです、いくら立派な建物を待った銀行でも、一度こういう資本欠乏の事実が暴露すれば、たちまち取付に会って破産する外ありません、そうしてこういう矛盾は今やすべての事に認められます、日本はようやくその営業方針を変えなければならなくなった、そうしてそれを変える者は我々青年の外にありません、我々はかつて我々の好きなロシヤの青年のなしたごとくに、我々の目を広く社会の上に移し、出来うべくんば、我々の手と足とをも他日その方に延ばしたいと思うのであります、我々は文学本位の文学から一足踏み出して「人民の中に行」きたいのであります、それでこの手紙の意味は、君の賛成と援助とをこの企ての上に期待する我々の心を表わすにあります、雑誌の経済は、我々の力を尽して集めうるだけを集め、その不足を函館の一女から借りることになってします、それでもしご賛成下さることが出来たならば、早速前金購読者をご勧誘して頂きたいのであります、企てに対して、私の入院は一つの打撃でありました。昨日土岐君が来て、何なら発行日を十日か半月延ばそうと言ってレました、それはまだきまりませんがしかし出すにはきっと出します、
そしてどんな苦痛があっても継続します、前金は発行所すなわち私の家へ送って
頂いても、ここへでもどこでもよろしゅうござします、それから申しかねますが、
前記の事情言不足分の借金をする耶合がありますから、出来るだけ早く……いずれ米内山君からも申上げて下さるはずです、
私の病気は
421
慢性腹膜炎とかなそうで、去る四日に入院しました、別に痛みはないのですが、腹がだんだん膨れるのです、七日に第一回の手術をやって濃黄色の水をI升五合ばかりとりましたが、手術中に貧血を起して中止しました、また二三日中に下腹に穴をあけられることと思ってます、痛くないだけに気分はほとんど変りなく、食わせられるだけのお粥では不足なほど食慾もありますが、困ったことには長くなりそうな事です、ことによると今年の花はこの病院の窓から眺めねばならぬかも知れません、
奥さんによろしく
十四日朝
孤舟兄 侍史
啄木
高野君へは小天地の時の借金をまだ払わずにあるのでお願いしにくいので
すが、兄からどうぞよろしく
| 固定リンク


最近のコメント